東京変奏曲Ⅱ









第五章
1.
今日は朝から雨だった。
銀色の冷たい雨が街を霞め、凍えた空気が白煙の如く燻る。



室井は重い溜息を零しながらケータイを切った。
どんよりとした陰りのある室内が、より鬱屈とした気分にさせてくる。
最近は降ろしっぱなしの洗いざらしの前髪を掻き上げ、ケータイをガラステーブルの上に置くと、キッチンへと向かった。


青島がこの部屋へ避難してきてから十日が過ぎていた。

その間、昼夜問わず付き添っていたが、そろそろ仕事方面で限界になっていた。
指導などの連絡系統や統計・収集の書類チェックは口頭指示で済むが、判断を委ねられる監査や具体的な企画立案に関しては、もう長々と席を外す訳にはいか ない。
週明けには一度、登庁しなければならないだろう。

つまりそれは、一時期的にでも青島を単独にさせるということだった。
別に孤立している訳ではないのだから、応援を頼むという方法もある。新城だって尽力してくれるだろう。
分かっているつもりだったが室井の気は重い。
自分の目が届かないということが、根源的に室井の不安を急き立てる。


青島の怪我の回復は順調で、バイタルも安定した日々が続いていた。
あどけない表情で室井を揄うような素振りもし、徐々に自分で出来ることも増えていた。
最近では壁を伝いながら、千鳥足で部屋を歩き回ったりもする。

それが室井にとっては関わりを持つ口実を減らされていく気もして寂しいものだったが、青島は嬉々として出来ることを室井に見せてくれた。
褒めて貰いたがる子供のようで、何も言いだせずに頷いた。
ただ柔らかい表情を返す室井に、青島は時に信愛の籠もった目で、時に酷く驚いたような顔をして、あえかな飴色の瞳に室井を映していた。



ピューというヤカンの鋭い笛音が思考を中断させる。

室井は鬼下ろしを置き、火を止めた。
ぼーっとして手を動かしていたから、まな板の上にはこんもりと大量の生姜が山になっている。
一摘みマグカップに入れ、蜂蜜を加え、熱湯を注ぐ。
マグカップを持って、襖を覗いた。

冬の雨は、骨身から凍えさせる。
こんな日は傷痕が疼くらしく、青島はしんどそうに朝からベッドに伏せっていた。


「調子、どうだ」
「・・へーき・・・」


いつもの同じ答えを返す青島に、眉間を顰める。
言葉ではなく、そのトーンで大体の感情を察せられるようになった。
今日は大分、辛そうだ。

カマクラのように盛り上がった布団の中から、青島がまあるい胡桃色の目をくるっとさせて室井を見る。
布団の上にそっと手を翳し、あやすようにぽんぽんと叩いた。


「はちみつ生姜湯を作ってきた。身体が温まると思う」
「ありがと・・・・ございます」

傷痕が疼くのだろう、顔を顰めながらベッドに慎重に起き上がってくる。

何かあった時の防御も、彼はまだ出来ない。彼を独りにさせるのはとてつもない綱渡りのような気がした。
病院での狙撃以来、襲撃犯の消息はぱったりと途絶えていた。
このまま諦めてくれれば良いのにと、都合の良いことばかり天に祈る。
だが、そんな楽観が通らないことは、短くない刑事人生の性が不気味に警笛していた。


「そのまま壁に背中を預けろ・・・ゆっくり座れ」
「よ・・・っと」


青島の柔らかい匂いを持つ髪が室井の鼻先を擽る。

監禁されていた時の悪夢が油断した夢魔に表れるのか、青島は夜中、時々魘されることもあり、それも不安材料の一つであった。
苦しそうに眉を潜め、何かから逃れるように胸を掻き毟る姿は、もどかしさだけを与え、室井の胸をも苦しめる。
どうすることもしれやれず、ただ、その腕を、身体を、体温を、触れて祈るだけだった。
幾ら日中、陽気にしていても、過去が消える訳ではないことを、室井は目の当たりにさせられる。

過去が消える訳ではないのなら、室井と青島の間に横たわる深い慟哭もまた、消せない爪痕なのだろう。

大丈夫かと聞くのが口癖になったが、平気だと応えるだけの彼に、気を使わせたくなくて室井も言葉を呑み込む。
室井が何か言えば、青島に気を使わせるだけだった。
上手く気持ちが噛み合わない。感覚的なことはこれ以上ないほど精通してしまう二人の、こんなにも憐憫の伝授は困難だった。
深入りしようと先走る程に、青島の心は指先から零れる水のように、仄かな笑みを残して閉ざされる。


「ん・・・、大丈夫。もう一人で座れます・・・」
「どこが一番痛む」
「ん~・・・足も肩も・・・。でもへーきですよ」


意識の危うい時なら出れた強引な手段も、今の青島には明確な拒絶をさせるのも辛く、お互いが遠慮し合った。
こんなにも近くにいるからこそ、二人の距離が何も灯そうとはしていないことは明確で
愛しいと思う心が、無慈悲な惧れを室井に付き纏わせた。



起き上がる彼を支えながら毛布も引き上げ、マグカップを添える。
冷えないように肩や足先に掛けてやり、その上からゆっくりと手で擦った。

「あちッ」
「熱湯だ」
「ひでぇ」

言って下さいよぅなんて文句を言いつつ、怒っている訳ではないことは明白で、夢中で息を吹きかけているのが、何だか可笑しい。
癖の残ったままの前髪が思うより長い睫毛にかかり、ドキリとする。


あまりに儚く頼りない存在だった。
目を離したら、その隙に消えてしまうような淡泊さがあって、出来ることなら24時間離れたくは無いとさえ思った。
割と単独行動を好むことが多い室井にとっては、そう思うこと自体、珍しい。
触れ合う内に、彼の内面を知り、その想いに触れ、その瞳に映り、徐々に強く囚われていく。
彼を、手放せるか、もう自信がない。
だが、いつかは手放す時が来る。


「雨止みませんねぇ」
「冬の長雨だな」


巣立つ子供を見送る親の気持ちはこんななのかと、ふと胸の襞を思考が暴き、その危険なまでの爛れた傾倒に自分で嘲笑った。
空恐ろしくなって室井は竦ませた身体を悟られぬよう、視線を反らした。


理想を共鳴させた時の身震とは違う。
あの頃は、近くも無く遠くも無い一定の距離感が室井の中に熱を生んだ。
だが、いつしかその理想はこんなにも歪んで、喪失の予感も怯えも内包した雄の欲望を潜ませた飢えたものに変わっている。

全てを手に入れてしまいたい想いは、昔からあった。
重箱の隅を突く出世レースはこの先も続くし、その度に彼と衝突していくのだろうと思う。
その関わりの中で、まだ若い青島の刑事キャリアが齎す熱は良くも悪くも未成熟で、だが一方で人を導く種を惜しげなく蒔いて見せるその鮮やかさは
一瞬にして室井を解放に導いた。
あの時の法悦は未だに忘れられない。
それと同じくらいの衝撃で、擦り抜けそうになった青島の幻影が、触れ合ってしまったことでより確かな輪郭を取りたがり、曖昧な記憶だった存在が不完全な欠 片を探しあぐねている。


「生姜が下に沈んでいるだろ。掻き回して飲め」
「んー」


人知れない彼の本質に潜る脆さを知るに連れ、それでも光を失わない美しさに惹かれ
離れていた時期の反動に、室井自身、歯止めが効かなくなっていた。
今感じている野生的な情動は、もう根本が違うのだ。
息をするより先に彼に囚われ、狂おしく咲き乱れるその情動に、心の深い部分が震えた日に、室井は観念をした。

だが、震える室井の心とは裏腹に、青島はそこで儚く微笑むだけだった。
あの熱を出した日に溺れるように室井に縋ってきたことも、嘘のように凪いだ瞳色を乗せ、日常に押し流される。
自由で爛漫な彼を引き止める術など持たないことを悟った。


理由も分からず、酷く動揺している自分を自覚し、室井は振り切るように青島に触れた。
触れている時だけは、安心できた。
彼はまだ、ここに居る。
得体のしれない煩慮ばかりが渦巻いた。


「ふわぁ~・・・・、喉も舌もあっちぃ~」
「生姜は血行促進作用、殺菌作用、発汗作用だ」
「・・・う・・うん?」
「免疫力を高める作用も高いから、今の君みたいな状態には万能薬だ。沢山摂れ」
「・・・・」

こくんと冷め始めた生姜湯を口に運びながら、上目遣いで青島が室井をじぃっと見る。

「紀元前から使われていた薬味だぞ。ショウガオール、ジンゲロールだ」
「しょーがおーる・・・ちんげろーる・・?」
「猥談にするな」
「えっちぃ話かと」


窓を雨が打ち付けているのが聞こえた。

日中はひと気があることを外から悟らせないため、極力電気は点けないでいるから
こういう日は本当に、まだ午前中にも関わらず、部屋全体がネイビーブルーに染まる。
テレビを点けることもしない室井の部屋は、ただ哀しくなるほど静かで、深閑に包まれていて
まるで束の間のこの時間が永遠ではないと残酷にも告げているようだった。


自分がどうしたいのか、分からない。どうすればよいのかも、分からなくなってくる。
こんなことは、初めてだった。
いつだって目の前の課題に逃げずに取り組んできた筈だ。
だが答えが導けないことは経験がなかった。どうすればこの胸に重く圧し掛かる何かを取り除くことが出来るのか。
そもそも、自分を追い詰めている根因も靄が掛かり突き詰められない。

噛み合わない日常のほんの些細な衝動が、より、室井に焦燥を灼きつけていた。
獣染みた飢えに奥の奥まで奪われ犯された思考は、最早正常ではないことだけを理解する。


藍紺に沈むシーツの上で、青島が生姜湯の入ったカップを両手で掴み、こくんと飲み干すたび、重たい溜息を一つ落とす。

窓の向こう、冬の空はカーテンに隠される。
しとしとと降る雨は世界を灰色に覆い、何だか気持ちまで遣る瀬無くさせた。
先行きの不透明な二人に、寄り添う時間が等しく流れている。
目を瞑り、今はそれだけを、感じ取った。


「なぁ・・・・風呂、入ってみないか」
「ふぁい?」
「風呂。・・・・いい加減洗いたいだろう?」
「・・・・・・・・いいの?」
「医者の許可は取った。傷口の消毒テープは防水だし、長湯さえしなければ入っても良いとのことだ。あとは体調と相談しながらだが・・・」
「マジで?」


声が数段高く響く。
本気で嬉しいと発する感情が室井にも分かる。
その声のトーンに、室井の心も共振する。


「毎晩足湯だけでは身体も温まりきらないだろう。傷にも良くない」
「うん・・・入りたい、です」
「よし。――じゃあ、沸かしてくるから。湯ざめしないよう昼間の内に入ってしまおう」
「はいっ、・・・っしゃぁ!」











2.
「・・・・・って、だからどうして、こーなんのっっ?」


青島が半眼で室井を邪険にする。
が、室井だって引く気は無い。

「何の問題がある」
「モンダイなんか一杯ありすぎてもうどこから突っ込んだら良いのか分かりません」
「なら全部捨てちまえ」
「何そのルール!」
「いいからほら、もう早くしろって」


室井が、青島の渋ってなかなか脱がないトランクスに手を掛けた。
恥ずかしげに腰を捻って隠そうとする。
今更何を恥ずかしがっているのか。

びよーんとトランクスのゴムが伸びる。


「や・・っ、・・ゃ、めろって、も・・ッ」
「何だ一体」
「何って・・!」


何で分からないんだと言わんばかりに、青島が口を開けて絶句した。
室井はそれを飄々と見返してやる。


風呂の準備が出来、いざ入ろうと風呂場まで連れてきて、服を脱がしていく所までは大人しくしていたが
隣でチノパンの裾を捲り上げた室井に、青島が待ったをかけた。
流石に時期的に二人同時に真裸になってしまえば、独身寮でもある官舎の湯船は狭く、風邪をひいてしまうので
だから室井は服を着たまま入るつもりなのだが、それが、気に食わないらしい。


「君一人で風呂なんて、危なっかしくて入れられるか」
「だからってイイ大人が一緒に入るとは思わないでしょ!」
「一人で洗えないだろう?」
「ああああ洗う気かよ!そんくらい出来ますって」

青島が額を押さえて天上を向く。

「急激な体温上昇は脳貧血を起こし易い。君は十日以上伏せっている身だぞ」
「俺をジジイ扱いしないでくださいよっ」
「・・・似たようなもんだ」


ぷくっとむくれて、室井を扉から追い出そうとする。
渋面で見返しても、怯まない。
脱衣所は狭く、足が縺れ合った。


「何かあったら呼びますから」
「何かあってからじゃ遅いんだ」
「いまどきの風呂で何が起きるっていうんだ」
「・・・もうごちゃごちゃ煩い」
「ぅわぁ・・っ」


埒が開かないことに業を煮やし、室井が強硬手段に出る。
生産性の無い口述は興味がなかった。
有無を言わさず腕を引き寄せ、トランクスに手を掛ける。
一気にを引き下ろせば、丸い桃尻がぷりんと出てきた。
そのままグイッと引き降ろし、後は足先で器用に・・・行儀悪く脱がせてしまえば、涼しい顔で洗濯籠に放り投げる。


「ほら、入るぞ」
「~~っっ」

真っ赤な顔をして青島が口をぱくぱくしている。
良く分からないが言葉もでないようだ。


「・・・もっ、あんたには付き合ってらんないですよ・・っ」
「そうか」
「そうかって・・・!他に何か言うことあんでしょーッ」
「タイルで滑らないよう、足元に気を付けろ」
「そこじゃない・・・っ」

手拭いを渡し、バスルームを大きく開いた。
湯気の香りがする。

「まさか一緒に入るなんて思ってないっつーの」
「だからまだ一人では危険だと言っている。倒れたらどうする」
「だからってね、」
「悔しかった早く治せ」
「ぅわ・・・っ、ちょ、待っ」


ひょいと青島の腰を両手で抱え、抱きあげ、バスルームの扉を足で閉めた。
脇に立たせ、シャワーコックを捻る。
水が温まる間に湯船の縁に座らせると、もう頭の上からぶっかけてやった。


「ふわぁ・・・っ」
「気持ち良いだろ?」
「ん・・っ、ふ・・・っ、けど・・・っ」


ずぶ濡れの子犬みたいになって、青島がわしゃわしゃと顔を振る。
それが妙に子供みたいで、室井は苦笑を噛み殺した。

どうも青島は仕草や行動が一々子供っぽいところが残っている。
男として熟成する過程の一部で、神様が何かを付け忘れてしまったようだ。
尤も、その擦れていない目線や発想が、柔軟性を残す機転を可能にしているのだろう。


身近にいたつもりになっていた青島について、こうして日中をべったり共に過ごしている内に、彼の素顔の更に奥が時折気まぐれのように垣間見えた。
青島の小さな感情の粒を一つずつ知ることは、思いの外、室井を悦ばせた。
人に対して深入りしたいと思ったのも、そういえば久しぶりだったということに思い至る。


「傷・・・沁みないか」
「・・・へーき・・・」

湯船から手を取って立たせると、不承不承、青島が室井の腕に治まりながら恨めしげな視線を投げてくる。

「なら、そのまま湯に浸かれ。洗うのは後だ」
「・・・いいの?」
「寒いだろ。まず温まれ」

湯船へと誘導してやる。

「室井さん、濡れちゃいますよ」
「あとで着替えればいいだけだ」


股間を恥ずかしそうに手拭いで隠している様子が、照れていることを窺わせた。
溜息を吐き、室井は背中に回って、湯船に入る身体を補助してやる。
そのままざぶんと肩まで沈めてやった。


「あっちぃ・・!」
「そのまま100数えろ」
「っぷ、・・ガキの頃それ、俺もやらされたな」


青島が苦笑気味に肩を竦ませる。
恐る恐る手足を伸ばし、ポジションを整えるのを見ていた。

青島がぱちゃぱちゃと湯を叩く。
まるで、水に初めて触れる赤子のように。
室井を探る様に振り返る。
濡れて栗色になった前髪が額に張り付き、幾筋もの雫を垂らしていく。
それを掻き上げてやりながら、室井も縁に座り込んだ。


「湯加減、どうだ?」
「さいこー。・・・です」
「そりゃ良かった」
「指先がじんじんしてる・・・」
「そっか。冷えてたんだな・・・」
「あぁぁぁ~・・・・・、ひっっさびさ~~。き~も~ちぃぃぃ」


湯に浸かる感覚も久しぶりの筈だ。
徐々に青島が清涼感に浸り始めていく。
身体も解れるだろうから、リラックスできるだろう。

曇りガラスの向こうから湯に光が射し、水面をキラキラと波立たせていた。


「俺ねぇ、昔からカラスの行水なんですよ」
「そんな感じだな」
「えぇえ?分かっちゃいます?」
「面倒くさいんだろ、色々」
「そ。・・・だけど、こんなに風呂が恋しくなったの人生初めて」
「だったらもっと早く言えば良かっただろう」

ぶくぶくぶく・・・。

「言えませんよ、んなの・・・。ドクターストップかかってんのも知ってたし」
「もっと広い湯船で手足を伸ばさせてやりたいな」
「んん、じゅーぶんっ」


へへっと笑って青島が室井を振り仰ぐ。

機嫌もすっかり治ったようだ。
こんなに抑圧の感じない青島の顔は、室井も久々に見た気がした。
元々の、室井も良く知る陽気な彼の気質が顔を見せる。
さっきまでの鬱屈した室井の気分も、晴れていく。

風呂を用意して良かったと思った。




五分後。




「だぁか~らぁ、一人で出来ますって」
「その手では無理だ」
「手はそんなに怪我してません」

またしても不毛な押し問答に突入していた。

「まだ完治してない身体で無理はするなと言っている」
「それが余計なお世話だって言ってんの」
「大人しくしてろと何度言えば分かる」
「風呂のどこが無理なんだと何度言えばいいんですか」


身体や髪を洗う段階となって、室井が手を出そうとしたことを、また青島が嫌がった。
嫌がったというよりももう、照れてしまっているのだろう。
それが顔色から読み取れてしまうから、室井も後には引かない。


「足場だって危険だ。風呂場での致死率は意外に高いことを知っているだろう」
「高血圧老人と一緒にしないでください。足は座れば済むことです」
「意外に理屈っぽいんだな」
「意外に強引なんですね」

むっとして、手に持っていたシャンプーをピュッと掛けてしまう。

「うわ・・っ」
「おりゃ」
「おりゃじゃないよっっ」

問答無用で手を伸ばし、髪を泡立て始めると、流石に抵抗は止んた。


「・・・ったく、ほんとゴーイン」
「君が素直じゃないからだ」
「へーへー、全部俺のせいですね」


頬を膨らませてそっぽを向いてしまった青島の腕を取り、床に座らせた。
その背後に膝立ちになり、青島の髪を丁寧に洗っていく。
何日かぶりかが記憶から消えるほど期間が空いているため、泡立ちが弱い。


「一旦流すぞ。それからもう一回だ」
「えぇえぇぇー、ぅぷっ」


言い分も聞かず、シャワーをぶっかける。
声が反響して、しゃぼんも舞う。
適当に流してから、またシャンプーを手に取った。
今度はこめかみから襟足までを、丁寧に洗っていく。

青島はぺたんと座ったまま、室井に大人しく背中を向けていた。
その姿が本当に子供のようだ。
綺麗なボディラインは優美な曲線を描き、臀部へと向かっているのを、室井の目に惜し気もなく晒す。
雫が伝う度、それを室井の目線が追う。
湯に浸かりほんのりと朱に染まった肌は光粒を弾いて、その張りの瑞々しさを室井に伝えてくる。

両手を股の間に治め、狭いバスルームに長い両足を投げ出している、すっかり身を委ねている様子が、微笑ましい。
室井の心までほんわかと熱を抱いた。


わしわしわし。

「ん~」

わしわしわし。

五指の腹を使って地肌をマッサージをするように髪を洗っていく。

室井の髪質は黒々としていて堅くこしが強い。
それに比べ、青島の髪は細く、ふわふわとして柔らかかった。
女性と付き合っていた時でさえ相手の髪を洗うなんてことは経験がないから、何とも新鮮で不思議な手触りに、室井は夢中になる。
少し長めの毛足も、人生の間中、短髪の室井にはないもので、妙に新鮮だ。

あまりに室井がしつこく隅々まで完璧に洗うので、泡の向こうから青島が切なそうな目を向けてきた。
それらもまるっと無視をする。


「気持ち良いだろ?」
「・・・・ん」

先手を打てば、コクリと頷く。
また、大人しく向こう側を向いた。
鏡越しに視線が合う。

今度はニヤッと笑って、青島が自分の前髪を逆立てた。


「こーして、うるとらま~んとか、やりませんでした?」
「・・・・いつの話だ」
「え、割と最近・・・・」


青島の細髪が滑らかに泡を纏い、ベルベットのようにつるつると滑る。
手触りの良さに、室井は興味津々に指を通して愉しんだ。
何度も指の間を擦り抜けていく感触が、後を引く。
少し毛先が絡まる。
丁寧に解していく手順も、面白い。


「室井さん・・・・なんか遊んでません?」
「・・・痒い所は?」
「なんか美容師さんみたい」


もこもこの泡で頭を膨らませ、青島が振り返って笑う。
少しだけ室井も肩を竦めて見せた。


「いっつもこんな丁寧に洗ってんすか?」
「今日は特別だ。自分のはもっと短いから楽だ」
「昔っからそんなアタマ?」
「高校・大学と柔道をやったからな。丸刈りに近い」
「うへー見たい。」

シャワーを捻る。温かい湯が出るまで、自分の手などに付いた泡を流す。

「流すぞ」
「はぁい」
「じっとしてろ」


シャワーを上から掛けると、ギュッと目を瞑った青島が、自分で流そうとする。
その手を退けて、耳朶や耳の後ろまで丁寧に流していく。
・・・・面白い。
なんか新鮮だ。人間を洗うという行為は、早々経験出来るものじゃない。
親になれば子を洗うだろうが、それは小さな肉体だ。成人の大人を洗うとなれば、介護か死体か。
何処か倒錯的な気分にさせる。


「ぷはぁっ」
「こら、じっとしろって」
「もぉ、いいよぅ・・・」
「駄目だ、泡が残ってる」
「うぅぅん・・・・」


顔の正面から掛けて、生え際も丁寧に流していく。
濡れて黒々と艶を出す髪は、本当に綺麗だ。

「・・・・」

シャワーの湯気の中で青島がふるふると顔を振るのが壊れたおもちゃのような仕草に見え、悪戯心が湧いた。
真上からじゃばじゃばと掛けてみる。
更に両手で嫌がるようにぷはぁ、と声を上げるから、より可笑しくなった。

あの青島と、一緒に風呂に入っているのだ。
目の前で子供のように戯れているのは、あの青島であり、こんな青島を引き出したのが、室井なのだ。

醜い利己も支配欲も敬虔な信教のように満ち、手元に置かせてこの手で愛撫する日常が、永遠であればと願ってしまう。


「んんんーっ、・・・って、もぉっ!俺で遊ぶなよ・・・っっ」
「ばれたか」
「マジか・・・。室井さんがこんな男だったなんて・・・」
「こんなってどんなだ」


言いながらシャワーを捻ると、手際良くフェイシャルフォームを手を出した。

「何それ」
「顔を洗う」
「そんなのボディソープで充分ですよ」
「もう出してしまった」
「なんか室井さんて・・・・ぅぷっ」

手の平で充分泡立てると、何か言い掛けた顔を包む。

「目くらい閉じてろ」
「そのくらい、自分で・・・、ぅぷっ、んんっ」


煩い口を塞ぐため、口唇を覆うように泡で洗う。
青島の想像以上に甘い声がバスルームに反響した。
そのせいだろうか、肉厚の口唇が手の平に触れ、何だか妙に柔らかい弾力に、条件反射的に手を引いた。
触ってはいけないものを触ってしまった感覚に、室井の方が動揺する。


・・・・この口唇で、誰かの口唇に触れてきたんだろうか。
当然だろう。普通の成人男性だ。室井だって誰かの裸を触ったし、他人の口唇に触れ合わせてきた。
だが、光を纏って丸いラインを描くフェイスラインが、思わす触りたくなるような丸みと張りを見せていた。
その中央で、泡の中から浮かぶ紅く濡れた膨らみ。
青島に選ばれた人間ならば、この膨らみの弾力を、身を持って確かめることが出来るのだ。
むしろ、青島の方からその熱も厚みも、教えてくれるのだ。

ふと、これまで思いもしなかったことが脳裏を過ぎり、廃れた思考が熟れた。
少しだけ、青島を射止める見知らぬ女を、妬ましいと思った。


混乱した思考を隠すように、顔を撫でることに集中する。
風呂に入る前に髭も剃ってきたから、青島の肌はつるつるだった。
そうでなくとも、若く瑞々しい肌は押し返す張りがあって、ふっくらと丸みを帯びた頬のラインまで手触りが心地良い。
どこまでも撫で廻したくなる。

滑る様に瞼から鼻筋、小鼻の周りや生え際まで丁寧に指の腹で洗い、今度は許可なくシャワーを充てる。


「んンん、・・・ぷはぁ・・・っ」

ボディソープに手を伸ばす。

「まさかそれもやるとか言います?」
「言う」
「はあぁぁ~・・・・・」


項垂れている青島を横目に、ボディタオルにソープをワンプッシュする。
わしゃわしゃと充分に泡立てる。
もうすっかり萎えて諦めたように、青島もそれを眺めている。


「ほら、向こう向け」

片手で顎を押さえ、背後から羽交い絞めのようにして、首筋からゆっくりと洗っていく。
耳の後ろ・・・うなじ・・・肩甲骨。
羞恥からか、真上から覗くと、青島はギュッと目を閉じていた。

・・・・・大型の動物や車を買ったら、こんな気分になるのだろうか。

隅々まで丁寧に世話をしていると、まるで自分の所有物のような貴重さが室井の胸中に芽生え、不思議な気持ちになった。
どこまでも際限なく愛でてみたくなる。
肉体的に鍛えられた輪郭ではないが、均整が取れ、スラリとした見映えの良い造形の、ボディラインを泡が辿る。
そのクオリティをこの手技で維持し、見せびらかしたい。
自分のものだと・・・――。


「もう少し強く擦った方がいいか?」
「~~っっ、・・・・んなこと聞かないでくださいよ・・っ」
「何故だ。気持ち良い方がいいだろう」
「あぁあぁぁ・・・もぉ!だいじょーぶ!ですからっ、とても素質あると思いますっっ」
「なんだ素質って・・・」


思わずの微苦笑が室井の口から漏れた。
それを鏡越しに青島が上目遣いに見つける。
少しだけその目が見開かれて、長い睫毛が黒く濡れた。
ほんのりと肌を桃色に染めたその顔に、室井の方が居たたまれなくなって視線を外した。


青島の背中は齢を重ねた男にしてはニキビなどもなく、綺麗な筋肉の造形が象られ、滑らかで綺麗だった。肌理も細かく水を玉のように弾いていく。
桃色に染まった肌に水滴が転がるその美しさに目を見張りながら、傷口を避け、丁寧に洗い降りていく。
銃創を覆っているテープ痕が痛々しく柔肌を何カ所も覆っている。
そして赤黒く腫れ上がる両手首。

腰に、古い傷があった。


「・・・・」

こうしてまじまじと見たのは初めてだった。
数年前、青島が室井を信じてくれた象徴の代償。

高揚感が、ぞくりと室井の背中を駆け上る。
――この傷跡がある限り、青島は俺を忘れられない――

ふと、その事実が改めて去来し、室井は手を止めた。


青島は、必ず思い出すだろう。
あの日の眩しい陽射しと共に。
決して、過去にはされないのだ。青島の中で。
傷痕は勲章だと青島は言った。
胸の奥を抉る哀惜の記憶は、今回の事件を越えて、室井にとっても何にも代えがたい誇りに変わる。
青島から奪った変え難い記憶が、廃れた悦びを抱かせる。


「・・・・気にしてる?」
「・・・・」


青島が不安げな声で問い掛けてきた。

しまった、と思うと同時に、どうして、とも思う。
小さく舌打ちをし、視線を反らす。


室井の不安も躊躇いも、聡い青島は何でも掬い取ってしまう。
そういう意味では、嫌になるほど自分たちには垣根がなく、心の底の底まで通じ合ってしまうから
今も恐らく、室井の僅かな心の抑圧と脆弱、その動揺を、青島は嗅ぎ取ってしまったのだろう。
それは恨み事のように、崩落の匂いを纏って室井を雁字搦めにする。

肝心なことは何一つ伝わらないのに、こんなにも透けてしまう。

知らずに抱え込んできた閉塞感や絶望から室井を解き放ち、凝り固まった憤りを再燃させた眩しい魂は
室井の心が息吹を取り戻し、忘れていた熱を抱かせ、とにかく、どうしようもなく焦がれたのだ。
自分を確かに熱くしたあの秋の日。


音無き心の共振が、水面に震動する。
ふと、先程までの始末の負えない思考も再び去来し、室井は眉間を深めた。


「この傷も・・・・・君には勲章か?」
「え?・・・ああ、勿論。しかも特別プレミアム」
「・・・?」
「だって・・・・あんたとの約束の証じゃん」


口唇を尖らせて、不安げに室井を覗き込む。
その瞳は驚くほど、無垢だ。


「あんたにとっては違うかもしれないけど」

室井が返答しないことを勘違いしたらしい青島が小声で弁明する。
付け足した言葉があまりにも頼りなく響き、思わず室井の口からも本音が零れた。


「――、そんなことはない。ただ・・・私にとっては・・・その、・・・君を失う象徴でもある」
「・・・・・」
「私達の迷いや一瞬のミスは現場である君に跳ね返るんだ。それを目指す具現化と言ってしまうには、あまりに代償が大きい・・・」
「じゃあ・・・・・室井さんにとっても、大事?」
「――ああ」
「なら、一緒ですね」

あっけらかんと告げる声の柔らかさに、胸が詰まって言葉を失った。


・・・・まだ、あれから、彼に何も告げていない。

失うと本気で嘆いた今回の事件で、彼を抱き留めたあの夜、正直に気持ちだけは知っていて欲しいと心の底から切望した。
どんなに大切で、どんなに頼りにし、どんなに支えとしてここまで生きてきたか。
青島にとって、重大な人物でなくていい。
ただ、自分にとっては大切で掛け替えの無い、人生の一欠片なのだと、彼に知っていて欲しいと痛切に欲した。
あの時あれ程、突如巻き上がる旋風のように生じたあの胸の内は、確かに本物だったのに。

ごめんと、ただその一言だけでも。


だが、落ち着いてきて、こんなに傍にいるようになったら、また何も言えなくなってしまった。
自分の勇気の無さが情けなく、歯痒い。

密接な空間が日常と言うヴェールを纏ったことで、より室井の中で二人の異常性を浮き上がらせた。
何の違和感もない違和感が、心の深部に潜む何かを巧妙に霞ませ、意味を持たないものに変える。
毒のような熱を孕む恐怖の幻影は、気の合う仲間という都合の良い輪郭にすり替わる。

何もかも曖昧で薄闇に沈む真理は、果たして素性を晒し共有することを由とするだろうか。
仲間であり同僚であるならば告げる必要のない本音は、感情を揺さぶるほどの渦を持ちながら、全てを喪失の予感に揺れる白煙の向こうに押しやった。


不意に嵐のように湧き上がった情動に、室井は息苦しくなり、持っていたボディタイルを握り締めた。
ぽたぽたと、泡がタイルに零れ落ちる。


彼を手放した先のキャリア人生で、自分が勝ちぬく術はないような気さえした。
あの、物事の真理を聡く汲み取るその稀有な青島の資質も能力を、自分だけに向け、誰かに譲りたくはない。
言葉が喉に突っかえる。

・・・まだ、何も告げられずにいる。


「青島・・・・」
「はい?」
「――。ほら、次は腕」
「ん」


告げずにいることは、臆病なのだろうか。
これでまた、自分たちは何か大事なものを、失っているのだろうか。
それとも告げることで失うものを恐れているのだろうか。

一体、今の曖昧な関係は、何なのだろう。

全ては室井の中で完結していて、青島は室井の傍にいて、深く濃く、同じ時を刻む時間を許している。
それが答えと捕えるのが廉直であるような甘さは、室井の口を閉ざさせ、胸をただ痛く締めつけた。
このままでも充分幸せで、伝わるものは言葉じゃないと思ったら、敢えて波風立てるようなことをしなくても良いような気がして、色んな事情が室井を躊躇わさ せた。



伸ばした腕を傷痕に注意しながら洗っていく。
肩の傷口は特に酷く、テープでも銃創が隠し切れていなかった。
目を背けてしまいたくなる悪夢が、彼にとっての現実だ。


「くすぐったいですよ・・・」
「痒い所は?」
「へーき」
「傷痕は沁みたり・・・痛まないか?」
「へーき」
「そればっかだな」


足を前に投げ出させ、今度は太股から下を洗っていく。

太股を掠めた銃弾は、その裂傷を玉肌に刻印していた。
新しい傷痕と過去の傷。陽気な青島の笑顔と熱を宿すあの視線。室井に見せた、頼りなく煌めく瞳。
現実と、夢幻の狭間で、真実が惑わされていく。


「室井さん・・・、いいパパになれそうですねぇ」
「何を突然」
「だって、コワイ顔して面倒見良いし」
「パパになるには相手が必要だが」
「そりゃそーですけど」
「君だって、もう結婚しててもおかしくない年齢だ」
「ん~、結婚にも相手が必要ですが?」

チロリと視線を上げると、青島の悪戯っぽい瞳が悪戯っぽく煌めく。

「・・・いないのか」
「あんたもね?」


わざと大きく溜息を吐いてみせ、戯言に付き合う。
こんな時間が、ただ、無性に幸せだった。


「モテそうなのになぁ」
「お?室井さん、見る目あるじゃない」
「・・・・、そういうところで逃げられるんじゃないか?」
「逃げられてませんっ」


足の指の間を洗いながら、室井は下を向いて笑みを零す。
ムキになるところも愛らしく、弟のような愛おしさが湧く。

足の裏をごしごしすると、青島がけらけら笑った。
楽しそうで、何よりだ。


「股間は」
「・・・・それ、ダイレクトに言うの、心臓に悪い・・・」
「洗ってやろうか?」
「いいいいいですよっ、自分でやるっ」

室井からボディタオルを奪い取ると、青島は内股から洗い始めた。


「あ・・・あの、あんま見ないでくださいね?」
「もう充分見たが」
「洗っているとこ、見ないでって言ってんすよっっ」
「そうか」
「ああぁぁ~もぉぉぉ、室井さん、だから女に逃げられるんですよっ」
「・・・・逃げられてない」
「・・・・・」
「・・・・・」


青島が陰部を洗っている間に、シャワーのコックを捻り、湯を温める。


言えるわけがない。
自由に舞い、過去に囚われない彼が眩しいのに、今更自分が引き留めて何になるのか。
彼はいずれ、ここから消えていく人間なのだ。
今更改めて伝える必要のあることではなかった。
また、遠慮がちに室井を見上げる透明な視線が心細そうで、そこに生じる室井への遠慮が、彼の作る壁に見えた。
だから自分だけが利己的な欲望を押し付けるだけの真似が、出来なくなった。

多くを望むことは、赦されない。
多くを望むことを、赦されていない。
きっと、これは、告げてはならぬ罪の呪縛なのだ。


「室井さん・・・女とこういうこと、したことあんの?」
「・・・・何故そんなことを聞く」
「・・・手慣れてるかんじ」


ボディタオルを差し出しながら、室井の鼻先に人差し指を突き付け、濡れた前髪の奥から青島が室井を見上げる。
それには答えず、シャワーを向ける。

「流すぞ」
「んー」

耳朶の縁まで指で丁寧に流していくと、青島はまたけらけら笑って擽ったいと言った。
風呂場に反響する声が、重たい空気をパステルに変える。
しゃぼんが舞って、湯気の中に朱に染まる青島の肌が霞む。


青島といると、自分の心が青島と共振しているのが分かった。
それが酷く心地良いことも。
こういう部分では、こんなにも簡単に、こんなにも残酷に、自分たちは通じ合えるのに。
こんな感覚味わったことがない。ずっと、こうして傍にいたい。
一緒に、何でもないことで毎日を笑って、明日を迎えて――


胸が痛い程に軋む。
埒の明かないことを本気で考えている自分に嫌気が指す。
つまりは飢えるほどに、そんな夢物語の未来を自分が彼に本気で欲しているのだ。
キャリア刑事として邁進してきた人生には、捨ててきたものだって多分に含まれていた筈だ。惜しむことで崩落する危険性を熟知していた筈だ。
キャリアは一瞬の判断ミスが命取りになる。
馬鹿げた妄想が広がるのも、青島の魔法なんだろうか。


「よし、こんなもんか?」
「んー、ありがとございまぁす」


充分にシャワーを宛て、肌のつるつるした感触を堪能してから、コックを捻る。
音が途切れると、シンとした空気に包まれた。
シャワーヘッドを元に戻す。


「ん。・・・あ、泡飛んじゃった」

室井の頬に飛んだ泡に、青島が目敏く見つけて首を傾けた。
雫を光らせながら青島が手を伸ばす。
そっと指先が触れてくる。
丸っこく温かい指先に頬を触れられ、室井の身体が想像以上に強張った。


「・・・・」
「・・・・」


ピリッと電気が走ったような感覚に、頬から痺れる。
条件反射でその手を掴んでしまったことで、何となく驚いた青島と視線を合わせあった。

会話が途切れ、不自然な沈黙が流れる。


思えば、室井から触れてばかりで、青島から触れてくることは少ない。
朱を差した肌と、室井が手首を掴んだことで少しだけ驚いたような透明な瞳に吸い込まれる。

紅く濡れた青島の口唇が、半開きのまま何かを言い掛けて止まった。

汗だか水滴だか分からない雫が、青島の細目の首筋からブロンズの胸元へ、幾筋も伝う。
視線が逸らせない。
青島の濡れた髪が栗色に艶めき、風呂場の電灯と窓からの陽光を反射して、雫が幾つもランダムに光る。
筋肉の薄い胸元が、息吹を上げ、一糸纏わぬ青島の裸体が室井の視界を釘付けた。

思わず掴んでいる室井の手に力が籠もる。
青島が何かを察して室井の漆黒の闇を瞬きをして見つめ返す。
何故だか手も離せなくなり、室井の細長い指先が青島の丸っこい指に握るように絡まった。

室井がじっと見つめる先に、無垢に光る飴色の濡れる瞳が一度瞬きをして、あえかな色を乗せた。
至近距離の青島の顔に室井の影が掛かる。


「・・・?」
「・・・・」


胸の奥が痺れ、手を振り解けない理由も分からなかった。
ただ見つめ返し、心の赴くままにそのあえかな飴色の瞳を見つめた。



-ピチャン-

水滴が天上が湯船に落ちて、水面に広がる波紋に合わせ、ようやく二人の間の何かの結界が解ける。


室井は指先の力を緩め、気付かれないよう鼻から大きく息を吐き、一度瞼を伏せて視界を閉ざした。
もう一度開き、黙ったまま手を引いて、ゆっくりと青島を立ちあがらせる。
腰を上げる青島を支え、再び湯船に戻す。


「ゆっくり温まれ」
「・・・・室井さんは?」
「どうせ夜に入る」
「・・・・・ふーん・・・」


心なしか声のトーンに怯えを滲ませ、青島が前髪を掻き上げる。
パチャリと水を打って、その仕草が妙に婀娜っぽく見えた。

鼓動を撃つ自分を誤魔化すように、事務的に用を告げる。
何故こんなにも脈拍が上がっているのか。今は動揺を暴かれたくなかった。
肝心なことは何も伝わらなくていい。
全部を共有することはしなくていい。


「着替えを準備してくる。・・・溺れるなよ」
「誰がっ」

ちょん、と前髪を引っ張った。
愛しさが溢れ、ただ傍にいることの幸せが、満ちていく。
紅潮した頬で申し訳なさそうな顔をしたまま俯く青島を見ていた。


傍にあることの幸せが、切ないほど胸を締めつけた。









3.
風呂から出し、青島が身体を自分で拭う間に、今度は髪をタオルで拭いていく。
わしゃわしゃと掻き回す室井に、青島がバスタオルの下でくすくすと笑った。
傷口の消毒を済ませてから、シャツを手に取る。
今日は赤いチェック柄にした。


「ほら、袖に手を通せ」
「そこまでやるか」
「毒食らわばという言葉があるだろう」
「俺何様?」


大きく呆れながらも、室井の持ったシャツに腕を通してきた。
肩にぱふんと掛けてやると、今度はスウェットパンツを持って、腰を落とす。
青島ももう何も言わず、壁と室井の肩に手を乗せてバランスを取りながら、両足を入れた。
それをウエストまでスッと引き上げる。

自分で言うのもなんだが、何だかんだと文句を言いつつ、自分たちの息の合い方は絶妙だ。


「あ~・・・あったま、軽い~」
「気持ち良かったか」
「はい、良いお湯でした。ぽかぽか。・・・あの・・・」
「ん?」
「ほんとに・・・・ありがとうございました」


頬笑みを浮かべ、ぺこりと室井に向かって青島がお辞儀した。
雫が床にぽたりと落ちる。


親しげな口ぶりでも、青島にはこんな風に一線を越えない礼儀があった。
それを胸を締め付けられる思いで見下ろした。
その人懐こさを残しつつマナーを仕込んだ人間に、苛烈な憎悪さえ湧く。
恐らく青島は、多くの人間に愛されるタイプなのだ。
この手から擦り抜けて。

共鳴するほど似たような感覚を持ち、傍に居ればお互いを共振してしまうほど、近しい存在だった。
社会の中でこれほどまでに垣根のない人物に出会ったことは無い。
それは、陶然とさせる不思議な余韻と、この先二度とこういう相手は出会えないだろうという失意が室井を襲う。
なのにその他大勢として青島の中で室井は塵と同義だ。


なんか喉が渇いたと寄り道したがる青島の腕を引き摺り、温めたままの部屋へと戻った。

「まず髪を乾かしてからだ」
「んなの、ほっときゃ勝手に乾きますよ」
「何を言う。今風邪を引いたら大事になるんだぞ」
「う~・・・」


赤いチェックのシャツから覗く湿った素肌が仄かな色気を放って視線を奪う。
自分の服のセンスに、密かに拳を握った。
だが、何となく目のやり場が定まらない。


「きちんと前も閉めておけ」
「だってまだ暑い」
「コドモか」


ドライヤーを当て、空気を含ませるように吹かせていくと、それでも気持ち良さそうに目を閉じた。

意地っ張りな青島が自分にだけ甘えてくれるのが、何とも言えない満足感を起こす。
青島を想ってすることは、こうやってひとつずつなくなっていくんだろう。
最後に、俺の手には何も残らないんだろう。


なら、ごめんと――
君に一言だけ、謝らせて欲しかった。

あの秋の決別と、この先の英断を、誰かに赦して欲しかったのかもしれない。
そうすることで得られる受容と許諾が、無意味な関係を肉付けするのだとしても
それは、室井にとって冗談のような劇薬にすら、なった。

告げる意味を持たない重たい渦が、室井の胸の奥で怒号を上げていた。
それを理性で強く捩じ伏せる。


「ん・・・、も、へーき・・・」
「こら、じっとしてろって」


くしゃりと顔を崩し、擽ったそうに横を向いて身体を竦めてしまった青島の髪に五指を差し込みながら、ドライヤーを止めた。
櫛で梳いていく。
やはり室井の剛毛とは違い、青島の細髪は柔らかくふわふわで、櫛を通すと色素の薄い淡い色が艶々と光った。
エアリーな軽さは、ヒーターの風にすら、そよぐ。
旋毛を確認して、青島の髪形を思い起こしながら、丁寧に整えた。


「こんなもんか」
「・・・・どうも」
「何をしょげている」
「だってみんな室井さんがやっちゃうし」
「それの何が不満なんだ?」
「・・・・・」

ドライヤーを仕舞いながら、腰に手を当てしょうがないなという風に溜息を吐いた。


神様がくれたこの非日常は、やはり夢幻なのだ。
夢の国で、束の間の休息を二人で共有しているに過ぎない。
朝が来れば夜が明けて、また日常が戻ってくる。
そういうルールだ。そういうルールだからこそ、青島を一人占めできる。

この罪を背負って生きていくのは、自分一人でいい。
過去にされるのなら、その方がいい。
大切だからこそ、何も望めない。


「何か飲むんじゃなかったのか?」
「飲みたいですけど・・・」


流れる季節の中で変わらぬ平行世界を俺たちは生きていく。
忘れ掛けていた熱い炎を胸に戻してくれた青島に、それに値する人間であると認めて貰えるように。
二人約束したあの頃のままで、生きていく。

夢の国はいつか、目が覚める。
だからこそ、この先も向き合う未来が待っている。


「オレンジジュースか」
「そこは珈琲牛乳って言えよ」
「子供だな」
「また馬鹿にして・・・」


もうどうしようもなく、この男に自分はまいってしまっているのだ。
その狂暴な激流にも似た渦からはどうせ逃げられやしない。
青島に抱かれ、包まれ、息を吐ける時間を与えてくれる手に余る倖は、自分一人で噛み締めればいい。

共に歩む未来が、奪われた胸の裡で悲鳴染みた唸りをあげ、戦慄き、冷たく室井の胸の傷をどす黒く爛れさせていた。
いつかこの淫らで濃密な痛みも、消えていってくれればいいと願った。




***

「じゃ、昨日の洗濯物を畳むの、一緒にやるか?」
「・・・・やる」


嬉々として洗濯物を畳む青島が可笑しくて、室井は正面に座りながら、眉間を寄せる。
タオル類からシャツまで、洋服店の陳列棚の如く、見栄え良く畳んだものを積み上げていく。
何故か正座だ。


「あ。室井さんのぱんつ。・・・・ボクサー系なんですね。・・・布少なっ」

青島が室井の黒のボクサーパンツをぴろっと広げて見せた。






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