同居話の続きです。季節はようやく春になりかけです。









東京変奏曲3season Ⅰ









第一章
1.
軽く二度ノックをし、呼び出された局長室の扉の前で室井が深々と頭を下げる。
春の浅いこの季節、庁内は冷え切っていた。

「失礼します」

入れという促しの言葉と共に顔を上げると、そこには三人の先客がいた。
その中の一人を認識した室井の瞳に呪るような険しさが走る。が、それを一瞬にして強面の裏に潜め、直立した。
階級と名を告げる。
背後で鈍い音を立てて扉が閉まった。

「急な呼び出しで悪かったね」
「いえ」
「用件とは例の火事のことだ」

大仰に顎の下で頬杖を付く池上の口火に、室井はやはりと思うに留まる。

例の火事――それは例の工場爆破の惨事に他ならない。
今もマスコミはセンセーショナルに騒ぎ立て、その真相を追求しようと躍起になっている。
しかし表立って本庁内で精査するような動きはこれまで見られなかった。
マスコミからも対応が不適切だと批判され、老朽化していた工場の災害対策よりも、消防庁の危機管理や警視庁の管理体制を問う声が大きい。
それを受けてか本庁内でも黒い噂は絶えず、誰が現場にいたのか、或いは細工されていたのではないかと勘繰る者まで出てきて
今や今後の権力抗争にまで俯瞰する事態に発展していた。

むしろ、その陰口の内紛が抑えきれなくなったのであろう、二週間目にしてようやく関与した人物による事情聴取を行うとの内部通達があり
こうして指定された日時に室井は呼び出された。
口頭での厳重注意に終わった直属の上司の処分だけでは、格好がつかなくなったと言えた。

「出張から戻ってきたらこの有り様だからね。我々も困っているんだよ」

確かに池上局長は不在だった。
そのことも、あの冒険的な決行を後押しした一因だった。
不在理由は下部の役員共の与り知らぬところではあるが本題はそこではないと室井は思う。
関係者が出揃った。
それが本音だろう。

チラリと室井が一度だけ視線を逸らす。
出張だなどと見え透いた嘘を並べる男の隣には、粛々と佇み耳を傾けた新城もいて、苦みを潰した顔を俯かせる。
逆手には飄々と何食わぬ顔をしてポケットに両手を突っ込み、壁際に列席する男が二人。
一倉が池上に勘付かれないよう、室井の方に軽く片手を上げた。
相変わらずのひょうきんぶりに、軽く視線に意図を乗せる。
そして。

室井の視線がはっきりとその視線の奥に焦点を捕らえた。

そこに、桶永がいた。
火事の現場から逃げ去ったくせに、一体いつ戻ったのか。戻ってきていたのか。
かつて本庁で見掛けた時と寸分違わぬ姿で、高級スーツを着こなし朝の斜光を浴びる。
こちらに意識すら寄越さない。
逆光となる室井の目からは、それは影に埋もれ威圧的に闇を主張する。

こうして堂々と本庁に顔を出せる肝っ玉の太さに舌を巻く一方、だがそれは、それを可能と出来る権力が裏にあるということの証明だ。
まだ事件は何も終わっていない。
あの惨禍にいた男達が今、この部屋に一堂に会する。
この時点で室井はこの呼び出しの狙いに早々に勘付いた。
恐らくは桶永を不問に付すための口裏合わせを指図する会合だ。


「それでだね室井くん、今この新城くんからも当時の状況を説明してもらっていたのだが、君の口からも是非聞かせて貰いたい」
「はい」
「但し――君たちがプライベートまで交流があるとは知らなかったよ」
「――」
「まあいい、そういうことはあるだろう、我々も全てのキャリアを把握しているわけではないからね。キャリア同士の情報共有は必要だ」

このクソ狸が、と室井は腹で詰る。
キャリアの相互作用に一番困窮するのはこの池上だろう。
上部の増殖しすぎた政治階層が彼らの保身を可能とし閉じたナショナリズムを作り上げている。
そんなことで本気で交流を持つと思われているのが、端からコケにされていて忌々しい。

「あの夜、三人でドライブ中、たまたま通りかかったところ爆破に巻き込まれた。・・・と聞いているが、間違いないかね」
「間違いありません」
「ドライブは以前から計画していたものではなく、たまたま暇が揃い、話の流れで思いついたことだと」
「その通りです」
「あくまで偶然を装うか・・・。いいだろう。では次に」

池上がリクライニングを鳴らして仰け反り、ぎらついた視線で室井を値踏みする。

「工場内での被災者の誘導、対応は見事だった」
「ありがとうございます」
「発見された密輸ルートもまた大きな成果だ。私も鼻が高いよ」
「――」
「だがその後のことについて幾つか不自然な証言があってねぇ――」
「・・・・」
「まるでこれでは君たちの英雄譚じゃないか」
「そのようなつもりはありません」
「だが室井くんは確か降格処分を受けたこともあったね。キャリアの汚点は命取りだ。どこかで点数を稼がなければならない」

つまり池上が言いたいのは、わざと火事を起こし、そこに桶永の存在をちらつかせ、出世を阻む狙いがあったのだと言いたいわけか。
そんなことをすると思われていることも腹立だしいが、上層部の考えそうなことだ。
その愚劣な思考回路に気分が悪くなるまま、室井は沈黙を貫いた。
下手に相槌など打つ方が危険だ。

「これでは勘繰られても仕方がない」
「滅相もございません」
「お互い友好協定を結ぶには誤解を解いておく方が得策だろう」
「・・・・はい」

池上の視線が桶永を指し、意図を室井に伝える。

「まず君は、その火事の工場は知り合いだったのかどうか」
「いえ」
「知らない工場に無断で立ち入った・・・、配置も何も分からないのに?暗がりで?」
「爆破を目撃した以上、無視はできません」

悪くない、という風に池上があざとく肯いて見せる。

「現場から逃走した男については?」
「・・・知らない人物です」
「面識もない人間の捕獲を所轄に命じたのかね?」
「現場にいたのです。関係者であることは確かだと考えました」
「人相も分からないのによく所轄は対応できたもんだ。思うより優秀なのかねぇ?」
「現場を知る所轄の功績です」
「君は前から所轄寄りだったね」
「仕事に個人的主観は持ち込んでいません」
「火事が起きてすぐ逃げ出した男が犯人だと思うのは短絡的だが、まあ、常套手段だ。しかし――何故かそこにこの桶永くんの責任論まで出てきていてね」
「・・・・」
「どうしてだろうね?」

どう答えようかと、ここで一瞬の警戒が室井の口を堅くさせた。
火事そのものを引き起こしたのは恐らく桶永ではない。
あの場所で何が行われていたかも、どう立証できるか。
この流れでは、途方もない法螺話をしているのがこちらであるかのようにさえ取れる。
ここで桶永が主犯だったと主張しても水掛け論だ。
そもそも池上の狙いはそこにない。

「この災難について、室井くんはどう思うかね?」
「彼も関係者だった可能性は否定できていません。現場近くで目撃証言も複数出ていました」

不法捜査はそもそも立件できない。
得たものも証拠とはならない。
それを承知で追及しているのは明白だった。

池上が鼻を鳴らし座椅子にふんぞり返った格好で椅子を軋ませ、桶永を仰ぎ見る。

「君、そこ行ったことあるのかね?」

桶永は肩を竦め大仰に両手を挙げて見せた。
“災難”という濡れ衣を着せられたピエロを演じる顔は役者顔負けの演技力だ。

「背格好の似た人物と勘違いされているのではないかと」

これではまるで作られたシナリオだ。
こちらの不利益と原罪意識を逆手に取り、隅まで突けないことを見透かされている。表向きこちらが内密調査を否定することも計算済みだ。
間違いなく、桶永の濡れ衣を晴らすために我々はここに集められたのだ。
本人不在で訓告処分となった処罰に、本人か或いは関係者が不満を出し、池上まで担ぎ出した。
追及していた立場の人間が擁護に利用される。池上は火元から消し去る気だ。

だがこれ以上追求すればこちらの足元を見られるのは当然だった。
勝手に捜査を行い、勝手に現場へと踏み込んだ。捜査令状も指令も何も用意できていなかった。
権威主義のこの堅牢でそれはあってはならないことであり、ヒエラルキーを崩壊させる大罪であり、キャリアとしての謀反である。
最悪、こちらの方が処分の対象とされてしまう。

室井は硬く握り締めた拳に力を入れて奥歯を噛んだ。
恐らく新城も似たような心境なのだろう、苦渋の顔が全てを物語っている。
一倉に至ってはこの茶番劇すら馬鹿馬鹿しく、あからさますぎて冷めてしまっているらしく、呆れた顔をして事の成り行きを楽しんでいるようだった。

ほんの少し室井が視線を向けた気配に新城も敏く反応し、二人の視線が誰にも気づかれぬさりげなさで一瞬絡んだ。
新城が短く首を横に振る。
これ以上の深入りは止めておけとの忠告だった。


「君たちがどうして周辺住民の意見を知っているのかは追及するところなのかね?」

池上が頬杖を付いて室井の顔を下から高圧的に覗き込む。
こういう形を取られてしまっては完全に不利なのはこちらだった。
ましてや事を荒立て、現場に長く滞在していた青島の存在まで露呈させてしまうことになっては
青島の被害の実態を悪戯に騒ぎ立てることになりかねず、青島の社会復帰すら危うくなる。

「・・・、たまたま信頼できる筋から噂を聞いていただけです。あれだけの火事です。周辺住民への避難誘導も指示していました」
「賢明な判断だ。でも噂話などあまり不確定な発言は室井くんらしくないね」
「・・・すみません」
「まあいいよ、これだけ騒ぎになっているからね、動揺することもあるだろう」
「・・・・」
「でだ、最後の質問なんだが」

ここが最大の見せ場だとでもいうように池上の口端がいやらしく持ち上がる。
室井の口から言わせようとしている狙いがはっきりと伝わり、室井は鳩尾が痛くなった。

「君は現場で桶永くんの姿を見たのかね?」
「・・・いいえ」
「だそうだ桶永くん」

それが全てだというように顎を撫でながら池上は得意顔で桶永を顧みた。
体重をかけた椅子が重みで啼く。

「誤解が解けたようで私としても安心です」
「新城くんからも同じ証言が取れているし、間違いないということでいいだろう」
「お手数かけました」
「君もちょっと地方に出向を任せていた間に災難だったね」

誇らしげに肯べき池上と笑みを交える桶永を、室井と新城はただ胸苦しいままに重く見つめていた。










2.
「失礼しました」

室井がしかとお辞儀をする横で新城も同じく頭を下げ部屋を後にする。
扉を占めようとノブに手を掛けるのを見計らったタイミングで、閉まりかけるのを片手で遮り、桶永が身体を割り込ませた。
押しやるように後に続く。
顎をしゃくり、付いて来いと瞳で威圧してくる。
太々しい態度はそれだけで他人の反感を派生させる。

少し迷ったが、室井は新城と顔を見合わせ、二人の間で合意の意思が伝わった。
先頭を切ってエレベーターホールへと向かう桶永の後ろを室井と新城、そして興味本意丸出しな一倉も遅れて連れ立つ。
裏手口の外にある喫煙コーナーへと入るよう桶永が顎をしゃくる。
そこに人影はない。

「不本意って顔だな」
「貴様、どのツラ下げて戻ってきた」

喫煙所には入ろうとせず、入り口で腕を組んだ新城が声を荒らげる。
面白そうに振り返り、桶永は瞳を眇めた。

「さあね。何のことだか」
「出向だなんて見え透いた嘘なぞ見破られるぞ!」
「その頃にはほとぼりも冷める」
「このまま逃げきれると思っているのか」
「出来ただろ?」

ふふんと顎を上げて勝ち誇ったように微笑する桶永を、新城は歯ぎしりをして憤怒した。
珍しいそのリアクションを一倉が後ろからその肩に手を置き、あやす様に一度叩き、諫める。
桶永に主導権を渡さぬ意思を込めた一倉の目がその作為を深く看破しようと凄んだ。

「で?これはお前の狙い通りなのか?」
「多少の計算違いはあるけどな、まあこんなもんだろう」
「計算違い?」
「詳細を語るつもりはない。お前らが知って得する話でもない」

キャリアは肩書が物を言う。
そして強権な学閥が自由を可能とするのだ。
この面子の中で一番の年齢と階級と系譜を持つ桶永は、誰よりも強腰だった。
真実は闇に伏せられ、桶永には何事もなかったようにホワイトカラーの道が用意されていくのだろう。

「トップはそれで騙せても、納得していない中堅の猛者も多い。そう簡単にいくか」

新城が一倉の手を煩わし気に振り払い、横を向いて唾棄する。
新城にとっては何もかもが面白くなかった。
ほぼ同列のキャリアだというのに年齢が足りないだけでこうも分が悪く
シナリオ通りに踊らされたこともまた甚くプライドを傷つけられた。
淫らな告白をするはめになったのも、全てコイツのせいな気がしてくる。

「ふふん、この一件にお前までしゃしゃり出てくるとは思わなかったよ新城。もっと排斥思想な男だと思ってたが」
「まさか私が計算違いだとでも言いたいのか」
「一体誰にどうやってそそのかされたんだか?まあ予想は付くけどな」
「生憎だったな。貴様と違ってお国自慢で満足するほどこっちはガキじゃない」
「キングを取ったらこのゲームはチェックメイトなんだよ」
「どうかな。暴虐な王政の結果はいつだって国を滅亡させる。歴史が証明している通りだ。信者が減って街は衰退するさ」

小柄な二人の男が並んで息巻く背後、一歩下がった場所にいた一倉だけは、取り留めないやり取りを傍で黙って流す。
しかしその腹の内では、珍しく感情を露わにする新城に内心新鮮さを覚えながらも
ここまで強硬姿勢を貫ける桶永にどこか空恐ろしいものを感じていた。

これだけ派手にやらかして、何故表向きにも処分が下らない?

そもそもこの事件の発端は、拳銃密輸の内部調査だった筈だ。
所轄には知らせていないが、数年前から追っていた男が消えたことで本庁が重い腰を上げる切欠となったのだ。
その頃から桶永に着眼されていた訳ではない。
なのにこの捜査の本部長に最初に抜擢されたのは、彼だった。
その後、新城によってクビとなる。

一体どこからが作られたシナリオなのだろう。
いや、いつから、か。
火事を起こした人間にどういう意図があれ、あの場に警察が踏み込む前に全てを焼失させることに成功した。
風は桶永に吹いていると言っていい。

その一倉の視線を素知らぬ顔で流し、桶永は先程から一言も発せず背後で沈黙する男へと投げられた。

「なあ、アイツ今どうしてんの」
「・・・・」
「例の病院やら近くの警察関係所に行ったがどこも門前払いを食らってね。病室すら探れなかった」

名を伏せていても誰のことを指しているのかは一目瞭然だった。
一倉と新城の視線も黙ったまま揃って後ろへと向けられる。
そこには気配を殺し、いたのかと思わせるくらい庁舎の陰影と融合した峻厳な顔の男がひっそりと立っていた。
全員の視線を一心に受けるのに相応しい侵し難い気品を備え
スッと洞察力の鋭い視線が瞬きと共に反応する。
室井がゆったりと口を開いた。

「“こーこ”のことはどうする」

敢えて室井の口が違う名を乗せてみれば、桶永の虹彩が焦れるような焔を乗せた。

「あの女までご存じか。強かで勘も頭も良いイイ女だったよ。夜の方も上手いぜ。イイ身体してるしな。もう寝たか?」

彼女を侮辱するなと言わんばかりに室井の眉間が険阻さを乗せて深まった。
高雅なその姿に、桶永はやっぱり意外だというような顔をして見せる。

「・・・分かってんだろ、今聞いているのはその女のことじゃねぇ」

暫く桶永の真意を探るかのように室井が沈黙を作ったが、やがて一息吐き一旦瞼を落とし、室井は静かに切り出した。

「火事の中、見捨てた癖に今更なんだ」
「見捨てたつもりはないぜ。置き去りにせざるを得なかった」
「そんなことが言い訳になるとでも」
「俺があの場にいるわけにはいかないのは分かるだろ。護るために保身に走らなきゃならないことだってあんだよ」

堂々と身勝手な理屈を口にし、桶永が当時を思い浮かべるように目を細める。
横柄な態度はそれだけで説得力を勘違いさせてしまう。

「それは正義ではなく自己満足だ」
「人のこと言えるか?」

真理と主義を渇望しながらそれを実現できない原罪思想は、むしろ真っ当なエリートキャリアにこそ存在した。
その境界を逸脱した桶永や、青島のような異端児に、だからこそ彼らは憧れる。
それは多分、キャリアの弱さだ。それを桶永は知っている。

「何故我々が居所を知っていると思う」
「あいつに手を出せばお前が出しゃばってくる。警視庁の常識だった」
「・・・・」
「事実、出てきたろ?」
「――」
「驚いたよ。お前を変えた男に興味はあったが、所詮児戯の域を出ねぇと高を括ってた。いつも朴訥としてつまんねぇ顔してた男がここまでしてくるとはね」

テキスト通りに忠実に動く駒。それが恐らく本庁内での室井の大凡の評価だった。

「無口で何考えてんだか分かんねぇつまらん男だと思っていたのに、こんな顔を隠していたとは恐れ入ったぜ」
「勝手だろう。君に批判される筋合いはない」
「でもアイツに会って分かったよ。成程ね、こりゃ上玉だなと。そりゃ深入りもしたくなる」
「そんなんじゃない、あいつをそんな目でみるな」
「見ているのはお前だ」

僅か一mの距離を保ち、二人の視線が火花を交えて迸った。

「なあ、会わせろよ、どの病院だ?」
「会ってどうする」
「連れ戻す」
「我々の到着が一歩遅かったら間に合わなかった。そうしたら二度と会えなかったな」

室井のネジが飛んだ嫌味に桶永の口端が好敵手を得たかのように持ち上がった。
楽しんでいるかのようなその表情に険峻な不快感を乗せた眼差しを、室井はもう隠さない。

「そんな男に再び会う権利があると思うか。会って何を言うつもりだ。謝罪なら私が請け負っておこう。生涯会えると思うな」
「へえ、言うじゃないか」

不謹慎にも、どことなく楽しそうに桶永も口唇を歪め、挑発する。

「攫っている間俺たちに何があったか、知ってるんだろ」
「・・・・」
「あれはもう俺のものだ。横恋慕は止めてもらおうか」
「何が恋だ。好きでもなんでもない癖に」
「何故言い切れる」

桶永がにじり寄り一倉と新城を退かすと、室井の前に仁王立ちした。
背の高い桶永が威圧的に天井から嘲笑うが、室井の顔色は一切変わらない。
視線も交えず正面を向いたまま、理性を保った面持ちで諌死する。
危うい均衡を保っていた空気が再び破裂しそうな熱を帯びた。

「可愛く鳴く鳥に興味を持った」
「!」
「お前はどうなんだよ室井?大事に思ってるだけじゃ小学生だって出来る。そんなのママゴトと一緒だ」
「・・・」
「俺たちはな、ベッド中で繰り返し睦み合った仲だ。お前が手を出さないのが悪い。こういうのは早いもん勝ちだって相場は決まっている」
「合意もなしにすることじゃない」
「泣きながら色付く様も熟していく愉しみも、下半身にクる嬌声も、俺は知っている。お前はどうだ?」
「・・・泣かせたのか」
「最後は啜り啼かせてやったけどな」
「自分が何をしたか分かっているのか・・!」
「俺の背中に縋って善がって喘いでいた。それが事実だ。充分情もあるだろ?」
「ふざけるな・・!」

どっちが?と桶永が嘲笑し、視線は反らしたまま室井の耳横に口唇を手向けた。

「抱く度ずっと泣きながらお前の名を呼んでたぜ。そんな風に想ってくれる奴を放っておくほうが罪だろ。男の風上にも置けねぇ」

なんてことを・・・!室井の拳が血が滲むほど握られる。
眉間が深く刻まれ、こめかみに青筋が立つほど強張る室井の耳元に、更に桶永や妖しい声色で挑発めいたことを吹き込んだ。

「だから俺が貰った。お前にどうこう言う権利はない」
「権利の問題じゃないだろうッ」
「甘いんだよ、どっちつかずでフラフラしやがって」
「・・・・」
「“そんなんじゃない”――さっきそう言ったのはお前自身だ。惚れてないというのなら、ここで引き下がれ」

ギロリと室井の視線が初めて桶永に向かう。
満足したかのように桶永は挑発に乗った室井の視線を味わい、口端を意味深に持ち上げるとその下唇をぺろりと舐めてみせた。

「今どき珍しい生娘だった。勝ち気で手に負えない粗っぽさも生きがいい。何より必死に誰かさんを庇おうと自殺行為に走る危なっかしさがたまらねぇ」
「言葉を慎め」
「随分と飼い慣らしているじゃないか。どうやって落としたんだよ・・・?」

怒りが身体中を支配していて、逆に妙にリアルだった。
頭が冴え渡り、まるで細胞から鋭敏に自身を統治しているかのようだと室井は思った。
信じられないほど心は明瞭で、眼前が絶望の闇に染まる。

「あいつをああいう男に育てたのは室井だろう?痕は俺が引き受ける」

照れてる顔も、恥ずかしそうな顔も、みんな俺だけのものだったのに。
一度だけ触れた甘い口唇もふくよかな肉感も、みんな俺だけのものだった。あの日、こいつに奪われるまでは。

「他所に心を奪われているものを自分に染め上げていくってのは、たまらなくそそられるもんだね」
「――」
「顔も可愛いしスタイルも申し分ない。ベッドで乱れる様はお前にも見せてやりたかったくらいだ」
「彼を冒涜するのはそこまでにしておけ」

厳かに、室井の声がコンクリートの堅牢に反響する。
彼を纏う空気が一変していたことに、桶永はぎくりと背を震わせ咄嗟に身構えた。

「貴様がどんな歪んだ情で彼に固執しているかは大体理解した。いいだろう、人間の情愛というものは必ずしも綺麗なものじゃない」
「ほう?」
「お前なんかに、青島は渡せない」

お前から、奪ってやる。初めて思った。
その眼差しの脅威と格調高さに、一瞬桶永が呑まれる。

「私から奪えると本気で思っているのなら試してみるといいだろう。益々惨めになるだけだとは忠告しておく」
「・・・、大事に匿っちゃってんだ。キャリアも捨てる気あったのか・・?」

反世俗的でありながらどこか高潔な室井の宣戦布告に、その場の誰もが言葉を挟めずにいた。
乾いた喉を鳴らしながら桶永も次の言葉を継げずに妙な間が出来る。
その沈黙こそが、出し抜かれ負けた証明となっていることは明白だった。

荒げることもなく、沈着なままに凛とした張りのある声で、声高に室井が追い打ちをかける。

「二度と逢えないと思え。理解したらさっさと身の振りを考えろ」

勝負はついたとばかりに、室井が立ち去れと視線で命令する。
桶永は溢れる感情を抑えきれずに歯ぎしりし顔を歪めたが、これ以上ここに立ち止まるミスはしなかった。

「いずれ迎えに行く。青島に伝えておけ」
「――」
「お前らも。これ以上の深入りはしない方が身のためだぜ」
「脅すのか?」

捨て台詞のようになった桶永の言葉に一倉が横槍を入れたが、桶永の意識は室井だけに向けられていた。

「最初に青島を捜査員に選んだのはこの俺だ。俺が一声、彼の残留を希望すればすべては不問に帰す」

どっしりとした足取りで去りながら、背を向けた桶永が宣言した。
三人の視線がその背中に集中したのを肌で感じてから、振り返りもせず言葉を続ける。

「その逆も出来るってことだ」



****

「手強いですね」

桶永が去っていったのを見送ってから、詰めていた息を吐き出す様に新城が呟いた。

「そうでもない。本当に性質が悪いのは正義と正義がぶつかる時だ。どこかに倫理観を放棄する人間は突ける」

室井が嘘のように穏やかな声色を残し、その場から離れだす。
連れ立ちながら新城がその顔を覗き込んだ。

「でも奴はまた来ますよ。そう簡単に姫を諦めるとは思えない」
「分かっている」
「姫の容態次第ではまた引越しが必要ですね」
「・・・・馬鹿馬鹿しいな」

桶永だけのためにいちいち雲隠れするようにこそこそするのも癪に障る。
室井がそうあっけらかんとぼやくと、気を抜いたかのように新城が表情を変え心配げに眉を顰めた。

「このまま奴の計画通りに事が進めば、桶永は現幹部に成り代わり多くの特権を手にする。それは即ち日本経済の混乱と低迷すら意味します」
「そうだな・・」
「本部長を解かれた分際でここまで生き残る男です。油断は出来ない」
「奴の切り札は何なんだ?」
「確かに。局長クラスすら交渉力が弱いとなると、限られてきますね」

本館に戻る扉の前に先に到着していた一倉がノブに手を掛けたまま開けず、室井と新城を振り返る。

「でもその前に。さっき奴が言ったこと、どうすんだよ?」
「どのことだ」
「大層な恋敵のご登場」
「結構なことだ」

桶永が本気で青島を欲しがっていることは不本意にも室井には何となく感じ取れた。
同じ相手に焦がれる同志だからかもしれない。
あの眩しさに触れて堕ちない男はいないだろう。心に迷いや闇を抱える人間ほど、その稀有な存在価値に縋りたくなる。
孤独の寂しさと寒さに脅える中年男の哀愁に、それは美酒のように妖しく甘美だ。
だからこそ、渡すわけにはいかない。

「いいのか?本当に」

恋心を認めて、だ。
正確には、恋心に忠実となってこの階級社会を生きる覚悟を問うている。

「どこかで見限られるのが怖いだけかもしれないし、実は私も理想論だと思っているのかもしれない。ただ今は・・・・」
「そこまで分かってて何故」
「どうしてかな」

室井が小さく微笑する。
その横顔を新城は驚愕のままに見入った。
決意を齎す男の顔は歳を重ね、傷を抱え、深みと哀愁と色気を持つ。

「覚悟が出来たのか」
「――ああ」

一倉の問に室井は躊躇いを振り切るように、はっきりと首肯した。
信心というものはとても高尚に見えて、実はとてもシンプルなものである。
だがその分、厄介だ。
何かに縋りたい人間の心の僅かな隙にするりと入り込んではじわじわとその精神を蝕む。

新城への期待をこれ以上引き延ばすのも不誠実だった。男同士であるとかキャリアであるとか上司と部下だとか、そういう柵は今なら乗り越えられる。
桶永の存在は室井の中に情火の火を点けた。
捕られてたまるかという野生的な本能が、理屈の前に室井の背中を押している。
そろそろ色々けじめをつける時期が来た。
周囲へ被害も拡大する前にきちんと事態を収束させるべきだった。

あの雪の夜だって、なぐさめておけばよかったかも知れないと後になって考えた。
懊悩の想いはもうしたくない。

「だが――無理矢理にしろ、その、男に・・・、ヤられちまった・・相手だぞ」
「どうでもいい。全部受け容れるのが男だ」

大したことはないという風に室井は言い切った。
抱えきれるのかと、一倉の瞳はいつもの冗談の欠片すら消し、定めるように室井を映しこむ。
それを室井は一度だけ黒々とした瞳に映した。

互いを鎖で繋ぎ奪ったとしても、自分と青島を隔てる物は早々ない気がした。
手を繋いで、髪を撫でて、頬を寄せて、見つめ合った。
大丈夫ですよ。ただそう言ってくれるだけで幸せになれた。
頼ってくれるということはそれだけ信頼されているということだ。逆に頼られないってことは青島の人生に於いて重要じゃないということだ。
そっちの方が室井は辛かった。

たった数ヶ月手に入れただけの行為に何か意味があったのか。
それは、たった数回抱いただけの行為に意味があるのかと同義だ。
桶永にリードを許したわけではない。

記憶の中に深く刻み付けられて、室井はもう離れられなくなっている。
寄り添い傷を舐め合うだけでない自分たちだからこそ、きっとそれは青島もだ。

「・・・・お前のそういうところ、好きだぜ」

一倉が敬意をはらうように室井の背中を一つ、ぽんと小突いた。











3.
『今から行くから正門前に立っていろ』

用件だけぶっきらぼうにに告げると新城はケータイを閉じる。
車内は運転を任せている細川と後部座席を陣取る新城の二人だけだ。
隠しもしない溜息を残し窓の外に目をやれば、世間は桜の季節を終えようとしていた。

――室井が本気になった。
桶永の安い挑発に乗ったわけではないだろうが、大きな起爆剤とはなったようだった。
正確には本気にさせたのは青島本人だろう。
助けに入ったあの工場で、噎せ返る熱と炎が迫る曇った視界の中、消えそうな灯を必死に抱き留めていた室井の姿が
新城の瞼にも今も衝撃的に焼き付いている。

外野が何も目に入らない視線。囁き合う優し気な声音。
煤に汚れた廃墟の中で、それはどこか神聖で神威的だ。
口を挟めなかった。立ち入れなかった。
二人きりで完結する世界の崇高さが、まるで他者を寄せ付けない楼閣を成し、萎縮したというのが本当の所だ。
負けた、のかもしれない。

だからと言って、はいそうですかと引き下がれるほど新城の中に燻り続けたものも素直じゃなかった。
室井と青島の違いの一番明瞭な所は、その立場の違いだ。
キャリアとノンキャリという決定的で絶望的な差異は、視野の違い、責任の違い、正義の違いすら生み出す平行線だ。
その意味ではやはり、青島より新城の方が近い存在であると言えた。

散りゆく桃色の吹雪が新城の瞳に流れていく。
以前、一倉が冗談交じりに言っていたことを思い出す。
“青島の最大の願いは室井がトップまで上り詰めることだ。室井は意地でも抑留したくなる。それを室井が蔑ろにするかな”

確かに室井の青島への依存は異常で、青島を大切にしたいあまり、社会正義だなどという曖昧な原理に縋るだろう。
そのため不用意なリスクは極力避けてくる。

“下手な賭けには出られない。もしかしたら室井はお前を選ぶかもしれないぞ”

だとして、それは何という名の罪であり、何という名の情愛なのか。
それを言われたあの時は、そんなわけないだろうと思えた。そんな不完全で不条理な身勝手の愛情など、御免だと思った。
いつだったか問い詰めた時、“閉鎖的な体制の中で生きる人間はリスクを犯せない。護れなくなる”と室井は語った。
青島を護ることが室井の第一目的だ。
でも青島の第一目的はきっと。
だが今となってはそんな形でさえ自分の元に室井の存在の欠片が遺されるのであれば
それは幸せなのかもしれないと思えている。

生死の境目を見た経験が人を感慨深くさせているのだろうか。
それとも自己犠牲を伴ってでも貫く青島の馬鹿さ加減に絆されたか。

こうして、利にも得にもならない行動に出ることが多くなった最近の自分に、新城は嘲笑を交えつつ視線を車内へ戻す。
だが気分は悪くない。
処分の対象にはならなかった今回の一件で、室井と冒険した一カ月は、それなりに充実していた。
同時に同じ時代に生きた同志としてそれは奇妙な安寧を新城に齎す。

僅かな気配の揺らぎを感じた細川が、バックミラー越しに視線を投げたのに気付き、バツが悪いように新城の目元が曇った。

「何だ」
「どうかなさいましたか」
「たまには道を踏み外してみるのも悪くないって話だ」
「そんな台詞、お父上様が聞かれたら卒倒なさいますよ」
「ふん」

結局、新城が無意識に避けたのは、室井が目の前で自分より青島を選ぶことなのかもしれない。
―青島に、勝てるわけがない。
だからこんな人情染みたらしくないことまで請け負って意地悪をしたいのかもしれない。
全く、室井はどうしてそこまで青島に関わると意固地になるのか。そして開花していくのか。
それまるで春を待ち花弁を咲かせたこの桜と同じだ。
それでも自身で抱く胸の熱に正直になることは、随分と清々しいものだ。
自分だって大差ない。
ここ数年、エリートキャリアと呼ばれ邁進してきた時間は別なことに必死で、あまりそういったことを考えてなかったように思う。

車が流れるように湾岸署の手前へと滑っていく。
言いつけ通り、正門前の道路で控えていた女――恩田すみれがむくれた顔で腕を組んでいるのが見えた。

奇妙に晴れ晴れとした面持ちで、新城は桜を追った。
ずっと胸に抱く熱は忌むべきものだと考えていた頃が懐かしい。男としてもキャリアをしても新城にとってそれは長らく邪魔なものだった。
だから室井を追い込み、断らせて、振られたという名目で逃げ出そうと姑息なことを考えていたこともある。
その淀んだものが、今は温かい。
自分たちは今も昔も、同じ穴のムジナというやつなのだ。
このまま気の済むまで抗ってみるのも、一興だ。
とことん室井には付き合ってもらおう。そのくらいの詫びはしてもらっても罰は当たらない。

周囲に不審者がいないことや監視の目がないことを確認し、細川が指示を視線で求めてくる。
新城は首肯した。
音もなく手前で車は停まる。
バックウィンドウを下げれば、弾けるようにすみれが不満を露わに覗き込んできた。

「なによ突然!あたし散々電話したのに!出なかったくせにそっちは命令なの!?火事のことだってあたしがどれだけ――!」
「誰にも気づかれなかったか」
「これでも刑事なの。そのくらい出来るわ。でもいきなり言われたってこっちにも都合ってもんがあんのよッ」

彼女が噛みついてくるということは親しみを持たれていることだと感じ始めていた新城は
そのまま内ポケットから小さなメモ書きを取り出し、人差し指と中指でピッと差し出した。
怪訝そうなすみれの顔を見上げ、一言添える。

「用が済んだら燃やして処分しろ。話は通してある」
「――何、此処」

すみれの白い指先がメモ書きを受け取り、さっと目を通すとまた新城に事情を求める視線を戻してくる。
察し良く瞳色が変わっていることを認め、新城は小さく口端を持ち上げた。

「不満はソイツに直接聞け」
「・・ッ、ぇ、もしかして――!」
「変装はした方が良い。背後にも気を配れ」
「・・・たしが・・行って・・、その・・・平気なの」
「刑事なんだろ」
「――、・・・・やな男ぉ。試したの?」

緊張の糸を少しだけ解し、すみれが小さく笑みを零した。
泣き笑いに近いその顔は強張ってはいるが、大きな瞳は濡れたように喜色を浮かべる。
見つからないよう此処に立てと指示したのは新城との接触を勘付かれないためだったが、試したつもりはなかった。
だがそういうことにしておいてもいいと思い、新城は憎まれ口に嫌味を返す。

「信じる相手は自分で選ぶ主義だ」
「ふぅん?合格ってこと?」
「まだ試験中だ」
「一方的ね」
「堅実と言え」
「だから嫌われるのよぅ」
「望むところだ」

言うだけ言うと新城は視線で細川に出せと命じる。
長居は危険だ。

「ありがと」

去り際、春風に乗って小さく途切れたすみれの言葉は、それでも新城の耳に届けられた。


***


ほぼ同時刻、室井は青島の眠る病院へと向かっていた。
意識が戻ったというのは一週間ほど前に一報を受けたが、仕事が立て込み思うように時間が取れなかったため
ようやくというより半ば強引に時間を絞り出し、今夜を取り付けた。

足を運ぶことすらままならない激務が続いていた。
閑職に回されたと渋っていたのに、ここにきて時間外勤務の皺寄せが来ていることもあったが
それだけではない事務書類や早急の依頼が急遽回され、昼飯を摂る時間すら見過ごしがちだった。
帰るだけの家で僅かな隙間時間を泥のように眠り働く日々が続いた。

少し妙だなと訝しんではいる。
これまで扱ったことのなかったような案件や報告書まで回され、まるで室井を庁内に足止めしているかのような印象を受けた。
池上の指図かと思ったが、こんな地味な嫌がらせをするだろうか。
青島の居所を探る動きがあるのは承知しているが、そのためならば室井を動かした方が早いだろう。
考えすぎかもしれない。
ここの所、気を張ることが多くずっと緊張を強いられた毎日だった。
刑事ともなればその負荷は必ず誰もが抱えるものであり、臨機応変に対応していかねばならない。

何処か拭い去れない不穏な動きを第六感のようなもので感じながらも、それでも向かう室井の足取りは軽かった。
ずっと彼の帰りを待っていた。
早く目覚めてくれとどれだけ祈り願ったか。
話したいことがいっぱいあった。
聞きたいことも山ほどあった。
言いたいこともあった。

ダークグレーの室井のスーツに桃色の吹雪が色を付ける。










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繰り返しになりますが荒唐無稽な背景にツッコミを入れてはいけません・・