東京変奏曲2season Ⅱ









第四章
1.
空にはどんよりと厚い雲が垂れこめていた。

本庁の正面入り口に滑るように黒塗りの国産車が停車する。
運転席から出てきた男が後部座席の扉を開けると、転げるように黒コートを纏う人物――室井が重そうな鞄を手に降り立った。
そのまま自動ドアも待ち切れぬ慌た だしさで肩から押し入り、庁内へと吸い込まれていく。
地方での研修会を終え、とんぼ返りしてきたところだった。
報告もレポートも漫ろに、そのまま室井は新城の部屋へと直行する。

ひと気が失せた廊下を小走りに進んだ。
本当は走りだしたって構わない気分であったが、急いだってどうせ事態は変わっていないだろう現実が足取りを重たくさせる。
急いた気持ちをセーブするために一定のリズムで歩を進めた。

中高大学と体育会系で青春を過ごした。身体を鍛えるため、柔道・剣道を嗜んだ。警察キャリアを目指す者など皆そうだ。
心身の統一は規則運動からだと学んでいる。


埃を被った窓枠から覗く冬空は今にも泣き出しそうな雲行きだった。
日没前なのに明度の低い大気が節電を呼び掛ける室内に充満し、薄暗く濁っている。

もうノックする礼儀もすっ飛ばし、室井は部屋の扉を開け放つと同時に口を開いた。


「おい、どうなった」
「・・・お帰りになったんですか」

新城もまた然程驚いた様子もなく、部屋の中央で資料を並べていた手を緩めずに呟いた。
視線すら合わさず、資料を分類していく。
背後のホワイトボードには丸磁石で写真や履歴、地図などが貼られていた。
――無論それは新城が現在表向きで携わっている事件ではない。

室井もコートと鞄を適当に置くと、傍に近寄り覗き込んだ。


「鑑識の正式な結果、出ましたよ」
「どうせ何も出なかったんだろ」
「――ええ、何も。それこそ指紋一つ出ませんでした」
「やはりな・・・不自然さがボロを出したな」
「ですが、つまりそれだけで侵入者を肯定をするだけの効力は弱いことには変わらない」
「青島自ら鍵を壊して偽装した線か。・・・監視カメラの方は」
「細かく分析させましたが・・・・こちらも怪しい人影一つ映ってませんね」
「誰もか」

新城がテーブルに並べた資料の内、隅の一束を取り上げ室井に手渡した。
監視カメラから抽出した写真の一覧だ。

「正確には貴方や私を含めた官舎を出入りする居住者。その関係者。郵便局員、宅配などの業者など、ごく日常の訪問客が映っています」
「青島は全監視カメラの位置なんか知らないと思うぞ。助言者がいた可能性が出てくる」
「ですね。キャリアが関わっているのだとしたら尚更映像に痕跡を残すミスをするとは思い難い」

尤もだった。
今更そこに甘い期待をしていた訳ではなかった。
犯行がキャリア主導で行われたものだとしたら、対策も微細に練り易いし、こちらの動きも読み易い。
監視カメラなど、その象徴である。

「それ、見れないか」
「そう仰るのではないかと、DVDに焼いてもらってあります」
「仕事が早いな」

室井がそういうと、ようやく新城の視線が室井を捉える。

「すぐに観たい」


青島が失踪してから、五日ほどが過ぎていた。
まだ何の手がかりもないままに、悪戯に時だけが過ぎている。
本来なら地方研修など形ばかりのキャリア育成プログラムになど行きたくもなかったのだが
表向き室井はこの件に関わっていないことになっているため
また、関わっていることを周囲に悟らせないためもあり、変わらずの刑事局で刑事企画課課長補佐の任務を全うしていた。
その合間を縫って、正確には時間外にこうして新城と二人、別件としてこの失踪事件の捜査に当たっていた。
新城まで表沙汰にしていない理由は、他の内通者の存在がまだ払拭しきれていないからだ。

現在、新城はこの事件に関し、二重の捜査権を持っていた。


「映像は確実に対象が貴方の部屋にいたと思われる時間帯、つまり貴方の出勤時からです」
「よし、出してくれ」

二人、肩を寄せてノートパソコンを覗き込む。
画面には官舎に据え付けられている官僚警備のための防犯用監視カメラの映像が映し出された。
確かに室井らしき人物が出ていく背中が見える。


「少なくともキャリアが山ほど居座る官舎である以上、警備体制は一般市民だって勘繰れる。コレの存在を意識しないとは思えません」
「映るようなヘマはしてくれないか・・・」
「あったとしたら逆に誤誘導の可能性が出る」
「だが、侵入者はともかく青島を運び出すのはどうする。周辺の目撃者は?」
「出ませんね・・・その辺も警戒していたのか特に怪しい人物は誰も見掛けていないと」
「顔見知りだから・・・か?」
「そうとも言えますし、或いは、極自然な行動パターンだったか」


画面に映し出される映像は、新城の言うように、ごく普通の平日朝の日常風景が続いていた。
出勤していく者、遅番だったのか疲れた顔で帰ってくる者。宅配業者や郵便局員、ピザ屋などの配達。
辛うじて画面上部に映り込んでいる正面道路にも不審車などは映っていなく、至って長閑な朝の一幕だった。
音声は録音されていないが、どうせあったとしても騒音一つない単調な朝なのだろう。
どれもここに住んでいる者ならば誰もが馴染んだ生活風景であり、取り立てて不自然な点はないように思われた。


「映像に細工の痕跡などは?」
「ああ、それもないとのことでした。それをしたらそこを怪しまれると踏むでしょう」
「確かにな」
「この手の監視カメラ映像は何秒かおきに画面が一時停止しますがそれも技術的な範囲内だと」
「そうか・・・」


新城が背後に移動し、珈琲でよろしいですかと聞いてくる。
生返事を返しながら、室井は食い入るように画面を見続けた。
侵入経路なども判然としていなく、念のため外壁・通路の靴跡などの痕跡も調べさせたが、それらしいものが出ることは無かった。
正に煙のように一人の人間が消えてしまったように見受けられた。
いや、本人の意思で出て行ったとするならば、話はもっと分かり易くなる。


「その映像も官舎の管理室の方ではなく警備会社のサーバに残されている方から取り寄せましたので、まず細工の可能性は低い」

珈琲を室井の前に置きながら新城は背後に立つ。新城にしてみれば同じように何度も見た映像だった。

「室井さんが午前中が怪しいと指摘したためにそこを重点的に調べてますが、範囲を広げますか」
「一応君が全時間帯を見たんだろう?」
「ええ、まあ」
「だったら私が見ても何も出ないだろう・・・」

顎に手を当て、室井が眉間を深めながら画面を見続ける。

監視カメラに証拠が残るようなヘマをする相手とは思い難かった。
恐らく失踪発覚後にこのくらいは調べるだろうということまで予測された後追い捜査をさせられている。
調べる程に彼らのアリバイ・主張を保証してしまうのだろう。
こうやって一応目を通しているのも、念のためである。

「信用してくれるのは有り難いですが、一応フラットな視点は必要です」
「そうか、そうだったな」

この極秘の捜査を開始した時から、二つの異なる視点から捜査をしていくというのが二人の決め事だった。
現時点ではキャリア神話を失墜させかねない異常事態である。
事は慎重に進めなければならなかった。
そのため、捜査もまた表向きのシナリオを作った。
表面的には新城は青島を協力者――つまり警察側からしたら裏切者として疑う視点で、室井が青島を拉致されたという視点で推理を行う。
コンパクトな捜査体制だから出来る荒技だが、意外にも意見を突き合わせる捜査はウマが合った。
また都合も良かった。
実際、新城がキャリア寄りに捜査をしているように見せ掛けることで反発的な一部の勢力を細波立たせずに治め
その分、裏で室井が動けていた。


「分かった。全部チェックする」

時間がないことは分かっていた。
だが、焦っても事は進まない。初動捜査の遅れは結末に致命傷を齎す。
思い詰めた顔で室井が神妙に頷いた。

こんなことは本部長として捜査に当たっている時など馴染みの負荷だった。
なのに今はみっともなく身体が強張り呼吸が浅くなっている。


映像が最後まで再生され、自動的に停止した。
大きく落胆の溜息を落としながら室井が顔を上げる。
何も怪しいものは一見何も無いように見えた。
新城が机の上に並べていた調書の中から一つを取り上げ、室井に手渡した。
パラパラと捲りながら、室井が目を走らせる。

鑑識からの報告書だった。
足跡一つ残されていなかった室井の部屋は、室井と青島の指紋以外何も出ていないことが記載されている。
外壁や外周塀にも侵入の爪痕はない。
大気に催涙ガスなどの痕跡もなかったことは最初に突入した室井自身、身を以って確認している。
もっとも無味無臭のガスなど幾らでも他にあるが、やはり鑑識からも何も出なかったらしい。

勿論、ここまで徹底した犯人が何故鍵だけを破壊したのか。それだけが分からなかった。
鍵はその切断面から、鋭利な刃物で一刀両断されたものであるとのことだった。
鍵の存在を知らなかったのだとしたら、鋭利な刃物なのではなくもっとあからさまに壊されていそうである。

何となく府に落ちないものを感じながらも、室井は読み終えたレポートをテーブルに戻した。
熱い珈琲を静かに啜る。


「大丈夫ですか」

室井があまりに余裕がない顔をしていることを気遣い、新城が小さく声を掛けた。

正直、どこを切り口に進めれば良いのか分からなかった。
痕跡を残さないから突破口が掴めない。
勿論それが犯人側の最大の切り札であり、狙いなのだろう。
白昼堂々とした犯行もまた、キャリアを疑うなど大っぴらにはしてこないだろうという大胆で姑息な読みが見え隠れする。
強いて犯人の誤算と言えるのは
あの日研修会が延期になったことと、室井が侵入者に気付いてしまったことで発見がやけに早くなったということくらいだった。
それさえも半日以上の猶予を相手に与えている。
逃げるにも痕跡を始末するにも充分過ぎる時間だ。
後手に回っているのは確かだった。


「そもそも目的は本当に青島の情報なんでしょうか・・・」
「・・うん?」
「室井さん・・・、彼にそこまでの情報は与えていませんよね」
「・・・、そう言えばそうだ。キャリアが、所轄の人間から警察情報を引き出せるとは普通は考えないか・・・」
「室井さんから漏れていると思う根拠がない。目的は警察内のことではないのか・・・」

新城が腕を組み、首を捻って天井に視線を投げる。

「だとしたら、グループ内での情報隠蔽ということになりますが、となると――」
「・・・ああ」


となると、今度は青島が警察に対してまだ何か隠し持っていたという結論に至る。
あれほど知らない、気付かなかったと言っていたことが嘘となれば、青島自身への信憑性が薄れていく。
そうなれば当然行き着く結論は、青島によって欺かれた失態ということだ。
それを避けるため尽力している室井にしてみれば、一番避けたい結末であった。

事態は、調べれば調べる程、相手側に有利に働き、そしてつまりは青島の疑惑を高めるだけとなっていた。


流石に同情の気配を滲ませた新城が、労いの視線を送る。

「まあ、情報を持っていると思い込ませるポーズで相手を欺くということくらい、好きそうな姫君ですけどね」
「皮肉だな・・」
「価値があると思っている内が華ですよ」
「確かにそうだ。大体あいつを拉致してまで彼らが知りたい・・・護りたいものって何だ」
「とっくに顔写真などが警察に渡っていることくらい奴らも承知済みでしょうしね」
「しかも青島があのグループに潜入していた期間など微々たるものだ」
「その間の青島の証言を信じるとすれば、単に運び屋をやっただけという話ですが・・・」
「今更拉致して何をするつもりなんだ・・・」

そこでふと、室井は前の逃走劇で青島が決死に入手したチップを思い出した。

「そう言えば青島が持ってきたチップ、あの中の顔ぶれはどうだ?」
「大物が映ってはいましたが裏が取れた者は捜査線上に挙げましたが・・今回の件で特に接点を感じさせる者はいなかったと思いますが」


新城が寄りかかっていた壁から腰を上げ、つかつかとテーブルに近付いた。
広げられた中から該当資料を取り、パラパラと捲る。


「ただ敵も焦っているのは確かだ。誘拐までしてみせたからには何か急がせたい事情があるのか・・・」
「急がせたいのはこちらも同じだ」
「・・・え?」

室井の地を這うような唸る声に新城は目線だけを上げる。

「奴らのシンジゲートは海外だ。海外にも拠点があるとなると向こうに逃亡されたら厄介だぞ。手が出せなくなる」
「日本と犯罪協定結んでいない国がほとんどですからね・・・チッ・・・」


新城がらしくなく舌打ちして荒々しく手垢が付きよれよれになっているレポートを放り投げた。
犯罪のグローバル化に対し、日本が犯罪人引渡し条約を結んでいるのは米国と韓国の2カ国だけだ。
それ以外の国に逃亡されたら手も足も出せなくなる。

エアコンの風に煽られてパラリと捲れたレポートに虚ろな視線だけ送りながら、室井がフッと息を緩めた。

「珍しいな・・・君がここのやり方に不満を見せるなんて」
「別に、私とて従順な歩兵であったつもりはありませんよ。目先の利潤に囚われたくないだけです」
「・・・青臭いことを言っていると思われているのだと思っていた」
「外交当局を通じて新しい通信網とデータベースの検索――そんなもので本当に満足しているとでも?」


なんとなく、二人の視線が絡まり停止する。
辺りは物音一つしなかった。

新城にしては人情的な台詞は、恐らく気を使わせているのだろうと室井は察した。
この間の告白の一件から、新城の態度はかなり軟化している。

肘を両膝に付き、なんとなく視線を逸らさずに見つめた。

そういえば以前青島が負傷したあの事件で、現場に向かおうと見切った室井にコートを差し伸べてくれたのも新城だった。
決して分かち合えない相手ではなかった。
それどころか、根気良く詰めば通じ合える相手だった。
それを掴み損ねていたのは、室井が怯えて縮こまっていたからだ。
青島ともそうだった。
青島は自ら向かってきてくれたから室井はそれに応える形で理解と共鳴を生めたが、青島がああいう男でなかったら、現実はどうだっただろうか。
いつだって自分から動こうともしないで断ち切るばかりだったことを顧みる。

そんな捻た愛情など分かってやれるか。負け惜しみだ。


「大人の世は誤解だらけだな。何が真実か巧妙に隠してしまう」

何となく思い出し、確かなものがない危うさに足元が心許なくなり
縋るような真似はしたくないが、目の前の新城の存在をただ年季を重ねた男の横目に映す。
片割れがいないことが急に室井の心に隙間風を感じさせた。
窓の外を叩く北風が深々と室内を冷え込ませてくる。


「それに――」

言い掛け、室井は口を閉ざした。
新城が僅かに視線を強めると、室井はそれに気付き、緩く首を振って見せた。
弱さは人の弱みに巣食う。

その、暗く沈んだ表情に、新城は室井が最悪の事態を想定していることを悟った。
先程の〝誤解〟が、この事件の首謀者を指すのか、青島を指すのか、それとも新城へ向けたものなのか判然としなかったが
その臆病さが勘に障った。

言い出せない室井の変わりに敢えて新城は口にする。


「それに、これは本当に拉致なのか、ですか」

一瞬瞠目するが、室井は特に感情を乱すことなく、ただ瞼を伏せた。

「・・・ようやく、治ってきたところだったのに・・・・」
「・・・・」


新城も察して押し黙る。

先日の霜焼けで包帯が復活したが、青島の身体に残る銃創はかなり深いものもあり、まだ上手く動かせる状態ではなかった。
それでも順調に回復を見せ、部屋の中では歩き回れるほどにまでなり
この調子なら近々リハビリを始めようかと金岡医師とも相談していたところだった。
本人はけろっとしているし、びっこ引きながら歩き回っていたが、部屋の中を庇いながら移動することと、筋肉を元の状態に復活させ日常生活を送ることは、次 元が違う。
ましてや刑事としての能力を戻すのは、先の長い話だった。
それなのに。


「生きて・・・いるんでしょうか」
「・・・わからない・・・」

気休めなど、逆に怖くて口に出来なかった。
既に五日が経過している。
あの夜、一倉も指摘していたが、大人の男を拉致するなど、言う程に簡単なことではない。


「現時点で拉致するだけの価値が青島にあるとも思えないのが一番の懸念材料ですね・・・」
「・・ああ・・・、その可能性は念頭に置いておくべきだな・・・」

苦しそうに室井の眉間が深く刻まれる。
その可能性――価値がない人間を拉致する目的。
そうなると、いよいよ誘拐というよりは後始末・・・・つまりは処分しに来た可能性が濃厚だった。
報復を警戒して身を隠していたのに、その意味では最悪の事態に発展させてしまっている。


そのおぞましい結末が、先程の室井を口籠らせた原因だろう。
新城は心中を察して、ただ穏やかに言葉を繋げた。

「念のため、それらしい格好をした身元不明の遺体が上がっていないか、調べさせますか・・・」
「・・・ああ・・・頼む」

室井は青ざめた口唇を横に引き結び、堅く奥歯を食いしばった。
考えたくはなかったが、腐っても刑事である。
人情的な楽観論だけを空想し、次の手まで出遅れるわけにはいかなかった。
そんなことをしたら、それこそ一生青島に顔向け出来なくなる。


「なんて顔をなさっているのですが。それこそ生霊となって化けて出そうな男ですよ」
「・・・・あいつに対するお前の主観はそんなか」

何か酷くかけ離れている気がして、室井がつい喉の奥を低く鳴らした。

以前監禁されていた彼は自力で抜け出した。
しかし、あの時とは状況が違う。
一度油断した彼らが同じ失敗を犯すとは考えられなかった。
・・・監禁されていた時のことを、青島は夜な夜な怯えていた。
あんな姿を新城は知らないのだろう。

あれは確かに青島の一部だ。いや、芯の部分だと室井は思う。
本当は破裂しそうな何かを必死に堪えて、だけど言えば周りを悲しませるから一人で泣いている。
そんな男なのだ。

その優しさと切なさに打たれ、触れてきた。

一体何をされたのか、最後まで聞き出すことは出来なかった。
言ったら、青島が泣きだしてしまいそうだったから、どうしても言えなかった。

監禁された人間が手酷い暴行を加えられ、それによって死に至るなんてことは、刑事をしている以上何度も目にしてきた。
脇腹部、脚部、大腿部などを数十回にわたって殴打した事例、全身が血だらけになり目の位置が分からなくなるほど顔を膨れ上がらせられた事例。
殴る蹴るなど の行為を 繰り返された末の事例もあった。
もう、命さえあれば良いだなどと軽々しく言える心境ではなかった。
ましてや、往来で淫行までするほど青島に執着していた人間がこの件に関わっている。
その歪んだ執着が破壊衝動に切り変わるなど、刑事人生では当たり前に目の当たりにしてきたことだった。

こんなことになるのなら、怯える青島にもっと事情を聞きだしておけば良かったと心底思う。
彼の傷を恐れるがあまり、逃げてしまった。
もしかしたら何か切欠が掴めたかもしれないのに。
どんな相手だったのか、どんなことをされたのか。人物プロファイルから絞り込めたかもしれないのに。

〝あんたには関係ない〟〝思い出させんな〟
そう言われるのが、怖くて――

「刑事、失格だな・・・」


新城は息詰まった室井の言葉に何も返さなかった。
ただ遣る瀬無い思いで室井の背中を見つめた。

室井が捜査に於いて弱音を吐くのは珍しい。
以前一度だけ弱音を言ったのも、青島が逃げ出した時だった。
陰日向に支えてくれていた最愛の男の不在・・・情熱の欠落が、現在の室井を追い詰め惑わせているのは明白だった。
思考や判断に冷静さはあっても、キレがない。
そして、その追い詰められた精神が破滅へと落としかけている。


何も掛ける言葉を持たず、新城は瞼を落とし、ただ冷めた珈琲を啜った。
重くなった空気は暖房のモーターだけをヤケに大きく震動させてくる。


ああ、弱った人間というのはどうしてこうも隙が出るのだろう。

俯き、項垂れ、それでも強がる男の背中が寂しそうで、物凄く寂しそうで、不意に新城はその背中から抱きしめたい衝動に駆られた。
予期せず湧き上がる情動は、酷くこの場にそぐわないものなのに、新城の息を途切れさせる。
初めて感じる類の強さであるのにこの胸に治めた熱に相応しく熱い漲りに、泣きたいような気持ちにさえなった。

矛先を失われ行き場を失くした熱が体内で止め処なく燻る。

きっぱりと断絶させられた想いの筈なのに、何故続きがあるのだろう。
恋とは相手に断ち切られても何故かこの胸の内に潜み、時に嘲笑うかのように顔を出す。
むしろ、断られたそこから恋の本質が始まるとでも言うかのように、熟した熱が身体を火照らせる。

弱った男の背中というのはどうしてこうまで色気を放つのだろうか。
同性にも伝わるフェロモンが妖しく新城を惑わせる。
その背中は哀愁に漂い、温もりを求めていた。
それは決して己の体温ではないと分かりながら満たしてやりたいと焦がれてしまう。


「・・ッ」

苦しくて、思わず掴んでいたカップを持つ指先が力んだ。
胸の内で舌打ちをして、顔を顰める。

この場で、自分がいるからなどと言い出すことなど何の効力もないことを新城は分かっていた。
何も役に立たない自分がもどかしかった。
何か室井の役に立つ人になりたかった。

知らなかった。
本気の恋などしてこなかった自分には、恋がこんなに魔性のものだとは思いもしなかった。
終わらせたつもりの恋が、始まりを告げている。
知られてしまったことが奇しくもセーブしていた枷を外してしまっていた。

誰もが持つ恋の常軌をただ持て余し、新城もまた言葉を失った。
だが、室井は自分と行くと言ったのだ。
心理的な面だけではない。官僚という所轄にはない役職上の繋がりも強固で、実質青島よりも確かに室井の傍にいられる時間は物理的に高かった。



ただ、それでも見ていられなくて、新城はせめて話題を変えることにした。

「付かぬことをお聞きしたいのですが」
「ん?」
「何故〝午前中〟だと?確か食事を取っていないようだとあの夜仰っていましたが鑑識の調べでは特に手つかずの食事など発見されなかったと」
「・・・・・ああ、いや」

悲愴な顔を少しだけ緩ませた室井が目尻の皺を深める。

「食事など、侵入者が後で調べることを予想して幾らでも偽装出来るのでは?」
「・・・例の家出騒動以来、あんまり構いすぎると青島が返って遠慮するんでな、そんなに目立った食事は用意していないんだ」
「だったらどこでご判断を?」
「その日の昼にあいつが何を食べたかは食材を調達している私が一番良く分かっている。・・・でだ」

ここで室井は珈琲を一口啜ると、新城を仰ぎ見た。
特に何でも無いという顔をして軽く返答した。

「あいつが食洗器を使うと皿の向きが私と逆なんだ」
「・・・は?」
「あの日は朝のままだった。つまりキッチンに青島が触れていないことを意味する。ということはきっと、まだ腹が減る前だったんだ」

聞かなきゃ良かったと新城が後悔するのも気付かずに、室井が小さくぼやきながらまた同じ映像の再生ボタンをクリックする。

「ラップも逆なんだ・・・」

同じ右利きの筈なのになと呟く室井の後ろで、気付かれないように新城は盛大な溜息を漏らした。




*****


夜の8時も回った頃、室井が新城を呼んだ。

「ここを見てくれ」

あれから全ての映像をチェックし、特に怪しいと思っている午前中の映像を何十回と見続けた室井が一つのシーンを指摘する。

「ここだ」
「・・・ああ、上の階の奥田刑事・・・」
「その上だ。・・・この影、何だ?」
「・・・、・・・何か動いているようにも見えますね・・・」
「この位置なら別角度のカメラには映っている筈だ。向かいのマンションエントランスに監視カメラくらいあるんじゃないか?」
「そうきましたか・・・」
「え?」
「確かに官舎正面からの映像も必要になるかと、参考資料として取り寄せていました。ただ怪しい動きがなかったのでまだそこの段ボールの中です」

新城が無造作に重なっているDVDの中から目的のものを探し出し、別のパソコンで再生する。

「時刻は・・・11時過ぎか・・・。あ、これですね。出ました」
「・・・・そうだ、ここだ」
「カエル急便ですか」

そこでは一人の見慣れた作業服を着た配送業者が台車にゴルフバッグを四つほど積んで運び出していた。
画面隅に停車しているトラックも確かにカエル急便とペイントされている。

「ゴルフバッグの配達など良く見掛けますよ。珍しくもないですが・・・まさか」
「最近ゴルフの会合なんかは?」
「暇さえあればゴルフに興じている上役連中にそれ言いますか」
「これ、誰の物か分かるか」
「・・・、まさかこの中に隠れているだなんて言い出すおつもりで?」
「意識のない人間ならばゴルフバッグに詰め込める。そもそも侵入者と荷物を同時に運び出すリスクを犯す必要がない」
「・・・・突飛な発想ですね」
「下手に段ボールなどで運び出してみろ。その方がよっぽど怪しい」
「・・・・確認を取らせます」
「私はこの時間帯の配送業者を当たる」

二人で同時に受話器を持ち上げた。









back     next             top

ゴルフバッグはドラマ「ナオミとカナコ」ネタです。
佐藤隆太さん演じるDV夫を殺害後ゴルフバッグに詰め込んでマンションから持ち出すというシーンでした。佐藤隆太さんが身長179cm。青島くん も入るなとv