東京変奏曲2season Ⅰ
第二章
1.
本庁正面玄関の石畳の上で、黒い塊の中にここ数カ月でやけに見慣れた顔を見つけ、新城は通り過ぎようとしていた足を止めた。
その影に気付き、室井の視線が一度だけ新城を捕える。
そのまま石階段の下で新城が気まずいまま立ちあぐねていると、やがて用を終えた影が掃け、室井もまた一人そこに残った。
顔だけ新城の方に向ける。
「時間取れるか」
「私もお話したいことがあります」
場所を移動するため、表通りを渡る。歩道橋先の小さな公園を選び、足を向けながら視線で許可を願った。
新城の先導に室井は異論を唱えることはなかった。
アスファルトを鳴らす都会のノイズの合間に、ここから先、口に出すことが人には聞かせたくない類の話題であることを
潜在的に炙り上がらせる。
「・・・すみません、庁内で出来る話ではないので」
「分かっている」
「何か飲みますか」
「いや、いい」
公園には誰もいなかった。
本庁に近いこともあってよく利用されるが、四方が開けているので潜んで盗み聞きするなどということはし難い場所だ。
薄く雲の広がる冬空が、柔らかな光の粒を乱反射させている。
その一番奥の池の前まで来て、二人は向かい合った。
「御用件は」
「――、そっちの話とは何だ」
新城が単刀直入に切り出すと、逆に室井は息を殺し、話の詰めを先送りにする素振りを見せた。
この期に及んで態度を決めかねる室井に、つまりは告げようとしているのは言いにくいことだと察し、新城の身体が僅かに衝撃に備える。
同じく自分もその話題を避けたがっていたことを、身体の緊張が脳に伝達する。
滑稽だと思った。
そのくらいのことで今更自分は青二才のように動揺している。
変わらずの室井の甘さにも内心嘲笑った。
それが室井の最後の瑕疵であり、捨てきれない炎の火種でもあるが、今は同調してやれない。
視線を反らしたら負けという勝負のように、二人は睨み合い、沈黙が続いた。
「かっこ悪いな・・・」
「いえ・・・」
だが、ややしてその沈黙を破ったのは室井だった。
潔く敗北を認める雅量に、逆に新城の方が負けた気になる。
軽く薄い口端を自嘲気味に持ち上げた。
いつもこうだ。
敗北感も今更だった。
どんなにエリートコースで先手を打っても、キャリアの高さを見せ付けても
室井はいつも新城の思いもよらぬ所で深い敗北感を齎してくる。
他の人間にそうは見えないだろうが、コースから外れても消えない雄姿や、時さえ味方につける天賦、絶対値の信頼を湛える理解者――
危うい戦場だからこそ新城から見た踏み越えてくる室井の立場は、物羨はなくとも嫉視は多い。
往生際悪く結実を拒んできた自分と違い、室井はもう決意してしまっている今だってそうだ。
負荷を抱えているかと思えば、いつの間にか一足飛びに先へ行って見せる。
室井は足元に視線を落とし、彷徨わせることなく一点を見据えた。
一旦目を瞑り、息を吸った。
時の満潮を感じ、新城は思考を閉ざした。
「分かっていると思う。この間の夜の件だ」
「――」
室井がしっかりと新城を見据える。
もう室井の眼に迷いはなかった。
「世話になった」
「その件につきましては礼には及びません。私の仕事です」
呼吸を乱したことを悟られたくなくて、新城は身体をずらし、池を見る。
冬の閑散とした季節だ。鳥一羽いない。枯木が集結した隙間から木漏れ日が散乱し、幾筋もの光の筋がカーテンのように続く。
先日の雪の名残が木々を飾り、時折葉を叩いた。
「今更答えの分かりきっていることをわざわざ告げに来ずとも」
「いずれ改めてと言った」
「律儀ですね」
「こちらのケジメだ。先に進みたい」
「姫君と?」
「――、あの夜のことは色々迷惑をかけた。助かったし目的も達成できた。何より冷静になれた。――感謝する」
「・・・・」
「もっと早くに礼を言うべきだった。遅くなった」
その礼が電話の助言を指すのか、同居の誘導を指すのかは、室井は悟らせなかった。
「私は貴方を冷静にさせる存在なんですね。解放と情熱に向かわせる姫と違って」
「・・・、だから意味もあるんだろう」
「・・・・」
「キャリアに必要な関係性だ。・・・君が、この先を望んでくれるのならば、だが」
新城の口の中に苦みが広がる。
俯いた頬を冷たい風が叩きつけた。
「無知は残酷だと申し上げた筈ですが。変わりませんね」
「そうでもない。気付いていてもどうしてもやれないことなど山ほどある」
感情など億尾にも出さず静かに重ねられるその言葉には、変化を拒む未来を甘んじて受け止める寛容があり
なにやら重たいものを感じ、それが強烈な既視感を呼ぶ。
視線で生温い融合を続ける室井を咎めながら、室井が苦渋を呑み込んでいる様子を目に焼き付けた。
批難の視線に室井が少しだけ戸惑いの色を浮かべる。
その怯まぬ新城の視線が促しとなり、室井が薄い口唇を開いた。
「新城。・・・私は君の気持ちに正面から応えることはできない。・・・すまない」
「・・・」
ようやく告げられた言葉を、新城はただ黙って受け止めた。
瞬きひとつせず、空気をそよがせることもなく、その全身の細胞に幾分の隙間なく浸み渡らせるように怺えた。
いざ決着の時を迎え、今更のように自覚する。
決断を迫るということは、万事の終わりを意味するのだ。
じっと瞳の奥を探り合うように見つめ合った。
知らぬふりをして演じ合うこともまた、大人には必要なスキルで
それは場を護ることでも相手を敬うことでもある。
無情な優しさでこの世は仮初めの建前を構成している。
取り乱す心とは裏腹に、スーツの裾を揺らす風が足元を凍えさせ、手指もまた強張らせた。
どうにもならないことを駄々を捏ねるのは子供と同じなのに、衝撃に耐えられぬ心は大人になって防御だけを学んでいく。
「・・・姫と・・・?」
小さく新城が独り言のように呟けば、室井は緩く首を振った。
「私はこの先の道を君と共に歩みたい」
「・・ッ」
「君の気持ちに応えるならば、私は傍にいられない。だが、応えられないからこそ、共にあれる」
「だから残酷だと――」
「承知の上だ」
鋭く新城の言葉を遮って、室井は深い闇色の瞳を向けた。
コートも羽織らぬ身体が冬の大気に晒される。
「私はあいつを手放せない。失くしたくないんだ。どんな形でも・・・・隣にいる未来を選びたい」
「そのために私まで利用するということですか」
「そう、捕えられても仕方がないだろうが」
俯き、室井が肩を小さく竦めた。
「君らしくないな。そういう言い回しをするとは」
「・・・・」
自分の発言の妙に新城も思い至り、少し頬を強張らせた。
確かにキャリアである以上、誰かを利用したり騙したりするのは日常茶飯事だった。
新城こそがそういう行動規範を由として実学主義に邁進してきた男である。
皮肉に返され、恋という不明瞭な毒が自身に深く浸みこんでいたのを感じた。
新城から漂う窮屈な気配に一度だけ視線を走らせると、一旦言葉を区切り、室井の虹彩が杳々たるものになる。
「すまない・・・批難したいわけじゃない」
「・・・いえ」
「君の言葉で私は満たされた。それもまた隠しようのない事実だ。落ち付けたのは君の言葉だったからだ。嬉しいんだと思う。そう思う以上、私の中にも僅かで
も同じ気持ちがある」
その視線に意気地がないのは自分の方だと新城は思った。そして出来るなら、その視線はもっと別の意味で向けられ、縛り付けられてみたかった。
感謝など告げられても、惨めになるだけだった。
室井の闇色の眼が吸い込まれそうに黒々と光る。
自分より苦しそうな室井に、新城は息詰まり、それ以上の糾弾が無意味と判断する。
手酷い仕打ちをされているというのに、惚れた弱味は確かに人を堕落させる。
一歩、池の方へと出た。
柵に肘を付き、水面を瞳に映す。
「姫君には告げたのですか」
「いや――、」
「まさかこの期に及んでまた逃げたのですか」
「違う――」
どこまでこの男は青島に弱いのか。
擦り傷一つ付けたくない室井の甘ったるい愛し方は、酷く意外だった。
室井は普段からその玲瓏な風貌と口数の少なさから、狷介な堅い印象を与えがちだ。
その胸の内に秘める熱い滾りを知る者はそう多くない。
だが、一点に直向きな情熱は情事になるとこんなにも底抜けになるのか。
その観点からで言えば、対称的な室井と青島はそっくりだと思った。
「姫を本当に取り逃がしますよ。・・・後悔しているのですか」
「過去を悔むことと、もう一度仕切り直すことは、同列ではないだろう・・・・」
「・・・・」
「終わらせていくしかないんだろう、人は」
「捨てられるのですか、過去を」
「どれだけ惜しんだ所で、もうやり直すだけのエネルギーなんかない。人生を白紙に戻したってまた見誤らない自信もない。ましてあいつのいない世界なんて」
「見限られることを恐れているようじゃ確かにあの姫君に相応しくなくて当然ですね」
「待て、姫は・・・」
言い掛け、室井が変な顔をする。
「なぁ、その隠語、どうにかならないか」
「知りません。そこは一倉さんに言ってください」
「本人もすごく嫌がっていた・・・」
「でしょうね・・・」
〝――でだ。君のコードネームなんだが〟
〝ああ、内部犯を疑っているから〟
〝『おてんば姫』だ〟
〝〟~~ッッ、なにそれ!なにそれ!撤回撤回ッ!
〝って言ってもな・・・〟
〝柄じゃないでしょー!〟
〝仕方ないだろ、君は囚われの身なんだ〟
〝センスなさすぎですよ!いいオヤジが揃って!〟
〝・・・俺が付けたんじゃない・・・〟
〝だからって・・!ハズカシィよもぉっ!〟
カサカサと冬木立が鳴いていた。
枯れ葉も失せた地面に一陣の砂埃が渦を巻く。
水は澄んでいて、底まで見渡せた。
「――で。一生告げないおつもりですか」
「告げるだけ、あいつが苦しむ。これは所詮キャリアの問題だ」
「教科書みたいな答えなど期待していません。・・・言わないと何も伝わらないと学んだのでは?」
「そのことと告げることはまた別だ」
「貴方にとっては違っても言われる方にしてみれば同じことです」
「随分推すんだな」
「・・・・」
「君なら分かっている筈だ。閉鎖的な体制の中で生きる人間はリスクを犯せない。護れなくなる」
鼻息荒く、新城は肯定も否定もしなかった。
まるで過保護に怯えている指先は、愛情のそれ以外の何物でもない。
その有り余る熱を、室井ももう隠す気はないことが読み取れた。
頑是ない子供が無邪気に命を殺めている戯れに近い態度はまた覚えのある苦みでもある。
決定打を避ける大人の方が子供より始末に負えないかもしれない。
こんな質問は既に食傷気味なのは、室井も同じなのだろう。
大した動揺も見せずに、室井は横を向いて頬に風を受けていた。
一糸乱れぬ頭髪は丁寧に撫でつけられ、その鉄壁の屈強さを誇示する。
光る水面がその瞳に映る。
冷たい風が吹きつけてきて、痛みにも似た冷たさに、新城は顔を歪ませた。
良い歳をした中年の男が二人、時にタナトスの如く他人の生死を司る職に就きながら
それでもこんな高校生の青春のような甘酸っぱさと痛みを手に余らせている。
枯れた公園で枯れた男が二人、冗談のようだ。
「室井さん・・・一つ、お聞きしても宜しいですか」
「?」
許可を示すように、室井の片眉が持ち上がる。
「貴方は姫君が自由主義者だから愛したんですか」
「・・・・」
室井の眉間が深い皺を刻んで、少しだけ虹彩が光を射した。
誤魔化す気だと本能的に察した新城は、それは罪だと、先にゆっくりと首を振ってみせる。
僅かな逡巡の後、室井も諦めたように池の方を向き、いつになくラフにスラックスのポケットに両手を差し入れた。
新城も柵に肘を付いたまま、間合いを取るように前に視線を送る。
「男同士だぞ」
「そのハードルは私に言うにはもう不適切です」
透明な水に細波を立て風が通り過ぎていく。
「何も与えてやれない。奪うばかりで。・・・君が言うように相手として相応しくはないだろうな」
「随分と弱気ですね。あれだけの事をしでかしてきた仲なのに」
「今さっき、君が言ったんだ」
むくれたような言葉が形だけは酷く親密な関係を構成させる。
その錯覚に溶け込みそうになる。
「一度は終わらせることを決意した。赦されないことをしたと負い目があった。・・・あの夜だ。でもあいつはそんな私を赦すどころか受け止めてしまった」
「受け止める?」
「俺たちとはまったく違う解釈をしてくる。傷も勲章だなんて誇らしそうに言いやがって・・・」
「いい歳した大人が甘やかされ放題ですか」
「キツイな、でもその通りだ。私の身勝手で付き合わせている」
ジャリと皮靴が公園の砂を押し潰す。
「そこまで分かってて何故手を取らない」
「・・・だから、事はそんな簡単じゃないんだ」
「理想を築き上げるためにはこうするしかなかったなんて言わないでくださいよ」
「お前は――、私が姫の手を取ってもいいのか」
「ならば一倉さんでもなく貴方でもなく、私が姫の手を取りましょうか」
「冗談はよせ」
室井の戯け話の返しに、新城が喉で低く笑う。それは渇いた音となった。
喉の奥が焼けるように悲鳴を上げていた。
こんな乖離を求め、惚れ上げた訳ではなかった。
終わりにしたい。終わらせられたくない。
確かに今、室井は新城の隣にいた。物理的にではなく、この意味に於いてだけいえば、恐らくは青島よりも近しい存在だった。
不手際で告げた気持ちがこの事態を招いたのだとしたら、舌打ちしたいくらい狂おしい。
近付いてしまえば、受諾と久遠を心が望む。
だけど近しい距離は永久の平行線を示していた。
それでも感じる歓びは、一体何を起因としているのか。
「何でも一人で決めてしまうことが男らしさとは限らないとも申し上げた筈ですけどね」
「背負わせるわけにはいかないだろ、俺たちキャリアの闇まで」
ゆったりとした間を取った後、室井の小さな声音は霞んで空気に溶けた。
それはただ一人への愛情に満ちていた。
護るものができる弱さは、若者を一人の男へと成熟させる。
普段の彼とあまりにもギャップがありすぎて、これを熟したのが青島なのだと感覚で理解させられた。
遣る瀬無い色を乗せた室井の瞳が水面を反射して、新城はなんとも言えない切なさを胸に抱いた。
室井には届かない。
青島には敵わない。
魅せられて、煽られて、勝てないままに落とされた。
意思とは無関係の場所で主導権すらなく翻弄され、そして今また潮が満ち引きしていくように、通り過ぎていくのを
ただ指を加えて待つしか出来なかった。
恋とはこんなもどかしいものだっただろうか。
とうに覚悟は出来ていた筈だ。
こんなことに、いつまでもかかずらっていているわけにはいかない。
なのに見せ付けるだけ見せ付けて、嬲るだけ嬲って、その指先に触れてみたかった本音を嫌という程、前触れもなく刻印する。
後に残るのは、嫉妬に狂った女神に魅入られる哀れな男だ。
何かが傾いてしまっていて、それが日増しに益々傾いていく。
こんな恋しか出来ない。
――これを恋と呼ばせてくれるなら。
甘い吐息が思考を中断させ、新城は我に返った。
午後の傾いた陽射しの中で、やけに池が眩しく見える。
「新城・・・、私からも一ついいか」
「・・・どうぞ」
「いつ、私の気持ちに気付いた。――いや、私の気持ちが友情などではないと、どうして分かった」
日本では、性的マイノリティにおいての偏見は今尚根強く深刻な社会問題である。
通念では嫌悪感や否定的な嘲笑を抱く類の感情だ。
ましてやこの昔堅気の警察社会では、模範となる法令がない以上、理解は得難い。
人間として軽蔑する人もあれば、レース撤退への罪状として突き付けてくる者もいるだろう。
なのに、信じた挙句、やけにすんなりと受け入れてしまった新城の対応に、室井は今更ながらに違和感を抱いていた。
寄りによって、これまで一番衝突を繰り返してきた新城こそが、気付き認めているということが
室井にとっては飛躍しすぎた理解のような気がする。
新城はいっそ笑ったかのような軽い溜息を漏らして、下らないと肩を竦めた。
「駆け落ち同然に本庁を敵に回した男に、恋情以外の何を宛てはめろと言うんです」
「・・・仕事だ」
「私は仕事にそこまで賭けませんよ」
だからこそ青島に負けるのだろうと新城は思う。が、口には出さない。
「ならば何故、敵に塩を送るような真似をした」
怯まずに室井が畳み掛ける。
そんな二人を一つ屋根の下に放り込めば、距離が縮まることは目に見えていた。
なのに何故不利だと分かっている方法を選ばせ、甘い感情に油を注ぐような真似をしたのか。
そこに室井は新城の本音を見た。
「・・・仕事だからですよ」
僅かに掠れた力無い声で先程の室井と同じ答えを返されて、室井が閉口する。
「仕事ならそこまでしない」
「それに、隠れ家を選んだのは貴方自身だ」
「違うな、お前は分かっていた筈だ。あの騒動の中、姫を確実に匿う場所として私が確実性を上げるために選ぶ場所は限られていた。他に選択肢がないことを
知った上で私に託したんだ。・・そうだろ」
「・・・・」
「何故そんな真似をした」
「まさか、それが姫に告げられない理由ですか」
「新城、誤魔化さないでくれ」
ほんの僅かなアドリブだったのだとしても、新城のその献身的な気紛れは、本人に何のメリットも持たせない。
新城の手の平で都合良く想定通りの反応を返していく過程は、凡そ一人の男として腹立たしく受け容れ難かった。
それが男のプライドなのだとしても、それ以上に違和感が募った。
室井が不服な顔のままに眼光を強める。
「こんなお膳立てされて私が喜ぶと思うか。お前を追いやって私だけ良い思いをして良かったと思えると思うのか」
「それが恋というものでは?それとも私の言葉を信じてなかったのですか?」
「・・・・」
「貴方の愛する姫君のお好きな自己犠牲を否定しますか」
そんな方法しか選べなかった新城の想いが、皮肉の向こう側で恋情という顔を見せることで悲哀を帯びる。
室井は改めて新城の瞳の中に情念を見つけ、うろたえた。
信じていなかった訳ではない。
信じられなかったという方が正しいし、男同士で隠しもせずに堂々とした振る舞いに、戸惑ったと言う部分が大きい。
これまでの二人の付き合いを鑑みてもだ。
だが、改めて見せられたその瞳の深さに、新城もまた禁忌的な恋に苦しんでいたのだと察する。
「それで君は満足なのか」
「私にそんな気遣いをするなんて余裕ですね。あそこまで男に言わせて貴方も相当性質が悪い」
「・・ッ」
「ならば私の気持ちを受け容れる意思がおありなのだと期待しますが」
「揄わないでくれ。君は辛酸な結末さえ受け止めて先を見ている。まるでこっちが無能だと見せ付けられる・・・。不甲斐ないと思った。こっちは誤魔化してや
るだけで精いっぱいなのに」
同じ惰弱を同じように感じていることに、新城は何故だか少し可笑しく思った。
人の感覚なんて、そんなものかもしれない。
他人の芝生はいつも蒼いのだ。
「前言、撤回しますか」
「・・、そこに君がこの先も居てくることを望んでいる。そう言った筈だ」
声を強張らせ、室井は新城を瞳に映した。
揺るがない意思に、新城の眼が眇められる。
その時、その数多の感情を呑み込んだ色は、誰かに似ていると室井は思った。
そうして、そのことが室井の脳裏に一つの結論を導かせる。
「ああ、そうか。私に言わせて、君も去っていく算段か・・・」
「・・・だから、言いたくはなかったんですけどね・・・」
そういう所は気付くのか。
舌打ちしたい気分で新城は顔を背ける。
疲れたような室井の目元に漂う優しさが新城のギリギリの抑圧を簡単に蹴り上げた。
この堅牢な警察社会で、一度言ってしまった告白には、それなりの代償を伴う。
けじめとして、告白したこちらが身を治めることは、新城にとって当然の報いだった。
だからこそ、その無機質な結論が、だが室井の生温い情愛によって常識やモラルの境目を曖昧にさせる。
きっぱりと決裂を望まない室井に憎しみにも似た期待が燻る。
傍にいられる後ろ暗い歓びと、仄かな罪悪感が、新城の息を外気よりも冷たく凍えさせ、苦みが凌駕する。
そこまでこの想いは罰せられなければならないか。秘めているだけでも駄目なのか。
「なんでそんな自棄なことをするッ」
「だったら私を全部受け容れてみろ・・・ッ」
鋭く低く被せるように木霊しあった声は、どちらも切羽詰まった叫びとなった。
破裂したように空気が裂け、そして、辺りが一瞬にして静寂に包まれた。
何故室井はこうまで人に甘いのか。
中途半端に救いを残す結末が、果たして誰のための救済になるのかも分からず
恋の迷宮はいつの時代も爛れた頭の片隅で思考を散漫とさせる。
それはまるで麻薬のようだった。
或いはまた、室井はこういう犠牲的献身に過敏なのかもしれない。
「なんで・・・私なんだ・・・」
「・・・・」
苦し紛れに室井が言葉を繋げる。
動揺した視線を辺りに彷徨わせ、行き所を見つけられず、最終的に足元に落とした。
新城にそんな結末を呼ぶようなことしかさせてやれなかったのは他でもない室井だ。
それは室井には分かっていてもどうしてやることも出来ない。
もっと早くに知っていたって、たった一人を残酷に求める恋のフィールドでは、受け止めてやることも、告げさせてやることも出来やしない。
告げられない想いの痛みは、何より室井が一番知っていた。
恋は相手を選ばず身勝手な憶測のままに暴走し、歳を取るほど未成熟の果実しか与えない。
「貴方がたが形式に拘っている方が意外ですよ。・・・でも安心しましたが」
「言ってくれる・・・、」
「分かり易い男だ・・・、それも姫のためでしょう?」
「――」
「貴方がお行儀良く階段を上ることが姫君の願い・・・いえ、野望だ。でも貴方が約束を果たした暁には隣に姫君はいませんね」
しんとした空気が耳鳴りに近い音を奏でさせた。
鋭く告げる言葉の尖りに、空気が震撼する。
生き物の気配の無い公園は、まるでここだけが世界から剥ぎ取られたように孤独だった。
必要以上の心許ない空間が、一方で多情な甘えを逆立てる。
「君の方が消えそうだ」
「自分の身の振り方くらい、自分で決められる。常識ない姫と一緒にしないでください」
「だが同じキャリアだぞ。消えるったって、どこへ行くつもりだ。まさか警察を辞めるとまで言うつもりか」
「・・・さぁ・・・どうでしょう・・・・」
ふぅと、室井が大きな溜息を吐く。
その結論はまた、室井も当然想定内であるのだろう。
同じことを堂々巡りに考えた筈だ。
妙に気怠い空気は、同じ波長をお互いに感じさえ、奇妙な認識を共有させた。
じっと室井を見る。
憂いを帯びた横顔は精悍な男の輪郭で、綺麗な男だと思った。
思っていた以上に自分はこの美しい男に魅せられ虜にさせられてしまっていたことに今更ながらに気付かされる。
いつの間にか拠り所にしていた。
小さな理性なんかでは到底太刀打ちできない所までもうとっくに呑み込まれていて
深い谷底に突き落とされるくらい後戻りできないところまで連れて来られている。
淫らな欲望まで鮮明に描かれ、その爛れた思考に息が詰まる。
「何故分かったのか。さっき、そう言いましたね。当然でしょう?・・・同じ気持ちは同じ目線に気付く」
「君も・・・・相当馬鹿だ」
「・・・・失くしてから気づいたって遅いとも、申し上げましたよ」
かつての交際女性は皆簡単で、テーブルの向こうで微笑むだけだった。
願えば足すら淫らに開いて見せた。
恥知らずの恋の駆け引きは、旨味を引き出す前に未練すら与えず消えていった。
だが、恋の本質というものを何も悟らせない男が、その本質を広げてみせる。
ここまでの翻弄をされたことなどない。
その慣れぬ感覚に、新城は恋など随分としていなく、そして、失恋というステップもまた恋の一部で
その心構えすら出来ていなかったことを思い知る。
恥知らずは一体どちらなのか。
だからこそ、まるで新城をこの狭い世界の同胞者であるかのように扱う室井に、苛立ちと歓びという相反する感情が鬩ぎ合い
それが心の行き場を失わせた。
断ち切って欲しかったのに繋がっていく道のりは、それでも後ろ暗い歓びを仄かに齎しながら、容赦なく奥底から抉ってくる。
苦しかった。ただ切なかった。
「新城、ひとつだけ」
「はい・・・?」
「君は少し――姫を誤解している」
「誤解?今更何の誤解が発生すると」
「将来だけでいいのか」
「え?」
「悪いが君が思うより私は欲張りのようだ。不確かな未来だけで満足するほど、もう温湯に浸かっている気はない」
「・・・・」
「うちのおてんば姫はな、飛び込んでくるぞ。危険だと分かっていても、突き放したって向かってくる。・・・だから困る」
虚を付かれ、新城の目が丸く瞠目する。
室井の目尻に優しい皺が寄り、遠くを見る目付きは、誰を浮かべているのか問うまでもなかった。
「だったらもう手を取るのと変わりないでしょう?何を迷うんですか」
「きっと、姫は手なんか取ってくれない。我々キャリアなど、馬鹿にされて終わりだ」
「信用ないんですね」
「信用という代名詞を用いるなら――、きっと姫は私のために手を取ってくれない。なのに無茶をする。だからこの曖昧な関係を維持することが一番の近道なん
だ」
呆れた。何もかも欲しいだなんて、青臭い欲望を未だに抱けるなんて。
そんなのまるで恋に恋する乙女のようだ。
強欲で、無遠慮で、けれどひたむきに。
それでも室井はずっと青島の本質を見ているのかもしれない。
青島もまた、室井しか見ていなかった。同じ全霊を齎す強さで。
あの日の電話で彼が懸念するのは室井のことばかりで、それも室井の性格を熟知している口ぶりだった。
恋は、人を身勝手な生き物に腐敗させていく。
こんなにも見苦しさと醜さを直視させる。
恐れずぶつかって見せる青島の眩しさに目を閉じる。
自分たちは行儀良すぎたのではないだろうか。
持て余すほど熱い激情を臆せず見せてくるあの男を見ていると、常識とか社会とか、傲慢や欲望も
色んなものを踏まえた上での、その先の世界が微かに見える。
恐らく躊躇いという言葉はない。
あの男なら、こんな状況でも何かしらの答を導き出してくるのだろうか。
遣り切れない気分だけが粘性を高めて黒く澱み、圧し掛かっていた。
「なあ、新城。人を大事にするって、どうすればいいんだろうな・・・この先も傍にいるために、私はまだ何を犠牲にしていくんだろう・・・」
弱気な室井に、新城の瞳も遠くを映す。
この歳になって、そんなシンプルなことを疑問に思うような人生になるとは思わなかった。
歳を重ねるごとに、恋は甘味を失い、苦みと酸だけを抽出する。
恋を抱く相手にその弱音を見せるなど、狡いなと思う。
だが同じ寂寞を抱いているのはもう明白だった。
瞼の奥から痛みを発し、胸が悲鳴を上げていた。
それはまるで、遠き日にどうにもならないことに喚いた幼い少年のもどかしさに似ている。
緩みきった夢幻を求める室井に同調させられ追い詰められ、それでも平静を装おうとした頭で飛び出た言葉はいっそ苦情のようなものとなった。
「いっそ玉砕してしまえばいいと申し上げた筈ですが。そうすれば解放されます」
お互いにという言葉を辛うじて呑み込む。
「冒険しろと?手を取ってくれないことを分かっていてか。成果主義のお前が」
「ケジメにしたいのはお互い様なんですよ」
「強いんだな・・・」
新城は忌々しげにチッと地面に吐き捨てる。
何気ない一言だと思っているのだ。室井は新城の真意には気付かない。
「告げてみればいい。嘲りで終わるならそれまでの仲だ」
「・・・・」
「丁度良い目覚めになる。まるで貴方は百年の恋が醒めることを恐れているかのようだ」
青島が大切なのか。
青島に与えられた安寧した自分が怖いのか。
「姫にも同じことを言われたな・・・」
一拍のあと、室井がぎこちなく笑う。
〝俺を綺麗なだけの過去にしている間はいいけど、そんなのいつかは化石になっちゃうんですよ〟
大人になると、もっと恋は上手になるのだと思っていた。
実際は、下らない鎖が多くなって、不器用になるばかりで、重さだけが蓄積していく。
「想いを伝えることと、共にあることを一緒にするから迷宮になる。別だと言っておきながら一緒にしているのは貴方だ」
「そうか・・・」
「貴方くらいしつこければ、振られた所で何が変わるわけではない気がしてきました」
不服そうな色を瞳に湛えていた室井はやがて、ほんのりと瞼を伏せた。
喜んでいるのだということだけは分かった。
そんな顔を見せてくれるのならば、このポジションをまた捨てきれなくなる。
自分も相当愚かだと新城もまた瞼を伏せた。
***
「それで、お前の話は」
「ああ。実はお時間を取って頂きたい」
「今じゃ駄目なのか」
「ええ、姫と三人で。二人に揃って話しておきたいことです。なるべく早めに」
「姫も?事件のことか。何か分かったのか?」
「それもその時に」
「そうか、いいだろう。なら・・・」
不思議そうな色を湛えるが、室井はそれ以上の追及をしようとはしなかった。
少し空を見て考える素振りをし、何かに気付いたように目を向ける。
「・・・ああ、明日はどうだろうか。予定していた研修会が急きょ先方の都合で延期になっている」
「そうなんですか?」
「まだ参加者にしかメールで伝えられていないが・・・・近日中に掲示板に貼られるんじゃないか?」
「了解しました。じゃあ明日の帰りに」
「場所は当然うちになるか」
「ええ、姫を連れだせませんから。申し訳ないですが」
「いや、いい」
「・・・ああ、それと、目を通して頂きたい資料もあるので、この後私の部屋へ寄って貰えますか」
目視で承諾を返し、本庁へと引き返す。
行きと違い、並んで本庁へと足取りは、幾分か軽くなるかと思ったのに重さを増やしただけとなった。
雲行きが怪しくなってきた空の灰色が、日没の早いこの時期の東京を予定よりも早く薄暗くさせ、気配を圧迫する。
道すがら、やはり会話は無かった。
追いこしていく車のタイヤがやけにノイズがかって聞こえていた。
部屋に入り、新城が足早に分厚いレポートとUSBを引き出しから用意する。
室井が視線を部屋にさり気なく這わせば、新城の性格通り部屋は質素で色味もなかった。
きちんと整理された部屋は、だが生活臭がまるでない。
あまりここを利用せず、外を出回っていることを窺わせた。
「この中に全て入っていますので。資料は先日の報告書なのですが、ちょっと目を通して頂きたいものです」
「そうか」
受け取った資料を持って室井が退席する。
新城が静かにその瞳を室井の背中に向けた。
こうやって背中を見つめるのはこれで最後なのだろう。日が明ければ、今宵の邂逅は霧と消える。
男同士の末路など、霧のようなものだ。
コツコツと床を鳴らす音が秒針と共にリズムを刻む。
扉まで来て、室井がドアノブに手を掛けたまま動作を止めた。
「失礼する。・・・新城」
「・・・はい」
少しだけ口籠り、頬を強張らせた室井は、眉間の皺を深め、視線を壁へと向けた。
「あのな、それでも私は必要なものをみすみす手放すのもまた愚かだと思っている。少し貪欲にならなきゃキャリアは務まらないんだろう」
「・・・・」
「言いたいことはそれだけだ」
室井が顔を背け、ドアノブを回す。
「・・・お手間を、取らせました・・・」
「とりあえず、コードネームの変更だけは要求する」
肩越しにそれだけ言って、室井は扉を閉めた。
音も立てずに扉が閉ざされる。
後ろ手でノブを握ったまま、室井はそっと重たい息を吐いた。
背中を押し付けて、天上を向いた。
無闇な優しさは酷だと分かっていた。
終わらせてやるべきだっただろうか。
それでも一人で終わりにしていこうとする新城がまるで自分に見えて、引き留めずにはいられなかった。
零れ落ちていく雫を掬うように、誰にも気付かれず終わっていくなんて、そんなことさせられない。
男の恋など、そんな悲しいものでしかない。
その甘さが、新城を、そして青島をも苦しめることになるとは、分からないわけではなかった。
こうするしかなかった。
それは自分に対する言い訳でしかないことが、また重い苦みを残した。
閉じられた扉に向かい、新城はそこに額を押し付けた。
これで終わったのだ。自分の長い恋煩いが散り散りに砕け散る。
硝子の破片のように胸に棘が幾つも突き刺さっていた。
言わずに大事に抱える室井が羨ましかった。
そこまで想われている青島が妬ましかった。
人の想いが人を歪ませていく。
久しく感じた事の無かった瑞々しい痛みのままに、同胞者であるのならいっそここまで落ちてきてくれれば良いと願う自分を
もう無視できない。
嫌だ、いかないでくれ。傍で触れてみたかった。一度でいいから抱き締めて、抱き合って、そして。
未練のままに告げていたら、それでも何かが変わっただろうか。
室井が気持ちを否定しなかったから、この想いはここで終わらせなければならない。
赦しては貰えないだろう。
告げずに去っていく事を。 言わずに去ることを。
室井が繋ぎ止めようとした厚意を受け取れない自分の狭量が、惨めだ。
それでも、自分のために終わらせてやりたかった。
ここから長く暗い道が始まる。終わりの無い想いを抱えたまま続く、解放の無い道だ。
明日からどうやって過ごしていけば良いのか。今は何も分からなかった。
思い出を抱えて生きられるほど、自分は室井みたいに強くない。
もう戻れない。
ドアノブを握ったまま、新城はその場に立ち尽くしていた。
「失うことなど出来もしないくせに」
それは誰に向けて言った言葉なのか、新城にも分からなかった。
窓の外にはまたちらほらと雪が舞い始めていた。
2.
「よう室井、例の件、話聞いたか?」
「なんでここまでお前が来るんだ一倉」
室井が呆れた顔で執務室の扉を開けるが、一倉は飄々として片足を挿し込んでくる。
締め出されないためだ。
実に抜かりがない。
「ほらこれ、目を通しておけ」
「なんだ?」
「新城から頼まれたもの、と言えばわかるだろ」
庁内では誰が聞き耳を立てているかは分からず、一倉も多くは語らない。
「なんかお前、この間から俺に対する態度が陰険だよな?」
「気のせいだろ」
「嘘だね。今だって部屋入れてくれねーじゃねーか」
まさかキスのタイミングを外されたからだとは言えず、室井は憤慨した顔のまま、捜索に協力しなかったから不貞腐れているということにする。
お陰でこっちは未だにキスすら出来てない腑抜けだ。
「仕事中だ」
「ふーん」
ニヤニヤ笑う顔には、なにやら見透かされている気がして腹立たしい。
一体こっちがどんな気持ちを悩んで、迷って、戸惑っていると思っているんだ。
あともうちょっと・・・もうちょっとだったのに!
「用が済んだなら帰れ」
「茶~くらい、いいじゃねぇか」
「帰れ」
扉を阻んでいる一倉の足を室井が爪先で蹴り出した。
「あっ、おま・・ッ、散々面倒見てやったのにその態度かッ」
でも、そのもうちょっとが遮られなかったら、俺は、どう決断したのだろう。
止めて貰えて、良かったのかもしれない。
一倉に感じるのは複雑な感情だ。
***
「ふーん・・・なーんの話でしょうねぇ・・・」
ちゅうぅと六等分にカットしたネーブルオレンジを吸いながら青島が宙を見る。
目の前のテーブルでは室井が急須から緑茶を注いでいた。
「そんな深刻な口ぶりではなかった。・・・二人揃った時にと言うから詳しくは聞いてない」
「引越し先のことかな」
「それはない」
「なんで!」
「とっくに撤回してある」
「・・・・いつのまに・・・・・」
「おまえこそまだ期待してたのか」
「・・・・」
ここにいればいい。
眉間の深い皺がそう語る。
だったら口に出して言ってくれれば良いのに、室井の顔は険しいだけだ。
上目遣いでじぃっと見ていると、その視線に気付いた室井が居心地悪そうに横に反らした。
この男は、持て余す雑念を多様に抱えながらも決して認めようとはしない。
清楚なその姿勢宛らに、表の愚直な部分だけを身に纏う。
含み笑いをネーブルに吸い付くことで誤魔化して、青島はその変化を噛み締める。
おっかしぃよなぁと思う。
僅か4年前に出会ったばかりの相手で、それまでのことなんか何も知らないし、それからのことだってほとんど同じ時を過ごしてきたとは言えない。
向き合った時には電流が走るほど苛烈な何かが共鳴するのに
その繋がりはいっそ希薄で、北海道と東京に別れた時には、これで本当に終わりになるのだと思った。
疎遠になる筈だった関係は、室井が引き留めてくれて
どんな運命の悪戯か、4年の時を経てこんなにも境目が分からないくらい曖昧になっている。
果汁がふんだんに詰まっているネーブルが喉を潤す。
口唇から溢れそうな水滴を人差し指で拭って、ぺろりと舐めた。
緑茶を丁寧に淹れ終えた室井がソファに座っている青島の前のテーブルに湯飲みを置く。
自分の分のガラスの器を手に取り、青島の隣に座った。
反動で少し腕が触れ合った。
「あれ、でもじゃ、明日の夕飯どうするんですか」
「そうか・・・そうだな」
「俺も用意しましょうか?」
「その手に委ねたくはない・・・」
チロリと半眼で室井が青島の指先を見る。
不必要なほどぐるぐると巻かれた包帯は指先だけが表れ、ちょこんと袖から覗いている。
分量は少なくなったとは言え、服の至るところからもまだ生々しい惨状が見えていた。
「そんなひどくないもん・・・」
「どうせ君は無茶するから嫌だ」
「イヤダってあんた」
「そもそも君の食事は大味だから、勘違いされたくない」
「ナニ見栄張ってんすか」
「見栄じゃなくてマナーだ。ミスは恥だ」
どうだか、という半眼で今度は青島が隣の室井を見遣る。
何故キャリア同士で張り合うのか、そこんところは青島には理解不能だ。
素知らぬ顔で室井がネーブルを口に含んだ。
果汁をぽたぽた零していた青島と違って、皮からスッと外すと美しく口に中に消えていくオレンジ色の果実は
室井の手にかかると高級品に変化した気さえする。
ガラスの器に盛られたオレンジの果実が瑞々しく蛍光灯に映る。
「下準備くらいできますもん・・・」
ぼそりと小さな反論をして頬杖を付けば、室井が表情も変えずに視線だけ青島に寄越した。
まるで子供扱いしている眼差しだ。
確かに先日、真だらの煮付けを作ろうとした室井の横で、酒を入れ過ぎて生地をぐちゃぐちゃにしたのは青島だ。
説得力は弱い。
「きちんと指示してくれないのが駄目なんですよぅ」
「魚は煮崩れしやすいものだろ。目分量で入れるな」
「こまっかい」
一緒に暮らすまでこんな室井の一面を知ることになるとは思いもしなかった。
最近は一緒にキッチンに立つ時間も増え、望んでいた繋がりとは別の方向へ流れていく日常の現実味の湧かない浮遊感は
ふわふわの羽毛にでも包まれているようだ。
死にかけて、全てを終わりを悟ったのに、一目見たかった顔がずっと隣に合って、夢の中のような現実が生温く続いていく。
同居するまではあの室井と共同生活どころか私生活を垣間見れることすら異次元の雲の上の男だったのに。
スーツを着ていない室井には慣れない。
そんなの知ってると返す言葉の向こうで、室井が即座に苦笑いを睫毛に乗せるのを青島はぼんやりと眺めた。
「時間次第では弁当を買ってくる。ただ、出来合いの物買ってきたってつまらないしな、後で一応メニューも考えよう」
「新城さんの食の好みって?」
「アイツはどうせ懐石でも出しときゃ満足する男だろう」
「室井さんの中の新城さんのイメージって・・・」
中年男の食卓だ。
だが食事は基本一汁三菜の定番和食だった。
必ず果物まで添えられる食卓に、そろそろ違和感を感じなくさせられている自分が恐い。
慣れって凄い。
たかが新城を招くだけでも、もてなしを考える男をじっと見る。
人の記憶というものは割といい加減なもので、だけど確かな歴史である。
青島が何か企んだような顔をする。
「ねぇ・・」
「うん?」
淹れた緑茶にふぅふぅと息を吹きかけ、さり気なさを装いながら青島が問い掛ける。
室井も湯飲みに手を伸ばした。
「なにかあったでしょ」
「・・・・」
誤魔化そうとしているのか、困惑したのか、室井の眉間が深く寄った。
青島だってこれだけ面を付き合わせていれば、キャリア相手といえど大体のことは読み取れてくるのだ。
元営業の千里眼を侮ってもらっちゃ困る。
「あったよね・・・」
「・・・・」
湯飲みを片手で口に運びながら、正面を見据え、室井がゆっくりとソファに背中を預けた。
無言のままだが気配も真意を悟らせない。
今度は視線を向け、断定をしながら青島が探りを掛ける。
「今日帰ってきたときから少し違和感あった。口数の少なさは今に始まったことじゃないですけど、ちょっと生返事気味」
「・・・・」
「俺には言えませんか」
「言うとおまえ、首突っ込むだろ」
「ッ、俺のせいかよ」
予想外の返答に思わずリアクションし損ねる。
室井の性格なら、隠し事などないと見え透いた嘘で意固地に突っぱねられると予想した。
だからある程度の論破をシュミレートして、口火を切った。
なのに、〝何かあった〟ことは明らかに肯定している。
その上でその先を言う気はないと先制された。
「俺といてもツマンナイんじゃないのって拗ねるつもりだったのに」
「そのロジックの最終目的が家出か」
「げ」
「そんな見え透いた手口で俺を懐柔しようとしたのか」
「すいませんね、下手くそで」
「もちょっと捻ろ」
むぅと膨れて人差し指を室井に向けて挑発する。
「これは序の口。まだ手数はありますよ」
「言ってみろ」
「俺のスペックですからそう簡単には教えられませ~ん」
何だか先読みされていた気がして少々口惜しいが、だが奇妙な満足感もあり、青島も習ってソファに背中を押し付けた。
二人で漫然と壁ともいえない宙を見る。
テレビも点けていない部屋はしんとしていた。
階下の私道を通る車の音も、ここまでは聞こえない。
無骨な感じは変わっていなくても、二人の距離は、少なくとも室井の態度は、大きく変わった。
一人で抱え込むことは変わりないし、男なら一人で請け負うのが筋だろう。言えないことなど山ほどあるに違いない。
今更何でも話せなんて幼稚な追及をするつもりは毛頭ない。
ただ時にあまりに潔癖に完璧を求めるために煮詰まってしまう室井が、こうして心の内を見せてくれるだけで
人は楽になるし、青島としても自分が傍にいるだけで何かが変わるのであれば
それで充分だった。
全てを請け負えるなんておこがましいことは思っていない。
こうして抱えている何かがあることは隠さずに言ってくれたことが、青島には純粋に嬉しかった。
少し俯き、そんな室井の気遣いを肌で噛み締める。
洗いざらしの髪が流れ、視界を少し覆う。
目に映るガラスの器にまだネーブルが残っていることに気が付いた。
それをひとつ摘んで、室井の手の中のガラスの器に移した。
「?」
「美味しいものを食べるとね、ひとは大抵のことは乗り越えるんです。元気の秘訣です」
「・・・・」
「あったかい風呂にでも入って、早寝しましょ。そのための秘薬。ね」
「おまえ、これで俺の機嫌が浮上すると本気で思ったか」
「ええ、思ってますよ?」
得意げに笑って見せた。
人差し指を立ててジェスチャーしてくる青島の熱っぽい視線に、室井の胸はキュンとなった。
言葉から多くを感じ取ってしまった男は時々すごく深い洞察力を発揮する。
顎を上げて強張った頬で伺っていたが、やがて室井は視線を手元のガラスの器に落とした。
青島と過ごす優しい時間が室井を癒していく。
新城との告白の一貫は言う必要のないことだった。
言うことでこの事件に向かう三人の連携に何らかの余波を与えたくはない。そんな資格があるのかすら分からなかった。
知らせないことで護りたいのは、むしろ青島より新城の想いだ。
青島の人懐っこい瞳が包み込むように室井を見ていた。
何故気付いたのか。
それを問い質す必要もないんだろう。
ただ、キャリアとしてそう簡単に心情を察せられては困るので、素直になれないプライドが室井の眉間を深めさせる。
それにすら青島はどこか嬉しそうな瞳を煌めかせた。
敵わないなと思う。
明後日の方角に視線だけ投げ、表情は変えずに室井は青島の置いたネーブルを黙って口に放り込んだ。
もぐもぐと咀嚼すると甘い果汁が口の中に広がった。
ネーブルの瑞々しい酸味と甘みが喉から潤していく。
そっと、青島が小指の指先を絡ませてきた。
目の端に映り込む、何も言わずに微笑む姿に何も言えなくなった。
柔らかい笑みに満たされる。
室井が生涯欲しいものは、ただこれだけなのだ。
自分を容赦なく翻弄する男の、その無限の支配を一心に掌握したいと爛れた欲望を痛切に自覚する。
たっぷりの果汁を喉を鳴らして飲み下すと、室井は混乱させられたままの思考で、壁に向かって呟いた。
「外、出たくないか」
「?」
「この仕事が片付いたら、どっか行かないか」
「!!」
青島がぐるんと振り向き、驚愕して、凝視する。
「そんなに驚くことないだろう・・・」
「・・室井さんと・・俺で・・?」
「嫌ならいい」
「嫌とかじゃなくて――」
「じゃ、なんだ」
「・・・二人で?」
「行きたいのか行きたくないのか」
「え、あ、えと」
「はっきり言え。興味無いか」
「あ・・・あるあるある・・!行きますっっ」
ふっとようやく頬を緩ませると、驚いたままに青島が嬉しそうな顔を見せる。
少し頬が赤らんでいるのは気のせいだろうか。
余りに嬉しそうな顔をするから目を放せずにいると、青島の方がしまったという顔をする。
そのままそっぽを向いてしまった。
だが仄かな嬉しさを滲ませた口元が室井の目に蕩けるような残像を残す。
「決まりだな」
「室井さんが~行き先決めてくださいね~」
「・・・おまえが決めろ」
「言い出しっぺの法則」
「何だそれは」
「俺があんたのデートプラン、じっくり査定しちゃります」
「・・・デート・・・」
言い回しを思わず繰り返したら、青島が目だけ寄越して困ったように口唇を尖らせる。
「そこは流せよ・・・」
「・・・・」
「そこで黙んないでくださいよっ、変な空気になるでしょ・・・っ」
もぉぉと益々困った顔で視線を彷徨わせる青島を、じっと見た。
告げたら去らねばならぬ――新城の覚悟が今になって切々と蘇る。
隠していることに罪悪感を覚えるほど片生な時期は過ぎた。
しかし踏み込まないからこそ甘い距離は、この笑顔を誰か他の者のものにするという内面を残酷に炙り出している。
何度も考えたことで、嫌となるくらい分かっていたことだ。
この瞳も、この自分にだけ赦される笑みも、独り占めしたいと狂暴に思う激流はこの先決して叶わぬ願いである。
僅か数時間前の新城の苦みを潰したような眼差しが脳裏を切り裂く。
あんな別れを青島ともするのだろうか。
告げることも告げないことも、想いを抱いた時から取り返しのつかない破滅へ向かって走りだしている。
どうにもならない現実に打ちひしがれて、理性的な顔をして、望まれる態度を装って。
誰にも渡したくない。
突如、獣のようにあからさまな欲望だけが走り、そのあからさまな強烈な感覚に、室井は自分の息さえ苦しくなった。
空気の鋭利さを感じた青島が不思議そうに眉を潜めた。
小指を絡ませるように慰めを示す青島の指先を、意思を込めて握り返す。
少し当惑した視線が甘く室井を捕えた。
「困るのか」
「ぇ」
「本当のことだ」
「そうゆうとこ、あんたホントに無自覚ですね・・・」
新城の想いや厚意を考えると、自分が告げないことはフェアじゃない気がした。
矜持を投げて新城が送り出してくれた想いは、無駄にしたくはない。
「ならいっそ、恋にでもしてみるか」
「・・ぇ・・・」
自分たちの関係に、賭けてみる価値はあると思った。
こんなことで終わるものか。終わる訳がない。
時は流れて、置き去りにした恋が追い付いた。
置き去りにしていた君を捕まえる。
「何、言っ・・・・?」
急な提案にその場の空気も、時間も止まる。
思わず口に出た本音は、思うよりずっと口にするのは困難ではなかった。
理解がまだ追い付いていない戸惑いに揺れる青島は、酷く幼く見せる。
室井の雄としての本能がその脆弱性を嗅ぎつける。制圧するなら今だ。
しんと鎮まり返った大気は密度を増した気がした。
「じょ・・・だん・・・」
「冗談は言わない」
「・・ッ」
「考えてみてくれ」
「・・ぇ・・・、で、でも・・・」
不安げな戸惑いを乗せた睫毛が揺れて、夜を映す蒼い瞳が哀色に揺れる。
男としては妖しさもあるその表情に引き寄せられ、思わず抱きしめたい情動を室井は拳を握って押さえ込んだ。
「ま、待ってください・・・、え、え・・・と」
笑ってごまかせる空気がない。
青島は息を詰まらせながらも、どこか不思議なものを見るように室井をぼんやりと映した。
口数の少ない室井から気配だけで強烈に伝わる情愛は、痛みに似た凶暴な熱を持っていて、青島の身動きを封じてくる。
強い異質さえ霞めていく。
途方に暮れた青島の指先が頭髪をくしゃくしゃと握った。
今の室井の表情からは、どうにも考えが読み取れない。
先程まであれだけ近い気がしていた何かが遠ざかり、まるで別に知らない男に見えた。
「嫌か」
「何、何言ってんだ?あんた、自分の立場考えろよ」
「考えた」
「・・・ぅ、変なこと言ってる自覚ある・・・?」
「・・ああ」
「・・ッ」
だとするのなら、これは本気なのだ。
言葉も告げられず、青島はただ目を見開いて室井を見つめ返した。
その闇色の瞳は夜に溶け込んでいて、ただ沈黙を貫き、他の感情は何も読み取らせてはくれなかった。
「君は。どうしてか逃げることばかり考えるから」
疲れたような男の目元に漂う優しさが、逆に青島の答えを奪っていく。
別人のような玲瓏な気配を発している男は、しかし一方で、ただ恋を告げているのだということだけを知らしめた。
はっきり告げてはくれなかった雪の夜から、それを逃げ口実にして曖昧にしてきた関係を
室井はそのまま放置しておく気など更々なかったことを思い知る。
幸いと逃げていた青島の狡さや弱さも暴き、見せつけるような行為は、いっそ責められているかのようでもあった。
急に濁していた現実が目の前に迫り、青島は息を殺した。
「お、俺たち・・・男ですよ・・・」
知ってると小さく返される室井の声がやけに甘く青島の耳に残った。
真っ直ぐに絡め取る室井の宇宙のような闇色の瞳が恐い。
これまでの短くも濃い二人の時間が、今まさに感じている強烈な感覚にすり替わり
小指だけ繋がっている身体も境目が分からなくなるほど熱くなり、崩れていきそうな無力感を感じる。
溺れそうな爛れた空気に、だが青島が感じたのは鮮明すぎる情愛への恐怖で、それは文字通り、烈しく鮮明な刻印だった。
「・・ッ」
火傷しそうな気がして、強張った指先で振りほどこうと軽く跳ねる。それは案外簡単に解けた。
覚束なさを与えられ、縋るように室井を見上げる。
どうしよう、何て答えればいいんだ・・・・。
「答えは今すぐじゃなくていい。ゆっくり考えてくれ」
「・・・でも・・・・」
「一緒に生きないか」
「そんなの・・・俺だって・・・」
言外に否定を述べると、青島は拗ねたように横を向いた。
困らせてしまうことは分かっていても、告げる言葉がない。
「でもここで頷いちゃ駄目な気がします」
室井が鼻から詰めていた息を吐く。
困らせていることだけは、理解していた。
誰にも告げる事の無い真実を新たに植え付けることしか出来ない自分は、確かに非道なのだろう。
世間にも仲間にすら伝えられない青島の心情を察して、室井が微かに顔を歪めた。
瞼が伏せられ、長い影が戸惑いを伝えている。
口に出してしまったからには、覚悟の時限が動き出す。
抱えさせるものを増やしていくしかできない自分たちは、どこへ向かうのだろう。
「そういう・・・ことだから」
ぽんぽんと青島の頭を叩き、席を立つ。
空いたガラスの器を下げ、風呂の用意をしに行った。
****
布団の準備を青島に任せて、ドレッサーで寝支度を整えると、室井は寝室に足を戻した。
襖の隙間から青島が準備を途中にしたまま、ぼぅっと固まっているのが見える。
ぺたんと布団の上に座り、上掛けを並べるのも途中で、宙を眺めている。
室井が背後で伺っている気配にも気付かない。
戸惑いを乗せ影となる顔は思い詰めた様子で、痛ましく見えた。
精悍なフェイスラインが陰影に溶ける。
その俯いた表情に、本能的に逃げる気だと室井は悟った。
刹那、背筋に悪寒のようなものが走る。
それは雄の野生本能のようなものだった。
青島は絶対、前向きな答えなんか出しやしない。
その瞬間、姑息にも嫌だと思った。
自分はとっくにそんな生半可なもので満足なんかしていなくて、手放すことなんかする気さえなかったことを悟る。
どこかで青島の自由を尊重した理屈を綺麗に取り繕いながら
室井の中の脆弱性は最早そんな建前などで消化できるほど他愛ないものではなくなっていた。
口では理性的に偉そうなことを言ったって、心が全てを拒んでいる。
多分、青島が自分を本気で拒絶するなどとは思っていないのだ。
室井は襖をそっと開け、青島の背後に近寄った。
音に気付き青島が座ったまま、ピクリと手元を跳ねさせる。
「気にしているのか」
「ぇ、う、・・んん、別に・・・」
隣にそっと跪いた。
怯えるような眼差しを覗きこみながら、その吸い込まれそうな透明の瞳を見つめた。
距離は近い。だが体温は感じ取れない空間が妙に心許なさを呼ぶ。
風呂上がりで艶々した前髪が額を隠し、飴色の瞳に影を落としていた。
吸い寄せられるままに、室井はその手を伸ばした。
何度か躊躇う。
ちょっとびっくりしたような青島が室井を映している。
空を数度迷った両手が、ゆっくりとその頬を霞め、肩に触れ、胸に引き寄せた。
促されるままに腕に治まる青島の柔らかい栗色の髪に顔を埋める。
「行かないでくれ」
「・・・っ」
「いきなり過ぎた。悪かった。君を驚かせるつもりも困らせるつもりもなかった」
「こうなるって分かってたんなら・・・俺・・・いなきゃよかった・・」
「そんな悲しいこと言わないでくれ」
飢えの深さを示すように両手を肩に回し、視界を塞ぐ。
同じシャンプーと石鹸の匂いが室井の思考を酩酊させる。
「ずっと言おうと思っていた。急なんかじゃない」
「だって・・・だって、新城さんは・・・?」
予想もしなかった名が告げられ、瞬間僅かながら室井の身体に緊張が走った。
それは匿うことを主とする職業の特性で強かに仕舞われたが
動揺は、野生並みの勘の鋭さで青島には聡く気付かれた。
「もしかして、今日なにかあったのって、新城さんと・・・?」
「――、いや、」
「ここで嘘吐くの」
抱き寄せられたまま、室井の肩に顎を乗せ、耳元で青島の声色に剣呑の色が混じった。
動揺のままに崩れ出す批難は、誰に向けての物なのかは青島自身明確に理解してはいなかった。
さっきは隠さず見せてくれたのに、今度は隠される。
そこに苦み以上の何かを感じ、青島は軽く身動ぎした。
「青島」
「放せよ」
「青島・・・」
「あの人とあんた・・・一緒に行くんだろ」
「どうして――」
「見てりゃ分かります。似合いですよ、いいライバルじゃんか。・・・・・俺なんかより」
室井の抱き締める腕に思わず力が入った。
「でも俺は君を・・」
「間違えんな・・・っ」
「間違えてない・・・ッ」
「俺には嘘吐かないで・・・!」
「青島ッ」
想いが溢れた腕で、腕の中で暴れる青島を力で押さえ込むと、首筋に額を押し付ける。
抵抗が無駄だと悟った青島が切なげな息を漏らした。
「身代わりにすんなよ・・!」
「ッ」
「間違えないで」
「俺の願いは最初から一つだけで、君がかわらずそこにいることだ。。それだけなんだ」
行かないでくれともう一度だけ耳元に告げて、腕に力を込めた。
軽く柔らかい髪が揺れて、室井の頬を擽る。
抱き返しもしないが逃げもしない身体をただ確かめ、全身で味わう。
温かくどこか柔らかみの残る身体が、肌から伝わり、こんなにも愛おしい存在を持て余した。
今、確かにここにいる。これだけが室井の全てだ。
どう言えばそれが伝わるのだろう。
「それは信じらんないよ。こんな社会で・・・俺らが手を取る意味ってなんなの・・・」
室井は何も答えなかった。
どう答えを返せば良いのか分からなかった。
いつか遠くない将来に二人の別つ道を試される時が来る。
青島は現在の地元に拘るだろうし、室井は未来の警察に賭けるだろう。
二人の時間軸がずれているのだ。
それでも戦うと二人の男のプライドがそう決めた。
一時の激情で血迷うほど生半可じゃない。
不意に、このもどかしさが、かつてこの手から擦り抜けて行った生涯一人と思った女の面影を亡霊のように心に浮かばせる。
また置いていかれるのか。また、俺は失うのか。
人を大切にする器量がない自分が情けない。もっと、強くなれたなら。
静かな夜が更け、重たいほどの静寂が二人を包んでいた。
跪き抱きとめた青島を放さないまま、密着し時だけが過ぎた。
耳鳴りすらしそうな密度の濃い沈黙の中で、お互いの息遣いと、合間に響く時計の秒針が、隔離させた空間を残酷に浮かび上がらせる。
軽く身動ぎされた気がして、室井は腕を解放しないまま顔を上げた。
目の前に蜂蜜色に艶めく透明なガラス玉があって、心臓が痛いほど跳ねる。
硬直したように、身体が動かない。
凪いだ海のように深い深い蒼色の瞳。
暫し見つめ合い、何の明確な意識もなく、室井は瞼を落とし、ゆっくりと顔を近付けた。
寸でで止めて瞳を合わせる。
驚きに見開かれた目が、室井を映していた。
喉から心臓が飛び出しそうなほど緊張していた。
抗えない何かが身体を支配していて、胸がただ潰れそうに痛む。
どうして、こんなに大切なものを、これは俺のだからという言い訳だけで満足する気になったのだろう。
どんな形でも良い訳じゃない。
どうしたらこの心ごと伝えられるのか。
恋とか愛とか、そんな曖昧なものを飛び越えて、ただ強烈な熱だけが胸を締めつけてくる。
震え、ままならない室井の指先が後頭部へと滑る。
いつの間にか口唇にお互いの湿り気を帯びた息が混じる程、すれすれまで近付いていた。
腕で囲った中で青島は抗いもせず、息を殺していた。
幾夜も重ねてきた中で、何度も触れたくて、何度も確かめたくて、躊躇ってきた紅い膨らみが拒絶の音色で室井の名を乗せる。
青島の虹彩が、少しだけ哀の色を湛え、弱さを覗かせた時、室井の中の凌駕する痛みが弾けた。
顔を傾け、その膨らみに自分のものを押し当てる。
初めて触れる弾力に、身体が一瞬にして震えた。
愉悦が侵略し、愛しさと美味な味わいに陶然となる。
その口唇は微かに震えていた。
髪を掻き混ぜ、吐息ごと吸い取ると、青島が顎を少し引く。
危険を感じ、室井は一旦解放した。
瞼を持ち上げ、青島の反応を確かめる。
至近距離でゆっくりと瞼が持ち上がり、長い睫毛が震えた。
ついにこの男に口付けたのだと思った。
煽情的な様を見つめていると、喘ぐように薄く開いた口唇が苦しそうに引き結ばれ、その泣きそうなガラス玉がやがて室井を映しだす。
何か言おうとしたが、何も言葉にはならなかった。
心臓がこれ以上ないくらい鼓動を刻んでいる。
初めての接吻だって、こんなに動揺しなかった気がする。
怯えさせないように、青島の髪を梳き、愛撫した。
青島のうねる細髪が室井の指に絡まる。
美しいものが結晶したような瞳に魅入られ、息が苦しい。
その瞳が哀に壊され、歪んだ様すら、美しいと思えた。
まだ生々しく口唇に残っている青島の感触が、猥らな室井の本能を奥底で崩れ落とした。
髪を梳いていた手を止める。
戸惑いに反らされた視線を追い掛け、室井はもう一度下から攫うように口唇を塞いだ。
「・・・ぅ、・・ん・・っ」
嫌がるというよりは照れているとも取れる初心な反応で、青島が顎を逸らす。
それを覆い被さるように顔を傾け塞いだ。
形の良い頭を手の平で抱え、固定する。
青島が徐々に後退さる。
追いかけるように室井が身体を寄せていく。
青島の背が後ろのベッドサイドに当たり、逃げ場を失った。
抱き込み、深く口付けた。
「・・・ぅ・・・、ふ・・っ」
甘い吐息と甘い口唇が室井の雄を真っ向から煽情する。
一歩間違えば熱に浮かされた舌で強淫に口を割り裂き、奥深くまで凌駕してしまいそうだった。
淫らな音を立てて喉まで舐め回し、甘いであろう舌を吸い上げ、弾力を堪能したい。
気を逸らすかのように、青島の髪に五指を忍ばせ、幾度も撫ぜて、甘く下唇を啄ばんでいく。
頬を支え、角度を変えて擦り合わせる。
眉を潜めて受け止める青島は、男同士の口接であるにも関わらず、甘く煽情的だった。
出会ってから4年。こんな風に触れ合う仲になれるとは思ってもいなかった。
戸惑った指先が宙を彷徨っている。
その仕草にさえ、胸が張り裂ける。
徐々に室井の勢いに押され、青島がベッドサイドに背中を反り返らせる。
青島の両脇からベッドに手を付いて塞ぎ、顔を斜めになるほど傾け口唇を奪う。
仰け反るように受け止める青島は白い喉元を晒し、眉を切なげに潜めて息を乱した。
晒された喉元に誘われた長い指先で室井がその若い肌を味わう。
何度も触れた肌なのに、瑞々しさに陶然となった。
「ぅん・・・っ、・・ッ・・」
軽く下唇に歯を立てると、青島がびくりと身体を震わせた。
宙を彷徨わせていた手で、青島が遠慮がちに室井のシャツの裾を掴む。
可愛い反応に室井の身体がぞくりと栗立つ。
「ん、ぁ、だめ・・・っ」
青島が口唇が外れた隙に顎を引き、室井の両腕を掴んだ。
初めて嫌がるような抵抗を見せられたことに、室井の心が締め付けられる。
離れ難く啄ばむように口唇を玩びながら、呼吸を整えた。
「・・・嫌だったか」
「・・・っ、だめ、なんです、俺・・・っ、・・・だめだよ、俺になんか触れたら・・・・」
言っている意味はあまり良く分からなかった。
髪を梳き、もう一度口唇を被せる。
青島は頑是なく首を振って、室井の胸を押した。
見上げる瞳が苦悶に歪む。
室井の唾液で濡れた紅く腫れた口唇が、艶かしい。
「俺なんかに触れたら、あんたが穢れる・・・・」
思わず強くその口唇を塞いだ。
少し強めに吸い上げ、後頭部を押さえ込む。
上向かせて上から注ぎ込むように口唇を合わせた。
甘く弾力のある膨らみを、心行くまで堪能する。
「・・っ、ぅ、ぅん・・・っ」
「・・・すきだ・・・」
肩を抱き込み、ただ無心に想いを込めた。
愛おしくて、可愛くて、大切で大切で。
失くしたくない。
密着した身体は熱く、重なった熱が強烈で凶暴な情念を渦巻かせていた。
止め処ない熱は行き所を見失い、翻弄されていく。
青島の目尻から、雫が一筋軌跡を描く。
何故泣かせてしまうのか、分からなかった。
慰めたくて、大切にしたくて、ただ優しさだけを込めて口唇を重ねていく。
暴走しそうな本能を、理性で必死に堪えた。
もう青島は抵抗は見せず、応えてもくれなかったが、室井の先導に促され、成すがままに口唇を受けていた。
ゆっくりと解放した口唇はお互いの唾液で銀色に光る。
ベッドに両手を付いたまま、その煽情的な様に目を奪われた。
少し乱したパジャマの襟元から覗くほんのり染まった肌に目が釘付けになる。
唾液で濡れた喘ぐ口唇が誘うように室井の眼前で艶々と膨らんでいた。
薄っすらと開く目尻が黒く濡れている。
「すまない、青島、もうちょっとだけ」
正気になんか返さない。
抱き込み、頬に優しく口付け、耳元に囁く。
余りに可愛い反応に、手放せなくなる。
一生消えない傷痕を残し、青島に室井を示したい。
涙でも痛みでも、室井を憶えさせるものなら、なんだって欲情した。
凶悪なほどの独占欲は、底を見せずに壊れた思考を沸々と生み出していく。
もう一度しっかりと口唇を塞いでから、腕の中に青島を治めた。
背中に腕を回し、抱き締める。
「ごめんな。でももう、逃がせない・・・逃がしてはやれないんだ・・・」
「・・・ッ」
何も答えない青島をもう一度ぎゅっと抱きしめると、室井は心を治めて腕から解放した。
まっすぐに、青島の瞳を見る。
乱された呼吸が整いだせば、また部屋は静寂へと戻った。
「君に告げることは、君を苦しめるか」
「・・ちが・・・」
「その苦しさも俺に背負わせてくれないか」
そっと手を重ねる。
惚けたような瞳の虹彩が涙の膜を張る。
「苦しめないのなら、愛しても良いか」
「~~っっ」
「失いたくないのは、・・・君だけだ」
真っ赤な顔をして青島が硬直している。
「怒ったか」
軽く首を横に振る仕草で少しだけ安心し、その頭に片手を乗せた。
くしゃくしゃと掻き回す。
「俺の将来のことはいい、おまえが気に掛けるな。そうではなくて、俺のことをシンプルに考えろ。・・・答えは幾らでも待てるから」
「・・・でも」
「ん」
上擦ったように青島は軽く喘ぐと、パッと顔を背けた。
「・・・くそ・・・っ」
我に返ってきた青島が、悪態を吐いて拳で口唇を拭う。
その姿にさえ、雄としてそそられた。
「こんなの反則ですよ・・・っ」
「おまえだってしただろう」
「あれ、は・・っ、」
何で泣いたのかは室井には分からない。
でも真っ赤な顔をして照れる青島に、どこか少しほっとする。
「俺まだ応えてない・・っ」
「おまえの気持ちなんか聞かなくたって分かってる」
「ッッ、分かってないと思う」
「丸見えだ」
「見えてないですよっ」
こんなに年下の男が可愛いとは思わなかった。
何となくキスを嫌がった訳ではないことは感じ取れた。
応えてはくれなかった。でもそれは、淡心がないからではない、もっと根深い何かがあると室井は察する。
ちょんと指先で口唇に触れる。
カッと紅くなる頬に満たされる。
まるで甘い反応に、室井は膝を立てる。
「さて寝るぞ」
耳元に囁いてから、くしゃくしゃと頭を掻き回していた手を放し、その顔を覗いて室井は思わず破顔した。
「なんて顔してる。大丈夫だ、別に取って喰ったりしない」
「なっっ・・・!!そそそそんな心配してませんよっ」
「しないのか?」
頤に手を当て、クイっと持ち上げる。
軽く触れるだけのキスをして、室井は片眉を上げて見せた。
顔を真っ赤にして、青島が耳元を手で押さえている。
これ以上ないくらい真っ赤な顔になった青島にこれ以上ないくらい満足し、室井は立ち上がった。
苦笑を噛み殺しながら、リビングの電気を消し忘れたことを思い出し、隣の部屋へと向かった。
その背中に悔し紛れの反撃が追う。
「そそそそんなヨユーぶっこいてっとねっ、捨てられちゃうんですからねっ」
「そうか」
「同意って大事なんですからねっ」
「そうか」
「くっそぉ・・・」
唸る青島の声がする。
まだ真っ赤な顔をしていると思った。
真っ赤な顔をしていると思った。
こんな顔で幾ら憎まれ口を叩いたって説得力なんかないだろう。子供とおんなじだ。
嬉しいんだなと思い、また悔しい。
「くっそぉぉ・・・・・・・・・・・かっこよすぎだ」
キスが齎す苦い記憶が、どろりと侵蝕する。
あんな男に奪われていなければ、もっとピュアに受け取れたのかもしれない。
過去は、取り戻せない。
得体の知れないおそましさが冬の冷えと共に夜の帳の底から蝕んできていた。

新城さんは100質で言っているような「勝負に負けて試合に勝つ」感じで。