東京変奏曲3 season Ⅱ
第四章
3.
「それで?結局どうするの?」
「退院の話?」
「そう」
「んん、そうだなぁ、荷物も特にないしさ、そこそこの日常生活はこなせるから、どうってことないんじゃない」
「室井さんは?迎えに来るんでしょ?」
「どうだろ。シゴトでしょ」
「来るわよ、アレは」
「・・・そう思う?」
すみれのために淹れようとしてたポットを掲げたまま、青島が恨めしそうに振り返り、口唇を引き結んでなんとも言えない顔をする。
だから、幾つだっけ、青島くん。
こちらが犯罪のような気分にさせられるのも不快ではなく、すみれは黒髪を掻き揚げて足を組みなおした。
今日のファッションはミニのタイトスカートにレオパード柄のブラウスを当てた90年代バブルファッションである。
ようやく再会できてから、すみれは不安に駆られるままに、毎日のようにここへと通っていた。
再び手の平から零れ、消えちゃうんじゃないかという焦燥は、その顔を見れば少しだけ和らぐ。
もうどこにも行かないよ、と毎回物柔らかな笑みを湛えて迎えてくれる青島に、ぎこちない作り笑顔を返すのが精一杯だった当初に比べ
すみれ自身、最近は落ち着きを取り戻しつつあった。
テーマを決めて変装すら楽しみはじめているのはすみれだけの秘密だ。
夜になって、少し冷え込んで来た室内は、ほんのりと鎮まる。
ここは通常フロアと違い特別個室であったため、階下の面会時間終了間際に滑り込み、一時間ぐらい話し込むのが最近の日課だった。
青島は、室内程度であれば、もう不自由なく歩き回れるくらいまでに快復はしているようだ。
尤も彼の場合、見た目の様子がそのまま現状とは言い切れないだろうが、それでも最初に来た時よりずっと顔色も良くなっている。
再会できたあの日、青白くやつれ、頬もこけた様子の青島からは、髪が伸びていた分、別人のような気さえした。
しかし栄養管理された病院食のおかげか、規則正しい生活を強いられているせいか
今の青島は湾岸署に居た時より色艶が良い。
火傷の痕もほとんど見当たらない。
あの朗らかな主治医のおじさんも、驚異の回復力だねと笑っている。
検査結果も全て優良値を叩き出し、東京の桜が散る頃、いよいよ退院の日を迎えようとしていた。
「いいじゃない、出迎え、ご苦労!ぐらい言ってやれば」
「すみれさん、他人事だと思って」
「だってヒトゴトだもーん」
椅子ではなくベッドの脇に直接腰掛け、すみれは身を乗り出す。青島もまたしょうがないなという顔をし肩を竦めてみせた。
基本、優しすぎるのだと、すみれは思う。
いつも人のことを考えて、人の気持ちに敏感で、自分自身という根幹があまり見えない。
悟らせないと言った方が正しいかもしれない。
だからこそ、そんな青島があの日、徒然に語った室井との同居話は、それだけですみれを驚かせるものだった。
あの朴訥として利己的な室井が、他人であり大人で男でもある青島を引き取ったという事実だけでも信じがたいのに
世話好きの如く、要らぬ口出しまでし、厚かましくも過干渉に徹していたと言う。
人懐こく、甘えん坊な青島にあそこまで言わせてしまうほどの容喙だったというのなら、それは二人にとっても分岐点だったに違いない。
だが、室井は元来そんな面倒見の良い男ではないだろう。
だとしたら、その答えは一つしかないように思えた。
それは逆に、すんなりとすみれを納得させる。
室井は最初から青島しか見えていなかったし、青島しか意識していなかった。
青島だから引き受けたんだろうし、青島だから構ってしまったんだろう。
それだけ、室井の中での青島の存在は大きいと、すみれは踏んでいる。
だからこそ、この数年、矜持だか気兼ねだか知らないが、三年も音信不通で放っておいたことが、すみれは許せなかった。
男ならケジメをつけるべきだ。
その間、青島がどれだけ悩み、苦しみ、後悔し寂しがっていたか、それは傍に居たすみれが一番感じ取っていることである。
運任せで再会できて、便乗して青島を独り占めしようとしていることが、腹立たしい。
すみれはこうして逢うだけで一苦労だったというのに、だ。
沸々と湧く苦みに、つい顔を顰め面にしてしまい、すみれは首を振る。
なんだかまるで恋敵のような気分だわ。
「ん、こんなもんだな」
青島の声で深みにはまっていく思考を戻す。
いつしかすみれ専用となっているティーカップに、淹れ立ての紅茶を注ぎ治し、青島が覚束ない足取りで振り返った。
松葉杖なしの移動は、楚々としていて少々心許ない。
じっと見守っていると、やがて正面まで来、どうぞと言う声と共に手向けられる。
その指先が、軽く触れ合った。
ドキンと高鳴った鼓動を表すように、ティーカップがカチャンと鳴る。
衝動のままに、すみれが視線を上げれば、逆光となって覆われていた。
年上の筈なのに、張りのある肌理細かい柔肌がだらしなく着る院内着の隙間から見え隠れしていて
その精悍で優美な男らしさを、布一枚の院内着が清艶なボディラインすら薄っすらと縁取り舞い落ちる。
あからさまな肢体は、男を一層感じさせ、すみれに女を意識させた。
女ですら嫉妬しそうな陶器の滑らかさを誇る肌も、やけに長い四肢の整った婀娜っぽさも
スーツを着ていた時には気付かなかったことだ。
「・・・ありがと」
絞り出した声は、やけにか細く響いた。
やだ、こんな短すぎなスカート、履いてこなければよかった。
目元まで覆いそうな畝った前髪が、逆光となった彼を陰に隠したまま、至近距離に迫った青島の匂いが鼻腔を擽る。
その奥から、逆に無邪気に懐かれ、すみれは触れられた指先がじんじんとしていることを感じ取った。
・・・二人きりなんだわ。そしてここは密室。一つのベッドの上。
「お。素直じゃん」
「たべものには好意的なのよ、あたし」
「そうでしたね」
青島もベッドに腰掛け直し、その重みですみれの身体が軽く青島の方へと傾く。
奇妙な緊張を悟られないように、カップを口許に運べば、ダージリンの芳香に意識が移ろった。
「俺も、淹れ方上手くなったな~」
「それも室井さんのご指導?」
「すみれさんの、でしょ」
揃って胸の奥が温まるように浮かべる笑みは、背中合わせて座っていたあの時のものと、おんなじだ。
何だかやけに短いスカートから伸びる太腿が急に気恥しく思え、すみれは少しだけ身体をずらす。
「で?そのまま一緒に住むの」
「もう勝手に話が進んでる・・・」
「その身一つで嫁いで来いってやつね」
「すみれさ~んっ」
甘えたがりの力ない声色に、素知らぬ顔ですみれは紅茶を啜った。
全身が青島を意識しているのが分かった。
溢れ出しちゃって、もう隠し切れないほどに見えちゃっているものは、青島に全部向かっている。
「今度は時間がある分、もっと準備しちゃってるかもね。青島くんを取り逃がさないような」
「おっそろしいこと言うなよ、本当にしてそうで洒落になんない」
「愛されちゃって」
「でもさぁ、キャリアに世話になるって、どう考えてもおかしいでしょ」
「他に選択肢はないの」
「・・・あったら」
「厭ではないんでしょ?」
「・・・」
不意に黙ってしまった青島に、おや?と思ってすみれが視線を戻した。
難しい顔で紅茶を覗き込んでいる様子からは、やはり喜びのようなものは感じ取れない。
沈黙が、密度の高い空間に変わった。
自分ばっかり意識しているようで、すみれは強張る頬を隠すように視線を外した。
そもそも青島自身、室井のことをどう思っているのか。
それもまた、考えるまでもない気がした。
青島の視線はいつも室井を追っていた。煌めいて、真っすぐて、熱くて鋭い、あんな男の目を、すみれは向けられたことがない。
だったらちょっとした遠足気分で、人懐っこいまま、お言葉に甘えてしまっても、青島らしい気がする。
なのに、それでも前向きになれないのは、相当前回の同居で凝りているということなんだろう。
「意外だわ。厭なの?」
「イヤっていうかさ~・・・」
「ウマが合わない相手じゃなかったんでしょ」
「こわいほど」
「いいのかなって?」
「それもあるけど」
「なによ、じれったいわね。実は室井さん、性格がすっごく悪いとか?」
「それはなかったけど」
「私生活が異常」
「多少そんな気はするけど、見たまんま」
「じゃ、想定内じゃないの。あ、据え膳だから?」
勢いで口にしたことだが、青島の気配がピキーンと走ったのを感じ取った。
固まったまま、硬直した手元も制止する。
すみれの中では、あの日の青島から、“すごく好きで、それを痛いほど知って、貴重で楽しい時間を一緒に過ごせた”というところまで聞いている。
辛酸な数か月だったから、少しでも幸せなこともあって良かったねとすみれも答えた気がするのに。
「青島くん、ずっと室井さんに置いていかれて見限られたんだなって泣いてたじゃない」
「泣いてません」
「蟠りも解けたんでしょ、さすがに」
「そこは・・・まぁ」
口籠り、何やらほんのりと青島の頬が赤らんで見える。
何だと言うのだ。
「やぁねぇ~、据え膳なんだから食べちゃわないと男の恥なんでしょう?」
「いっそ恥にしてほしいよ・・」
「お互い好きだって分かって、一緒にいられたんなら、それでいいじゃない。問題ないでしょ」
「すきって・・・、あのさ、すみれさん、カンタンに言うね」
「簡単じゃない好き、なの?」
「ぅ」
固まって、軽く身体を反らした青島に、詰め寄るようにすみれが覗き込む。
「やーらしいカオ」
「や、やらしいって何だよ」
「男同士でどんな語らいをしてきたんだか」
「ぃ、言えるか・・っ」
「へぇ、言えないようなことを、毎晩毎晩」
「・・・、すみれさん、俺で遊んでる・・?」
「青島くんがいない間、揶揄う相手もストレスをぶつける相手もいなくて、不便だったのよ。心配かけた分、おもちゃにされるくらい覚悟しなさいよ」
「・・・わかったって」
両手をすみれに向けて掲げ、青島が顎を斜めに反らす。
少し前のめりになっているすみれに合わせ、少し仰け反った態勢で青島は、明後日の方角に視線を投げながら、降参をした。
そうやって、結局は折れてくれる青島に、すみれは悠然と微笑む。
「すみれさんには敵わないよ」
「よろしい。退院したら、奢ってくれる約束も、忘れてない?」
「覚えてマス」
神妙な顔で頷いた青島に、すみれも小さく綻び、身体を戻した。
座り直し、手元のティーカップを両手で包み込むように持つ。
「心配、したんだから」
もう一度、小さな声で伝えた。
痛みを乗せたつもりはないが、気持ちは伝わればいいと思った。貴方を気に掛けている人が、此処にもいるのだと。
ふと、頭上に重みを感じる。
青島の手が小さな子を慰めるように、すみれの頭部をとんとんとあやしていて、その体温がじんわりとすみれに染み込んだ。
やさしくて、あったかい。
生きているということは、そういう時間が作れるという唯一の幸せなのだ。
当の本人は照れ臭いのか、窓の方を向いてしまって、表情は伺えない。
こういうところが、イケメンの性というか女殺しというか、プレイボーイ染みた人好きされるボディタッチだ。
上気した頬や、うっすらと開かれた艶やかな口唇、シルクから微かに透けて見える翳りに、鼓動は煩く騒ぎ立て、すみれの身体は情け無くなるくらい熱くて苦し
くな
った。
泣き出しそうな目尻に力を込め、すみれは喉を精一杯引き締める。
だが、嗚咽のような微かな震動さえ、この密室は伝えてしまうようだった。
「ちゃんと、いるから」
「どこにも行かない?」
「住む場所も一番に教える」
男の手だ。
襟元から伸びる長い首筋がしなやかな造形を描き、そっぽを向いたままの顎のラインや、伸びた襟足が異性なのだと思わせる。
甘ったれな気持ちが溢れ、その手を取り、縋ってしまいたい衝動がすみれの中に湧き上がった。
その胸に顔を埋めて、強く抱き竦められたい。息が止まるほど荒々しく求められたい。
気持ちが痛いほど、暴走して、呼吸が止まる。
多分、甘えているのは、あたしの方だから。
いつもどこかで護ってくれる手を探していた。
本当に弱いのは、あたしの方で、そして青島くんを見つけた。
でも今は、同じ痛みを知るからこそ、本当の意味であたしたちは背中を預け合える同志になれる気がしている。
一歩を進むのなら、あたしは青島くんとがいい。
一緒になら、進んでいける。
多分、室井もこんな気持ちなのだ。
奪われて、引き裂かれて、ようやく気付いた胸の灯が、痛いほど主張している。
あたし、青島くんが大好きだ。傍に居たい。ずっと居たい。あたしだけのものでいてほしい。誰よりも特別となって、誰よりも近くになって。
その優越感があたしを強くする。
「子ども扱いだぁ」
「まさか」
「じゃあ・・・・あたしのことも、ちゃんと女って思ってる?」
「当たり前でしょ。胸もあるし」
「男の人ってそんなとこしか見ないの?」
「オトコなんてみんな、そんなとこ見るもんでしょ」
「おっきい方が好き?」
「巨乳も目の保養だけど、サイズよりカタチと手触り」
「ばかねぇ」
「ばかだよ」
なんて無邪気で―――無防備な男なんだろう。
子供みたいで、小悪魔で、悪戯好きで、人を困らせて驚かせるのが誰よりも得意で。
そして、誰よりすみれの痛みに気付いてくれる。
計り知れないほどの愛おしさがすみれの胸に去来していた。
それは今にも泣きだしてしまいそうなほど強く、すみれを急き立てる。
ずっと言いたかった言葉が堰を切って溢れ出し、胸も脳味噌もいっぱいにした。今は後のことなんか、考えられない。
「あの、ね、青島くん」
「うん?」
「・・・・あたし、あたしね・・っ、」
貴方の隣にいたい。貴方と一緒に明日が見たい。お願い、傍に居て。あたしを、貴方の傍にいさせて。
傍に居るようになって、いつしか貴方がこんなにあたしを占めている。引き裂かれて気付いたの。貴方のことが、あたし。
直前に来て重みを増した言葉は、厳格な清明さを持ち、解放を嫌ったまま、すみれの震える口唇の中で滞った。
緊張だけではないその怯えに、自分でも驚く。
どれほどこの恋が大きくなっていたかを知った。
その分、こわい。
言霊の責を問われれば、その結果に向き合えるほどあたしはまだ強くないんだ。
自分のことばっかりなんだな、あたし。
こんな自分、嫌いだわ。
「どした?」
「退院したら、」
「うん、なんか食べに行こう」
「それでね、あたし・・っ」
でももう、離れたくない。
胸を満たす熱い想いに急き立てられ、いざ、すみれが口を開こうとした時、青島の口から続けて、のんびりとしたぼやきのようなものが漏れる。
「あ~・・・、そういや室井さんとも、退院したら酒呑むって約束したんだったなぁ」
む、むろい・・?
一世一代の乙女の勝負を何だと思ってるの!こんな時まで邪魔か!あの男!
すみれの赤い口唇が薄く開いたまま、固まり、拳がスカートの横で堅く握られる。
必死で告白しようと息巻いた乙女心ぐらい、気付いてよばか。
空振りに終わった勢いのまま、がっくりと崩れたすみれの横で、青島が満更でもなさそうな顔で、金あるかなぁと笑っていた。
項垂れるまま、空気を読めない鈍感男にも頭痛のような脱力感を覚え、すみれは額に手を当てる。
「もうそこは奢らせておけばいいじゃない」
「そうはいくかよ、そこまでさせたら俺、立つ瀬ない」
「男の見栄ってめんどくさいわねぇ」
さっきまでの気負いは、もう足跡すら消え、すみれには奮い出せなかった。
あれほど凝縮した熱量も、今は冬の大気に奪われる。
「熱く理想でも語ってればいいじゃない」
「新城さんみたいなこと言うなよ。息詰まるかんじなんだって」
「なぁに?何、突然弱気になってるのよ」
くすりと、すみれの淡い吐息がふわりと散った。
「あの堅物男と四六時中べったりで、どんな感じだったのよ?」
「どんなって・・あのひと、プライベートでも一人称崩れないしさ~、やることキッチリカッチリだしさ~、洗濯物も畳むしさ~」
「いいじゃない、便利で」
「そうくる?」
すみれの胸に刺さった棘のような痛みも、もう何年も忘れていた。
代わりに、もっと柔らかく締め付けるような、でも熱を持つ痛みをくれた。
疼くような、腫れるような、甘酸っぱくて、しょっぱい、忘れさせてくれないその痛みを与えてくれるのが青島だというのなら、それもまた恋する女の幸せであ
る。
今も心臓が跳ねる度に痛む突き刺す刺激を抱き込みながら、すみれは敢えて明るい声で応対した。
そもそも、青島の中で室井より大きな存在にならないと、この恋は雲行きが怪しいようである。
「室井さんって青島くん大好き人間じゃないの。心配なんて無駄よ」
「だから困るんだってば!」
「それ惚気」
ファイティングポーズをしてみせ、すみれが軽くパンチする。
差し出された掌に当てれば、そのぬくもりにさえ、胸が華やいだ。
「だってさ!俺より俺に詳しいんだぜ。俺のこと分析するんだぜ。んな食いもんの好みとか知らねぇっての」
「そうなの?」
「服とか食事とかさ~、みぃんな室井さんの好みかと思ったら、こーんな顔して、」
青島が眉間に指先を宛がい、顰め面を作る。
「“違う、これは全部君に合わせたものだ”」
「そうなんだ!?」
「全部だぜ、ぜんぶっ!できるかそれっ!?」
「やりそうで笑えるわ」
「食べんのにいちいち成分とか化学記号とか、どーでもいいことを延々と続けて」
あっはっはと、すみれが目に涙を浮かべながら大笑いする。
「栄養成分とか、食べるときフツー考えないよね!?いらないよねその情報!?敢えて言う!?キャリアってわっかんねぇよ!」
「も、もうやめてぇ~っっ!」
「カルボキシル基だのジンケロールだの、知るかっての!」
「しっかり覚えてんじゃないの・・!笑いすぎてオナカが痛いわ・・ッ」
「しつっこいんだよっ?日課の筋トレも全身隈なく、とかさぁ!」
「そんなかんじ・・っ」
「洗濯はまいんち。風呂掃除もまいんち。皿は右から」
「もうやめてってば・・っ、室井さんのイメージが崩れてくわ~っ!」
「どんなイメージ想像してたんだよ」
「だから・・ッ、・・ッ、・・拘り方がよ・・・ッ、」
「笑いごとじゃないんだよ、まじで!」
堅苦しい顔で、青島のためだけに準備した手料理や世話を、嬉々として強いる室井と、そのずれた感覚に呆れながらも満更でもなく付き合い、困ったように笑う
青島の姿が
すみれの脳裏にはありありと浮かんでいた。
恐らく室井の過剰なまでの情熱は、青島にとっても身に余るほどの過分なもので、そこに悪意がない分、持て余してしまっていたんだろう。
きっと、付き合いの良い青島のことだ。
そんな室井のペースに合わせていくうちに、室井の不器用で手加減のない情愛を、静かに知っていったことだろう。
「それと!パンツは黒に統一。ピッチリ系」
それは少し哀しい光景のように思えた。
お互い気持ちは同じだろうに、その意志疎通が出来ていない。
気の合う者だからこそ、その擦れ違いは心をより深く抉り出す。
少し前、新城に言われたことをふと思い出した。
青島が心に留めている唯一人の人間、青島が恋した相手って、誰なんだろう。
新城は教えてはくれなかった。
どうやって新城はそれに気づいたのかも、分からない。でも、もしかして、室井の目を通してということなら。
その意味では、もしかしたら今すみれが感じている空虚さや哀愁、胸を騒がせる悄然を、ずっと傍で見ていた室井もまた、感じていたのかもしれない。
しょうがない、今回は室井に譲ってやるか。
「室井さんだってきっと、必死だったのよ」
「分かってるけどさぁ、なんかチガウ」
「させたいように、させてあげればいいんだと思うわ。それが恩返しになるのよ、あの男の場合」
4.
警視庁刑事部・保管庫――
塵一つない陶器質のフロアタイルに、硬質な靴音がゆっくりと響く。
天井まで届く鈍色のロッカーが幾つも並ぶそこは、重厚な圧迫感だけがこびり付き、等間隔に並ぶライトがぼんやりと床を照らしていた。
警視庁の一角、誰も立ち寄らぬ蕭然な聖所に、その保管庫は厳存する。
刑事部の管理下であることすら忘れ去られた偏狭には、未解決で終わった事件や保管期限を待つ当時の証拠資料が滾々と眠っていた。
一つ一つにマスターナンバーが備わり、それを知る上役だけが確認を許される。
迷いのない足取りで、新城は五つめのロッカーを曲がった。
案の定、そこには一つの扉を開け資料を神経質に読み込んでいる男が、一瞬だけ視線を寄越す。
「やはりこちらでしたね」
「誰にも見つからなかったか?」
「ええ、ここに興味を持つ熱心な刑事など、今どきいませんよ」
「それも問題だな」
かけていた眼鏡を持ち上げ、室井が諂笑した。
ビニール袋に入れられた被害者の物と思われる捜査資料を閉じ、持ち込んだファイルにチェックを入れる。
今、二人は過去桶永が関わった事件を一つ一つ洗い治していた。
関与事件そのものに圧力がかかっていたと思っているわけではない。
桶永がどうやって、そもそもいつからこの拳銃密輸に手を出していたのか。その接点が掴めればと思っていた。
桶永は、新城と同じく数代まで遡れるエリート一家である。
現職部長より上の縁故は堅く、歴代の長までその名はこの堅牢に刻まれ、耳にしたことのない者はいない。
そんな名家が、手を染めたまま何代も警察機構を牛耳っていたとするには、無理がありすぎた。警察は世襲制ではない。
警察とて一代を見過ごせるほど、太っ腹でも虚けでもないだろう。
だとしたら、桶永個人が彼らと知り合った場所はどこなのか。一致した利害は何だったのか。
全ての要諦はそこにある気がした。
「何か、見つかりましたか」
「特に不自然な点はないな」
予想していた答えだった。
別段、感想もなく、新城は磨かれたロッカーに背を預ける。
身内の人間が、仲間を叩こうというのだ。
そう簡単に足を出さない男であることは、火事にまで発展した例の誘拐事件のことからも、想定内である。
捜しているのはむしろ、何もないという実証かもしれなかった。
新城の無関心な態度に、何か話があるのだろうと気付いた室井が、もう一度眼鏡の奥から視線を投げかけ促しを見せる。
だがそれには答えず、新城は前を向いたままの姿勢を保った。
「どうした」
「ちゃんと潰したのですか?」
話が繋がっていない気はしたが、直ぐに先日の桶永の襲来のことだと思い至ったらしく、淡泊に室井もまたファイルに目を戻す。
「姫の前でそんなこと出来るか」
「余裕ですね」
「あるわけない」
「そうは見えませんが」
「また君が尽力してくれると思っている」
「随分と信頼されたものだ」
「人を見る目はお互い様だろう・・・」
二人の視線が一瞬だけ絡んだ。
間を持たず、新城の視線が険しいものに変わる。
「組対に渡すことになりました」
「やはりな、出てきたか」
「ええ、これだけの騒動が世間の目に晒されてしまいましたからね。池上が子供騙しの小細工をしたところで、上も見過ごせなくなったのでしょう」
「池上や安住が抑え込めない幹部・・。・・誰だ?」
「そこまでは。しかし中枢部に確実に切り込みましたよ」
組対――組織対策課が出てきたということは、表向き上層部は一連の騒動が連続した犯罪であると認めたことになる。
それは先日の池上の面接とは明らかに方針を逸脱した着意であった。
妥協案だったのか、それともこれもまた炙り出す罠なのか、キャリアといえど下層階級にはそこまでは伝えて貰えない。
だが主導権を渡すとなると、ここから先は自由に動くことは難しくなると考えられた。
有事には指示を仰がなくてはならないのが、ピラミッド型構造社会のルールである。
「騒ぐだけ騒いで、何の効果も出せないお飾りで終わらせることは避けたいな」
「上はポーズだけみせたいということも考えられますからね」
取り出していた資料を全て元の状態に戻し、室井はロッカーを閉じる。
ロックされたことを確かめると、瀟洒な指先を添えパタンと音を立ててファイルも閉じ、眼鏡をはずした。
「組対に、話の通じる同期はいないのか新城」
「いないこともないですが、流石に協力を拝むには気が引けますね」
新城の言い回しで、どの程度の仲なのかは、室井も察せたようだった。
険しい表情を崩さず、長居は無用とばかりに先に出口へと向かう。
確かにここの出入りは簡素だが、最近の密会場所となっていることを逆手に取られたら終わりだった。
誰が盗み聞くやもしれない。長時間の立ち話は危険である。
「それに、もし話を通すのだとしたら、こちらの準備も確実にしておく必要がありますよ」
「そうだな、出来るだけのことはやっておくべきだな」
こうやって過去の資料を読み返す等、事細かに細部を詰めていく作業は、こちらでもできた。
組対に全権を渡すのだとしたら、他に道はないと断言できるところまで詰める必要がある。
「お時間の方、取れそうですか」
「なんとかなるだろう。君と違って閑職だ」
いつになく乱雑な室井の口調に、新城が横目を流す。
「昇進しましたよね」
「・・・君もだろう」
一連の事件を経て、表向きの功績を評価された新城と室井は、この春の人事で昇進することが発表になっていた。
キャリアは人事異動で地方へ飛ばされることも多々ある職業である。
今回の荒事で覚悟していた二人にとって、妙な任免には胸騒ぎしかない。
「口留めということでしょうね」
「或いは、暫くは監視下に置きたいか」
「だとするなら、あのお噂も本当ですか」
「?」
「貴方に身分違いの縁談が舞い込んだと」
足を止め、先立っていた室井が玲瓏に振り返る。
その顔で、新城は数多を察した。
「あの時――姫のマスコミ発表を避けるためにした取引は、これだったんですね・・」
「・・・・」
「自身を更迭させることすら盛り込んで、擁護に回った。・・・馬鹿なことをなさる」
室井は何も答えなかった。
ただ、物言わぬ薄い口唇は引き結ばれ、薄暗い電灯と窓からの僅かな灯りが陰を濃くし、浅黒い肌をやつれたようにすら浮かばせるが
俯くその姿勢からは僅か微笑んでいるようにすら見えた。
その澄徹な姿に新城の瞳が眇められる。
この男は、青島の目に映ることしか、考えていないのだ。
その一点の曇りもない漆黒に、新城が映る隙間などない。
ほんの数か月前、ただ一度、確かに触れた筈の口唇もまた、その温度すら見せぬまま、堅く悠然と閉ざされる。
「犠牲的献身など、姫の好きそうなギャンブルだ」
「そんな英雄譚を狙ったわけではなかったんだがな・・・」
気負いなく和らいだ室井の口調には、後悔も含羞も感じられなかった。
あの時は、新城もまた青島の死を覚悟したし、事件の迷宮入りすら目前だった。
せめてもの悪足掻きで、捨て身の戦法を取った男を、早々責められるほど新城もまた部外者ではない。
覚悟を決めた男の姿は潔く、新城はいっそ清々しいまでに以前より室井を包含出来たし、前よりもずっと情熱が増していくのを感じた。
忌々しい苦みと共に、新城の奥歯が噛み締められる。
どうして形のない恋という情熱は、終わりが見えないのだろう。
形が不鮮明な分、それは自由度を得てより一層の葛藤と情動に精気を吹き込まれた気がする。
もう潮時だと分かった筈なのに。
触れる前ならもっと抑え込めた。気の迷いとして酒で流し込むことだってできた。
でも、一度触れてしまった邪淫な熱は、暴走し増大し、もっともっとと強欲にはしたない情欲を強請る。
どこまでもどこまでも、深みにはまっていく。
「他に、何か強要されましたか」
「特に――。手駒になるのであれば、その後は私をどう使っても良いと進言しただけだ。まさか縁談で捕り込もうとうするとは思わなかった」
「読みが甘いんですよ」
「こっちは出身派閥にも入れない身だぞ」
そんな男に何が出来ると、やや不貞腐れた瞳色が電飾を受け藍色に染まった。
新城は呆れるまま肩を竦める。
「貴方を姦淫して搾り取ったところで、子宝に賭けるほど気の長いご老体はいなそうですしね」
「しかし期待されているのはそこくらいだろう」
「貴方ご自身の躰で払わせるつもりだったら?」
「性的ファンタスムか?」
「性支援ですよ」
「・・・価値があるのか・・?」
「気付いてらっしゃらないのは当人だけなのでは?好みは人それぞれですよ」
「・・・、君ならどうする」
「そもそも私はそんなヘマは致しません。どうするおつもりで?」
じっと、室井の黒目がちな瞳が新城の心の襞を抉るように見つめた。
緊張を強いられたまま、新城もまた悟られないよう視線を外さず足を止める。
キャリアが縁談をするということは、確かに恋とは関係ないところで完結する儀式である。
だからといって、人はそう簡単に割り切れるものではない。特に、室井みたいな堅物は。
まさか新城への恋心にすら、介意しているとでも言いだすつもりか。
暫く強い視線を浴びせていたが、やがて室井は小さく溜息を落とすと共に、その理知な瞼を伏せた。
長い睫毛に影かかり、薄く閉ざされた口唇は堅く結ばれる。
「いずれ、考える」
一言、低く告げると、室井は真っすぐな背中を見せ、出口へと向かった。
凛としたその後ろ姿を、新城はただ視線で追った。
「姫の方は」
「余計なことは言わないでくれ」
「復帰したら簡単に耳に入る話ですよ」
「・・・そうだったな」
小走りで追いつき、新城もまた室井の一歩後に付く。
「退院の段取りは」
「ああ、明日なんだ。私が直接迎えに行く」
「素直に来ますかね?」
「意地でも連れ込むさ」
「そのくらいの強気でいてくれるとこちらも助かるんですけどね。縁談のことはいつ説明を?」
「・・・・頭が痛いな」

このお話のバックボーンですが、このお話だけはこのままパラレル時空になりました。
リアル年表に捻じ込むのはやっぱりムズカシイな~って。一番難しいのは、前述のとおり、室井さんの現在の役職です。