東京変奏曲Ⅱ
第三章
1.
素早く自宅の鍵を差し込むと、埃臭い灰色の古ぼけたコンクリの廊下に、カチャリと硬質な音がヤケに大きく響いた。
室井は緊張に汗ばむ手で鍵を引き抜き、尻ポケットに仕舞う。
全身が震慄し、焦燥が過度に喉を乾かせる。
鈍い銀色に光るドアノブに手を掛けた。
その様子を終始見ていた新城のSPを名乗る男――荒谷と名乗った――が、鋭く周囲に視線を飛ばすと、小さく頷く。
少しオークがかった片開き扉を、重々しく手前に引いた。
タクシーは六本木の官舎が立ち並ぶ界隈で停車した。
転がるように飛び出て、人目を憚り、裏手の通用口から官舎上階へと上がる。
今の時点では、自宅が一番安全だと判断したが、それだって完全な保証があるわけじゃない。
白い塊を掻き込む様に抱える荒谷を従え、真っ直ぐに自室へと案内する。
・・・・新城は、恐らくこうなることを、もう予測していたのだと確信していた。
こうなることを前提に、次の段階の対応を検討していた。
組織がこの事態を手っ取り早く収束させるために、このタイミングで青島を狙ってくることも
越権行為となったとしても、室井ならば恐らく憂慮せずに青島を護ろうとするだろうということも、それが、こちらにとっても手っ取り早い応急措置となること
も。
きっと、見透かされていた。
回りくどい男だ。素直にそう言えば良いものを。
遠まわしな挑発をして室井の古傷に触れ、感情を煽り、策励する。
確かに、3年前の事件に罪悪感を含む悔恨の情を抱いているというのも、半分は事実だったのだろう。
行き場の無い憤りを、あの場にいた誰もが一瞬にして感じ取っていた。
同じ枷を抱いてきたから、気付かれたのか。
だが、スムーズに事件の収束を図るには、この先、青島の件でいちいち手間取ってはいられない。
散り散りになった組織が次の取引まで完全に散会してしまえば、また逮捕は月単位で先になる。
取引を中断させている今の猶予を見越しての、好機到来だと睨んだか。
だったら、与えてくれたこのチャンスは、有り難く使わせて貰う。
サックスブルーのカーテンが半分閉まった薄暗い部屋に、すっかりと天上まで登った太陽が斜めに白い光を射し込んでいる。
素早く身体を滑り込ませると、荒谷も続けて倣い、ロックをし、チェーンまで掛けた所で、ようやく二人で小さな息を吐いた。
同時に承諾のアイコンタクトを送る。
今朝、室井が出ていったままで鎮まり返る部屋は、見慣れた風景なのに、まるで違う景色に見え
酷く久しぶりな気がして、ようやく安全な地に逃げ切れたのだと実感した。
「上がってくれ。ベッドは奥だ」
靴を脱ぎ、ベッドメイクをするために先に進む。
簀巻きのような白い塊を抱きかかえた荒谷も、無言で頷く。
ヒーターのスイッチを入れ、クローゼットへ向かう。
替えのシーツを取り出し、手早く整える。タオルケットと毛布も取り出した。
枕に新しいタオルを巻きつけたところで振り返ると、荒谷が白い塊を姫抱きにして、入口に立ったまま、視線を合わせる。
準備が整ったことを認め、ベッドに近付いてくる。
白い塊を、労わる様に注意深く横たえた。
「・・・・・」
そう言えば、一連の騒ぎから青島は一言も発していない。
慌てて、室井も手を出し、梱包した包装を解くようにシーツと毛布を広げると、中からぐったりとした青島が転がり出てきた。
かなりの汗に濡れ、目を瞑り、小刻みな息に喘いでいる。
くにゃりと、片方の腕がずり落ちた。
「青島!」
慌てて手の甲でヒタヒタと頬を叩く。
「青島ッ、青島ッ?!大丈夫かッ」
「・・ぅ・・・・」
意識はあるようだ。
額に手を当てる。
熱が上がっている。
汗で、着ていた院内着もしっとりと湿っており、胸元を苦しげに掻き込んでいた。
「・・・ッ」
「今朝までICUに入っていた人間です、無理もないでしょう・・・」
「ああ、点滴も途中だった・・・不味いな・・・」
「直ぐに聞いてみます」
荒谷がケータイを取り出しながら、立ち上がる。
そのまま、気を効かせて部屋も出ていく。
残された室井は、居たたまれなさを残しながら、ベッドの脇に膝まづいた。
苦しそうな荒い息遣い。
時折、唸るように耐え忍ぶ姿は弱弱しく、身体はかなり熱いのに、顔色は蒼白で、血の気が無い。
紅い口唇が渇き、胸を掻き毟るように片手で胸元を握り締めている、包帯に巻かれた指まで、痛々しい。
肌蹴て見える身体中を巻く包帯も、仄暗い部屋では青白かった。
このまま意識が消えてしまうんじゃないか。
怖くなり、室井は思わず確かめるように指先を伸ばし、汗ばんだ額に張り付く髪を梳き上げる。
「苦しいか・・・?」
うっすらと、その飴色の瞳が開いた。
言葉も出せない室井に、青島がニッと笑って見せる。
その仕草が余計に哀しく見えて、室井は強く奥歯を噛み締めた。
「・・・ッ、私にまで、気を使うことない」
「・・・?」
「辛いときは、辛いって、言っていいんだ・・・・」
手折れたその手をぎゅっと握り締める。
手首から腕にかけても包帯が巻かれていて、見える肌の方が少ない。
それでも隠せない高い体温は、今は命の鼓動を持って、確かに伝わってくる。
心配を振り切るように、室井はその手を擦りながら堅く両手で握り締めた。
身体中がボロボロのくせに、それでも心配かけまいと笑って見せる。
そういう男なのだ。
人の心の痛みを先に感じ取れる人間だ。・・・・いっそ自分のことよりも。
いつだって、いつだって。
その犠牲的な献愛が、儚く、哀しい。
「もう、無理をするな・・・・」
告げる声は、思う以上に掠れたような悲痛な声色になった。
切なさで、胸が悲鳴を上げることが、あるなんて。
青島の飴色の瞳が揺れる。
取り繕った表情が、少し、歪む。
〝あんたの方が苦しそうだよ〟
そういう労わりの声すら聞こえそうだった。
いつだって、室井を正確に見抜く青島の瞳は、言葉以上に真実を知らしめる。
多分、ここまで言っても、室井にこんな顔をさせていることの方を申し訳なく思っているんだろう。
気配がして、荒谷が戻ってくる。
「病院の方と連絡が取れました。信頼できる医師を一人、至急派遣してくれるそうです」
「そうか・・・」
「まだバイタルが安定しているとは言えないので、急な変化に少し拒絶反応が出ただけだろうとのことです。冷やしながら待っていてくれと」
「分かった」
青島の手をそっと戻し、少し温まってきた部屋を出て、タオルを数枚持ち出した。
ストックしてあるアイスノンを幾つか冷凍庫から取り出し、それから湯を沸かす。
キッチンへ荒谷が顔を出した。
「何か他に手伝えることは」
「あ~・・・、その・・・・申し訳ないのだが、買い物に行っては貰えないだろうか」
「しかし、私がお傍を離れることは・・・」
「ここは大丈夫だ。君だってこの先一晩中警護してくれるわけじゃないだろう」
「――・・」
「ここにはろくな食料がない。籠城にはならないだろうが、ある程度の備蓄が欲しい」
「・・・分かりました。リストを」
荒谷が出ていくと、室井は青島の元へと戻った。
タオルで首から鎖骨を冷やしてやる。
額にもアイスノンを入れたタオルを乗せ、ビッグサイズのアイスノンにはタオルを巻き付け、枕変わりに置いた。
「少しは冷たいだろう?」
「だい、じょぶ・・・・」
「今、汗拭いてやるから・・・・」
「・・・」
きゅ、と、室井の袖が小さく引かれる。
何だ?と視線を落とすと、青島の丸い指先が室井のスーツをちょこんと掴んでいた。
思わず目を凝視し、青島を振り仰ぐ。
「ここ・・・・いて・・・・」
「・・・っ」
「ひとり・・・ヤ、だ・・・・・」
カッと胸の奥が熱くなった。
柄にもなく、言葉を失う。
引き寄せられるように、室井は青島の上に屈みこみ、その頬に手を当てた。
「大丈夫だ・・・」
じっと、つぶらな瞳が見上げてくる。
熱のせいで少し潤んでいる瞳が、酷く美しく見え、吸い込まれるように室井は見つめ返した。
ずっと傍にいるからと、想いを込めて、両手でその手を握り締める。
もしかしたら、これが、本当の素顔なのだろうか。これが、青島の本音だろうか。
・・・・いや、病気の時は、誰でも弱気になるものだ
混乱した思考が、胸を抉り、締め付ける。
青島が頼れるのは今、自分だけで、その使命感が、皮肉にも室井にこの上ない優越感と幸福感を齎した。
冷静な自分がそんな驕りを自戒し、計算高いことを告げるが、それでも、与えられるこの清福が、都合の良い勘違いをさせる。
だけど、確かに青島が今際の際に電話してきたのは、室井なのだ。
相手が青島というだけで、こんなにも震えるほどに身体が痺れるのは何故だろう。
こんな風に、誰かに全幅の信頼で必要とされたことなど、かつてあっただろうか。
弱っているからだけではない。青島はいつだって、こうやって室井に衒いない感情を迷いなく向けてきてくれた。
その変わらぬ想いを、再認識する。
いつだって、室井を満たしてくれるのは、青島だ。
久しぶりのその感情の渦を目の当たりにし、室井は眩暈すらした。
久しぶりすぎて、肌が栗立つ。
こんなにも、認め合う人と交わし合うということは、感動することだっただろうか。
「今、医者がくる。直ぐにラクになる・・・・、私もいるから・・・」
自分にこんな声が出せたのかと思うくらい柔らかい声が出る。
青島は、そのまま安心したように、室井の手に指を掛けたまま、静かに目を閉じた。
自分だけに縋ってくれる。ただそのことが、身を蕩けさせるほどに甘く、切ない。
*:*:*:*:*:
「・・・・あと30分もすれば熱も落ち着いてくるでしょ。急に点滴を取ってしまったからショック状態に陥っちゃったんですねぇ」
「そうですか・・・」
大きく息を吐く。
大事に至らなくてホッとする。
「当面の薬を処方してきたから。これを見て。この先はここに書いてある指示通りにね」
「はい」
「銃創ですからねぇ、まだ熱は続くでしょうけど、それほど心配ないですよ。なにかあったら此処へ連絡してください」
「ありがとうございます」
医師の説明に、大きく頷いた。
来てくれたのは、病院で知り合いの主治医だと新城から紹介され、先程、術後説明を受けたばかりの医師その人だった。
金岡と名乗った恰幅の良いふくよかな中年男性は、終始朗らかな笑顔で診察してくれた。
何を聞いても、大丈夫大丈夫と、穏やかな応対で、今後の指示を出してくれる。
医師として、技術以上の力量を見せられた。
仕事中にも関わらず、時間を取り、わざわざ訪問診療を承諾してくれたのは、新城が事情が事情だけに、かなり無理を推してくれたのだろう。
点滴ラックと院内着まで持参してきてくれた金岡医師は、それでも文句を言わず色々と世話を焼いてくれた。
そのことは、室井にとって酷く有り難かった。
病院に戻る彼を、玄関まで見送るために立ちあがる。
合わせたように、ずっとカーテンの隙間から鋭い視線で外を眺めていた荒谷が、組んでいた腕を解き、こちらを向いた。
「私もこれで失礼させて頂きます」
「ああ、そうか、そうだな。世話をかけた」
「先程買い物に出た際に周辺を見回りましたが、付けられた様子も怪しい人影も特には見当たりませんでした。今も官舎周辺を窺う人影はいないようです」
「そうか」
「今後の警備については、本部の方ともう一度打ち合わせしてきます。それまでの間、何かありましたら新城警視正のケータイへ連絡を。一応私の番号もここに」
「すまない」
玄関へと向かう二人の後を、付いていく。
「それでは失礼しますよ。今晩一晩は急変するかもしれないからね、よく見ていてやってくださいね」
「はい、わざわざのご足労、感謝致します」
「いえいえ、それは良いんですよ。新城くんのお父様にはうちの病院を作る時にかなりお世話になっているからね」
そうだったのか、と、何となく思う。
「オペは成功していますから、そこからもう十日も経っているんですから、術後は安定していると見て良いですよ」
「そうですか・・・」
「あんまり気にしなくていいから。大丈夫大丈夫」
「ありがとうございます」
丁寧に40度の角度で頭を下げる堅い表情のままの室井に、ぽんぽんと、金岡医師は気安く室井の腕を叩き、景気付けた。
「戸締りを必ず。出来ればカーテンも無闇に開けない方が宜しいかと」
「ああ、了解した」
丁寧な一礼を残し、二人の男が外に出ていく。
バタンと大きな音がして扉が閉まると、ひと気のなくなった部屋がしんと鎮まり返った。
危険は回避した。
でも、本当の戦いはここからである。
室井はロックとチェーンをしてから、暫し、その扉を見つめた。
もう少し、施錠の種類を増やした方が良いかもしれない。
険しい表情を残し、室井は青島の眠る部屋へと戻っていった。
2.
「起こしたか・・・」
汗で張り付いた前髪を退かせ、ふにゃふにゃに溶けたアイスノンを交換してやっていると、青島が薄っすらと目を開けた。
高熱で朦朧としているのだろう、室井の顔を焦点の薄い瞳で、ぼんやりと見上げてくる。
ベッドの横に立てた数個の点滴パックから、規則正しい水滴が落下し、腕に繋がれていた。
加湿器代わりに置いた湯銭から、湯気が立ち上り、窓を白く曇らせている。
熱で苦しそうな青島の浅い息遣いだけが、部屋に浮かんでいた。
「まだ眠ってろ・・・」
「・・・し・・・ごと・・・?」
「私のか?それは気にしなくていい」
院内着が肌蹴け、そこから覗く鎖骨から胸元の素肌が仄かに色付き、上下する。
点滴のおかげか、数本打った注射のおかげか、顔色は大分良くなったように見える。
だが、熱がずっと下がらないので、しんどそうだ。
ぜいぜいという呼吸音が、見る者の胸をも苦しくさせる。
「折角落ち付いていたのに、あの騒ぎですっかり悪化させてしまったな・・・・、災難だったな・・・」
「・・・・」
「可哀想に・・・、辛いだろ」
「・・んん・・」
「何か・・・・・欲しいものとか、あるか」
「わか・・・な・・・・」
「点滴で水分も補給されているが・・・・何か飲むか・・・?」
額から首筋にかけて、汗を拭き取ってやりながら、幾つか質問すると、微かに青島が頷いた。
タオルを置き、サイドテーブルから、さっき金岡医師が置いていった経口保水液のペットボトルを取る。
ベッドから起き上がろうとするが、上手く力が入らないのだろう、青島がふにゃっと布団に沈んでしまう。
室井はベッドサイドに腰掛け、青島の上半身を起こすのを手伝った。
「ほら、私に凭れかかっていいから・・・・」
ペットボトルを開け、手渡してやりながら背中を支えるが、青島は遠慮して自力で起き上がろうとする。
片手を付いて、息苦しそうに呼吸を繰り返す。
渡そうとしたペットボトルも掴めないでいた。
束になった癖のある前髪がハラリとその表情までを隠す。
・・・・ああ、そうか、と気付く。
相手が上司であるというだけで、ああしていい、こうしていい、と、こちらが幾ら言った所で、青島が甘えたり踏み込んだりする訳がないのだ。
ある意味、頑固なまでに徹底した彼の礼節は、青島の美点であり欠点だ。
普段、人懐こい笑顔を見せ、簡単に懐に飛び込んでくるくせに
自身の弱味に関してはとことん誤魔化してしまう。
室井はもう、言葉で言うのを止め、そのまま肩を抱く手に力を込めた。
ぐっと抱き寄せ、自分の首元に頭を埋めさせる。
そのまま、少しだけ上向かせ、腕で包み込むようにしてやりながら、ペットボトルを青島の口元に宛がった。
驚き、戸惑ったような瞳を向ける青島を、真顔で無視をする。
促すように下唇にペットボトルの口先を当てると、青島は照れたような表情を見せ、眉を潜めた。
「ん」
「・・・っ」
促すようにペットボトルを押し付ける。
このまま飲めという合図だ。
それを察し、青島が視線を少し彷徨わせた。
ややして、開き治り一向に引かない室井に観念したのか、動く方の片手を添え、薄っすらと口唇を開いた。
チロリと上目遣いで室井の様子を窺ってくる。
肩をしっかりと抱き寄せ、身体を固定させてやりながら、保水液を口にする青島をじっと見つめた。
こくんと喉を潤すように、青島が喉を鳴らして、一口含む。
青島が変な顔をした。
「冷たいのが、飲みたいか」
「ん・・・」
硬水と異なり、あまり美味くはないだろうが、それよりも多分、冷蔵庫で冷やされてもいない生温い液体が、気持ち悪いんだろう。
もっと飲め、と、視線で威圧しながら、室井は片手でズレた布団を胸元まで引き上げてやる。
「熱が高いから、冷たいものが欲しいんだろうが・・・我慢してくれ。聞いたろ、君は十日も意識不明だったんだぞ」
「・・・・」
「いきなりキンキンに冷えたものなんか入れたら、胃袋が目を回す」
室井の言い方が可笑しかったのか、青島が僅かに顔を綻ばせた。
青ざめた顔色ながら、苦しそうに紅潮させたその頬だけが火照り、汗で艶めいている。
痛ましいが、本人が笑えることに少しホッとする。
ゆっくりと、青島が水分を口に含んでいく。
ペットボトルも自分で持てないほど、衰弱している青島が、酷く華奢に見えた。
添えられる手も手首から包帯だらけで、それも痛々しい。
医師の説明では、長時間拘束されていたのだろうということだった。
両手首が、痣になるほど金属痕が残っていて、抵抗の痕も伺える。
自由を封じられ、その間、何をされていたのか。
その先を聞くことは、室井には空恐ろしいほどの渾沌を感じた。
医師は、その他の身体的損傷はないですよと言葉を選んで伝えてくれたが。
一人で戦わせ、そして今、まだ一人戦う青島に、咽返る程の悔恨の情を抱く。その烈しい激流は、怒りに近い。
なのに、一人虚勢を張って、尚、平気な振りをするから、余計に哀しい。
こくん、と、間を置いて飲み下す音が、震動で伝わる。
室井は青島のペースに合わせ、ゆっくりとペットボトルを傾けてやった。
はぁ、と、深い深呼吸する青島が、急にカクリと力尽き、その熱い吐息が室井の首筋を掠める。
ペットボトルからだらりと手を放した青島が、目を瞑って、室井の首筋に鼻を埋めた。
ゾクリと反射的に戦慄が走る。
さわさわと肌を擽る青島の細髪。
擽る、熱い吐息。
くたりと自分に全身を預ける柔らかい躯。
汗に濡れた青島の細髪が室井の首筋から顎を擽り、微かに消毒液の匂いが漂った。
何故だか、室井の鼓動が異様な早鐘を打つ。
「もう、いいか・・・?」
こくりと小さく頷いたのが、振動で分かる。
室井は何食わぬ顔で平静を装い、壊れ物を扱うように青島の身体をもう一度ベッドに横たえた。
先程診て貰った時に一度着替えさせたが、また汗で湿ってきている院内着が、青島の骨格のラインを室井の手の平に直に伝える。
思ったより筋肉率が低く、しっかりと無駄なく鍛えてある室井の身体とは構造がまるで違った。
自分とは系統の異なる造形美は、長い手足をより美しくさせ、きゅっと引き締まった括れがより骨格の美しさを際立てさせる。
野生の雄の美しさとは違う、細めの体格が、見た目の美しさを誘うのだ。
布団を丁寧に掛け直し、ズレ落ちてしまったアイスノンを巻いたタオルを、首筋と額に宛がってやる。
ゆっくりと前髪を梳き上げた。
「苦しいか・・・・?」
「・・・・へーき・・・」
「医者がな、本当は今夜から食事も再開する予定だったと言っていた。でも体調が崩れたからオアズケだ。熱が下がったら食える。そしたら元気になれるから」
じぃっと青島が潤んだ飴色の瞳を室井へ向ける。
何の警戒も抱いてなく、ただ、縋るものを探している子供のような煌めきが、純粋に室井を映している。
ただ愛おしく思え、室井は思わす少しだけ笑みを零した。
僅かに口端が少しだけ持ちあがったその表情を、青島が珍しいものを見たような顔をした。
「ゆっくり休め。私もここにいるから」
「ここ・・・・む・・・ぃさん、ち・・・?」
「ああ、そうだが・・・どした」
その瞳が、少し痛みを乗せる。
「し・・・ごと・・・・」
「今何時だと思っているんだ?私をいつまで働かせる気だ」
「・・ぇ・・・・、じ、かん・・・・」
「もう夕方だ」
「・・・、サボらせ、ちゃい、まし・・・た?」
目を瞑り、悔しそうに羽毛に身体を沈める。
「・・・は・・ぁ・・・・、また・・・、じゃま・・・かよ・・・」
「あーおしま」
少し強めの口調で名前を呼び、両頬を掴み、おでこを突き合わせる。
―全く、どうしてこいつはこうなんだろうな。
熱と息を感じながら、少しだけ見開かれた眼を真っ直ぐに見つめた。
点滴が付けられていて、動かせない左手と、怪我で動かせない右手のお陰で、青島はただ、瞬きをする。
「今は余計なことは考えるな。何も気にせず、身体を休めろ」
「・・・・きに・・・します、よ・・・ふつーに・・・」
「私のことが、心配か」
「・・・、そう、なります・・・かね・・・?」
馬鹿だよなぁと思う。
こんなに必死に室井を気遣う青島が、愛おしかった。
こんな状態になっても、尚、室井のことだけだ。
屈託なく敬慕の情を寄せてくれる。
一途なその想いが、ただ真っ直ぐ向けられるのが、今は自分だけで、それがこの上なく誇らしくさえ思えた。
誰にともなく、ざまぁみろと言う気分になる。
このままそれを、一人占めしたくなる。
「気にしなくていい、大したことじゃない」
「でも・・・」
それでも納得がいかない様子の青島のために、言葉を変える。
「だから――これも仕事だ。おまえが気に病むことなんかないんだ」
「・・・しごと・・・」
「ああ、新城から色々言付かっている。別にサボっている訳でも、本業を放り出してきた訳でもないから」
「・・・・・」
「そんな顔するな。気にせず、どっぷり甘えてろ。それでおまえの口座にも金が入る」
青島が小さく苦笑して、目を瞑り、苦しそうに一つ、息を吐いた。
3.
青島が寝入ってしまってから、室井は軽く夕食を取り、風呂に入った。
今後のことも考え、ついでに軽く掃除もしてしまう。
溜まっていた洗濯ものは、日中終わらせていた。
買い物も、昼に荒谷に頼んだので、当分の必需品は揃っている。
ある意味、室井にとっては、溜まっていた家事を体良く始末する貴重な時間を貰えたようなもので、少し得した気分になった。
一通りの雑用を済ませ、パジャマに着替えると、青島の眠る傍へと戻った。
寝顔を覗きこめば、まずまずの顔色だ。
額に手を当て、無闇に触れてしまう。
まだ熱は高い。
隣に布団を敷き、寝床を整える。
どうせ、客人など泊まりにくることなどないと突っぱねたのを母親に押し切られたのは、上京してきた時だ。
少し懐かしく思い出す。
十年以上経て役立つ日がやってくるとは。
母親は多分、友人などではなく女性を泊めることもあるだろうという先見の気遣いだったのだろうが
この部屋に、女は勿論、男さえ呼んだことはなかった。
少ない友人関係は、細々と存在しているが、宿泊を伴うような濃密な間柄の人間はいない。
今となっては、同期の一倉とたまに深酒することくらいだが
それでも、もういい大人の男同士だ。お互いの自宅へ泊まり合うなどということはなかった。
その希薄な交友関係を不思議に思うこともない。
なのに何故あの時、自分は避難先としてあっさり自宅を候補に挙げたのだろうか。
人付き合いが然程得意ではなく、常に緊張と警戒を強いられる社会では、プライベートは唯一の聖域だ。
なのに、その場所に他人を引き込んだ。
利害は一致しているし、火急の場であった。
不都合も後悔もないが、新城にそそのかされたとは言え、その決断は少し理性的ではない気がした。
布団には入らず、掛け布団を肩から被り、室井は青島の寝顔を眺めた。
傍に居て、息遣いを感じ、体温に触れられるこの距離が、この時間が、勿体なく思えた。
ずっと隔たっていた時間を埋めるように、瞼に焼き付ける。
眺めているだけで、解答の無い、浸み入るような満足感が溢れてくる。
上掛けから少し覗く指先をそっと捉え、包帯の巻かれた手首を優しく労わるように撫ぜる。
それから、軽く指を絡ませた。
4つ年下の、同性の男の手を握る趣味なぞ、なかった筈だ。
だが、青島には触れていたいと心が欲している。
消えないように、確かめていたい。
もう二度と、逸れたくはなかった。それが、例え独り善がりの勘違いでも。
ずっと、ずっと、こうして触れていたかった。
部屋の電気を落とし、常夜灯に変えて昏くした部屋に、サイドランプを灯す。
仄かな朧の中で、室井は飽きもせず青島の寝顔を見つめていた。
*:*:*:*:*:
深夜二時を回った頃、青島の呼吸が変わった。
浅く、口先で忙しなく息を上げている。
額に触れれば、先程よりも熱く感じた。
「・・・ッ」
心臓が、鷲掴みにされた気分だった。
とうに点滴は終え、抜いてある。
解熱効果のあるものは、何もない。
火照る熱で脳から冒されそうなのだろう、呻き、悶える青島が、布団から飛び出て苦しげな息を吐いた。
胸元を掻き毟りながら、顎を反らし、頑是なく首を振っている。
どうする、どうする・・・!
室井は慌て、うろたえた。
医師免許は持っていないのだから、そのことは悔むことではないのに、室井は酷く自分を責めたい気分だった。
不甲斐ない自分に腹が立つ。
目の前で、青島が布団を掻き毟り、身動ぎが、上掛けを蹴散らした。
素人では、何もすることが出来ない。
何も役に立たない。
でも、なにか、何かしないと・・・・!
先だって、まずアイスノンを替え、額から首筋にまで、覆うように巻き付ける。
肺炎を恐れ、胸元にも氷を当てる。
熱を測れば、39度を越えていた。
金岡医師は、今晩は急変するかもしれないと言っていた。
これは、想定内の拒絶反応なのだろうか。
このまま、熱が更に上がり続ければ、命の危険に関わる。
事と次第に因っては、救急車を呼んだ方がいいだろうが、出来れば騒ぎは避けたかった。
居所を自ら教えるような事態には、したくない。
「青島・・・・、分かるか、青島・・・っ」
「ぅ・・・、は・・ぁ・・・」
意識はあるらしい。
流石に熱が高すぎて、眠りも妨げられ、意識を混濁させているのだろう。
「・・あつ・・・い・・・・」
「多分、解熱剤が切れたんだ・・・・我慢できないか」
「・・みず・・・」
「ああ、苦しいな、ちょっと待ってろ」
置いていった処方箋の袋に何かないか探ろうとして、身体を一旦外すと、青島が後ろから懇願した。
「ゃ・・・、もぉ、ひとり・・・しな・・で・・・・」
室井は頬骨を痙攣させて振り返る。
それは、小さく、震えるような、今にも泣きそうな声だった。
茹だるような熱で、心細く、怖いのは分かる。だが・・・・。
涙目になって、震えている青島の手を、しっかりと握り返した。
「ずっと居ると言ったろう・・・!大丈夫だ、こんなことで弱音を吐くな」
「・・・っ」
息を殺した青島が、力ない指先で必死に室井を放さまいと身を倒し、眉尻を下げて口唇を震わせる。
「・・っ、も・・・ぅ、ひとり・・・、しんでいく・・・の、や、なんだ、よ・・・・・」
「・・ッ」
「お、ねが・・・ぃ・・・」
室井は手を握り返しながら、奥歯を強く噛み締めた。
心臓が鷲掴みにされたようだった。
普段の彼なら呑み込む台詞が、高熱のせいで、曝け出されている。
青島は終焉の孤独を恐れ、室井を求めている。
青島が確かに必要としているのは、自分だ。
だが、限界まで傷め付けられた経験が、彼に死を恐れさせた。・・・・ここに居るのが、他の誰かでも、同じように求めただろう。
それが、心が凍てつく程、苛烈な嫉妬心を生む。
この役を、他の誰かに譲るなんて、冗談じゃない。
「馬・・・ッ鹿やろう・・・ッ」
祈るような想いを込めて、室井はその手を両手で強く引き寄せた。
絶対に離すものか。堅く心に誓う。
何より、青島がそんな風に死に怯えていた事実を突き付けられ、心が細波立った。
それを回避させれやれなかった自分の不甲斐なさに、獰猛な程、腹が立った。
―どうして肝心な時に、いつも俺はいないんだ・・・!
嗚咽を堪えて喉に力を込めれば、唸るような音が漏れた。
怯えるように握るその手が、微かに、ほんの微かに、応えるように青島の熱を帯びた指で、力無く握り返された気がした。
見れば、縋るような瞳で、青島が室井を見上げている。
「さいご・・・の、わがまま・・・・かんべん・・・して・・・」
青島は、室井が呆れ、面倒がっていると思っているらしかった。
胸が掻き毟られる。
「最後になんかさせないッ」
「こんど・・・こそ、しぬ、かな・・・」
「死なせないから・・・ッ」
「な・・・で、そんな・・・かお・・・・」
「おまえがそんなことを言うからだろうッ」
「・・・・なく?」
「泣くに決まっているッ」
「なんで・・・だよ・・・」
青島が失笑するように、横を向き、重い息を吐く。
握り締めた手はそのままに、そっと膝を乗せ、青島の上へと覆い被さった。
少しでも近付きたかった。
額を近付け、至近距離の熱で揺れるその潤んだ瞳を真っ直ぐに捉える。
「もう、離れたくない・・・」
「よく・・・いう・・・」
「俺を置いていくな・・・っ」
青島の目が、驚きに見開かれた。
思わず出た言葉だった。
だけど、勢いで言った訳じゃない。
どうしようもないほど溢れた想いが、言葉となって零れる。
「あんた・・・まってる、ひと・・・・いる、だろ・・・」
「俺には・・・っ」
「・・・、いま、だけ、で・・・いい・・・んだ・・・」
握り締めていた手を放し、両手でその頬を掴む。
額を押し当てると、鼻梁が触れ合った。
逃がさないという意志を込め、しっかりと頬を押さえ込むと、青島の透明な瞳が潤む。
「なら何故・・・俺に縋る・・・ッ、俺でいいのか・・・・ッ」
「これ、が・・・・さいご・・・・・、あんたが、いい・・・、あんたが、よかった・・・・」
「・・ッ」
いつだって、青島は室井を選んでくれるのだ。
独り善がりじゃなかった想いに、言葉も詰まる。
胸の奥が、カッと熱かった。
込み上げるものを、抑えきれない。
「ならッ、ちゃんと掴めッ、一人で先に逃げ出すんじゃない・・・っ」
涙声は怒声になる。
青島の飴色の潤んだ瞳に膜が張り、少し涙目になった顔が、くしゃくしゃに歪んだ。
絞り出すように、小さな声で口唇を震わせる。
「さ、いしょ・・・・・にげた・・くせ、に・・・」
「ああ・・・ッ」
「にげた・・の・・・・あんた・・・・じゃん・・・、いま、さら・・・」
「・・ッ、ああッ分かってる、俺が弱かった・・・おまえから逃げた。逃げたけど、身勝手でも、置いて行かれるのは嫌だ・・・」
「・・・かっ・・・・て・・・・」
自分の一人称が変わっていることなど、意識していなかった。
必死だった。
消えていこうとする青島が、切なくて、怖くて、身体が震える。
不安なのも、怯えているのも、室井の方だった。
青島と過ごした日々など、一年にも満たない。
長い刑事人生から見れば、ほんの一時のアクシデントのようなものなのに、こんなにも鮮烈な彩りが刻まれている。
共に生きると決めたあの日から、室井の心は青島と共にあった。
距離が離れたって、それは変わらなかった。
どうしてこんなにも胸を焦がすのか。
どうしてこんなにも心を占めるのか。
遠く離れた北の大地で、繰り返し考えていた。
逢う勇気が出せなかったのは、怖くなったからだ。
青島の責められるかもしれないことも、これだけ命の危険に晒してそれでも大事だと、のうのうと想う心も。
あの頃は、贖罪に心がいっぱいで、他に余裕などなかったけれど。
東京に帰京し、離れて過ごす平凡な日常が、やがてこの心を落ち着かせてくれた。
罪の十字架を抱いたまま、それとは別に、確かに根付いた彼への憧れのような熱を、広げてくれた。
距離を取ったかもしれないが、逃げたつもりはない。
この先も、青島が残したささやかな残り香を集めて生きていく。
君の声を思い出し、君の匂いを辿りながら、広い空の下、生きていく。
でもそれは、同じ空に下に君がいると知っているからだ。
共に語った、挫折も夢も、理想も未来も、みんなみんな、同じ空を見上げる君が、いるからだ。
失いかけて気付くなんて。
嫌だ。俺はまだ、おまえに何一つ、告げていない。
「行くな・・・俺にはおまえが必要なんだ」
「・・・」
「一人にするな、一人に・・・・しないでくれ・・・ッ」
頬を掴む手も、身体も心も震えた。
それは、きっと、青島にも伝わっているだろう。
悲痛な叫びは、青島に届くだろうか。
どこにいるかも知らない神様とやらに、祈りは届くだろうか。
「むちゃ・・・・いう・・・ね・・・・」
荒い息の中で、青島が零したその言葉が最後となり、青島は喉を晒して目を閉じた。
もう、応える元気もないようだった。
熱で火照った肌は汗を失い乾燥していた。仄かに色付いたまま、肌蹴た胸元は激しく上下している。
力無く投げ出されたその手を取って、室井は自分の口唇を押し当てた。
熱い体温が、生きている証を伝える。
己の不甲斐なさを噛み締め、室井はただ、青島を見降ろすことしか出来なかった。
張り裂けそうな胸の奥が、熱く渦動を巻いている。
俯き、目を閉じる。
自分が、悔しかった。
なんて自分は無力で粗放なのだろう。
青島を護れるくらい、強くなりたい。
いつも支えて貰うばっかりで、こんな時くらい、ちゃんと大切だと言える力が欲しい。
これが、熱にうなされた世迷言でも
元気になれば、綿毛のように飛んでいってしまう存在でも
もう二度と、あんな風に逃げたりすることも、青島の中の自分の存在を卑下することもしない。
こんな風に、最後に一人泣かせることもしない。
青島を悲しませることは、絶対にしない。
俺に、こいつを救う力があったら良かったのに。
ゆっくりと、顔を上げた。
目を閉じ、口を薄く開けて、羽毛に沈んでいる青島を、上からじっと見下ろす。
色素の薄い細髪がシーツに散っている。
室井の身体で電灯の影となっている顔に、睫毛が黒く光っていた。
終わるのなら、一緒が良かった。
誰の手でもなく、この手で。運命にだって、青島を渡したくは無い。
今夜、熱が上がるかもしれないが、それは風邪などの病気ではないから心配するなと医者は言ったが、それにしても高すぎる。
昨日まで無菌状態のICUに居て、急に外へ出てウイルスなどに感染した可能性は?
何か重篤な異変が起きている可能性は?
大人用に液体の解熱剤は存在しない。
処方箋の中にも、今の症状を緩和するものは、何もないだろう。
後は、青島の免疫力に頼るしかない。
ここまで体力が落ちている身体で、持つかどうか。
「なにか、口に入れてみるか・・・」
金岡医師は、本来ならば、今日から食事も再開する予定だったと言っていた。
ということは、胃や内臓は、然程問題はないということだ。
体力を付けなければ、堪え切れるものも堪え切れない。
拒絶反応を起こすか?吐き出すか?
もうここまで来たら、やるだけ、やってみるしかない。
「少し、待ってろ」
不安がる青島に室井の気配が分かるように、扉を開けたまま、キッチンへ向かう。
嘆いて、喚くだけで、大切なものを取り零すだけの無力な男でいるのは、もう嫌だ。
やれるだけのことはやっておく。
シンクに向かい、まずは液体だなと考える。
点滴をしていない以上、脱水症状が心配だ。
湯を沸かしながら、米びつを取り出す。
鍋に入れて、さっと洗うと、水を加えた。
さっき買ってきてもらったばかりの材料から、野菜などを幾つか取り出し、細かく刻んでいく。
ヤカンの湯が湧いた。
コップにはちみつを垂らし、湯を注ぐ。
生姜も入れようか迷ったが、刺激が強すぎるかもしれないと考え、今は止めた。
米と一緒に野菜を鍋に突っ込み、火にかけてから、コップを持って、一旦青島の所へ戻る。
「起きれないだろう、無理しなくていい」
先に釘を射し、ベッドに腰を乗せる。
青島の了承も得ずに、肩に手を滑り込ませ、少しだけ身体を浮かし、腕に凭れさせた。
乾いたその紅い口唇に、そっとコップを当てる。
意識はないかもしれないと思ったが、幸い、薄っすらと青島は目を開けた。
「熱いかもしれない・・・ゆっくりでいいから」
押し当てたコップに口を付ける青島を、じっと見る。
一瞬室井に視線を合わせた揺らぐ瞳は濡れていて、その仕草がより室井を大胆にさせる。
先程より自分に体重を預けさせ、胸に抱きかかえた。
身体を起こす気力も体力も失った青島は、だらんと四肢を投げ出し、くにゃりとした身体は気怠るそうに室井に委ねられる。
細い髪が室井の首筋をさわさわと擽る。
「あま・・・・」
「甘いものは弱ったときの特効薬だ」
再び青島の口唇に、コップを触れさせた。
伏せ目がちの瞼から伸びる光る睫毛がヤケに長いことを知る。
青島が苦しそうな顔を見せ、眉を切なげに寄せながら、その長い睫毛を震わせる。
呼吸にあわせて、ふわふわと擽る細い髪が、何故か酷く胸を締めつける。
口の端から、飲み零した液体が、筋を描いて滴り落ちた。
蜂蜜を含む甘いそれを、室井は指先で拭い取る。
喘ぐように、青島が上向いた。
紅い口唇が濡れている。
「頑張って飲め、体力が持たない」
「・・・ん・・・・」
無理をしているのだろう、眉を潜めて、それでも室井の指示に従い、青島が必死に喉を潤していく。
コップ一杯を飲むのに、かなりの長い時間を掛けた青島は、それでも飲みきってくれた。
ゆっくりと身体を横たえる。
それだけでも辛そうだった。
「良く頑張った。・・・気持ち悪くはないか?」
「・・・ない・・・・」
「そうか、なら、もう少し腹に何か入れてみよう」
「・・・はいら、ない・・・・かも・・・・」
「いい。でも苦しいだけじゃ嫌だろ。身体に変化を与えた方が良い」
「・・でも・・・」
「やれるだけやって、駄目だったら救急車だ」
開き直った室井は頑固だ。
少し口の端を持ち上げて頷く青島の額にアイスノンを巻き付け、再びキッチンへと戻った。
ぐつぐつと良い米の香りを発たせて、おかゆが煮えている。
軽く塩で味付けした所で、本来ならばこれで出来あがりだが、これでも今の青島にはしんどいかもしれない。
少しだけ取り分け、更に湯を足して、ドロドロにしていく。
糊状になったものをまた更に薄め、液体のような流動食にまで仕上げた。
それを持って、再び青島の元へと戻る。
熱が高すぎて眠れないのだろう、室井が戻ると、青島が直ぐに瞼を持ち上げて、不安げに室井の姿を確認する。
「おと・・・・」
「うん?」
「・・だいどころ・・・」
「ああ、」
「ほっと・・・する・・・・」
コトリと湯気の上がる椀をサイドテーブルに置き、また手を肩の下に差し入れ、勝手に抱き上げる。
もう三度目となったそれは、室井にとっては慣れた仕草となった。
「粥を作ってみた。味は・・・・・保障できないんだが、米は秋田だ」
「・・・じっか・・・」
「良く覚えてるな」
「まだ・・・・ぼけ、・・・・ませ、ん」
「そか」
今度は膝を青島の腰の下に押し込み、膝の上に抱き抱えるように乗せる。
「・・なッ、・・・ぁ・・・、あの」
「いいから」
「でも・・・・、ぁ・・・」
照れて、両手で抵抗とも言えない抗いを見せる青島を軽く制し、両腕の中に治めると、椀を取って、一口掬いあげた。
ふうふうと、何度か冷ます。
スプーンの先に舌先を付け、熱くないか確認した後、そのスプーンを青島の口元に持っていった。
途端、青島が焦って真っ赤な顔をする。
「じ、ぶん・・・で」
「いいから」
「や・・・・でも・・・・だっ・・・・て・・・・」
熱があるくせに、一丁前に照れ臭がる。
さっきまで、衒いなく室井の手から水を飲んでいたくせに。
「こら、おとなしくしろ」
「だって・・・っっ」
「青島、時間がない」
「さす、が・・・に、これ・・・は・・・っ」
「いいから。ほぼ液体だから零れる」
「~~っ、」
困ったような、焦ったような、切羽詰まった顔。
青島のこんな顔を見たのは初めてだ。
いつも勝気で挑むような艶の瞳からは、想像できない可愛さだ。
何となく、ああ、やっぱり4つも年下の男なんだなぁと思う。
何だか急に少し可笑しく思い、室井は青島を抱きかかえ直した。
これを見れただけでも、何だか得した気分だ。
少し向き合わせのような態勢にし、もういっそ彼の自由を奪ってしまう。
懐に治め、頬に回した方の手を添える。
「・・ぁ・・・」
小さく声を上げた青島の顎を持ち上げ、軽く開かせると、そのままスプーンを口の中に軽く差し込んだ。
「・・・っ」
「熱くはないか?」
「・・・・・・・・・・・ん」
無理矢理食べさせられたことに、憤慨するより照れてしまったらしい青島は、包帯の巻かれた手の甲で口元を押さえ、そっぽを向いてしまった。
その頭部に片手を添え、髪に指を指し込んで、こちらを向かせる。
驚いた瞳を頬に感じながらも、敢えて気付かぬふりをして
膝のあたりに置いた椀からもう一杯掬い、数回息を吹きかけ、舌で温度を確認する。
再び上向かせると、そのままもう一口、流し込んだ。
「・・ん・・・っ」
成すがままの赤ん坊のような青島に、支配欲と悪感情が湧くのを覚える。
されるままに口を開かされ、熱で虚ろな瞳で、咥えさせられていく姿は、室井が促した姿だ。
少しだけ吃音を漏らす青島が、妙に純朴にも婀娜っぽくも映る。
こんな姿を、誰かに見せたくない。
ましてや、失いたくない。
どうせ、力なんか入りやしないのだ。
室井は開き直って、抱きかかえた青島の顎を持ち上げ、指で口をこじ開けるように開かせて、ゆっくりと冷ました粥を勝手に流し込んでいく。
青島の紅い舌が見える。
彼の丸い指先が、最後の抵抗とばかりに、室井のパジャマの裾をを軽く掴んでいるのが分かった。
「ぅん・・・っ」
「熱くはないな?」
「ん・・・っ、・・・ぁ・・・」
「胃が痛くなったりしたら言ってくれ」
「・・っく、・・ん、へー・・き、です・・・」
「そうか・・・、食えるだけ食わせるぞ」
「・・・うま、い・・・・・・・」
つい、目を見開いて、視線を合わせる。
室井の腕に横たえた格好で、青島も室井を見ていた。
思った以上に近くにある瞳に、鼓動が高鳴り、思わす凝視してしまう。
風呂に入ったせいで降ろしたままの室井の前髪が、青島の前髪に重なり、額を擽った。
髪の奥から、青島も上目遣いで無垢に見上げていた。
その瞳はどこか不思議そうな色も帯びている。
何故か掛ける言葉もなく、ただ視線が交差した。
視線を外さず、スプーンを椀に戻せば、からんと音を立てた。
見つめ合ったまま室井は、吸い寄せられるように青島の下唇に付いている粥の名残を、人差し指で拭う。
その指先を無意識に自分の口に含んだ。
刹那、青島がカッと頬を染め、硬直する。
「?」
自分がやったことがあまりに自然で、あまりに無意識だったために、青島が何にうろたえているのか、一瞬分からなかった。
「おまえ・・・意外と初心な・・・」
「な・・・・に、いっ・・て・・・」
気怠く、羞恥もろくに表わせないくせに、目を堅く閉じて顔を反対側に逸らしている。
思いきり照れてしまったらしい。
その反応を、返って室井の方が不思議な気がしてじっと観察した。
少し上向いたせいで晒される喉から鎖骨が綺麗な造型を見せる。
消毒液の匂いと、微かな青島自身の匂い。
室井の眼前には、綺麗な首筋が晒されている。
うなじの長さに少し目を奪われながら、やはり見た目の綺麗な男だったんだなと、漠然と思う。
「私に触れられるのは嫌か?・・・まあ、そうは言っても無理な注文だが」
「いやとか、そーじゃ・・・・なく・・・って・・・っ、あの・・・っ」
「なんだ」
一拍置いて、縋るような瞳。
「なん、で・・・へーき・・・・なの・・・・」
少し考えてから、室井は首を傾げた。
「おまえだから平気なんだろうな」
絶句している青島を余所に、室井はもう一度スプーンを取り上げる。
髪を掻き混ぜるように後頭部ごと上向かせると、もう、青島から口を薄く開いた。
心の中でにんまりと笑い、粥を口に流し込む。
そうして、長い時間を掛け、結局、青島は椀一杯の粥を平らげてくれた。
ベッドにもう一度寝かし、アイスノンを新しいものに取り替える。
少しだけ、楽になったのだろうか。
呼吸が穏やかになった青島が、目を瞑って、ひとつ大きく息を吸った。
時計を見る。
午前三時。
医者に連絡するにも、非常識な時間だ。
あと三時間。
明け方まで持ってくれたら――
*:*:*:*:
カーテンの隙間から、仄かな明度の違いが見えるような気がする。
夜が明けてきた。
青島を見る。
小まめにアイスノンを取り替え、タオルを宛がい、一晩中、頭部を冷やし続けたお陰か、呼吸は落ち付いていた。
点けていたヒーターが、またモーターを回転させる。
額に手を当てれば、まだかなりの熱を感じるが、それでも緩やかな眠りに誘われている青島は、生きていた。
何にか分からない込み上げる感謝の念が溢れ、室井は鼻の奥がツンと熱くなった。
滲む視界を誤魔化すように、眉間を揉みながら、深呼吸をする。
君がいてくれるなら。
12月の日の出は遅い。
時計を見れば、もう5時を回っていた。
室井は立ち上がり、ケータイを掴んだ。
申し訳ないと思いつつも、数十回のコールを繰り返し、やがてそれに、金岡医師が応答してくれた。
事情を説明すると、出勤前に寄ってくれるとの旨を快く承諾してくれる。
『あぁそう、ちょっと高かったねぇ、大丈夫大丈夫。熱だけなら拒絶反応だから。そのまま冷やしててあげれば大丈夫』
そのうち下がるよと、穏やかで、あっけらかんとした気楽な声は、室井を足元から落ち付かせてくれた。
