東京変奏曲3season Ⅲ
第六章
1.
二週間が経った。
室井は早足に官舎の正面門をくぐり抜ける。鬱蒼とした茂みを垂らす大樹の下を曲がれば、歩くスピードに合わせ紙袋がガシャガシャと摩擦音を上げた。
ひとたび握り直し、エレベーターボタンを拳で押す。
辺りはとっぷりと暮れている。
時折告げる春雷がこの時期にしては湿度の高い大気で室井の肌を撫で上げた。
桜はすっかりと若葉へと移ろい、桜前線は北海道まで到達したとの便りをニュースが告げている。
濃紺の夜空を塗りつぶす雲の向こう側に、鉤爪のような月が覗いているのが見えた。
自室前に着くと、室井はひとつ、大きく息を吸った。
呼び鈴を鳴らして待つ深い深呼吸の動作の中で、トタトタと裸足の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「おっかえんなっさーいっ」
「警戒して開けろと常々」
「俺のこの研ぎ澄まされた第六感がね、室井さんだぁって言ってたんですよ」
「ただのヤマ勘だろ」
「帰るコールしたの誰」
「今日は早かったんだな」
「そーでもないですよ。三十分くらい前ですかね」
室井は目を細めて自分の黒鞄を受け取る青島を見上げた。
こうして、先に帰った者が出迎えるのは、最近の日課だ。
別名・独身寮でもあるこの荒蕪の官舎で、夜を憚って二人で暮らす生活は、室井の錆び付いた中年時代に蜜やかな潤いを与えていた。
それが仕事絡みであろうと、そんなのは室井にとっては些細なことだ。
今日は外回りにでも出させてもらえたのか、青島の汗ばんだ前髪が束となって所々で跳ねているのを愛らしく思いながら、室井は軽く目を走らせる。
物柔らかい笑みを湛え、出迎えてくれた青島の器量の良い容貌は、帰宅直後という言葉通り、まだスーツ姿でネクタイだけが解かれていた。
両腕は腕まくりされている。
「何してたんだ?」
「風呂。磨いてました」
「ありがとう。直ぐに夕食の支度をする」
「べっつに、一人で食べてても良かったんですけどね~」
こんな憎まれ口だって、もう慣れて、それさえも些細なことだ。
「身体に痛みとか・・、火傷の痕とか、痛むところは出てないか?」
「もうだいぶ慣れましたしね。気温も上がってきたし、ぜーんぜん。絶好調ですよ~」
「そっか」
「そういうあんたは、いちんちデスクワークですか」
そもそも、つっけんどんに室井を邪険にしてこそ青島だと思っているのだから、相当な物好きというか始末におえないと室井だって思う。
むしろもっと憎まれ口で罵って欲しい。
「何持ってんですか」
不意に、青島が室井が下げている紙袋に気付き、目線を下げた。
両手で室井の黒鞄をぎゅっと抱きかかえるように持った態勢で、不思議そうに覗き込んでくる。
「知りたいか」
「何もったいぶってんすか」
「君には絶対当てられない」
「へー、ふーん、そう」
青島の表情ががらりと変わった。
それまでの他人行儀で素っ気ない社交モードから一転、室井しか知らない素の内実と、無邪気な人懐っこさが融合する。
悔しそうでいて、室井に仕掛けられた罠に自ら飛び込む無鉄砲さと、室井に構って貰えて嬉しいという口では絶対言わない本音が透けていて
室井はそこに籠絡しきれない血気盛んな悍馬を見る。
勿論自分が気難しく偏屈であることは棚に上げたままだ。
渡された靴箆で革靴を脱ぐと、室井は座り込んできちんと揃え直した。
ついでに、青島の散らかした黒のブーツタイプのスニーカーも隣へ並べ直す。
「当てたいか?」
「じゃあねぇ、明日のおやつ?」
「はずれだ」
スタスタと先に行く室井の後を、青島も跳ねながら追ってくる。
「わかった、俺の雑誌!今度はセンスいいやつ」
「悪かったな。でもはずれだな」
「えー?まあ科学雑誌はそこそこキョーミ深かったですけど」
「いい勉強になっただろ」
「所々ムズカシすぎて、あれじゃ応酬した未修正雑誌読んでたほうがまし」
「君には百年早かったか」
何気ないクイズの応酬だ。
だがそれでも、こんな会話を青島と出来るということが室井には貴重であり不思議であり、それでいて擽ったい。
「えぇ~?なんだろ、その大きさだと長方形?・・・まさかまた服とか靴とか買ってきた?」
「またとはなんだ。でもそうだな、そろそろ夏用を新調しよう。だがはずれだ」
「室井さんの趣味って意外なとこつくからな~。オモシロイけど」
「楽しめたんならいいじゃないか」
「ある意味ね」
着替えをするために隣の部屋へと入ると、青島もそこまで付いてきた。
必死に首を捻っていて、彼がこの謎解きに関心を持ったことを伺わせる。
「この部屋、男の娯楽ってもんが足んないんだって」
「トランプもオセロも花札もある」
「すげー昭和臭って、わかってます?」
「ヨシ、後でオセロをやろう。敗かしてやる」
「付き合いますけどぉ、室井さん、手加減ないから」
「じゃあどんなものがいいか具体的に言ってみろ」
スーツを脱ぐ室井の後ろで、青島は黒鞄を所定の位置に置き、ハンガーを取り今度は室井のスーツを受け取ってくれる。
誘導に任せてジャケットやベストを室井が預けると、まだ考え込んでいる青島が眉を歪めていた。
人差し指を顎に当て、必死に頭脳を回転させているようだ。
そんな無防備な顔を見せてくれるのも悪くなく、室井はさりげなく視線を反らした。
こうして何気ない会話を重ねることも、同居を再開した頃とは格段に違い、お互いに再び慣れ始めているのが伝わり
意見が噛み合わないことだって、賛同を得られない討論や理解しがたい価値観すら、室井を喜ばせ同時に安心させた。
先日、苦肉の策で購入してきた雑誌の件で揉めたのも、良い思い出である。
――そう、そんなのは些細なことなのだ。
「ぜぇってー当ててやる・・!じゃあねぇ、ヒント」
「当ててやると言い切って、その発言か」
「全く何もないとこからの推理はフェアじゃない」
「・・・いいだろう、ヒントは夕食だ」
「ぇ、なに、メシ?!そうだ俺、腹減ったぁ・・っ」
そうだったよ!と突如大きく叫び、青島は室井のジャケットを整えると所定の位置に仕舞い込んだ。
室井がスラックスまで脱ぎ捨てるのを見計らい、今度はそちらを差し出せというように手を出してくる。
ワンテンポ遅れ、室井が厚意に甘えると、そんなのは無視して青島のおしゃべりが始まった。
「今日さぁ、昼食い損ねたんですよ・・!課長に呼び出されちゃって・・!」
「通報でもあったか?」
「だったらまだマシなんですってっ、大体俺を呼び出すときって大抵厄介ごとを押し付けようと企んでんだから・・っ」
「どうせまたそれにハマるんだろ」
「そうなんだよなー。なんででしょうねー?」
室井が聞き出すまでもなく、青島はその日に合ったことを毎日面白おかしく言葉巧みに話してくれた。
百面相のごとく色鮮やかに表情を変え、身振り手振りで話してくれる青島の一日の物語は、実際テレビを見ているより豪華に高鳴り
我を忘れさせてくれるひとときだ。
体裁をつくろい、世間と出世に気ばかり使って日々を送る生活だった。
孤独さえ定めだと言うのなら、震える身体を掻き毟ってもがき続けようと決めた。
ありのままの自分に還って笑ったりムキになったりできる唯一の仲間はありがたかった。
話が長くなることを察した室井は、それは夕食の時に聞こうと思い、振り返る。
「じゃあ早く夕飯にしたいな?」
「賛成っ!」
自宅用の細身のパンツに、ラフなシャツを羽織ると、室井は紙袋を持ってキッチンへと向かう。
そのすぐ後を青島もまたトテトテと付いてくる。
まだ意識が離れないらしい。
視線が提げている紙袋に集中しているのは感じ取れ、室井は見えないように小さな含み笑いをした。
「もしかしてそれ、・・・高級賄賂とか・・?」
「真剣な顔をして何を言いだすんだ」
「ぇ、キャリアって色々貰ってんのかなとか」
「今そこで買ってきたものだ」
「駅前の?」
「そうだ」
何を想像しているんだと眉間を寄せれば、悪戯な瞳が照れくさそうに和らいだ。
音もなく近寄り、誰もいやしないのに、青島が室井の耳にこっそりと囁く。
「名品とか饅頭とか、キタイしちゃいました・・っ」
よく知っている青島の香りがふわりと空気を漂う。
噎せ返るような芳しさの中で、馬鹿を言うなとジロリと睨み上げれば、室井の目の前には無造作にはだけたシャツからほんのりと色付く肌が視界に広がった。
「饅頭?」
「――の、下に忍ばせる札束」
「ドラマの見過ぎだ」
「えぇえ~・・・だってあんただって昨日一緒に見たでしょ」
さらりと室井の剣呑な視線を交わし、青島はすっと離れていく。
まるで大気の温度さえ低くなったようで、取り残された室井は深い溜息を吐いた。
二人で並んでキッチンに立つ。
室井の指示で危なっかしい手つきの青島も、手伝えることが嬉しいようで色々と手を出してくる。
そうして作り上げていく作業もまた、室井としては楽しい。
そんな些細な事が室井をひどく幸せにもしている事を、青島は知っているのだろうか?
「それはこっちだ」
「ああ、サラダにすんのね」
青島との共同生活は、色恋を抜きにしても順調だと感じられた。
共働きでの擦れ違いなどは杞憂に終わり、少なくともウマが合う相手とはこういうものなのかと室井を驚愕させた。
大雑把で朗らかな青島と、神経質で頑固な室井の、奇妙な波長の共鳴は今も確かにそこにあると信じられ、途切れぬ会話や同じ動作から
シンパシーを確かに覚えていた。
だからこそ、室井は困っていることがあった。
「この魚、どうすればいい?」
「ああ、軽く小麦粉を付けて焼くかな」
「えぇぇ~、もったいないっ、塩焼きで充分じゃん」
「今日は味が被る」
「細っけぇなぁ」
二人の味の好みは割と似通っていて、喧嘩になることはめったにない。
和食寄りになるのは、室井の好みだったが、青島にとっては男の夢なんだろう。
「塩分過多だと血圧に悪い」
「・・・あんたがね」
やがて、出来上がったものを持って、室井が食卓へと着く。そこには既に箸やフォークが並べられていた。
二つのガラスのグラス。
二つの白い和食器と二つの深いブループレート。
考え込むような顔色に変わった室井に逸早く気付き、青島が手を止める。
「何か足りません?」
「折角用意してくれて悪いんだが、今日はテレビの前で映画でも見ながら食べないか?」
「ぇ」
珍しいと、目を丸くする青島の真っすぐな視線に、室井は照れ臭ささを感じ早口で言い訳を添える。
これでは気障な男の常套句だ。
「明日は休みだったろう?こちらも揃えられた」
「あ~・・・そういうこと」
「で、これの出番だ」
「だから、それなに」
例の紙袋を持ち上げて見せれば、揃って青島の眉が曲がった。
食事をテレビの前のテーブルの方へさっさと移動させ、室井は先にソファに座り込んだ。
じっと目で青島の伺えば、困ったような顔を見せた青島もまた、室井の隣へ座ってくる。
何故かソファの下にぺたりと腰を下ろし、室井を見上げてきた。
――だから、この角度はやばい。
不味いなと思ったそれが眉間に現れ、室井が少しだけ顔を顰めると、青島はそんなことは意にも介さず、ソファに肘を付き、頬杖を付くと紙袋を指差した。
「わかった。それ、DVDか何かだ」
「・・・、はずれだ」
「えー?えっちぃヤツ・・?」
「だから違うと言っている」
室井のすぐ隣に大人しく座り込んでいる青島は、室井の表情から何か読み取ろうとしたのか、じっと透明な瞳で見上げ、そのまま黙してしまった。
その沈黙がまるで誘われているようで、見返す室井の心臓が跳ね上がる。
宙で止まったままの甘やかな指先、吸い込まれそうな深い瞳のきらめき、長い首筋を引き立てるワイシャツと豊かな肉感を男に掻き立てる艶冶なボディライン。
目が離せず、室井は反応が遅れたことを悔いた。
「室井さんってさあ・・、どんくらいの頻度でシてんの?」
「藪から棒に君は何を言っているんだ?」
「裸のおねぇちゃん(写真でも可)もないし、家で抜いてんの、見たことない」
「見せるのか・・・?」
だから、何でそんな話題になるんだコイツは。
「オトコとして、気になるじゃん?」
おまえをそういう目で見ている男になんてことを聞くんだ。
「そんなことに答える義務はない」
「えー?ケチぃ」
青島のペースに付き合っていたら、流される。違う、身が持たない。
室井は紙袋の中から更に紙で包まれたものを取り出し始める。
「ぁ、あっ、ちょっと待ってよ・・っ、当てさせてくださいよ・・っ」
「もう、おまえ、遅い」
「ヒント!ヒント!」
「タイムオーバーだ」
「当てたい、当てたい~!」
室井が紙袋から取り出そうとするのを遮って、青島が室井の太ももに片手を付き、紙袋ごと奪おうとする。
それを退けるように遠くへと手を離せば、青島は更に室井へと乗りかかってきた。
室井の片手が庇うように青島の腰に回され、まるでソファの上で抱き合うように態勢が崩れていく。
「ちょ・・っと待て、おい、やめろ」
「じゃあ重さ!感触で!」
「おまえには無理だって言ったろ」
「出来ますもん、室井さんのヒントの出し方が下手なんですもん・・っ」
「ヒントに下手も上手いもあるか!」
「ぁっ、あっ、なんか硬い!おっきい・・っ」
「・・っ」
「ん、んんっ、中で動いてる・・!これは、この音は瓶っぽい・・っ」
勘弁してくれ。
圧し掛かるままに楽しそうに紙袋を弄る青島に、手の置き処さえ失い、室井はソファに背から倒れ込んだ。
その上に青島が膝を付き、紙袋をついに手中に収める。
満足げに満面の笑みが室井の上で咲き、室井は抵抗を諦めた。
まったく。マウンティングじゃないんだぞ。
「割れたらどうする。丁重に扱え」
「やっぱりワレモノ・・!」
「飲み物だ」
「えっ、飲み物って・・・!」
このサイズで飲み物と来れば、流石に答えに辿り着いたのだろう。青島が室井を唖然と見下ろした。
隙が出来、室井は空かさず身を起こして青島の両肩を掴む。
ようやく青島も自分がどんな態勢で圧し掛かっていたかに思い至り、はっとして身体を強張らせた。
「・・ぁ、ごめん・・」
「――いや」
そう、これだ。
室井の目下の悩みはコレだった。青島のガードの緩さである。
ついこの間までは恥ずかしがっているのか意地を張っているのか、散々逃げていたのに、突如スイッチが入ったかのように逃げなくなった。
あの夜からだ。
あの真夜中、月明かりだけが邪魔する布団の中で、取り戻してから初めての涙を見て、抱き締めた。
深く求めるような奪うものではないが、温もりを与え続けるだけの腕を、青島は逃げなかった。
その次の日から、青島が室井を敬遠することはなくなった。
こうして傍にいてくれて、警戒されなくなったというのは嬉しいのは嬉しいのだが、惚れた相手に男として意識されてないのは非常に辛い。
恥じらってはいるようだというのは、この赤面している様子から見てわかるものの、好きという好意が何だかズレてきているようで
更にはこの生殺し状態をまだ耐え抜けというのかと思うと、室井は気が重くなった。
だが、避けられはしないものの、そういう雰囲気になりそうになると、青島は必ず逃げてしまう。
だから性的な接触はあれから一切ない。そう、キスもハグすらもだ。
濡れて光る肉の感触を確かめ、腰を振りたくなる雄の劣情は、こんな態勢で思い出して良いものじゃない。
隙さえあれば、口唇を交わす準備がいつでも整っているその距離に、瀟洒な室井の指が幾度目かの自制を選び、そっと青島の肩から離れた。
気を遣わせないように、そのまま後ろでひっくり返ってしまった紙袋を奪い返し、開封する。
がしゃがしゃという紙の音を、黙って青島も聞いていた。
やがて、古銅器のような白橡色の徳利が出てくる。
「いつか、一緒に呑もうって、言ったろ?」
「・・・・」
「もう薬も飲んでないし、仕事にも復帰できたし、そのお祝いもしてなかった。・・・青島?」
固まったまま一言も発しない青島に、室井の方が不安になり、その顔をそっと覗き込む。
口唇を真一文字に引き結び、青島が電灯が挿し込んで僅か青藍を指す瞳をじっと室井へと向ける。
小さく震える口唇が、なんとか動いて風音を乗せた。
「くいもんじゃ、ないんだ・・・」
「食べ物が良かったのか?」
耳朶を覆うように髪を指先に絡め、室井が優しく囁くと、青島は微かに首を横に振った。
はにかむような笑みが口端に滲んでいる。
「覚えててくれたんですね」
「忘れるか」
夜の音が優しく二人だけの間を奏でる。
室井は雄の衝動をなんとか堪え、割り切れない心を慰めるために、せめてもと伸ばした指先で青島の後頭部を弄り、首元へとずらして引き寄せる。
自分に肩に額を押し当てさせ、こっそりと気付かれぬ仕草で髪にキスを落とした。
「以前何度か呑んだことがある酒だ。名品だぞ」
「じゃ~俺、半分当たってましたね答え」
「そうだな」
「どこの?・・ぁ、ん、なんかすっごい。ゴツゴツしてるよ」
「・・・」
「・・ぁ、だから今日はツマミ系が多かったのか~」
素直に自分に包まれている青島に優しい感情を覚える。
のんびりと室井の肩で呟く青島の背中をさすり、室井は大人の顔で身を離した。
誤魔化す指先だけは雄弁で、優雅に開栓する。
「この酒なら、食器棚の左に仕舞ってある黒のぐい吞みが合うんじゃないですか?」
「ああ、いいな、そうしよう」
青島がサッと腰を上げ、直ぐに出してきた盃は、以前何かの祝いの際に頂いた平天目型の有田焼だ。
コトリと置かれた二つの盃は、まるで神前の儀式のように厳かに鎮座する。
青島の前に置かれた盃へと注ぐ。
返杯しようと青島が両手を出すから、委ね、室井も注いでもらった。
初めて出会った時は、運転手だった。
刑事なのに名刺を用意してあって、自己紹介までされた虚脱の記憶は、今尚惘れる第一印象だ。
何度も懲りずにぶつかってくる強い意志と情熱が室井の心を揺さぶり、溶かし、そして対極的な思想の中で共鳴を生む。
幾つもの季節を跨ぎ、濃密に燃え上がっては、冷たく引き裂かれ、それでも捨てきれない何かに閉口した。
孕むリスクはやがて青島を追い詰め命の危険にさえ晒したが、こうして今、酒を酌み交わすまでの時間を得るところまできた。
感慨深く沁み渡るものを、室井は色を持たない液体の揺らぎの中に噛み締めた。
日本酒の奥深い熟成香と、清酒独特の滑らかさと、生涯惚れ抜くと決めた男の鮮麗な視線。
室井にとって、これ以上はない最高の夜だ。
二人は静かに見つめ合った。
きっと、今考えていることは、おんなじだ。
「じゃー、乾杯?」
「ああ。乾杯」
視線を合わせたまま、お互いの反応を探り合い、同時に久方ぶりの酒を舐め合う。
「うっっっま!!」
「いい酒だろう」
「はい、こんなのはじめて。おれン中、何かあっついのが通ってく~ぅ」
「・・・」
青島の澄んだ瞼が持ち上がり、見つめ合う。
「君と、酒を呑める日がくるなんてな」
「はい。会った頃からはちょっと想像できませんね」
「毛嫌いされていた気がするしな」
「気のせい気のせい・・でもうれしいや・・」
「俺もだ」
今年初となる酒の味に笑みを浮かべる青島は、ほんのりと上気した頬がほんのりと赤く染め上がり、緩められた襟元から覗く柔肌も艶めいて
室井の視線を幾度も悦ばせた。
何度も注いでくれる健気さに心打たれた室井の杯も進み、夢見ごごちの一夜は深夜遅くまで続いた。
2.
「・・・どうした」
いつものように出迎えてくれた青島の姿に、思わず室井の顔が渋面となった。
鏡に映ったかのように、青島も首を傾ける。
ワイシャツ一枚で胸元ははだけ、下はジーパン、シャツの裾は結ばれ臍出しという目のやり場に困る恰好だが、最大の問題は頭からずぶ濡れということだった。
薄手の白いワイシャツが青島の艶肌に張り付き、うっすらと透ける。
「ああ・・これ。今シャワー浴びようと思って」
「服のままか」
「室井さんが買ってくれたスーツは無事ですよ」
この間の休日は、二人で紳士服店に出向いた。
自宅アパートの襲撃に因って、青島のスーツもほとんどが台無しとなり、新しく新調する必要があったし
ついでに夏用の私服も幾つか揃えたかった。
あの火事の救出劇の中、オーダーメイドで上から下まで一式揃えてやると宣言した。
それを話したら、青島は思い出したように、照れくさそうに笑っていた。
サイズを測るためにもと、連れて行った室井の行きつけの専門店で、室井の注文通り仕立てたスーツを昨日から青島は着用している。
「・・・早く入りなよ」
扉を開けたままの立ち話も変だと思い、室井は渋々青島の誘導に従う。
きちんと施錠し、鍵もみっつ。
いつもの流れを終えてから、室井はもう一度青島に視線を戻した。
「何があった」
「・・・こわいカオ」
「青島」
「やだな~、心配性なんですから。室井さんは。・・ハゲますよ」
言いながら、青島は室井の鞄だけを受け取り、さっさと奥に行ってしまう。
不満な顔を隠さず、室井もその背中を追いかけた。
呪縛されたように、室井の脈拍が上がっていく。
「青島」
「なんでもないですって。ほんとに」
「・・言えないことが?」
「だからっ、シャワーが上から降ってきたんですよ」
「?・・・シャワーは上から降るものだ」
「ちがうっ、落っこってきたの!」
「・・・勝手にか」
「上向きに落ちてきて!俺の顔面ぶちまけて!取ろうとしたら、シャワーって出しっぱなしだとくるくる回るんですもん!」
「・・・・」
「しかもホースを足にひっかけちゃって。そしたらもぉ大噴水」
「君は風呂場で一人何をやっていたんだ・・・」
「もうここまで濡れちゃったらさ、遊びたいじゃない」
「意味が分からない」
「服のまま濡れるって、なんかちょっとした冒険?わくわくしません?」
「・・・しない」
風邪を引くぞとか、せめて服は脱げとか、言いたいことは多々あったが、青島の私生活を垣間見た気がした室井は内心打ち震え
気付かぬ程度にその硬肩から力が抜けた。
これが本当の青島なんだろう。
室井の知らない三十年近い時間と記憶を持ち、両親や友人と学び、プライベートを他県で過ごしてきた、室井とは別の世界に生きた青島だ。
以前の同居生活では青島がまだ本調子ではなかったし、心理的にも追い詰められていて、室井もまた気を張ることが多く、それどころではなかった。
同居再開となってからも、お互い意識してしまったり遠慮しあったり、どこか噛み合わない余所行きの空気があった。
この数週間で馴染んで来たからと言ったって、それは“気難しい本庁の室井”と向き合う“人懐っこい湾岸署の青島”なのだ。
思わず込み上げてくる笑いを堪えるため、室井はより強面となって、口許を片手で覆う。
しかし、室井が青島の飾り気のない本髄に触れられるのであれば、青島もまた同じ時間を重ねた人間だった。
「・・・・室井さん?」
室井は覗き込む青島をさっさと追い越し部屋へと向かう。
その背中を室井の態度を訝しみながら青島がトテトテと追っていく。
「あの、もしかして、笑ってます?」
「・・・笑ってない」
「じゃ、何」
嬉しいのだ。でもそう言ったら多分、照れ屋な青島はむくれてしまう。
何と言って説明したらよいか、室井は思案の末、部屋の中央にきて、仁王立ちした。
「怒ってるの?」
「・・・そういうつもりじゃない」
電灯の真下で、ゆっくりと視線を向ける。
そこには電灯を受けてキラキラと湛える瞳と、濡れそぼる前髪を垂らしたままの青島がいて、室井の目は無意識に僅か眇められた。
逃してくれない強気な視線に、軽く瞼を伏せ、観念した室井は息を吐いた。
「君が――」
刹那、二人の間を切り裂く音がする。
室井の煩悶の緊張は胸元で震動するケータイによって遮られた。
『――室井です』
室井の表情から、通話の相手は仕事絡みだと鋭く察した青島は、ふるっと髪を振って水滴を幾つか払うと、小さく溜息を落とし、そっと鞄を置いて部屋を退出しようとする。
室井の隣を擦り抜ける、その腕を室井はガシッと掴んだ。
『分かった。場所は』
怪訝な顔をする青島が、二の腕を掴まれたまま、隣で呆然と視線を送ってくる。
室井はそのまま二言、三言、会話を続け、通話を切った。
「仕度しろ。出るぞ」
「ぇ、どこへ。・・ん?俺も?」
室井が改めて青島を向き合う。その眼はもう仕事モードに入っている。
「一倉からだった。先日収賄容疑で逮捕された男の運転手を今取り調べている」
「・・・?」
「彼がその大臣の付き人になったのは今月に入ってから。先月までは厚生労働大臣の秘書官だそうだ」
「でもそれが何か繋がるんですか?」
「直接顔を見た方が早いだろう、ということだ」
「!」
「その男、以前も面が割れている。そのうちの一つが台場海浜公園。日付はあの火事のあった日だ」
青島の眼が精気を帯びて、爛と深まった。
この瞬間が、いつも室井を湧きたてる。穏やかさより崩れ落ちるような情動を求めて追い縋りたくなるような、奥底に眠らせた本性を知る一瞬だ。
視線を外さず、室井はそれを震撼のままに受け止めた。
「君が以前潜入した時入手してくれた写真にいる人物の関係者だ。だが、流石に運転手までは写っていない」
「もしかしたら、顔は合わせていたかもしれない?」
「そうだ」
銃創と引き換えに青島が得た隠し撮り写真には、名だたる大物政治家や有名人が映っていた。
しかし、あの取引現場で顔を合わせた人物は、今も証拠不十分で野放しとなっている。
「俺が見たことあるひとがどうかってこと?」
「むしろ――向こうが君を知っているか、だな」
「!」
「手っ取り早い」
途端、返事もせず、青島が翻す。
慌てて室井の腕が伸び、青島の二の腕を後ろから掴んで引き留めた。
「っと、待てッ」
「んんっ、もっ、今度は何!」
「何、じゃない。おまえ、その格好でいくつもりか」
「ジャケットくらい羽織りますよっ」
「そこじゃないっ」
そんな濡れたままの髪で、艶めかしい肌を露わにした透けたシャツを着たままで、外になんか出ないで欲しい。
室井は深い溜息を持って、その場を制した。
乱れた髪を掻き揚げた仕草は男くさくて、同時に妙なフェロモンまで出してきて。
そんな恰好で男だらけのギラついた本庁になんて行かないで欲しい。
今自分がどんな風に男の目に映っているか、こいつは分かっているんだろうか。・・・ああ、青島は男だった。
だが、所轄のノンキャリはそれだけで充分目立つのだ。
頼むから、事件と聞くと無防備に飛び出す癖は、なんとか治してくれ。
努めて冷静を装い、咳ばらいをしてから室井は言い含めるように告げた。
「まず、髪を乾かせ。その間にシャツを持ってくる」
「あー」
何が、あー、だ。
絶対分かってない。こっちの心配も、判ってない。
多分、本庁に行くからとか、犯人の前では警察官の誇りを保たなきゃとか、その程度の懸念しかないのだ。青島の中には。
そこも重要だが、もっと無防備な隙に危機意識を持って欲しいと室井は思う。
しかし同時に、そんな風に無頓着で全力を出せる青島が、室井は好きだったりもする。
***
準備が出来て、二人で官舎を出た。
並んで歩く影がアスファルトに伸び、初夏らしい夜風が肌を和ませる。
「歩いていくんですか?」
「表通りでタクシーを拾う」
事件はまだ何も終わっていない。
それでも、同じ事件を同じ目線で追えることは、二人にとってかけがえのないものに違いない。
「・・って、あれ?どっち行くの?そっちは――」
「近道だ」
「へ~、室井さん、道も真正面から行く人だと思ってた」
「・・やっぱり意味が分からない」
こうして、二人で歩く時間が身近になっていけるのなら、それは幸せというものかもしれなかった。
そんな今日一日が乗り越えられて、その先に未来がやってくる。
ひとつひとつ、嬉しさという宝石が積み重なる。
今はそれが、ただ光を受けて七色に輝けばいいと思った。
