東京変奏曲3season Ⅰ









第二章
3.
「んだよ、真昼間から仲良くベッドインか」

まるでベッドの上で抱き合うように身を寄せていたことを指摘され、すみれは羞恥に目尻を染めながらベッドから足を下ろした。
動揺を表すようにヒールの踵がシーツに引っかかる。
その身体を青島が片手で遮り、自分の背中に一歩分丸め込んだ。

「すみれさん・・下がって・・!」
「ぇ?」

訝し気な視線を投げるすみれに目もくれず、青島の視線は入ってきた男の一挙一動に警戒を外さない。
片膝を立て、踏ん張り切れない足に悪態を吐きながらも、出来るだけの睨みを効かせ逡巡する。

どうしてコイツがこうも容易くここへ入ってこれるのか。
警察は――新城さんはまだコイツを危険人物として認識していないのか。

「そう怖いカオすんなよ、ただの見舞いだろ?」
「手ぶらで?」

負けん気の強いすみれが素っ気なく言い返す。
事情は見えないが、確かこの男は本部をクビにされた筈だ。
また復帰するという意味か。復帰も何も、事件を勝手に終わらせたのは本店だ。
それとも言葉通り良心の呵責で見舞いがてら謝罪に来たとでも?プライドの高いキャリアが?
それに、青島くんのこのリアクション。

それだけでもすみれの不信を煽るには充分だ。
青島の悲劇の全てはこの男の一存から始まっている。
とても好意を寄せる気にならないすみれは不愛想な瞳でねめつけた。

「ケチ臭いから出世しなかったのね」
「おお、こわ。生きのイイ女だな」
「どうも!」

ツンと上向き、すみれが髪を優雅に掻き揚げる。
いいから下がってと青島が腕で合図してくるので、すみれは主導権を渡すためにそれに従った。
ベッドの上で、薄いグレーの院内着にニットを羽織るだけという心許ない姿で必死に何かを堪え乍らも、純真な男気で庇う青島の横顔に
何処か異様な疑惑を抱かせる。
そんな不安を滲ませるすみれの視線に気付きもしない懸命さで、青島がキッと桶永を突き刺すような眼差しを送った。

「ふん、元気そうだ」
「どうしてここへ入れた・・!」
「丁重に迎え入れて貰えたぜ?」
「はっ、んな見え透いた嘘で誤魔化せられるって?!」

すみれがここへ入るのにも、新城から詳細な手続きがあったと先程説明を受けたばかりである。
仮にキャリアであることを理由に仕事だと弁明しても、フリーパスになる筈がない。
事情が分からない以上、扉の向こう側にも疑いを向けた方が良い。
すみれと二人きりの世界で話していたとは言え、お互い刑事だ。扉の外からは何の音もしなかった。

「積もる話をしたくてわざわざ出向いてやったのに。久しぶりの再会だろ、喜べよ」
「心にもないことを・・!」
「んじゃ、用件を話そうか」

仏頂面のまま青島の視線が一度、背後に向けられる。

「すみれさんを、帰したい」
「・・・どうぞ?」

桶永が恭しく片手を差し出し扉へ誘導する。
青島は小さく首を振った。

「違う。俺が下まで送る。ちゃんと見届けたい。・・・せっかく来てくれたんだ」
「歩けるのか?」
「・・・・」

脂ぎった笑みでいやらしく笑みを作る桶永を、青島は背筋が凍る不気味さに息を殺し、心臓が破裂しそうなまま睨み返した。
男に貫かれて歩けなくなるほど善がったくせにと、桶永の虹彩が過去を蒸し返しているのが分かる。
そして、いつかのように、自分が担いであげようかと侮辱しているのだ。

でも、と青島は考える。
ここで、すみれまでを巻き込むわけにはいかなかった。
このままでは桶永は間違いなくその口汚い口唇で余計なことを暴露するだろう。
先程青島が事件の概要を述べただけですみれは泣いてくれた。
同時に、青島の傷を彼女にも背負わせる対価を払ったことに気付かされた。
これ以上傷つけたくない。

すみれは、そして湾岸署は青島にとって未来に続く場所だ。
護りたかった。

桶永が扉の前から一歩も動かないことを確認し、青島は保たれた距離を維持する中、ゆっくりとベッドの淵に足を下ろしていく。
一カ月ぶりだ。
ちゃんと歩けるか不透明だが、近々動き回れることを想定し、松葉杖は既に用意されている。
それを取って、すみれの顔を見上げた。

「下まで送るよ。荷物はそれだけだったよね?」
「・・・うん、でも、あの」
「大丈夫だから」
「分かった」

多分、心配である気持ちを飲み込み、青島の沽券を優先してくれた。
刑事である直感も彼女を後押ししただろう。
二人でこの場から退出することが何より先決である。

そんなすみれに感謝しつつ、青島は久しぶりに両足に体重を掛ける。
もちろん用を足すときや風呂など、ベッドから降りたことはもう何度もある。だが必ず介助がついていた。ほんの一瞬だった。
そもそも部屋が綺麗なため、最初の頃なんかは這って行ったくらいだ。

「・・っ、」
「大丈夫?」

少し呻いた声に気付いたすみれが駆け戻ってくる。
洗い晒しに落とされ乱れた前髪の奥から小さく笑って安心させ、青島は一歩を踏み出した。
すみれがそっと重心を支えてくれる。
別に足の骨が折れているだとか、筋肉が断裂しているだとか、そういう怪我じゃないんだ。
火傷で皮膚が引き攣っていたり、打撲で肉が腫れていたり、そして想像もしたくない場所が未だに痛んでいるだけで
歩けないことはない。大丈夫、大丈夫だ。

「いこ」
「うん」

桶永を無視して、寄り添うすみれと共に扉を開ける。
そこには何故か誰もいなかった。
ワックスが効いて埃一つない廊下にカツンと杖が叩く音が響く。

変だなと思う。
いつも着替えや食事の際、出入り口に下げるときさえも、馴染みとなった男が二人、扉の前に立ってたし
あの太っちょのおっさんとも和やかに会話していたの見たし、何より気配をずっと感じていた。
人払いされた?

青島が首を斜めに傾けすみれの耳元に鼻を埋める。
伸びた綺麗な首筋が反るように弧を描き、青島の低い声がすみれの髪を擽った。

「ね、すみれさんが来たときも誰もいない?」
「んん、スーツの男性が二人立っていたわ」
「・・・だよね」

肩を貸して支えるように足並みを揃えるすみれが青島の腰に手を回しているせいもあって、お互い耳元に直接言葉を吹き込むように囁き合う。
仲睦まじい恋人同士にも見せるその息の合う二人の少し後ろを、桶永がニヤニヤしながら付いてくるのをすみれの髪越しに確認できた。

「ほんとに平気?あたし帰っちゃっていいの・・・?」
「気にすんなって。だってこの人警察の人じゃん」
「そうなんだけど・・あたし、なんかきらい」
「はは・・、キャリアでも?」
「あたしも多少は選ぶの」
「ですよね。それよりさ、すみれさんはさ、新城さんに何の指示受けて入ってきた?」
「あたしは――、んとね、まず時間指定。午後三時は丁度回診に当たること。扉はほらここ、ここが二重になってて――」

すみれが指差した通り、廊下はさほど長くなく突き当った。
ノブを回す。鍵は掛かっていない。
やっぱりそこにも誰もいなかった。
ただ、ホテルの一室のようだったこれまでとは一転し、如何にも病院というような内装に変わる。
院内放送で医師の呼び出しなどを行う様子が遠くに聞こえ出し、紛れもなくオキシドールの臭いがした。

きょとんとした様子ですみれが振り返った。

「変ね、ここにも人が立っていたのに。二人。そこを曲がるとエレベーターがあって、診察フロアに降りれるの」
「そうなんだ」
「どこ行っちゃったのかしら」
「警察の人だった?」
「多分ね。ここで手帳と合言葉を出すように言われてさ」
「合言葉?」

不思議そうな青島の瞳がすみれに尋ねる。
合言葉とは仲間内で共有するものだ。桶永を仲間と認識した誰かが教えたのか?
それって階級社会に属する人間は上の命令には逆らえないってこと?

青島はエレベーターを待つ間、桶永を肩越しに振り返り、顎を上げた。

「アンタ、何て言って入ってきたんすか」
「別に?」
「ここってそう簡単に入れないみたいですけど?」
「池上の名を出しゃ誰も反論出来ねぇよ」
「ここに居た人たちは?」
「ちょっと席を外してもらったさ」
「・・・・」
「“おてんば姫”なんだってな、合言葉。お前にぴったりだよ。全く誰の発案なんだか」

あげつらうように桶永が嘲笑した。その瞬間、青島の口端が優雅に持ち上がり、挑発的な煌めきが瞳を湛える。
初めて猜疑心を隠せず桶永の表情が歪んだ。

今、青島の中でこれは桶永のスタンドプレーであることが確固として見定められた。
合言葉である。
聞いた当初は恥ずかしさもあってムカついたものだが、“おてんば姫”は一倉と新城と室井の中だけで共有されていた隠語の筈だ。
発案者は一倉だと聞いている。
つまりは、馴染みのメンバーが業務とは無関係に室井を揶揄う目的で茶化した遊び言葉だ。
それを桶永にまで教える筈がない。
桶永まで、正しくは捜査としての関係者と共有するつもりであったなら、もっと別の言葉を用意したはずだ。
この言葉を知っているのはごく数名、主要三者とその直属の部下、SPくらいだろう。

つまり、“おてんば姫”で入室したということが、桶永の非合法な行為を証明する。


桶永の気配が明らかに焦れたものに変わっている。
青島は肩越しに振り仰いだまま、すみれを抱きかかえるようにして到着したエレベーターに乗り込んだ。

「アンタでも、そんなミスするんだな」
「――」

理由をまだ分かっていない桶永が、険しい顔で青島を探るような眼差しを寄せる。
恐らく今脳みそはフル回転しているに違いない。

どうやって合言葉を入手したのかは分からない。
でも新城はやはり桶永を信用していない。そしてこの病院へ青島を匿う作戦は相変わらずあの三人で行っているものだ。

答えに窮したまま、一緒にエレベーターに乗り込もうとした桶永に、青島は人差し指をちょんちょんと横に振った。

「おっと、駄目ですよ。俺たちはアンタを信用してないんだから。アンタは階段使ってください」
「!」
「ほら、早くしないと間に合わなくなっちゃいますよ~」

扉は青島の言葉に同調するように静かに閉まっていった。













4.
青々とした芝生が広がる中庭がガラスの向こうに見える。
院内の廊下の端で、桶永と青島は一定の距離を保ったまま向き合っていた。
すみれは先程無事に返すことが出来た。
タクシーに乗せるまで付き添ったから、彼女が狙われる心配はないだろう。

二人きりになるのを避けるため、外出許可は出ていないと言い張る青島に桶永も妥協し
病院の外れに位置する廊下の突き当りで、二人は渡り合う。
辺りに人影はない。
ただ、廊下の向こう側はレセプションフロアであり、大声を出せば誰かが確実に気付く。
尤も友好的に話をする気などない青島は、等間隔に並ぶ太い柱に寄りかかりつまらなそうに窓の外を眺めた。
午後の陽射しが木漏れ日となって窓越しから燦々と降り注ぐ。

「これからどうするんだ?」

桶永の少し見当違いのような、的を得た問いに、青島は視線すら向けず、沈黙する。
春もまだ早い冷えた風が足元を吹き抜け、青島の細い髪と薄い院内着をハタハタとさざめかせた。

「ちょっとここ寒くないか」
「・・・・アンタ、何しに来たの。今更」

気遣われるのも見当違いだ。
苛立ちのようなものを隠しきれず、青島の低い声が桶永を断罪する。
こうして二人きりで向き合うことに恐怖や嫌悪がなくなったわけじゃない。
のうのうと顔を出せたことにも腹が立つ。
それに萎縮する自分自身もだ。
そもそも、のこのこ出てこられる身分なのか?

だが、視線さえ向けられない青島の態度に焦れていたのは桶永の方だった。

「怒っているのか」
「怒らないと思っているのが不思議ですね」
「言い訳をするつもりはねぇよ・・・それでも会いに来た恥を少しは汲んでくれてもいいんじゃないか」
「アンタに恥なんて感情あったの」
「俺だって人の子だ」
「・・はっ、馬っ鹿馬鹿しい・・・」

桶永が浮かべた微笑が光の加減に溶けた。
すみれがいなくなったことで幾分親密さを醸し出した口ぶりが、本題に入り始めたことを伝えてくる。

「そうやって噛みつくとこ、変わらねぇな・・」
「そんなに知り合った記憶もないですけどね、こっちは」
「そうでもないだろ」
「何が分かるってんだ」
「隅々まで堪能した覚えがあるが。・・足りなかったか?」
「だ~からッ!何しに来たんだよっ」
「迎えに来たんだよッ!」

思わず苛立った青島の声に合いの手を入れるように桶永が叫び、青島は不本意にも顔を向けてしまった。
ベッドで知らぬ箇所がないほど深く愛し合ったと、夜を仄めかすような口ぶりにキッと声を尖らせた勢いも
焦れた桶永の顔に意表を突かれ、青島の口許が開いたまま止まった。
何言ってんだコイツはという驚きに満ちた瞳が真っすぐに桶永を捕らえる。
そこには冗談でもなさそうな桶永の真剣な眼差しがあった。

「・・・悪ぃけど、俺、警察官なんで」

そよ風に乗せるように、悪事には手を貸せませんと暗に述べれば、桶永は微動だにせず青島を視線で絡めとる。
保たれた距離を詰めないのが、逆に桶永らしくなく妙に不安と不気味さを青島に抱かせた。

ばぁか俺だって刑事だよと零し、桶永は奇妙にも落ち着いた男の声で話し始めた。

「そうじゃない。惚れた男を迎えに来た」
「意味わかんねぇですけど?」
「恋人だと思っている」
「勘違い野郎?」
「青島」

初めて名前をまともに呼ばれた。
思わず合いの手のように返していた青島の口が止まった。
艶めいた青島の瞳に風が踊り、流された前髪で奥底へと秘められた。
諫めるような桶永のその声に、さっきまでの焦りはない。だからこそ余計に男を感じさせる。

「青島」
「・・・なに」
「俺んとこ来いよ」
「・・じょーだん」
「冗談でこんなリスクは犯さない」

酔狂にも本気らしい桶永に、一拍置いて青島は冷めた目を反らすことで反発した。

「火事がなければ今もお前は俺のものだった」
「・・・あんなことしといて恋人だなんて、相当頭イカレてんじゃないの」
「室井にも同じこと言われたよ」
「・・・室井さん・・?」

青島の瞳に動揺が走り、不意に見せた脆さは桶永の胸中に染み渡る。
桶永は小さくやつれた笑みを浮かべた。

何故ここで室井の名が出てくるのか。
少なくとも室井は自分の身に起きたことを知っている。

「言ったのか・・・」
「・・・・」
「・・・サイッテー」

無言で応えた桶永に青島はありったけの恨みを乗せて唾棄した。
室井には知られたくなかった。室井の前では気高い理想を掲げていたかった。
でも勘付いてはいるだろうし、何より知るのは時間の問題だったことも事実だ。
だったら手間が省けて良かったのかもしれない。

「戻るとこ、ないだろ?」
「それでこの理屈?あんなことあって!俺がアンタんとこ行くとでも思う?随分と舐められましたね」
「本当に、手負いの野生動物のようだな」
「火事の中、助けに来なかったことを俺が怒ってると思ってるところが図々しいんですよ」
「違ったか?」
「アンタが俺にしたことだろ!」
「なぁ、それでも肌を合わせた仲だ。僅かでも俺のこと何とも想うときはなかったと言い切れるか?」
「大ッ嫌いですよッ」

いーだと舌を出して眉を顰めれば、桶永が軽やかに肩を揺すった。
青島が詰るように唾棄しても何にも動じなかった桶永が、今日に限って受け入れるように目尻を細めるから調子が狂う。
嫌われたモンだと乾いた笑いが春風に誘われ、桶永が両手をポケットに突っ込んで空を仰ぎ見た。
麗らかな春の陽射しが酷く乖離的に映る。

「三年前だった。本部をけしかけた男に興味を持った」
「・・?」
「そんな風に、ある男を一心に見つめる瞳が羨ましかった。欲しいと思った。俺こそが欲しかった。・・・最初にそう言ったろ」
「・・・だから?」
「強引だったことは謝る。誰かを口説いた試しがない。だから気持ちだけが先走った」
「は?何言って・・・」
「どうしてこんなにも欲情させられんのかすら、分かってなかった。そんなのは初めてだった。・・・これでもキャリアとして自律は重んじてきたんだぜ?」
「キャリアの泣き言なら他当たってください」
「男を抱きてぇと芯から思ったのはお前が初めてだ。何人も抱いてきたくせに、まるで餓鬼みたいに喰っちまいたいよ」
「ば・・っ」
「お前が欲しい。誰にも渡したくないくらい、お前がいい。相当惚れちまったみたいだ」
「っっ」

毅然と桶永は言い切った。
有り得ない告白に青島の頭は付いて行かず、真意を探るように訝し気な視線が揺れる。
だがその頬は不覚にも少し赤らみ、熱を持っていた。

では最初からコイツは俺が好きだったとでも言うつもりか。男だぞ?キャリアだぞ?そんなの簡単に信じられるか。
でも見たこともない桶永の視線がそれを裏付ける。
桶永の意思を持った目がはっきりと青島だけに向けられていた。

「来いよ、俺んとこに」
「ぃ、厭ですよ」

青島の震える口唇が赤らむほど噛み締められる。

「どうすりゃお前は頷いてくれるんだ?」
「男ですよ?ただのノンキャリで・・・あんたの足しになれることなんかも何も――」
「俺はキャリアにそこまで固執してないさ」
「っ、けど、じゃなくてッ、いきなりそんなこと言われたって・・・、そう簡単に信じられるか・・っ」
「そんなのいいから。俺んとこでゆっくりと考えればいい」
「ヤですよそんなの・・そんな、いい加減な・・・こと」
「それでいい。俺の気持ちは少しも変わらない。それも、伝わらなかったか?」

繰り返し執拗に嬲られた桶永の指先と、深く埋め込まれた怒張、熱を孕んだ荒い息遣いがリアルに蘇る。
男なんて、誰もが不器用で、欲望が先走り、愛を伝える手段など持ちえない。
繰り返される律動と、その滾る熱塊が勘違いの全てだ。

「伝わるわけないでしょ、あんなことされて」
「お前に本気になったと気付いたのは、俺も抱いてからだった。何度も抱くうちに夢中にさせられて、手放せなくなっていった」
「っ」
「どうしてなのか、自分でも戸惑って、つい乱暴に抱いちまった」
「せーよくお化けだと思ってたよ」
「今お前の心の中にいるのは誰だ?あれだけ抱いても室井がいいと言うか?」
「・・・関係ない」
「まだ足りない?」
「違う・・!」
「室井のこと、どう思っているんだ?」
「関係ないって言ったろ!」

ここまで一歩も距離を詰めなかった桶永が、時が満ちたと言わんばかりに歩を進めた。
ビクッと青島の身体が震え、それを見咎めた桶永がまた歩みを止める。

「来んなっ」
「・・・青島」
「馬鹿にすんなよ。恋ってそんな、そんなんじゃない・・、そんな簡単じゃないだろ・・!」

桶永が柔らかく目尻を緩めた。
そんな顔も、見たことがない。
何処か嘘くさく、これも演技の一部なのではないか、こうやって身を切り売りすることくらい、こいつらにとっては朝飯前なのではないかと青島の第六感が訴え る。
でも直感が、それさえも信じたがっている。
あんなことされて、あんな目にあっても、人の最後の温もりを捨てることが出来ない。
青島には彼を心の底から憎み蔑むことがどうしても出来なかった。

「さっき・・あんた、ひとつ失態してるんだぜ?それを見抜けていない内は、資格もないよ」
「俺は何をしたんだ?」
「自分で考えなよ。たぶん、一生分からないだろうけど」

コードネームの由来も気付けないそんな浅い観察眼で、青島ばかりか、新城も一倉も、桶永への評価はその程度だ。

「さっき、お前、何に気付いたんだ?」

ふっと青島が笑む。哀し気な笑みに桶永が眉を顰めた。

「もし、俺が足を洗ったら、俺のとこへ来てくれるか」
「・・・行かないよ」
「そうやって室井を想って一生捧げる気か?見返りなんかないぞ。アレは国のトップを目指す男だ」
「・・・知ってるっての」
「俺ならお前を悲しませない、俺ならずっと傍にいてやれる。俺なら同じ気持ちでいてやれる」

青島は返事を返さなかった。
どうであれ、無理矢理抱かれたことはそう簡単に割り切れるものではない。
桶永と行動を共にすることが正しいとも思えない。
好きだと言われてホイホイ乗せられるほど子供ではないし、本当は愛があったと言われたからって、セックスまで理由付けたことを赦したくもなかった。

それでも、この空いた胸の空洞と崩れそうな足元を、同じ罪を背負う桶永なら膿めてくれるんじゃないか、何も遠慮のない関係がそこにあるのではないかと
期待している部分もある。
桶永に向かう烈しい感情はまるで恋のように青島を桶永に執着させる。

室井に操立てしているわけでもなかった。
実らない恋にしがみ付いたって何にもならない。そこは桶永の言うとおりだ。
ただ、ここでこの勧誘に乗ってしまったら、もう二度とこの過去から這い上がれなくなる。この恋を穢してしまう。
あんなに熱く共鳴し合った二人の時間まで穢されてしまう気がした。
それは、青島自身の破滅を意味していた。


青島は気怠く首を振った。
その仕草に桶永が喉を唸らす。

「足、洗う気なんかないくせに」
「何故そう思う」
「それで?傷舐め合って同情に浸りたいわけ」
「・・お前がいればいい」
「罪を償うのが先だろ。それに、そういうことはアイツに言ってやれよ」

桶永は何故青島に固執するのだろう。恋とは他者への理由なき固執ではあるが、それだけじゃ説明なんかつかない部分もある。
青島を手に入れて桶永が満たせるものは何なのか。
今の自分では桶永の告白を信じることは出来ないし、今の桶永の糧になれることもない。与えられるものなんか、それこそ身体しかない。
それが恋だというのなら、恋は身勝手な押し付け合いだし、自己満足の陶酔でしかない。
恋を誰もが神聖化しすぎてる。

それは自分にも言えるかもしれなかった。
逮捕された銀髪の男は、身が焦げるほど桶永に恋をしていた。
どうして大人になるほど恋は上手くいかなくなるのだろう。
春の風は冷たく肌を擦り抜ける。

「アイツ?」
「アンタに惚れ込んで、罪を犯した奴がいるだろ。ソイツの気持ち、アンタに伝わってなかったの?見ていた俺でも分かったのに」
「じゃ、お前は?」
「俺は俺で勝手にやりますよ」
「室井じゃなきゃ駄目ってまだ言うか?」

青島の決意を桶永に伝える必要はない。
青島はこてっと無邪気に首を傾けた。
その髪に春の木漏れ日が燦々と散る。

「あのひとの足、引っ張ったら、承知しないよ」
「攫って行きたくなった」
「だーめ」
「まさかこの俺がこんなクソガキにここまでのめり込むとはな」

大きな影が揺れ、冷えた大理石が静寂を破るように桶永の靴音を廊下の先まで響かせた。

「不思議な男だなお前。お前が知らない俺を、こうやってどんどん引き出してきやがる・・」

桶永がゆったりとした動作で近づいた。
射抜くような強さで直視する青島の瞳を見下ろしながら、手が触れそうな僅かな距離まで来て止まる。
呼吸さえ分かるその距離で、桶永が指先を延ばし、青島の頬を軽く撫ぜ、顎のラインを辿った。
動作を試す様に青島の瞳が婀娜めいて桶永を見上げる。

「本当に攫っていいか」
「誘拐犯にまでなる気かよ。ぁ、もう前科持ちか・・」
「今、俺をどう思っているか、正直に聞かせろ」
「きょーみないって言いましたよ」
「本当に」
「だいっきらいだよ。そういうことは償いを済ませてからにしろよ、ケジメだよケジメ。・・・オトコだろ」
「知りたい」

春の陽射しが桶永の身体によって遮られ、青島の顔が影となる。
光だけを収束するような蠱惑的な眼差しに魅入られながら、桶永はそっと身を傾けた。
片手を柱に付き、覆い被さる。

「お前を俺に教えろよ」
「犯罪者のくせに欲張りなんだよ」
「恋はそんな簡単じゃないって言ったのはお前だ」
「恋なんて、アンタしたことないんじゃないの」
「教えてやろうか、今」

滔々とした瞳で囁く様に小さく返す青島の声が桶永を如何様にも惑わせ凶悪的に惹き込ませた。
口唇が触れそうな距離を留め、淫乱に誘う桶永の言葉に、いっそ清楚なままで青島の濡れた口唇が無防備なまま横に引き結ばれる。
線対称な光と影のふたりの影が長く廊下に描かれた。

「口付けるのは簡単なのにな」
「前みたいにヤんねぇんだ」

艶冶な誘い文句にも、桶永は妖しく笑っただけだった。
流石にここまで最低な男でも、ここでキスをしたら二度と青島は手に入らないことを本能で感じ取っているらしい。
その焦燥をありありと乗せた桶永の指先が雄弁に愛を語り、そっと青島の顎を辿り、上向かせた。

「その眼だ。それが始まりだった」
「・・・」
「一度でいい、こうやって光の下でその宝石を見つめてみたかった。自分を映しこむ色を味わってみたかった。それだけだったんだ」

独り言のように甘く呟く桶永を青島は見上げたまま何も言わなかった。
こんな風に、誰かを強く焦がれる気持ちは知っている。
熱い激情に惑う人の苦しみを、青島は知っている。
どこかで何かがズレて交わらなくなってしまった。でもほんの些細なズレさえなければこのパズルのピースもまた上手く嵌っていたのかもしれない。

浅く幼い恋にただ盲目となれるだけの桶永に妬みのような蔑みを感じる。
否、それは恋に真っすぐと走れる立場への嫉視なのかもしれない。
それはどこか懐郷にも似た憧憬を持って青島をやるせなく取り巻いた。
成し遂げられなかった恋が行き場を失って啼いているのを感じた。

「火事の事はなんとなく察しがついている。俺の失態だ。・・・償いをさせてくれ」
「償う相手を間違えてますよ」
「俺ならそんな顔はさせない」

自分は今、どんな顔をしているのだろう。
目の前にいる男が、不毛な恋に囚われて、誤った想いに先走って、周りを見失っている。

「・・言いますね」
「欲しいものだって、俺なら何だって与えてやれる」
「俺の欲しいものがアンタに分かるの」
「お前は俺に、過去の俺に嫉妬させる気か」

烈しさを湛えつつも茶化したような桶永の口調にようやく見知っている彼を見つけた気がして
青島は観念したように少しだけ視線を窓に逸らした。
院内着だけの心許ない容姿は、桶永から見れば線が細く頼りなささえある。
とうに消えた情痕を探す様に、桶永の視線が青島の肌を彷徨った。

「確かに俺は・・・今誰とも付き合っていないし、アンタの邪魔をしたいわけでもない。ついでに・・・アンタをなんでか嫌いになれないよ。憎めたらいいの に」
「・・お前、」
「あんなこと・・・、されたのに、なぁ・・」
「その気持ちを俺がいつか恋に変えてやるよ」

そう言った桶永は自信満々な割に、どこか寂しそうでもあった。
でも、自業自得だ。

「俺なら寂しい想いはさせない。この先一生お前だけだと誓う。それも出来ない腰抜けよりも絶対幸せにしてやれる。アイツにお前は受け止めきれない」
「・・はは、すっげぇ、コクハク」
「まだ駄目か」
「俺なんかの何がいいんだよ」
「お前こそ、あんな愛も囁けないような男のどこがいいんだ?」
「そこは同感ですね」
「俺ならお前を丸ごと愛してやれるのに。それでもお前はそうやってアイツを選ぶ・・・」

くりくりとした飴色の瞳に魅入りながら、桶永の太い指先が風を切って揺れる青島の髪を愛撫するように指に絡めた。
そのまま人差し指がその後方をそっと指し示す。

「そこで控える、その男を」

誘導に抗うことも忘れて振り向いた青島は瞠目した。










back      next             top