東京変奏曲2season Ⅰ
第三章
1.
けたたましく愛想のない音で目覚まし時計が鳴って、室井は布団の中から手を伸ばした。
冷たい朝の空気が肌の緊張を促す。
もう一度布団の中に潜り込ませてから、室井は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。
分厚いカーテンの隙間からもまだ朝陽は見えない。
枕元のスタンドを手探りで点けた。
冬の日の出は遅い。
直ぐ隣で青島が室井の肩に額を押し付けたような格好で寝息を立てていた。
頬ひとつ緩ませないが、室井の胸の奥には何やら温かいものが沁みる。
目覚ましにも起きないというのは中々のツワモノだと室井は思う。
やっかみ半分で室井は垂れ下がった前髪を掻き上げ、青島の方に寝がえりを打った。
寝乱れて額から頬へと流れている細髪がシャープな輪郭を縁取り、端正な顔立ちを思わせる。
今は閉じられているまあるい瞳は栗色で、全体的に甘い印象の男だと改めて思った。
室井の剛毛と違い、青島の細髪は柔らかくて指の間でくたりと絡まる。
肌もマシュマロのような弾力を見せ、肌理の細かさが橙色のライトに浮かび上がった。
最近は悪夢に魘されているような時間も少しずつではあるが減り始め、彼が落ち付いてきていることが肌で感じ取れていた。
凍傷に寸前だった四肢の先も劇的な回復を見せていて、若い肌は健康的な香りを発する。
乱れたパジャマの襟元から浮き出た鎖骨から下が覗いていて、無防備な肌はいっそ明け透けな視線が申し訳ない気にさえさせられる。
本人の意識があったら目を反らしていたところだ。
室井はじっと目を据えた。
穏やかな寝息が顔に掛かる。
何とも言えない幸せが胸に満ち溢れた。
後頭部にまで滑らせた五指で固定し、室井は顔を近付け口唇を重ねる。
口唇を合わせながらそっと圧し掛かって青島の身体をシーツに仰向けにさせると頭を抱えるようにして口唇を塞いだ。
返事はないが、意識が浮上し始めているのだろう、少し眉を寄せて青島が煩そうな顔を見せる。
布団の中で素足が絡まった。
男の生理現象を悟られたくなくてそれ以上の接触を無意識に拒む。
昨夜、とうとう思い余ってこの男に想いを告白してしまった。
青島に告げたのだ。
それだけじゃない、甘く濡れるこの口唇も奪って、肉でも刻みつけた。
青島に触れる許可を得た訳ではないが、触れたい想いを知られているというのは
どうにも擽ったい感覚を齎す。
同時に、告白に至った経緯を思い出し、少し、新城のことを想った。
あの一件がなければ未だに告白などする決心は付かなかっただろうし、想いを与えることも出来なかっただろう。
恋は誰の心の中にも芽生えるものなのに、誰にも残酷な結末を突き立てる。
ただ一人の、愛する人間によって齎せられる最大級の幸福の裏で。
この男ならばと決断したその根拠は、室井にだって明確な答えが出せている訳じゃない。
両脇に肘を付き食すように薄く開いた口唇を舐め取る。
よく分かっていない頭で青島が眩しそうに目を薄く開き、自分の上に覆い被さる室井に焦点が合わさっていく。
仰天し、慌てたように両手で抵抗を見せる仕草が面白い。
「・・なにしてん・・・すか、もぉ・・・どいてくださいよ・・・」
「朝だ」
「分かって、ますから」
「支度するぞ」
渋々身をずらすと、室井はそのまま身体を起こした。
「お、起こすならフツーに起こして下さい」
「普通だ」
言いながらキッチンへと消えていく室井の後ろ姿を、徐々に目が覚め始めた青島が布団の中から目で追う。
じぃぃっと、うねる前髪の奥から事態を見届けている瞳はまだ睡魔に負けている。
青島は布団の端を両手で掴んでいたが、やがてもそりと起き出した。
遣る瀬無い溜息は、室井には聞かせられない類のものである。
くしゃりと髪を鷲掴み、思考を一巡させてから、立ち上がる。
顔を洗うため洗面所へと向かった。
****
「では行ってくる」
「はいっ、行ってらっしゃいませっ」
「相変わらず嬉しそうだな・・・」
「お目付役がいないとテンションが上がります」
「悪戯もほどほどにしておけ」
室井がしょうもないなと子供を慈しむような目をする。
そこにまた居たたまれなさを感じて、青島は視線を無闇に彷徨わせた。
昨日と今日で何が変わった訳でもないのに、室井に告げられた恋情が、歪な感情を茹だった頭に蘇らせる。
こんな照れ臭さは、高校生にだってなかった。
男同士だ。相手はキャリア官僚だ。
シャツの裾を両手で握り締める。
今日の服装もまた、室井の見立てである。
薄手ニットと大柄のチェックシャツのレイヤードスタイルで、ボトムスはスキニーでスタイルアップした着こなしだ。
ダメージ加工のライトグレイのジーンズが大学生のような若さと愛らしさを加えている。
冬物のダークカラーが主流の中で、毎回一点指し色を加えるのが、室井の最近のお気に入りである。
基本ベースカラーだけで統一感を出す自分の服装とは違う冒険を出来るのが、実のところ楽しくて仕方がない。
青島はスタイルも良く身長もそこそこあるので、際どい挑戦でも着こなしてしまっていた。
今日は少し若くしすぎたかと本日の反省点を脳内にメモりながら、室井は表情筋一つ動かさず
見送る青島をチロっと見上げた。
「帰る前にメールを入れておく」
「ふわーい」
「戸締りを忘れるな」
「早く閉め出してあげますから出て行けよ」
「・・・・」
何となく離れ難く、室井は玄関先で青島を見上げた。
コテンと傾げた首が、どうしたのと問いかける。
徐に腕を伸ばし、その後頭部を引き寄せた。
上から降ってきた口唇を下から受け止める。
「むぅ・・っ」
いきなりの接触に目を見開いている青島を余所に、吸い付くように弾力を愉しんだ。
舌で割れ目を刺激し、恥ずかしがるように震える膨らみをぺろりと舐めあげる。
擦り合わせて行く内に、青島の瞼がきゅっと閉じられる。
朝の新鮮な空気の中で響く濡れた音が淫靡に室井の鼓膜を顫わせる。
思う存分触れ合わせてから、ゆっくりと解放した。
至近距離で熱を孕む息を感じながら、青島の瞼が上がるのを待つ。
何の欠片も乗せない透明な水晶は、室井の背後の扉の隙間から微かに漏れる朝日を反射して絶品だった。
傲慢な幸せを感じて、室井は目を眇める。
情だけが直向きに溢れ、一途で傲慢な欲望を湛えた室井の瞳に魅せられ、青島も視線を逸らせない。
「・・・行ってくる」
「・・・・俺、まだ許可してない・・・」
探るような声は掠れていた。
ふっと目だけで笑みを残し、室井が甘やかに囁く。
「寝込みで既に貰った。今更だ。ばぁか」
「~~!!」
開いた口も塞がらなくなった青島のアホ面に、室井は赤い舌を見せる。
名残りを惜しむように、また細髪をくしゃりと掻き回してから、室井はようやく扉を開けた。
青島の絶句して発せない真っ赤な顔は、昨夜見たものと同じだった。
2.
18時半。
狭い車に男が4人詰め込まれている。
一人は運転手だ。
「何でお前まで来るんだ一倉」
「いいじゃねぇか、そんなに見せたくないもんでもあるのか」
不満の溜息をぼそりと漏らせばそれを聞きつけた一倉が、面白そうに助手席から振り返った。
「丁度今日はカミサンがいなくてね」
「逃げられたか」
「馬鹿言うな、里帰りだよ」
「そのまま帰って来ない・・・・」
「お前実は陰険なんだな」
面倒な事態に半ば諦めモードで室井は流れる車窓に視線を流す。
夕刻から降りだした雨は、冷たく都会の夜を冷え込ませ、斜めに雨筋を描いている。
約束通り本日の仕事終わりに新城と共に室井宅へと連れ立とうとして、外が雨であることから
細川が送迎を買って出た。
お言葉に甘え駐車場に向かう途中、一倉と遭遇し、何だか勝手に話が進んでこの状態である。
細川の運転で一倉と新城と室井は官舎へと車を走らせていた。
途中買い物も済ませているから、これから5人で食事という形になるのかもしれない。
「この間、姫に逃げられたのはどちら様でしたっけ」
「逃げられてない」
無益な言い争いを続けつつ、シートに深く背中を預けたまま室井が小さく反論する。
隣に座った新城が口を挟まず辟易した顔で聞いていた。
なんという冗談のような空間なのか、この場は室井にとっては座り心地が悪い。
あまり新城のいる前で妄りに前みたいな干渉はしないでほしかった。
気詰まりの空気は雨を吸って高い湿度を肌に与えてくる。
「何て言って連れ戻したんだよ?」
「お前に言う筋合いはない」
「堅い男だねぇ」
「おい、一倉、付いてくるのは構わないがあいつに余計なことは言うな」
「姫にはかっこいいとこだけ見せたいってか」
「だから、そういうことを言うなと言ってるんだ」
分かっているのかいないのか、一倉は前を向いて実に面白そうに笑った。
背景に事件が絡んでいる以上滅多な失態は犯さないだろうが、色々頭の痛い事態である。
「おっまえ、あの夜から電話も素気ねぇしさぁ」
「・・・当然だ」
まだキスのタイミングをお前に狂わされたとは言えず、根に持っている室井は顰め面を崩さない。
それでも溜飲はだいぶ下がっているが。
「姫には今日のこと、何と言って話したんですか」
それまで静観していた新城が不意に室井へと顔を向けた。
その瞳には何の感情も乗せられておらず、暗い車内で鋼鉄に街灯の光を反射する。
室井は一瞬だけその眼を確認してから、腕を組んで前を見た。
「そのままだ」
「そうですか・・・」
新城は肯定とも否定とも掴めぬなんとも言い難い相槌をして、反対側の車窓を向いてしまった。
気まずさが漂う空気が居心地悪い。
いつか。 伝えた言葉を恨む事になるだろうか。
告げさせてやることも断ち切らせてやることもできない想いは苦しみだけ齎す。
その傍らで己だけが甘受する運命の残酷さは、恋のそれだと割り切るにはあまりに無情だった。
会話も途絶えた車内の空気が不快な湿度と匂いを充満させた。
シャッターを切るように窓の外にはネオンが射し込んでいた。走る雨粒がビーズのように車窓に弾ける。
車は雨の都会を滑るように走り抜けて行った。
*****
複数の靴音がとっぷりと夜の帳に更けた官舎に吸い込まれていく。
合わせ持っている買い物袋がかしゃかしゃと鳴った。
「今夜は冷え込むな・・・何作るんだ?」
「お前の意見は聞かないぞ。・・・新城は何が良い」
「特に希望はありません。食べられないものもないのでお気遣いなく」
「そうか・・・」
素気ない返事に二の句を奪われる。
室井は眉間を深めただけに留めた。
官舎の建物は古く、至るところにひび割れや染みなどの経年劣化が見て取れる。
寂びれた白熱灯が深緑の黴臭さを思わせ、辛気臭い古めかしさを視覚から伝えてきた。
そこに浸み入る冬の雨は底から冷え込ませてくる。
ぶるると身体を震わせ両手で腕を擦りながら一倉が千鳥足で先を目指す。
「いつもお前が作ってんの?」
「・・・まあ、大体」
「愛妻料理ってか」
「姫にさせたら後片付けも大変だ。私がやった方が早いだけだ。勘繰るな」
「惚気にしか聞こえないぞ」
角を曲がり、室井の部屋の近くまでやってきた。
狭い廊下は一倉が一番前を先導し、新城、室井と続く。
呼吸に合わせて幾つも白い息が浮かんだ。
誰とも擦れ違わない廊下は、ひと気を失いひっそりと静まり返っていた。
この辺は都会とはいえ、幹線道路からも外れ閑静な住宅街である。
「この部屋に来るのも久しぶりだなぁ。・・・ここだったよな」
室井の部屋の前で一倉が立ち止まる。
新城が伺うように振り返った。
頷き、室井が解錠するため前へと出る。
・・・と、そこで室井の動きが止まった。
「さっみぃな~、早くしろ」
「・・・動くな!!」
突如、鋭い室井の声が低く響いた。
呆然とした一倉と新城が息を呑み、ハッと視線を向ける。
緊迫する中、室井がその場に跪く。
廊下に舞う何かを拾い上げた。
「紙?」
一瞬にして気配を変えた室井の指示に瞬時に反応を見せた一倉が、辺りを警戒しながら訝しげに覗き込んでくる。
「・・・なんだ?」
「・・・やられた・・・ッ」
「どういう・・・?」
「下がれ・・・!」
今だ状況が呑み込めていない二人を置き去りに、室井が片腕で二人を制し、地を這うような声で低く命令する。
破裂しそうな心臓を感じながら室井はポケットから素早くチーフを取り出した。
白手袋を出す間も惜しかった。
宛てがい、扉のノブを掴む。
嫌な予感が当たって欲しくない微かな願いを込めて力を込めると
願いは虚しく、扉はギイィと寂びれた音を立てて開いた。
一倉と新城の目が見開かれる。
扉が施錠されていなかった。その意味が急速に深刻さを帯びる。
鍵を取り出さずに扉が空いてしまった異常事態に、室井の身体中のアドレナリンも逆流していた。
「一倉!応援と鑑識だ!」
それだけ低く告げると、室井は扉を大きく開け放った。
部屋の中は真っ暗だった。人の気配はない。
手探りで間口を確かめ、ポケットから小型ライトを取り出し、スイッチを入れる。
サッと辺りに走らせた。
そこは朝出かけた時のままだった。
鋭く視線を這わせるが、物一つ動かされていない。
だが部屋の中にも、ひと気はまったく感じない。
恐怖に近い緊張が室井の心臓を鷲掴んだ。
新城と顔を見合わせて、中へと侵入する。
靴を履いたまま、音を立てずに息を殺し、リビングの入り口まで来た。
両側から警戒態勢を取り、アイコンタクトした後、部屋の電気を点けた。
パッと灯りに照らされ、眩しさに目を細める。腕を目元に翳した。
そこも、朝出かけた時と何も変わっていなかった。
それはいっそ、異様なほど不自然だった。
「青島ッ、いるのか!青島ッッ」
声を出して存在するはずの者の名を呼ぶ。
返答はないと分かっていたが、もう一度呼んだ。
寝室の襖を開け、トイレやキッチンも覗いた。
だがそこにも目当ての姿はなかった。
「室井さんッ、こちらにもいませんッ」
「くそッ」
室井にしては珍しく、隠しもせずに悪態が口を吐く。
新城も舌打ちをして、壁を拳で一つ殴った。
「まさか、こっちだったかッ」
一日にして、この部屋からまるで最初から存在していなかったかのように、青島の姿は消え失せていた。
3.
室内を制服を着た複数の男たちが足早に出入りする。
閑静な住宅街の闇に赤いランプが幾つか点滅していた。
大袈裟にするなという新城の一声で、事情を知る限られた人数しか収集されなかったが、粛々と検証が行われていた。
殺気立った空気が現場の殺伐さを物語る。
ものものしい装いの中、地を這うような人の声がぼそぼそと指示を出していた。
強すぎる白の照明が派手に点灯し、窓にはブルーシートが雨に濡れ揺れていた。
鑑識が部屋中を掻き回している様子を、室井は絶望的な気分で眺めていた。
寝室から浴槽まで、土足で他人が這いずり回る。
同じ警察官としてそれら作業に不自然な箇所などないのに、何かがガタガタと崩れ、止めろと胸が叫んでいた。
この部屋で甘く過ごした欠片が砕け散る。
どの部屋にも甘い匂いが息衝いている。
あの玄関で滴る口唇を奪ったのは、ほんの今朝のことなのに。
朝とマグカップ一つ位置が変わっていない。
服も寝具もそのままに、青島だけが消えてしまった。
あの後一体何があったと言うんだろう。
「室井さん・・・ちょっと」
呆然としながら立ち会っていた室井の袖を引き、新城が小さく耳打ちした。
外への移動を求められ、一度鑑識の動きを振り返るが、自分が居ても何も役には立たないだろうと、任せて室井も新城の後に続く。
玄関脇には一倉も立っていた。
表情は硬い。
雨が吹き込む廊下の端で、コートを抱え込み、待っていた。
「すいません、少し・・・話をするお時間、宜しいですか」
「例の話か」
そう言えばそもそも、新城の方から室井と青島に話があると今夜ここへ集まった。
今夜二人がここに居る理由を思い出し、室井は促しの視線を送った。
新城はそれに対し、恭しく瞼を伏せただけだった。
「人に聞かせたくない・・・、いや、言い難い話か」
「出来ればここで治めて頂きたい話です」
「――、それは今夜の件との関係を言っているのか」
新城の瞳が夜に映えた。
その口ぶりに、青島の失踪と今夜のタイミングが偶然じゃないことを感じ取り、室井の眉間が瞬時に険しくなった。
小糠雨の飛沫がコートや顔を湿らせ、体温を奪う。
視線だけ部屋の扉に向け、新城が口を開いた。
「何時頃の犯行か、予想付きますか」
「――、用意しておいた昼飯も残ったままだった。・・・午前中の可能性が高い」
「青島自身の意思で出て行った可能性は」
「出ていく理由がない」
「この間、逃げられたんだろ」
一倉が横から口を挟むが、それは先程まで車内で室井を揄っていたような冗談の一種の気軽さではなかった。
口調の硬さに、一倉が既に新城がこれから話そうとしていた何らかの事情を知っていることを室井は悟る。
「この間とは違う。中に居る者が鍵を壊して出ていく理由はなんだ。鋭利なもので真っ二つにされている」
「この家にそれを可能とする凶器は」
「そんなものが自宅にあるか。・・・第一、彼には靴もない」
精査した的確な言葉で室井が返答していく横で、一倉の眼光が成り行きを査定する。
「それにしても部屋が荒らされていないのはおかしくないか」
「・・・・綺麗すぎる」
「え?」
「逆だ。まるで存在ごと消したかのようだ。・・・プロの仕業だ」
「・・・・」
恐らく鑑識でも何も出ては来ないのだろう。
白昼堂々の大胆な失踪でありながら、その痕跡は血痕一つ零さない。
これだけ徹底しているとなれば、突発的な物取りなどの線は消える。
用意周到に計画された犯行だ。
問題は、青島個人を狙ったものなのか、キャリアである室井をターゲットしていたものに彼が巻き込まれたか。
室井は力を込めて握っていた手の平を広げた。
侵入感知にしていた紙がくしゃくしゃになって風に揺れる。
「紙をトラップにしていたんですか」
「ああ、古風なだけに効果はあると思っていた。それは私と彼しか知らないことだ」
多重の鍵に目を取られ、犯人もここまでは目が届かなかったようだった。
万が一にと扉下に目印を挟む警戒は続けていた。
それが、こんなところでこちら側に危険を知らせてくる。
部屋に目を流す。
複数の人間が忙しなく出入りしているが、ここで三人が固まって密談していることに目を留める者はいない。
壊されることなく切断された鍵が三つ、当時の惨劇を唯一物語るかのように扉に揺れていた。
開け放された部屋の照明もここまでは届かず、辺りは藍色の空気に沈む。
まるで狐につままれたようだ。
「じゃあお前、本当に姫に出て行かれる心当たりはないってことでいいんだな?」
一倉の断定に室井は紙切れをぐしゃりと握り潰し、大きく頷く。
昨夜告白したことが少しだけ脳裏を過ぎった。
たかがキスをしたからと言ってそれだけで愛想を付かされ逃げられるとは思い難かった。
思いたくない部分も大きい。
しかし無理矢理ではなかったし、嫌がるのなら昨夜の内に出ていくだろう。
口付けた瞬間の、あの青島の顔が室井の脳裏を熱くする。
見送りをしてから改めて出ていくなんて、そんな姑息なやり方をするとは到底思えない。
「付かぬことをお聞きしますが、ならば侵入者がいたとして、青島が自らそれに付いていった可能性はどうですか」
「・・・・どういう意味だ」
「考えたくはないですが、共犯者と共謀し青島が呼び寄せた犯行とは考えられませんか」
「青島を疑うのか・・・!」
「青島が我々を欺いて犯人側に寝返った可能性が否定できない。荒らされた形跡がないことを、どうご説明する気ですか」
「だからと言って――」
「落ち付けよ、室井」
流石に掴みかかろうとまではしなかったものの、新城に挑みかかる勢いで眼光を光らせる室井を、一倉が片手で制した。
改めて室井の肩を掴み、向き合う。
「お前、今の仕事で何か狙われる心当たりはあるか?」
「今の閑職を知っているだろう・・・!一体何の恨みを買えるって言うんだ」
「昔の報復として思い当たることは」
「北海道に飛ばされていたんだぞ・・・!今更・・・ッ、三年前まで遡らせる気か」
「人の恨みってのには時効はないことぐらい分かってるだろ」
「いっそキャリアに恨まれていると考えた方が余程辻褄が合う」
「!」
珍しく嫌味を乗せた室井の言葉は雨粒と共にその場に落ちた。
一倉も新城もそこに言葉を挟まなかったことで、その場の空気が凍てつく。
一倉の腕が力無く室井から外された。
室井だってこんなことを言いたい訳ではない。
ただ、遣り切れない想いがどうにも疼いてもどかしさが募る。
しとしとと降る雨は心の奥まで浸みこんでくるようだった。
「不躾な質問であることは同情しますが、こちらとしても確認しておきたい」
「・・・分かっている・・・」
室井はただ同意するに留めた。
現時点での不要な推論はお互いを疑心暗鬼にさせるだけだった。
室井は顔を背け、新城の言葉に恥じ入るように口唇を引き結ぶ。
譲れぬ思いで管理官が捜査と向き合っていることは分かっていないわけじゃない。
新城の協力なくして本部が動かせないとなると捜査の衰退も危ぶまれる。
そうなったら救出どころの話ではなくなる。
個人で出来る限界を誰よりも知っている室井は、不安定な戦況を長引かせるだけの本部の動向に苛立ちを募らせる一方
同じ立場に置かれたら同じ行動に出るであろう自身の虚脱感をただ持て余した。
湧き立つ憤りは虚しく冬の雨に打ちのめされていく。
「一緒にいて、青島に不審なことを感じたり不自然な言動など、なかったんだな?」
「・・・あるわけないだろう・・・」
「人を一人誘拐するって物凄いリスクだぞ。ドラマじゃないんだ、それに見合うメリットは何だ」
一倉の尤もな指摘に、室井も新城も言葉を懐疑を大きくする。
状況は青島に不利だった。
冷静に考えても、昨今の室井の仕事事情では今更自宅への強行を赦すほど陰惨な恨みを買った事件は扱っていないし
過去の事例からも、それらしい判決が出たとも聞いていない。
やはり今回の銃密輸事件への関与から、青島本人を狙ったものだと思えそうだった。
その上でのこの現場状況は青島への疑いを高めるものでしかない。疑われても仕方がなかった。
そう見せることが、犯人の狙いか。
だが、それにしても。
凍ってしまった場を取り持つように一倉がバルコニーから乗り出し、鉛色の雪雲を見上げた。
都会のネオンを反射し所々群青色に染まる。
小糠雨は辺りを芯から冷え込ませ、逃走者の痕跡を全て押し流すかのように雨脚を強める。
押し黙ってしまった室井を暫く見ていた新城が、一つ大きく息を吸うと、仕切り直しをするように口調を変えた。
「室井さん・・・お耳に入れておきたいことが。これは念頭におくべきことだと思われます」
「なんだ」
新城が一倉に視線を走らせる。
その視線に何か邪悪なものが室井の背筋を這った。
「何か・・・知っていたのか」
「・・・・」
不審な眼差しを送る室井を置き去りに、新城はたっぷりと間を取った後、自分だけの推理だと前置きしてから口を開いた。
「実は・・・確証はありませんが、私も本当の所、貴方ではなく青島個人を狙ったものではないかと考えています」
「そう・・か」
「このタイミングです。そう考える方が自然でしょう」
「例の密輸絡みでいいんだな」
「はい。その上で青島自身への疑いは、病院襲撃の頃から考えていました」
「根拠は」
「関係者宅への不審人物が度々目撃されていること、本部内での不審な動きなどからの内通者の存在可能性が高いということの二点」
「・・・・・」
「それらは青島へ報復に来たとも取れる一方、仲間である青島を取り戻しに来たとも取れた」
「・・・それで」
「ならばいつ隠れ家を見つけたのか」
「――」
「青島の隠れ家を探っていた人間が、この間の家出騒ぎで、この居所を突き止めた可能性は極めて高い」
グッと室井の息が喘ぐように詰まる。
腕を組んで新城の推論を冷静に聞いていた室井だが、ピクリと眉を痙攣させた。
僅かな失態だったあの夜を追求されることになると、室井の恐怖は自責へと向かう。
「確かに道理は通るが、あんな悪天候のほんの数時間だぞ」
「張っている者にとっては絶好のチャンスだった」
「入り待ちしていたっていうのか」
「私ならそう考えますね」
「しかし」
「問題は、何故その時を狙わなかったのかということです」
ここまでバルコニーに肘を付いて黙って聞いていた一倉が、振り返って相槌を打った。
「一旦泳がせたってことか」
新城も大きく頷く。
泳がせる意味がどこにあるのか。
大きな闇が背後で蠢く不協和音が、油断をしていた心の隙間に入り込んでくるのが分かる。
一倉に視線だけで同意を示すと、室井もまた声を低くして、瞼を落とした。
「で、どう推理した」
「全ては偶然だったのか、と」
「?」
「あの夜、どうして貴方が青島が見つけられたのか。覚えておいでですか」
「――」
「そもそもこの事件の発端は一人の人物の一存で開始した。本部から後退させた後は大人しくしていたようですが、それは本当か。そしてあの雪夜の遭遇」
「まさか、内部犯というのは」
「私もそこまでは想定外でした。ずっと本部の混乱狙いだとばかり思っていましたから」
新城が沈痛な色を消さずに顔面を蒼白にさせ、大きく頷いた。
いつものキャリア同士の出世争い程度に思っていた動きは、個人では限界があるだろうと、受け流していた。
このタイミングで青島が消えたことで、事態は新たな可能性を浮上させる。
もし、青島が犯行の協力者で共に逃亡したというのなら、まだ救いがあった。
「事態は思ったより深刻だったのかもしれません。捕まえずに泳がせて、ここの居場所を特定し、時期を待って攫いにきた――というあたりが妥当かと」
「!」
「或いは潜伏先が不透明だったため、協力者を炙り、確実に仕留めるため」
「つまり!」
「そうすることで警察から一番目を外させることが出来る人物。・・・・それは」
捜査本部に影響が与えられる者。警察の動きを知れる者。逃走した青島を見つけられる者。
全てのベクトルが只一人の男を指していた。
歯を食いしばり、頬を強張らせる室井の横で、一倉が苦しげに喉を唸らせた。
「一旦泳がせたのは此処を特定するためか。あの日は本部がどこまで動いているかも判然としなかっただろうしな」
「必ず追手が迫るあの夜よりも、確実に追うことが出来ない後日の方が賢明だ」
「あの日二人が何を話したのか聞いてませんか。恐らく青島が潜りそうな場所を巧みに聞き出していたに違いない」
「となると単独犯じゃない可能性も出てきたなぁ」
「ええ」
二人の推理が組み立てられていく中で、反論の余地が薄くなっていく戦況は、それがほぼ事実だという予見性を高めた。
絶望に追い込まれたまま室井の両拳はただ堅く結ばれていた。
状況に嘆きはあってもそれを表に出すことは捜査官として赦されない。
冷たい大気が思考を辛うじて冷静にさせる。
「だが・・・・、桶永の目的が掴めない。青島に用があるなら他に方法はあるだろう」
「今の時点で姫に直接的なコンタクトは誰も取れないだろ」
「そんな切迫した状況なら人を介すことだって出来ただろうと言っているんだ」
「個人じゃない・・・、桶永は本部の動きを探っていたんじゃないか?」
「なんのために」
「用があるのは青島個人じゃなくて、別にあったとしたら」
「・・・情報か」
「青島が持つ情報を欲しがるということ」
「それはつまり・・・」
ごくりと室井の喉が鳴る。
「桶永こそが事件関係者・・・・」
一倉が確信を得たかのように低く言葉を地に這わせる。
木枯らしのような音を立てて階下の街路樹がざわざわと喚いた。
突如現れた思わぬ矛先に、まるでノーマークだった無防備さが衝撃をより辛酸なものとして暴露させる。
「まさか・・・!幾らなんでもそれは飛躍しすぎだ」
「だが他に理由が見当たらない」
「桶永が本部復帰を狙って手柄を横取りしようとした可能性だってあるだろう」
「だとしたら青島はその内紛に巻き込まれた、か・・・」
「その辺が少々奇妙なんですよ、室井さん」
新城が言葉を挟み、一倉と室井の低い囁き声でのやり取りが停止する。
「一倉さんに頼んで調べて貰っていたのですが、桶永はここ最近大きな事件に関わってはいませんでした。側近の者に聞いても何をやっているのか定かではな
い。数日前からは欠勤している」
「・・・どういうことだ」
「個人で何かやっていたとの噂も。特に補佐として関わった本部はどれも東京郊外、つまりあの地区絡みに偏っているのも不自然だ」
「キャリアだぞ、デメリットの方が大きい」
「それともう一点」
緩く首を振り、信じ難い状況に動揺する室井に、新城が更なる視線を向けた。
「では何故今夜だったのか」
「え?」
「そもそも我々が今夜ここに来たのは偶然だ。その偶然はたまたま研修会がキャンセルされたからによる偶発的なものだ。それを知っている者は限られている」
「!」
目を見開いた室井の横で、一倉が息を潜めた。
「そうだ、急遽延期になったから此処へ来れた。だがもし研修会が予定通り開かれていたら・・・」
「ええ、発見はもっと遅れたでしょうね」
「あんなチンケな研修会があると知っていて今夜を狙えたっていうんなら、警察関係者、しかもキャリアの関与が濃厚だ」
「・・・・だから、青島の事件関与を最初に聞いたのか・・・」
「二人が共謀して本部を欺いたのであれば、こちらとしても対応を考えねばならない。そこに事件を解くカギがあることにもなる」
「そんな・・・ばかな・・・・」
虚しく反論を零すが、何の確証も抱けない現状では、それを覆すだけの根拠は浮かばなかった。
ようやく新城が不躾に青島を疑うような質問を重ねた主旨が室井にも理解できてくる。
ここまで状況が揃っているとなると、確かに根幹から本部方針も揺らぐ。
そもそも潜入捜査が単独で強行されたという所から可笑しな話だった。
二名行動が原則の捜査に、そんなワンマンで上に睨まれるようなリスクを犯す意義も見当たらない。
成績が欲しかったのだとしても、乱暴すぎる。
となれば、送り込む捜査員と犯人グループを接触させるのが目的だったと捕えられるのもまた、当然の推理だった。
だが、と、室井は下唇を噛む。
あんなに傍でにこやかに笑っていたのに、裏で桶永と繋がっていた?
いつか室井を含めた本部を欺こうとして時期を待っていた?
夜を怯え、一人にしないでと縋り、甘えるように拗ねて。
その裏で、室井を騙す方法を考える余裕すらあったということなのか。
到底信じられないことだった。
「もう一度よく思い出して下さい。捜査の進展に関わることです、室井さん。・・・・本当に青島に不審な所は感じ取れませんでしたか」
「・・・・」
室井は即答出来なかった。
青島のカメレオンみたいにステージごとで変わる表情が脳裏を巡る。
捕え所のない眩しい魂は、見る者の・・・室井の目をいつも鮮やかに釘づけにした。
室井が出かける時は妙に嬉しそうだった。
外出している間は、日々部屋の中で何かを探していた。
裏切られていたのだろうか。
あんなに甘い香りを放ち、人を魅了する裏で。
「それだけではありません。大変申し上げ難いことなのですが・・・桶永はあの夜、青島に口接していたと」
「!!」
悲痛な面持ちで室井が瞠目する。
「細川が見つけた時、二人は人目を憚るように路地裏で睦み合っていたそうです」
「何故・・・言わなかった・・・」
「動揺させることが目的ではなかったからです。・・・すみません」
「だが・・・だが・・・・、どういうことだ・・・・?」
室井の声は凍えるかのように震えていたが、それが寒さのせいではないことは傍目にも分かった。
言葉を告げるのに躊躇いを見せ、新城は一旦口を閉じた。
代わりに一倉がコートのポケットに両手を差し込み、顎を上げた。
「奴が青島に執着する理由も、何だか怪しげになってきたな」
「青島の持つ情報目当てだとしても、向こうは相当焦っていると取れる」
「青島自身が警察をスパイしていた可能性を否定するならな」
「・・・まだ決まった訳じゃないですがね」
「事件体質なお姫様だろう?充分だよ」
一倉の突き放すような言葉は、だが、その表情が同情に歪んでいる。
室井がどんなに青島に狂信し委ねてきたかを傍で見てきたからこそ、この裏切りは破壊的なものであろうことは一倉には察しが付いた。
裏切られ、失われた室井の心境に同調し、信じる者を疑う者へと変化せざるを得ない現状を憂いた。
一倉と新城が益体ない言葉を続ける中で、室井は一言も発さなかった。
目を瞑り眉間をただ険しく寄せていた。
室井の拳は堅く握られ、震えているようにすら見えた。
痛ましくも見える打ちひしがれた姿に、掛ける言葉は何も浮かばなかった。
少し伺うように見ていた新城は、恐る恐る室井に問い掛ける。
「大丈夫ですか」
「・・・新城。・・・悪かったな。お前一人に押し付けて」
なんとか室井がそれだけを言う。
鎮痛に青白く、凍え始めた薄い口唇を噛む室井の姿は、それだけで同情を買うような強がりが見えた。
だが、玲瓏な背中がそれを由とはしない。
始まりからして最悪だった二人が時間を掛けて少しずつ蟠りを融かし、互いを認め合い高め合い
互いを慕い合う力がやがて共鳴を生んだ。
時が二人を引き離しても、運命の如く引き寄せられ、三年の月日を越えて今やっと正面から向き合って、これから始まれる筈だった。
その矢先、全てが消え失せた。
それで平静でいられる人間はいない。
それでもこの人は耐えるのか。
ゾクリとして、新城の声がらしくなく細く震えた。
「捜査はこれからになりますが」
「・・・ああ」
「どう解釈なさいますか、室井さん。ご決断を」
新城の言葉に珍しく気遣いを感じ、余程酷い顔をしているのだろうと室井は自嘲する。
これまで多くの被害者と対面してきた。
捜査の過程では事情聴取と言う建前で、事件解決のためにそれこそ何でもしてきた。
解決を導くことが何よりの供養になるという建前もまた、一部では本音だった。
だがその大半は、成果を上げたい利己的な部分であったことを、今ここにきて実感する。
捜査に協力しない人間を、煩わしくさえ思った。
強引な取り調べで、感情など蔑ろにした。
「仕切り直す。が、私はそれでも青島を信じる」
「・・・良いのですか」
「裏切られても、か?・・・違う、そんな刹那的な判断ではない。冷静な客観的判断だ。青島が我々警察を裏切る筈がない」
「根拠は」
「根拠など幾らでもある。本部は青島救出を最優先に指揮を取れ」
初めて青島と関わった、被害女性への対応の違いを、何となく室井は思い描いていた。
時間外まで被害者を気にする姿勢が煩わしくさえあった。
大切な者を奪われた人間の痛みが、自己投影し、室井を貫いていく。
足元から崩れ落ちそうだった。
そんなつもりじゃなかったんだ。幾ら言い訳しても届かない。これは散々人を貶めた報いなのか。
非論理的な悲観論まで心を支配する。心が過去への懺悔で蝕まれていく。
そうならないよう鍛錬されてきたキャリア精神も、今は役に立ちそうもない。
誰にともなく謝罪をし、跪き、赦しを乞いたかった。
どうか願う只一つの存在を戻してと叫びたかった。
「全ての責任は私が取る」
室井は奥歯を噛み締めて声を絞り出した。
苦みにも痛みにも似た鋭い棘が胸に幾つも幾つも突き刺さってくる。
まるで今夜の雨のように痛みを底に浸み渡らせる。
拳を血が滲むほど強く、鼓舞するが如く握り締める。
「本部を立て直すぞ・・・!」
「・・!」
威厳を込めて解き放った室井の言葉に、新城も一倉も、言葉を挟めなかった。
ひときわ光彩を放ち、高貴な輪郭を描く室井の背中に、新城の背筋には鳥肌が立つ。
悲痛な心を抱えたまま均衡を保ち続ける室井の精神力に新城は改めて感嘆した。
室井と青島の繋がりを粉砕することは目的ではなかった。
だからこそ、新城が想いを告げたことで、室井と青島の運命が変わってしまったんじゃないのか。
それだけが気掛かりとなっていた。
だけどそんなものさえ室井は越えて行く。
赦してくれるだろうか。
貴方を想って生きる日々を。
貴方を愛して眠る夜を。
「すまない、新城。私は」
「・・・・いいですよ、もう」
済まなそうに新城を見て、言葉少なに語る室井に、新城は不覚にも胸が詰まった。
それでも捧げる室井の心情に、圧倒的な敗北感が押し寄せる。
ああ、まただ。そう思って新城は口端を少し持ち上げて見せた。
強がりだった。
「気休めに聞こえるでしょうが、細川の見立てでは、桶永の方が青島に無理矢理口付けているように見えたそうですけどね・・・」
「そう・・か」
強張った頬を意識して動かし、室井はそれだけを呟いた。
そんなことは今更どうでも良いことだった。
あの甘い口唇に触れた男が他に居るというだけで充分罪深い。
頭の中は青島のことでいっぱいだった。
青島に口付けた時の顔を思い出す。
頬を朱に咲かす向こうで、何かとても辛そうだった。
〝俺に触れちゃだめです〟
あれはこういう意味だったのか。
なんということだろう。
あの連れ戻した夜、青島は〝もう駄目になっちゃった〟と言っていた。戻りたくても戻れないのだと。
それを強引に連れ戻したが、その後も青島はどこか室井を見上げる目は辛そうな色を乗せていた。
今やっと合点がいく。
なんてことをしてしまったんだろうか。
何も知らないで同じ口付けを施した。青島にとっては消したい記憶の烙印だったろう。何より辛い刻印の筈だった。
なのに自分の欲望に負けて、青島にそれを強要した。
重ねる口唇は震えていた。
いつもそうだ。室井の身勝手で青島を傷つけてばかりきた。
変わらない。
何も自分は変わっていない。
それでも尚、手放せないと飢えを叫ぶ心がある。
どこまで自分は貪欲なのだろう。
「まず捜査員は更に限界まで減らして厳選し治せ。理由なんかなんでもいい。桶永と繋がりのある者は全員から事情聴取だ。こちらの事情を悟られるな」
「はい」
「それからここの所轄に今日の午前中の目撃情報を当たらせろ」
「了解しました」
「桶永の件は一倉に頼む。居所を探れ。一刻も早く探し出すんだ」
一倉も覇気の戻った顔で頷いた。
消えない傷を心にも身体にも負った青島を想って一倉は『どうか無事でいてくれ』と無駄な慰めを祈った。
冬の雨が無情に人々の上に叩きつけていた夜だった。

一度このベタなシチュやってみたかった・・・(笑)室井さんの「責任は私が取る」は必殺文
句。