東京変奏曲Ⅱ









第四章
1.
『それでそのまま徹夜したんですか』

電話の向こうの新城の声は、心底揄いの音が混じっていた。


『仕方ないだろう。ここで死なれると目覚めが悪い』
『それだけで』
『何が言いたい・・・。お前だって困るだろう?此処に居たら同じことをする』
『ええ、でも一晩中タオルを変えたり手なんか握ったりしませんよ』
『・・・・・・・してない』


憮然とした口調で室井が口を挟む。
受話器の向こう側から、どうだか、という蔑みにも近い溜息混じりの冷やかしが聞こえた。



荒谷から報告を受けたらしい新城が、早朝から今後の予定について打ち合わせを求めてきたのは
かなり早めの朝食を取り、朝のニュースをチェックしている時だった。
送迎の車内からなのだろう、後ろに音声信号機やトラックの指示音など、外の雑音が混じる。

音量を下げて点けているリビングのテレビでは、どこの局でも昨日の襲撃がセンセーショナルに報じられていた。

都内有数の大手病院で起きた騒ぎとあって、治安の問題から地価の話題にまで、波紋は広がっている。
だが、襲撃された者の名前は勿論、加害者の素性、犯行目的、銃を使用していたことさえ伏せられ
病院に個人的な恨みを持った怨恨の犯行ではないかということを強調していた。
明らかにマスコミに対する対外圧力が伺えた。


『その間にこちらで協議していく内容なんですが』
『その間ってどの間だ』
『マスコミにそこを知られるよりは良いでしょう』
『・・・・よくマスコミを抑えたな』
『この程度が限界です。・・・苦労しましたよ、恐らく昨日の貴方ほどには』

まだ揄い足りないのか、新城の口には節々に呆れが入る。
パラパラと手帳を捲る音がした。

『いいから今後の予定を続けてくれ』


今後、これまで通り湾岸署に設置した捜査本部を起点とした捜査方針が本部主導で展開されていく。
その連携に室井宅も多少加わることになる。

カーテンの隙間からすっかりと明けた街に目を走らせながら、室井は端的に告げる新城の言葉を、念頭に入れていった。

はっきりとは口にしなかったが、やはり新城は室井が青島を自宅へ匿うことを想定内としていたようで
予め決められていただろう計画書にはこの事態を前提とした表現が幾つかあり、本部長としての対応に動揺一つ覗かせた様子はなかった。
こういう非の打ちどころの無い組み手をしてくるのが、新城という男だ。


典型的なエリートキャリアとして頭角を上げてきた新城は、その経歴には一分の隙もないホワイトカラーだ。
出身派閥から階級制度に帰依しているため、レールから外れた室井のようなキャリアには先輩後輩問わず等閑する一方
盲信している訳ではない辺りが喰わせ者である。
在る意味、キャリアの資質に拘る一倉などの方が、可愛げがあると言えた。

武骨にしか生きられない室井と違い、器用に渡り歩きつつ徹底した生き方を誇示する彼は、頑愚で因習的でありながら
逆を返せば、それは廉直な信頼度に比例する。
ましてや、青島の内面も良く知る人物だ。

担当本部長が交代させられた今回の状況は、不幸中の幸いであり、内部の風向きは悪くないと室井は思った。



『――・・・という方向性で捜査員には伝えるつもりです。今後本部はその線で動くことになる。ご理解頂けると助かります』
『分かってる。それしかないだろうな』
『ええ・・・・、やはり強固なトップダウンは見事という他ない。上を陥落しない限り攻めようがない部分は、捜査としても無駄足になる』
『海外に逃亡されたら手も足も出せなくなるぞ』
『残党とは言え、末端組員を確保できたのはやはり大きかったですよ。取り調べも一部は順調に進んでいるようです。一部・・・ですが』


青島を保護した時、同時に多数の確保者が出たが、彼らの多くは逃亡者を連れ戻すためだけに街中を疾駆していた末端組員だった。
故に、逮捕にまで持ち込めなかった者もいる。
押収したケータイなどの所持品から、ある程度の情報は得られたが、その多くが今も黙秘を続け
仮に吐いたとしても、大した情報は得られないことが、予想出来た。


『何か吐いたのか』
『拠点が分かりましたよ。あくまで今回の、ですが。・・・レンタルで、閉鎖された都内の中堅工場を使用していたようです』
『・・・考えたな』
『痕跡が隠し易いことですか』
『ああ』
『・・・早速捜査員を送らせましたが、確かに色々と出てはきましたけどね。今回は余程慌てていたと見られる』


動揺は焦りと隙を生む。青島の捨て身の逃走劇が奴らにとって満更ではなくなったことに、室井は少し救われる思いがした。
が、それは直ぐに落とされた新城の言葉に塗り込められる。


『多少の日常品や、食い散らかした食品類、銃を使用した残痕までは出たのですが、日常指紋も出て来ないのは流石としか言いようがありませんでした』
『一カ所もか』
『・・・一カ所だけは見つかりましたよ』
『その程度か・・・』
『・・・・監禁されていたと思われる場所もです』
『――!』


新城の言葉が、胸を抉るように突貫した。
想定内だった筈だ。
だが、悔しさと痛みが駆け抜ける。

誰を監禁していたかなど、聞くまでもない。
青島の両手首の拘束痕――長時間の繋縛と強要が、何を意味していたのか。


室井は気付かれないように、一度目を瞑り、眉間を顰めてから、目を開けた。
警察官なら予想外の動揺に隙を入れる訳にはいかない。訓練されてきた筈だ。

喚きだしそうな衝動を呑み、新城に先を促した。


『周辺の目撃情報は』
『閑散とした下町工場地帯でしてね・・・新規の出入り業者は珍しくないらしく・・・』
『・・・余所者がいても不自然じゃない、か。確かに隙がない』
『その工場から、これ以上の情報が出てくるとは思えませんね』
『手詰まりになるか・・』


決定的なものを残す訳がないということ以上に、この集団は決定的なものを持たないことが信条だ。
先行きの長さに、室井は気が遠くなる思いに囚われた。


『それと、お耳に入れておきたいのは――どうやら病院周辺に、まだ不審な車が往来しているとの情報が上がってます』
『・・・・!変だな、やけに焦っているように見えるが』
『恐らく青島が生きていることが彼らに伝わったからだとは思いますが』
『・・・だがそれが何故追うことになる。・・・、報復、か?』
『或いはまだ何か出てくるのか』


逃げ切れた訳ではなかった。
分かっていたことだが、改めて新城から告げられ、奥歯を噛み締める。

こういう追撃戦は、こちらが何を持っているか、ではないのだ。
こちらがダイヤを持っていると、相手が思っているということが、厄介なのだ。



『では、後は手筈通りにお願いします』
『了解した。・・・気を付けろ』
『そちらほどではありませんよ』
『警備の件は恩に着る。面倒を掛けた』
『いつぞやの貴方がたの暴走に比べれば可愛いもんですよ』
『・・・その暴走ついでに、もう一つ、頼まれて欲しいことがある』
『何です?』


〝籠城〟生活の必需品を告げ、心底新城から呆れ果てた声を引き出すことにも不覚にも成功し、室井は通話を切った。
そのままケータイを額に押し当てる。


ここから先の見えない長い戦いが始まる。
青島の意識が戻れば、当然、情報を警察に渡すだろうことは、奴らにとって範疇だった筈だ。不本意だったとしても想定の範囲内な筈だ。
ならば何故未だに付き纏う。
もうバレたと見た彼らが、その上で何故、逃げもせず、未だ青島を狙うのだろう。
狙いはなんだ・・・?

情報か。命か。


最後には絶対に勝たねばならない戦いだった。青島の命が賭かっている。
そのためには何をすべきか。
もう少し煮詰めてみる必要がありそうだなと室井は眉間を引き締めた。




*:*:*:*:



襖の向こう側の青島の様子を見に移動する。
物音に気付き、青島がベッドの上からちょこんとこちらを見た。


「起きていたのか」
「・・・あんま・・・・ねむく、なくて・・・」


近付いて、上から覗き込んだ。目線が室井を追って上向いてくる。
だいぶ顔色が良く見える。
意識もはっきりしているようだ。


今朝早く、まだ夜も明け切らぬ薄宵の中、人目を憚るように本当に金岡医師が訪ねてくれた。
簡単な診察ではあったが、包帯や消毒液、点滴、看護規則などにも気を使ってくれた。
傷口の消毒も済ませ、包帯も取り替え、着替えまで手伝ってもらい、至れり尽くせりの親切ぶりだった。
その時、測った熱も38度台にまで下がっている。
免疫が落ちていることと、これまでの疲れが出ているだけで、傷痕の重症化や感染症など、命の危険が起きている訳ではないとのことだった。
そこまで心配しなくて良いと言われ、言葉も出ない室井に、金岡医師は面白そうに柔らかく笑っていた。



「気分はどうだ?」
「・・・へーき・・・・」


どうせ、悪くても口にはしないだろうなと察し、室井は少し苦笑した。
傍に屈みこんでみる。


「起きてるなら、何か飲んでみるか。熱があったら水分も不足している筈だ」
「う・・・ん」
「経口保水液では飽きたか」
「う・・・・ん・・・・」


歯切れが悪い。
少し首を傾げて考えて、室井は思いついたことを、そのまま口にしてみた。


「温くて嫌か」
「う。・・・・・・・・・・・・・・・・・まずい」
「だったら、果物とかどうだ。喉越しが気持ち良いかもしれない」
「あ・・・・・・・・うん、ほしい、かも・・・」
「待ってろ」


図星だったらしい。

頷き、台所に立つ。


診察のあと、青島は再び、昨夜の重湯に近い粥を椀一杯平らげてくれた。
金岡医師からも、消化の良い柔らかいものから徐々に摂取させて良いと、お墨付きを貰っている。
室井に病人食など、よくは分からない。
解禁日の胃腸はどこまで持つか。


腕を組み、暫し色々巡らせる。

林檎を洗い、皮ごと擦って、椀に盛った。


部屋に戻ると、青島が自分で起きようとして、布団に倒れ込んでいく。
両手が踏ん張れないのと、腹部の傷が痛み、バランスが取れないのだろう。

もう、多くを語らず、室井は足早に近付き、身体の下に片手を入れると、引き寄せるように持ち上げた。
昨夜と同じ手順で首元に頭を埋めさせ、ベッドに乗り上がり、座り込む。
勢いで、青島が室井に凭れかかり、胸元に手を付いた。


「ちょ・・、あ・・・っ、の・・・」
「林檎があった」
「ぇと、ひとりで・・・」
「いい。ずっと寝ていたし、血を流しすぎた上に食ってないから貧血気味なんだ。無理はしないほうがいい」
「で、も・・・っ」
「林檎。擦ってみたから食べ易いと思う」


なんだか昨日より反応が顕著な青島を放って、椀から林檎を掬いあげる。
まるまる一個擦り降ろしたので、山盛りだ。
銀色のスプーンで零れないように口元に持っていくと、青島は更に真っ赤になった。


「じじじじじぶんで」
「・・・・・零れるから早くしろ」
「いや、でも、あの、」
「なんだ。今更」
「だって・・・っっ」


それこそ林檎より真っ赤になってしまった青島が、目を瞑り両手を翳す。
その初心な仕草に、室井は何とも言えない感傷を抱いた。


昨夜は確かに熱があった。
朦朧としていた意識の青島に、室井自身、不安と恐怖が綯い交ぜになって、色々と必死だった。
なんだか余裕がなくて、普段なら言う筈のない恥ずかしい言葉を吐き、醜態を曝した気がする。
本音ではあるが、あそこまで取り乱すなんて、らしくない。・・・お互いに。
今までの二人の関係から考えれば、想像も付かない密着ぶりだ。
しかし、室井は後悔などの後ろめたさはないし、あれはあれで良かったと思っている。青島の本音が垣間見れ、誰にも晒さないだろう一番深部に触れられた。


だが一夜明け、落ち着いてくるほどに、この態勢には不自然さが際立つ。
ベッドで中年男が二人、擦り寄っているのだ。
これでは、新城に揶揄されても、仕方がない。

明け方の粥は、まだ室井の手から食べてくれたのに。
理性が戻りつつあるということは、薬が効いたか。回復している証拠だ。

少しだけ昨日の青島の可愛さを思い起こしながら、惜しい気持ちを抑え、室井は椀を差し出した。


「・・・・・自分で持てるか・・・?」

そっぽを向いていた青島が、片目を開け、手元を見る。
おずおずと手を伸ばしてきた。
その両手首に白々と巻かれた包帯が目に入る。


先程の、新城の電話が蘇った。
〝監禁されていたと思われる場所も――〟

アリアリと、監禁していたと分かる部屋だということだ。
拘束されていただけではないという、仄かな予感が胸に険悪な確信を抱かせる。
痛々しい包帯の白さに、室井は自然と眉間を寄せた。


「零しそうだ。私が持っているから、自分で掬うといい。・・・ほら」

スプーンを差し出すと、青島はそっちはすんなりと受け取り、室井をじっと見た。
これは、皿も放せという意味だろう。
だが、そこは流石に聞く気にはならなかった。
気付かない振りをして、わざを身体を支えるように腰に手を這わす。

「~~っっ、・・・・、」


少しの間、途切れさせた青島の吐息が室井の耳元にかかり、何やら逡巡しているようだった。
やがて諦めたのか、室井に凭れかかるような格好で、室井の持つ椀から少しずつ掬い、口に運びだした。
首元に頭を預けているため、少し、柔らかい髪が室井の口唇を擽る。

ベッドの上で寄り添うように座り、青島が林檎を口に運んでいく。


目前で、青島の口が開く、その動きをじっと見ていた。
林檎の汁で、少しカサついていた口唇が紅くぬめる。

まだ熱の高い身体は熱い。

一口・・・、喉仏がゆっくり上下する。
二口・・・、紅い口唇が薄く開く。その口角が上がった。


「すげぇ、うまい・・・です、しみわたる・・・」
「そうか」
「ひえてる、のも・・・いい・・・。なんか・・・・めちゃくちゃのど、かわいてた」
「あれだけ汗を掻いたんだ。・・・本当は昨夜の時点で果物の水分を入れた方が良いかとも思ったんだ・・・。でも果物は酸が強いから胃を心配した」
「さん・・・」

不思議そうな透明の瞳がチラリと室井を窺う。
その距離5センチ。


掬い易いように、椀を回した。

「秋田は林檎もいけるだろ?」
「ん・・・・あまい・・・です。これも、ごじっか、から?」
「ああ、この間送られてきたばかりだ。この時期は毎年送ってくれる」
「つめたい、から、のど、きもちいい・・・」
「廊下に放り出してただけなのにな。この季節は東京も天然の冷蔵庫だ。・・・・胃は痛くないか?」
「ん・・・」


てんこもりだった林檎はあっという間に小さくなっていく。最後は室井の手から果汁まで飲み干した。
青島の嚥下に息を合わせ、椀を傾ける。

元気に食べれたことに、ホッとする。
だが、まだ身体も重くだるいのだろう。
大きく息を吐いて、室井に体重を預けた。
辛そうだった。
それでも青島は、口元を微かに綻ばせて、眼で室井に礼を言った。

ああ、こいつはこんな風に周りに気を使って本音を隠してしまうのだなと思った。
旨かったかと小さく問うと、更に破顔を造って頷く笑顔を見ていた。


「・・・・、まともな、しょくじ・・・」
「林檎だけで何を言う」
「ろくなもん、くってなかった、から・・・」
「潜入の間、食事はどうしてた」
「んー・・・くらっかーとか・・・ビール?」
「おい、糖質がないじゃないか」
「チョコもあった、けど、おかしは、あまり・・・・」
「違う。・・・正確には違わないが、糖分は糖分でもブドウ糖だ」
「ぶどうとう・・・・」


不思議そうな透明の瞳がじっと室井を窺う。

銀のスプーンを取り上げ、サイドテーブルに置くと、青島の肩に手を回し、クイっと下向きに力を入れた。
仰向けに体重を委ねる身体を支え、そのまま顔を覗き込むと
突然の態勢にびっくりした青島が、両手を室井の胸に翳し、見上げてくる。

覆い被さる室井の背が電灯を背負い、青島の顔が陰になる。


不意に桃色に染まったその瞳を見降ろしながら、ゆっくりとその身体を布団に横たえた。

「脳の主要エネルギーだ。穀物から摂るのが上質だと言われている。・・・潜入なんて危険性の高い仕事をするのに脳を活発に維持しなくてどうする」
「・・・ぇ、・・ぁ・・?すみません・・・?」


しゅんとして、室井を窺うように見上げている瞳は、まるで子供だった。
童顔でベビーフェイスだから余計、覚束なさだけを感じさせる。
何で疑問形なんだと問いかけたら、俺、叱られたの?と笑っている。

布団を掛けてやり、額にアイスノンをパコンと乗せてやった。
何だか元気になったら、もっと栄養の付くもんを喰わしてやりたくなった。


「まだ横になっていろ」
「はぃ・・・」

空になった皿を下げようと、タオルと共に持ってベッドから降りる。

「むろいさん・・・・」
「ん?」

肩越しに振り返ると、少しだけ真剣な眼差しが室井の背中を見つめていた。


「なんだ」
「きょう、しごとは・・・?」
「・・・・、言ったろ、待機任務だが?」
「・・・・・おれを、みるため?」
「関係ないとは言わないが、気にすることじゃないとも言ったろ」
「ぅ・・・ん・・・・」


布団の裾を両手でちょこんと掴み、何かを問おうとしている口が、閉じたり開いたりしている。
だが、それが音になることはない。
なんだ、という意味を込めて、身体ごと振り返った。


「じゃ、いちんち、ここ、いるん、ですか・・・?」
「ああ、何かあったらケータイに連絡が入る。それまではいる。気障りなら、襖を半分閉めておく」
「・・ぇ・・・?ぁ、ん・・・、そういう・・・いみ、じゃない・・・です」
「・・・・・」


視線を外し、青島が俯いてしまった。
手元の自分の指を、理由も無くじっと見ている。
室井も、暫しその表情を見つめた後、意味も無く空になった椀にじっと視線を落とした。


「・・・開けておく」
「・・・・うん」

強張った頬が少しだけ緩んだのを確かめてから、室井は席を外した。





*:*:*:*:*


そうは言っても、一日の半分以上を、青島は眠っていた。

痛み止めや化膿止めなどの薬の中に、安定剤や睡眠導入剤などの成分も、入っているのかもしれない。
昨夜より安らかな寝息に変わった睡眠に、何故か室井の方が満たされるような錯覚を覚え
室井もまた、開いている時間のほとんどを、ベッド脇に座って青島を眺めていた。


一人にされることに怯え、縋る言葉を吐けない青島が、愛しく悲しい、そして孤高な生き物だと思った。
素直で大胆に生きているように見える傍ら、今、ここでだけ見せる素の姿は
何処か自分の不器用さを彷彿とさせ、もどかしい苦しさをシンクロさせる。

室井が席を外した時、用事に立ちあがる時。――――何かを確かめるような、幻惑の中にいるような、不可思議な瞳を青島を見せる。

記憶の中の何かと整合性を保たせようとするような、何かを探している瞳をする。
もうそれは、死線の縁から生還出来た非現実さだけではないだろう。
室井が何も告げずに美幌へ消えた、3年前のあの記憶も綯い交ぜとなって、不確かな現実がどちらなのか、確かめようとしているように見える。
実感が湧いていないのだ。

確かにそれはそうだった。
一度もプライベートを共にしたことなどなかったのに、こうして今、寝室で寝泊まりしている現実は、幻惑のようだ。
それはまた室井も同じであったから、何となくシンパシーがあった。


ベッドから出ている手をそっと擦る。
包帯の感触が、ザラザラとする。

三年前一度手放し、今一度捕り損ねた獲物が、今、自分のベッドで安らかな寝息を立てているのは、酷く不思議な現象だった。
このまま手を引き寄せたら、パチンと弾けて消えてしまいそうで、迂闊なことが出来ない。
だが、もう勝手に消えさせるようなことはしないと、胸に誓った。
だから、室井としては、この掴み所の無い不安定さも、恐くは無い。
どこに行っても、必ず追いかけるし、また捕まえに行く。


でも。同じ不安定さを、青島は怖がるということは、青島にはそのつもりがないということだ。
消えてしまっても、そのままにするつもりなのだ。
それが、少し、寂しい。
室井が思うようには想ってくれていない。


「おまえは・・・・向う見ずに突っ走る癖があるからなぁ・・・」


意味なく額に触れ、体温を感じ取る。
熱のある火照った体温が、ここにいることを確かな実感として、与えてくる。


掴んでいないと、本当に、消えていってしまいそうだ。
余りに大切すぎて。

どうしてよいか自分で持て余す程の飢餓は、異常なほど絢爛に満ち、室井の執着を煽っている。
青島との出会いが、室井の中の、細胞レベルで何かを組み替えてしまったのは、確かだ。
僅か、数年前の突然の出会いが、室井の何もかもを、色鮮やかな色彩へと変化させた。
初めて知った喪失の痛みと衝撃は、室井の足を雁字搦めにあの時空へと縛り付けた。

だがそれさえも、蠱惑的な鉄の鎖だ。

過ぎた時は美しく、何もかもがキラキラと輝く宝物に変わり、散りばめられている。
その裡で、沸々と黒々とした汚泥に澱んでいく自身の裡とは対照的に。



擦っていた手を取り上げ、祈りを捧げるように両手で掴み、額の前に翳した。
肘を付き、眼を瞑る。


何より確かな物を欲しがって、心が泣いている。
愚かで鈍感な感情は、こんなことになるまでその切迫さに気付けなかった。
失いかけて、ようやく自覚した淡い熱は、急速に加速度を上げて室井の中を貫いていく。

意思だけでそれを閉じ込めておくことはもう不可能で、増えていくばかりの欲望に、手に負えないほど執着し、惑乱させられる。
どうして良いか分からないまま心は咽び喚いて、想いの深さを、自分自身に絶えず困難なまでに・・・いっそ抗い難く思い知らせるのだ。
それは、一陣にして巻き上がった神風のようなものだった。

知っているのなら、教えてほしかった。
どこまでこの甘美な鎖は続き、終わらせられるのか。
自分の中に眠る貪欲な獣のような情熱を、これ以上、意思とは無関係な所で勝手に引き出されるのが、恐かった。
しかし、最早断ち切ることなど出来ないし、する気もないことは、誰より室井が一番分かっていた。



小さな諦観も、囲いも全て押し退け、強く灼けるように向かってくる、青島の情念が、眩しく、そして恐ろしい。
その野生の粗さで弾ける光は、今も自分に一ミリの余剰なく、向いているのだろうか。
二人の、忘れたくない、あるべき姿を炙り出す。
彼が、本当に目覚めた時、逃げた室井をどう映すのだろう。

こうして、突如飛び込んできた触れられる空間は、何かを錯覚させられそうだった。
二人の距離も、二人の感情も、二人の記憶も。
青島に対する望みも負い目も激しく、追い詰められていく。

焦がれる欲望は、卑しく貪欲だ。
青島の全部を求め、一欠片も他人に譲りたくない。もう一度、あの鮮烈な瞳の中に、映りたい。
一つを手に入れたら、その次が欲しくなる。
これは、そういう底の無い野生の欲望だ。



伝える言葉も、引き繋ぐ言葉も、何も持たない自分を自覚して、室井は瞼を閉じたまま、俯き、手を堅く握った。
青島の寝息のリズムに合わせて、室井は目を閉じたまま、呼吸する。
丸っこい指先が室井の手に柔らかく乗り、胸の奥が擦り切れるほど、痛くなる。


〝もう一人にしないで〟

熱の最中、青島が縋った言葉が、耳の奥で木霊する。

あれは、どこまで本気だったのだろう。
死の縁に立たされて、恐さが弱さを引き出した。


「出来ることなら、俺だって・・・・・」


その方法が分からない。

どうやって、二度と離れる気は無いのだと伝えれば良いのだろう。
どうすれば、この想いは伝わるのだろう。

大切なんだと、ただそれだけを、伝えたいだけなのに。








*:*:*:*:*


魔の刻辺りから、また少し熱が上がった。

夕暮れになった薄暗い部屋で、薄らと眼を開けた瞳は熱っぽく、とろんと蕩けたように室井を見上げる。意識ははっきりしているようだ。
そっと前髪を梳き上げ、室井は身体を斜めに傾げた。


「怖くはない。夕方は熱が上がるもんだ。・・・・気持ち悪かったり・・痛いところはないか?」

耳元に口を近付け、囁く様に問い掛けると、青島はコテンとこちらに首を傾ける。
応える元気もないのか、寝起きだからか、緩やかに青島が頷く。暗闇で艶めく透明の瞳が、綺麗だ。
そっと前髪を掻き分け、額に手を翳す。


「ああ、熱いな・・・。頭痛はするか?」
「んん、・・・・、」
「食欲はどうだ。腹減らないか?」
「わかん、ない・・・・」
「そうか。なら夕食は少し遅めにしよう。喉は乾いてるんじゃないか」
「・・・うん・・・・ぁ、でも・・・・ちょっと・・・」
「ん?どうした?」


のろのろと起き上がろうとする青島を支えようと、室井が手を伸ばす。

身体に手を回すと、やはり熱さが伝わる。
やはり、それほど筋肉質じゃない。常に鍛えている警察官とは違う、一般男性に近い体つきだ。
栗色の癖毛と飴色の瞳が甘さを与え、童顔と相まって妙に少年のような頼りない華奢さを思わせる。

真理を得た時、弾けるような閃光を放つ魂が、この身の裡に潜んでいるなんて、今は俄かに信じ難くさえあった。
こんなにも衰弱した彼が哀れで悲しく、あの万人が魅了される輝きに、再びと焦がれる。


「どうした?」
「・・・・・その、・・・といれ・・・・・いきたい」
「吐くか?」
「じゃなくて・・・」
「あ、ああ、そうか、おまえ、昨日から行ってないな」


だが、と、室井は青島の姿態に視線を走らせる。
傷痕は全身に及んでいる。両手両足、脇腹、左肩。


「その、・・・・歩けないんじゃないか?」
「ん・・、でも、」
「ペットボトルとか・・」
「ぅ、・・ッ、なに、いってんっ・・・」
「入れ辛いか・・・洗面器とかどうだ」
「~~ッッ、まさ、か、で、しょ・・・・っっ」


またしても真っ赤になって、今度は不慣れな手付きで室井を押し退けようと暴れ出す。
真剣に吟味しているのに、心外だ。


「んもっ、・・・ばしょ・・・」
「あ、ああ、玄関左の・・・」
「ん、ちょ・・・と、おかり、します・・・・」
「バケツはないから・・・しまったな、そこまで考えなかった」
「・・・べつに・・・いらない・・・・」
「なら、トイレまで連れていってやる」
「それも、いい・・・って・・・・ひとりで・・・・」


ベッドに片手を付いて、青島が両足を降ろした。
ゆっくりと降ろした両足は素足であったが、両方とも包帯が巻かれているのが見える。


昨日、荒谷がすんなりと青島を姫抱きしていたことが、ふと、フラッシュバックした。
上背があり、肉厚に鍛えられた肉体は、強靭な筋肉を要していることが了然で、軽々と青島を抱き上げていた。
奇妙で苛烈な嫉妬心が湧きあがる。
青島は室井より少し身長が高いから、あんな風に彼を抱きかかえるのは、出来ないこともないだろうが余り現実的ではなかった。
それが、今になって妙に悔しく思う。

背が低いとまでは言わなくとも、周りの同期や上役を見渡す限り、ほとんどが自分より目線が少し上であることに、軽いコンプレックスを抱いていたのも確か だ。
そのため日々の訓練は怠ったことはない。
足りない物を補うのに、努力を惜しんだことはなかった。

だが、今。



室井は徐に青島の腕を引き、胸に抱き寄せ、そのまま腰に両手を回した。


「ふわ・・・っ、ちょ・・・っ」
「暴れると落ちるぞ」

低く耳元に告げる。

青島の腰からグッと持ち上げ、マットでも抱えるように肩に担ぎ上げた。

これなら、身長など関係ない。
そういえば、三年前の腰の刺傷の時も、姫抱きをしようと思っていたんだ。
あの頃はまだ、そこまで踏み込んで良いものか分からなかったのと、自分の負い目が、手を躊躇わせた。
何となく、あの日の熾烈な痛みを思い出す。


バランスが取れず、青島が、室井の背中をぽんぽんと両手で叩き、抵抗を示すが、無視をする。
スタスタと、トイレへと向かった。

身長が高ければ。屈強な男であれば。
もっと簡単に、もっと自由に、俺でも青島を護ることが出来たのに。
努力では変えられないものもある。

身長の低さを、ここまで嘆いたのは、思春期以来だった。



トン・・・と便器の前に青島を降ろす。
洋式だから、用を足すのに苦労はないだろう。
片手で青島を引き寄せ、院内服のボトムスを降ろそうと、手を腰に這わせば、それに気付いた青島が、悲鳴のような懇願を漏らした。
院内着はウエストゴム仕様だ。
既に半分下げていた隙間から、プリッとした臀部の上部がはみ出しているのが見て取れた。
・・・色白で、桃色だ。


「ね、も・・・っ、おねがい、ですから・・・っ、ひとりで、できますって・・・っ」
「恥ずかしがることはない」
「ふつーに、はずかしぃ、よ・・・っ」
「・・・・」
「ちょっと、なら・・・・たぶん、立ってられます、から・・・・。かべ、あるし・・・」


壁を支えに、ボトムスを脱ぐくらい一人で出来ると言いたいのだろう。
だが、傷めるようなことは極力したくない。両手だって傷めているのに。

狭いトイレで二人、密着したまま、押し問答が続く。


「脱がすだけだ。持つとまでは言ってない」
「もももつって、あんた、なに、持つ、つもりですか・・・・っ」
「なにって・・・、持たなくても出来るだろと言っているんだ」
「へんたい・・・っ」


真剣に論じているつもりなのに、心外だ。

流石にこれ以上の手出しは、セクハラ紛いな気もして、室井は静かに息を吐いた。
青島が壁に手を伸ばすのに合わせ、そっとその身体を離す。
青島の顔が、目の前に在る。


「扉の外で待つ。何かあったらすぐ呼べ」

頷いた青島を見て、後ろ髪を引かれる思いで、トイレを出た。

「ドア、開けといた方が――」
「しめてッ、よ・・・っ」


キッと赤い顔で睨まれ、渋々扉の外に立った。

今はいつもの明るすぎる元気がないからというのもあるが、そう言えば室井としては昔から、どうも青島には必要以上に手を焼きたくなる嫌いがあった。
関わりたいということ以上に、構いたくなるのは何故だろう。

考えてみれば、用を足す音を聞くのもマナー違反な気がする。
仕方なしに、少しだけ離れた。



水洗を流す音がして、壁に身体をぶつける音がして、扉がゆっくりと開いていく。
即座に近寄り、倒れ掛かった身体を両腕に抱き留める。
ぱふんと落ちる、細い身体。


「大丈夫か」
「ん・・・・・」


問答無用で来た時と同じように抱き上げ、部屋へと戻った。
抱き上げた身体は火照っていて、やはり少し熱が上がったことを察知する。
しまった。この季節、廊下は極度に冷え込んでいる。
院内着だけでは薄すぎる。何か、上着でも羽織らせてやるべきだったかもしれない。


ベッドに降ろし、胸に抱きかかえるようにして身体を横たえた。
されるがままに大人しくしていた青島の顔を覗き込めば、意外にも眉間を寄せて顰め面だ。


「?」
「むろいさんが・・・・こんな・・・・へんたい、だとは・・・・」
「・・・・」


辛そうだが、冗談を言う気力はあるようだった。
少しだけ眉間に皺を寄せて、抗議を伝えてみる。

大抵の人間は、室井の頑固なまでの生真面目さと、冗談も遊びも通じなさそうな気位の高さに物怖じし、端正で整い過ぎた顔は冷徹なイメージを強め
一度眉を潜めれば、引き下がられたり、反発を呼んだりしてしまう。
だが、青島にはその裏にある、室井の本音が見えるのか。
・・・・思えば、青島が、室井から引き下がったことなど、かつても無かった。


仏頂面した顔が二つ、突き合わされた。
これが、青島流の礼なのだということも、何となく伝わった。

「少し、横になってろ。今何か持ってきてやる」

髪をくしゃりと掻き回して、部屋を出る。
振り向かなくても、青島がその背中を追っていることが、容易に想像出来た。




「今度は苺なんかどうだ」
「いちご・・・・」

手に持っていたパックを軽く持ち上げ、見下ろすと、青島は少しだけ瞳を和らげた。
一粒、口唇に押し当てる。
暫くそれを眉間を寄せながら寄り目で見ていた青島が、不意に口唇を開き、そのまま青島は苺を齧った。
紅い口唇から白い歯が見え、濡れた舌が揺らめく。

ちょっとびっくりして眼を見開く。青島も視線を合わせてくる。

「・・・・」
「・・・・」

何かは分からない心臓はドキリと高鳴った。

「餌付け・・・」

妙に照れ臭く、思わず漏れ出た意味の無い呟きに、今度は青島が眼を半眼にした。

「おれを、えづけ・・・・した、かった、・・・んですか・・・」
「・・・・、したいかもな。そうしたら、少しは聞き分けの良し悪しを叩きこめる。・・・ほら、起きれるか」


背中に手を差し入れ、引き寄せるように引き起こした。
自分のした不可解な行動に、少しやりすぎたかという動揺もあって、今度は粗雑な仕草になる。
正面から男の力任せに引き寄せたため、青島が勢いよく胸元に雪崩れ込んできた。

「ッ!」

今まで肩から持ち上げていたのとは違い、正面から抱き締める形になる。

「ふ、っわ・・・っ」
「おっと・・・、すまない、どこか打たなかったか」
「すみま・・っ、せ・・・、ちょっと、くらくらしてて・・・」
「ああ、熱もあるしな、・・・力加減を間違えた、すまなかった」
「いいいいいいいえ」


至近距離で顔を覗き込んで謝罪の言葉を述べれば、熱で色付いていた頬が真っ赤に火照り、下を向いて、青島が身体を放す。
包帯だらけの両手で室井のシャツの胸元を押した。
その反応があまりに顕著だったので、室井は思わず首を傾げる。
さっきの今で、何だ?


「そんなに照れることじゃないだろ?もう・・・」
「なれない・・・ですよ・・・・こんな・・・・」
「トイレにも行った仲だろ」
「いいいいいいわなくていいです」

めっ、と言って、青島が両手を室井の口元にバツの字に宛てた。

・・・微笑ましい。
熱で潤んでいる眼で顰め面を造り、体重を凭れさせているのに強気に抗議する態度が、何とも少年のような愛らしさで、意地っ張りで
ついに、室井は吹き出してしまった。
悪いと思いつつ、拳で口元を隠し、顔を背ける。が、大方、丸見えだ。


「な、な、な・・・・っ」
「だって・・っ、おまえ・・・っ、・・ハ・・ッ」


突然の室井の声を立てる綻びに、羞恥も吹っ飛んだのか、腕の中で固まっていた戸惑いを隠せない青島が、あわあわと不審な挙動を取っている。
それすら、壊れた機械仕掛けの人形のようで、滑稽に見えた。
男の意地や威厳を保とうとして、ボロボロだ。
やはり4つも年下の人間なのだ。
上司に対する節度を知っていたって、根は四年分、未熟なのだ。
警察機構の外に出れば普通の成人男性で、普段どこにでもいる男の一人で、同じなのだと、妙に納得した。

なんだか、少し、気が抜けた。


「・・・むろいさんが・・・・・わらってる・・・・・」
「君が・・、笑わせるようなことするからだ・・・」

さっきの騒動から、何か二人の間の空気が変わった気がする。
昨日よりもさっきよりも、今が一番近くで気持ちが触れあっている気がした。


・・・俺たちはいきなり近付き過ぎたのかもしれない。

距離感は、時の潮流の中で、こうして少しずつ詰めていくことが出来る。
開いた隙間も、埋めていくことだって、出来るに違いない。

大事にしたくて、護りたくて、片肘張って気を張りすぎていた。
元々、二人は理屈を越えた部分でいきなり共鳴できた人間同士だ。あの時の融合する感動は今も鮮烈に覚えている。
だったら、もう少し、自分たちのペースで、ゆっくりと結っていけばいい。
その先に、いつしか自然とシンクロする瞬間がやってくる。


「なぁ、そんなに緊張しなくても、照れなくたっていい。私は何も変わらない」
「・・・は、ぃ・・・、まぁ・・・うん」


嫌われてなんかいないし、距離感に戸惑っているのは、青島も同じなんだ。
それを、今、ようやく実感した。

だったら。
焦がれすぎて、飢えた心が先走るから、震える指先が求めるものを正確に捉えてしまうけど
それだって、いつかは日常になっていく。
日常とは、慣れの別名だ。



くしゃりと、柔らかい髪を五指に絡め、もう戸惑いなく、青島の頭に手を乗せ引き寄せた。
胸元に宛て、ぽんぽんと撫でて掻き混ぜる。


「むろいさん・・・・?」
「なんか・・・ようやく青島が戻ってきた気がする・・・いや、出会えたと言うべきか」
「んん・・・?」
「いや・・・」


口の端を持ち上げて、何の衒いも無く、微笑んで見せた。
気負いがすっかり抜けていた。


「私も久しぶりに笑わせてもらった」
「おれの、せいなの?」
「こんな風に、誰かと過ごすのが、まず久しぶりなんだ」
「わらうとこ、みたの・・・・にどめ・・・でした。は、ぁ・・、・・・ッ」
「そんなことが嬉しいのか」

こくんと首を横に傾けた青島は、熱で辛いのだろう、そのままふらりと身体のバランスを崩し、室井の肩に頬を宛ててきた。


「ほら・・・・喰っとけ」
「ん・・・」

再び肩を引き寄せ、恒例となったポジションに治めると、苺を口元に宛てる。

「ん・・、なんで・・・いちご・・・・?」
「ああ、昨日買い出しに行って貰った時に頼んだ。昔から風邪を引くと林檎と生姜と苺だった」
「へぇ・・・・」


青島は嬉しそうに苺を頬ばった。
水分が浸み渡ると言って、全部を食べきった。
良く頑張ったと褒めると、眩しいばかりの笑顔をくれた。

さっきから、表情も大分、豊かになってきている。
熱が引かないとはいっても、体力は回復してきているんだろう。
元気になるのもきっともうすぐだ。





「そうだ、君はアレルギーとかあるか?喰えないものとか・・・。卵はどうだ?」
「へーき、ですけど・・・?むろいさん、は?」
「苦手なものは作らない。キャリアは偏っていては失格だ」
「つまんない・・」
「だから健康優良児だ」
「まあ・・そんな、いめーじ・・・・」


問えば、いつも室井のことも問い返してくるのが、子供が親に縋るようで可愛くもあり、擽ったくもある。
自分に、他者へのこういう気遣いは出来ないだろう。
彼は、人の心の優しさを知っている人間だ。

こんな人間性が、堪らなく室井を惹きつけるのだ。
室井にないものを、惜し気も無く差し出し、必要な物を与え、指し示してくれる。
室井が失くした日常を、与えてくれる。
奪うばかりで、何も返せないのに、触れる度、手放せなくなっていく。



ベッドに身体を倒し、布団を掛け直してやる。
もうすっかり手慣れた手順となった。


「夕飯の粥に卵も入れてやる。動物性タンパクを取った方がいい」
「たんぱく・・・・」


本日何度目かの、不思議そうな透明の瞳がじっと室井を窺う。
フッと横目で口端だけを持ち上げ、室井は部屋を後にした。







*:*:*:*:*


8時ごろ、二人で少し遅めの夕食を摂る。
もう大分、重湯よりは糊に近くなってきた卵入り粥も、青島は美味しいと言って全部食べてくれた。
薬を入れさせ、就寝させる。

時は何事も無く過ぎた。
穏やかな一日だった。

風呂を上り、常夜灯だけを灯した中で、自分の寝床をベッドのすぐ隣に造る。
肩に掛けていたバスタオルを外し、髪を拭きながら寝姿を見降ろした。
安らかな寝息が聞こえた。
今夜は室井もぐっすり眠れそうだった。

だが、暫くの間、そのオレンジの灯りの元で、室井は起きていた。
昨夜と同じように、手を握り、月灯りが照らすその寝顔を、飽きずに見つめていた。



毛布を肩まで掛けた中から手を伸ばし、青島の額を押さえる。
・・・・まだ少し熱っぽい。











2.
ベッドに凭れたまま、眠ってしまったらしい。

ベランダに舞い降りた雀のさえずりが盛んに耳に届く。
ずり落ちたらしき身体を横たえたままの状態で床に就いていた室井が瞼を持ち上げると
青島がベッドの上から室井を見降ろしていた。

枕を両手で抱えた格好で、物珍しそうにこちらを見ている飴色の瞳が、悪戯っぽくくるりと回った。


「おはよーございます」
「おはよう・・・・起きれるのか」
「へーき、です」


慌てて起き上がり、顔を覗き込む。
何だか青島と日常的な会話をするのは物凄く久しぶりな気分だ。

楽しそうに室井を見ている目を見ながら、額に手を当てる。
上目遣いで室井の手を追い、寄り目になってくる。
童顔を更に幼く見せたその頬に健康的な朱が差し、顔色も見違えるように良くなっている。
ひんやりとした感触に、心が解き放たれた。


「熱、下がったようだな」
「お陰さまで」
「いつから起きていた」
「んー・・・・、さっき。外、良い天気みたいですよ」
「・・・・起こしてくれて良かったのに」
「忍びなくて」
「何を殊勝な・・・」


額に翳していた手が、宙で止まる。

昨夜まで所構わず触れていたのが、今朝のその明瞭な瞳に怖気づき、今は行き先を失った。
なんだかベタベタ触りすぎな気がした。
鬱陶しく思われそうだし、常識的に不自然でもある。
昨日まで思わなかったことを思い、あれは片方の非日常が齎した非日常・・・幻惑なのだということを、痛烈に理解する。


「ん?」
「いや・・・」


自戒し、行き場を失った手を宙を彷徨わせた末、額に掛かった自分の前髪を掻き上げた。
頭上で止めた指の間から、短い毛がパラパラと崩れ、額に掛かる。
続ける言葉も見つからなくて、何となく青島をじっと見る。
青島もまた、面白そうに瞬く瞳で、コテンと首を傾げる。・・・何?と、室井を促しているのだろう。
尚更、頬が強張った。


「でも念のため、測れ。体温計、そこにある」
「はぁい」

ごそごそと青島が体温計を脇の下に差し込んだ。
肌蹴た胸元に白い包帯が見える。

「・・・何時だ」
「・・・・まだ6時前みたい、ですよ」
「そうか・・・」

苦肉の策の言葉も、空回りする。
不自然に会話は途切れ、チュンチュンとさえずる雀の鳴き声が妬ましくさえなった。

耳鳴りさえ聞こえそうな変な緊張感が支配する。
何たる無様な有様だ。

まだ薄暗さが残る室内は、ヒーターを点けっぱなしで過ごした空気を籠もらせている。
どんよりと温い空気は、朝なのに肌にまとわりつくようだ。


見兼ねたのか、青島が枕にコテンと頭を乗せ、空気を動かした。


「室井さんって、寝る時ちゃんとパジャマなんですねぇ」
「・・・・普通だろ」
「今どきパジャマ率、低いと思いますけど」
「・・・・若者はスウェットなどで済ましてしまうか」
「若者って・・・。オヤジ」


吐息のように漏れたその声がちょっと掠れ、妖しく薄宵に溶けた。
布団の上で妄りに二人きりという空間が突然、性を意識したものに思えてくる。昨夜まで何度も過ごした筈の同じ部屋なのにだ。

室井の緊張を感じ取った訳ではないだろうが、青島がフッと軽い息を吐く。
見れば、揄うような瞳に、僅かな笑みが浮かんでいた。
ちょっと口を尖らせ反論する。


「大差ないだろう」
「俺まだ4つも下ですもん」
「変わりない」
「室井さんがハタチの成人式の時、俺、高校生」
「・・・・そんなか」
「ジェネレーションギャップ、ご理解いただけました?」
「言ったな」
「言いましたよ?」


口調も思考も、昨日までとは全然違う。
知らず、少し室井の目が眇められた。

「・・・何?」

青島の瞳と肌が、窓の隙間から差しこむ柔らかい朝日に浮かび、色を帯びる。

「・・・、飯にするか」
「異議なしです。・・・・・俺、すげぇお腹空いちゃった」


強請るような口調に変わる。
この巧みな使い分けが、青島の秘なる才能だと思っていた部分だ。
いつもの青島が返ってきていることを実感し、懐かしさが去来した。
同時にそれは、三年前、無残にも別れた二人の距離が、急速なリアルの偶像となってくる。
結審の時は近いのかもしれない。

その時、体温計が計測終了のアラームを鳴らす。
もぞもぞを取り出したそれを、青島の手から奪った。
37.5度。
微熱の域だが、昨日よりずっと下がっている。
食欲もあるようだし、これなら回復傾向にあると考えて良さそうだ。
心の中で室井はそっと安堵の息を吐いた。

チラリと目を上げる。
黙ったままの室井に、何か不審なものを感じたのか、青島が不安そうに見上げていた。

「・・・下がってる。でも大人しくしていた方がいい」
「・・すいません」
「何を謝る」

会話がぎこちない。
少し緊張していた胸の内を知られたくなくて、室井は深呼吸で誤魔化しながら視線を外した。


「じゃあ少し常人食に戻してみるか」
「うん・・・俺も手伝う?」
「いい。熱が下がったって、まだ本調子じゃないんだ。休んでろ」
「でも」
「君は一人で立てないだろ」
「・・・・・そうでした」
「寝てろ。適当に作ってくる」
「・・・・・すいません」


しょぼんとする青島が、室井が布団を畳むのを、物言いたげに見つめている。
その瞳が寂しそうに映るのは、気のせいだとは思わないが、理由が分からなかった。
自分はまだ、ここに居るのに。

記憶も思考も明瞭になった青島に、今の自分はどう映っているのだろう。
時を経ても何もしない自分に、何を思うのだろう。

少し躊躇い、だが、掛ける言葉も持てず、室井は口を閉ざした。
背中を向け、襖を開ける。
さぁっと流れ込んできた冷えた空気が肺に入り、身体の目覚めを促した。


「少し、換気をするぞ」
「あ、はい、どうぞ・・・」


カーテンの向こう側の窓も、少しだけ開けた。
サックスブルーの厚地の生地を揺らし、朝の生まれたての若い空気が入ってくる。
隙間から少しだけ外の様子を窺い、人通りのない道路を一瞥した後、空を見上げた。
冬の透明な空気が澄み渡っている。
確かに今日も良い天気になりそうだ。

・・・・・洗濯でもするか。
大きく息を吸い、気持ちも入れ替えて、室井は台所に向かった。




朝食をお盆に乗せてベッドまで運ぶ。

卵焼き、茹でた野菜、豆腐と玉ねぎのみそ汁。鮭を焼いてボロボロに崩したものを添え、焚きたてのご飯は雑炊にした。ほうじ茶を添える。
朝ということもあり、消化の良さそうな献立を選んでいたらこうなった。食後には胃の様子を見てバナナとヨーグルトも加えてやろう。

室井の姿に気付くと、青島は自分で両肘と腹筋で器用に起き上がってくる。
回復力に嘆息する一方、何やら一抹の寂しさも覚えた。

ベッドの上にお盆を乗せ、いつものように食べさせてやろうとベッドに乗り上げる。


「・・・・あの」
「なんだ」
「もう一人で食べれます」
「その両手じゃ無理だろう」
「平気ですもん。そんなに痛くない」
「・・・・」


起き上がるのに両手を使わず、肘で身体を支えていたくせに、そんな見え透いたことを言う。
強がりだということは分かっているから、室井は耳を貸さない。


「汁物があるから、まだ駄目だ。ほら、口開けろ」
「ぇ。あ」
「早く」
「~~っっ、マジですか」
「マジだから早くしろ」
「めちゃめちゃだなぁ・・・」


ほとほと困り果てた様子でありながら、何処か少し頬が染まった顔で、髪をくしゃくしゃと回している。
寝ぐせで一束左側が上を向いている。
じぃぃっと半眼で、室井の出方を観察するように見つめてきた。


「なんだ」
「この状況、絶対オカシイですよ」
「オカシイと判断するのは客観視点だ。ここには二人しかいない」
「何で平気なの」
「君だから、と言った筈だが」

淡々と応えてやると、逆に追い詰められてしまったらしい青島が、もどかしそうに視線を反らした。

「あ~もぉ~・・・っ、こんなの署の奴らに見せられないですよ、何て言えばいいんだ」
「言わなきゃいい」
「・・・内緒にしてくれる?」
「――、わざわざ言う機会に恵まれるとも思えない」
「・・・、二人の、秘密?」
「そうなるな」
「・・・・・」


暫し沈黙し、じぃぃと室井がたじろぐ程の視線を固定するのを、室井も少し顎を上げ眉間に皺を寄せた顔で見つめ返す。

本当かどうか、査定しているのだろうか。
上目遣いで探るような視線は、挑発的でありながら強請られているような妖しさを持つ。
室井の方が口の中が乾いてきた気がして、眉が更に寄った。


次の瞬間、青島は、ぱかっと口を開けた。

艶かしいとは対照的な、今度はまるで赤ん坊がミルクを強請るような無垢な仕草だ。
入れてくれって言っているんだろう。

「・・・・・」
「・・・・・」


少しだけ虚を突かれ、苦笑し、味噌汁の豆腐をその口に放り込んだ。
もぐもぐと、咀嚼している。

今度は卵焼きを箸で解し、一口大にして箸を向ければ、口を近づけてパクリと食べる。
もぐもぐという咀嚼音が聞こえる。

雑炊を拵える。
スプーンで掬い、、息を吹きかけて冷ます。


「味・・・どうだ?少し薄めにはしたつもりだが」
「ちょーど、いい、です」
「そうか」
「純和食、ですね」
「ステレオタイプと言いたいのか?」
「えぇ~?被害妄想ですよ」
「そう聞こえたが」
「久しぶりな食事って言ったでしょ。・・・幸せ」


語尾にハートマークが付きそうな顔で、青島がほっぺたを押さえてもぐもぐと咀嚼している。
目を細めて微笑みを湛える表情は本当に嬉しそうで、本当にそう思っていることが伝わった。
さっきまでの照れなどとうに忘れ、今は食事に夢中なのだ。


パッと感情を表すものの、それを引き摺らない。
いつでも目の前のことに集中していく。
メンタルを見た目だけ切り替える早さは、ある意味自分以上だと室井は思う。

節制された大人の嗜みだ。
そんな覇気の切れ味にすら、憧れと共に強く惹かれてもいたことを思い出す。
こうして傍で触れあえる程の距離で向き合えば、どんなに自分が青島を神聖化し、夢であり希望であったかをもう一度思い起こさせた。
純粋な憧れが、やがて胸の奥底から吹き出すような高揚に変わっていったことさえも。


どんどん、魅せられていった日々が蘇る。
どんどん、気持ちが青島で一杯になっていく。まるで三年前のあの頃のように。
それは、咽返る程の熱を持って室井を取り巻いた。


「後で料金請求して下さいね」
「料金?」
「だってこれ、室井さんの自腹でしょ?」


スプーンの上で冷ました雑炊に鮭も乗せ、口元に運んだ。
紅い舌が覗く口が吸うように飲み込んでいく。


「熱かったか?」
「はふっ、へーき・・・」
「金のことはいい。私だって食べている」
「でもヒーターも点けっぱなしだし、光熱費も来月バカ上げになってますよ多分」
「たった二三日で何を言う」
「すいませんね、安月給なもんで。・・・キャリアさまには大したことないでしょーけども」


何やらまた臍が曲がってしまったらしい。
そっぽを向いて、もぐもぐしている。

青島が気にしている気持ちは、分からないでもなかった。
確かに元々この部屋へ帰ること自体あまりない室井の私生活は、平均的な一人暮らし男性の家計よりも、かなり出費は少なめだ。
この軟禁生活が長引くほど、翌月の請求は色の付いたものとなるだろう。
だが、頼られていることが嬉しいなどという浮いた台詞など言える筈もない。

単純なだけとも言える自分の心の震えを悟られぬよう、意識して抑え、室井は卵焼きをまた一欠片放り入れる。


「うまー」
「きちんと噛めよ」
「ふぁい」

茹でた野菜を箸で掴んだ。

「金のことは・・・本当にいい。もし来月目玉が飛び出るような請求書が来たら、経費で落とさせる」
「・・!落としてくれんの!?」
「問題なく受理されると思うが」
「なにそれ!なにその差・・・!」


ぐるんと振り返り、布団を掴んでいる。

青島が気兼ねしないようにとの思いで生々しい話をしたのが、返って彼の火に油を注いでしまったらしい。
本当に悔しそうに何かを噛み締めているような青島に、キョトンとして室井は箸を止めた。


「なんだ?」
「だって・・・っ、所轄じゃ絶対そんなの自腹ですもん・・・っ。〆切り過ぎてたら必要経費も自腹ですもん・・・っ」

何この待遇の違い・・・!と、地団太を踏みそうな勢いだ。
その主張の内容を無下にも放置し、感情の明瞭さに室井は目を眇めた。


青島が元気なのが、本当に嬉しい。
すっかり回復の傾向を見せる振る舞いに、微笑ましく思う一方、同時に、懐かしい時代の再現もまた、痛みを伴い思い起こさせる。

美幌から帰京し、後は風の頼りだけとなった繋がりが、青島が元気でやっていることを伝えてはくれた。
だが、実際こうして本人の口から語られる日々のぼやきは、あの頃と何ら変わりない空気の中、同じ顔ぶれの仲間と馴染みの暮らしをしていることを、鮮明に伺 わせる。
遥か、懐かしくなってしまった遠い地だ。
辛いだけの過去を、こんな風に振り返られる日がやってくるとは、想像もしていなかった。

室井の目尻に分からない程度の笑みの皺が寄り、少し目線を伏せた。
懐かしく走馬灯を巡らせる。
何より、自分の隣で本人の口から室井に何かを語っているという状況が、室井を喜ばせる。
少なくとも、苦い過去として忘れられてはいない。


室井の笑顔をどう捉えたのか、横目で目敏く察知した青島が、ふくりと脹れて見せた。

「いいですね・・・キャリア・・・・」
「じゃあ、元を取るつもりで思う存分甘えておけ」
「!・・・ははっ、確かに」


単純に説得された青島の視線の柔らかさを直視出来ず、室井は皿に目を落とした。
卵焼きの残りを箸で摘む。


「そーいへは、むろいひゃんは」
「食べ終わってから喋る」
「・・・・・」

もしゃもしゃもしゃ。

「っく、ん、・・・室井さんは、お砂糖派なんですね」
「・・・?」
「卵焼き」
「ああ、それは・・・別にどっちでもない。塩でも作るぞ。気分だ。今朝は君に早く栄養を付けるために砂糖を加えた」
「栄養・・・」
「植物たんぱくと動物たんぱく両方を考えたらこの献立になった。後で腹と相談してヨーグルトも追加だ。乳製品も良質な動物たんぱく源だ」
「たんぱく・・・・」


不思議そうな瞳をくるりと回す青島の眼をチラリと伺い、味噌汁の豆腐を掬う。
条件反射のように開いた口に、それを放り込んだ。
椀を持ち上げれば、すぐさま薄っすら開いた下唇に、椀を宛てる。
汁をコクコクと飲む速度に合わせて椀を傾け、少し戻す。喉元が生き物のように上下した。


青島が器用なのか、それとも合わせてくれているのか。
食事は実にスムーズに進められた。

自分には食事介助の経験などなかった。
実家から離れ、一人暮らし歴も長く、その間、女が居た時期は短い。
なのにこうして食事を与える作業も、然程苦労も無く、タイミングも良く、次にどうするかがスムーズに噛み合っていく。
スプーンの角度、一回分の量。温度。
細かいことを上げれば切りがない筈だ。
だからこそ、老老介護の現実は厳しく、無理解の蓄積はストレスの温床ともなり、それを皮切りに起こる事件を何度も担当した。

なのに、二人の動作は息を合わせたように摩擦がない。

不思議だった。
自分は人の心を鋭敏に察するのは不得手だった筈なのに、青島には次にどうするかは、目を見ていれば分かってくる。
青島もまた、同じなようで、察しは早い。

この感覚は、何なのだろう。




用意した食事を青島は綺麗に平らげた。気持ち良いくらいの食べっぷりに、こちらの気分も良い。

「良く食べたな。足りなかったか?」
「丁度良い、です。胃が満ちてる・・・」
「そか、ヨーグルトと果物はもう少し後にするか?」
「それは今いる」
「分かった」


頷き、席を立つ。

バナナを輪切りにしたものに、ヨーグルトを掛けたものを作り、ガラスの器に盛った。
わざわざ手を加えたことに、青島は感動しているようだった。
それも室井の手から、全部を綺麗に平らげてくれた。

元々、健康体なのだと本人も笑う。
食事介助の必要性も減り始め、なんだか取り残されたような気分にもなった。












3.
室井も軽く朝食を済ませた頃、荒谷から顔を出す旨がケータイに入る。
5分後、玄関のチャイムがなる。

昨日、室井が新城に頼んだものが入った紙袋を手渡され、兼ねてから懸念していた、施錠の部分の手工事も行った。
鍵を新しいタイプのものに交換し、新たに三つ、アナログ式のロックを取り付けた。
こんなのは気休めに過ぎませんよと荒谷は笑ったが、室井にしてみれば、安全に関しては徹底的に貪欲でありたい。
分かっていると答えると、さもありなんという表情で荒谷も破顔した。

今日の警備の状態を報告し荒谷が帰参する。



「ようやく届いたぞ」
「何です?」
「ちょっと待ってろ」


紙袋を部屋に置き、室井は洗面所へ向かった。
湯銭用に沸かしていたヤカンを持ち、部屋へ戻る。
ベッド横の洗面器の水を捨て、加湿用の湯を作り治し、ついでに熱タオルを作る。


「ぅわ・・・っ」

ベッドの上で横になり、室井の作業をじっと見ていた青島の布団を剥ぐと、身を固くした。
驚かせてしまったようだった。
枕元に腰掛けた。


「じっとしてろ」
「なに・・・?」
「顔を拭いてやる。ついでにそろそろ髭も剃りたいだろう?」
「あ・・・」


熱タオルをポンポンと手の平で転がしながら、飄々と答える。
返事も待たず、その顔に熱タオルを押し当てた。


「ん・・・っ」

額から順番に、生え際までを丁寧に拭いていく。
突然の室井の猛攻に、青島が顎を反らし、逃れようと室井の下で顔を頑是なく振る。
一旦退けようと、両手で邪魔をしてくる。


「こら、ちょっと大人しくしてろ」
「ん・・っ、ふ、も・・・っ、あの・・・・・っ」

鼻周りから口元を押さえ付けるように濡れたタオルを滑らすと、下からくぐもった呻き声が上がる。
何やらもっと、困らせてやりたくなるような嗜虐心を煽られ、微かに苦笑する。


「ぅぅん・・っ、ぷは・・っ」
「よし、次は・・・」
「じ、自分で出来ますから・・・っ」
「いいから」
「よくな・・・っ」


不毛な会話を続けつつ、さっさと電気カミソリのスイッチを入れ、口元に押し当てる。

青島は余り体毛が濃くないらしく、院内着から垣間見える胸元などもつるつるだった。
それにしても、男だったら、もう少し無精髭が生えていても良いような時期、期間が経っている。

ウィーンというモーター音が響く中、青島は照れ臭いのか、嫌がっているのか、目を堅く閉じて、口元を引き結んでいた。
両手の抗いとも取れない動きが室井の腕を掴む。


「あまり髭は伸びない家系か?」
「ん・・っ、くぅ・・ん、、もおいい・・・」
「私も濃い方ではないがな・・・」
「・・ぁ・・、んっ、それ、も、ありますけど・・・っ」
「なんだ?」
「病室ッ移った時、美人の看護師さん、が、剃って・・・くれたから・・・」

ICUから出た日、包帯を取り変え、着替えもさせてもらい、その上で髭などの処理もして貰えたのだと言う。
記憶を掘り起こせば、あの日は生きていることに感動しすぎて注視も散漫になっていたが
警察官の端くれだ。白い部屋で妙に小ざっぱりとしていたことは覚えている。


「そうか、なら三日ぶりか・・・」
「ん・・っ、だからッ、も、いいですよ・・・ぅ」


目を瞑ったまま、仰け反るように顎を反らして逃げる。
髪がぱさっと後ろに揺れて、眉を寄せて横を向く。


首筋を白く室井に晒す姿は、何処か妙に妖艶な淫靡性を感じさせた。
同性であるという禁忌が処女性を錯覚させ、更に退廃的な雰囲気を醸し出させてくる。
身じろいだ身体が、ベッドの上で悩ましく揺れた。

知らず、視線を奪われる。


朝の空気にそぐわない対象的な感覚に
何だか申し訳なくさえなって、室井は手を止めた。

若干潤んだ瞳が、見上げてくる。

〝美人の〟とわざわざ付け加えたことからも、室井への反抗が見て取れたが、それさえも室井を煽ることにしかならない。
たどたどしいまま、強気な瞳で、呻いてくる。
暴れ過ぎて肌蹴た院内着から、包帯が覗いた。


何故だろう、その少し弱気の視線が昨夜までの距離感を思い出させ、今度はその髪に触れることが出来た。
額に掛かった前髪をそっと梳き上げる。


「綺麗になったな。さっぱりしたろ?」
「・・・っ」


先手を打つと、言葉も出ないのか、呻き声が漏れた。
その顔に、微かに目元を緩め口端を滲ませると、青島は更に絶句していた。


今度は院内着のフロントに指を掛ける。

「なななななに・・・?」
「脱げ」
「うえぇえ?」
「今度は着替えだ。身体も拭いてやろう」
「いいいッ・・・!いいいいですよ別にッッ」
「駄目だ。汗掻いたし、包帯も取り替えた方が清潔だ。シーツも変える」
「だだだったら自分っ、自分で」
「やりにくいだろ、ほら、あんまり動くと傷めるぞ」


恐らく、この顔は照れているだけだと踏んだ室井は、強引に取っ払う。
青島との深い付き合いは、昨日今日の浅いものだが、この顔は何度も見てきた。
だったらもう、ダイレクトに強引に行ってしまった方が、早い。

ベッドの上に跨り、熱タオルをもう一度作り、首筋から胸元へと滑らせる。


「ひゃあ!」
「・・・・変な声出すな」
「へ・・・!へんなってっっ、あんたがっ」
「ほら、いいから次は腕出せ」
「んもぉぉ~・・・・、あんたの勢いに付いていけるひとって、俺くらいじゃないの?」
「そうだろうな、ほら、反対」
「~~っ、はいはい」


投げやりな動作で青島が腕を差し出すのを、苦笑して手に取った。

腕を拭き終えると、一旦タオルを洗面器に戻し、軽く濯いで、また熱くする。
布団を全部剥ぎ、片足を持ち上げ手に取った。
丁寧に太股から指先までを拭いていく。
呆気に取られた青島を余所に、几帳面な性格が災いし、指の間まで拭く室井に、青島は両腕を目元で交差させた。


「俺、また熱でそう・・・・」
「それは困るな」
「だって室井さんにこんなことさせてる・・・」
「気にすることじゃない・・・、ほら、腰を上げろ・・・て、無理か。なら・・・」

覆い被さるように青島の身体に手を回し、極自然にボトムスをずらそうとすると、状況を察した青島が室井の下で暴れ出す。

「うううう嘘でしょ・・・っ」
「何がだ?」
「何する気?」
「股間も拭いておいた方がいい」
「馬鹿言わないでくださいよっ、そこまでさせられませんよっ」
「大人しくしろって」

ベッドの上、圧し掛かった態勢で不毛な押し問答が続く。

「セクハラに近いですよ・・・・っ」
「今日は洗濯日和だと言ったのは君だろ」
「言ってない~~っっ、ってか、それと何の関係がっっ、ぁ、も・・っ」


室井の手が怪しく動くのに合わせ、青島が身体を戦慄かせて身を捩る。

その様子に、また性的な色気を感じ、少しうろたえる。
喘ぐ声も、どこか少年のような幼さの中に猥雑な耽溺を連想させた。
ぱらぱらと波打つ髪が、婀娜っぽく揺れる。

見た目が綺麗な男だと、どうとでも人を魅了するものだなと、混乱した頭の片隅でどうでもよいことを思う。



埒が明かず、片手で腰を抱え、胸に抱き込む様に青島を押さえ込むと、ぷりんとした尻に引っ掛かっているボトムスを一気に下ろした。
勿論、下着など着けていないから、丸見えになる。


「やだ、・・ぁ・・・っ」

爪先からボトムスを取り払えば、こっくりした色のつやつやした艶かしい裸体が、ベッドの上に転がった。
羞恥に朱に染まり、タオルケットを掻き寄せる姿は、あまりに無垢で、申し訳ないような聖域を思わせる。
素直に、同性に感じる穢らわしさは感じなかった。


「ほら、股開け」
「ば・・っ、嘘だろ・・っ、自分でやれるよ・・っ」
「両手がそれじゃ、使い難いだろう?」
「むむむむ室井さん・・・俺で遊んでません?」
「親切で言っている」
「これくらい出来ますっ。あっち向いててくださいよぅ」
「残念だ」


余りに真っ赤になってしまったので、少しだけ手を止めてみれば、泣き出す寸前の顔で見上げてきた。


「仕事モードで剥がされるこっちに身にもなってくださいよっ」
「そうは言っても」
「へんたいオヤジッ、えっちッ」
「何を言う」
「じゃー聞きますけどねっ、これが相手すみれさんでも同じことしましたっ?」
「――・・・」


昨日まではあんなに可愛かったのに・・・。
ふと、甘えてくれない様子に室井に一抹の寂しさが駆け抜ける。勿論自分が行った強行は頭に入っていない。


「警察官に身グルミ剥がされるなんて思いませんでしたよっ」
「それは君が――・・・」
「容疑者だってプライバシーあんのに、ふつー、なんか隠してくれるもんでしょー?」
「・・・・・・悪かった・・・・・」
「大体ねぇ・・っ」


悪言を吐きながら、足癖悪く、室井を痛む足で力無くゲシゲシと蹴飛ばしている青島を見て、心の中で溜息を吐いた。
意識がはっきりしてきた青島に、口では敵わない。


〝独りにしないで〟と、眉を寄せ泣き声で縋ってきたのは、ほんの一昨日の話なのに
それさえも胸を焦がすほどに愛おしく思える一方、こうも反抗的だと、取りつく島がない。
僅か一昨日のあの慕う可愛さが懐かしい。

胸の奥に実る、絶望的なまでの残酷な願いを、確かに自覚する。
もっと頼られたいと願う。
もっと、自分がいなければ酸素も吸えないくらいだったら、幸せなのに。


このまま、こんな風にずっと一緒に居られる未来は、ないのだろうか。

傍に居てくれるだけで、こんなにも、満ち足りて、同時に、どこまでも搾取してしまいような穢れに息が詰まる。
青島の作りだす世界の眩しさに惹かれ、信念を共鳴させていた筈なのに
今は、青島そのものに惹かれ欲しがっている。

二つの相反する強烈な感情が、室井の中で鬩ぎ合っていた。


「室井さんさぁ、気付いてないようですから言いますけどねっ、あ、これ、親切で言うんですよ・・・っ」


傍に在りたいと願う祈りが、届くものではないと分かっていたし、実らせるつもりもないが
それを捨てるつもりもないことを、室井自身が一番良く知っている。
この想いと共に心中できたら、さぞかし満ちたりると錯覚できる。

それで、終わる筈だった。

それで終わりになる筈だった感情が、こんなにも愛らしく剥き出しの感情に呼応し、引き摺り出される。
脆弱な心は簡単に歪み、澱んでいく。
そうだ、青島ほど、自分は強くないのだ。
人は屈強だの潔癖だのと室井を評価するが、青島に向かう気持ちの一つも、制御出来ない。



「聞いてます?俺だってねぇ・・・!」


抵抗が覚束ないのも、弱弱しいのも、幼さを感じさせた。
その気になれば、強引にでも事を運べる拒絶だ。これが限界なのか、或いは上司だからと気を揉んでいるのか・・。
神業的な舞台を演出して見せる一方で、男としての詰めが甘い。
そのギャップが、とても魅力的にも脆くも見え、不安定さを齎し、そして室井には、薄い壁を感じさせる。

抗うその腕を、そのまま思い切り引き寄せてしまいたかった。



そんな室井の思考が、顔にも出ていたのだろうか。
話を聞いていない空気を察したらしき青島の機嫌を更に損ねたらしく、ぱふんと枕が正面に飛んできた。
それを顔面で受け止めながら、室井はこれもじゃれ合いの一つか、と結論付けた。

青島の見せる、一つ一つの表情が新鮮で、愛おしい。
魅了され囚われてしまうのは、室井だからだろうか。
それとも、他の誰でも、こんな彼を見たら、虜になってしまうのだろうか。

いずれにしても、きっと、彼は愛され慈しまれて育ってきた人間だ。
彼の稀有な運命をも加味すれば、神様に愛された少年というのは、こういうのを言うのかもしれない。


しょうがないなという顔を作り、身体を冷やさないよう、ぱふりと頭から毛布を乗せる。
ぷはっと中から顔を出し、憤慨してくる。

「・・・むぅぅ、俺で遊んでますよね?」
「心外だ。・・・ほら、タオル」
「あ・・・・・・、ハイ」





包帯と消毒液を準備するため、ほぼ馬乗りになっていた青島から降り、ついでに先程届いた紙袋を開けた。
Tシャツからスウェットなどの部屋着から、ジーンズやシャツなどの普段着まで一式入っている。
それを出して見せると、青島は驚いた顔をした。


「パンツはトランクス派でいいんだよな」
「なんでそんなことまで・・・・」
「見たから」
「・・・・・、もう、なんでもいいです・・・・」


包帯を取り払うと、まだ赤く腫れている傷痕が眼前に晒された。
傷口に処方された薬を充てていく。

まだ傷口は赤く熟れ、手術の痕が生々しい。
何度か見ているが、やはり目を背けたくなる。


銃弾は、回転を掛けて発砲することで殺傷能力を高めている。
故に被弾した弾は肉を抉るように突き進む。
この瑞々しく肌理の細かい肌に、消えない痕を残すのは必至だった。
いや、神経などを裂傷させ、一生動けなくさせられるよりずっと幸いなのだ、これでも。

そして、両手首の拘束痕。
金属の形が分かるほど、皮膚が擦り剥け、内出血を起こし、今はどす黒く腫れている。
鎖ごと、力任せに引き千切った名残りだろう。
或いは、抵抗の跡か。

何をされていたか、口に出す勇気がないのは、青島なのか室井なのか。



「勲章」
「・・ぇ?」
「言いませんでしたっけ?男の傷は勲章です。かっこいいでしょ」


そんな顔しないでと、青島の瞳が言っているので、余計に言葉に詰まった。
恐らく表情の乏しい室井でも、今はかなり酷い顔をしているのだと思う。
だが、取り繕えるだけの心の余裕はなかった。


「・・・・かっこいいものか」
「俺の戦った証ですもん。何であんたの方が辛そうなの」
「・・・・そう言って、君は笑うのか。この先も」
「もちろん」
「死に掛けたのにか」


青島は悲しく笑った。
そっと包帯を持っている室井の手を、指で辿る。
毛布だけを掛けたままの身体が、覚束なく見えた。
浮き上がっている鎖骨の形が、綺麗な羽のように左右に広がる。
それまるで、天使のように飛んでいてしまいそうに見せ掛けた。


しん・・・と部屋が鎮まり返り、先程まであれほど煩かった雀のさえずりも聞こえなくなっている。

ヒーターのモーター音が回転を上げるだけの室内が、隔離されたように停止する。
さっきまでの和やかな空気は一変し、二人の呼吸の音さえ伝わりそうな程、空気が深閑した。



しょうがないなという顔をして、青島が、一つ吐息を落とす。

「本望だ、とまでは言えないです。死ぬかもって思った時、恐かったし。でも俺、別のことも思った。後悔は浮かばなかったけど、死に方って選べないんだなっ て思いました」
「・・・・・」
「良い行いをしていたら畳の上で死ねるなんて、とんだ幻想だ」


ぽつりと話す青島の声は、痛みに満ちていながら、達観した悟りの様にも響く。
それはどこか諦観も含んでいて、世知辛さの中に哀愁を帯びさせた。
何も、言葉が返せない。

毛布を握る手がたらんと下へ落とされる。
青島が前髪の奥から室井を真っ直ぐに映した。


「死ぬんだって思った時、最期にあんたの顔が浮かんだ。逢いたいって思った」
「・・・電話、嬉しかった」


小さな掠れ声で喘ぐ様に室井が呟くと、青島は小さな笑みを零し、手を戻して毛布の中に丸く収まってしまった。

蓑虫のようでいて、何処か悲しい。
蓑虫はこうやって、独りで殻に閉じこもり、外界を遮断しているのだと知った。


「それまで生きてきた中で、もう一度逢いたいと思う人が居て、そう思える瞬間があって、そのひとに見取ってもらえたら。それって死に方が選べない人間の、 最期の救いだと思った」
「青島・・・」
「それが合った俺は、幸せ者だ。だからこの傷も、勲章なんです」


ちょっと湿っぽくなった空気を払拭するように、イヒヒ、と歯を食いしばって笑って見せた。
痛いだろうに、苦しんだろうに、そう笑える強さが、胸を圧迫するほど眩しく映る。
この上なく綺麗だと思った。


鼻の奥がツンとなるのを、根性で堪える。

「そか」
「はい。・・ね?かっこいいでしょ?」
「かっこいいな」
「へへぇ・・・。でもどうせならこの台詞、フルチンじゃないとこで言いたかったです」
「・・・・・早く着替えよう」




全ての消毒を終えてから、紙袋からトランクスとシャツを取り出す。

「パジャマもあるが、昼間はこれを着てろ」
「やっぱりパジャマなんですね・・・・。ってあれ?これ、普通のシャツですね?」
「今日はもう寝ないだろ?・・・下はスウェットがある」


室井が取り出したのは、チャコールグレイの細身のスウェットで、外出にも恥ずかしくない見栄えだった。
杢がかった絹鼠色の柔らかい開襟シャツが、若い肌によく映える。


「うん良く似合っている。私の見立て通りだ」
「ぅええ?これ室井さんの趣味?」
「ああ、店名と品物を指示出しておいた」
「まさか、わざわざ買ってきたとか言う?」
「それが何か?」


腕組みして平然と答えてやると、案の定、青島の方がたじろいだ。
少しだけ、青島の操作術を覚えてきた気がする。


「まさか君のご自宅から私宛てに荷物を送らせるわけにもいかないだろう」
「そりゃ・・・そーですけど・・・」


本当は、自分で着飾ってみたかったというのが大きい。
店名や品名を指定したのも、そのためだ。
だが、そこはあえて口には出さない。


「歯ブラシもあるから。そろそろ歯も磨きたいだろう?」
「あ~確かに。すげぇ、そこまで考え付かなかった~・・・。気が効きますねぇ」
「捜査遺留品によくあるパターンから記憶していただけだが。そう思って貰えるのなら結構だ」
「遺留品・・・・、そこは元カノとか言っとけよ・・・」
「口が達つな」
「ぇ、褒められた?」
「・・・・・」
「でもここまで用意してもらったんじゃ、申し訳ないですよ」
「・・・いいんだ、私がやりたかっただけだ」


渋々承知したような素振りだった青島が、何かにハタと気付いたようで、ぐるんと室井を振り返る。


「まさかこれも経費!?」

流石にそこの明言は避けた室井だった。








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