東京変奏曲3 season Ⅱ









第五章
1.
時折強く吹く旋毛風が、側溝を埋る花欠片を巻き上げ、天を乱舞する桜吹雪を散り散りに飛翔する。
頬を撫ぜる風に春の気配を覚え、青島は深く瞼を閉じた。
窓を全開にした室内にも、ひとひら、ひとひら、花弁が迷い込む。
窓サッシに腰を乗せ、足を折り曲げて、全身が外の大気を感じていた。

透けそうな肌に風が通り、全身が風の中になる。

不意に入り口の扉がスライドする。
入ってきた男は見なくても分かった。

「落ちたらどうする」
「・・・落ちませんよ」

室内は電灯も点けていない。
昼と言えど少し仄暗く感じるそこに、嫋やかな四肢を窓辺に上げて、今にも風に攫われそうな青島を確かめるように
室井はその息遣いを感じ取った。
少し高めに位置する窓辺には、鉄柵もない。背後には東京の最後の桜が広がっていた。

震撼するように革靴が鳴る。
室井が堅い表情のまま、静かに近寄った。
手に持っていた紙袋を無駄のない動きで差し出す。
カサリという紙の音で、青島はゆっくりと瞼を持ち上げ、空の色と同化しそうな瞳が、室井へと移い、柔らかく細められた。

「これに着替えろ」
「ん?」
「その格好で外をうろつく気か?・・・靴もある」

乳白色に近い萌黄色の院内着は当然この病院のものである。
そんな自分を忘れていたように一瞬見下ろし、青島は遠慮がちな指先で紙袋を受け取った。
洗い晒しの畝った前髪は更に長くなり、その間からニヤリと悪戯な目が光る。

「今度はくつ、あるんだ」
「おぶっていって欲しいならそう言え」
「着替えるからあっち行っててください」
「手伝おうか」
「どこまで手伝う気」

フッと室井が険しい目尻を滲ませれば、青島もまた合わせて口端を持ち上げた。
優婉な輪郭はそれだけで室井の胸を締め付ける。
馴染みのリズムが戻ってきている青島に、少しだけ安堵し、室井は、仕度を、ともう一度小さく告げた。
出ていく気は更々なく、近くのテーブルに鞄を置くと中からA4サイズの白封筒を取り出す。
背後ではベッドに戻った青島が、紙袋から服を取り出し、ジーパンをしげしげと眺めていた。

「見たことない服だ」
「今さっき新調したからな」
「休日なのにこれ?」
「年相応の着こなしを意識しないのは大人として考えものだ」
「俺んこと、幾つか分かってます?」

取り出した白封筒に入っているレポートを確認し、テーブルに戻しながら室井はなおざりに会話に付き合う。

「それは実年齢の話か?それとも中身か?」
「若作りさせてんのは室井さんって気がしますけどね~・・・」

室井はゆっくりと振り返った。
そこにはほぼ着替え終わった青島が、最後にジーパンのホックを止めている。
杢グレーのぴったりとしたカットソーは青島の上半身を瀟洒に縁どり、羽織っただけの濃いブルーのデニムシャツが彼の若い肌を際立たせていた。
細身のストレートジーンズ。ブラックをチョイスしたため、長い足は形良く腰回りの高さを見せつける。
花冷えした時のためにもう一枚、赤のチェックシャツを用意していたが
青島には暑かったのだろうか、それを腰に巻いて仕度を終えた。

室井の頬が強張り視線が釘付けとなる。

かわいい。
とんでもなく、かわいい。
見映えも良く顔立ちも整っている青島は、服の着こなしも上手く、30歳を過ぎた男に与える言葉としては不謹慎だし、表現方法も違っている気がするが
室井の目には同性として嫉妬を呼び起こすほどの苛烈な感情を呼び、ただひたすら愛らしく見え、言葉を失う。
落ち着いた色合いでまとめただけに差し色となるチェックの柄も際立ち、やはり青島には明るい赤をポイントにすると顔立ちと調和する。
青島の必要以上の顔立ちの良さを逆に利用し、退院を悟られないよう人目を誤魔化す意味もあったのだが
これは予想以上だった。

素知らぬ顔で、最後にブーツタイプの黒のスニーカーを取り出した青島は、紙袋をがしゃがしゃと無造作に放り投げた。

「サイズまで合ってるときた」
「・・・・」

掛ける言葉も見つからず言葉を躊躇う室井に、少し不安になったのか、靴まで履き終えた青島が少し大きめサイズのデニムシャツの裾を両手で握る。
ぶかぶかのオーバーサイズにしたのは、勿論わざとだ。

「あの。じゅんび、できましたけど」
「・・・ああ」
「それだけ?」
「似合っている」

やけくそで室井が言葉を被せれば、ようやく青島が笑った。
どちらかといえば、揶揄われた類の微笑だったが、気にしない。
着こなしのセンスが無駄に高いのも癪に障るが、受け流す。
その笑みにさえ目を奪われる始末の悪さに、いっそ舌打ちしたいような気分で、室井はぶっきらぼうに取り出したレポートを差し出した。

「・・なに」
「今回の事件すべての報告書の写しだ。・・・知りたがっていたろ」
「いいんですか?俺が見て」
「正確には事件は終わっていないと言いたいんだろう?だが表向きは一応このような決着となっている。知っておいた方がいいだろう」
「・・ぁ、はい・・・」

青島がごくんと喉を鳴らして緊張を帯びた眼差しに変わるのを認めてから、室井がレポートを引っ込める。
白封筒にもう一度戻すと、帰ってから渡すと告げ、黒鞄に仕舞った。
すみれが持ち込んだ茶葉やカップを収めた紙袋も取り上げ、室井は向き直る。

「行こうか」
「・・・はいっ」

妙に素直な返事に、扉を開ける手前、室井が一旦足を止める。
不思議そうに青島を見上げるその面差しに、何かを感じた青島がこてんと首を傾げて見せた。

「いや、その、もっとごねられるかと思っていた」
「そこはもう、まな板の上の鯛な気分で」
「変な例えだな」

首元に手を添えて、視線を反らしながら照れくさそうに青島は言い訳を添える。

「とりあえずさ、もう入院生活は飽きました。ここから出られるんなら、まあいいかなって」
「成程。賢明な判断だ」
「早く復帰しないとね」
「そのことだが、一応4月いっぴで調整している。が、ずれ込む可能性が高い。申し訳ないが厳しいのが現状だ。そのことは気に留めておいてくれ」
「俺を疑っているんですか、まだ?」
「そこはもうシロだろう?君の今後の態度次第だが」
「どーゆーイミ」
「信じてほしけりゃ大人しくしろっていう教訓だ」
「サイアク」
「執行猶予が付いただけ感謝しておくんだな」
「俺が見張られてんですかっ」
「むしろ身辺警護の方だ」
「つまり、まだ何かあるって思ってくれてるんですよね」

人指し指を天井へと向け、上層部の意向を追認する青島に、多くは語れない室井もまた首肯する。
こんなところで幕引きされたら、こっちだって浮かばれない。
青島の視線が一瞬斜め上に避けられた。と同時に身を寄せられ、室井の耳元に口唇が近づく。

「きたい、してます」
「!」

室井の動揺も衝撃も至近距離でじっと見取った青島は、満足そうに身体を外した。

だから。
だから何で、それだけのことを告げるのにわざわざそんなムードを造り出すんだこいつは!
そんな恰好で!
この天性の女ったらしというか男たらしな性質の悪さに、室井は眩暈に似た悪酔いを覚え、翻弄された自分に眉間を深める。
ドキリと高鳴った心臓を悟られるのも悔しく、頬を強張らせてみたが、青島は人懐こく無邪気な顔で得意気だった。
百通りもの小言と叱責が室井の頭の中を巡ったが、どれを言っても効果がない気がして、最終的に無言に返った。

なんとなく見つめ合う結果となった二人の間に、コンコンと扉がノックされ、ようやく甘やかな呪縛からも解放される。
室井は仕方なく扉を開けた。

「ご準備の方、いかがでしょうか」
「今行くところだ」

ひりついた喉を動かし、何とか出した室井の声は、殊の外硬質なものとなった。
扉の外で任務をこなしていた警備も、今日を以って退去となる。
ありがとうの意味を込めて青島がお道化た敬礼をしてみせれば、男たちも律義に丁寧な敬礼を返した。

「行くぞ。忘れ物はないな」
「小学生か」

部屋を振り返り、青島は一カ月以上を過ごした部屋をもう一度目に映した。
その背中越しから、室井もまた目を向ける。

懐かしい気もする。
ここに運び込まれた当初は青島は瀕死だったし、もう何もかもが終わったと思っていた。
まだ冬の季節で、世界も暗く閉じていた。
でも未来はこうして続いていて、まだ繋がっていくものもある。
残されたものは、愛おしさだけが募り、今の青島を司る。
悲しむのは後でいい。焦るな腐るな、生きてみなくちゃわからないこともある。
これは、自分の居場所を作る、第一歩だ。

何となく青島を見つめていると、その視線に気付いた青島が、照れくさそうに瞼を伏せた。

「行きましょか」
「外にタクシーを呼んである。そこまで、頑張れるな?」
「ぁ、俺、松葉杖ないんで、できるだけゆっくりでおねがいします」
「わかった」

室井と青島が並んで歩く後ろを、警備の二人も付き添っていく。
一般病棟との境界で警備に当たっていた二人とも合流すると、揃って裏口を出た。

外は柔らかい春風が吹いていた。
草木のさざめきに合わせ、青島の細髪を揺らし、桃色の欠片が幾重にも舞い上がる。

タクシーに乗り込むところまで見送られ、礼を言って車は静かに発車した。
遠くなる影はいつまでも敬礼を続けていて、満開となった桜並木の間を、車は滑るように走り抜ける。

「桜も、今が見頃かな」
「もう春も終わるな」

東京の桜が散る頃、季節は初夏に映りゆく。











2.
軋むような物理的圧力を感じるほど、空気が震撼している。

デジャブのような錯覚を覚えながら、室井と青島はひたすら睨み合っていた。
どちらも一歩も引く気はない。
試したことはないが力はほぼ同格、緻密で計算高い室井と、天性の閃きに秀でた青島の意地の張り合いだ。
硬直状態は延々と続くと思われた。
曇りガラスの扉を背に仁王立ちになる青島に、僅かな隙を探る室井が野生的な目を光らせる。

均衡を破ったのは、やはり分の悪さからか、痺れを切らした室井だった。

「おまえ、折れろ」
「俺が?」

我慢比べに勝ち誇ったように青島が瞳を輝かせ、得意気な微笑みを湛える。

「こーなるって分かってたでしょ」
「こちらも引く気ないと、分かっているんだろう?」
「じゃー譲ってください、年上なんだし」
「ここの家主は私だ」
「それ言いますか」
「掃除したのも私だ」

高慢な難癖に不満な顔を隠しもせず、青島がぷいっと横を向き口早に応酬する。

「勝手に同居も決めちゃったくせに」
「満足、したろう?」

今度は室井がしたり顔で仰け反れば、青島がキッと振り返り悔しそうに歯を食いしばった。
確かにさっきまでご満悦に夕食に満たされていたのは、青島だ。

「メシで懐柔するなんてずるいですよっ」
「何度も引っかかればいい」
「くっそぉ・・・」

決着したとばかりに、室井が青島のシャツに手を伸ばす。
ボタンを外そうとしたその手を遮り、青島が慌てて身を捩った。

「そ、そ、そのくらいはできますよ・・っ」
「看護士には色々介助してもらったんだろう?」
「だったらなんだって言うんだ・・!」
「・・洗いたかったのに・・・」

それすらも納得していないとばかりに室井が言い張れば、青島の顔つきが呆れたものへと変わった。

「お、オトコのカラダ、洗いたがる感覚が分かりませんが・・・」
「楽しみにしていたんだ」

そう言われてしまえば、人の良い青島はしゅんとなる。
上目遣いに何度か室井の機嫌を伺うように探り、そこから困ったように俯いてしまった。
少しだけ青島の方が長身であるからこそ、その頬が赤らんでいることも室井の視界にもはっきりと入り込む。

その表情に、やはり嫌がられているわけではないことを室井は感じ取った。
照れてしまっているだけで、離れていた時間が人見知りを起こさせているだけで、侮辱されているわけではない。
基本、青島は押しに弱い。
こういう初々しいところが、青島の本質なのかもしれないとぼんやりと思う。

「・・・わかった。じゃあこうしよう」

徐に、室井は自分の服に手を掛けた。
驚いたように青島が慌てるのを尻目に付け加える。

「一緒に入ればいい。ガス代も節約になる」
「はいぃぃ?、で、でも風邪引いたらって、前はっ」
「浴室暖房機(乾燥機能付)を設置した」
「うっそ、まじかっ」
「早くしろ、ここでこうしている方が身体に良くない」
「・・・・」

もう何も言えなくなった青島がそこにいた。
室井は大胆にセーターを脱ぎ捨てると、シャツのボタンを上から外す。
着々と脱いでいく室井を見てられず、青島もまた、虚ろな手つきで自分のボタンを外し始めた。

今度は勝つつもりだったのになぁ、と、小さなぼやきが聞こえた。
まさか同居が裸体を晒すと同義だなんて、誰が考え付くだろう。

「まったく・・・室井さんの強引さには慣れたつもりでしたけど、びっくりさせられてばっか。あんたに付いていけるのって俺くらいじゃないの?」
「かもな」
「んだよもぉ・・・」

だが、室井がスラックスを下ろそうとした時、天は青島の味方をした。
遠くでケータイが鳴っている。
やりっと両手でガッツポーズを噛み締める青島の横で、室井はチッと荒くれた舌打ちを上げた。

「ほらほらっ、はやくはやくっ」
「・・・しっかりと温まるんだぞ」
「へいへいっ」

名残惜し気に一度だけ振り返ると、室井は部屋へと戻った。


*****


電話は中野からだった。
業務連絡を終えると、室井はパソコンを開く。

確かに一緒に風呂へ入ろうとするには、少々やりすぎだったかもしれない。
離れていた間の時間を埋めたくて、前のような時間を早く取り戻したくて、青島との間に出来た溝のようなぎこちなさを、早く払拭したかった。
でも、これで良かったのかもしれない。
惚れていると自覚した相手と同じ全裸で、布一枚すら纏わない姿態を晒されたら、冷静でなんかいられなくなるかもしれない。

湯で濡れそぼり、熱った肌。水を弾くように玉の滴が流れ落ち、長く伸びた髪が香りたつようにうねる。
難癖を付けてはその髪を掻き揚げ、そのまま、甘い口唇を味わい――

室井は緩く首を振る。

キャリアはベッドの中でも常に理性を保つよう指導を受けた。
求められるのは、常に公平で客観的な理性ある行動だ。
だがようやく取り戻せて、こうしてこの部屋に連れ戻せて、今冷静でいろと言われるのは酷というものだ。

黒鞄から眼鏡を取り出し、室井は立ち上がったパソコンの前に座った。
青島が風呂から出るまで、用事を済ませてしまおうと思った。
時間はあまりに足りないのだ。


室井が熱中しはじめた頃、浴室の扉が開く音がした。
時計を見れば、あれから一時間経っていた。
そろそろ怒られるのを覚悟で覗きに行こうと思っていた室井は安堵の息を落とす。
直ぐにぺたぺたと素足で歩く音がして、青島がリビングへと戻ってきた。

「お湯いただきましたぁ」
「随分かかったな」

室井がいつか買ったお揃いのパジャマを着た青島が、傍まで来ると室井の隣に腰を下ろした。
ほかほかとした湯気に混じり、青島の匂いがする。

「何やってんですか」
「仕事の残りだ」
「ふーん」

切りの良いところまで仕上げてしまおうと、室井がまだパソコンから顔を上げないでいると
青島はタオルを首に引っ掛けたまま、ソファに放り出しっぱなしでいた洗濯物を畳み始めた。
何処でも良い筈なのに、敢えて室井と背中合わせに座るあたりがまた、懐かれているようで室井の胸の奥を何やら温かくする。

「テレビ、点けたければ」
「いいよ別に」

無駄口一つ浮かばない間柄だ。
なのに誰よりも特別に感じる。
二人の間を隔てていたソファの背、手を延ばせば容易く触れられる距離を保ちながら、まるで永遠のように遠くも感じた。
音のない空気が伝える穏やかさより、危険を孕む自身の鼓動の方がこの場に相応しいだけの緊張を備え
それは既に、愛しささえ超えているのかもしれなかった。

何も言わず室井もまた仕事に意識を戻す。


ややして、室井がパソコンを閉じても、青島はまだそこにいた。

「むろいさーん、・・・俺、洗濯物畳んだよ」

そうやって子供みたいにアピールするところが堪らなく可愛い。
だが、振り返り、室井は眉間を顰めた。

「髪も乾かせ」
「今、あっつくって」
「やってやろうか?」
「そこまでやりたいの」

眼鏡を外し、黙って立ち上がる室井に、もう諦めたのか疲れたのか、青島は何も言わなかった。
鏡台からドライヤーを持ち出し、コンセントを入れる。

「確かに火傷の痕もほとんど見えなくなったな・・」
「それが見たかったの?」

口先だけは、生意気だ。
愛撫を思わせる室井の手付きに、逆にそわそわとしてしまった青島が、床に沈み込んだ。
裸足の指先がきゅっきゅっと握られている。

「風呂、きつかったか?」
「んん、へーき。きもちよかったですよ」
「そうか」

ドライヤーの音がしんと鎮まる夜に割入って、俯く青島の顔に陰影を描き出す。
指先でさわさわと振りながらドライヤーを向けた。

「ねぇ」
「ん?」
「メシ、旨かったです。ほんとに」
「そうか」

今晩は春の山菜を使った天麩羅にした。
春は芽吹きの季節だ。青島に季節を教えたかった。そして二人で迎えた季節を密かに祝ったつもりだった。
隣で無駄なく揚げていく出来立てを、横で青島がどんどん摘まみ食いをした。
タラの芽の天麩羅が特にお気に召した青島は、何度も何度もリクエストをした。

飯を食ってる姿まで、俺を虜にしやがって。

「病院食もさ、飽きちゃって」
「春の山菜にある独特の苦味やえぐみは、冬の間に縮こまっていた身体に刺激を与えて、目覚めさせて、活動的にしてくれるものだ」
「んん?」
「山菜にはビタミン豊富なものが多いのも特徴だし、抗酸化作用のあるポリフェノール類も多い。それらは活性酸素を除去し、新陳代謝も促進する」
「はぁ・・・」

ドライヤーを止める。
急にしんとなった部屋に残る違和感に、どちらも口を開かなかった。
櫛に持ち変える間、青島には冷蔵庫からペットボトルを投げた。
遠くから投げても、青島はきちんと受け取り、掲げることで礼をくれる。

「また、作ってくれます?」
「・・ああ」

青島の背後に回り、室井は濡れて尚あちこちに舞う栗色の髪を、櫛で梳いていく。
指通りの良い感触は変わりなく、愉しむままに何度も解いていると、青島が恨めしそうに振り返った。
いつまでやってんの。
そんな空耳が室井を責め、室井は自分で眉間を険しくした。

「なに」
「いや・・・」

ドライヤーを戻そうと手を延ばせば、同じことを考えたらしい青島の手に触れた。
パッと青島が手を離す。

「ぁ」
「・・悪い」
「いぃぃえぇ・・・」

何か、やり辛い。
濡れた指先は温かく、室井の手を電気のように痺れさせていた。
それをじっと見る。
触れた指先だけが、余熱を残したように痺れを再現する。
仕切り直すように室井は話題を変えた。

「髪、伸びた」
「そりゃね」
「明日切ってやる」
「室井さんが?」
「私は、上手いぞ」
「そんなかんじ・・」

長い両足を無造作に投げ出し、リラックスした仕草で青島が遠くを見るような目付きで話を続ける。

「君は器用そうに見えて、実はぶきっちょだろう」
「そんなことないですもん」
「どうだか」
「室井さんには負けませんよ」

喋り続ける青島を、室井がじっと見る。幾度か訪れる沈黙を、何度も避けるように青島も言葉を続けた。

「ってゆーか美容院とか理髪店って選択肢はないんですか」
「外へ出したくない」
「そうやってね、いっつも年上ヅラしちゃってさ」
「そうでもない」
「室井さんに出来ないことってないの」
「・・・言わないだけだ」
「髪なんかフツー切れませんよ」
「・・・そうか」

室井の言葉少ない返事が、より緊張感を生み出し、青島の指先を彷徨わせた。

「そやってね、ヨユーぶっこいてられんのも今の内ですからね。家事はそつなくこなしてても、仕事じゃ唐変木だしね」
「・・・言ってくれるな」
「オトコの価値はそこじゃないんですからねっ、アッチの方だって」
「・・・」
「ぁ、あ、でも、あんた、アッチも上手いって言いだしそう」

それは室井に対してなのか、自分がされたことに対してなのか。
言葉を間違えた青島が、先を続けられなくなって会話が止まる。
静かな夜だった。
穏やかで、陽だまりのようで、嘘みたいに二人で私生活を見せ合った何気ない夜の片隅を、窓を叩く春嵐が邪魔をする。

「――青島」
「はははいっ?」
「・・・昇進した」
「・・ぁー・・」
「口留めということだろう。私のいるところはそういうところだ」
「そう、ですか」

青島の言葉尻は、消えるように口の中で唱えられ、零れた。
その青島を、室井は背後からそっと腕を回し、引き寄せる。

「・・・どしたん、ですか」
「なんか、おまえが消えそうだから」

パジャマ越しの身体はまだ風呂上がりの熱を持っていて、湯の香りと共に室井愛用のシャンプーの香りが混じる。
二人きりの夜は、久しぶりだった。
あの頃当たり前にあったものは、当たり前ではないと知って、今この腕の中に戻ってきた。
その愛おしい造形は、何故か前より警戒心が薄く、室井の心を搔き乱す。

青島の丸い指先が、やるせなく室井の指を緩めた。
そのまま二人とも動かない。

「・・・アイツのところへ、行きたいか?」
「アイツ・・?」
「行きたいか」

断定した口調で二度問えば、意味を察した青島の身体から少し脱力するように緊張が抜けた。
室井の腕を振りほどくこともなく、シャツを小さく掴んだまま、視線は窓の外へと流れる。

「行かせないぞ」
「・・?」
「俺の目の届かないところへ行くのは、許さない。俺より先に死ぬのも、許さない」

急に一人称を変えた室井に、彼を纏う空気が一変したことに、青島はぎくりと背を震わせ咄嗟に身構えた。
それが手を回す室井にも確かに伝わり、その腕に更に力を込めることになる。
室井は乾かしたばかりの青島の柔らかい髪に口付けを落とすかのように鼻を埋め、しっかりと抱き締め直した。

「桶永は必ずまたおまえの前に現れる。別人の顔をして、何事もなかったかのようにして、またおまえを攫いに来る」
「・・・」
「おまえを連れ戻しに。二度と俺の目に触れさせない場所まで」
「・・・まさかそこまで・・・、」
「今度消えたら、きっと永遠に俺の前からいなくなる」

室井は名を呼ばれるまま、ぎゅっと抱き締める腕の力を強めた。
少しだけ息を途切れさせた青島の呻く声が届き、そして室井のシャツを握る青島の指先にも力が籠もった。

「妬いてんの」
「悔しいんだ、色んなことが」

青島が振り返ることはなかった。
視線を合わせることもなく、淡々と言い切った言葉に、その言葉の重みを知る。
引き留める権利もなく、かける言葉もなく、室井は額を青島に押し付けたまま、しばらく動かなかった。
言った言葉をどう思っているのか、青島もまた、室井を退けようとはしない。
それが妙に哀しかった。

中途半端に長い時間が過ぎ、少しだけ室井が身動ぎをする。
腕を解き、室井が立ちあがる。
それを青島は不安げな目で追った。
その青島に苦笑を与え、室井は両手を取って青島も立たせる。
大人しく従って立ち上がった青島を背に、室井は服を脱ぎ始めた。

「風呂に入ってくる。隣の部屋に床を作ったから、先に休んでていいぞ」
「・・ぇ、いや、あの、待ってますよ、流石に」

しんとした空気に、語尾が掠れて不鮮明となった。
抱き寄せた腕の飢えの深さだけがあからさまに視界を塞いでいて、その危うい均衡の限界に、憎悪にも近いドロドロとしたものが室井の奥底で轟いていた。
戸惑いと僅かな疲労感が全身を支配していた。
青島の真っすぐな目なんか、まともに見れない。
そのまま風呂場へと向かう室井の背中に、不意に青島の絶叫が届く。

「あああぁっっ!なななんだよこれぇぇ・・ッッ、一緒に寝るつもりですかあんたーっっ」

くすりと大人びた吐息を落とした室井は、やっぱり何も答えずに風呂場へと消えた。


****


後に残された青島は、開いた口も塞げずに、徐々に頬を赤らめ、部屋の中央にどかりと座り込んでいた。
寝室にあった筈のベッドは処分され、そこには二組の敷布団が並べて敷かれている。
まるで旅館に新婚旅行に来た夫婦のための床繕いの光景に、青島は頭を抱える。

どうしてこう、あのひとって直球なんだろう。

こっちがどんなきもちでここにいるかなんて、ほんと、分かってんのかな。
途切れた夢の欠片を拾うように、大切なものを確かめ、どうしようもなく理不尽な状況に、悲しむでもなく恨むでもなく
この時間はまた時を紡ぎだす。
まるでそれは、親が子供を労わるような深く広い慈悲の心だ。
そんなの見せられたら、立つ瀬なんかない。

惚れてしまったのだと自覚して、ようやく再会できて、だけど、穢れた自分が今更どんな顔をすればよいというのか。
それはまるで壊れ物を扱うかのようで、言葉では言い尽くせない感情が渦巻いていた。

くしゃりと髪を掻き回し、青島は胡坐を掻いていた膝に肘を付いた。

あの男の元に行きたいかと問われ、即答できなかった。
大嫌いだし、憎しみも恨みも色褪せない。身体の傷は癒えていくが、胸の奥があの光景を思い出す度ジクジクと痛む。
自分に圧し掛かるブロンズの塊、穿つ熱の太さ、痛みと燃える燻った臭い。
終わりなんて、ないのかもしれない。そんな弱気なことすら頭をもたげ、暗闇は青島の足元を掬わせる。
でも、見捨てられるかと問われれば、迷いがある。
どうしても、それだけは出来なかった。
あんなこと、されたのに。

だって、あれは、もう一人の自分だから。

室井は昇進したという。
これが今回の事件と全くの無関係だとは青島だって思わない。
口留めと室井は言ったが、果たして本当にそれだけだろうか。
室井の言葉をそのまま信じてしまっていいのか、今の青島には分からなかった。
悶々と巡る思考に、青島の顔が笑いの形に歪められる。




随分とそうしていたらしい。
室井が風呂から上がったのが空気の流れで分かった。
髪をバスタオルで拭きながら、几帳面な室井にしては珍しく、無造作な格好で部屋に戻ってくる。

「起きていたか」
「一言言ってやらないとと思いましてね」

人差し指で布団を指差し、仏頂面を向けてやる。
しかしこの鈍感な男は意にも介さず冷蔵庫から持ち出したペットボトルをラッパ飲みした。
室井さんでもこんな雑なこと、するんだ。
しかも同じパジャマだしィ。

「言いたいことがあるなら言えばいい」
「じゃー言わせてもらいますけど・・!あんたね、この布団見ても何も思わないんですか」
「介護が楽だろ」
「今度は老人扱いか」

フッと笑った室井に、擦れ違いざま、頭をくしゃりと掻き回される。
こうやって、直ぐに触れてくる仕草に躊躇いはなく、こちらだけ乱される感情を悟られたくなくて、青島は視線を反らす。
しかし、それは許されなかった。
片膝を付いた態勢で、室井の清潔そうな指先が、そっと青島の頬に触れた。

「綺麗事で治めたかった君の気持ちは理解できるが、いつかは崩れていくぞ」

低く艶のあるバリトンが、高貴に響き、青島の身体が震えた。

「俺が、君を選んだんだ」

そのままキスをされそうなほど雄の目をした室井に見つめられ、青島は視線を反らせなくなった。
一人称を意図的に変え、至近距離で囁かれた言葉は耳の奥から青島を犯し、それだけで雁字搦めにする。
洗い晒しの室井の短髪が額を覆い、少しだけ室井を知らない人のように見せていた。
室井は焔を宿したまま、指先をそっと青島の額からこめかみ、耳朶へと掌を柔らかく這わせ、そっと離れた。
足りない温度が物足りなさに勘違いさせる。
悔しくて、勝ち気に睨み返してやれば、室井の目は逆に成熟した色に変わった。

「今夜くらいは、大人しく寝かせてやるつもりだったんだがな」
「・・・んですかそれ」
「告げさせてくれるのであれば、何度でも言える。俺の気持ちは、君がここから出ていく前から何も変わっていない」
「!」
「ただ、君を泣かせてまで俺は幸せになりたいとは思っていない」

この部屋から連れ去られる前、室井にこうして追い詰められ口を塞がれたあの遠い日が、青島の頭の中で昨日のことのように蘇った。
あの夜、突如告げられた理由は分からないが、咄嗟に出たもののようではなかった。
長い時間をかけじっくりと室井の中で熟成され、なんらかの形を持ち、言葉にされたもののように、青島には感じた。
だから、動けなかったし応えられなかった。
このひとの抱えるものは、いつだってどれだって、重くて狂おしくて、凄惨で、切ない。

あの夜の、烈しく、狂おしく、照れ臭く、そして熱る記憶が青島の思考を真っ白にしてくる。
それを必死で振り払い、青島は強張った口唇を動かした。

「・・・オトナ」

そんなテキスト通りの答え、俺には言えない。
口惜しさと情けなさは敗北の証拠であり、青島は視線を落としてその甘やかな呪縛から逃れる。
答えもしない青島に、室井が包みこむような吐息を落としたのが分かった。

「ま、俺から逃げ出せると思うのならやってみればいい」
「それってさ、宣戦布告されてんの」
「されたのは俺の方だぞ」

言葉に釣られ、青島が見上げれば、険しい顔をした男が不満を露わにそこにいた。
何だかおかしくなり、青島が軽く口端を滲ませる。

「俺、またこの部屋に缶詰なわけ?」
「そこは――復帰へのリハビリも兼ねて外くらい、出たいだろう?」
「いい?」
「発信器は持たせるつもりだ」
「・・・やっぱ見張られてんの、俺の方な気がする」

布団の中央に陣取る青島の隣に、室井もドカリと腰を下ろしてきた。

「見張るくらいなら、閉じ込める。泳がせている――とは考えないのか?」
「つまり、囮捜査」
「・・・馬鹿」

得意気に指先を向ければ、室井に簡単に流される。
ほかほかと熱を持つ男から薫るのは、先程青島も使った同じシャンプーの匂いだ。

「いっそ、本庁に来るか?」
「いいいい行きませんよ、そんなとこっ」
「そんなとこって言うな」

パッと離れれば室井も隣で眉間を深めて顎を上げる。

「この話、無駄・・?」
「ようやく気付いたか」
「どんだけ言ってもあんたが俺の説得なんかに折れませんよね」
「ああ」
「その余裕がムカつくんですよ」

ムキになって隣の男に肩をぶつけ、もう一度叫ぼうとして、青島はハタと止まる。
ようやく気付いたか、と、室井は涼しい顔でまたペットボトルを煽った。

「どうする」
「どうするったって・・・」

楽しんでいるかのような室井の横顔に、青島の目が半眼になる。
本気で揶揄われている。
年上ぶって、何もかも請け負って、それが嬉しいって言いたげな満足の顔をして。
ちょっと腹が立って、青島は自分の残りのペットボトルを全部一気に飲み干すと、それを遠くに放り投げた。
そして、身を寄せると自分から室井の頬に横から柔らかく口付けた。
流石に驚いた顔に変わる室井を見て、妙にすっきりとした気分となる。

「ざまみろ」

ふん、とそっぽを向いて乱暴に頬杖を付く。
隣では金縛りにあったかのような室井がまだ硬直している。
照れ臭くなって、青島は左右に視線を彷徨わせた後、膝を立てた。

「俺も水もらいますっ」

バタンと扉を閉ざし、その場に沈み込む。
何もかもが室井の掌で、室井のペースで進んでいく。

「くっそ、うまく飛び込めねぇ」

両手で頭を囲って、青島は唸った。







 

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