東京変奏曲3season Ⅲ









第六章
3.
取調室から出てきた男と薄暗い廊下で鉢合わせる。
六十も半ばに差し掛かろうという薄汚れた初老の男性は、青島を見るなり微かに眉を顰めた。
瞬時、その様子を観察していた新城と一倉が鋭く目配せをすると、背後に控える部下に小さく頷いて見せる。
全ては計画していたことだ。
パタパタと甲高い音を反射させて二人の部下がその場を去っていった。

「――」

その背中を訝し気に見送ったその男は、もう一度青島へと視線を戻した。
隣に寄り添う室井が、壁際からさりげなく一歩前へ出る。

容疑者の両脇を塞ぐ刑事らに室井が小さく頷けば、歩くよう指示が促され、ゆっくりと担がれるように男は青島の前を通り過ぎていった。
濁ったその視線は最後まで外れない。
脂のテカる頭髪は貼り付き、薄毛の頭部の皮膚がありありと覗いていて、撚れたシャツの汚れが彼を一層老けさせていた。
浅黒いその皮膚に血色はなく、どうして、と動きそうな黒い口唇が半開きで固まった。
無言の緊張がその場を支配し、そこに無色の電灯の明かりが反射する。

「・・・」

青島もまた、口を開くことはなかった。
何も言うことはない。
――知っている男だった。
あの銃の取引現場で、とある大物政治家を送迎してきた運転手だった。
用事が済むまで外で控えるよう言いつけられ、同じく新米だからと外の見張りを頼まれていた青島と、何度か顔を合わせた。
口を聞いたことはない。
否、煙草くらいは、聞かれたかもしれない。

向こうも青島を覚えていたのだろう。
何故青島もまたここにいるのかは、判断がつかなかったかもしれないが
擦れ違うとき、明らかに目の奥に漲ったものがあった。
利用されたと思ったかもしれないし、売られたと思ったかもしれない。
でも、もう、どうもしてやれない。

目に浮かんだものを悟られたくなくて、青島は途中で視線を落とした。
愛想笑いも、憐みも、同情すら乗せられない整った顔が、白色灯の影に青島を晒していた。
真っすぐに下ろされた拳がきゅっと握られる。

ここには刑事しかいない。それもエリートと呼ばれる上流階級のキャリア集団だ。
男が何を発しなくても、その視線、その目の色、呼吸や動作などで、多くのことを察してしまえた筈だった。そういう訓練を積まれた猛者たちなのだ。
だからそれは、青島のせいではないし、あの男の不備でもない。

「組対に、連絡だけは入れとけ」

素知らぬ顔の一倉がぐんと伸びをする横で、新城が唸るように背後の細川に指示をした。
難しい顔をしたままの新城は応えることもなく、一礼をした細川の気配が消える。

「ここから何か掴めればいいんだがなぁ」

一倉が肩越しに室井と青島を振り返った。

「よう、ご苦労だったな。おまえら、メシもまだだったろ?」
「直接会わせるなんて聞いてないぞ」

青島と並んで立っていた室井が顰め面を向けて噛みつくが、一倉は肩を竦めるだけに留める。

「でも手っ取り早かったろ。・・な?」

室井を通り越した視線で一倉が青島を見遣れば、青島も今更という顔で苦笑した。
確かに呼び出されたはいいが、取調室の別室からこっそり覗き見るものだと二人は考えていた。
だが、連れてこられたのは出入り口で、そのまま本人と擦れ違うトラップを仕掛ける算段をそこで知らされた。

「ただでさえ青島は面が割れているんだ。これ以上危険な目に合ったらどうしてくれる」
「刑事は面が割れてナンボだろ」
「我々キャリアがメディアに露出するのとは違う。所轄の人間なんだ」
「縦割り社会に不満をぶちまけていたのは誰だっけ?」
「そういう話をしているわけじゃない。青島個人の問題だ」
「お~お~過保護全開だな、馬鹿親予備軍め」
「五月蠅い。一倉、事が起きてからでは――」
「こんな小煩い小姑は放っておいて、どうだ、青島、メシに行かないか」
「話を反らさないでくれ」
「何が食いたい?」
「・・・・・・・・私を差し置いて青島を誘うのは止めてくれないか」


*****


「それにしても青島、お前、最近少し大人しくなりすぎじゃないか?」

近所の料亭に四人、個室の食卓を囲うという、なんとも冗談のような光景に押されていた青島は、いきなりそう振られて思わず箸を止めた。
一倉がもっと飲めと言わんばかりに瓶ビールを片手に手向けてくる。
慌ててグラスを持ち上げれば、なみなみと零れそうになり、泡は溢れ、青島は咄嗟に口を運んだ。

「急に、なんです?」

注ぎ返すために一倉の手から茶色の瓶を受け取り、今度は一倉、新城の順に青島がグラスに注ぎ返していく。
営業時代、こうして各取引先との接待を重ねていたため、青島の手付きはぎこちなさがなく、仕草も技術も手慣れている。
それを感心したように一瞥した一倉は事の成り行きを愉しんだ。

グラスをテーブルに置いたまま、グラス底面に当たるように勢いよくビールをグラスの半分まで注ぎ
上部の粗い泡が消えた頃、今度はグラスの九分目までゆっくりとビールを注ぐ。
粗い泡が消えたら三度目もゆっくりと注ぎ、綺麗な注ぎ様は、グラスの縁から泡が盛り上がるように止まった。

「大人しくしてほしいんでしょ?」
「ブキミなんだよ」

完成したビールを感心したように恭しく目線まで持ち上げる一倉に、青島が悪戯な瞳で挑発する。
それすら心得たように一倉はビールを煽り、口唇を泡で濡らした。
悪巧みを始めそうな二人に、新城も目線で礼を言ってグラスを口に運ぶ。

「そうしてくれないとこちらが困るんですよ一倉さん」
「でも面白くないだろ。暴れてこそ青島だろ」
「貴方はそれで慌てふためく室井さんが見たいだけでしょう」

隣に座って渋る新城の忠告も、一倉の耳には右から入って左へ抜ける。
あんな事件が起きて、こうしてこの四人が揃うのは初めてだった。
個室の奥座敷。
一倉と新城が並び、手前に室井と青島が据わる。
潜入捜査の段階では、青島の視点はまだ湾岸署に立った特捜の事件であり、極秘捜査にまで進展する事態になるとは
考えもしてない。

「そうそう、聞いたか?こいつら新婚を通り越して、熟年夫婦が直面したような課題にぶちあたってるんだぞ」
「は?」
「長年の勤労生活が祟ってセックスレスとなった妻に、今更どう触れて良いか分からない日本サラリーマンだ」
「何をおっしゃっているのですか、この方は」

「・・放っておけ」

ぼそっと室井が一言低い声で応じる横で、青島がグッと食べ物を喉に詰まらせ顔を赤らめる。
冷静さを貫ける室井の横で、表情豊かな青島があからさまに見せる動揺に、一倉と新城の目が注がれた。
この二人は本当に対照的だ。
並べるとその差がこうも歴然となる。
なのに、目を合わせれば途端周りを超越するほどの共鳴を見せてくるのだから、不思議だ。

「ん!あっ、そういえば!その節は色々とご尽力、ありがとうございました・・ご迷惑おかけしました」

ぺこっと、殊勝に頭を下げる青島に三人が固まった。

「上も騙しちゃいましたね・・」

へへと、邪気なく付け足す青島の情けない声にも、屈託のない無防備さが透けていた。
計算も何もなく、本当に素直に感謝しているのだろう。
新城もまいったなという顔でグラスを置いた。

「なんだ急に。お前に下手に出られると確かに調子狂う」
「だろう?」

どこか照れを滲ませ一倉と新城が顔を見合わせる前で、青島はもう一度頭を下げた。

「こういうのは一度言っとかないとと思って。本部投げ出されたら俺、戻ってこれなかったですもん」
「最初の潜入はこちらの落ち度でもある」
「火事の突入なんて令状なしって聞きましたよ」
「令状がないからこそ、火事は実に好都合だった」
「あ、そういう理屈?」

上目遣いで青島が新城を探る。
火事が起きたからこそ、無条件で突入し、あちこち探し回る口実を得た。
つまり、それだけ、桶永には警察本部――キャリアにも積ませなかったということになる。

「結局、あのオジサンのこと、どこまで分かっていたんです?」
「今まだ多くの調べは付いていないのが現状だ。ただ、組対の立場を利用して金を巻き上げ海外に売りさばいていた過去が出ている」
「拳銃の?」
「行方をくらますことが出来たのも、恐らくその海外ルートに勝算があるんだろう」
「ロシア?」
「そう思うのは何故だ?」

青島が俯き、その瞳に琥珀色のビールが映り込む。
不意に不安定で物憂げな顔を見せた青島に、三人の視線が集まった。
ぼんやりとした目は、あの脱走の夜を蘇らせる。

「勘ですけど。ただ、最初の潜入の時、ロシア船の入港に合わせて脱走したんです俺」
「ああ、そうだったな」
「気付いてたの?」
「消息が不明だった。次にお前が連絡を取ってくるであろうタイミングを、こちらでも幾つか考えるのは当然だ」
「そっか」

新城と青島の会話を黙って聞いていた室井が、不意に口を挟む。

「組対にいたという経歴はどこから出せた?確かあの倉庫には彼の記録簿、経歴は抹消されていたろう?」
「あの後、少々私も取引をしましてね。貴方を見習って」
「・・・何をした」
「桶永の過去を洗ってもらいました」
「誰に、とは聞かない方がいいんだろうな」

ニヤリと新城が口端を持ち上げるのに対し、室井も敬意を込めて真っすぐな眼差しで応える。

「レベル4以上でないと開けないファイルに。かなりの上役が関わっている証明にもなりましたよ」
「そうか」

そんな新城と室井の会話を交互に顔色をうかがいながら聞いていた青島は、いたたまれずに室井のスーツを掴む。

「ねぇ、あんたら何しちゃってんの?」
「心配か?」
「越権行為ってことだよね?」
「いいんだ。そうやって皆身体を張っている。別におまえのためじゃない。仕事のプライドの問題だ」

冷ややかな顔で澱みなく制する室井に、新城も酒を運びながら首肯する。

「これがキャリアの戦い方だ。ノンキャリには少し難しかったか」

揶揄われ、ムッとするも、とりあえず青島に気を使わせない意味もあるのだろうと理解する。
口を挟めなくなって、青島は不貞腐れた顔でビールを流し込んだ。
その流れで、目の前の一倉と目が合う。

「キャリアの戦いでリードを取られたんだ。どこまで身を切ってみせるかも勝負の内だ。負け戦にするわけにはいかない」
「ちょっと気になっただけじゃん、それに――・・」

一倉がニヤニヤと顎を上げる視線に堪え切れなくなった青島がぷくっと頬を膨らませた。

「俺だってね、潜入捜査が大冒険になって、色々タイヘンで、青臭いことばかり言ってらんなくなってんですよ。なーんか周りも変わっていくし」
「やーっぱり、ちょーっと大人しくなっちまったなァ、お前」
「色々と裏目に出ている気もするんで。出方が分からなくなったっていうか」
「室井と同棲する羽目にもなってるしな」
「同居って言ってくださいよっ」

青島がちらりと室井を盗み見る。
合わせるように一倉の目が、今度は隣の室井に移った。

「で?」
「・・・何だ」
「その後の進展だよ」

身を乗り出すように頬杖を付いて交互に室井と青島を見遣る一倉に、またチラッと一度だけ室井を盗み見た青島が、再び視線を膝の上に落とす。
室井もまたビールを含むと食事の続きを始める。
手に持ったままのグラスを飲むことも戻すことも忘れる青島に、いつもの営業トークももうその口は口遊まない。
ニヤニヤと口端を楽し気に持ち上げる一倉の目尻は緩み、二人の反応の違いを楽しんでいることが誰の目にも見て取れた。

「ほーお、仲良くやってるわけだ」
「何かあったとして、ここで言うと思うのか?ついでに、それを一々お前に報告すると思うか?」

際どい話題だと分かっていて室井に問いかけていることを、室井もまた承知の上である。
つまり、一倉はさっきからこれを聞き出したかったわけか。
新城の前で青島との関係を匂わせる無粋な真似も、ようやく雪解けを迎えつつある青島との関係の途中での水差しも、今は全部避けたい室井は
乗ったら負けだと言わんばかりに、鯛の澄まし汁を飲み干し、優雅に布巾で口元を拭った。

「へぇ?随分強気に出るじゃないか室井?」
「お前の言っていることなんか、今更誰も本気にしない」
「そうか?」

室井がグラスを手に取れば、ようやく我に返った様子で、青島も一口、ビールを口に含む。
窺うように室井を横目で探るその視線は定まらず、青島の居たたまれない様子は一目瞭然だった。
室井と青島の微妙な温度差を愛玩し、一倉が興味深げに問いかけた。

「室井如きの駆け引きなんか、今どき高校生にも通じないぞ」
「お前、俺たちの痴話喧嘩が見たいだけだろう」
「俺はまだ脱走騒ぎの時、蚊帳の外だったことを後悔してるんだ」
「・・・見世物じゃない・・・」
「じゃあ、青島に聞くぞ?」

急に話を振られた青島は、挙動不審に一倉を見るが、一倉の視線は室井を見たままで、つまりは室井を揶揄いたいだけだと知る。
呆れた横目で一倉を見た。

「うん、なんか、俺のコードネーム、誰が付けたか今分かったわ」

その言葉に新城が口元を押さえている。
室井もそっぽを向いた。

「ぴったりだろう?」
「どういう目してんの?ま、そのお陰でヒントももらいましたけど」
「うん?」
「桶永がその合言葉を知るわけないって思ったから、この間、先手取れました」
「ああ成程、そこから突いたか。お前、意外と頭の回転早いな」
「九死に一生を得ていると、誰でもそうなります」
「ついでに吊り橋効果もあっただろ?」

オヤジ発言に、青島がいーだをして見せる。

「はっは!腰抜けな男にもう愛想尽きたか」
「あのね!」

反論のその口を開きかけた時、合わせたようにここまで黙っていた新城もグラスを置き、会話に口を挟む。

「そこまで計算高い男であったなら、そもそもこんな事態を招いていないでしょうよ一倉さん」
「この事態?事件のことか?」
「追う傍から後手に回って警察のプライドが粉々になった挙句、手柄を今また、組対に横取りされた我々の末路についてですよ」
「手厳しいな新城」
「納得していないので」

新城は仕事で失態を犯したことがない。
組織と派閥に護られ安泰だった。
故にこのような手柄の横取りは、初めて味わう屈辱である。

「詰めが甘い。だから舐められる。出世したいなら寡黙を美徳と思わない方がいい」

助け船のようでいてフォローになっていない新城の発言に、室井が微妙な顔になる。
眉間が寄せられたその顔に、一度だけ視線を流した新城は、特に何らかの感情を乗せることもなかった。
その様子を、グラスを口につけたまま、青島が甘んじて眺める。

「無駄なことは口にしないだけだ。別に無口なわけではない」

室井がグラスを置く。
新城が言ったことは室井への嫌味に他ならない。

「出し抜かれたのは、まあ、事実だな・・」
「そういうところですよ。枯れてますね」
「舐められたのは君も同じだろう」
「センスのなさを指摘したまでですが」
「なにについてだ?」

仕事の進め方か、惚れる相手の好みか。
新城が、分かっているでしょう?とばかりに口端を持ち上げ視線を反らしている。

「大きなお世話だ。だが、結果的に後手に回ったこと以外は、桶永にも有利には動いていない」
「満足ですか?」
「満足だと思うか?」

何だか仲いいなぁこの二人。

「私は倍返ししますよ」
「こっちもだ」

前からこんなだったっけ?
この二人が一緒のとこを、あまり見たことがない。
いつになく会話が飛ぶ二人の様子に感じるのは、やはり自分とは違う世界で戦う人間同士という一体感だ。

「組対に持っていかれたということも計算のうちかもしれないぞ。また揉み消すための」
「そこまで私が推理してないとでもお思いですか」

正面から向き合い、誰に向かって宣戦布告しているのか、新城と室井の会話を一倉と青島は顔を見合わせて肩を竦め合った。










4.
チェックは一倉がするというので、新城は手洗い場に行き、そして戻ってくると、室井が電話中だった。
青島の姿はない。
慌てて外に出た新城の目に飛び込んできたのは、煙草を吸っている青島の姿だった。

新城に気付き、親し気な目で小さく笑んでくる。
その警戒心のない姿に、ドキリとさせられる。

店のほんのりとした灯りに浮かびあがる長い肢体が金色にラインを描き、童顔ではあるが小さな顔は整い、美麗に伸びていた。
腫れぼったい肉厚の口唇と、対称的に幼いくりくりとした栗色の瞳が、男の目を虜にする。
よく見かけていたモスグリーンのコートはなく、ラインを引き立てるようなスーツ。
実に硬派な印象を齎し、だが、人懐こい笑みが、成程、悪魔的な誘惑を放っている。
つくづく、イラっとさせる男だ。

「勝手に一人になるなと言われているだろう」
「たばこ」
「ったく」

文句を言いつつ、新城も青島の隣に立ち、後の二人を待つ。
春も浅いこの時期は、日が暮れるとまだ風は冷たい。

「あ。新城さんも。出世おめでとうゴザイマス」
「それがどういう意味を持つかも、分かっているんだろう?」
「先手打たれたわけ」
「口止めだ」
「不満なの?」
「警戒されるのは、それだけ恐れられているということだ」

そうこなくちゃと青島が朗らかに息を洩らす。
幼稚な正義感を押し付けてくるだけの浅い男かと思ったら、こんな風に悪意も厭わない。
あの潔癖な室井が欲しくなるのも当然だ。

「結局、最後に勝つのは権力だ」
「新城さんのそーゆうとこ、実はきらいじゃないです」

青島が優雅に顎を上げて横目で勝ち気な笑みを向けてくる。
加えてこの容姿。
傍にいた桶永が魔が差したのも理解できた。
魔が差した――それだけで治めて置けば良かったものを。

「何故、室井さんに応えない」
「どこまで筒抜けなのこの話」
「貴様が応えない理由は、室井さんの身分か」
「同性同士ってとこは考慮されないの」
「・・・、室井さんとキスをした」
「ぇ?」

青島が驚いたようでいて返答に困ったような顔を新城に向けてきた。
軽い口車が止まる。
あからさまな動揺を見せない所もさすがだが、今その聡明な頭では言葉の意味を必死に探っていることだろう。
だから新城は敢えてその脳内処理を止めてやる。

「お前が失踪した間のことだ。傍にいると私が懇願した」
「それって・・」
「お前が突然いなくなったことで、室井さんは酷く落ち込んでいた。心の安定も失い壊れそうなほどお前を信じていいか自問していた」
「・・・」
「あんな室井さんをみたのは、初めてだった・・。見ていられなかった」

新城の言葉を、青島は黙って聞いていた。
これは懺悔なのだろうか。
それとも挑発なんだろうか。

何を見るともなく漠然とした視線を前に投げ、新城は抑揚もなく激情もなく、淡々と事実だけを口にする。

「室井さんは私の告白に応えてくれた。私といることを選んだ。わかるか、本音がどうかという話ではない。現実を見ているんだ」
「それで・・キスしたの・・」
「手違いで触れてしまったという類でもない。遊びでもない。口腔まで貪るような、激しいやつだ。勿論一方的ではない」
「――!」
「お互いが、相手を搾取するような、そういうキスだ」
「新城さんは、」
「答える義理はない。だが男なんてそんなものだと忠告しておく」

あの切ないほどの夜を、そう簡単に忘れることは出来ない。
あの狂おしいほどの夜に、崩れそうな身体を支え合った罪は消せない。
横取りした熱に、零れ落ちていく切なさが疼く。
泣きたいほどの想いを胸に、息詰まる熱に委ねて、救いを探した。

「それを俺に聞かせて、どうしたいの」

青島は怒りも恨みもしていないようだった。
恐らくこちらが仕掛けた狙いにも薄々気付いている。
やはり、この男は勘が良く、相手の気持ちを瞬時に汲み取れる。
桶永が欲するのも、室井が欲するのも、つまりはそういう所に惹かれ、焦がれるのだ。

「もう一度聞く。何故、室井さんに応えない。応えない理由は、室井さんの身分か。それとも――」

刹那、少しだけ空気に亀裂が入ったことを新城の肌は感じ取った。
それを確信とし、新城は敢えて言葉にする。

「それとも、桶永にされたことが、原因か」

荘厳な気配を持つ言葉は、夜の帳にしっとりと落ちた。
受け取る者もなく、静謐な沈黙が周囲を包んでいく。

はっきりと口にしたら、青島は視線を落としてしまった。
泣いているようにも見えて、新城は困ったように慌てふためく。

「馬鹿野郎。私がイジメているみたいじゃないか」
「じゃなくって・・!新城さんの優しさに感動してるんですよっ」

それでも少しだけ瞳が潤んでいる気がするのは、夜の灯のせいだろうか。
だが今は強がる青島の想いに付き合ってやる。

「能天気だな。・・あの人は、お前ごときが触れて良い人じゃない、とでも言って欲しいのか」
「孤独が温もりを知れたならね、間違いじゃなかったんですよ」
「!」

嗚呼、一体コイツはどれだけの悪夢を見てきたのだろう。
見て、尚、耐えるしかなくて、ここにいるのだろう。
たった一人で、どれだけの恐怖と戦ってきたのだろう。
それでいて何故、あの日の我々のように澱み腐敗し朽ちていくことがないのだろう。
青島に振りかかった、新城には想像もつかない現実を、ただ一人抱えようとしている男に、新城は無意識に手を伸ばす。
不覚にもこちらの喉が熱い。

「頑張ったな」
「・・・」

そう、コイツは計算高くなんかない。
策士で特に劇場型の演出を仕掛けても、人に忖度が出来ない。底抜けにお人よしなのだ。

「そ・・かな」

一倉の言う通り室井は新城を選んできた。そんなものは欲しくなかった。新城が欲しい室井はそんな腑抜けではない。

「ったく、室井さんは何をしているんだろうな。いっそ振ってしまえ」
「はは」
「イイ男二人に愛想を尽かされたと凹めばいい」

罪を知って尚、純潔に倣う彼に、新城は胸が張り裂けそうだった。
二人でいても崩れた、縋るものもなかったあの夜に寄り添う言葉をくれる青島に、新城はあの夜の絶望と禁忌を思い出す。
それでも、誰にも知られなかったあの夜を救ってくれた気がして、ただこの存在に感謝した。

「赤の他人が純粋に傍に居たいという思いだけで行動し、相手もそれを願い、一緒に居られるというのは、一番の幸せなんじゃないか」
「新城さんも?」
「今はまだそれを思い出と呼びたくないだろ」
「・・うん・・」

それにしても室井は本当に何やっているのだ。
かなり強気に意地でも連れ込むなどと息巻いていたのに。
まさか縁談話の方でなにかあったか?

「あれだけお膳立てしてやったのに、まだヤってないとか、奥手にも程があるな」
「新城さんでもそういうこと言うんだ」
「好きなんだろう?」

青島が仄かに笑んで下を向く。

「あれは・・・多分、好きになっちゃ駄目なひと、かな」
「めんどくさいな」
「だからなんか上手く飛び込めないんですよ・・色々考えすぎちゃう、から」

青島の中にある、未熟で儚い淡い気持ちが見えた気がして、新城はその髪をくしゃくしゃと混ぜた。
何すんのと睨む顔に、告げられる言葉は何も持たなかった。








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