オリキャラ出ます。








東京変奏曲2season Ⅱ








第五章
1.
繁華街の外れにある寂びれた路地裏は、人工的なネオンが幾重にも滲み、そこだけ派手な不自然さでこの街のかつての栄華を謳っていた。
疲れた顔の人の群れが夢も見ない夜の街を暗い顔で行き交っていく。
 昭和の遺物を捨てられないネオンの派手さは、まるで化石となった記憶を捨てられない今の自分みたいだと、室井は思った。
その一角にある場末のバーに室井はいた。
通されたフロアはまだ開店前で、客はいない。


「警視庁のエリートさんがこんな場所まで起こしくださるなんて。男を忘れない男は好きだわ」
「・・・仕事で来た」

真紅のナイトドレスに身を包んだ女が、赤ワインをグラスに注ぎ始めたのを見て、室井は丁重に辞退を告げる。
構わずに女はブルゴーニュ型の透明グラスに美しいルビー色をした液体を半分ほど注ぎ、片方を室井の前に手向けた。
このグラスに注ぐからにはかなり熟成された苦みと渋みの強い香り高いワインだ。
グラスに映えるドレスと同じ色のマニキュアが奥のバーカウンターだけに点けられている照明をキラリと反射する。

「若い女が御所望なら頃合いの娘を紹介するわ。ご自分で仕込みたい殿方もいらっしゃるけど貴方はどちらかしらね?」
「――」
「処女に拘りなさる?」

室井が口を挟まないでいると、ふふと女は妖しく笑みを零した。

「女は不得手?それともベッドの上では違う顔を見せて下さるのかしら」


グラスを片手に、女が室井の正面のソファにゆったりと身体を沈める。
動いたことで女の香水がこちらまで芳った。
照明を点けない室内はカウンターだけの灯りを頼りにお互いの顔色を窺う。

歳は四十前後だろうか。若くはないが老いてもいない。
際どいラインまでしかない布とその先に折り重なるように広がるボルドーレッドのレース地から白い太腿がみっちりと見えている。
ドレスの上からでも分かる細いウエストと窮屈そうな胸元のラインが煽情的に象られ、その白い肌に乗せられた大ぶりのダイヤが
男の目を思わず眇めさせた。
ギリギリ隠されている太股のその奥は、ガーターベルトらしき下着が、座ったことで暗闇の中で密やかに存在を見せる。

長い足を見せ付けるかのように――恐らく室井の意識が自分の躯にあることを承知で、女は誘うようにゆっくりとした動作で足を組み、ワインを一口飲んだ。
暗がりで白百合のように映える女の肌はそれだけで妖艶に撓む。


単なるバーでないことは、室井自身入店前に察していた。
斡旋業はこの街では盛んで、男に女を仕込ませる裏稼業は今尚時代遅れのこの街の経済を支えている。
だが証拠がないのが捜査のネックであり、対象の女性も金銭を目的とした利害関係が結ばれている場合も多く、口をそう簡単には開かない。
無法地帯に流れ着く人間もまた、表舞台から弾き出された訳ありの者が多い。
この国は一度リタイアした人間に手厳しい。
その需要と供給が、強かにもこの街の栄華を反映させてきた。

被害の実態は闇から闇へと隠され、実質野放し状態であった。
室井が一人で乗り込んできたことで、恐らく確たる証拠はないのだろうことはバレているのだろう。
そんなことは百も承知と、女は挑発的に室井を煽ってくる。
勿論、室井とて今回その件で此処へ来たわけじゃない。


「探し物をしている。五日ほど前、荷物を受け取らなかったか」
「・・・さあ?荷物?」
「正直に答えた方が身のためだ」
「随分抽象的な物言いですこと」

そこそこ広さのある地下構造を改造している店内は窓一つない。
照明も点けず、古びた空調の音が聞こえる中、女の声がやけに艶やかに響く。

「店を営業している身分ですと、荷物なんて連日、山のように届きますの。覚えてられませんわ」
「配送業者の伝票コピーを入手している。受取人は貴女の経営する会社名だ」
「・・・・」

スーツの胸ポケットから一枚の紙を取り出し、室井の長い指がテーブルを滑った。

「女を抱いてみたくはないの・・・?ここはそういう場所よ。それからでも話は遅くないでしょう?」
「話を逸らさないでくれ」
「ビジネスにはビジネスで返しただけよ」
「寝物語をしたい訳じゃない」
「ふふ。涼しい顔をしてハードなのがお好みなら、それもご用意出来るわ」
「警察関係者だと知っていて随分とはっきり仰る」
「貴方だって男でしょう?喘ぐ女にそそり立つものがあるはずよ」
「・・・・」
「幸い、お一人のご様子。誰にも知られない貌を晒したって咎める者はいないわ」


室井は顔色一つ変えずに、また、視線も微動だにさせなかった。
背筋を正し、浅く腰掛けたまま、拳を膝に乗せ、その漆黒の瞳で女を牽制する。
これが挑発であり査定されていることは端から承知だ。
情報を与えるに相応しい男であるか、心許した後に噛みつかれないか、女は卑猥な言葉の裏で強かに確かめている。


「自分を売りこまないんだな」
「――、わたくしで宜しいの?」
「生憎、赤は好きじゃない」
「無粋な男なのね」
「最初に仕事で来たと言った筈だ」


恐らく、そう容易く逃げられるとは思っていなかったのだろう、彼女の言葉はどれもいわゆるポーズだ。
女はグラスを置くと、室井が差し出した伝票のコピーを手に取った。

官舎前にあるマンションの防犯カメラ映像に、失踪当日のAM11:07分、官舎から4つのゴルフバックを配送する様子が映し出されていた。
わざわざ官舎に備え付けの監視カメラの映像境界を越えたラインで台車で運び出している。
その時間帯に地区を担当したカエル急便に連絡を取ると、確かにゴルフバッグを4つ、配達を依頼されたという。
他方、新城が伝手を使い官舎居住者全員の当日のゴルフ予定を尋ねると、確かにその日ゴルフ親睦会が開催されており、その顔ぶれも確かなものだった。
三つまでは。
三つのゴルフバックの配送先は車で1時間ほど行った埼玉県にあるカントリークラブ宛あったが、残りの一つは新宿の小さな個人会社宛となっていた。
後から追加されたものだということだった。
しかも奇妙なことに、その配送を途中から別の担当者が引き継いだらしい。
差し出し人名は偽名。そして受取人が、このバーの名義人である、今、目の前にいる女である。


胸元を大きく開けた赤のドレスは、女の豊満な肉体を惜しげなく彩っていた。
白く浮き上がる白百合の肌は男の劣情を幾つも煽ってきたのだろう。
あからさまな色欲を持つ女は伝票のコピーに軽く目を通すと、大して面白くもなさそうにテーブルに戻した。

「その荷物の行き先を知りたい」

卵型の茶色い瞳をくるりとさせ、女は亜麻色のウェーブがかった髪を耳に掻き上げる。
大ぶりのピアスが揺れた。
返答せずに、女はつまらなそうにワインを傾ける。

「さぁ・・・どうだったかしら・・・」
「――今、後ろのカウンター奥手から覗いている女・・・、未成年者に見受けられる。酒を扱う店での雇用は法に触れることはご存知ですか」
「脅してらっしゃるの?」
「事は一刻を争う。教えて頂きたい」
「知るだけでいいのかしら・・・?」
「出来れば、中も確認させてほしい」
「中って何処・・・?女のナカを暴くのにスーツは着たままですの・・・?」

室井はただ眼光を強めた。

「ねぇ・・・、そのスーツの下には結構なものを隠し持っているんでしょう?」
「・・・・」
「沢山の男を見てきたから分かるの。スリムだけど鍛えた身体だわ。その包まれた下半身には今にも暴れそうな逸物が付いている。最近御無沙汰なのじゃありま せ ん?」
「・・・・」
「何故そう思うって顔ね。指輪がない男は相手を選ばなければならないからよ。歳を重ねるほどに」
「こちらは貴女の要求に応えるつもりはない」
「なら、私も要求には答えたくないわ」


じっとりとした視線が言葉以上の賭け引きを繰り返す。
言葉遊びような戯言も、女は楽しんでいるように室井には見えた。
テーブルに置かれたままのグラスがあえかな金色に闇に縁取られていた。
その向こう側で不敵な笑みが滲む。


「抱かれたいなら相手を選べ。・・・貴女も」
「ふふ。叶わぬ想い人でもいらっしゃるの?我慢強いのね」
「・・・」
「選んでいるわ。でも、寡黙な男は嫌いじゃないの」
「ベッドの中でまで仕事の話はしたくない」
「ロマンチストなのね」


こういう男女の駆け引きは苦手だった。
昔から色恋に長けていた訳ではない。
刑事スキルとしてある程度の鍛錬は積んできた経験上、そう易々と相手の術中に嵌まることはないが
今みたいに内心焦っている状況下では、もどかしさだけが先走った。
もっとも恋一つ上手く裁いてやれない自分では、無理もないかもしれないと自嘲する。

室井は瞼を落とし、浅く息を吐いた。
無骨な仕事人の自分をロマンチストだなんて桁違いの勘違いをする女を疎ましくさえ思う。

二人の男を思い浮かべた。
新城の哀しそうに飲み込ませた瞳が、苦みを増して蘇る。
そして。

ふと、青島なら逆にこういう芝居がかった相手は得意なのだろうなと思った。
豊富な人脈と営業時代に蓄積した話術――口説のノウハウは確かに多くの取り調べ官を見てきた室井からしても舌を巻くもので
ましてや恋愛も豊富そうだった。
モテる男はそれだけで経験値も上がる。

青島を思い浮かべた途端に、鋭い痛みが胸に走ると共に、苛烈な熱もまた同時に迸った。

あまりにあからさまな虚栄心に、自分を叱咤したくなる。
青島に掛かるとどうしてこうまで自尊心が逆撫でられるのか。そして、どうしてこうまで自負心を掻き混ぜられるのか。
瑞々しい本能が驕心急き立て、湧き上がる。
負けたくなかった。見限られたくなかった。共に歩んでいきたいと心から思っていた。

その意味では裏切りさえ、室井に束の間の夢を与え賜う。

青島のアドリブ宛らの口述に対抗できる自分のスキルは何だろうかと考えた。
あまり人付き合いも派手でなく、キャリアとして定められたレールの上をただひたすら耐え忍ぶ人生だった。
本当に実戦という意味では勝てないのだと改めて思った。
必死に頑張ろうと踠いてきた己の人生が虚しく胸に広がる。本当に、努力など汗粒にもならない。
そこに光を当てたのが青島だった。
半端者なのは、自分だ。


室井の表情が変わったことを聡く勘付いた女が、興味深げに瞳を向ける。
室井は緩く首を振った。

「いや・・・、私を異性と見る貴女が不思議に思えてな」
「エリートさんなら群がる女も多いでしょう?」
「そうではない」
「女は不得手ってこと?」
「女性と話す機会がないだけだ。貴女は見合い相手でも、パーティ参加者でも、仕事関係者でもない」
「やだ・・・!面白い方ね。貴方の交遊関係が目に浮かぶようだわ」
「事件関係者ならもう少し出方も取れるだろうが、今この仕事は任務外な上、貴女の立場を悪くする気はないし、まだその立場が明確にすらなっていない」
「御縁ある御息女との会話などどうなさるの?」
「そういう理由が付いた相手なら取扱説明書がある。煌びやかなホールに毎回出席していればダンスの一つだって嫌でも覚える」

愚痴にも似た室井の告白に、女は同情とも軽蔑とも取れない顔をした。
飲みかけのグラスを置き、頬杖を付き、室井の顔を改めてまじまじと見つめてくる。

「そういう女性には何と言ってお声掛けを?」
「・・・、ご婦人の褒め方を最初に伝授される。宝石、ドレスなどを指摘し讃えながらブランドを当てていく。バブル時代の下らない名残りだ」

決められたレールの上で正しく振るまうことと、現実のギャップを今更ながらに遠く思いながら、室井は静かに視線を女に投げた。
疲れた男の陰影が濃く浮かぶ。


暫しそんな室井を見つめていた女はやがてキャメルのバッグからカードケースを取り出し、名刺を一枚用意した。
先程から一言も発せず背後で様子を窺っていたガードマンらしき者に目線で退席を命じる。
カウンターの電気だけが点けられた室内から人の気配が完全に消え失せた。
二人だけとなった室内に、通気口から風の音が入り込んでくる。

沈黙を作り上げた真意に室井の身体に緊張が走った。
出方を窺うため、ただ女の様子を窺った。
女は白い指先を伸ばし、赤い液体をまた一口含む。
軽く仰け反った喉が喘ぐように陰影の中で波打った。


「ここにはないわ」
「確かか」

主語はないが、それが室井の質問の答えであることは察した。

「その日、やけに大きな荷物を受け取るよう頼んできた男がいるわ。紫のゴルフバックよ。置く場所がないからと言ったらその日の内に彼が私のマンションに 移動さ せたの」
「それからどうした」
「知らないわ。そのマンションは私の名義にはなっているけど、今は使っていないの」
「・・・・」
「本当よ」
「何故急に答える気になった」
「――どうしてかしら?」

発言が本音かどうか、女の鈴生りのような声では判別出来なかった。
疑惑を深め、室井の眉間が深く寄せられる。

「場所は」


女がゆっくりと立ち上がる。
裾をひらつかせながら室井の隣に座り、女は胸の下着の中にその名刺を入れて見せた。
豊満な膨らみが妖しく揺れる。

「欲しかったら・・・ご自分で取って・・・?」
「勿体ぶらないでくれ」
「焦らしているのはお互いさまよ」

女の手が室井の太股に置かれ、身を寄せてきた。
煽情的にはち切れそうな膨らみを室井の身体に擦り寄せ、スラックスの上から内股を妖しく撫ぜる。
気怠げに耳元に吐息を吹きこんだ。

「やっぱり良い身体してる・・・。ねぇ・・・わたくしを抱いてくれたら何でもするわ」
「・・・放せ」
「誰も見てないわ。一晩だけ、女を愛してみて・・・?」

女の吐息からワインの芳香が強く漂う。
合わせてラストノーツも混じり、室井は久方ぶりの女の匂いに咽返った。
腰をずらし、女から身を離すが、女は更ににじり寄ってくる。
スーツ越しに女の手が室井の身体を弄り、股に差し込まれ、分身を丹念に撫でられた。

「待て・・」
「わたくしじゃ魅力ない・・・?」
「放せと言った・・・」
「これ以上なく気持ち良くさせてあげられるから」

女の細い指先が意味深に室井の股間を淫らに這い回る。
その先の淫らな官能を容易に想像させる巧みな手付きだった。

「やめるんだ・・!」
「マンションは他にも幾つかあるの。全部私のものだけど偽名を使っているから調べられないわよ。・・・知りたいなら――脱いで」
「・・ク・・ッ・・」
「女の繁みに埋めてみたくない?」
「・・・お、い・・ッ」

かなり強引な誘惑に、室井がたじろぐ。
肩を掴むがあまりの女の華奢さにその力加減を失った。

「中に出してもいいわ。そのくらいのマナーは心得ているから・・・」
「待ってくれ・・・ッ」
「一人で来たってことは多少期待していたんでしょう・・・?」
「・・ッ!」


スラックスのチャックに女の真っ赤なマニキュアが光った時、室井は素払い動きでそれを封じ、女の両手首を掴むと、身体を捻らせる。
体重を乗せてソファに組み敷いた。

「・・ッ」

はらりと舞ったチュールがめくれ、女の白い腿が暗闇に露わになる。
空気に香水が芳しく放たれ、甘ったるく撓んだ。

一瞬の躍動は、まるでなかったかのように辺りが鎮まっていた。
ギシ・・とソファが二人分の重みで軋む。

殺意さえ含んでいそうな苛烈な視線を外さず、強く見つめ合った。
まだ結っていなかった女の髪が扇状にソファに乱れ、太腿が重なり合っている。
白い肉体が微かな光を集めて、闇に汗ばんだように浮かび薫り立った。
やけに艶かしく弾けるように目に映った。

官僚は性欲すら制御するよう自戒を求められている。
特に下半身が反応したりはしなかったが、この流れに危機感を感じ、触れるつもりのなかった対象者に手を掛けた。
この事態への顛末に、室井は内心舌打ちをする。
まったく、スマートじゃない。


力で組み敷いた女の上に室井は馬乗りとなった。
視線は外さない。
期待に満ち、潤んだように見える女の茶色の瞳を見降ろしながら、室井は女の両手を頭上に一纏めに縫い付け直す。
両膝の間に収まる女の片脚を広げ、視姦した。
女の躯が、室井のその崇高な視線に晒され、ふるりと蜜を垂らす花のように期待に震える。
室井は覆い被さったまま、女のチュールの裾から片手を差し入れた。
膝から上のみっちりとした魅惑的なラインの太腿を、形の良い指先で焦らすように撫ぜあげていく。

はらりと裾が捲れ落ち、太腿が付け根まで露わとなった。

刹那、室井の指先が雄弁となる。

力んだ女を力で封じると同時に広げた脚を膝頭で押さえ付ける。
ガーターベルトに差し込まれていた小型のポケットナイフを一瞬にして抜き取ると、それをダーツのように片手で横に投げた。
シュッと空気を鋭く切り裂く音がして、ナイフが壁に突き刺さる。

タン・・ッ!というめり込む音。

一瞬の出来事だ。
女も室井も顔色一つ崩さない。
視線も外さず暗闇で見つめ合う二つの瞳が、野生動物のそれのように強く光った。

緊迫した空気が肌を逆立て、息遣いを鼓膜に響かせる。
室井は手の平で女の頬を愛撫するように包み、そこから首筋へ指を侍らせた。
豊満なラインを辿り、ゆっくりと胸の頂きまで下ろしていく。
そっと顔を近付けた。
ふっくらと膨れ上がる胸の頂きに口唇を寄せる。
室井の白い歯が闇に浮いた。

その谷間に挟まったままの名刺を歯で引き抜く。
パッと身を起こした。
鋭く名刺に視線を走らせ、確かに住所が書かれていることを確認すると、室井は女に横目を走らせた。
手首を押さえ付けられたまま、女もまた満足げに強気な視線を崩さない。


「ここを調べさせてもらうぞ」
「・・・ご自由に」
「その他のマンションの場所も言え」
「抱いてくれたなら」
「・・・この期に及んでそれなのか」

流石に呆れたような口調になり、室井が思わず眉尻を下げて零した。
恐らく室井に組み敷かれる流れまで、名刺を渡す口実を設けた彼女の演出なのだ。
室井の要望に答えつつ、自分の言い訳も用意する。
力では敵わなかったと、後に問い詰めるであろう、誰かに。


「この世界で生き抜いてきた女はみなそうよ。肌を貪られならが何十万、何千万という大金が動いていくの」
「・・・・もっと自分を大事にした生き方をしろ」
「・・・やっぱり面白い男。そんなこと言った男は初めてよ。みんなわたくしの身体に夢中になっていたけど」
「確かに魅力的だ」

手首を押さえ付けたまま、他愛ない会話が繰り返される。

「女に恥を掻かせないで」
「本気で私と寝たいわけではあるまい」
「どうして?」

室井が肩を竦め、片眉を上げる。

「・・・・その胸元のダイヤ、かなりのカラットだ。男に貢がせたのか」
「・・そうよ」
「耳元のダイヤも君に似合っている。今日のドレスに良くあしらえてある」
「良く見てるわ。言っていたとおりね。値段も分かる?」
「高層マンション程度か」
「ふふ。さすがね」
「マナーだ。その香水もワインに合わせた銘柄か」
「本当に見る目はあるのね。エリートさんだわ」
「酒を片手に毎度お世辞を言う世界に生きている人間だ。そんな見方しか、女に出来ない」
「・・・そんな男に抱かれたい女だっているわ」
「どうかな」

僅かな明りで二人の身体は銀色に縁取られていた。
ソファの上で折り重なったまま、ただ、小さな声で探り合うような会話が続いていく。

「どんなセックスをするの?」
「そういうことはベッドに入るまで知らない方がいい」
「焦らすのね」
「所詮、男などみな驕傲だ」
「んん、愛情深い男ね」
「何故そうなる」
「男と女の感じる場所は違うのよ。女はベッドの上で男の本音を垣間見るの」


誰も護り切れなかった苦々しい過去が、何故か女の言葉の端々に呼応して、今、吹雪のように室井の胸中から過去の爪痕が吹き上がる。
本音を隠され、除け者にされただけの現実を嘲笑われた気がした。
漆黒のその瞳が哀惜に深まるのを、女は下からただ真っ直ぐに見上げた。

「独り善がりの愛など・・・情にもならないだろう」
「妬けるわ」
「何故」
「きっと、ベッドの中でもそういう愛し方をするんだわ」
「少なくともナイフで男をどうこうしようとする女に手加減はしたくない」


女は一切の抵抗を見せず、室井に組み敷かれていた。
本音は見えなかったが、嘘を言っているようにも見えなかった。
尤も、これさえも演技だと思いたくないだけかもしれない。

再度奪われてしまった胸の穴が、女の言霊によって巧みに溶けあっていく。
開かせた女の内股が室井の太腿に密着し、体温を享受した。


「その仮面、剥がしてみない?思うまま突き上げて?」
「肉の快楽に溺れて、それでどうなる」
「それで伝わるものだってあるのよ」

二人の声はいつしか掠れた囁き声となっていた。
林檎のような女の滑らかでしっとりとした赤のルージュが闇に誘う。
人の体温というものは、誰にでも平等だった。
室井の心を掻き乱すだけ掻き乱し、波が引くように消えてしまった男を、足りない温度が知らしめる。


そういう人間だと分かっているから益々手放せなくなっていた。
甘くて、熱くて、でも切なくて。
痛みと息苦しさと強烈な視界に、いっそ逃げ出したくなるような狂暴、それは正に暴力に近かった。
奪われた喪失は、室井を深く刻みつける。

失った現実が不意に押し寄せて、何だかようやく青島はもういない現実に自分は生きているのだと実感した。

初めて、室井はあの日自宅に青島を引き取ったことを後悔した。
あの日、自宅に連れて帰らなければ。
こんなに傍に近付かなければ、愛情にも気付かなかった。こんな思いをせずに済んだ。
もしかしたら、青島ももっと安全な場所に匿う手立てを導きだせたかもしれない。
新城の企みにまんまと乗せられ、己の欲望に負け
手酷い胸の穴だけを埋められずに、だけど爛れた頭の片隅には今も青島がいる。


「ただ一人と欲した相手に手も出せなかった腰抜けだ」
「貴方はスーツの下にその身体と同じように滾るものを隠してしまっているのね」
「買い被りだ」

女が膝を片方立てたことで白い太腿が露わに迫り、黒い下着が見えている。他に凶器はなさそうだった。
細い紐で結ばれたパンティーラインが女の丸いヒップを薫り立たせていた。
チラリと目を走らせた後、室井は口調を変え、話を戻した。


「受け取りに来た男の名前、知っているんだろう」
「・・・知っていたとしても、恐らく彼も偽名よ。昔馴染みのお客さんだけど」
「顔を見れば分かるか」
「分かることと告げることは別だわ。ごめんなさいね」
「ベッドの上なら喋るのか」
「取引ならば」
「・・・大した女だな。いつか殺されるぞ」
「そしたら今度は貴方が助けて下さるのかしら」
「・・・死んだ後に助けられて何が嬉しい」
「愛しい男には永遠にわたくしが刻まれることになるわ」
「・・・・」


そういうものだろうか。
死んでしまっては、もう触れ合えない。通じ合えない。
最期に何を想っていたかさえ伝わらなくなる。
日本の刑法は仇討を容認していない。生き残された者に出来ることなど、ごく限られている。
女の生き方が酷く刹那的に見えて、哀れに思えた。

そんなので、彼女の人生は満ちていたと言えるのだろうか。
死んで尚、遺せるのなら、それは幸せなのだろうか。
だが、その憐れな同情が、奇妙な共通認識を室井の中に生む。

死んでいるかもしれない最愛の人間を、今こうして探している自分は、誰かの心に残りたい彼女と分身だ。
生き残った者に与えられた使命は、忘れずにいてやることなのだろうか。

人知れず消えていくのが怖いと泣いていた青島を思い出す。


「それでいいのか」
「こういう生き方を選んだの」
「成り振り構わずだな。プライドくらいあるだろう」
「成り振りを構わないことと、プライドを持つことも、別なのよ」


真相が闇へと消えた中で満ちた顔をするなど、室井には到底できそうになかった。
昔愛した女性が海へと消えた。あんな想いは二度とごめんだった。
だからこそ、室井は生に拘りたい。
傍で生き、傍で触れ合い、傍で確かめ合う。それこそが生と性の証だと考えた。相手の希望など聞けるだけの余裕があるか自信がない。
二十年近く前の恋さえ思い切れていない室井には、今の恋さえ持て余していたのに。
虚しさと寂しさが綯い交ぜとなって呪縛に喘ぐ身体が強張っていく。
そんなのは愛情深いとは言えないかもしれない。
自分は薄情なのだろうと思う。


「憶えているだけで幸せか」
「きっと」

一人は嫌だとあれほど言っていたのに、彼を護り切れなかった。
彼に裏切られ、逃げられた。

そんな風に、青島は自分に対しても思ってくれるだろうか。
青島にとって自分はどれほど価値のある人間だっただろうか。
きっと、青島はこんな状況になっても最後まで室井に縋らない。
ああ、そうだ。青島にとって室井は、室井が思う程の価値はなくて、きっと泣いていたって俺には縋らないのだ。


「そんなの・・・、ただの自己満足だ」
「・・・でも、愛した時間を夢見て終われるわ」

こんなにも真っ直ぐ届かない想いを惜しげなく抱き、情を示すことが出来る女を、羨ましくさえ思った。
不本意にも、誰かの心に残りたいと告げてくる女の情熱が妬ましかった。
強く、強かだ。
それは確かに眩しくて、室井は少しだけ目を眇めた。

哀しい願いが交差する。

どんなに真っ直ぐな想いを持っていたって、真っ直ぐなだけでは相手に届かない。
想いは独り善がりだっただろうか。
引いてやる方が彼の幸せだっただろうか。
口付けたあの甘い感触が今となっては哀しく心に温もりを落とす。
記憶の中に深く刻みつけられて、忘れることなど生涯出来そうにもないほど、深く濃く奪われて
死にゆく冷たさに胡乱な悪夢を植え付けながら、熱く灼けるように、包まれていく。
記憶の底に縛られながら、また、傷つく恐怖に怯える未来を、ああ、もう持つことさえ出来ないのだと思った。

彼を残し、立ち止まることで彼を貶めることはないだろうか。
最期まで胸を張ってやるだけやったのだと言えることが、彼の弔いになるだろうか。

・・・何も、分からなかった。
ただ今は、もう一度、あの温かい身体をこの腕に抱き締めたかった。
もう一度、この腕で、本当にいるのだと確かめたかった。もう、それが叶わないのだとしても。
そうでなければ、この先を生きていけないと思った。


「もしかして、その人を探しているの?」
「・・・・」

室井は答えなかった。
女は何かを察したようだった。瞳が悲哀色に柔らかく染まる。
暫く女を気怠い眼差しで見つめていたが、やがて室井はその手の拘束を解いた。
名刺を胸ポケットに仕舞う。


「まずはここを立ち入らせてくれ。その後、他のマンションも――」

女が起き上がりざまに、室井の首に両手を絡めた。
口付けをされそうになり、寸でで両肩を抑え、止める。
艶のある柔らかいウェーブの髪がふわりと垂れた。

「キスもさせてくれないの・・・?」
「職務中だ」
「職務が終わった後の時間で、少しだけあたくしを思い出してくださる?」
「一向に引かないんだな、君は」
「そういうアプローチはお嫌い?」
「私の周りにあまりそういうタイプの人間はいないから不思議に思っただけだ」

つい正直に答えると、女は室井の首に両手を回したまま、華やかに笑った。
ここにきて見た初めての笑顔だった。

「ならやっぱり溜まってるんじゃない。焦らして焦らして達くのが好きでしょ」

女の腕を解きながら、室井が少し顎を上げる。

「そうでもない。焦らして焦らして相手を達かせるのが好きだ」

今度こそ女は声を上げて笑った。

「君は笑った方がいい。皺も出るが可愛げも出る」
「・・・もう少マシなしお世辞を勉強してきて。そんな堅苦しいパーティじゃなく」
「世辞はもう食傷気味だ」


身形を整え、室井が立ち上がる。
女はソファの横に丁寧に置いていた室井のバッグを手渡してくれた。

「マンションの名義はみんな同じ名前にしているの。一つ調べればすぐ分かることよ」
「・・・・」
「取りに来た男のことは本当に良く知らないの。工場を幾つか持ってる社長さんだって言ってたかな」
「それもベッドの中で聞いたのか」
「・・・・妬いてくれるの?」
「礼だけは言っておく」
「少しは役に立った?」

返事もせずに室井は出口へと足を向ける。

「今度会えた時は貴方からキスして。約束よ」
「何故私にそんなに拘る。官僚は思うほど高給取りではないぞ」
「やだ、貢がせようなんて思ってないわ」
「だったら私のことは忘れろ」
「最初に。・・・わたくしみたいな出生の女を、貴方、周りの女と同じ扱いをしてくれたでしょう?」


立ち去りかけた室井が、ステップの途中でくるりと振り返る。
じっと女を見据えた。
女の言うように、決してこの先誰にも晒さないであろう貌を引き出されたのだろう。
交差した時間は確かに同じ苦みを伴っていた。
だが誰も咎める者はいない。
弱味も泣き処も、ここに置いていく。
まだ戦いは続いている。

本命がいると答えようと口を開き掛けた室井に、女が先手を打つ。

「二番目の女にしない?」

聡明な女だと思った。
侮辱する気にはまったくならなかった。
少しだけ室井の表情が和らぐ。
それを見た女が、目を見開いて動きを止めた。

「悪いが、一人の人間で手一杯なんだ」
「・・・可愛がっているのね」
「君よりも性質の悪いじゃじゃ馬だ」

これが最後と、室井は女の目を真っ直ぐに見た。
室井の漆黒に広がる黒目を女も惜しむように見上げる。
ここで過ごした僅かな時間は、奇妙な時の交差を垣間見せた。
名残惜しむくらいには。


「赤は嫌いじゃない。・・・本当は」

背を向け、女の顔はもう見ない。
扉を開け、地上に向かう。
最後の呟きは小さく、女に届いたかは室井には定かではなかった。
しかし扉が閉められた部屋には声を立てて愉快に笑っている女の姿があった。


*****

だが結局、そのマンションにはどれも荷物一つ置いていなかった。
郵便物などは受け取るが全て転送させていて、そこは実態の無い会社であり、机一つない殺風景な部屋だった。
そこからの配送履歴は調べようがなく、もう一度女に連絡を取ろうにも既に店には彼女の姿もなく
文字通り頼みの綱が全て断ち消えた。











2.
新城が捜査一課から出ると、そこには見たことのある白いコートが待ち受けていた。
もう何度か見た光景にまたかと思う。

「情報が早いな」
「今、署に特捜が立ってて・・・そこに来た本店の人たちが・・・噂、してたから」
「・・・チッ・・・」

何て口の軽い奴らなのか。
軽く胸中で悪態を吐いて煮詰まった苛立ちを吐き捨てる。
連日の残業に加え、大した進展もない捜査に疲労が蓄積し、会話をする気も失せてくる。
そのまま立ち去ろうと靴音を鳴らすと、背中に白いコートが揺れて、女が――恩田すみれが縋るように新城の袖を掴んだ。

「どこまで本当なの・・・?」
「何を聞いた」
「捜査員が・・・情報持って行方不明って・・・、それって青島くんらしいって・・・」
「・・・ほぼ本当だ」
「嘘よっ」
「言わせたのはお前だ。マスコミもそろそろ焦れている。近日中には一報が出るだろう」


拳銃密輸捜査の本部は既に縮小されている。
表向きの報告書としては、病院襲撃事件で一旦幕を閉じた密輸パイプラインの一つを上層部に報告出来たという功績で締めくくられている。
事実上この事件は終わったという認識で通されていた。
その中で発生した今回の担当捜査員の失踪である。
騒ぎにしなかったとはいえ、実質人間が一人消失していることやあの日赤色灯が官舎下で回っていたことで
情報は幾らでも漏れる。
一旦打ち切りとなった事件を蒸し返されるということは、担当管理官の捜査ミス、つまりは責任問題とされ
上層部もそう簡単に良い顔はしない。
生存の可能性と営利誘拐を警戒しマスコミ対応を図っていたが、そろそろ各方面の根回しも極限を迎えようとしていた。


「だって・・・、だって、ついこの間なのよ?!話したのよ、あたし!」
「・・・、いつだ」
「一週間・・くらい・・・」
「行方が分からなくなったのは六日前だ」
「・・・そのくらい・・・前だった・・・」
「だろうな」

一瞬、失踪後の青島からコンタクトが入ったのかと期待したが早計だったようだ。
口ぶりからして、恐らく連絡許可を願ったあの電話付近のことだろう。
話は済んだとばかりに新城が背を向ける。

「嘘吐き・・・ッ!」

追い縋るようにすみれの手が新城の袖を引き戻し、金切声が飛ぶ。

「大丈夫だって言ったじゃないッ、安全なとこにいるって言ったじゃない・・ッ」
「その意味ではこちらも迷惑しているんだ」
「都合の良いこと言わないで・・!」
「都合良く利用されたら警察の沽券に関わる」
「青島くんに抜け駆けされて情報持ち出されたからッ?!」
「そうだ」
「そんなこと・・ッ、青島くんがするわけないじゃない・・・ッ、馬鹿なのっ!?」
「口を慎め」
「慎むだけの尊敬がないわ・・・!」


強気で折れない視線はどこかその気配に青島を彷彿とさせる。
仁王立ちで紅い口唇を引き結び、全身を逆立てて新城を勝ち気に睨みつけていた。
そのすみれの目からぽろりと水滴が溢れだした。
新城にはそれはまるで、青島が信じて貰えなくて泣いているかのように映った。


「刑事のくせに・・・涙に訴えるな」
「これはッ、あんまりにアンタたちが情けないからよ・・・ッ」
「口の減らない・・・、」
「悔しかったら青島くんを返してみなさいよ!あたし、一番初めに言ったわ!何かあったら一生許さないって・・!」


掠れるような怒声は、それでもここが本庁で、新城の立場と状況の困難さを理解してもいるのだろう。
やりどころのない憤懣を抱えつつ、全身から辺りに気配を飛ばしているのが分かる。
相変わらず生意気な女だと思いながらも、新城は去ろうとしていた足を向き合わせ、すみれを正面から見た。
最後まで理性を保てる女は嫌いではない。


「事情を説明してよ。言い訳くらい、聞かせて」
「・・・・」
「お願い」

すみれの声が少し上擦っていた。
上目遣いで睨んでくる真摯な瞳は、決して誰かを嘲笑うものではなく、迫りくる恐怖に怯えている。
新城はわざとらしく肩から息を落としてみせた。

「今言った通りで、それ以上でも以下でもない」
「本気で青島くんに出し抜かれた線で追っているの」
「・・・そうだ」

実際は二重路線だが、そこは伏せて表面だけを取り繕う。
これでも階級主義の新城にしては随分と譲歩したつもりだ。

「何か実際紛失したものがあるの?」
「情報は別に物質的なものだけではない。それを得た相手側がどう出るかが現時点で不透明なため、警戒している」
「それは新城さんの独断?それとも上の指示?」
「まだギリギリ私の裁量にある。が、マスコミに出たらもう私の守備範囲を超えるだろうな」
「きっと何か事情があるに決まってるわ!もうちょっとマスコミ発表も待ってあげられないの・・・!」
「無理だ。押さえておくのも限界だし、押さえることで警察の信用を落とすわけにはいかない」
「青島くんの犯行として出す気・・・!」
「そうなるだろうな」
「お願い、止めて!」

すみれの悲痛な声が廊下に反響した。
新城の袖を強く掴み、蒼白となった顔で必死に息を継ぐ。

実際、その点については新城も心苦しい部分であり、葛藤がないわけではなかったために新城の虹彩には僅かな困惑が浮かんだ。
青島に罪を着せることで事態の収束を図ろうとする警察意志と、名前と顔出しをされたら恐らく彼の刑事生命も危うく
手に負えないほどの不可避の現実を、つまりは懲戒免職と前科という最悪の結末を導く火種を持っていることも知っている。
辞職勧告などという可愛い措置を言ってくる連中ならば、大した脅威ではない。
事態を知った上層部はたった一人の犠牲で面子が保たれるのであればと、躊躇いなく指示してくるのだろう。
その飛び火が新城にも降りかかる形で。
中間管理職のくだらない慣習だ。

どう対処したら良いか分からないというのが本当のところで、新城の刑事人生に於いてそれは稀なことだった。
新城の中に残り香のように一瞬だけ湧いたその複雑な瞳は、しかし誰にも見つかることなく消沈する。
何も答えない新城に焦れた訳ではないようで、すみれは必死に口唇を噛んだり髪を触ったりして言葉を選ぶ。


「ねえ、もう少し何か・・・・、だから、あたしたちでも何か出来ることがあるなら――!」
「所轄に何が出来る。大した力もないくせに偉そうなことを言うな」
「ここで上下関係を出すの」
「仕事の基本だろう」
「仕事仕事って・・・!」

呆れたと言わんばかりにすみれが手を放し、両手を広げ、顔を逸らした。
合わせてAラインのコートの裾が風を包む。

まるでアンタには何も期待していなかったと蔑視された気がした。
まだ涙の溜まっている睫毛が濡れて黒く光っている。
それをすみれは細い指先で拭った。

「上が下を護ってくれるからこそ、こっちは命を掛けられるの。土壇場で逃げられたら下は犬死よ。尤もそれでそっちは痛くも痒くもないんでしょうけど」
「所轄の妄想に付き合えるほど仕事は遊びじゃない」
「最低だわ」


声を潜めて早口でまくしたてたそこには、涙とは裏腹に彼女の冷静さが見えた。
感情に翻弄されつつも、本分を失わない。
だからこそより批難されている気にさせられるのだと新城は思う。

また一人、捜査一課の扉から慌ただしく捜査員が飛び出して行った。
それを横目でやり過ごした。
中ではもう別件の捜査が続いている。
この件は既に過去のものとなりつつあるのだ。人が一人、消えているのに、だ。

彼らにも不必要な接触を悟られないために、新城は廊下の隅へと身を寄せ、窓の下に立った。


「そんな陰口を言うためにのこのこ本庁までやってきたのか」
「・・・黙って待っているだけって怖いのよ・・・。青島くんには待つって良い子ぶっちゃったんだけど・・・」


すみれが強がって威嚇しているのは分かっていた。
必死に強がる女の意地は、まるで境界線で耐える脆弱さと強靭さが拮抗して内なる戦いをしているかのようだ。
それがどこか強い既視感を描き出す。

もしかして、という確信と似たような予見性に、新城の薄い口唇がふっと動いた。


「何故お前がそこまであの男を気に掛ける。アイツも刑事なら立場を弁えている筈だ」
「そっちも弁えて頂戴。それとも痛い腹は探られたくないってこと」

すみれの聡明で見透かす様な瞳がしっかりと新城を見据えた。
凛とした虹彩が怒りを湛えて生命の源泉のように漲っている。
思った通りに挑発に乗ってくる。
それは多分警戒だ。恐らく彼女はもっと深い何かを隠している。
だからこそ新城はただすみれを黙視した。


「仲間意識も度が過ぎると束縛だな」
「秘密主義より生産性があると思うわ」

そこまで必死に訴えようとしているすみれの中の激情は確かに危うく、足元から崩れそうな中でそれでも、恐怖を怒りに、怯えを戦火に、塗り替え鼓舞している 姿で
それは同時に新城の中で燻る熱源を思わせた。
どうしようもないほど熱くなってて、でも出口が見つからなくて、ただ奇妙に冷めた理性がそれを嘲笑っていて。
頑是ない子供染みた駄々を捏ねるだけしかできない。
そのくせ新城を嘲笑する女に、取り留めない苛立ちが沸々と思考を凌駕する。


ざわざわとした雑談と、昼間の街の喧騒が、窓を開けた外から聞こえていた。
また一人、捜査員がバタンと扉を開けて飛び出していく。
足元に室内の暖房が流れ、思ったより身体が冷えてきていることを感じ取った。

不意にすみれの声が落とされる。

「・・・失踪、なの」
「現時点では」
「それはあの潜入捜査の続き、なの」
「他に心当たりがあれば聞く」
「あるわけないでしょう・・っ」

風が囁き、すみれのストレートの黒髪がその頬を象る。

「お前も騙されたな」
「裏切られたんじゃなくて、誘拐されたんじゃないの」
「何故お前にこれが裏切りでないと言い切れる」
「ずっと見てきたからよ」
「ずっと見てきたから――惚れたのか」
「・・ッ、な・・ッ」

瞬間、すみれの目が瞠目した。
開いた口を塞げずに、たじろぐ。

満を期し、ようやく告げてみた言葉は、思った以上にすみれへの打撃となって、その気配を細波立てた。
まさか新城の方からそんな色恋沙汰の指摘をされるとは想定外だっただろう。恋愛方面に意識があるとさえ思われていなかった筈だ。
だからそこに油断と隙がある。

新城の中で何かがすとんと落ちた。

「告げもせず、傍にいただけで全部を分かった気になって、いざ居なくなったら不本意だとばかりにきゃんきゃん騒ぐ。とんだ妄想癖だ」
「な・・ッ、ぁ・・・っ」
「そんな推理に大人が動くと本気で思うか。理解しろだと?何を理解しろと言う。恋愛ごっこがしたいなら余所でやれ」
「な・・っ、なんでアンタにそこまで言われなきゃならないのよ・・っ」


彼女が長い年月を掛けて心の中に構築した虚像は誠実な男である理想を示していて、それを他人に壊されたくない盲目的な願望が透けていた。
それが彼女が護ろうとする最後の砦だ。
そんなか細いものに縋っている姿が惨めに見える。

表面の気に入った所だけを甘受して、嫌なものからは目を背ける。
そんな中途半端な恋で恋をしている気になって、こんなところまで口実を求めてくる女に、新城は何処か裏切りの様な反動を覚えた。
この一件以来、すみれと親しく話してきたからだろうか。
それとも、何か同志のような匂いを感じていたというのか。

窓からの陽射しが射し込み、新城の瞳を黒光りさせる。

「刑事なら、心を奪われたくらいで客観的な視点を見失うな。みっともない」
「あ・・・、ぁ、アンタこそ・・・!今まで青島くんの何を見てきたのよ!」
「悪いが今回の件ではお前たちより密に関わった。その上での総合判断だ」

今のすみれは強がるほどに、弱さが出る。
その脆く揺れる様子は、黙って傍で見つめているだけで満足をしていたこれまでの新城自身と重なった。

必要以上に関わらないということは、相手をいつまでも理想のままに存在させるということだ。
そんな浅い熱情など今の新城には恋の破片ですらない。
重くなりすぎた情熱が腐って蔓延り、意志の力だけでその獣のような狂暴性を眠らせておくことは不可能と悟らされる。
それでも捨てきれない強欲が、手に負えないほどの激しい引力を帯びて欲した相手に理も常識も失くして凌駕してしまう時もあるということを
この歳になって初めて知った。


「じゃ、じゃあ・・っ、室井さんにでも聞いてみなさいよ!ほんとの青島くんは――」
「室井さんか・・・。生憎だったな。彼もこの方針には賛同している」
「・・・うそ・・・」

すみれが吐息を深く途切らせた。
意志の強そうなすみれの瞳が女の弱さを浮かべ、一歩下がった。
的確にすみれの中で一瞬にして湧き立った怯みを逃がさず、新城は強く瞳で射抜いた。

「惚れているくせに純情気取って友達ヅラか。笑わせる」

ゆったりとした間を取り、新城は視線をすみれから外し、正面の廊下へと向けた。

「告げる勇気もないくせに」


それは、告げてしまった自分への自責だった。
今更始めてしまった恋に後悔と仄暗い歓びが入り混じる甘酸っぱい味を享受し、身体を震わせ、その背徳感さえ強烈な感覚となり
影武者のように付き纏われる。
あんな淫らで爛れた欲望を捨てた場所から説教をする女に、何かが強く反発する。

告げて終わらせたにも関わらず、新城の胸で燻りを繰り返すものが、もう制御出来ないところまで来ていた。
挑発されて誘惑に堕ちて、綺麗で透明だったはずのものが澱んでいくのだ。
一度決壊を破った情動はもう止まらない。この想いと心中し身を破滅させるまで腐食し冒し続ける。
そんな恐怖も悪夢も知らないで、恋の甘味だけを吸って悦に入っている女が、ひたすら苛立たしく思えた。


「ぁ・・、あ、で、でもあたし、惚れてるなんて一言も・・・」
「惨めだな」

認めることも出来ないのか。
空疎な気分ののままに新城の口はすみれの本性を貫く言葉を次々と発していた。
それは理屈で考えるよりも容易かった。
自分への苛立ちをぶつけていただけに過ぎない。分かっていたが止められなかった。

冷たい風に晒されただけでない頬だけが赤く染まり、すみれの目には脅威と畏怖が色濃く浮かぶ。

幾人かの本店捜査員が戻ってきて、二人の横を通り過ぎ、一課の室内へと入っていく。
黙ってしまったすみれに新城が視線を戻すと、波立った感情に虹彩を哀惜に染めていたすみれは静かに瞼を閉じる。
すみれの視線がゆっくりと新城へと戻る。
再び決意を以って開かれたそこには、迷いが消えていた。
腹を括ったか。
案の定、すみれの口からはもう否定的な反論は出て来なかった。


「言ったからって、どうなるというの」
「少なくとも現実が見れる」
「恋ってそんな割り切れるものじゃないわよ」
「――」

恋する女の片鱗が見え、それは男にはない母性のような堂々とした傲慢さで、少しだけ面喰い、新城は虚を突かれた瞳をした。

彼女は恋の苦しさを知っているのだろうか。
終わらせることが出来なくて溺れていくだけのこの悪夢の終わらせ方を知っているのだろうか。
知っているから、告げないのだろうか。

「自分を持て余す熱に翻弄される始末に決意が出来なかった恋など、所詮青臭い遊びだ」
「溺れるだけが愛じゃないわ」
「綺麗事が良く出る」
「それこそ自己満足でしょ。身勝手な欲を押し付けて満足するなんて愛じゃないわ」

中途半端に零した新城の心音に、何か見つけたのか、すみれの顔が耐えるように歪んだ。

「愛してるって思うだけで心に変わっていくもの、あるでしょ?」

少し逆立った気持ちが凪ぎ、新城は気配を緩めた。
女の勘だろうか、聡くその変化に気付くすみれが、首を僅かに傾げる。
合わせてストレートの黒髪が肩をさらりと撫ぜた。

「貴方・・・そういう恋を、しているの・・・?」
「――」


だが、どんなに慕ってみたところで、報われない。
想いは出口を彷徨い、痣となる一方だ。
まだ誰のものでない相手の心はもう既に別の誰かに染め上げられていて、入り込む隙間すらなかった。
叫んでも叫んでも声は届かない。
どんなに求めたって満たされない。
心ごと否定されて無にされて朽ちていく虚しさに、追い詰められて、もう捨てることも忘れることも出来なくなってしまった。
たった一度で良かった。
一度でも、自分の奥底まで見てくれたならそれだけで救われる筈だったのに。


「貴方に・・・信じられるものはないの・・・?彼を信じてあげて。もう少しだけ」
「信じた男に裏切られ寝取られるのがオチなら大差ない」
「・・なん・・っ?」
「少なくともアイツはお前を見ない。失踪後もお前に連絡がないのが何よりの証拠だ」

瞬間、はっきりとすみれの顔が歪んだ。
一番気掛かりだったことなのだろう。

頼られないということは、価値がないと同義だ。
愚痴でも暴言でも、ぶつけてくれたらその火傷しそうな熱が恋を実感させただろう。
好きだと告げて、生温く距離を取られるよりも、蔑まれ侮辱した瞳に歪んで映り、苛烈な痛みをぶつけられたら、どれだけ肌が栗立っただろうか。
好きだと告げて、その身体も心も自分で染め上げられたら、どれだけ満たされただろう。


「ほんっと、意地が悪い・・」
「どんなに惚れたって、相手に見染められなきゃ、その胸に御大層に仕舞っている恋など屑と同じだ」
「・・っ」
「無駄だったな。その恋は一生成就することなく終わる」
「・・・ぇ・・、」

すみれの瞳が揺れた。

「知っ・・・てるの、青島くんの相手・・・」

喘ぐように、ただ、すみれが喉を蠢かせた。
明言はしなかったが、しっとりと向けた熱のない視線に、すみれは息を呑んだ。

「告げなければ、いつかは報われると期待したか」
「・・ゃ・・っ」


正しさを決めるのは誰だろう。
正しさを止めるのもまた、誰なのだろう。

暗く澱んだ欲望はもうすっかりと濁ってしまって、爛れた情熱で腐敗させる。
昔は己の感情などどうとでもやり過ごせた筈なのに、今は出来ない。
恋とはこんなにも人を堕落させる。
恋をして、自分は何を失ったんだろうか。

満たされないままに終わっていく。
同じく終わっていくだろうすみれの恋の末路を、新城はただ憐れんだ。
彼女は知らないだけの、同じ、敗北者だ。


目の前ですみれが顔をくしゃくしゃにして、両手で耳元を聞きたくないという風に塞いでいた。
すみれの目が赤く充血している。

「バカな女だ」
「うるさい、うるさい」
「匿っていた部屋は荒らされてなく、彼には内通者の疑惑もあった。いなくなったことが全ての事実だ。客観的な視点を補ってから文句を言いに来い」

覚束ない足ですみれが顔を左右に緩く振る。
新城はチラリと見ただけで、背を向けた。

「ぁ・・、ま、待・・って・・・」
「・・・・」
「・・・でもッ!お願い・・っ、マスコミだけは・・っ」
「諦めろ」
「ばかぁ・・・っ」


その場に膝から崩れたすみれを残し、新城は去っていく足を止めなかった。
今、同情を掛けるのは返って辛いだろうと思った。







back     next             top