東京変奏曲3season Ⅰ









第二章
1.
肌を刺す痛みで、眠りの底に沈んでいた意識を引きずり起こされた。
白い視界は夢と現実の境を混濁させる。
びくりと頭を震わせようとして、動かせないことに気づく。顔に手をやろうとしたけど手も動かせなかった。
逸る鼓動とゆっくりと戻る視界に、青島は自分が点滴を打たれベッドに横たわっていたことを認識する。

「俺もしぶといね・・・」

大丈夫、こっちが現実だ。
大きな深呼吸を残し、青島は一旦瞼を閉じた。
枕が二つあって、その隙間に沈み込んでいたようだった。
昔から丸まって眠るのが癖だった。

顔を歪めながら身を起こし、ベッドの背凭れに体重を預けると青島の透明な瞳は白い天井を映す。それからぼんやりと窓の外を見上げた。
真っ青というよりはスカイブルーに近い春っぽい空だ。
部屋は最上階か或いは建物が高層に位置しているのか、ベッド位置からは他に何も見えない。

見舞いには誰も来ない。
多分、この無機質な白い壁が余計バーチャリティ感を増大させるのだろうが、誰とも会わない時間は青島を社会から遠ざけていた。
どうやら扉の外で入室全てを制限されているらしかった。
看護士すら見たことがない此処は、それでも一応病院みたいだ。
毎日往診に訪れる愛想の良い太っちょなおっさんの顔に見覚えがあるから、心配はしていない。

面会できるのはそのおっさん唯一人だった。
食事も着替えも扉の向こう側の厳つい顔した男が無言で運び入れる。
今日が何日で、今外はどうなっているのか、まるで知らない。時間は透明な窓が見せる太陽頼みだ。
自分が世界から浮いてしまったみたいだった。

「ィ、・・テテ」

ちょっと動かすと身体中に痛みが走る。

「随分とワイルドになっちゃったねぇ・・・」

しげしげと包帯を巻かれた肩口から胸元を見下ろし青島は呟いた。
何度も点滴を繰り返したらしい腕は痣だらけだ。
本当は煙を吸い込み喉も火傷を負っていたらしいが、その間は意識もなかった。
数年前の秋の捜査中に負った刺創は肉が盛り上がり今も触感の違いを残す。
先の潜入で負った三発の銃創。皮膚が引き攣った朱色に変色している。
痛みはもうないが親が見たら悲しむに違いない。
ああ、これを見て酷く顰めた顔をした人がもう一人いた。

ただ新陳代謝が良いのか、肌細胞が若いのか、遺伝なのか。
元々傷跡が残りにくい性質で青島の肌はこの歳にしては滑らかで陶器のようだった。
凍傷になっていた四肢だって完全復活だ。
子供の頃は随分と擦過傷を初めとした生傷が絶えなかったものだが、その名残もどこにもない。
男であることもあり、青島もそんなに気にしてはいなかった。いずれ忘れたようにこれらの痕も薄れていくと思っていた。
なのに刑事になってからこの身体の散々な目はちょっとどうかと思う。また傷だらけだ。

「ちょっとしたヤクザ崩れみたい?」

少し、痩せたかもしれない。
点滴を受けていない方の腕を上げ、力瘤を探してみる。
引き締まったというよりはやつれた印象の衰えは、多分疲労のせいだ。
妙に身体は怠かったが、目覚めた当初よりはだいぶ楽にはなっている。

「刑事ってゆーよりカタギに見えないかもなぁ・・・、どーすんのこれ?・・・んん、待てよ、逆に子供受けすっかな」

「おにぃちゃん、すげぇ、おう、オトコのくんしょーよぉ!・・・なーんてな」

青島の独り言はでかい。
一人百面相をしながらポジティブに気持ちを変えていく。
でも、今はそれも長くは続かなかった。

「あ~あ」

言葉も力なく白い大気に消え、青島はぼんやりと点滴が刺さる腕を見つめた。

火事の直前まで、あの塔の中で自分が何をされていたのか。
目に見える傷など大した問題ではないのだ。
鈍く疼く様に熱を持つ下腹部と下肢の間が、忘れたくても消せない刺激で常に苛ませる。
随分と時間が経過しているが、場所が場所だけにまだ傷ついているのかもしれない。
脂ぎった桶永の体臭。雄々しい楔。シーツに押さえ付けられた強靭な体力。銀髪男の香水の匂い。耳元に吹き込まれる生臭い息遣い。
あさましい記憶は青島の息を殺し胸を圧迫する。

「・・っくしょー・・・」

両手で目元をぐしゃりと覆った。
あれは誰かへの当てつけだったのか、それとも嫌がらせだったのか。
昔からどうも自分は特定の人には好かれる一方、ある特定の集団の反感は買いやすいみたいだ。
自覚はしている。
物好きっているんだよな。
でもこんな手段で、こんなにも強い感情をぶつけられたのは、初めてだったかもしれない。

誤解されがちだが、傍から見るより青島は強くも気丈でもない。
朗らかで人懐っこいだけで、大層な理想を掲げてきたわけでもないし、英雄になりたいと思ってもいない。
ほんの小さな街角で、誰かにちょっぴり感謝されるような、そんな些細で質素な生活を欲していただけだった。
本当に強いというのはどういう人間を指すのか。それを体現する男と出会ってしまってからは自分の脆さだけが鼻に付いた。
寄生虫だなんて言われた時だって、それなりに傷ついたんだけどな・・・。

今、性病やエイズなどに感染していないか検査中である。
穏やかに、青島に起きた事態にも動じず丁寧に対応してくれたあの太っちょなおっさん医師の存在は、思った以上に有り難かった。
いつか、すべてを忘れられる日が来るんだろうか。


「なんで俺、生きられてんのかな・・・」

どうして生き延びられたのか。
あの惨禍の日々と、衝撃的な火災の終焉の記憶は麗らかな病室で想起するには、あまりに虚ろだ。
死を覚悟したんだ。
セットもされていない洗い晒しの細髪が力なく額に垂れ、青島の人好きのする目元までを覆う。

繰り返し与えられた見知らぬ快楽と、望まぬ自分の変化に未だ心が追い付けていない。
もう駄目だと悟りながら何度も耐え抜いた。
凌辱され、銀髪の男に置き去りにされ、迎えもない奥部屋で、それでも酸素を求めてベッドから転落したところまでが
青島にとっての定かな記憶である。

白濁とした意識の中で深い声を聞いた。
逞しく温かい、懐かしい匂いの腕の中に囲まれていた。
煙の埃臭い中で、清涼な水が滴るような貴い声で、名を呼ばれた。
それらはどれも不確かで陽炎のように時間の境が前後し、願望が見せた天国のようなものだったのではないかという気がしている。

最後に目に焼き付いているのは、凛として現場に向かうあの真っすぐな黒い背中。
青島の、理想だ。
やっぱ夢か。


「テレビくらい入れとけよな~」

ベッドに起き上がれなかった時こそ不要だったが、回復するにつれ持て余す時間が増えた。
正直退屈だった。
余計な時間は余計な邪念を引きずり出すから面倒臭い。
事件の進展さえ青島には聞かせてくれる者はいない。
あれだけの広さの工場で起きた火災だ。絶対ニュースにはなっている筈なのに。

嘘なのか。本当なのか。それを確かめる術はこの白い部屋には存在しなかった。
あの後あの工場はどうなったのだろう。みんなは逃げられたんだろうか。閉じ込められていた彼女も無事だったのだろうか。
そして消えゆく視界で自分を助けにきた男は誰だったのか。
思い出したらどうにも止まらなくなった。

「くっそぉぉ~・・・、なんかもぉ疲れちゃったなぁ・・・」

枕を掻き寄せそこに顔を埋めた。
青島の柔らかい髪がふにゃりと枕に舞う。

もうずっと、室井の声を聞いていない。
あおしま、そう呼ぶあのひとの声が聞きたい。人前では見せないけど、花が綻ぶように時折目尻を緩めるあの顔が見たい。
逢いたかった。でももう逢いたくない。あの部屋から桶永に連れ出されてから、また大きく状況は変わった。
穢れていく自分を関わらせたくなくて逃げ出したあの雪の夜。
室井はそれでもいいって言ってくれたけど、自分を抱えさせるにはあまりに、もうあんまりだ。

どうしてこんなになっちゃったのだろう俺たちは。

逢ってはいけないのだと思えた。
それを室井にさせてはいけない。
他の男に凌辱され、ようやく自分の本心に気付いたなんてマヌケだから
それでいい。

一番怖いのは、それでも傍で見届けたいと懇願を訴える自分の心と、それでも構わないと青島の手を取ってしまいそうな室井の執着だ。
胸が張り裂けそうに軋む。

無機質の白い空間は音すら吸い込んでしまって、感情だけを曝け出すから、怖くなる。

輝かしい未来を願う男の影となり、ライバルとなることを望んだ日々。
室井に青島を妥協させるほど落ちぶれてはいないつもりだった。
でも願わくば。
どうかあのひとに幸せと栄光を与えてください。

自分はこんなに弱かっただろうか。
こんなんじゃ室井に合わせる顔もない気がした。
室井はどこまで知っているんだろう。

遠くから硬質の靴が廊下を叩く音が近づいてくる外の気配を青島は枕に顔を埋めたままぼんやりと聞き流した。

何をするにも今は気怠く、元気が出ない。
ずっと気を張っていて、その糸がプツンと切れてしまったんだと思う。
価値がなくなった自分はそれまで頑張ってきたことさえ砂の城に思えた。
それはこのまま逃げてしまいたい気にすらさせられる。

「・・・・」

自堕落な思考を遮るように、その時、陽が雲間に隠され、空気が変わった。
刹那、ほぼ開かずの扉である目の前の白いスライドドアが乱暴に開かれ、弾かれる。
空気を切り裂く大きな衝撃音に、青島はびくっと身を震わせ顔を上げた。
思考の深みが途切れ、何が起きたのか追いつけない丸い瞳が動揺に大きく開かれ、彷徨った。
いつもなら遠ざかっていく筈の足音が扉の前で止まったと思った途端の出来事だったから、完全に油断していた。

「ぁ・・」

でもそれよりも驚愕したのは、そこに立っていた人物にだった。

「うそだろ・・・?」
「あおしまくん・・っ」
「ぇ、なんで」
「もぉばかッ、すっごい馬鹿なんだからッ、いっつもそう!」

あるだけの悪口を立て続けに並び立てるすみれが両手に持っていた花束と荷物を放り投げ、青島に飛びついてきた。
点滴のチューブがずれ、針が肉の中で曲がる。

「いたいいたいいたい、すみれさんっっ」
「ちょっとくらい我慢しなさいよっ」
「って言ってもね・・っ、あのね・・っ」

首っ玉に縋りついたまま感極まった額を院内着が乱れる青島の首元に埋めるすみれの黒髪がさわりと顎を擽った。
その小さな身体は心なしか小さく震えていた。
抱き返すことも抱き締めることも出来ず、青島は自分に縋るすみれを呆然と見下ろす。
すっごい久々な気がした。
すみれの髪から漂う匂いも、知っている潮の香りも、誰かとこうして話すことも。

「生きてんじゃない・・・っ」

暫くの沈黙が気恥しくなったすみれが顔を押し付けたまま、くぐもった苦情を訴える。

「はは・・・」
「何笑ってんのよっ」
「元気そうだなぁって」
「青島くんこそ・・っ」
「うん・・・おかげさまで?」
「連絡してって約束したわ」
「・・・だったね」
「ひどい格好ね」
「ワイルドでしょ」
「ワイルドの意味を間違えてるわ・・・」

馴染みのリズムに青島の顔が少しだけ綻ぶ。

「すみれさん、大歓迎なのは嬉しいんだけど、ほんと、ちょっと、点滴外れそう」
「あっ、ごめんっ」

慌ててすみれが顔を上げた。
至近距離で久方ぶりに二人の視線が合う。
ふわっと笑いあえば、照れくさくなったのは青島の方で、視線を軽く天井へ向けた。
すみれの黒々とした丸い瞳が少しだけ潤んで見えたのはきっと気のせいじゃない。

「あの、さ」
「あー!」
「え、今度はなに?」
「ケーキ買ってきたのに放り投げちゃった」
「・・・・」

ベッドからいそいそと降りたすみれが花束と小箱を回収に向かう。

「青島くんのせいよ」
「そうだっけ?」













2.
ケーキなどという洒落たものを口にするのはいつ以来だろう。
派手に床に落下したせいで二種類の味が交じり合ったケーキを、青島は大きな口を開けて放り込んだ。
甘ったるい生クリームの滑らかさが舌で蕩け、ふんわりと薫るバニラビーンズ、オレンジ、シナモンなどの味がカラフルにハーモニーを持つ。

「んんん~っっ、うーまーいー」
「ここのケーキすっごい行列なのよ。絶対いつか食べてやろうと思ってたんだぁ」
「俺を口実に使いましたね」
「人聞きの悪い言い方はやめて。すみれさんの自腹よ」
「それはすごい。俺のため?」
「そういわれると反抗したくなるわね」
「泣きべそかいてたもんね」
「青島くん、耳も治療してもらったら」
「意地張っちゃって」
「・・取り上げられたいの?」
「・・・いただきまぁす・・・」

よろしい、と頷いてすみれも笑顔でケーキを堪能する。
他人の幸せそうな顔ってどうしてこうも気高い価値があるんだろう。
先程までのドロドロした腐ったものが、消えていく。
無警戒のその顔に、青島までほんわかとなれる。

「しあわせ~って今思ってるでしょ」
「青島くんもね」
「わかる?」
「本当に心配したんだからねっ」
「はいごめんなさいっ」

黄色のフリージアとピンクのガーベラの花束は、青島のベッドサイドに飾られた。
窓際の太陽を弾き、生命力旺盛に咲き誇る。
カスミソウが散りばめられ、女の子らしい仕上がりであると同時に、初めてこの部屋に季節感が溢れていた。
花を生けるガラス瓶を用意させたのも、ケーキを食べる許可を取り付けさせたのも
みんな、すみれだ。
何かが振り切れてしまったらしく、テキパキと上から目線で扉の向こうの男たちを顎で使いこなした。
女の子って、すごい。

「でもさ、すみれさんにしては珍しいコートだね。ああいう帽子を被っているのも初めて見たよ。なんか感じ変わった?」
「これはヘンソウ」
「ぅ、うん?」
「似合う?」
「はい、可愛いです」

ごくんとケーキを平らげたすみれが大事そうに残したトッピングのフルーツを指先で摘まむ。

「んね、今までずっとどこにいたの?まだ言えない?」
「あれ?そいえば、すみれさんこそ、どうして俺がここにいるって知ってんの?」
「それは二号機が教えに来たのよ」

あくまで上から目線を貫くすみれの可愛さに、青島の脳裏では新城が不本意な顔をしている様子が浮かんだ。
なんだか可笑しくなる。
二人でクリームを頬張りながら、目線で同調を確認した。

「このケーキさ、生地がふわっふわだね」
「チョコがビターっていうのが大人味。オレンジってよくある組み合わせだよね」
「オレンジはこっちのケーキが付いたの」
「なにがなんだかわかんないんだけど」
「ん~アーモンドとミックスベリー最高~」
「ま、いっか」

久しぶりの菓子は想像以上に美味で、気分までをまろやかにした。
こうしてすみれのペースに引き摺られるのも懐かしい。
ささくれだった心も穏やかに落ち着くようだ。
うん、やっぱ糖分って大切だ。

ケーキはあっという間に消失し、ご丁寧にも差し入れられた紅茶のカップを揃って取り上げた。
ウェットティッシュで手元や口許を拭ってから、すみれは改めて青島に向き合った。

「・・・話せること、話して。・・くれるよね?」
「うん・・・、でもその前に、俺からもちょっと、いい?」
「なに?」
「うん、あのさ、・・・・・・・基本的なこと確認したいんだけど。大きな火事、あったよね?」
「工場火災?一か月前の」
「一カ月!?・・あ、でもそんくらいか?やっぱりニュースになってんの?」
「そりゃもう。当然よ。連日その話題で持ちきりだわ。警察もね」

やっぱりそうなんだ。
上掛けを握る青島の指先に力が籠もる。

「その状況、教えてくんない?」
「どうして?新聞でも雑誌でも普通に載ってることしか、あたしも知らないわ。所轄に情報下ろしてくれるわけないでしょ」
「それでいい」

でも・・と、部屋を見渡したすみれが、あまりに殺風景な部屋に今更ながらに納得したように頷いた。
テレビどころか新聞の差し入れすら見当たらないこの部屋は、世間と隔離されたことを悟るには余りある。

「なるほど。意図は分からなくもないけど、何も知らされていないのね」
「そうなんだよ。大体さ、此処、・・・どこなの?」
「・・・はぁっ!?」

あっきれた、と言わんばかりのすみれの開いた口が塞がらない。

「そんなことも知らないの?!」
「うん・・。気を失ってる間に担ぎ込まれて、それっきり誰にも会えなくて。誰も何も言ってくんないんだよ」
「気を失ってって、ちょっとどういう状況よ?そっちの方がモンダイよ」
「ああ、まあ、それは後で」

まだ衝撃から立ち直れない様子のすみれは、それでも膝を組み直し、ベッドサイドに両肘を付いてきた。
下から青島をじっと見定めるように覗き込み、一言一句諭す様に赤い口唇を動かす。


「あのね。新城さんの話では、ここは新城さんの知り合いの病院みたいよ?」
「知り合い・・・、確か最初の病院もそうだったような。でもなんか、内装が違う気がするけど」
「最初の病院っていうのが良く分からないけど、多分新城さんのお父様のお知り合いの所でしょ?さっき来た」
「ああ、そうそう、そんなこと言ってた」

実はケーキを食べ始めようとしたとき、ちょうどいつもの往診の時間となり、ふとっちょのおじさんが現れた。
点滴を処理し、様子を見て、笑顔で帰っていったばかりだ。

「此処はあの人の教え子の病院ですって」
「ああ、やっぱ、違うとこなのね」
「口煩かったのよ~。誰にも見つからないようにしろ~、変装していけ~、合言葉はどうの、時間は何たら。指示は七項目にも上っていたわ」
「新城さんが?」
「そう」

やっぱりまだ事態は始末されていないのだ。
青島の中で鋭い意識がスッと身体を凍らせ収縮させる。
それは限りなく恐怖に近い。

「老朽化していた工場に置かれたアルミが自然発火したというのが表向き。その場にたまたま居合わせた警察関係者の巧みな対応で負傷者ゼロ」
「ゼロ?」
「そう。その功績が主にマスコミに高く評価され、上層部も何も言えなくなり、新城さんは特進されるんじゃないかって噂」
「新城さん??」
「嘘くさい話だけど、その場にたまたま居合わせたことになってるわ」
「他に誰が?」
「よく知らない」

しかしその話が事実ならば、工場のみんなは助かったのだ。
その事だけでも青島は胸を撫で下ろした。
じゃあ、あの後ろ姿って新城さんか。

「じゃ、今日ここにすみれさんが来てることって――」
「そう誰も知らないの。あたしは今日非番にまでしてる」
「――」

新城がそこまで指示を出したということは、イコール危険性の高さを彼がまだ保持していることを指し示す。
すみれの口からそれが青島に伝えられることも計算の内で、暗に警戒度の高さを教える目的も目論んだ筈だ。
それはまるで絶望を友とする運命を与えられた罪人のような気分だった。
どこまでも逃れられない。混沌と闇は渦を巻き青島を道連れにしようと取り巻いていく。

「納得行かないわよねぇ。不審者を確保したのはあたしたちなのに」
「不審者って?え、確保?」
「そう。その日ね、新城さんから突然命令が来てさ、この男を捕まえろって。写真を送り付けてきたのよ」
「どんな人相だったか覚えてる?」
「背の高い・・・モデルみたいな若い人。銀髪なのよ」
「!」

アイツだ。間違いない。
でも写真を送り付けただなんて対応が良すぎる。不審者として何故リストに上がったんだ?確保・・・逮捕されたって?
何で新城さんがアイツを知っているんだ?いつから知ってた?
マークされていたってことか?
じゃ、桶永は?

やっぱり夢じゃなかったんだ。
偶然彼らがあの場所にいたわけじゃない!警察が来てるって言ってなかったか?
つまり、俺を救出に来てたんだ・・!

溢れる情報に青島の頭の中が目まぐるしく回転し、その顔に生気と険しさが戻っていく。
はっきりとした声色はその意志と現実の重さを体現していた。

「他・・、他に逮捕されたのは?」
「んん、彼一人だけ。事情聴取として工場関係者に任意同行求めたみたいだけど、聴取できたのは僅か。大したネタも出なかったみたい」
「ふぅん・・・」
「それよりも警察は足元の火消しに必死」
「・・どういうこと?」
「どうもその火事がわざと起こされてキャリアの派閥争いだったとか、出世狙いの自作自演だったとか、色々」
「ええぇぇ・・???」

どうもよく分からない。
本店っていつも見当違いのことに矛先が向くよな。
それって新城さんの責任問題になっちゃうんじゃないの?大丈夫か?

「ん?でも特進って・・」
「あたしだってたまたま新城さんがドライブして出くわしただなんて馬鹿馬鹿しくて信じてないわよ。でも今日一つだけ確信したことがあるわ」

そう言ってすみれは身を起こした。
ストレートの黒髪が流れ、すみれの顎のラインまでを強調するように縁どる。
背筋を伸ばし、深い洞察に満ちた瞳が青島を射貫く。
相槌も打たず、青島もまたその黒い瞳をまっすぐに見返した。

「青島くん、そこにいたのね」

最早彼女を誤魔化すことは不可能だろう。
探るようにじっと見下ろす瞳が痛いほど感情を乗せていた。
必要以上に沈黙が支配した大気は重く、初めて窓の外の風音さえも意識させる。
青島は返事の代わりにそっと瞼を落とし、視線を外した。
重たい吐息と俯いたその陰に、すみれが確信を深める。

「――その怪我。火傷の痕にも見えるわ。もしかして実は代わりに工場に突入したのは青島くんで、割に合わないこと命じられてたんじゃないの・・・?」
「それは誤解だよ」
「今更隠さないで」
「じゃなくて。新城さんに言われてあの工場に行ったんじゃないって言ってんの」
「そうやってすぐ庇う。青島くん、もうちょっと自分のことも考えたら?さっきから周りを心配してばかりじゃない」
「庇ってるわけじゃなくて」
「じゃなによっ」

どうしようかと思案した青島の口許が困ったように引き結ばれる。
この期に及んでまだ嘘を吐こうとしていると思ったのか、それは駄目だとすみれの真剣な目が青島を捕らえた。
チラチラと数度、青島の視線がすみれを伺い、逡巡した。

ほぼ隔離状態で、人も情報も遮断したこの空間に、新城自らすみれを寄越した。
その意味するところは、恐らくはある程度までもうバラしてしまっても差し支えないという腹構えだと察せられた。
新城の意中を探るつもりはないが、青島の倫理観や仕事観を探られているとも思えない。
考えられるのは、恐らく本当に秘密を隠さなければならない人物に情報が開示され
隠すことにさして意味がなくなっているというのが、一番妥当な目算だった。
そして、その状況を新城自らの手を汚さず青島にさりげなく伝える方法――

だからこその、この異常なまでの警戒態勢だと思えば、自分の状況にも納得がいく。
青島は諦めて白状するための口を開いた。
大きな溜息にも近いトーンで、穏やかに回想する。

「新城さんはね、俺を助けに来てくれたんだと思うよ」
「工場に?なんでそれが青島くんを助けることに繋がるの?」
「うん、俺がそこにいたから」
「え?」
「俺がそこにいたのは、本当なの」
「どういうこと?」
「すみれさん、泣かないでね」

そうして、青島はこれまでの経緯をかいつまんで説明した。
すみれは相槌も打たず、黙って青島を見つめたまま聞いていた。
思ったより穏やかに話せている自分の声が耳に届く。

すみれを必要以上に驚かせないために、大分はしょった部分はあるものの、初めて誰かに損得なく自分のことを話す作業は
まるで憑き物が落ちていくような営みだった。
それは罪や過去を他人に背負わせてしまうリスクでもある。
分かち合える相手の存在が青島に安寧を齎す傍ら、また別の痛みが責め苛ませ、傷は伝染することを思い知った。

「ほらぁ、泣くなって言ったのにな」
「これは怒ってるの」
「そりゃまた意外なリアクション」
「青島くんが悪い」
「はいはい、みんな俺のせいね」

ぐずぐずと鼻水を啜る音がする。
反対側の壁を向き、青島は低く呻いた。

「ごめん」

鼻をかみ、紅茶の残りを飲み干し、お替りまで入れ直してから、すみれははぁと盛大に肩を落とした。
その間、青島は何も話さなかった。
すみれが自分で落ち着くまで辛抱強く待った。

「・・・・・ま、あれよね、みんな終わったことなのよね」

小さくはにかむだけの青島に、すみれがぴょこんと跳ねて身を乗り出してくる。

「でもさぁ、新城さんがそこまでするのが信じられないわ」
「あ~・・・」
「任務外でしょ?自ら乗り込むメリットって何?あの自分大好き人間が」
「そこまで言う」
「だって有り得ないでしょ?下手したら昇格どころか大事なキャリアが泥まみれよ?」
「だから・・・たぶん、だけど、新城さんをけしかけた人がいる」
「誰よ」
「・・・・」
「青島くん、この期に及んでそんな顔は止めて」
「・・・・」
「そんな目をしても駄目。言いなさい」

青島は手元にあった枕をぎゅうっと胸に抱き締める。
ふわりと風が浮き、空気を孕んだ青島の髪が心を表すように揺らめいた。
子供が拗ねたみたいに枕に顎を乗せ、むくれた顔で管を巻く。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・むろいさん」
「えっ?」
「・・・・・」

余程想定外の名だったのだろうか。
すみれの動作が一度停止し、そして突如機関銃のように早口で愚痴り始める。

「嘘ッ、あの男もこの件に関わってんの?・・だよね、そうよね、青島くんが出しゃばってアレが出てこない理由がなかったわ!」

なんだそれ?

「そう言われてみれば最近姿見えないと思ってたけど!あの人今なにやってんの?北海道から帰ってきた後の消息から知らない気がする」

まるで今世紀最大の誤算だったと言わんばかりにすみれが悔しがる。

「やだ、もぉ、無口で影が薄いから・・!」
「・・・・」
「あぁぁ~迂闊だった!そうよ、室井さんがいるじゃない、アイツなにしてんのよもぉぉ」

何がそんなに彼女を発奮させたのか。
青島くんがこんな時に!とこれまでの積もる鬱憤を、怒りのままに口にするすみれは
さっきまで泣きべそを見せていたのが嘘のようだ。
女って分からない。
いっそ珍獣でも前にしたかのように青島は扱いを忘れたが、とどのつまり、すみれが言わんとしていることは
青島への公然の半人前という指摘である。
恥ずかしいのか情けないのか、分からなくてもう青島はすみれの好きにさせた。

やがて、一頻り言うだけ吐くと気が済んだのか、息も荒いままにすみれは腰に手を充てる。
指先で流れた黒髪を耳に掛け、そっぽを向いたままの青島の顔をぐるっと覗き込んで来た。
ふいっと青島が逃げると、ベッドに乗り上げて追ってくる。

「・・・なんだよ」
「ね、つまり新城さんと一緒に乗り込んだ他のキャリアって室井さんのことなんだ?」
「なにそれ?」
「新城さんはね、他のキャリアと仲良くドライブ中に火事に出くわしたってことになってんのよ」

うそだろ?
じゃあ、あの場に室井さん、いたの?
じゃあ、じゃあ、あの後ろ姿は夢じゃなくって、ほんとに、マジの、ホンモノ・・?

「三代緊急車両呼び出すとこから、近隣住民の避難まで。新聞各紙は彼らを絶賛よ」

痛んで動かない身体を抱えられてて、なんか、甘ったるい夢を語って、夢の続き、約束して。

「巻き込まれたのか巻き込んだのかは微妙だけど、室井さんも一緒に動いたんだ、青島くんのために」
「・・・たぶんね」
「でもなんで表に名前が出てこないのかな」
「多分極秘捜査させた。表向きが新城さんが筆頭なんじゃない」
「それならモノスゴク納得できるわ。で、いつから?」
「・・・・俺が潜入から帰ってきたとき」
「ああ、雲隠れした」
「あれ、室井さんち」
「え、ええぇぇーっ!!」

今度こそ盛大に耳元で叫ばれ、思わず青島は顔を顰めた。
耳を抑え震える鼓膜を心配しながら、すみれを仰ぎ見る。

「そぉんな前から室井さんと一緒に行動してたんだぁ」

そこには悪戯に光る、楽しそうなすみれの瞳が爛々と輝いていた。
やっぱ言うんじゃなかった、かも。

「あたしも馬鹿だわ。本部長が新城さんに変わったってだけで、ずっと新城さん頼ってて。そうよ、最初になんかチラッと室井さんの名前出た覚えある!」
「頼った?って何」
「うん、何度も文句言いに行ったのよ。署から撤退したときも」
「・・・・そうだったんだ」
「青島くんが不甲斐ないからすみれさんが人肌脱いであげてたの」

額がぶつかるほど至近距離で挑み合う二人の瞳に、同じく子供のような邪気のない光が煌めいた。

「俺のためにそこまで?」
「自惚れない」

冷たい指先でデコピンし、すみれが笑う。
はだけた薄い院内着から鎖骨が浮き出る青島の胸元がすみれの影に隠れ
逆光となるすみれの顔に猫のように光る瞳が青島だけを映し、滔々とした眼差しも、少し小さな囁き声も
洗い晒しの前髪から覗く青島の飴色の瞳が受け止めた。

「でも・・・よかった・・・」
「うん、ありがとね」
「室井さんまで関わっているとは知らなかったけど」
「うん、すっげぇ怒られた」
「当たり前よっ」
「スーツを着ていない室井さんなんてソーゾーできないでしょ」
「できないできない!」
「手料理食べたんだぜ」
「うっそ、作るの?!あの男!」

指一本触れぬ二人でも、今淡い温かさを共有している。

「そう。しかも割と凝ってて。服もあのひとの趣味に着せられてさ」
「みたかった」
「最初の頃なんか風呂まで入れられた」
「それはもう犬飼ってる気分だったんじゃない?」
「でもしかめっ面」
「そんなかんじぃぃ!」

くすくすと笑うすみれの吐息が青島の前髪を擽る。

「大切にされたんでしょ?」
「わかる?」
「分かるわよ」
「でも俺、それがしんどくってさ」
「対等でありたいのよね。お互い頑固だから。自分が相手に必死になっちゃうタイプよね」
「手厳しい・・・」

流れたすみれのストレートの黒髪は、まるでヴェールのように二人を太陽から隠していた。

「よかったね。少しでも幸せな時間があって」
「そうかな」
「そうよ。よかったのよ」
「・・っ、ですね」

そうなのかな。
湾岸署から離れてあまりに沢山の時間が通り過ぎていった。
一人逸れて、目まぐるしいほどの大変なことがいっぱいあった。辛いことの方が多かった。
でもすみれが言うように、確かに僅か室井と過ごした時間だけは、胸の軋みを訴えるものであっても、温かく穏やかな家庭を与えて貰えていた。
それだけは、青島の中で唯一キラキラとさんざめく。

ならばきっと、そうなのだ。
すみれが言うように、良かったのだ。
一冬の恋を終えて、季節を越えて、俺の心は海の街へ還っていく。

「俺の席、あんのかね?」
「どうかしらね?」
「和久さん、元気かなぁ」
「自分の目で確かめたらいいわ」

すみれさん、俺ね、本当に大切なものを知ったんだよ。それを大事に出来る人間になりたいよ。いつかはね。

「このお礼に、帰ってきたら奢ってね」
「久しぶりにその台詞聞きました」
「当然の権利よ」
「俺けっこ重傷」
「また室井さんにお世話されたら」
「それはかんべん」
「甘えっこの青島くんにそこまで言わせるなんて、余程愛されたのね」
「・・・・」

うん。だから愛を返したいんだ。俺。
いっぱい貰うだけで、何も返せなかった。なにひとつ、大事なことは何も。

「・・・泣いてるの?」
「泣いてません」

涙声に、すみれは何も言わない。

「俺ねぇ、ふたりで暮らしてて、いっぱい夢見れたよ。ゲームもしてさぁ。楽しかったんだぁ」
「それはきっと室井さんもね」

だったら、いいな。
本気の恋が胸に堕ちて染みとなる。

「帰っておいで、青島くん」
「ですね」
「よしよし」
「チガウでしょ」
「ならどうしてほしいのよ?」
「・・・妬いてくれてもいいんじゃない」

もう、どうしようもない。
少し滲んだ視界は桃色で、世界が温かかったことを改めて青島に認識させた。
この騒がしかった数か月が遠く、初めて涙が溢れたような気がした。
涙は哀しみを宿して身体から流しだすものなのだろうか。
ようやく季節が変わっていたことを改めて認識した。

「あま~い」

そういって笑うすみれの吐息が優しくて、青島は瞼をぎゅっと閉じてこみ上げるものを胸の奥に仕舞いこんだ。
これで、おしまいだ。
まるで室井をこれからの人生の拠り所みたいに考えていた時間は、終わりにするんだ。
好きも嫌いも良いも悪いも今涙に掻き消される。

青島は精いっぱい強がってにぃっと笑って見せた。
すみれが受け止めるように頷くから、余計鼻の奥がツンとなる。

青島が戦慄く口唇を動かし何か言おうと口を開いた。
その時。

「!」

ガラッと乱暴な音を上げて突然扉が開かれた。
ハッと二人の視線が振り返る。
そこに立つ男を認識した青島の身体が一瞬にして警戒を放った。

「・・・ぇ、あら?なんでこの人が・・・?」
「――」

キッと睨みつけた青島の瞳に強さに、すみれは息を呑んで、入ってきた男を今一度振り返った。










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