東京変奏曲3 season Ⅱ
第五章
3.
「こっちのが良いんじゃないですか?」
室井が選ぼうとしていたネクタイの隣の方に、背後から手が伸びて来た。
肩に被さるように青島の気配が香り、室井の背筋が一瞬栗だつ。
「あれ?気に入らなかった?」
横目で盗み見ると、首を傾げて楽しそうに目を輝かせている青島の顔が目前に迫っていた。
朝陽の中にあるそれは黄金色に輝き、室井の黒々とした目を必然的に眇めさせる。
息遣いも体温すら感じるほどの距離に口唇があり、耳元近くで放たれた吐息はそのまま室井の素肌を弄り落ちた。
「あんたはね、少しアソビゴコロってのを覚えた方がいいです」
「・・・・」
「顔がガンコですから」
仏頂面を押し付け、室井がぶっきらぼうに青島の指差すネクタイを取った。
「君の趣味は悪くないが、俺のセンスとは違う」
「でも、ソレしていくんだ?」
「・・・ただの情けだ」
「はいはい」
もう飽きたのか、青島は今度は室井の黒のコートを取り上げ、ご執心になった。
埃を払い、ハンガーごとくるりと一回転させて何やら確認する目は真剣で、何をしているんだかと思う。
すっかりと室井の一人称も定着し、二人の呼吸が落ち着いてきた頃合いを見計らったように、週が明けた。
青島の髪はその間、室井によってすっかり短く刈り込まれ、すっきりとしている。
洗い晒しの短髪は淡い色にふわふわと春風を受け、本日指定したブルーグレイのストライプシャツと良く似合う。
「今日、外出るのか?」
「そうね、この家、退屈だし、あんたいないんじゃすることないし」
青島の手からコートを取り、室井は袖を通した。
ネクタイを選んでくれたのは、以前共同生活を送った時以来だった。
そうやって、柔らかく微笑んで、幾通りもの顔を与えて、コイツは煙のように消えたのだ。
だから不吉なジンクスを嫌うように、室井は胸騒ぎを覚えてしまう。
「人の家を退屈とはなんだ」
「この部屋を表現する言葉を他に知らなくてね」
そう言いながらも、青島は今度は室井の黒鞄を取り上げ、我先にと玄関へ向かいだす。
自分を置き去りにしていくそのスラっとした背中を視線で追いながら、室井は眉間に皺を寄せた。
「まだ大人しくしてた方がいいんじゃないか?」
「ヒマ持て余してると、悪さしたくなっちゃうんで」
「手癖が悪いのか」
「あんたほどでは」
「・・・、どうせ大したことは出来やしない」
「所轄の意地、見せちゃってもいいんですよ?」
言われ、室井はふと思い至る。
「署にでも顔を出すか?」
「あっ、それいい!うん!それに決めた!ここから通うなら通路とか確認したいし!」
「・・やっぱり、駄目だ。まだ今日はここにいろ」
「どうしてっ」
自分から言いだしたくせにと、頬を膨らませて振り返る青島に、室井は詫びるように腕をポンポンと叩いて追い越した。
「まだ発信器を用意してなかった。ケータイも用意してない」
「あ~・・・それか~。そうだったぁ・・・」
「今日準備させる。明日まで待て」
むぅっと膨れているのだろうことが、振り返らなくても室井には分かった。
零れた忍び笑いを隠すように、背を向けたまま靴箆を取り、革靴に添える。
「じゃあ、晩飯は奮発してください」
「いいだろう、帰りに何か買ってくるから、食べたいものを言え」
「そこは任せますよ。居候なんで」
靴を履き終え、室井は振り返る。
洗い晒しの細髪が柔らかく戦ぐ下に、くりくりとりた飴色の瞳が覗き、首を傾げて室井を映していた。
短めに刈り込まれた淡い髪は、その無二の輪郭を露わにして惹き付ける。
第二ボタンまで開けられたストライプの開襟シャツ。僅かに覗く肌まで計算されたように上半身を括れさせ、ボディラインを透かし
長く美しい両脚に合わさるストレートデニムはみっちりと引き締まる肉を上質に掻き立てる。
あと2~3年仕込み、成長すれば、もっともっと美しさに磨きがかかるだろう。
本当は一人にさせたくはないが、そんな過保護では笑われるし、先の長い闘いである以上、限界もある。
諦めを受け入れるように、室井は青島が差し出した黒鞄を受け取り、もう一度しっかりと青島の顔を見た。
何か確かなものが欲しくて、あの最後の日を准えるように口唇から確かめてしまいたかった。
しかしあの日はあった筈の熱の欠片も、掴みかけた勇気も、今は室井の前にない。
現実を拒絶するかのように室井は理知な瞼を伏せる。
「行ってくる」
「あ~・・、ついでになんか雑誌でも買ってきてくださいよ。退屈凌ぎに」
「どんな」
「わかんない?」
気楽に強請ってくる青島に、人の気苦労も知らないでと半眼で顔を戻せば、両手を腰に充て、悪戯な瞳が輝いていた。
この顔で、こいつはこの間室井の頬にキスなどしてきやがったのだ。
全く、この気紛れな優男を誰か解説してくれ。
触れるだけのそれとはいえ、あれはどう捉えたらいいんだ?
少しは可能性があると思っていいのか?
それとも揶揄われただけなのか?確かにこいつは身を売ることなど屁とも思っていやがらない。
そのくせ、過度に触れることを極端に怖がってしまう。
ったく。どう扱えばいいんだ。
複雑で混沌とした不満な気持ちを表すままに、恨めしささえ感じる青島の顔に仏頂面を向け、室井も唸る声で反論する。
「娯楽雑誌など、選んだことがない」
「車雑誌でも時計雑誌でも。バイク系でも漫画だっていいですよ。・・ぁ、室井さん、俺がモデルガン好きって知ってますよね?」
「・・そういえば」
ぐちゃぐちゃの家で大泣きしていたなと、室井は思い出した。
青島の部屋から救出された戦利品は、一部を除き、ほぼ修復不可能なほどまでに破壊され
今修理可能なものだけを預けている。
それはどれも異常に潰されていて、探索の際に不可抗力で欠けたものではなく、故意に狙われたものであると推測された。
異常な破壊性と残酷性は、破壊衝動に起因する快楽主義者のように錯覚させる。
自然と室井の眉間が深まり、小さな沈黙を生み出した。
それを、青島は少し誤解したようだった。
「めんどーだったら別に、いいですけど」
「・・そういうわけでは」
「室井さん、意外と人に無頓着ってゆーか、人任せっていうか、横着したがりですよね。刑事としてどーなの」
「おまえはな、少し減らず口をなおせ」
「治さなかったら?」
「仕置きが待っている」
「へぇ、どんな?」
口車に乗ってやったことで、少しだけ青島の顔が明るくなり、茶化す言葉が飛び出した。
曇った顔を晴らせて、ほっとしたように室井も口端を持ち上げた。
どうしてくれる。何をしていても可愛くみえる。仕草が全部が可愛く見える。
「してほしいなら、そう言え」
「それで誤魔化したつもりですか」
「適当に買ってくる」
言い捨て、室井は扉を開けた。
「鍵を忘れるな。前のより頑丈にしてあるが、中の者が忘れたら意味がない」
「わ、わかってますよ・・っ」
「どうだか」
「ぅ」
「あと、一つだけ言っておく。この部屋に卑猥なものは一切ない!」
音を立てて扉を閉めてやる。
閉ざされた扉の向こうで、青島の爆笑している声が聞こえた。
4.
指定時間となり、室井がファイルを片手に会議室に入ると、登庁するのを待っていたかのように一倉が近づいた。
擦れ違いざま、室井に肩をぶつけ、小さく顎をしゃくる。
訝し気な目を返すが、一倉はそのまま捜査一課を出て行ってしまった。
話がある、そういう合図だろう。
室井も無関心を装い、少し待ってから別の通路を使って廊下へと出た。
奥手の角に一倉が室井を見て立つ。
そのまま角を曲がり手洗い所へと連れ込まれた。
一倉は着々と清掃用の臨時札までかけてしまった。
「ま、念のためな」
「何の用だ」
「そう嫌な顔すんなよ。ここは連れションだろ」
「・・・・」
本当に用を足すわけでもなく、一倉はトイレ個室にも人がいないかを一つ一つ用心して確認しながら、ゆっくりと奥まで徘徊していく。
ピチョンと蛇口から水が一滴、音を立てた。
古い建物だ。至る所に老朽化が見られ、くすんだタイルが一部割れて剥き出しのコンクリートが覗く黴臭い空間は
それでも歴史ある中では比較的最近リニューアルされた最新型だ。
「で?どうだよ新婚生活は」
「馬鹿を言うな」
室井もまた、ただ突っ立っているだけでは芸がなく、仕方なしに鏡の方へと向き、手を洗う。
鏡は端から端まで埋め込まれた大型のもので、囲われたブルーのタイルがおざなりの清潔感を白々しく悖理していた。
「ようやく連れ戻せたプリンセスだろ。今が一番青い春ってやつじゃねぇか?」
「経験則か?」
「引き裂かれた二人が巡り合えたんだぜ、燃え上がるに決まっている」
「世の中がみな自分と同じだと思っているタイプだな」
「まさかまだオトモダチごっこを地味に続けているわけでもあるまい」
水を止め、伏せた瞼のままハンカチを取り出す室井の顔を横目で見た一倉は、大袈裟に額に手を当てた。
「マジか・・!お前なぁ、そんなんじゃまた逃げられるぞ?」
「逃がすか。今度は離さない」
「口では何とでも言えるさ。まあ、お前の場合、口も下手だけどな」
「そんなことを言うためにわざわざ人払いしたのか」
呆れた口調で室井がチラリと一蹴するが、一倉はそんな反抗など今更という顔をして、二つ隣の蛇口の前へ立つ。
「お互いの気持ちは確認できているんだよな?」
「――」
“確認”とは具体的に何を指すのか推し量れなかった室井は、そのまま鏡の中の一倉を見た。
余りに漠然とした単語は、聞きようによってはむしろ室井こそ望んでいる類のものであり、虚勢を張ってしまいたくなる妙な意地を室井に疼かせてくる。
恐怖は既に身体の一部となっていて、身を掻き毟る渇望と軋みを室井は知りすぎるほど知っていた。
だからといって嘘でも戯言でも、問い質したところでこの曲者である一倉が正直に腹を割ることはしないだろう。
それは付き合いの長さというより彼を認識した本能が理解していた。
鏡は正確にこちらの世界を映し出す。
そこには冗談めかした口調とは裏腹に、微塵も笑っていない一倉の眼差しがある。
遠くに男たちのざわめきが感じ取れるだけの小さな空間は、二人の警戒した意思によって急速に空気を凍てつかせた。
嘘は通じていないと充分認識した上で、それでも室井は低い声で問い返す。
「改めて確かめておくべきだろうと思っただけさ。そう警戒はしなくていい」
「・・・」
「いいのか?・・言えた義理でもないのは承知の上だ。だがお前だって批判心情を持たないわけではあるまい」
「俺は別に理性を教える教師になりたいわけじゃない」
「・・・」
「正直、止めとけとは言うさ。ここはモラルが大きな顔をする国だ。だがお前にはアレが必要だろう?言うなれば損得勘
定ってとこかね」
少し罰の悪そうな顔をして鏡の中の一倉が頬を掻いた。
スタンダードに生きることを強いられる権力エリートとしては、一倉の反論は短絡的だった。
封建的なこの世界で生き残るためには、それに首肯する者はいない。
室井の聡明な黒い瞳が腹の奥底まで探るように一倉を見つめた。
その長い沈黙を壊すこともなく、一倉も耐えた。
空気がピンと張り、呼吸さえ憚られる間が続く。
「出会っちまったんだろ?」
「――ああ」
ひとつ、ごくりと喉を鳴らし、ゆっくりと重々しく室井が頷けば、一倉の目が少しだけ柔らかいものへと変化した。
「もっと言っちまえば、あのクソ野郎に捕られるのが癪だ」
「あ?」
「姫を手に入れるのがこのゲームのゴールだとするなら、だったらあのデカブツには勝たせたくないね」
「・・・一倉、折角の話が台無しだぞ」
「何だよ、積年の友情に感動でもしたか?」
あれだけ張り詰めていた空気の緊張が唐突に緩み、二人の視線が鏡の中で交差する。
殺伐とした均衡を保っていた熱も消え失せ、室井が微かな瞬きを落とせば、それは更に和らいだ。
「準備はしておいた方がいい」
「・・・」
まるで、付け足しのようにそれは意味をなさずに成せられ、油断したまま聞き取った室井の目が鏡の中で虚ろに彷徨った。
「その後の足取りは」
「まだ掴めていない」
「海外は」
「空港は抑えているが、偽名を使われたら」
「また来るか・・?」
「最悪の事態を想定した対応をとっておくべきだ。桶永の行動は先が読めない」
「お前でもそんな弱音を吐くんだな」
「緻密な計算の上で打算的に動く奴だと思っていた。そうじゃないなら、警察は確実に後手に回る」
不意に切り出された本題に、室井の双眼が必然と意志を帯びた。
組織対策課に主導権が移ったことで、それは白日の下になる。
階層社会に生きる者だからこそ感じる弊害は、いざ自分のこととなると身勝手にも危機意識を過敏にした。
確かに先日の誘拐から火事に至るまででさえ、こちらは何も有効な手立てを取れなかった。
あんな負け戦は室井だってもう御免だ。
「所詮官僚だ。一人で何かできるわけがない」
「協力者か」
「ああ。同じ信念を持つ、洗脳された連中だ」
「・・・・」
「何を以って世界に価値を求めるか、規範と秩序を求める代わりに手に入れた体裁。・・・桶永のは次元が違う気がする」
「パーフェクトは望んでいない」
「ああ。深入りするのは保守派でいい。俺たちのターゲットは最初から奴本人――ってことでいいんだな?」
「一角が崩れれば山も動くかもしれない」
「相変わらずロマンチスト気取るねぇ」
揶揄の帯びた声色に、室井の目尻が軽く眇められた。
大型鏡の両端に立ち、睨み合う両雄が鏡の中で鎬を削る。
それを不服とも思わず、一倉は歯を見せて下品な笑みを作った。
「なんで、アイツなんだろうなぁ?一部の人間には引っ掛かる芯、中毒性みたいなモンがあんだろ?どうなんだ?」
「迷惑な話だ。嗅覚のようなものでハイエナのように探り当てる」
「お前もその一人だろ」
「知るか」
「そうやって、自分だけは違うっていう幻想を、世間じゃ恋って呼ぶらしいぜ」
悪趣味な一倉の下卑た悪態に、室井が物理的な圧迫感を持つ視線だけで目を据える。
頂点に君臨する者だけが持つ、こけおどしではないその恫喝の片鱗に、ゾクリと背を震わせながら、一倉は満足を覚えた。
小柄で無害な顔をしながら、この男こそとんでもない猛毒を秘めていることを、こうして時々気紛れに思い起こさせる。
早くからその才能を嗅ぎ付けていた一倉は、いつそれが開花するのかを楽しみにしていた。枯れてしまうことも込みでだ。
そして、そのキーマンとなる者の存在
の出現。
今はまだ誰も気づいていないだろうが、時代は確かに芽吹き始めている。
ニヤニヤと、存分に加虐的な視線で嘲弄してやっていると、室井は分かっているような分かっていないような、何とも言えない顔に変わり
嫌そうに目尻を歪め、視線を反らしてしまった。
こんなところが室井だ。
ふふんと一倉が鼻で嘲笑する。
「奴の行動範囲、言動、交友関係・・・、逡巡は軍隊の足を躓かせる。全てからシュミレートしておけ。抜かるなよ」
「ああ」
「過去の事件から何か出たか」
「まだだ。出ない可能性の方が高い」
「そう来なくちゃな。俺も手伝う。頭は多い方がいい。その答えの一つが、――これだ」
徐に一倉が室井の腕を乱暴に握り上げ、引き寄せるとその掌に強引に紙を握らせた。
カツン・・とバランスを崩しかけた室井の革靴がひと気のない床を一つ、鳴らす。
サッと紙に目を走らせた室井は鋭く険しい目を至近距離の一倉へと上げた。
一倉は今までになく真面目な顔をして小さく頷く。
「――・・」
室井はそれを受け止め、紙ごとぐっと拳を握り締める。
その顔を認め、一倉と室井は同時に身体を戻した。
「それと、もう一つ。――早くきちんと捕まえておけよ」
何をかはもう一倉も口にしなかった。
室井も鏡を向いたまま、双眼を深めることで応える。
「お前らの心の隙間に付け込まれるのが一番面倒だ」
「意思疎通がままならないままで行動原理を利用されることか」
「そうだ」
くしゃりと、握り潰した紙を、室井は内ポケットに仕舞った。
「そろそろ俺のものだって宣言しておくか」
「出来るのか」
「のるかそるかだ」
ふん、と鏡の中で鼻でせせら笑った一倉が顎を反らす。
「で、新婚生活はどうなんだ?」
「それでその質問なのか」
「あれだけの悲劇、だ。生殖本能が発動していいレベルだ。吊り橋効果でもいい」
「生憎俺たちは男だ」
「大事にしてるんだろ?」
慈悲深い言葉に、室井は苦く笑って見せた。
「物は言い様だな」
「ん?」
「けど俺はまだあいつとは寝ていないんだ。信じられるか?」
流石に驚いた顔をして、一倉が顔を向けた。
「まさか直前になって先に奪われたことが引っかかるなんて腰抜けたこと言いだすんじゃねぇだろうなぁ?」
「処女信仰はない。その、腹立たしくはあるが」
はっはっはと声を立てて笑い、一倉は近寄って室井の肩に手を置いた。
室井の耳に息を吹きかけるように腰を曲げる。
「んじゃ、姫に拒否られたか?あれは根っからの女好きって顔だからなぁ」
「・・・違う」
「オアヅケ喰らう理由なんて他にあるか?まさか振られたか?」
「・・・振られてない(まだ)」
「そんだけ一緒にいて、そういう感情を抱いているくせに、何もねぇってことねぇだろ?」
「・・・・」
「マジかよ。勃たないのか?」
「それが許されるのなら俺はとっくに抱いている!」
「いいからさっさと自分のモンにしちまえよ、男だろ。いっそお前が抱かれてやるってのもアリなんだぞ。愛してんだろ?」
「!」
「お?その顔は満更でもなさそうだな?」
「な、何を想像している」
「姫に触ってもらえたら一気に持ってかれそうだなお前。早漏は嫌われるからな、気を付けろ」
もう話は終わりだと背を向ける室井の肩を一倉が引き留める。
「まさか桶永のテクに勝つ自信がないのか!?」
「そういう話じゃないんだ一倉!」
言い辛そうに、何度か躊躇った後、室井は視線を背けながら眉間を深めた。
頬を強張らせ、憤りを見せる室井に、何やら根の深いものを感じとる。
「気負うほどに今度はタイミングが全くない」
「・・・・・・・・・作れよ、男なら」
言って、一倉は目を剥いた。
室井の耳から首筋までほんのりと赤く染まっている。
喋り過ぎたとでも言いたげなその顔に、一倉は室井と青島の予想外の仲を見る。
一倉の見立てでも、室井と青島を揃えて話題に困るなんてことが起こるとは到底思えなかった。
確かに室井は寡黙な男だが、無口でも冷酷なわけでもない。ましてや青島にはぞっこんな男である。
青島は必要以上に気を回せる男だし、波長が合う二人だからこそ、その手の問題はない筈だった。
なのに、これは。
つまりは二人揃って意識し合って身動きが取れなくなっているということである。
本庁手洗い所には不釣り合いなほど、薔薇色の空気に一倉は噎せ返った。
5.
微かに呻く声が聞こえた気がして、室井は重たい瞼を持ち上げた。
辺りはまだ真っ暗で寝入ってからそう時間が経っていないことを感覚が伝える。
まるで世間から抹消したように此処に潜んでいた頃とは違い、今は窓も開けるしカーテンも開け放つ。
怯え、神経を張り巡らせていた隠棲生活は、もう終わった。
当分は、明確に敵と認識した人物だけを警戒し、その他の雑魚は眼中に入れていない。
あの火事は同時に、あの場所を不夜城としていた一派の統率と連携を粉砕したのだと、新城も室井も睨んでいる。
現時点で強いリーダーシップと集束を図れるだけの財力と政治力はないだろうというのが、当面の断案だった。
早急な立て直しに追われ、或いはあれが巨大グループの一派だったというならその縮小、消滅に手間を取られ
更には一番欲しがっていたファイルが完全に警察の手に渡ったとなれば、そう簡単に刑事である青島をもう一度奪還しようなどという判断が下るとは思えなかっ
た。
迂闊に接触すれば、逆に捕物となる。
それでも取り返しにくるのは、もっと恣意的な判断、つまりは桶永のような痴情による独断だ。
冷たい月光が室井を再び微睡へと誘っていた。
緑色の月明かり射し込む室内は蒼一色に染まり、宇宙と同化する。
並べて敷いた布団の中で、青島の寝息だけがこの部屋を甘く満たしていた。
唸っていたような気がしたのは気のせいだったか。
横向きにタオルケットを抱き枕のように腕に挟み、室井の方を向いて、額が付くかどうかの位置で眠っている姿は嫋やかで
こうして寄り添うように眠るのが日課だった。
尤も、床に就く際はすっかりと照れてしまう青島に、散々と文句を聞かされるのも含めてである。
大人しく眠る片割れに、その匂いに体温に包まれる。
むしろ安心を覚えるのは室井のほうだが、こうして見れば青島もまた誰かの傍にあれることに苦情があるようには見えなかった。
少し、その額が汗ばんでいるような気がして、室井は撫ぜるように髪を掻き揚げた。
青島の片手は寝苦しそうにパジャマの胸元をきゅっと掴んでいる。
以前同居した時は、時々うなされていた。
再会してからはそういう予兆もなかったのだが、まだ日は浅い。
起こすべきだろうか。
だが眠りは深いようだ。
寝付きが良く、寝起きの悪い青島は、通常は睡眠の質が高いらしいとは、一緒に眠るようになってから知った特徴だった。
こんな事件に巻き込まれなければ健康優良児なんだろうと思う。
ある意味、健康には人一倍気を遣い、日々鍛錬し、過敏に物音に反応する室井とは違い
何もせずにヘルシーな心身を保てる青島は、逸材かもしれない。
青島の眉が額に乗った室井の手が邪魔なのか、煩わしそうに動く。
放してやり、力の入った指先もついでに解してやろうと触れると、逆に青島に指先を繋がれてしまった。
無意識にギュッと握られた手は、温かい。
またコイツは可愛い事をして。
短めに切った髪は室井の趣味だったが、元々小さめの童顔だった青島の品格ある愛くるしい顔を一層映えさせ、更に若く見せていた。
「・・ぅ・・」
ごろん。
急に青島が寝返りを打った。
大の字になって、長い足がタオルケットからはみ出し、その嫋やかな肢体を露わにする。
月明かりにその輪郭と陶磁器の肌を浮かび上がらせ、でも顔だけはこっちを向いていて。
胸元が派手に開いている。
鎖骨から薫るような肌と胸が見えて、ドキッとしながら室井は肩肘を付いて上半身を起こした。
「・・ぃ、さ・・」
寝言か?
何か夢でも見ているのだろうか。
こんな時間は久しぶりで、室井はしばらく没頭することにする。
穢れない稀有な美しさと男を劣情させる淫靡な色彩の融合に魅入られ、じっと見下ろしていると、青島は、ふにゃっと笑った。
指で、その口唇をなぞると、パクッと食べられた。
「!!」
室井は口を手で押さえ、叫びそうになって視線を逸らす。
とても直視出来ない。なんってかわいいんだ・・・。そもそも可愛いという感情を持ってしまっていいのか?
枕に額を押し付け、室井は密かに悶絶する。
――どうも青島には引き摺られてしまう。
この程度の睦み合いなど大人の男の余裕で交わせた日々も今は遠く、つい子供みたいな反応をしてしまう。
事件絡みの時だってそうだった。
青島の青臭く稚拙な理想論に煽られ、絆され、馬鹿みたいにムキになって、意地になって頑固に歯向かって。
眠っていた奥底の獅子を起こされる。
それがどういうことなのか、分からない室井ではない。
枕に額を押し付け、うつ伏せの態勢で室井は瞼だけを持ち上げた。
暗い部屋は、ただ静寂だけを残す。
好きなんだと、シンプルに想う。
どうしようもない焦燥とか呆れるほどの飢餓とか、そんな雄の劣情を差し引いても
突き抜けた透明さで迷いも弱さも、室井の醜い部分まで見透かしてくる、そんな全部をひっくるめて向き合って、戦おうとしてくれる。
そんな青島の気持ちが痛くて、柔らかくて、哀しくて、切なくて、でも嬉しくて、とてもとても嬉しくて
ただ純粋に、室井は言葉に出来ないほど、好きだと思った。
室井は拳を力強く握り、奥歯を噛み締める。
こんなにも溢れる感情を、一人で抱えるのは難しかった。
泣き出したいほど、ただ、愛おしく、それは胸の裡から爛れて締め付ける。
刹那、空気が揺らいだ気がした。
ハッと顔を上げれば、隣で青島が眉間を悩まし気に寄せ、パジャマの胸元を掻き毟る。
汗に張り付いた前髪からまた光の滴が流れ、苦し気に息を浅くする様子は、見る者の胸をも痛めつけ、室井は眉間を深めた。
やはり、さっきのは気のせいなどではなかったのだ。
「・・あ、おい、青島?起きれるか・・?」
「ん・・、・・っ、は・・っ」
「青島」
少しだけ迷いを乗せた室井の白い指先が、とんとんとその肩を優しく揺さぶると、ハッと青島は目を開けた。
直ぐに室井を視界に収め、夢と現実が混沌としたような瞳で息を詰める。
「悪い。少し、うなされていたようだから」
「・・ぁ・・・、あぁ・・・」
室井を認め、ようやく肩で息を吐き、状況を悟ったようで、青島は腕を目元に宛がった。
室井はにじり寄って、心配げにその姿を見下ろす。
そんな室井の気配に気づいていない訳もなく、青島は口許をぎゅっと噛み締めた。
「いつから・・・起きてたんですか・・?」
「たった今だ」
「嘘つきですね」
「・・・・」
「起こしちゃいました・・?」
「冷たい水でも持ってこようか?」
「・・いらない・・」
珍しくはっきりと拒絶され、室井は言葉を失う。
そのまま黙っていると、ごめん、と小さな声が聞こえた。
「ヤなとこ、見つかっちゃったなぁ・・」
「今更だ」
「・・・そうでしたね」
「無理にとは言わないが、いつか、何があったのか話してくれたら」
「聞いて、どーすんの」
「知りたい。興味本位ではなく、関わりたいんだ君に」
「・・・興味本位だなんて、思ってないですよ・・。でも、聞いて楽しい話じゃないし、言ってどうなることでもないし」
それはそうなんだろうが、知らないということは室井には酷く辛い。
だがそれを言えるはずもなく、室井も押し黙る。
何もかもを独占し共有したいなんて無理難題を突き付けても、事態は変わらない。
室井が青島に参ってしまっていることを暴かれたところで、失うものの恐怖と脆弱さに葛藤を覚えるだけだ。
こんな時にも頼りになれないことを認めてしまうことが怖いだけなのかもしれない。
こんな夜更けに追い詰めたいわけでもなく、室井は月明かりの挿し込む窓辺へと視線を流し、話題を変えた。
腕で目元を覆ったままだが、答えてくれたことにはホッとしている。
室井は続けて思いつくままに口を動かした。
「旅行に行こうって、・・・確か、言ったな」
「でしたね」
「行っちゃうか」
「行けんの」
「どこがいい」
「・・・室井さんは?」
「どこへでも。おまえの好きなところに」
小さく含み笑いを殺した音が、隠された青島の腕の下から聞こえた。
泣き叫んでいる声なき声が聞こえた気がして、室井は胸が締め付けられた。
それでも、青島はきっと、室井を頼ってはくれない。
何でも独りで抱え込んで一人前の顔で背伸びして見せる。室井にその一歩を踏み込ませない。
どこか二人で遠くへ行く物語は、非現実的でありながらとても美しいもののように室井を錯覚させる。
「少し熱っぽい気がするな。やはり水を持って来よう」
触れた指先が、今になって熱い気がした。
そっと額に手を乗せる。
やはり少し高い。
「ついでに体温計も」
「いらないよ」
身を起こそうとした室井を、青島の指先がちょこんと引き留めていることに気が付いた。
「・・?」
「・・に、・・て」
目許を覆ったままの微かな声だったので、室井は聞き間違いかと思った。
―ここにいて―
確かにそう聞こえた気がして、動かない青島と、外れない指先が、その答えの真意を室井に伝えていた。
「・・んとに、聞かないの」
「今夜は、いい」
「大体ソーゾーつくか」
気怠い口調ではあったが、それでも青島が応えてくれる言葉が意思もはっきりしていることに、室井は安堵した。
でもまだ顔は見せてくれない。
次の言葉を探しているうちに僅かな沈黙が出来、しんと鼓膜を震わす静寂が更に次の言葉を失わせ、歪な間を連れてくる。
お互いの呼吸の音をただ、耳に収め、室井は月明かりの布団を漫然と見ていた。
「勝手な憶測は持たない。君の口から聞きたい。それが酷だと言うのなら、聞きたくない」
「よくわっかんないね・・」
小さな吃音が聞こえ、青島が拳を握り締めたのが分かった。
少しは落ち着いて来たのだろうか。
視線を向ければ、同じタイミングで青島が腕を退ける。
見上げてきたその瞳は、月光が燐火のように煌めいていた。
タオルケットを腕に巻き込み、じっと室井に視線を向ける。
「キス、しても・・・いいか?」
「ダメに決まってんでしょ」
「どうして」
「理由も必要ですか」
それでも見つめ合った視線をどちらも外そうとはしない。
「こんな夜がさ、これからも何度も来るかもしれない」
「俺が、ここにいたらつらいか・・?」
「いつか・・・俺の全てを知っても・・・傍にいるつもり?」
「・・ああ」
静かで、それでいて力強い声で室井が言う。
「あの時の答えなら、今言えますけど」
「この流れで聞くほど、俺も愚かじゃない」
「カケヒキってやつですか」
「それは君の方が得意だろう」
「どうかな、そっちが本職だろ」
こんなに大事に想ってくれていても、この男は絶対に俺のものにはならない。
そういう決意が感じとれた。
それが分かるから寂しかった。
燻る想いを拳に乗せ、室井の両手も握られる。
「確かに・・・君に負けてやるつもりは、ないな」
遠く離れ、それでも消えぬ情熱と、交わらない日々の残像が綺麗なままで止まっている青島に
名も付けられぬ憤懣にも似た滴る蜜を迸らせる。
魅せられているのか、煽られているのか。或いは、触れられることを恐れているのか。
離したら終わりであると身体の奥が訴える衝動に背中を押され、室井は視線を決して離さなかった。
青島もまた、反らそうとはしなかった。
黙って聞いている青島に、掴み損ねた何かを手繰るように、時を待つ。
やがて、穏やかな口調で、室井は乾いた喉を動かした。
「・・・・・・・・俺じゃ、ダメか?」
大切にしたい。一途に思ってくれたおまえを。
その想いだけを込めた。
音にしてみれば、昼間一倉に言われたことがオーバーラップし、室井は今、素直にそれを認められた。
ああ、こいつにならこのまま喰われても構わない。
「終わりにしようって・・・言うべきなんだろうけど」
「言っただろ?おまえの行動は手に取るように分かるって」
青島は室井を見定めるようにじっと見つめていた。
体温すら交わる距離なのにどこも触れないまま、視線だけが揺るがない強さで絡み合う。
穏やかな声も静かな微笑みも、きっといつもよりかは素に近い青島の、必死の悲鳴がそこにあると信じた。
「ただの部下ですよ」
「他の名前を付ければいいだけだ」
「そんなの・・・」
「呆れているか?」
「室井さんって、意外と情熱的で強引なんですよね」
「おまえだけは、取られたくないんだ」
桶永に盗られるかもしれない。
感情がセーブ出来ず、青島の頭をグッと掴み、室井は無理やり掻き抱く。
痛い位、抱きしめて、青島の意識を奪う。
今まで付き合った奴にだって、こんなに嫉妬したことはない。
「おまえ程度の意地なんか、ぶち壊してやる」
「・・・、でも俺、あの人、放っておけない・・・」
「そんな顔してそんなことを言うおまえを一人で行かせられるか」
「同情じゃん」
その言葉のニュアンスが二人の間に横たわり、室井は少しだけ力を緩めた。
耳元に手を宛がい、青島を上向かせる。
至近距離で覗き込めば、それは吸い込まれそうなほど深い色で室井を取り込んだ。
「綺麗事だけでは、救えない」
「そうだったね」
厳かな宣言にも近い断定に、青島はぐっと喉を詰まらせて呟いた。
それは、痛いほどまでに、知らない間にそれぞれが思い知ったことだった。
青島の飴色の瞳に呼応したように冷たい月光が挿し込む。
「俺、男の逸物で貫かれましたけど」
「・・あの雪の日。俺から逃げようとしたのも、その辺が原因か」
「ヤでしょ、やっぱ」
「俺に処女信仰はない。この先未来永劫最後の男にするという条件付きだが」
はっきりと言い切った室井は飄々とし、反対に青島は夜目に見ても分かるくらい真っ赤になって狼狽える。
「なに、言ってっか、わかってんの」
「君こそ何を言われているのか、分かっているんだろうな」
「け、軽蔑しないの」
「君に?」
室井の口唇がいつしか触れそうな距離にまで近づく。
「・・ぁ、えっと、だから、」
顔を傾け、許可を願う視線を送れば、青島は困ったように俯いた。
「ちがうや。・・俺、が、あんたの傍に汚いモン、置きたくないんだ・・どんだけ夢見てんのかな・・」
「確かにな」
室井の指が青島の耳を包み、髪を梳き上げ、後頭部を固定する。
意味を込めた室井の視線に、青島の目は清純だった。
「俺ね、あんたがまっすぐ行こうとして壁にぶつかってんの、結構アタマん中、残ってる」
「訂正したい記憶だ」
「そういうのさ、ずっと思い出してた・・」
汚れた手でも、くじけない姿が、眩しかった。
そう呟く青島みたいな生き方こそ、室井が焦がれたものだ。
「生きるのも共に。堕ちるのも共に。君が俺の相棒だ」
「・・そか」
「つらかったな・・こわかったろ」
「男だもん」
「俺に触られるのは、厭か?」
「・・・・いやじゃ、ない、から困る」
「俺が、怖いか?」
「・・・そーでもない」
「桶永のことは、好きなのか?」
「・・・もう見捨てらんないよ」
「理由は?」
「・・・、」
「聞きたい、青島」
「あれは、俺だから」
「?」
「ああいう手段しか知らなくて、不器用で、寂しくて、抱えきれない想いに潰されそうで、でも誰にも受け止められなくて・・・アイツには俺にとっての室井さ
んがいなくて――」
もう離したくない、離れたくない。渡せない。
その先をこれ以上言わせたくなくて、室井はしっとりと青島の腕を掴み強く抱き締めた。
