東京変奏曲3season Ⅰ
第三章
1.
何だか今日は驚かされることばっかりだ。
「いつから・・・」
口の中で噛み潰すように小さく青島が呟いた言葉は桶永だけに届けられた。
柱に手を付き、青島と心身一体であるかのように身を寄せた桶永が、視線だけでその肩越しから妖しく宣戦する。
「立ち聞きなんて無粋な真似しやがる」
声に反応し、二つ後ろの柱の影と同調するように立っていた室井が一歩、光の中へと姿を現した。
コツンと清涼な音を立てて降壇したのは、ダークグレイのスーツに身を包み、皺も染みもない白シャツにきっちりとレジメンタルのネイビーのネクタイを締めた
微塵の誤りもない姿だ。
変わらぬ姿に、記憶通りの高潔さに、青島は息を呑んだ。
その後ろに一倉も控える。
「私を足止めしたのはこれが理由か」
「ああ・・・まあな」
眉間を深く寄せた室井は呼吸すら悟らせない面持ちで荘厳な存在感を保持した。
先程までの麗らかな春の陽気が一瞬にして消滅する。
「なんで声を掛けなかった」
桶永の問いにも、室井はじっと漆黒の目を向けただけだった。
事実、桶永は途中から室井の存在に気付いていた。
それを承知で青島を口説いた。
室井もまた、桶永がこちらの気配に気付いていることを察知していた。
「盗み聞きなんてする男だったとはな」
「・・・」
表情を崩さない厳格な目線を桶永に突き刺して、室井はその距離を測った。
――妙だとは思っていた。
これまでの奇怪な一連の出来事が数珠のように室井の中で繋がる。
先日もようやく取り付けた暇で此処へと向かう途中、急に電話が入り直前で呼び戻された。
与えられたのは然程急を要する用件だとは思えないものだった。
何故今このタイミングで室井に仕事が回ってくるのか。
桶永が青島の居所を探る動きをしていることは承知していた。
水面下でこちらの動きを監視しているらしいことも看守している。
しかし、池神の差し金か、新城の言う中堅キャリア連中の嫌がらせとも考えられた。
だがまさか、逆に室井を遠ざけることが目的だったとは思いもしない。
こういう手段に出られては、男として不覚を取らされたも同義である。
「なんで・・・、ぇ、一倉さんまで・・・?」
瞠目したままの青島の瞳が事態に追いつけずに動揺した声と共に狼狽える。
「その手が――」
室井の手が優雅に持ち上がり桶永を指差した。
「もう一振りでも怪しい動きを見せたら、止めに入っていた」
顔色一つ変えない室井の低い控えめな声に、ふん、とニヒルな笑いを浮かべ、桶永が緊張を解かぬ強さで眦に優越意識を描いた。
互いの視線で牽制し合う空気に殺気が走る。
どちらも一歩も譲らない均衡が密度の高い緊張感を生み出していた。
足先一つ、指先一つ、誰の影も動かない。
その場に居た者達の息吹も吸収された病院の片隅で、奇妙にもここだけ隔離されたように研ぎ澄まされた大気が重苦しく陰りを覆った。
小鳥の囀りも止まっていた。
「君が――ご丁寧に退けたSPたちは解放させてもらった」
「成程」
「追って、彼らの口から何があったかが上に伝わるだろう」
「大したことはしていない」
「――貴様、なぜここにいる」
「見舞いだろ?」
「どうやって暗号を入手した」
「仲間が裏切った線を探れよ」
「無益はことはしない性質だ」
「俺からも聞きたいことがある。お前こそあの日――最初にどうして俺の存在に気付いた」
先日の局長室での一件に於いても、桶永はその軍略とも言うべき奸計を具体的には一切認めようとはしなかった。
だが今、本然の姿を晒したことで自らその話題に触れる。
それは皮肉にも、青島を攫おうとしていたことと無関係ではなかった。
本音を晒さなければ青島は手に入らない、本音を晒したからこそ、彼の悪巧に矛盾が失われる。
「誘拐の日のことか」
「そうだ。そもそもあの日まで俺たちは完全に糸を失っていた」
認めたくはないが、それは、桶永が本気で青島に恋をしたことを示していた。
それをじっとりと確実に感じ取っている室井は粛然とした背筋を伸ばし、桶永の主張に耳を傾ける。
「新城が部外者の人間に救済を依頼するほど妥協的な男だとは思っていなかったことも誤算の一つだった」
「損得でだけ人は動くわけじゃない」
「お前の部屋に青島を囲っていることにさえ気付くまで時間がかかった。あの雪の日、コイツ本人がボロを出さなけりゃ更に気付くのは遅かっただろう」
「・・・・」
「驚いたよ。ターゲットが無防備に雪の中彷徨ってんだからな。この世に神はいると思ったね」
「その神は今後悔しているだろうな」
「だが、そこから充分に準備し最良の日を選んで侵入を試みた。痕跡だって残す筈がない。計画は完璧だった」
桶永の手は相変わらず柱に押さえ付けられたままの青島の顔横に添えられ、それだけのことなのにまるで隙を見せなかった。
一歩でも室井が気を抜けば、或いは緊張が欠けば、桶永は青島を攫って眩ますことくらい可能なのだろう。
否、人質として彼を盾にし、傷つけることも想定内かもしれない。
そのくらい、桶永から発せられるオーラは静寂でありながら鬼気立っていた。
「なのに何故俺たちに気付いた?」
言葉で腹の内を探りながら、お互いの目が相手の一挙一動に注目する。
駆け引きは、下手を打った方の負けである。
室井の漆黒の眼は視界に桶永だけを捕らえ、微かな風の揺らぎさえ押さえ込んでいた。
黙ったままの青島が仰ぎ見るように桶永を伺う様子が室井に映る。
「その質問に、私が答える義務はない」
「研修が中止になったくらいのアクシデントで封じ込められるほど、こっちは不用心でも手薄でもないんだよ。なのに、俺に辿り着くのがやけに早かった」
だが室井は言い負ける気はしていなかった。
そもそも言葉で丸め込まれるような人間は官僚には向かないし、上に立つ器にもなれない。
饒舌であることと、多弁であることは別物だ。
それに、桶永から冷静さを失わせている優位性は、正に青島の存在にあると室井は睨んでいた。
何が彼をここまで苛立たせ、乱し、ジリジリと灼け付くような焦慮を生んでいるのか。
それは多分、先程までの青島への籠絡にあるんだろう。
「君のミスは、相手にその腕の中の男を選んだことだろうな」
室井の尖った顎が軽く持ち上がり、桶永の胸元に収まる青島を指摘すると、桶永の意識が少しだけ分散した。
「それは、お互い様だと思うぞ」
「私の質問に答えて貰おう。あの日、どうやって私の家に侵入した」
「世の中には幸運ってもんが勝者の味方をするんだよ」
「――」
「鍵は、掛かっていなかった」
室井の片眉が意外そうに持ち上がる。
「専用の道具まで用意してたってのにな。後でご丁寧にも三つも取り付けてあったのを見て笑ったよ」
「刃物で切り裂いてあった」
「それはコイツを脅かすためにな」
「何故そこまで彼に拘る」
「同じセリフを返すね」
「今回の暗号の件といい、官僚たちを誘導する手際の良さといい・・・内部犯を疑うには充分だ。貴様が探らせていたのは誰だ?」
「知りたいか?」
まだ表に出てきていない、桶永の協力者が確実に本庁内、もしかしたら捜査一課に居る筈だった。
でなければ今回室井をこうもタイミング良く足止めすることもまた出来やしない。
捜査の流れも本庁の流言も操作できるわけがない。
なにより此処を突き止められる筈がない。
「知って得する話でもないと忠告したつもりだったが」
興趣がある含みを持たせ、桶永の顔が臆せずスッと蹶然となった。
その彫の深い精悍な顔に影が掛かり、まるで般若のように迫力が一瞬にして増発する。
澄み切った春の空気が身を切るような鋭さに凛と啼いた気がした。
室井は眉間を寄せ、神経を張り巡らせる。
桶永がどう出るのかがまるで掴めない。
桶永にとって、この事件とは何なのだろう。
まさかこの場で拳銃などを所持しているとは考えにくいが、桶永の内懐や目的が見えない現状は、限りなく不気味だった。
まして少し時間が経ちすぎている。
こちらも刑事である。恐怖に呑まれるわけにはいかないが、何より至近距離にいる青島が気になった。
この構造図だけで言えば、明らかにこちらが不利だ。
「その前に。そろそろ、それをこちらに渡してくれないか」
「・・・奪い返してどうする。お前には不必要なモノだろう?」
「何故そう思う」
「道を踏み外すことが出来んのか、エリート官僚さん」
「私のキャリアがこの話に不都合になる意味が分からないな」
「お前にとってキャリアって何か、言ってみろ」
「――警察官は国民の安全のために従事する職業だ」
「教科書丸暗記かよ。想像以上にくっそつまんねぇ男だな・・ッ!」
と同時に桶永が青島の腰を片手で引き寄せる。
「・・・ァ・・ッ」
短く叫んだ青島の露出した首筋に素早く口唇を寄せると、桶永は一つ強く肌を吸い上げた。
弾みで柱の横に立てられていた松葉杖がカランカランと甲高く廊下に転がる。
ンッという青島の小さな息を呑む呻きが桶永の耳にゾクリとした泡立ちを齎し、視界の隅にはこれ以上なく顔を硬直させた室井が見えた。
生地の薄い院内着がはらりと春風を包み、桶永の腕の中で青島の背中が華奢に仰け反る。
髪から薫る青島の匂いに桶永は喉を軋ませ、それから赤々と色付くうなじの印を満足げに目に収めた。
室井に気を取られ意表を突かれた形になった青島が我に返り、桶永の腕の中で抗うが、それを赦さぬ強さで桶永が力を込めた。
青島の指先が従順さを乗せない勝ち気なままに桶永のスーツを掴んでくるのが見える。
愛くるしい丸っこい指先に強く絡めた感触を思い出した。
嫋嫋した欲動の日々が愛欲と背中合わせだった。
この擽る淡い細髪も、少し消毒が混ざる甘い匂いも、口唇から伝わる少し高めの体温も、桶永の心の襞にしかと刻み付けられた。
目が、指が、肌が、肉がこの魅惑的な存在に飢え、憶えている。
咄嗟に近づこうとする室井と一倉に桶永の鋭い視線が突き刺さった。
その細腰に、光る刃先が宛てられている。
怯む息遣いがここまで聞こえる。
動作を禁じる視線で室井と一倉を足止めすると、その態勢のまま桶永はこれまでとは打って変わった声色を放った。
「これは、俺が貰う」
「無理だとこちらも言っておいた筈だ」
「ならここで俺と勝負するか?」
「勝ち目のない戦いを選ぶのか」
「どうかな」
「いいから青島を放すんだ・・!」
「欲しいとも言えない男に渡したくはねぇな」
「それは貴様に告げる言葉じゃない・・!」
桶永は腕の中で踠く青島を見下ろした。
艶めく瞳が至近距離で桶永をきつく睨み上げる。
「放せよ・・っ」
「これで借りは返したぜ。次はイーブンだ」
青島の耳元にねっとりと口付け、最後に愛を囁くと、桶永はポンっと青島の身体を押して後ろ向きに崩した。
足の不自由さと虚を突かれ、青島がバランスを取れずにその場に倒れ込んでいく。
青島の視界に勝ち誇ったように笑う桶永の去っていく笑みが映った。
合わせ、バネの如く駆け寄ってきた室井が床になぎ倒される直前の青島の身体にスライドする。
ギリギリで受け止めた室井を認め、桶永が叫んだ。
「必ず拐いに行く!」
「っ、拐われないもん・・っ」
病院の光る廊下で滑り込むように青島を受け止めた格好のまま、室井が振り返る間も惜しみ、背後に蛮声を上げた。
「一倉ァ!」
室井の声に素早く反応した一倉が、逃げ去る桶永の後を猛スピードで追っていく。
このまま桶永は姿を眩ます気だ。
下手したら海外に逃亡される。
室井に事件の事実を認めるような発言をしたのだ。もし室井が録音でもしていたら、或いは仲間を忍ばせこの場を写真や動画に撮られていたら
桶永は今度こそ言い逃れできないことを強かに確信している。
どこまでが桶永の想定だったのかは分からないが、青島を連れ去る気だったのなら逃走手段も用意している可能性は高かった。
そうか・・!だからリスクを承知で本庁に根回しに来たんだ・・!
直ぐに本部が立ち上げられ折って来させないために。
少し呻いた声が下から聞こえ、室井は強く掴みすぎて青島の肩に食い込んでいた指先を慌てて緩めた。
「・・、すまない、怪我は」
「はぁ・・・まぁ、あ~・・・、擦りむいた・・・」
元々外出用ではない院内着は薄手のニット共に肩から無残にずれ落ち、見るもだらしなく婀娜っぽく全開で脱げていた。
青島の長いうなじが室井の目の前で俯き、そこに今しがた桶永によって付けられたばかりの生々しい情痕が滔々と色付きを放つ。
まるでそれは永遠の愛を誓った紋章のように室井の目に訴える。
春の風に晒された流れた青島の髪がその肌をさわさわと寛いだ。
言葉もなく室井が目も反らせずに黙していると、やがて遠くから一倉が息を上げて帰ってくるのが見えた。
「すまん撒かれた。・・・アイツ、逃走車を用意してやがって。仲間はやっぱいるな」
「ナンバーは」
「一応控えたが・・・意味ねぇと思うぞ?」
桶永を逃げ去った方角を巻き戻すかのようにじっと見続ける青島の瞳には春の陽光が差し込み
不可思議な色を湛えて静かに追尾する背中を手繰っていた。
その横顔をじっと見つめながら室井もまた何も言葉を挟まなかった。
2.
病室の前には、顔や首に湿布やテープを巻いた男たちがまた何事もなかったかのように厳戒態勢を敷いていた。
敬礼する作法に青島もお道化てちょいっと敬礼を返すと、中へ戻る。
一倉、室井と続き、扉をしかと閉ざした室井はもう一度開け治し、チェーンを回したり鍵を指先で撫でたりして
ここの戸締りが正常かどうかを何度も検査した。
破壊や細工などがされていない事実確認をすると、最後にロックをして部屋に上がる。
誰も喋らないため、空気は異様な鋭さを持つ。
室井と一倉のコツコツと鳴らす靴音がやけに響いた。
聞くに堪えず、青島は松葉杖を適当に投げるとベッドに伸し上がり、埋もれていた枕を手に取る。
客がいるのに横になるわけにもいかず、何となく枕を抱いて壁に背を凭れた。
一倉が窓枠を見渡し、刑事の目を軽く走らせた後、のんびりと伸びをしながら空を見上げている背中を、青島の視線が眩しそうに追った。
午後の陽射しはもうかなり傾き、強いオレンジ色の西日が射しこんでいた。
騒がしかった一日が、もう終わろうとしている。
ここ数日は一日が長く感じ、楽しみと言ったらそこそこの味を保つ三度の食事と、唯一人と話せる診察時間だけだった。
今日は午後から急に慌ただしく回り、目まぐるしさに巻き込まれた。
人間は、人と関わることで意識の密度を上げる。人との交遊がうねり、風となって人を生かすのだ。
改めてそれを思う。
外の空気を吸ったせいもあって、少しクリアになった思考で青島は頭を掻き混ぜた。
どこか他人事のような感想は、呑気とはかけ離れた緊迫した空気に悄然にも似た気怠さを以って青島を責めていた。
迷う気持ちのまま断片を拾い集め、まるで決められた答えを自ら導き出しているような作為に嘲笑する。
崩れ落ちる危険性は、どっちかっていうと、室井が齎す弾劾だ。
太く重そうな黒鞄を部屋の隅にどさりと置いた音に、青島の意識が部屋へと戻った。
室井がようやく確然とした態度で振り返る。
思わず青島の枕を持つ手に力が籠もり、固唾を呑んだ。
それを窓際で腕を組んだ一倉が面白そうに観察している。
くっそ、このオッサン、助けない気だ。
半眼で非難する青島に、空気も揺るがさず影のように室井がベッドへと忍び寄った。
ひぇっと首を竦めて青島はベッドの中央に縮こまり、上げた両脚を曲げ枕を強く抱き締める。
「・・・・な、なんすか」
呼び、室井が更に尋常ではない距離まで近づく様子に、青島は所在なさげに見上げた。
ピンと伸びた背筋はそのままに、ベッドに太腿が触れる距離まで来た室井が荘重に見下ろしてくる。
追い込まれる形となった青島が室井の影となり、穏やかな気配も静かな表情も、危うい均衡を保っていることを自覚させた。
「お、お、お、怒ってます?」
「・・それなりに」
「・・・すいません・・・」
下から機嫌を伺うような眼差しを向ける青島に、室井は険しい顔を崩さない。
最早何から口を開けば良いのか見当もつかない。
青島の口が堅く引き結ばれた。
裸足のままの青島の指先が心許なくきゅっと曲げられる。
室井の頬が痙攣するように硬く強張ると、一旦安息を得ようと、鼻から大きく息を吸う。
怒鳴られると思った青島が目を瞑って枕を翳した。
「・・おい、」
「だからごめんなさいって・・ッ」
「別に暴力を振るったりなんかしない・・・」
「・・で、ですよね~・・・」
自分の恰好が怯えたとも捉えられる仕草に気付き、青島は取り繕うようにへらっと笑って見せるが
室井が気難しい顔をしているので真顔を作り治した。
ぎこちない笑みに青島の動揺が伝わったが、構わず室井は青島の手前に置かれたままの、先程まですみれが座っていた
薄柿色の簡易椅子を引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。
背筋を伸ばし腕を組んだ姿に露骨に青島の顔色が変わる。
本気モードだ。
一体何から叱られるんだろう。
怒ってくれるということは室井がまだ青島を諦めていないということと同義であることに気付き、それは擽ったくもあり胸苦しくもあった。
関係ない、だなんて、言っちゃった。
他の男に口説かれていた姿を見た室井は、どう思ったのか。
のこのこと容疑者に付いて行ったこともだ。
突如別れの言葉もなく姿を消した自分に、室井は何を思ったのか。
決別を決意した自分を、きっと室井は嗅ぎ取っている。
らしくないって言われたら、俺はなんて答えるつもりなんだろう。
それよりも、こうして向き合うのは同居していたあの朝以来である。
腰を落としたきり、それ以上何も言いださない室井に、青島が探るような促すような視線を送り、彷徨わせた。
「・・・気分は」
「へーきです・・けど、あの」
「――久しぶりだな」
少し見当違いのような室井の言葉に、呆然としていた青島の瞳が現実味を帯びる。
この辺の回転の速さと勘とノリの良さが青島の魅力の一つである。
室井が言わんとしていることを察し、青島は枕を持ったまま亜麻色の髪の奥から悪戯な瞳を煌めかせた。
恐らくそれが室井の狙いであることも承知の上で、青島は仕掛けるように丸い瞳をくりくりとさせた。
「ええ、まったく。忘れちゃったのかと」
「老人扱いか」
「どうせ言い返せないんでしょ」
「君の有休も長いな」
「おしごと」
「ああ」
「じゃ、そろそろ出世かな」
「それを決めるのは私じゃない」
「・・・ここ、皺寄ってるし」
「いつものことだ」
「ちゃんとライバル扱き落してくださいねー?未来の警視総監サマ」
軽く肩を竦めて見せた室井が値踏みするように目を眇める。
「まだ足を引き摺っていた・・・」
「痛くないですよ。別に」
「君はすぐ強がる」
「じゃ、見逃して」
「頼らないのはどっちかな」
「そーゆーリクツ」
「・・・髪が伸びたな」
「あぁ、そりゃ――」
会話が止まる。
僅かなインターバルを持って室井が視線を上げ口を閉ざせば、青島はその迫力に圧されるように僅かに怯んだ。
ああ、こうして直接目を合わせるのはいつ以来だろう。
ずっと逢いたいと思っていた本人だ。
あの室井さんが目の前にいる。
変わらない声が耳に届く。
遠く、陽炎のように霞んでいた偶像が間近に存在し、それは青島の記憶のままに高潔だった。
変わらない。変わっていないからこそ、分かってしまうものがある。
リアルだからこそ、些細な断片が色濃く刻むのだ。
会わなかった時間が確かに二人の間に存在していた。
重ねてしまった風貌が現実を突きつけ、目測を誤ったまま融合したがる二人の愛念も胸臆も、錆び付いたものだと戒める。
ようやく青島から発せられた声は呻きに近かった。
「そんで。御用件は」
「いいだろう。どこから叱られたい」
「ぁ、やっぱ叱られるのね」
「他に何がある」
もう会えないと思った。会ってはいけないと思った。
あんなに絶望的な決意をしたのに、このひとはこうしてあっさりと現れる。
昔からそうだ。
どうしてこのひとはこんなにも簡単に俺の人生に戻ってくるんだろう。
こんなにも俺の人生に入ってくるんだろう。
青島の瞳がやるせなく滲んで、出会いからこれまでの交わりをリフレインした。
瞳は俯くことで洗い晒しの前髪の奥に隠される。
サイレントムービーのように、それは静かで暗い法螺穴を覗き込むのに似ている。
「青島、こっち見てくれ」
震えてはいないのに、どこか哀願するような室井の声に青島は枕に苦笑いを落とす。
こうして向き合うことで怖いと思い知らされてきたのは、多分いつだってこちらの方だ。
青島が振り回しているようで、その実、室井の本性を暴き出せば、勝る者はいない。
嬉しいようで勘弁してほしいような、困惑した感情に苛立つのはこちらなのに、何故だか室井の方がいつも追い詰められたような顔をする。
それでも顔を上げてくれないもどかしさを大人の余裕で抑え込み、切羽詰まった激情までには迫っていない声で、室井が静かに言葉を続けた。
「君は一体この件にどこまで関わっているんだ」
「・・・、まだ俺の口からシンジゲートでも出てくると思ってんの」
「そこが全ての発端だ」
追い込まれた先の闇が意味するものを知らぬ子供でもないのに、時間だけがこうして空回る。
自分たちは、始まりを待ってるのだろうか、それとも終わりを待っているのだろうか。
「ファイルは入手させてもらった。そこに君の名前はなかった」
「ならいいじゃん」
「君が攫われた原因は、あのファイルなんだろう?」
「俺を疑ったんすか」
「いきなり消えた人間を根拠もなしに冷遇するほど警察は処罰感情を持ってはいない」
「どうだか」
「どれほどこちらが掻き回されたと思っている」
「そこはすみませんって」
「事情聴取だ」
「――へ?」
迷う気持ちのまま室井の視線も避けていた青島の顔が、軽はずみにも持ち上がり室井を捕らえる。
何か今、聞き慣れた言葉が聞こえた。
ポキポキと拳を鳴らし、まるでこれからリングに上がるファイターであるかのように、室井の瞳がギラリと夕陽を反射する。
「いいか。これから私が言う質問に正直に答えるんだ。誤魔化そうだなんて考えるなよ」
「ぇ・・、ええぇぇ?」
「嫌そうな顔しない!」
してやったりとでも言い出しそうな自分の知らない顔をしてみせる室井を、今までで一番心臓を跳ねさせながら
青島は露骨なほど透けて見える怯えを乗せてぎくしゃくと後退った。
「な、・・ぇと、まじ?」
「いいか、君は今警察にとって最重要被疑者だ。正確にはそうなるところだった」
「はいぃッ?!」
「さぁ、納得のいく説明をしてもらおうか」
出来るもんなら警察キャリアを説き伏せてみろと、珍しく前哨戦を仕掛ける室井に、青島の視線はたじろぐままに一倉へと流れる。
当然の如く窓際で腕を組んだままこのやり取りを面白がっている一倉は
お手並み拝見と言わんばかりに哀願の視線をシカトした。
「いつもキャリアを小馬鹿にしている君のことだ、さぞご立派で筋の通った答えが帰ってくるだろうと期待している」
「・・べ、別の人で・・・」
「順を追う」
「ちょ、待っ」
「君が消えた夜、何があった」
断固とした室井は絶対に引かない。
まるでそれは、離れたがっている青島の本音を知っているかのように、室井がそれを阻止しているようにすら思えた。
今更引き換えす気はないという気迫は、誠実に事実を知り、青島に起きた全部を共有したがっている。
だからこのひと、顔変わらないから分からないんだよ・・!
思ってる以上に室井はいっぱいいっぱいで、振り切れちゃっていたらしい。
「う、疑ってんじゃん俺んことっ」
「午前中か、午後か。侵入者は何人だった」
「も、もぉ知ってんでしょ、それとも俺が裏切ったとでも本気で思ったんですか」
「そう捉えられても仕方ない」
「ぇ、うそ・・!」
「書置きも残さず、煙のように姿を消した。同時期疑われていたキャリアも姿を消した。子供でも見抜ける推理だ」
「ぉ、俺だって突然だったのに!」
「事件なんかどれも突然だ。そんな言い訳が通るか阿呆」
「・・あほって・・!」
口調もなんだかおかしい室井に青島の警戒も崩れていく。
「本部がどれほどの慎重さを注いで君を匿っていたと思う。新城の気苦労も考えろ」
「なんも教えてくんなかったくせに、こんなときだけ仲間ヅラですか・・っ!?」
「こっちだって危ない橋渡ってんだ」
「ぇ、ちょっと何したの!?まさか俺のためになんかした?」
「なんかとはなんだ」
窓際では一倉が口許を抑えて肩を揺すっているが、もう青島の視界には入らない。
そもそもキャリアは結果を残しそれを盾にピラミッドを上っていく人種だ。
人情だの恩情だのを重視する所轄のやり方とは真逆である。
「なんかって・・、だから、ヤバイことですよ!」
「そのやばいことを君はしたんだよな?!」
そのキャリアのスキルを初めて自分へと向けられた青島には、室井ってこんな当意即妙な男だったのかとか
そりゃそうだ、そうでなきゃここまで出世していないよななどお門違いな新鮮さに出足を挫かれ
それでも感情を荒げたり昂奮したりはしない才知に舌を巻きつつ、得意の営業話術すら崩壊させられる。
完全に室井のペースだ。
「我々本庁サイドでの交渉や調整はツールだ。捜査の一環だ。特段、特殊なことでも同情を買いたい話でもない」
「けどね・・っ」
「結果を残せればそれでいい」
「結果って俺を助けること?」
「他に何がある」
「俺のコトなんか後回しにすりゃいいでしょー?」
「したさ。表向き。今回に限っては極秘の二重捜査体制だった。・・公にはしていない」
「上を欺いたって、俺には聞こえますけど」
「不満そうだな」
「他に方法はなかったんですか、あったでしょ、あったよね!?」
「方法を吟味する余力と財力と武力が本部にあったと思うか」
忌憚なく言い切った室井に、青島の抑えつけるように顰めていた目元が鋭さと険しさを抱いた。
そもそも別れるだの離れるだの、色恋沙汰の詰問をされると思っていた青島にとって、答えなど何も用意できていない。
きっと、情けなく歪んでいるだろう顔を隠すように青島はその腕を口許に持っていった。
「で、結局のところ、何したんですか」
「そんなに知りたいか」
「俺のためってんなら是非」
「少々上に時間を貰っただけだ。向こうだって旨い汁が吸えたんだ、誰も損はしていない」
飄々と何でもない風を取り繕って言い切る室井が哀しい。
傷つく事ばかりが上手になって、痛みに耐えることだけを憶えたまま、行き場を失った感情を消化する術を持たない。
なのに押さえ込んで立ち上がるこのひとを、どれだけ尊敬し私淑してしまったか。
そんな彼にシンパシーを覚えたなんて言ったら、きっと室井は嫌がるんだろう。
その姿は容易に青島にこそ容易に想像できた。かくあるべきという戦う強さを見せつけられて。
「ええと・・・良く分かんないですけど、つまり?」
「だから君のためにわざわざリスクを冒して内密捜査を行い、身を切って局長を黙らせ、令状なしに工場に突入したんだと言っている!」
室井が噛んで含めるように言った言葉に青島が目を丸くした。
思っていた以上に度肝を抜いた答えだ。
「え?ええッ?えええー!!!なに?令状?局長?ちょ、ちょっと何オオゴトにしちゃってんの!?」
「馬鹿野郎。工場爆発の方がよっぽど大惨事だ」
「ちっ、ちがっ、そこは大事にしてくださいよ!何しちゃってんすか!あんたがっっ」
室井は平然としたものだ。円熟した愚にもつかない表情の顎を持ち上げる。
どうだ、と言わんばかりのそれはまるで悪戯盛りの幼子でもあり、そこに駄々を捏ねるようにムカつく自分がいる。
室井は謹厳実直で規則的な男だったと記憶していた。
なんだこの鬼の首でもとったような、褒められたがりの顔は。俺がこれ、褒めるの?!
でもそうだった。このひと、とっきどき突き抜けちゃうんだった。
「へーきじゃないでしょ絶対。それっ」
「平気だ」
そういうとこも好きだった。悔しいままに室井と青島の感性はどこか類型的で、理性を裏切り同調する。
変わらぬ距離感と、懐かしささえ覚えてしまう態度に、二人の視線が紛れもなく絡み合う。
だけどそれが自分のためとなってはもう事情が異なる。
さっきまで悲恋にめり込んでいたことも、現実の厳しさと落差に打ちのめされていたことも
きれいさっぱり青島の思考から吹き飛んだ。
「ちょっとあんたね、」
「君の命を優先したんだから仕方ない」
「やめてくださいよ!俺、嬉しくない!」
「そこまでする必要があったということだ。君の事だけじゃない、本部の面子もある。内部犯を疑っていることは既に伝えていた筈だ」
「それ、ここまでやらなきゃならない理由になってます?!」
「政治取引は私個人の仕事だから問題ない」
「何イキナリ正論で誤魔化そうとしてんのっ」
青島を内部犯とするマスコミ発表を抑えるため、室井が行った裏取引は青島に伝える必要のないものだった。
その尻拭いは自分でやれる。
ただ、室井にだってガス抜きは必要だ。
「私のやり方のことはいい」
「はぁ!?」
憤慨する青島に合わせ椅子から腰を上げ、室井が噛みつくように青島に顔を寄せる。
「よくも私の沽券を塗りつぶしてくれたな」
「い、い、いつも俺のこと迷惑じゃないって言ってたじゃんっ」
「それとこれとは別だ」
「勝手ですねっ」
「こっちはおまえの死まで覚悟させられたんだ!」
「死んでませんっ」
「いいからさっさと答えるんだ、君はどこまで関わっている・・!」
「疑ってかかるひとに何言えっての!」
「刑事とはそういうものに決まっている!」
「刑事ってんなら、俺のことも信用できたでしょっ」
ハッ、と、室井の顔があからさまに蔑んだものに変化した。
「どうだか。煮え湯を飲まされてばかりの君をどう信じろと」
「それ言っちゃう!?」
「そもそも鍵はかけろとあんなに忠告した筈だが!」
「それはあんたがあんなことすっからじゃんっ」
ぶっとんじゃったんだよ!!
初めてのキスで理性を欠いたと、赤裸々に飛び出た青島の言葉に室井の自制も切れ、冷静だった口調に乱れが顕れる。
その後ろではもう一倉が腹を抱えて大爆笑する。
「そ・・そんなことで気持ちを乱すな警察官が!」
「ああそうですか!あんたにとってはそんなことなんですかっ」
「ちがう!警察官としての心得をだな!」
「けーさつがあーんな戯れを」
「こっちの気持ちまで疑うつもりか!尻拭いさせられる身にもなれと言っている!」
「今あんたがそう言ったんデショ!」
「簡単に痕なんか付けられやがって!」
「この足でどうしろってんですか!」
「分かってるならのこのこ付いていくな!」
「のこのこなんて付いてってませんっ」
そろそろ上司としての説教なのか、友人としての説教なのか、はたまた恋人未満の焼きもちなのか分からなくなってくる。
息を荒げる室井の肩を、それまで背後で苦笑を噛み殺してた一倉が下がるように軽く手を添えた。
「おい、室井、そのくらいにしといてやれよ」
「お前は青島の味方をするのか一倉」
「まったく青島にかかると性格変わるな室井」
「二重人格者みたいに言うな」
「大差ない。この間もアイツを怒鳴りつけただろ」
どなりつけた?犯人をか?・・いや、桶永か。
まんまるとなった青島の驚きと対照的に、渋い顔となった室井の変化が面白く、一倉は破顔して青島に首肯した。
「まさかとは思いますけど、いきなりブン殴ってないですよね?」
「そこまで頭に血は上っていない」
どうだかねと一倉が肩を揺する。
この男の感情が表に出るのも、最近では青島寄りの話だけとなった。
大胆な取引を上層部と交わすまでの豪胆さを持ち得る代わりに、室井は確かにあの日から何かを捨てた。
青島が消えた後から。
キャリアとしての自分の価値をより前衛的に受け止めるようになった昨年秋のあの大事件で、室井は全ての迷いを断ち切った。
そう、青島以外。
そしてその青島が失踪。
室井は一つ、何かを捨てたのだ。
塞ぎ込み、ずっとこの世の不幸を全て背負ったような顔をしていた。
こんな室井を見るのは久しぶりだ。
なんだか一倉の気分まで明るくなってくる。
「俺は背後で、いつ掴みかかるんじゃないかと冷や冷やしてたがな。独占欲バリバリで恋敵を牽制したんだぜ」
「誤解を招くような発言をするな」
「顔が怖いんだ、お前は」
「生まれつきだ」
今度は一倉と言い合い始める室井を青島が下から交互に見る。
その視線に気付き、室井がふと表情を変え、僅かセーブする。ひとつ、仕切り直すように息をゆっくりと吐いた。
そして青島に指先を伸ばした。
躊躇いがちの指先が、目元まで隠す青島の前髪を愛撫を思わせ梳き上げる。
「死んだかと思ったんだ」
「あ・・・」
「二度と会えなくなったんだと・・」
「・・・ごめん」
「・・心配した・・・おまえが・・・・あの日、本当に俺の手の届かない所へ行ってしまったんじゃないかと思った」
素直に口唇を尖らせ謝罪をすれば、室井の目が成熟した男の哀愁に揺れる。
一人称が変わった室井の声は、穏やかながら悲壮に溢れ、それは青島の喉を締め付けた。
「俺・・」
「こうして、目の前にいる。それだけでいい」
室井の声はしっとりと青島の砕かれた心の奥に沁み込んだ。
みんながきっと頑張っていると思って、あの苛酷な日々の中でも諦めずに戦った。
必死で一人、食いしばった。
その時間が、報われていく。
「なんでそんな無茶なんかしたんすか・・・俺の事なんかどこかで切りゃよかった、のに」
「できるか・・・」
「俺だって、そこまで無理解じゃないですよ」
「君を、湾岸署に戻すためだ」
「ぇ?」
「おまえの居場所だろう、あそこは」
「・・っ」
一瞬、言われたことがよく理解できずにいた。
胸の中に吹き荒ぶ嵐に呼応して、ついに隠し切れなくなった寂寥感や孤独感や鬱屈感が一気に溢れ出し
青島の心が持たずに震撼する。
この一カ月、その前の潜入の時からずっと捨てきれずに抱いていた密かな宿志の灯はもう滅していた。
ずっと抑えて堪えていたものは、一番気付いて欲しい人に、一番分かって貰えていた。
青島の奇妙に複雑な色を湛えた瞳が、艶を乗せて室井を見上げる。
「それ、なんか、すっげ、うれし・・っ」
理解をした室井が、慰めるように指先に力を入れ青島の頭をぽんぽんとあやした。
泣き笑いのように濡れた瞳で室井を映す青島の顔をまともに見れず、室井の視線は反らされる。
「―・・・アンタってホント、反則」
「?」
「そういう格好して、髪型きちっとしてさ。家に入る時と全然違うし。落ち着いて見えるし。大人だし」
「何が言いたい」
「すっげ、面白くないって話!」
照れているのか不服なのか、強張らせた頬を痙攣させるように更に堅くした室井は、少し迷ったように漆黒の眼を惑わせた。
そんな室井を一倉が揶揄した目を細めれば、益々室井の眉間は深まった。
一度眼差しを伏せた室井が仕切り直すように息を吸う。
スッとその横顔が青島に戻る。深めたその瞳は男のもので、青島の良く知る眼差しだった。
その眉はさっきよりもずっと深く顰められている。
「もう、逃げるのも遠慮するのもやめだ。馬鹿馬鹿しい」
「ふぇ?」
「聞きたいことはもう全部聞く。おまえの気持ちなんか知るか」
「うん?」
「一体俺の部屋で君は何をしていた」
「は?」
「何を隠した。いや、何を探していた」
なんか話の前後が繋がっていない気がして、感傷的になっていた青島の思考回路が停止する。
「な、何の話・・・」
「君がウチに同居している間、部屋の中を嗅ぎまわっていたことを指摘した筈だ。以降、そこに疑惑を持たないとでも思っていたか」
「ゃ、えっと・・・」
「何をしていた」
「ぁ・・・ゃ、でも、それは」
「隠し立てをすると本気でしょっ引くぞ」
「えぇっ??じょ・・・だんっ」
「私は冗談は好きではない」
徐々に室井の声が横柄となる。
横から一倉も不安そうに口を挟んだ。
「おい室井・・・」
「黙ってろ。これは私の案件だ」
だが荘厳なままに室井の制止が響いた。
寛容な男でありたくて、懐の深さを見せたくて、何も聞けなかった。
好きでいて欲しくて、格好をつけて、取り繕った。
怖くて逃げていただけだ。
そんな曖昧で女々しい負い目はもう終わりにする。
「言うんだ」
「俺にだって言いたくないことくらいありますよっ」
「隠し事をするということは後ろめたいことがあると解釈するぞ」
「なんだよっ、まだ俺を疑ってんすか!」
「ああ、もう君が一番信じられなくなった」
「あっそ!じゃ、名コンビも解消っすね!」
「つまりまだ隠すんだな」
室井の手が素早く動き、青島の腕を掴んで捻ると、真後ろに固定して拘束する。
「いたいいたいいたいっ!室井さんっっ」
「どうした、威勢がいいのは口だけか」
力は込めていないが、正確な締め技に青島の顔が情けなく歪んで訴える。
「白状するんだ」
「ギブアップだってっっ」
「早く」
「ん、んんーッ、だからぁ――!」
「まだ足りないか」
「痛ってぇ!」
「言え」
「・・え、え、え、・・・・・えろ本?」
「あぁ?!」
「だからぁ、エロ本!」
「――」
「いやだって!暇だし!室井さんだってそーゆーの見んのかなとか。どんな女でヌいてんのかなとか。きょーみあんじゃん!」
「・・・・」
爆笑に変わった一倉の高笑いを背に、室井の顔が能面のように凍り付いた。
*:*:*:*:*
どんな卑猥雑誌だったかと悪乗りする一倉に、それが一冊もなくてと青島がぼやきを返す。
一人蚊帳の外に追い出された室井は窓の外の夕陽に漆黒の瞳を照らしながら棒立ちとなっていた。
あんなに真剣に探したのに。
あんなに必死に辿ったのに。
どれだけ心配したか。どれだけ不安にさせられたか。
「DVDとかネットの可能性はどうだ」
「それも堅苦しいもんばっかりで。家じゃヌいてないのかも」
「お前で抜いてるかもしんないぞ」
「・・・・・・一倉」
室井の凍てついた低い声が一倉と青島の間を遮り、二人は肩を竦めてフリーズした。
恐る恐る見上げる二人に、室井が険しい目を寄せる。
・・・・あんなに胸が張り裂けそうな思いで家探ししたのは、エロ本?
ふううと自分を落ち着かせるため、室井は長い息を落とした。
その室井を、一倉と青島が訝し気に見つめる。
ゆっくりと室井が青島に目を据えた。
音もなく影が落ちる。
室井の手が徐に伸びて、青島の後頭部に回される。
そのまま一倉の前にも関わらず、室井は強く青島の頭を胸に押し付けた。
「・・・・むろいさん?」
要領を得ない室井の動きに惑う青島の呼び声に、室井の背筋がざわりと栗だつ。
自分の名を呼ぶ青島の声を、夢の中で何度も聞いた。
同じ声、同じトーン、同じ口調。
やっぱり青島だ。間違いなく本物の青島だ。帰って来たのだ。此処に。
もう片腕も回し、室井は抱き込むように青島の髪に鼻を埋めた。
さすがに一倉の前で照れ臭くなった青島が、困ったような抵抗を見せるが、もう、どうでも良かった。
「君に、渡したいものがある」
「んん?」
室井の手が青島の手を取り、自らのポケットへと誘導した。
そこに潜められていた古びた布地が青島の指先に当たる。
憶えのあるその感触に、へにゃっと青島は笑った。
「あれ見たの」
「・・・・ああ」
赤いバンダナに巻かれた青島の宝物の靖国神社の御守りが、今青島の手に返される。
ようやく事件が収束し元通りになっていくのを実感した。
自分を抱き込む室井の屈強な腕の強さに、彼もまた日常を奪われたことを知る。
引き離された時間は確かに二人の間に存在した。
それでも同じ場所で同じ傷痕に戦う相手がここにいること、失った指先が求める居場所が与える確かなものもまた
紛れもない刻印となって、この渇望の意味を求めさせた。
鎖で互いを繋ぐように、受けた苦しみや痛みが二人を繋ぐのなら、そこには名付けることのできない激しい感情が存在し
愛だの恋だのと未熟で淡いだけだった密かな熱を、咆哮に生まれ変わらせてより深みへと引き摺り込む。
一体その先に更に何があるというのだろう。
怖くなったのか怖じ気づいたのか、ヴェールのかかったような夕暮れの大気に眩暈にも似た眩瞑に襲われ
青島は思わず息を止めて視界を落とした。
その目元に落とす影が色濃く睫毛を黒々と光らせる。
ほぅと重たい息をし、コテンと室井の肩に顎を乗せたその瞳に、室井の紺のスーツに付いていた桃色の破片が目に入った。
なんだろうと持って片手を回し、それを指先で摘まむ。
「ぁ、桜だ・・・」
「外はもうすっかり春だぞ」
「そっか」
さっきの中庭では春の陽射しは感じたが桜の木は見えなかった。
季節はもうとっくに変わっていた。
これは始まりなのか終わりなのか。
ようやく触れ合う二人の後ろで勝手にやってろな視線の一倉が目を細める。
その横には季節を連れてきたすみれの花束も黄金色に夕日を浴びていた。
