東京変奏曲2season Ⅱ
第六章
1.
瀰漫するだるさと重たい身体を奮起し、本日の任務を終えた新城が庁内の配当されている自室へ戻ると、既に室井が来ていた。
余程堪えているのだろう、テーブルにはつい先程まで見聞していたと思われるレポートや現場写真が散乱している。
ジャケットを脱ぎ、ソファに沈ませた背中を反らし、濡れタオルで目元を覆っていた。
ラインにフィットしたウエストコートのせいで、整った曲線がシャツも撓ませず胸筋を繊細に象る。
反らせた喉仏が新城の気配に促されるように妖しく上下に動き、挨拶もなかったが起きていることを示した。
「お疲れですか」
「――問題ない」
「マンションの方、どうでしたか」
「・・・女の行方も分からない。つい最近なんらかを運び込んだ痕跡はあったが、それがゴルフバッグかどうかまでは。・・・もうこの
線から足跡は追えないだろう」
「そうですか・・・」
「元々、銃刀法違反にしろ誘拐にしろ、捜査立ち入り令状があるわけでもない」
淡々と答えるが、室井の声は低く覇気がない。
やつれた中年の肌が血色悪く蛍光灯に反射した。
いつもは指先一つまで気を抜かない男が、ネクタイこそ緩めないものの足を無造作に投げ出し身体をソファに弛緩させている。
憔悴し、まいっていることが感じ取れた。
尤もそれはこちらも同じだった。
連日の残業に加え、進展の見えない捜査と上層部との板挟みは、重圧と鬱積だけを高める。
加えて夕刻間際のすみれとの僅かな諍いが、今も罪状を主張し棘のように突き刺さっていた。
時は午後九時を回り、窓の外はとっぷりと濃紺のヴェールが覆っていた。
光さえ吸い込む宇宙のような窓辺に、僅かながら恐怖を察知する身体が警戒で重くなる。
一部しか灯を点けていない部屋には月白が射しこんでいた。
なるべく刺激しないようにさり気なさを装い、新城が書類を置きながら口を開いた。
「先程、細川も帰ってきました」
「ああ」
「室井さんの予想通りでしたよ。部屋はめちゃめちゃに荒らされていました」
「そうか・・・」
艶のない声で室井が静かに相槌を打った。
口調からはやはりなというニュアンスが感じ取れ、然程驚きは感じさせない。
今朝、室井の提案で青島のアパートの状態を細川に確認に行かせた。
もしやという期待と狙いがあった。
何者かが何かを探しているのであれば、そこを調べない手はない。拉致より先に浮かぶ企てだ。
また、青島が自由意思で起こした事態だとするなら、一度自宅に寄ったのではないかとも考えた。
犯罪心理学でも帰巣という概念は割と重要視される。
案の定、細川の報告では部屋は最早人が住めないほど執拗に荒らされていたという。
写真も送られてきたが、窓が割られ、棚が破壊され、かなり悲惨な状態だった。
それは、スマートに人間を一人誘拐してみせた手腕と同一人物とはとても思えないほど杜撰な状態であった。
室井の部屋を去った後の青島がやったとするにも不自然だ。
報復なのか警告なのか。
或いは、別人の線か、青島に因る偽装なのか。
周辺に聞き込みをしたが、ここ数日で不審な物音を聞いた人間はいなかったという。
そもそも病院襲撃以来、自宅とアパート周辺は重点的に警備させていたつもりだった。
つまり誘拐よりもっと前、かなり以前に既に行われた惨事ということになる。
新城は未だソファに沈み込んだまま報告を聞く室井を奇妙に空疎な気分で見つめた。
今は詰めた議論をする気分ではなかった。
裏切られた男の姿は憐れで、頼りない。いつも漂う品格も消沈し朽ちたように投げ出された身体は、妙な雄の味わいを芳わせ薫り立っていた。
柱を失った人間は、時代に試される。
乗り越えられぬ者は、消されるまでだ。
それは例えるのなら、性的な原始的素質を剥き出しにするのかもしれない。
絶望に身を託すこんな室井の姿を勿論見たことはなかったが、それを晒してくれる赦された立場にある今に、酷く動揺している自分を新城は警戒した。
ゆったりとした足取りで、ソファ横のデスクに直接腰掛ける。
やつれた男は気配に気づいているだろうに微動だにする様子はない。
「誰かが何かを探していることは間違いなさそうですね」
「そう見ていいだろう」
「青島本人を浚う訳もそこにあったということか・・・」
「異論はない。巻き込まれたか、自ら飛び込んだかは、分からないが」
濡れタオルで覆った目元に腕を乗せながら、室井が沈痛な声で静かに応じてくる。
埃臭い照明が胡乱に部屋を沈ませ、男の肌を浅黒く陰らせた。
「いずれにしましても、もう単独犯ではないですよね」
「・・ああ」
喉仏が生き物のように蠢くのを、新城もまた伏せた瞼で気怠く見降ろした。
不自然な空気が流れる。
出方を待つような、居たたまれなさと違和感を浮かべ、大気が不安定に揺らいだ。
単独犯ではないということ。
巻き込まれたにしろ、青島自らの意思にしろ、彼が今、誰かと行動を共にしているということに他ならなかった。
いずれにせよ、第三者の介入を明確に示唆している。
その事実が示す所は、警察の情報が相手に渡る予見性、そして、向こうの秘匿情報をこちらが入手し損ねた損失可能性の輪郭を、現実味を以って浮かび上がらせ
た。
推測の域を出なかった憶測が、捜査を進める程に確実性を持つ。
室井にとっては最悪の事態へ向かいつつあると言って過言ではなかった。
問題は、荒らしたのは誰かということだったが、そこはもう室井にとっては重要じゃないのかもしれない。
「付近の足取りを追っても有益ではない。監禁しているであろう場所の特定を、これ以上当日の足跡から追うのは限界かもしれません」
「同感だ」
「先手を譲るので?」
「ああ。あの日の失態は完全にこちらの敗北だった。認めざるを得ない」
「――」
ギャンブル性を持つ捜査を好む青島の相方に相応しく、リスクを負う指揮判断を時に自ら選ぶ室井らしからぬ発言だった。
新城は我知らず息を止める。
言葉少なに淡々と応えてくる。
既に室井も幾通りもの推理の上で納得して出した解答なのであろう。
深い意味など持たないであろうその有り触れた言葉も、この場に相応しい冷静さを保ちながらも、今はどこか偽証のように聞こえた。
何となく室井はもう、青島の生存に期待をしていないかのようにすら、それは感じ取れた。
追い掛けても追い掛けても、その影すら届かない。
降り積もる時間に焦れて、遠ざかる影に脅えて、刑事の捜査に合理性は存在しないと分かりつつ、その多大に費えた時間の代償は
初動捜査の遅れは致命的という事実を傲慢にも浮き彫りにしてくる。
連日のダブル捜査で、部屋も荒廃していた。
いつもなら身形と空間の乱れは心の乱れだとばかりに整頓している新城も、片付ける余裕もなく乱雑に物が散らばせている。
先行きの見えない動向。その運命を共にしている男。
不可思議な運命の悪戯は、この身に与えられる混迷の未来を示唆してもいた。
捜査の失敗はキャリアの汚点だ。
それをカバーする成果を、どこかで稼がなければならない。
暫く室井を見降ろしていた新城は、冷たい静謐に身を堅くしながら、溜息と同じトーンで言葉を落とした。
「それは・・・救出を目的にしないということですか」
「今後の動向次第だが。ただ、もう時間がない」
楚々と答える室井に、新城は言葉を失った。
それを、室井の口から聞くとは思わなかった。
それに気付かず、室井は厳かにも思える口ぶりで告げる。
「そろそろ、時間が立ち過ぎていることは念頭に入れておくべきだろう・・・」
「・・・分かりました。そのつもりで捜査を進めます」
窓の外は風もなく、鎮まり返っていた。
きっと、今夜は月も冴えているのだろう。
愛しい者から追う者へ、そして疑う者へと変わった相手を、それでも重圧と閉塞感に屈することもなく専念出来る精神を、ただ崇高だと新城は思った。
犠牲者の痛手に寄り添いたい所轄と違い、指揮官はその温情だけに盲目するわけにはいかない。
警察キャリアは皆そういう姿勢を強いられる。
新城とて、家族を対象とされてもその覚悟は出来ていた。
だが、室井の場合は少々勝手が違うだろう。
大切な者を奪われた男の背中は気高さを欠いていた。
青白い月光の中で冷たさを増した明りが、二人の輪郭を陰湿な色で微かに照らす。
「今夜はお帰りになった方が宜しいのでは」
「・・・・、いや、」
「特に他に報告に上がってきているものはありませんよ」
それでも室井は動こうとはしなかった。
何となく、一人になりたくないのだろうことを察する。
家に帰りたくないのかもしれない。青島の匂いの残る、あの部屋には。
口でも思考でも、紳士的な振る舞いを崩さず邁進する男が、だが、その姿態は裏腹に、ソファに力無く横たわっていた。
そんな男の脆さが新城の胸をただ狂おしく色付けた。
今、どれだけ彼は心労と心痛を抱えて堪えているのだろう。
だけどそれを、誰にも見せることも敵わず、掬いあげる相手も今はなく、それでも振り払えない分裂した心が
彼を珍しくここに留めている。
恋など知らなかった頃なら、室井の今の沈痛など、新城には理解を越えたものだった。
無能だ、みすぼらしいと叱咤していたかもしれない。
だが今の新城には必要以上に露わになった室井の心中へ、溺れるように同調する。
親和的でもあり屈辱的でもあるそれに、だが対抗する勢力もまた新城にもないことを、理解していた。
一言でもなにか気を晴らす様なことが言えたなら良かった。
だがそんな言葉は到底持ち得ない。
感情が溢れてくるのに、物理的には何の足しにもならない。
気付かない間に距離が出来て終わっていく、その空間に新城は打ちのめされる。
この寄り添う現実が、夢幻であってくれたらいいのに。
それが叶わぬのなら、早く解き放ってやりたかった。
「それらしい身元不明の遺体が幾つか上がってきてますが、ご覧になりますか・・・」
「・・・見たのか」
「写真でなら」
「どう思った」
「顔などろくに残っていない遺体ばかりですよ、判りかねますね」
「DNAには」
「簡易結果は明日にでも。正式なものも週末には」
「そうか・・・」
室井の口唇が戸惑いを乗せ、小さく痙攣していた。
だが、そこから気弱な弱音が漏れることはなく、ただ沈黙が訪れていく。
自ら手向けた癖に本当は室井がこう答えることを分かっていたのだと新城は思った。
気丈な男だ。
手折れることを由とはしない。
弱音を吐くことも甘えることも出来ずに、ただ苦汁を舐め、静かに堪える男の痛ましさは、目に余った。
それは巧妙に新城の奥底を震撼させた。
今、紛れもなく二人は同志なのだと甘えを含んだ思考の片隅で、そう思う。
ソファの上で身体を投げ出す室井の傍を、新城もまた離れ難く、動かなかった。
いつも以上に冷え込む夜だと思った。
粗雑にネクタイを緩め、そのままテーブルの上に乱暴に片脚を折り曲げて乗せる。
窓の外は都会のイルミネーションが散りばめられていた。
不意に室井の口が動く。
「マスコミは、どうなった」
「――、発表は恐らく三日後。週末になるかと。月末の土日を挟めば影響は最小限に抑え込める」
低く頷くだけで、室井も強く糾弾しようとはしない。
数時間前のすみれとのやり取りが、新城の中で渦を巻いた。
「お前も同席するのか」
「・・・恐らく」
「大丈夫か」
まさか室井に憐憫の情を掛けて貰えるとは思っていなかっただけに、新城は思わず振り返った。
どう対処したら良いか分からないというのが本当のところだった。
新城の中に残り香のように一瞬だけ湧いたあの複雑な躊躇いは、しかし誰にも見つかることなく消沈した。
なのに同じキャリアである立場は、容易に掬いあげ、理解を共有させる。
誰にも伝わらず、立ち消えていく筈の鬱屈を、気付かれていた。
分かりあえる仲であることが新城の柔い部分を痛烈に刺激し圧迫した。
新城は苦悶に目元を歪ませる。
「――、まさか、貴方の方から気を使われるとは」
「お前を慰めることが出来るのは、多分私だけだろ・・・」
「貴方に慰められようなどと・・・」
言い掛け、途中で止めた。
張り合うことで互いを高めてきた仲だった。同じ土俵で戦う同志であるという事実は痛みも熱も暴かれる。
今はそんな甘い同調に抵抗する元気もなく融合していく。
分かって貰えない苦しさと、共有できる苦しさが、綯い交ぜとなって新城の胸を傷めつける。
言葉尻は夜の空気に溶け、新城もまた沈黙に委ねた。
尤も張り合っているつもりであったのは自分の方だけで、端から室井には意識してもらえなかったキャリア人生だった。
だがそれでも紡いできた時間は確かに自らの中に存在していて、同じ長さのものは室井の中に存在していた。
もっと、室井が青島と対峙している時のように、苛烈な熱を、自分も肌で知ってみたかった。
それでも確かなものは時と共にここにある。
こんなものが欲しかった訳じゃない。
だが、その甘味が身に浸み入っていくこともまた事実で、どれほど自分が飢えているかを、その熱は嘲笑っていた。
何かが溢れそうになり、新城は口唇を強く噛む。
「記者発表は私の方が場数踏んでいますよ」
「・・・そうか」
言葉の力 と想いの力というものは、計り知れない。
強がりだと察してしまったような室井の口調は、目元はタオルで覆われているものの、タオルの下から僅かに覗く口元が柔らかく引き結ばれているのを確認し
た。
愛しい者を晒すことになる命令なのに、新城を顧みる厚情が喉を干からびさせる。
気遣われるということが、悦びであり救済だということを、ようやく知る。
こんな、無益な情けを掛ける室井が、嫉妬と羨望に歪む。
浅い吐息をワザとらしく漏らし、行儀悪くテーブルに乗せた片脚を掴んだまま窓の外に視線を投げる。
「青島がここにいたら・・・憤慨するんでしょうね」
「上の考えそうなことだ」
「事実はいつの時代も権力に消される」
「まるでまだ信じているような口ぶりだな」
勿体ぶるほどの間を取り、新城は静かに綴った。
「もう見切ったとでもいうおつもりですか?」
「・・・、お前は、強いな」
「強くなければキャリアなんてやっていけませんよ」
室井が小さく笑ったようだった。
キャリアで生きることを決めたのはお互い様だ。
選んだこの道で後悔するほど蒼くはない。
青島と共に歩んできた室井の道の消滅と共に、室井自身も霞のように消失していきそうだった。
「信じると約束したのでしょう・・・?」
「・・・・分からない。正直、分からなくなった」
予想外の言葉に、新城は瞠目する。
「それは――・・・」
「あんなに傍にいたのに、何も見えない。何も分かっていなかったのかもしれない。人の繋がりなど脆いものだな・・・」
「随分・・・弱気ですね」
「あいつの見せた顔も私を欺くためだったとするならば、私は何を見つければ良かったんだ・・・」
「遠慮して建前で取り繕っているからそんなことになる」
「手厳しい。だが返す言葉はないな」
「刑事としての本分を最後まで保っていれば良かったんですよ。恋などという非生産性のものに現を抜かさずに」
室井が濡れタオルを目元に押し付けるように片腕を翳す。
「泣かせてもか」
「泣くんですか」
「泣くんだ、一人で。割と泣き虫だぞ」
それはまるで、恋の告白のようだった。
大の大人が人前でメソメソ泣くだろうか。ましてや青島は本音を容易に人に悟らせない演技派である。
辛い過去など、それこそ室井にはひた隠しに誤魔化して頬笑みで惑わしそうな男だ。
そんな青島が室井の前で泣くほど素を晒し、一方で別の何かを欺く行為をしていた?
泣くほど弱っている姿を見せることで、謀るつもりか?・・・それは室井には逆効果だろう。これほど青島に執着している男だ。
それをあの観察眼の鋭い青島が気付かないとは思えない。やるならもっと有効な手立てを捻出しそうだ。
俄かには信じ難い違和感を新城も覚える。
室井の戸惑いも理解出来る気がした。
その中で、そんな青島を庇い、護り、救おうとした昔堅気な室井の男気にも、馬鹿だなぁという慈しみが湧く。
「好きな相手にはいいところを見せたくて、恰好をつけて強がるからこんなことになる」
「恰好をつけることなんか、許してくれない」
あいつには全部バレる・・・と、自嘲気味に歪めた室井の口唇が、酷く親密な距離感で見えた。
恋に溺れ、爛れた頭の片隅で、恋する男はみな臆病で、それすら同じなのだという同調は、酷く新城を撓ませていく。
恋をすると、人は人の温もりに敏感になる。
本当に欲しい熱を欲しがるために四方に巡らせた五感が、本能の命ずるままに不足した熱を補おうと肉を求め彷徨い合う。
片恋が見せる飢餓は誰もが同じだと思った。
すみれの涙を少し回顧する。
彼女もまた恋の怖さに気付いている一人だった。
威嚇し、虚勢を張る瞳の奥には、成熟しない恋への不安と憎悪が渦巻いていた。
今なら彼女の手酷さも盲目も、許してやれる気がした。
「かつて、貴方と青島二人で本部を飛び出したことがありましたよね」
「傷物の過去は中々忘れて貰えない」
「あの時賭けられたのは何故なんでしょうね」
「・・・・」
「男なら、しっかりしてください。受け止めてやるまでが恋だ」
「お前、俺を焚き付けたいのか、非難したいのか、どっちだ」
言っていることが矛盾だらけの新城の言葉が、だが今、一番二人の蟠りを代弁していて、一番この場にそぐうものだった。
「溺れるだけが愛じゃないらしいですよ」
「随分と抒情的なことをいう」
「青島を信じる角度でダブル捜査をすると言ったのは貴方だ」
やがて、遣り切れない吐息に重さを滲ませ、室井の息が嗚咽したように小間切れた。
「・・・大事な、思い出だったんだ・・・」
「貴方の中でこれからもそうであれば、それで良いのでは」
「一人で思っているだけでは、そんなの・・・・ないのと同じだ」
記憶は、誰かと共有することで色を持つ。
消えた人間を想い慕うことは、生き残った者の欺瞞に過ぎない。
室井の声が、来たる終焉に向けて準備を始めていることを、告げていた。
泣いてはいないだろうが、泣きたい気分なのだろうことが、強く理解出来る。
濃密に交わる空間が言わせたのか、今夜の室井は寂寥を隠そうとはしていなかった。
新城は強く奥歯を噛み締める。
青白い月光の中で冷たさを増した中で、浅ましいエゴを気付きもしない清廉な男が項垂れる。
青島と見せた軌跡の残骸と共に、今、本当に室井も霞のように消失していくのだと思った。
どうして救ってやれる相手が自分でなかったのか。
何故救える手立てを自分は持たないのか。
こんなになるまで追い込まれ、潰れそうな心が今になってお互いを酔わせ、境界を曖昧にする。
それもまた、恋の魔法なんだろうか。
ゆるりとデスクから足を下ろす。
隣で顎を逸らしている室井の上に覆い被さり、新城は両脇に手を付いた。
そのまま顔を傾け、室井の口唇に自分のを押し当てた。
ビクリと跳ねた手を捉え、目元を覆う濡れタオルの上から新城は自分の手を乗せた。
「いいから・・・・そのままで・・・」
「・・新・・」
乗り上げ、角度を変え、再び舐めるように口唇を閉ざす。
凪ぎのようにソファに沈下し弛緩していた室井の身体が、ザッと波立つように緊張が走った。
二人の輪郭が赤錆色に闇を纏う。
男を煽る手腕も、男を慰める手技も、知らない。
ましてや男を誘ったことなどもない。
そんなものは人生に必要なかった。
女とのキスは専ら性欲の前戯だった。
ただ赴くままに、柔らかく口唇を重ね、その吐息を奪った。
「待て・・ッ、しん・・・じょ――・・・」
室井の筋肉が怒張し、危機感を訴え、起き上がろうとする。
それを目元を柔らかく押さえることで制し、新城は舌を突き出してその唾液で光る薄い口唇を辿った。
頬を支え、上からそっと塞ぐ。
「室井さん・・・・いま・・・いまだけ、で・・・・・・いいですから・・・・」
応えてはこない口唇を何度も吸い上げ、新城は薄く開いたその歯列を許可を願うように刺激する。
片脚を上げてソファに乗り上げ、身体で押さえ込む。
かつて、男にキスしたことなどなかった。
自ら淫戯に堕ちることなど、有り得なかった。
どこまでも誇り高く敬虔な男が、淫らな欲望に染まっていく。
今はプライドも尊厳も、失墜していた。
ただ目の前の崩れそうな男が欲しかった。
そして、溺れる先で見えてくるものがあるのなら、知りたいと思った。あの女がいうものを。
「口を・・・開けてください・・・・」
哀願するようにキスを仕掛けながら新城はその甘い唾液に啜り付く。
冷たい水音が鼓膜を酔わせた。
自分が今どんな淫らなことをしているか、まったく眼中にはなかった。
溢れる想いが、ただ持て余した身体を突き動かしていく。
「・・室井さん・・・」
焦がれるように名を呼び、待ち切れなくて、新城はそっと舌を差し込んだ。
狂おしいほどの情愛と、眩むほどの熱と、締め付けられるたった一度の口接に、眩暈がした。
「ん・・・ぁ・・・ぁ・・・」
ゆっくりと抜き差しをして、室井を翻弄する。
余りに強烈な柔肉の誘惑に、凶悪な悦びが新城の全身を栗立たせた。
「物分かりの良い言い草など・・・貴方に、似合いません・・・」
「・・は・・っ、だから・・って・・・・!くぅッ」
舌を噛みきるほど強く噛んだせいで、仰け反った室井が顎を逸らす。
「・・・っ、お前・・・!」
深い眼差しを静かに滴らせ、新城の瞳は哀哭に染め上がる。
「私の前で、弱味は見せない方がいい。今の貴方は隙だらけだ・・・」
苦情を言わせたくなくて、新城はぴったりと室井の口唇を塞いだ。
衒いなど邪念を捨て去り、委ねさせたかった。
今だけは、身代わりで良いから寄り添って欲しかった。
肉の快楽でも構わない。
一時の衝動に溺れ、解放させることが出来るのであれば、それは本望だ。
仰け反って浮き上がる男の喉仏を、震え、ままならない指先で上から辿り、ワイシャツの襟のラインを淫蕩になぞっていく。
室井がビクッと身体を捩った。
咎めるように伸びた両手が新城の二の腕を掴み、指先が喰い込んで。だが、それ以上の抵抗は――なかった。
「ん、・・・は・・、・・・ふぅ・・・、・・・」
喉を鳴らし喰らうように室井の口唇を貪っていく。堅苦しい書籍と資料に囲まれた堅牢な部屋に、淫らな音だけが溶け消える。
金色に縁取られた輪郭が折り重なり、浅ましく咽喉を鳴らしている自分の声が耳を醜悪に劣情してくる。
かつてした、どんなキスよりもそれは新城の胸を痛ませ、息を殺させた。
呼吸さえ危うくなり、でもそれで構わないと熱中した。
そうすることで、すべてが手に入るなら、息など要らない。
でも、青島がこの世から消えていたら、もう生涯この心は手に入らないのだろう。
死者には永遠に敵わない。
勝ち逃げされた男へ、時空の重い槍が貫いた。
戦わずして置いて行った手土産に、喪失に怯える恐怖を投影し、この先の未来まで奪われた。
「・・ッ、・・・新城・・ッ、・・私は・・・!」
「それだけ、本気でした」
白状する声は、情けなくも震えていた。
記憶は誰かと共有して完成するものである。
独り善がりの思い出は、妄想と変わらないことを、大切な人を失くした時、人は初めて実感する。
不完全な輪郭を朧げに保つ記憶の断片に、失った片割れを永久に飢え続け苛まれる生命は、宿命というにはあまりに過酷だ。
記憶にすら負けるのか。
一度でいいから触れてみたかった口唇は抵抗なく受け容れた。
甘やかな弾力に陶然となり、新城は身体を震わせながら、室井の顎を持ち上げた。
一度でいいから感じてみたかった胸板は筋肉質で、だが整ったラインは芸術品のような美しさを眼前に晒す。
もっと触ってみたくてウエストコートの上から淫らに手を這わした。
独りで抱え耐え忍ぶ室井が切なくて、目の前に居るのに何の価値もない自分が不甲斐なく
救われる術を失った恋情が、退こくとはせず、悲しみの大義を大胆にさせる。
頼られないということは、価値がないと同義だ。
「は・・ぁ・・・ッ」
室井がようやく解放された口唇を逸らし、長い首筋を新城の前に晒す。
誘われるように今度はそこに口唇を滑らせた。
そのままネクタイを手際良く解く。
「私・・・がッ、・・・ほしいのか・・・」
然程体温の高い方ではないのだろう、冬の大気に晒され、エアコンでも温まらぬ指先が切なくて、新城は頭から懐深く抱え込んだ。
もう一度深く接吻を交わす。
理由など、明確なものは何も持っていなかった。
媚びるような思考も爛れた誘惑なども、一番毛嫌いしていた人種だった。
同じだと思った男が、一人先に逃げ出そうとする。それが悔しい。それが悲しい。
堪え忍び、それでも食い下がってくるものだと思っていた。
そこに在ることで、自分も存在出来ていた。
一途に飢えるほどに焦がれた欲望が熱を欲し、ひとときの共有と壊される頂点を臨む。
憂える記憶を爛れた欲望で塗り替えてしまいたかった。
言葉はない。
ただ夢中で舌戯に熱中する。
自分がこんなにも飢えて、こんなにも淫猥な獣に成り下がってしまうとは、考えたこともなかった。
室井の口唇は熱を持たず冷え切っていたのに、徐々に分け与えたもので同じ温度に染め上がっていった。
必要以上に関わらないということは、相手をいつまでも理想のままに存在させるということだ。
そんな浅い熱情など今の新城には恋の破片ですらない。
綺麗な価値で保管するものに、どれだけの優位性があったのか。
忘れられていく綺麗な交際を選ぶくらいなら、恨まれ蔑まれ、残したい。
欲しかったのは、室井が青島を欲しがるような、あんな灼熱の情愛だ。
力のこもった室井の指先は、ただ戸惑いを残すかのように、指跡が付くほど新城の二の腕を握り締めていた。
手放さない意地をみせながらも、最後まで新城を退けようとも引き寄せようともしなかった。
2.
コックを捻り、熱湯に近い湯温のシャワーを頭上から噴流させ、室井は目を堅く閉じた。
程良い筋肉で造形を描く肉体の上を、水流が滝のように落水していく。
完成された男の裸体はあまりに無防備に肢体を惜しげなく晒す。
湯と蒸気の狭い空間の奥で徐々に熱を帯びていけば、男のざらついた肌は仄かに色付き始めた。
浮き上がった胸板、引き締まったウエスト、削ぎ落された臀部、鋼のような太腿。
燃える炎のように咲き乱れる焦爛を纏う尖ったフォルムは骨格の利だけではない、日々の鍛錬の賜物だ。
浮き上がった肩甲骨をなぞるように、流脈は下腹部を降り、艶な色気を鳴らして形作る。
壁に両手を付き、室井は奥歯を噛み締めた。
本庁という公的な場で、新城に口唇を強請られた。
睦み合うままに促され、口腔の奥深くまでを知られて、嬲られた。
――振り解けなかった。
そんなことをして良い場所ではない、ましてやそんなことをして良い相手ではない。
まさか自分が職場でそんなことをするなんて、キャリア生活で考えもしていなかった。
理性は確かに英知に警告していて、分かっていたのに、身体が言うことを聞かなかった。動けなかった。
〝今だけで良いですから・・・〟
新城の囁くような苦悶の声色が、耳の奥に残っている。
その甘い命令に促され、視界を覆われた暗闇が冷たい均衡を蜜のように失わせ、身体が先に従った。
良いように貪られる過敏な羞恥は、雄の欲望の前に呆気なく潰えて、あまつさえ、シャツを寛げられた隙間から忍びこまれた指先に、その肌を赦した。
肉の接触は淫靡で、魅惑的で、泣きたいほど繊細だった。
飢えるほど欲した嫋々の温度とは違った。それでも、足りない温度を補給しようと身体が錯覚を起こした。
機敏なスピードで渦を巻き、排水溝に大量の湯が音を立てて吸い込まれていく。
肌を打つ水量を室井は更に強くした。
新城にあそこまでさせたのは自分なのだろうと思う。
プライドが高く、高潔で高慢な男が、あんな淫らに崩れ淫戯に熟れていた。
息荒く、声を堪える理性も飛ばし、ただ雄の欲望のままに感化するその様は、貪るというよりは救いを求めているようで
鬱積していた室井の深部の何かに、密やかに警笛した。
きっと、同じだったのだろうと思う。
飢餓状態にある男の心は手に入らないものを肉の耽溺に求めている。
それが分かったから――いや、きっと、そんなことも言い訳だ。
室井は奥歯を噛み締め首を振る。
先の短い黒髪から飛沫が乱れ散った。
薄っすらと目を開ければ、水流が視界を濁らせた。まるでそれは泣いているかのように脳を錯覚させる。
流されたのは、自分の心に隙を見せた怠慢だ。
新城を堕淫させたのは、室井の誘惑だ。
ひっそりと、歪めた薄い口唇で憫笑する。
あのまま、もし電話が鳴らなければ、自分は躯の全てを与えていただろうか。
新城の神経質な手に委ねたまま、、造りだされる他人の享楽に、どこまで埋もれてしまっただろうか。
新城のままならない指先がしっとりとした意思を持ち、室井のウエストコートのボタンを外し、その淫域に直に顔を埋めた時、ケータイが震動した。
それは、天の啓示だったのか試されたのか。
熱を孕んだ息が混じり合う中で交わされた一瞬の時間に過ぎったものは何だったのだろう。
自分は性に関してはそんな簡単に扱えない。
堅気で古風なタイプの男だと思っていた。
だからこそ、青島への感情も理性も置き去りにしたような盲着に自分自身、慄き躊躇した。
そこから創製した結論は、長い時間をかけて掴んだ、まるで絶望という名のような狂気だった。
狂気という他ないくらいの凄まじい激流で、室井の奥底から紛れもなく弾圧したのだ。
大事だと思えたのも、踏み込めたのも、相手が青島だったからで、彼とならどんな未来も臨めた。
だが恐らく青島は。
この広い空の下に、たった一人、室井を遺して消えてしまった。
この果てない世界で、たった一人で消えてしまった。
きっと、この世の隅々まで命尽きるまで捜したって、もう彼はいない。
その肩代わりを、新城に錯覚したのか。
物事の真実在の理性的、悟性的認識が欠損していく。
不憫な肉の身代わりを、それでも構わぬと矜持を捨てた男に烙印し、情欲に歪め、穢れさせた。
濃密に交わる官能が、苦渋の色で代役に成り済ます。
「・・ッ、・・フ・・ッ」
嗚咽のような声がシャワーの音に途切れた。
両肘を壁に押し付け、俯いた剥き出しのうなじに熱水が流れ落ちる。
滑稽だった。
結局、自分はこんなにも脆く、弱い。
キャリアの資質などなく、腐っていく膿に尚怯え、顔色を窺い、傷つくことを恐れるしか出来ない。
毅然とした態度を取れず、新城を巻き込み、その責任も取れない。
誰かの腕がなければ立てないような無力を直視出来なくて、請け負った重荷を投げ出す愚か者だ。
最愛の人間さえも、護れなかった。
なんてみっともないのだろう。
泣きたかった。
でも涙は苦しい程に出なかった。
心が渇いてしまっているようで、世界が鈍色の狭窄に映る。
けじめを付けたフリをしてみたって、心は拒んでいる。
仕事の成功か運命の恋かなんて気取ってみたところで、そんなのは何の言い訳にもならなかった。
引き返すには遠くまで来すぎてしまっていて、生半可なものでは引き換えにならないことを解っている。
正気の沙汰じゃない。
周りを巻き込み、蟻地獄のような時の濁流に成す術もなく。
認められないのは、孤独なのか喪失なのか。
中途半端な荒んだ覚悟では、きっとこの先で待ち受ける真実なんか、受け止めきれない。
他人の人生を請け負える器じゃない。
「・・・く・・・そぉ・・・ッ」
欲しかった。もう一度触れたかった。
最後に交わした甘いキスも、新城の口唇に塗り替えられる。
扉の向こうで、最後に見た真っ赤に熟れて照れていた顔。ちょっと睨むように室井を濡れた瞳で見つめていた。
どうせなら、笑顔が良かった。
時を戻して欲しかった。
最後になるのなら、咲き零れるような、青島の笑顔が良かった。
新城の唾液と肉に消されていく。
大好きだった。
愛しかった。
大切だった。
何よりも、何よりも。何よりも。
もう二度と彼に逢うことは叶わない。
「・・ぅ」
もう二度と彼に触れることは叶わない。
「――・・・ッ!」
鼓膜を打ち付ける水流の音が、全てを洗い流していくようだった。
短い黒髪が額に張り付き、黒々とした陰毛までしとどに濡らしていく。
焦がれる心が、時の無常さに圧倒され、室井の喉を締め上げた。
ドンと拳でシャワールームの壁を殴った。
熱った肌とは裏腹に、心はとても、冷たかった。
*:*:*:*:*
パジャマの上だけを羽織り、前も留めずにバスタオルを頭から被る。
ぺたぺたと歩く裸足の音が鳴る。
少し熱くなりすぎた身体は倦怠感を増長させたが、久しぶりの自宅の風呂は時間を気にせず入れた。
乱雑に短髪を拭きながら、室井は冷蔵庫を開ける。
最近ろくに帰宅していなかったせいで、大したものは入っていない。
帰り際に買いこんできた缶ビールを手に取った。
アルコールはここ最近封印していた。
次に飲む時は、青島と一緒にと、ずっと思っていた。
一緒に呑める日を青島があんまりにも嬉しそうに語るから、室井も密やかに楽しみにしていた。
そのプルトップを引っ張る。
もう意味の成さなくなった誓約に固持する制約が発しない。
グイッと煽って、一気に半分ほどまで流し込んだ。
冷たい液体と炭酸は、風呂上がりの喉に沁み渡り、急激な温度の痛みさえ物足りなさを残す。
足りない。こんなもんじゃ、足りない。もっと強い痛みが欲しかった。
軽いアルコールでは微酔すら襲わない。
室井は眉を潜め、残りのビールも一気に煽った。
少し、咽る。
それを放り投げ、もう一本取り出した。
開け様に息が継ぐまで煽り、口元を腕で乱暴に拭った。
新しい一歩を選ばなければならない所に来ているのかもしれない。
決断を迫られる人生の起点は、いつだって無神経だ。
生殺しにしたことになる新城を苦しめているのも、自分だ。
一度断ったからといって心が簡単に納得するわけがないことは、正に恋という特有の感情性質であり、室井自身身を以って強く理解していた。
それでも変わらず純愛を向けてくれる新城のことを前向きに検討してやるべき時かもしれない。
「――・・・」
自分は性に関して軽々しくは扱えなかった筈なのに、男を相手に前向きだなどと適当な解釈を付ける自分に、薄っすらと苦渋に満ちた笑みが湛えられる。
男同士であるのに何故こんな悩みが相互に浮上するのだろうか。
不可思議な巡り合わせに、だが、この夜初めて、室井は新城の情愛を知ったような気がした。
新城にされたキスは、少なくとも嫌ではなかった。
部屋はしんと鎮まり返っている。
リビングのソファに身体を沈めた。
身体は温まっているが、手足が重く幾度となく繰り返した記憶のダメージが考えている以上に蓄積している。
肉体の不調は精神にも影響を与えてくる。
今夜は放射冷却が起きているのか、冴え冴えとした月が天に昇っていた。
音のない空間は自分の部屋なのにまるで違う部屋のようだった。
寛げない理由をこの静寂に求めようとして、思いあぐねる。
この部屋で、一人でいるのが酷く久しぶりなのだ。
ここ最近、ずっと青島がいたから――
「・・・ッ・・・」
忘れようと思った矢先に瞼の裏に浮かぶ男に、いっそ苦情すら投げたくなって、室井は片腕で瞼を覆った。
鑑識が入ったせいで、部屋は粗方のものが片付けられている。
目に付くところに青島の気配が残るものは置いていない。
なのに、その空気が、気配が、悲哀の果てへと導いた。
閑寂が心の隙間まで沁み込んで来て、犯していく。酸素さえ奪った。
確かなものが何もない世界は崩壊していく遺跡のように何も語らない。
前に、進まなければ。
きちんとケジメを付けなければ周囲にも迷惑がかかる。
今の状況を好ましいとは言えなかった。
まるで出口のない迷路を彷徨っているかのような遣り切れない気分が重く圧し掛かってくる。
何もかもが面倒に思えた。だが長い刑事人生で染み付いた習性が室井を解放してはくれない。
関わってきた一般市民、戦ってきた階級社会、そのどれもが、一つ一つ硬質な太い鎖となって、室井が逃げ出すことさえ赦してはくれない。
不安要素の多すぎる事態は関係者を支えるどころがこちらが引き摺りこまれそうだ。
キャリア官僚としてこの道で生きると飛び込んだ世界から、孤独な戦いは覚悟の上だったのに
青島を失った世界は、こんなにも残忍で冷酷だ。
「・・はぁ・・・っ、だからッ、なんであいつのことばっかりなんだ・・・ッ」
狂酔にもならなくて、妙に冴えてくる思考に室井は苛立ちを募らせた。
偲ぶ夜くらい、酒に溺れてみたって誰も文句は言わないだろうに。
腹が立って、濡れた前髪を片手で掻き揚げると、室井はまたビールを煽った。
ビールじゃ、駄目かもしれない。
パラパラと渇き始めた短髪が額を打つのがうっとおしい。
膝を開いて立て、その上に肘を付いた。
腐っても、刑事のつもりだった。
その刑事人生の終末には、青島がいた。
散々引っ掻き回して、派手に広げて、面倒をかけてくれた。
言うだけ言って、風のように通り過ぎて行った男。
裏切りも瞞着も、青島にかかるとルールのフィールドでしか動けない官僚の偏狭さと窮屈さを喉元に突き付けられる。
人生さえBETにする青島の偽計に誑かされたのだとしても、それは室井にしてみれば拙陋だった。
苦しいのは、そんな青島を救う手立てを持ち得なかった、自分自身の未熟さだ。
青島を受け止められるだけの器量なんか、持っていなかった。
愛されるには、愛されるだけの資質がなきゃ、その資格も与えて貰えないのか。
「だからここには帰りたくなかったのに・・・・」
瞼の裏の、消しても消えない男の幻影を追った。
仕事に没頭していた方が、心が楽だった。
最初で最後となったあの甘いキスが、上書きされた奥で、今も鋭利に熱だけを主張する。
青島を失って枯れていく心が、ただの失恋なんかの一言で終わらせられたくない。
ばふんとソファに凭れこんだ。
ぼんやりと天井を見上げていた。
古い建築様式である官舎の木製の板張りで覆われている、その木目調の模様が漫然と黒目がちの瞳に映りこむ。
部屋は静かなままだった。
これが青島の出した答え、つまりは失恋したことになる事実もまた、理解していた。
それでも強がりを言わせて貰えるのなら、室井にとって青島は、恋以上の融和を齎していて
もっと切実で雄大な片割れだった。
失われた恋の破片だけでは埋まらないものがそこにはあった。
今のこの事態を、失恋なんかの日常用語一言で片付けられるほど、事は簡単じゃない。
つまりはそれほどまでに青島という男に自分は魅せられていて、人生まで染め上げられていたということか。
確かに、もう手放せないと心に決め、一生を添い遂げると覚悟し、恋の自覚に腹を括った。
彼を失うよりもマシだっと思った。
でも、いざ失い実感する妄執は、想像以上に深甚で狂おしい。
その馬鹿馬鹿しさに、室井はいっそ可笑しみさえ湧いた。
火傷しそうな共鳴も、喪失に怯えた予感も、全部室井の独り善がりで、青島にとっては大したことなかったという事実を認めたくないだけかもしれない。
こんなに狂乱的で苛烈な熱を疼かせて、息さえ出来なくさせられているのに
それはまるで恋という単純で汎用的な一言で片付けられてしまうような、そんな心根の糾弾に、自ら呆れた。
室井には室井の人生がまだ続く苛酷さに、いっそ青島の記憶と共に、消えて行けるのなら、どんなにか幸せで楽だろうかと思った。
真実なんか、知りたくなかった。
刑事としての逆説に、不可思議と違和感を抱く自分自身にもまた呆れ返る。
「始末に負えないな・・・・」
新城によって打ち消されたキス。
格式を誇り気位の高い男は、一点の曇りも赦せないだろうに、あそこまでしてきた。
その向けられる無防備な情熱は、重すぎて、室井の手から零れ落ちていく。
目元を覆われ、倒錯した情交の甘ったるい余韻は今も口唇に残っている。
零れていくことを惜しんでくれたキスは、玲瓏に霞む。
のそりと起き上がってビールの残りを煽った。
空になってしまった空き缶を指先で弄ぶ。
戸棚に故郷の――秋田の酒が入っていたかもしれない。
正月に実家から送られてきた米や味噌や食料と一緒に酒も入っていたような記憶がある。
時間がなく、段ボールのままに詰め込んでしまっていた中に、一升瓶があった。
グラスを片手に、リビングへ戻る。流石にラッパ飲みする元気はなかった。
乱れたままの髪はそのままに、せめてパジャマだけでもと着込んだ。
青島と色違いで買ったパジャマだ。
室井は自分で自分の思考に嫌気が指してきた。
透明の液体を、口に含む。
部屋は深閑としていた。
青島がいた時は、二人きりでも沈黙が気になったことはなかった。
「味は・・・変わらないもんだな・・・・」
秋田の酒は、いつも同じ味がした。
こんな時も、同じ味で喉を潤してくる。
啜り泣きのようなトーンで、吐息が室井の口から漏れた。
秋田にはノスタルジーが溢れている。
蒼く澄んだ青春も甘酸っぱい恋も、そして命の儚さも、みんな故郷に置いてきた。
そう言えば、あの頃からだ。常に最悪の事態を想定して生きるようになったのは。
透明に輝く強い光を持つ男には、同じノスタルジーとシンパシーが同居していた。
こんな仕打ちにあっても、室井は青島が悔しい程に、愛おしい。
きっと青島以外の男では、自分は無理だろう。
彼が、この部屋で泣いていたのが、室井の真実だ。
あの涙の意味を、最期まで知ることはなかった。
刑事だからだろうか、妙にその違和感だけが棘となって心残りだった。
知る権利はないのだとしても、彼のことなら、最期に知ってみたかった。
刑事としての習性が長すぎたのかもしれない。
何でも疑うことに重きを持たせた。
疑うことしか知らないと、だから青島に笑われる。
信じることで所轄が擁立するのなら、本庁は疑うことで確立する。
そんな階級社会に立ち向かう時代も、終わるのか。
そこまで考えて、ふと室井は部屋を見渡した。
――そうだ、もし、本当に裏切られていたとして、ならばあいつはこの部屋で一体何をしていたんだ?
何かを探していた?
個人の部屋に持ち帰れるものなど、たかが知れている。
室井が出かける時は妙に嬉しそうだった。
外出している間は日々何かを探していた。
室井の捜査資料を執拗に気にしていた。
「・・・・」
軌跡を辿ってみる価値はあると思った。
どうせ気になって仕方がないのだ。だったら逃げずにとことん首を突っ込んでみるものありかもしれない。
項垂れた身体を起こし、室井は立ち上がった。
まず寝室へ移動していく。パチンと音を立てて電灯のスイッチを入れた。
朧に浮かぶ二つの畳まれた布団が視界に入る。
彼の捜索はここから始まっていた。
青島が手を付けた順番をなぞるように端から開け放っていく。
引き出し、クローゼット、戸棚。
特に何も出て来ない。
サイドデスク、枕の裏、カーテンの裾。
何もない。
リビングへ回る。
本棚、テレビ、チェスト。
やはり特に何も出て来ない。
「・・・?」
何だか自分のしていることが阿呆らしくも見えてくる。
こんなところを開けて、一体あいつは何があると思ったんだ?
それとも何かを隠したのか?・・・いやまさかそんな、ドラマみたいなことはやらないだろう。
だったら青島の目的は何だ?
キッチンに回り、つり戸棚、シンクやラックまで覗き込む。
あれだけ毎日せっせと掻き回していたのだ。
何か目的があるだろう。
その執念が気紛れだとは思い難い。
個人の部屋で探せる有益なものって、何だ・・・?
もし誰かと既にコンタクトを取り合っていたというのなら、盗聴器なども入手することは可能だ。
「・・・??」
特に何もない。
室井は首を捻りながらリビングへ戻る。
肌寒くなってきたのでガウンを羽織り、立ったまま日本酒を煽った。
もう一度、今度は引き出しの一つ一つを確認するように、開けていく。
いっそ職業病宛らに、室井はソファやテーブルの下までひっくり返して探した。
「・・・???」
考えてみれば二人きりなのだから、この部屋の住人と化した青島が盗聴をしかけるメリットは薄い。
そもそも物的な何かを隠すと言ったって、青島は着の身着のままにここへ担ぎ込まれた。
何かを隠し持てる物理的タイミングも薄い。
神経を集中させ、室井は職務中のような心理状態で捜索を遂行する。
自分が犯人だったとして、隠蔽したいものは、どこにどうやって隠すか。
捜索をするのなら、どこを重点的に調べるか。
警察キャリアとして様々な訓練を行わされていく中で、自宅への警戒は割と基本原則であった。
国家を揺るがす一角が崩れるということは、国の存亡にも関わる。
重要機密の拡散防止や、人質としての身の危険回避を含め、部屋の小物一つまで気を配るよう言い渡された。
細かい性格が幸いして、室井は1cm物が動いただけで違和感を察知出来る。
確かに青島は、毎日毎日、暇な時間を割いて何かをしていた。
その労力に、自分が負ける訳がない。
妙な対抗心は、青島を手懐けられるのは自分しかいないと証明したい意地だったかもしれない。
小一時間が経った。
鏡台の二番目の引き出しを開けた時室井の手が止まった。
その目が見開かれる。
「これ・・・は」
そこには室井が引き受け、いずれ渡そうと思っていた青島愛用の靖国神社の御守りが元のままに仕舞われていた。
無造作に入れておいたはずのそれは、可愛い赤の布が覆うように撒かれ、収まっていた。
・・・・いつだったか、見たこともある柄だ。
室井が調達した服をいつものように青島に試着させていた時、シャツの飾りなのか店のキャンペーンなのか、赤い異国柄のバンダナが付いていた。
スカーフやストールならまだ使い道はあったかもしれないが、バンダナである。
〝流石にイイ歳してこれは恥ずかしいです〟
〝う~ん、そうだな、なら、それは外すか〟
〝何でこれ付けたんですか?似合うとでも思いました?室井さん、俺のこと幾つだと――〟
〝ちがう、オプションだ。そのシャツに勝手に付いていたんだ〟
〝・・・・〟
〝嘘じゃない。・・・本当だ〟
〝どうだか。室井さんって時々俺んこと、すっごく子供扱いしますよね〟
〝愛着という発想はないのか〟
〝俺を着せ替えて楽しんでるでしょ?〟
〝そこは否定しない〟
〝はは・・っ、でもセンスはやっぱりモードなんですねぇ。キライじゃないな。自分じゃあんまり着ないタイプだし〟
〝俺のセンスじゃないぞ。君を見て決めたチョイスだ〟
〝・・・・〟
〝捨てておけ〟
〝・・・・〟
〝・・・・なんだ〟
〝ふぅぅん〟
あの時、確か青島の横目に耐えられなくて、ゴミ箱に捨てたのは室井だ。
何故それがここに。
ゆっくりと指先を伸ばす。
恭しくそれを手に取ってみた。
まるで寒さから御守りを護るかのように青の布地に赤のバンダナが着せられ、それはいっそ、室井が青島を抱いているようにも都合良く錯覚させた。
これを自ら撒き付けた時、青島はどんな顔をしていたのだろう。
何を想ってこれをやったのか。
それよりも、何故こんなことをしたのか。
青島があの後、室井が捨てたバンダナをゴミ箱から拾って取っておいたということだ。
なんのために?
「・・ッ」
そう思った時、室井の息が詰まった。
捨てられなかった。捨てさせてくれなかった。
室井が青島のために色々手間をかけ準備をして世話を焼くことを、疎まし気に邪険としながらも
本当は嫌がってなんかいなくて、こうして些細な好意を無下にすることさえ憚られるくらい、感謝されていた。
室井の厚意一つ無駄にしたくなくて、掬い上げてくれたのだ。
そうだ、そういう男だった。
他人の厚意を土足で踏みにじるようなことをする男じゃない。
誰かを救うために誰かを傷つけられるような器用な男じゃない。
人が気付かず押し隠してしまう心の痛みを聡く察して、拾い上げようとすることに卓越する男だ。
何故それを忘れていたんだ。青島が俺を、見限る筈がない。
警察を裏切る筈がない。
膝から崩れ落ち、室井はその御守りを胸に握り締めたまま、その場にへたり込んだ。
胸元にぎゅっと握り締める。
その手が意識せずガクガクと震える。
「・・・ぉ、しま・・・ッ」
ようやく見つけた青島の軌跡に触れ、室井の渇いた心が飢えたように酸素を吸い込んだ。
この部屋で霞んでいく残り香を、確かに現実だったと実感する。
鮮やかなのはいつだって青島の見せる世界だ。ほんのりと快楽の匂いすら纏わせる、喪失と共鳴の幻影。
室井がどんなに無力で最低な男であったとしても、青島は室井を選び出す。
俺たちが共鳴し合ったのは、そんな建前だとか結果だとか、堅牢な鎧で覆われた部分じゃなかった。
あの早春の大階段で、約束しあったように。
この東京の空の下で、共に過ごす間に育った感情は、つい記憶や経験といった目に見えるものに惑わされてしまう大人の宿命を
根源から粉々に砕かせた。
思い出の一欠片だって、捨てさせてくれない。
「・・な、んって・・・っ、身勝手な・・、男、なんだ・・・ッ」
逢いたい。逢いたい。
今はそれだけだ。
熱狂的な渦が室井を取り囲む。
俺は君を忘れない。
君と望んだ未来も君と歩んだ想い出も、刻んでおく。
君と目指した理想の欠片を抱いて、この先の時代を生き抜いてやる。

感動している室井氏。
水を差すようですが室井さんが辿った青島くんの足跡はエロ本であるこの現実。真実って残酷(笑)
でも意気投合している二人の認識ってこういう差があると思う。そしてそういう落差が踊るの魅力だったようにも思う。