同居話の続きです。まだ季節は年明け早々の冬です。








東京変奏曲2season Ⅰ








第一章
1.
古びた定食屋でラーメンを啜る。

「それで連れ戻したのか」
「そう聞きましたが」
「ふーん」

カウンターでスーツ姿の男が二人、肩を並べて背中を丸めている。

退庁時刻を過ぎても本庁内が鎮まることはなく、日没の早いこの時期、灰鼠色の堅牢は明かりを幾つも漏れさせていた。
かつてならば紫煙がこびり付いていただろう室内は、今は埃だけを積もらせ、多くの輩出してきた手垢を残している。
静かな夜だった。
一倉が捜査一課を訪れた時、奥まった一角だけが白熱灯に浮かんでいた。
何度も繰り返された既視感が一倉の目を細めさせる。
その埃の下に新城はいた。
一人だ。そもそも捜一デスクはいつもガラ空きだ。
一倉の気配に顔を上げた新城に夕食を聞かれ、まだだと答えると外食を請われたため、今、二人は外で腹ごなしをしている。


調理場の釜から一気に発する大量の蒸気が天井まで這った。
ラーメンの熱い湯気が額に汗を吹きあがらせる。
店内にモクモクと籠もる湯気が、肌を湿らせ、外気の冷たさを物語った。


「結局元サヤか」
「状況的に言うのであれば」
「ふーん」
「人騒がせなカップルですよ」
「今に始まったことじゃないだろ。――で、俺に話って何だよ」


音を立てて麺を啜りながら、一倉は顔を向けずに問い掛けた。
同じくこちらを見ずに必死でラーメンを箸で解している新城が、同じようにズルズルと啜る。
およそエリートと呼ばれるキャリアの中でも生粋の貴族出身である新城は、恐ろしくラーメンなどの庶民食が似合わない。
濃紺のシンプルなハンカチで頻りに汗を拭っている。

何でこの店だったのだろうと思う。

ここは本庁からは少し離れた無骨な親父が個人経営する小さな食堂だった。
うらぶれた雰囲気と油の匂いが染みついた内装は、黴た時代の名残りを今の時代に伝える。
無口な親父が奥で腰掛け、煙草を吹かしながら新聞を広げ、無造作に付けられている古びたテレビは盛んに何かを囃し立てていた。
他に客はいない。


「俺に話、あんだろ」
「桶永警視のことなんですが」
「桶永?――ああ、あの態度と図体のデカイ」
「貴方に言われたくはないでしょうが」
「奴がどうしたって?」
「最近の彼の動向に関して、何かお耳に入っていることはありませんか」
「・・・いや――例の本部長クビになった一件から、そういやすっかり消えたな」
「そう、ですか・・・・」


ズルズルと大口を開けて一倉がまた麺を啜る。
豚骨の旨味が口に広がった。何度か口にしたことのあるスープだが、これが一番美味い。
細麺を硬めに茹で上げるのも、頑固おやじらしい拘りだった。ちなみに新城は塩ラーメンだ。


「大人しくしてんじゃねぇか?コネがあるとはいえ、あれだけの失態をフォローしてくれる気前の良い後ろ楯はいないだろ」

キャリアは一点の曇りがそのまま汚点となり、足元を掬わせる枷となる。
誰もがその細く鋭利な足場の悪い橋の上で空疎な争奪戦を繰り広げさせられているのだ。
そんな利権の絡んだ薄汚れた雑な感情で、数十名、時に数百名にも上る捜査員の指揮を任され、生死を決める実権を実質的に握らされるのだから
その樞は恐ろしく辛酸だ。
一手に引き受ける驕った価値観が、キャリアに不必要な、そして増幅した効力を与えるのも、無理はない。
既に形骸化していることにも気付かず、隆盛するのは、身に余る実権への純粋な恐怖でもあるのかもしれない。
そんなものに一生を浸潤されるキャリアの人生は、一方で対価も代償も大きく、上の判断も容赦ない。
管理官としての失墜後、表舞台から消えた桶永の処遇はその明暗の代表格と言え た。


「ま、それを唆したのが、お前だけど」

一倉がニヤリと笑う。

「嬉しそうですね」
「そりゃ、レールから外れた俺に言わせりゃみんな躓いてしまえって思うさ」
「喰えない男は貴方の方に見えますがね」

ふふんと一倉が満足げに鼻で笑う。

上の顔色を伺い、それでもやるべきことがある内は、まだマシなのだろう。
配属先さえ奪われ、窓際族宛らに道を断たれ消えていったキャリアは何人もいた。
ここでこうして肩を並べ、同じ職に付き口を交わせることこそ、個人能力の成果であるとも言える。


「何でそんなことを聞く」
「――」
「何で俺に聞く」
「貴方ならしょうもない噂も仕入れてらっしゃるようですから、何か出てくるかと」
「・・・・何でそれを人払いして聞く」


一倉が先手を打たせないよう言及すると、スープを啜っていた新城の手が止まった。
この店を指定したのは新城だった。

古びた換気扇が音を立てて回る。
油臭い店内の空気がじわりじわりと酸素を希薄にさせた。


「先の話にも名前が上がっていたな。何かあったのか?」
「・・・差し障ることはなにも」


場持たせのつもりで、先程まで新城から先日の脱走騒ぎの顛末を聞き出していた。
何故だか室井の部屋から飛び出したらしい青島を、室井が雪の中、駈けずり連れ戻したらしい。
何とも面白そうな痴話喧嘩が見れたのに、自分がその場に居合わせなかったことが地団太を踏むほど口惜しい。

無防備に徘徊する青島と遭遇したのが幸い通りがかった桶永だったとのことで、それを切欠に無事室井と連絡が取れ、大事に至らなかったと言う話だ。

青島は言いだしたら聞かない男だが、今回もまたそれをどうやってまた手懐けたのか。・・・数年前の査問委員会に掛けられた一件も然りだ。
室井にとっては、青島は借りてきた猫のように大人しく従順な犬であることも一倉はよく知っている。
あれが実は猛犬だということを晒すのは、無知で無能な幹部たちだけだ。

ただ、それでもそんな忠誠を信条とする青島が飛び出したのだから、それは決別の覚悟があったとみてよい。
その説得は、室井でなければ出来なかっただろうが、だからこそ、根源も室井であると一倉は考える。
あの不器用な朴念仁が、そうそう気配りの効いたケアを出来ているとは思えない。室井と青島の中をもってしてもだ。
本来、室井は情が深くとも、利己保身な人間だ。
偏にあの奇妙な関係が成り立っているのは、青島への室井の歪な執着に他ならない。
偉そうに手放さないなんて豪語してみたところで、室井にそこまでの他者への甲斐性があるわけないのだ。


しかし直接の原因がどこにあったのかは、新城の話からも判然とはしなかった。
一倉から見れば、室井は青島がいてこそ開花する男だが、青島に室井は必要ない。
それを、資質を客観視すべきキャリアである室井が理解していない訳がない。
いずれ消えようとしている男を、果たして何をどうして連れ戻したのか。
あの朴訥とした男が、だ。

実に面白そうな一幕である。
その場の傍観者となれなかったことは、一世一代の不覚だと一倉は考えていた。

ちなみに、室井本人からは、その夜乱暴に電話を切られて以来どこか批難を込めた目で睨まれている。これも奇怪だ。
恨めしそうにも深まるその闇の瞳は敵意むき出しで
何を意味しているのか、未だ取り付く島を持たせない。


「そもそも奴を廃したのはお前さんだろ。向こうは恨んでいるだろうがお前が奴を気にするのが腑に落ちないな」
「別に。ただ最近姿を見掛けないなと思ったまでです」
「それだけか?お前が他人に社交辞令すら向けるとは、閻魔さまだって訝しむ」
「物凄い例えですね」
「当たってるだろ」
「人をなんだと思っているんですか」
「・・・んで?」


一倉が新城を見る。
新城もまた、重たい視線を向ける。
その目から、核心はもっと別な所に在るのだと一倉も察する。


テレビからはワザとらしい観客の笑い声が聞こえていた。
画面中央で見慣れたタレントが頻りに声を張り上げる。

視線を外した新城は、何処とも言えない宙を焦点の定まりきらぬ瞳で見つめ、顎を少し上げた格好で両手を組んだ。
事実だけを淡々とその薄い口唇に乗せていく。
まるで報告書でも読み上げるような語り口は、新城の感情を何も悟らせはしなかったが、事態の重みを朧げに含蓄させた。
新城も又聞きだと前置きしたその話は、確かに流石の一倉の表情をも曇らせた。

CMに入り、テレビからは聞きなれた流行のJ-POPが流れ出す。


「――キスをしていた?」
「端的に言うと」
「そりゃ穏やかじゃないな。同意の上で?」
「細川の話では一方的に見えたと」
「そのこと、室井には?」
「言ってません」
「へえ、そりゃまた、何で」
「言う必要のないことだと思ったからですよ。少なくともあの時は」


細川から大体のあらましの報告を受けていた新城は、だがその後の室井への電話で、全てを伝えることはしなかった。
あの日の室井はかなり動揺していたし、事は急を要した。

青島の不在、室井の動揺、そこから併発する統率の乱れは、こちらの戦況悪化にも繋がりかねない。
煽られて、何もかもぶちまけるのは指揮官として聡明ではなかった。
出せるカードの出し所を選ぶのが、自分たちの仕事だ。
青島を連れ戻すことが先手のこの局面で、室井が感情に流されるとは思い難いが、青島の方は分からない。
ワイルドカードも簡単に投げて見せる青島の激昂に触れ、更に逃げられたら元も子もなかった。
悪戯に戦況を長引かせればリスクも上がる。
迅速に事態を収束させる必要性が求められていた。


「そういうことにしといても良いが、賢明な判断だ。室井が聞いたら卒倒しそうなネタだな」
「たかがキスで?」
「相手は青島だぞ」
「男相手にそこまで」
「甘いな、室井は馬鹿親予備軍だぞ。禊に敬神を抱いているかもしれん」
「狂信してるのは青島本人にでしょう」
「確かにそうだ」


くっくっと一倉が肩を揺すって笑いを噛み締める。
脳裏で、娘親になったら親バカになりそうな室井の将来を妄想しながらも、新城は呆れた視線でいなすだけに留めた。
あの日の不可解な一幕が、今尚深部にこびり付いている。

対応は完璧だったと自負している。
ただ、珍しく感情を細波立たせる室井の、その意外な素顔に、こちらも冷静さを欠かされた。

室井があまりに心細そうな声を出すから。
室井があまりに情けなく捨てられた子供のような声だったから。

室井をこれ以上動揺させたくはなかった――それさえも言い訳にしかならないことは、焦れた脳の裏側が確かに了得もしていた。
出口を見失った情熱は、いつか奔出する。
そんなことは分かり切っていたことだったが、改めて振り返るほどに、あの夜の一件は新城にもまた抜けない棘を残していった。

室井は青島と出会ってから変わった。
滾るような熱を持て余している粗忽者だったのに、たった一つピースを組み替えられただけで、品格を露わした。
戦える男となった一方で、普段冷徹な室井が青島が絡むと乱されることを、新城は間近で見てきた。
それが良いこともあるし、悪くなることもあるが
あの日の動転は同時に、それだけ室井にとっての青島の存在意義を物語っている。

そんな状況下で、青島が他の男と口接をしていた事実を告げるのもまた、少し卑怯な気がした。

少し、汗顔な記憶が蘇り、誤魔化すように新城は残りの麺を啜る。
その僅かな心の明暗まで汲み取った訳ではないだろうが、一倉も黙ったまま最後のスープまで飲み干した。
沈んでいたメンマをコリコリと齧る。


「お前、室井と何かあったろ」
「・・・・なぜですか」
「何故だと思う」


先に食事を終えた一倉が箸を置き、頬づえを付いて新城を覗き込んだ。
意地の悪そうな瞳は、しかしその奥に真剣さと揄いの色を同居させ、そう簡単には逃がさせてくれない気迫を感じさせる。
それでも、新城は僅かな抵抗を見せ、視線を背ける。


「至って普通ですよ」
「俺の目を誤魔化せると思うなよ」
「協力体制を敷いている戦況で、無闇な諍いは私の戦績に影響します」
「とぼけるなよ。お前が大人しく他人の舵に任せる男かよ。・・・お前はともかく明らかに室井の態度が違うの気付いてんだろ」
「――」
「先の発言もそうだ。お前はそんなに理解ある立場を公に感受させる男じゃないと俺は見ていたがね」


煩わしいことだと新城は思わず眉を顰める。
そこに含まれる一匙の甘さは、今は苦みに近い。

計算外だった室井の露わな感情で、こちらまで言う筈のない言葉まで漏らし、知らせるつもりもなかった事実を共有するはめになってしまった。
新城の本音を知った室井からは、あの日以来、新城に対する警戒のオーラが断ち消え、今は公私共に秘密を共有する身として、妙に温和な距離感が形成されてい た。
勿論、傍目に分かる変化ではない。
また、今回の事件でそもそも共闘という立場を継続させている以上、それは杞憂だ。

キャリアは探り合いと隠匿の文化だ。
無様な姿は曝したくはない。お互いに。

正確には、副総監誘拐事件の一件以来、室井の中でも新城の中でも組織論に対する何らかの組み換えが行われたのは確かだった。
だからこそ疎遠になりがちな官僚社会で、取り留めない距離をここまで繋いでもこれたのだ。
それをお互い気付きながら気付かぬふりを続け、ここまで来て、あの夜がその膿を破裂させ証明させてしまった。
むしろ、周りに見える二人の変化というよりも、逃げ道を失った新城の内情の問題として、先送りに出来なくなった事態が煩わしくある。

その不可思議な関係の軟化は、表情を滅多に顔に出さないキャリア連中間だからこそ、敏感に察し、一部では噂にすらなっていた。


「昔話は酒も飯も不味くする」
「昔話、ね・・・」


一倉は意味ありげに口端を持ち上げる。
煩そうに新城が眉を潜め、せめてもの対抗で横を向く。

新城にとってあれは失態だった。
ずっと秘めておくつもりだったし、未だに自分の中でも消化しきれていない不可解な感情だ。
だがずっと抱き続けてきた重たい手枷だ。
通常ならば嫌悪感を持たれるのは当然の摂理で、言うのならもっと別の形で、場所も選び、さり気ない伝達を選びたかった。
室井があまりに動揺していて、いつになく感情が揺れ、無防備だったから釣られてしまったとしか言い様がない。
その扉を開いたのが、遡れば青島という存在だという事実が更に、余剰な消化不良を新城に起こしている。


「強敵だな・・・」

ポツリと漏らされた一倉の言葉に、新城は思わず瞠目し、顔を戻した。
箸を止めた手元が器にだらしなく箸を掛ける。
一倉はただ、遣る瀬無い歪な笑みを乗せ、微かに視線を合わせただけだった。

このゴシップに聡い先輩は、以前から新城の気持ちにも気付いていたということか。
観察眼の高さはキャリアの中でも一目置かれている男だ。
それよりも、否定的な狭い価値観で一蹴しない知見の方が意外な一面を見せられた気がした。
男同士における友情からして、キャリア社会では平たい理想論だ。
出世街道からは外れたとはいえ、キャリアであることに驕傲を持つ我々人種の中で、予期せず労う言葉を出せる男に、一瞬呑まれ平伏する。
新城は降伏の意思を込め、視線を落とし瞼を伏せた。


「同情はいりません」
「同情じゃねぇよ」
「どうせ負け戦です」


新城だって言われなくても分かっている。
あの日の室井は確かに動揺していたし、それを引き出したのがつまりは青島である以上、見せ付けられたも同然だ。
室井の口ぶりでは、青島の方はどうか知らないが、室井の中に色濃く住んでいるのは青島だ。


「へぇ、認めるのか。お前が」
「言ってしまった言葉は取り消せませんからね」
「言った・・・?何を?え、室井に直接?・・・マジか」
「――」
「なーる、ほど」


一倉が顎を片手で撫ぜながら、何やら勝手な推理を脳内で繰り広げる。
打って変わり、面白そうな目付きで新城をただ眺めてきた。
まるで一倉の視線が水を向けた形になったかのように、新城からは片肘を張った力が抜け、食事を終えた箸を丁寧に戻した。
ティッシュで口元を拭い、氷の溶けかけたグラスを取る。
ゆっくりと口に水を含む。


「潮時です」
「まだ分からないだろ」

瞬間、新城の眉が剣呑に歪む。

「例えそうだとして、それで私が悦に入るとでも?」
「怒ったか」
「それ相応の自覚と覚悟は済んでます。今更大衆理解を求めようとは思ってませんから。現状を変えたかった訳でもない」
「お前らしいなぁ」

見え透いた慰み文句を口にする一倉に、新城は半眼を流し、嘲る。

「捨てていかなければ、先には勧めないでしょう?」
「なかったことにして欲しいのか」
「だがもう知らなかった昔には戻れない。これが弱音だとしても必要な切り札です」

取り巻く環境は偏見と差別に満ち溢れ、過酷に厳しい。
男なら冒険を冒すより社会貢献を選ぶべきだ。
自分はエリートキャリアの道を遠の昔に選び取ったのだ。


「・・・室井もそうだとは限らない」
「?」
「アイツの青島への妄執は割と病的だぞ」
「だから?」

言い方が可笑しく、新城は口端だけで笑う。

「そんな男が軽薄な決断に出るとは思い難い」
「青島を引き抜いた室井さんに価値なんか出せませんよ」
「言うな。・・・でもそこだよ。青島の最大の願いは室井がトップまで上り詰めることだ。室井は意地でも抑留したくなる。それを室井が蔑ろにするか な・・・」
「と言いますと?」
「下手な賭けには出られない。もしかしたら室井はお前を選ぶかもしれないぞ」

お前には酷だろうが、と付け足して、一倉はコップのグラスを飲み干した。


そんな訳はないだろうと新城は思う。
新城では室井を導けないからだ。精々サポートするのが関の山だ。

足並みを揃えることくらい出来る。
同じフィールドで補完し合うことも出来る。
だが、青島が見せるような、室井の資質を引き出し、精神的な核にまで触れることは、難しい気がした。
尊敬と共鳴は、同義ではない。

室井こそ、こんな恋が成就するだなんて淡い妄想を抱くほどピュアな歳でもないだろうに。
青島との出会い以降の室井のキャリアは、真下が撃たれた事件での暴走から、査問委員会、そして、副総監誘拐事件の再びの暴走。
降格、左遷と、室井のキャリア人生は崖っぷちだ。
なのに何故、あれほどまでに青島を求めるのか。
それは、見ていて息苦しくなるほど直向きだった。

きっと、足りない何かに触れてしまったんだろう。
成熟した男が己の足で立ち、その上で意識を融合させるとは、一体どんな気分なのだろう。


「あんな風に・・・人を求めたこと、ありますか・・・?」
「ん~・・・?アイツらのは空理空論だろ。羨ましいのか」
「まさか」


ただ、あの夜の室井は決着を望んでいた。
恐らくそれは、青島のための決断であり、同時に室井自身の何らかのケジメだったのだろうと感じられた。
青島が戻ったことが答えなのだろうと思っていたが、それ以降、話は聞いていない。
考えてみたら、青島は戻る場所がないだけに、余程の決裂でもない限り、室井の部屋へ戻らざるを得ない訳で、戻ったことが答えになるとは限らなかった。


「その・・・、室井さんから直接聞いたんですか」
「何を」
「青島への情熱について」
「――、あそこは丸分かりだろ」
「まあ、否定はしませんが」
「あの室井が青島だけにはいつも視線が先に追っている」
「青島にだけは真正面から向き合うこともね」


恋であろうとなかろうと、室井から青島の存在を切り捨てられると、本人以外の誰がそれを信じるのか。
あの漆黒の瞳にまっすぐ映るのは、まっすぐに走る男の背中だ。
例え青島の気持ちが向かなくても、きっと室井は青島を抱き続ける。
引き離すのは簡単だが、本当の意味で救いにはならない。
室井が返事をするだなんて律儀に言った所で、答えなんか最初から決まっていた。

青島は何と答えたのだろうか。
恋愛関係になくとも、元々あの二人は息が合うようだった。他人には図り知れぬ友情がそこにあっても不思議はない。
青島と室井が立つ場所が本庁と所轄という相容れない場所である価値観がまた、逆に利に働いている部分もあるように見えた。
室井は何を伝え、連れ戻したのだろう。

無粋な幻惑に嵌まり、新城はテーブルに置かれた丸型のピッチャーに手を伸ばした。
空になったグラスに水を注ぐ。
カラカラと中の氷が鳴った。
一倉もグラスを差し出すので、そちらにも注ぐ。

まるで思春期の少女のように、相手の一部始終が気になった。
こんな風に誰かを意識するなど、もう無いと思っていたのに。
室井と青島と関わると、いつもペースを乱される。
不服な顔をして、新城はピッチャーを戻した。

半透明のピッチャーにはレモンの輪切りが幾つも浮いていて、涼しげな香りがする。
含めば、口当たりを爽やかにした。
無骨な店主らしくないサービスに、以前問い掛けたら、昨今のラーメンブームに便乗した女性客のための気遣いだと言っていた。




それにしても、と、一倉が前を向く。

「男同士のキスか・・・」

キャリアが仕掛けるには些か荒っぽくリスクの高すぎる一手だ。
話を本題に戻す。


「狙いはなんだ?青島本人か、それとも」
「――」
「この時点で青島に手を出して、奴に何のメリットがある?それはただの情動と見て良いのか?」
「でなかったとしたら」
「或いは青島もまた想定内だった可能性は?」

瞬時に想定すべき疑問が沸々と湧く。

新城から見れば、その可能性は低いと考えられたが否定は出来なかった。
室井という幉を外したあの男は、何をしでかすか分からない。
同じことを考えたようで、一倉も大きな溜息を漏らして見せる。


「あんのトラブルメーカーが・・・。また何をやらかしてくれたんだか」
「自覚ないのが性質が悪いですね」
「まったくだ。無自覚に誰も彼も惚れられてんじゃねぇよ」
「物好きが多いんでしょ」
「手厳しいな」

くくっと一倉が喉で笑う。

「室井の方もなァ。どうもあの夜から感じ悪くて、俺に対する態度が邪険なんだよなぁ」
「電話に出なかったからでは?」
「そんなことでヘソ曲げるか?」


いずれにしても、一般的でない淫戯という方法に出た時点で、桶永からは少し不気味で不穏な病巣を感じた。
深く恒常化したキャリアの腐敗体質は、一方で、シンプルな自己保身を形成しやすい。
そこを敵対的抗戦に走らせるだけの餌は何だ?


「で、お前はどう睨んでいるんだ。・・・いや、俺に何をさせたい」

話が早いなと新城が視線で合図する。
カランと氷を鳴らしてテーブルにグラスを置いた。


「桶永警視の最近の交遊関係、言動などが知りたい。できれば最近扱った事件報告書まで」
「報告書?どういうことだ?」
「念のためです」
「お前、何を考えている・・・?いや、何を期待してる・・・?」
「今の時点で確定的なものは何も。私の杞憂であって欲しいですし、ただの懸念でしかない」
「それだけでお前が動くか?」
「――・・・」
「池神や安住まで通じているか、か?確かこの話をお前に持ってきたのは――」
「いえ、そこまでの大物とは思ってません」


物怖じしない切り捨てに、一倉が楽しそうに頬を持ち上げた。
新城のこういう情に流されない辛酸な判断が、一倉の中の好感度を上げている。


「何も出て来ないならそれでいい」
「もしやこの事件に関与していると思ってんのか」
「・・・・」
「勿体ぶるなよ」

急かされ、新城が意を決して推論を口にする。

「時期が重なり過ぎている」
「――ああ・・、確かに。上からのスパイとして疑ってんじゃないのか・・・。もっと横の列ってことか」
「考えすぎだといいんですけどね」


明らかに桶永は普通の精神状態ではない。
あの日の接触は偶然だったのか。
新城への稚拙な嫉妬心で、本部を潰しにかかってくるくらいまでは新城も想定内であったが
桶永を慕う後輩や派閥、或いは彼を操り人形として裏で糸を引く人物の存在がいたとしたら、もっと事は微細になる。


「となると――青島は何を・・・」
「分かりません」
「室井は・・・。アイツも危ないぞ」
「でしょうね」
「それを奴らは知っているのか」
「話したことはないですが、話すものでもない。まだ、話す時期じゃない」


桶永の一声で異例の単独潜入を命じられたことが、今回の全ての発端である。
そのキーマンとなっているのが青島だとするのなら、所轄員への暴行など大した影響はないとは思えない。
小さな綻びが連鎖的にキャリアの一角を崩すことになれば、形勢は大きく傾く。
一倉の眼から、遊戯のような色が消えた。


「キャリアを失墜させる事態にさせるなよ」
「私は保守派ですよ」
「青島がどこまで知っているかだな。桶永の正体を知ってて俺たちを欺いているのか、何も知らないで踊らされているのか。それによって事は大きく変わるぞ」
「一所轄員に何も出来やしませんよ。青島はまだ雛鳥のようなものだ。穢れも戦術も知らない。そういう人間に、政治の戦いは出来ない」
「政治的戦略に負けても、何か仕掛けられたらアウトだぞ。それに敵が青島とは限らない」
「そこは・・まあ」
「一番怖いのは、室井共々何も知らなかった場合だ。行動原理を利用されたらどうする」
「そう・・・思いますか」
「二人を確実に味方に引き込んでおくべきだ。余計な行動を取らせないためにもな。それこそ時期だとか言葉とか選んでいる場合じゃなくなってくる」
「二人の耳にも入れておくべきだと?」
「俺はそう思うね」

一瞬下を向き、考えるような目をしたが、直ぐに新城は前を向き、小さく頷いてみせた。

「分かりました。近いうちに時間を取ることで調整に入ります」


席を立ち、会計を店主に目で促す新城の背中に、静かに一倉は声を投げる。

「新城」
「――なんですか」
「結局お前、室井とどうなりたいんだ?」
「別に、どうも。貴方と違って先のことは何も考えていませんよ」
「堅実なお前が?」
「御不満ですか」
「いや・・・恋は人を狂わす、ってことだな」


恋というあからさまな言葉を選んだ一倉に、そのそぐわぬ甘酸っぱい音色に新城は眉を潜めた。
踏み出していた足がその場に止まる。

一倉が牽制しているのは、恋への懸念か、或いは男同士のモラルか。
その両方か。それが実質的な破壊へと繋がるだろうことは経験上の憶測だった。
勝利を望むなら、切れるものは切っておく。
疲弊した官僚社会で徹底した政治を行う新城としては、確かに室井と青島に配慮を見せる今の不透明な対応は
少しらしくなかった。

それを、室井もまた、知っているだろうに。
なのに何故、人は恋をするのだろう。


「室井は・・・・いや、青島は、お前ほどの人間がそこまで入れこむ男なのか?」
「同じ台詞をお返ししますよ、一倉さん」

肩越しに振り返って新城は淡々と答えた。











2.
湾岸署刑事課は今日も朝から賑やかだ。
ベンチで寝そべっている浮浪者や必死に何かを訴える中年男性、補導されてきた若者まで、様々な人間がここに集う。
あちこちで電話の呼び出し音が鳴っている。

駅のホームで終電を逃している内に財布を掏られたという男の調書を持って、すみれはデスクに戻った。

「酔って寝てたら掏られて当然よ!イイ年なんだから危機意識持たないと」
「だって酔ってたんだよ、ねえちゃん」
「だってもヘチマもないっ、一応届け出しとくけど、確かあの駅は監視カメラもない場所だし、戻ってくる確率低いと思ってね」
「そんなぁ」
「自業自得!これで都会の厳しさを知るといいわ」
「えぇぇ」
「文句言わない!電車で忘れ物がちゃんと返ってくるなんて日本は治安が良い証拠よ」
「じゃあ俺のも」
「無理ね」
「ひでぇ」
「ってゆーか、貴方、一応被害者じゃなくて、駅員さんにイチャモン付けて連行されてる身なの、分かってる?」


背後のデスクで固定電話がまたけたたましく鳴りだす。

「ああもう、帰っていいわよ、今度は呑み過ぎに気を付けるのよ!」
「だけどねぇちゃん、俺、金無くて帰れない」
「知らないわよっ。ご家族かご友人か、電話して引き取ってもらったら!」
「ケータイも掏られた」
「じゃあもぉ!そこら辺の連中から借りて!――はい、湾岸署盗犯!」


藪から棒に横に向けて人差し指を差しながらすみれは受話器を耳に当てた。
構ってらんない。
指名された休憩中の暴力犯係の親父共がうろたえているが、知ったこっちゃない。


『――はは、今日も尖ってますね?』
『え』

するりと耳に甘い吐息が潜り込んできた。

『忙しそうじゃん。相変わらず』

懐かしいこの声。ちょっと甘くて柔らかくて、幼い所を残すような割と高めのトーンで、強請るような優しい声色で。

『あ・・・・お、しま、くん・・・・・?』
『お久しぶりです――すみれさん』


本物だ。
瞬間、すみれの胸は詰まって何も言えなくなった。
思わず口元を手で覆う。
ずっと聞きたかった声だ。去年の暮れに突然引き離されて消えてしまった。
まるで最初から存在しなかったかのように自然に日常が回り、その自然さが怖かった。大きな渦に呑み込まれていくような恐怖な中、それでも信じて耐えてき た。
それからずっと待ち焦がれた声だ。


『感激しちゃった?』
『してない』

必死に喉を動かした。

『素直じゃないと可愛さも半減しちゃうぞ』
『あのね、刑事は可愛くても仕事は半減してくれないのよ』

受話器の向こう側と一緒にくすりと笑い合う。

ああ、同じだ。変わってない。彼なんだ。
嬉しさが焦るように胸の中央で鬩ぎ合って、焦げあって、言葉も喉も詰まらせる。
言いたいことはいっぱいあったはずだ。文句も苦情も腐るほど抱えてきた。でも今、すみれの口から零れるものは何もない。
今、何から言い出せば良いのかも分からない。
向こうの声一つ取りこぼしたくなくて、必死に受話器だけを耳元に宛てる。

ルージュを引いた口唇を横一文字に引き結ぶすみれの気配を、やはり敏感に察し、受話器の向こう側の気配が、こちらへの気遣いと和やかな労いに移りゆく。
いつものように青島がリードしてくれる。
少し子供っぽい所の残る青島の本当の優しさを感じるのは、こんなところだ。


『元気そうだね』
『そうね』
『そろそろ会いたくなっちゃった?』
『そろそろ忘れかけてたわ』
『気にしてよ』
『気にするほどの暇を与えてもらえてないの』

感極まった口からは、それでも憎まれ口しか出て来ない。
でも、震える声はきっともっと多くの物を伝えているのだろう。
元気そうだ。もう、大丈夫なんだ。声だけで察せるのは、こっちも同じだ。
確かに同じ時空を自分たちは過してきて、それは夢じゃなかったとこんなところで実感させてくれる。

『相変わらずか』
『戻ってこない青島くんが悪いのよ』
『お陰さまでなが~い有給休暇を満喫させて頂いております』
『え。有休引かれるの』
『そうみたい。でも労災認定してくれたから文句言いづらい』
『はぁん・・・、随分なバカンスね』
『お土産期待しないでね』


テンポ良い掛け合いのリズムが馴染みの温度を想起させた。
不思議だった。出会った頃から青島とは次に来る相手の思考が少し感じ取れて、同じリズムで刻んでいける。
こんな異性は初めてで、同性とは違う距離感も合って、だからこそ慣れ合わない居心地が気持ち良かった。
こんな風にきっとずっと、同じ世界を見つめていられると思ってた。
いきなり消えてしまうんだって思い知らされるまでは。


『それ以前に、帰ってきた時、青島くんの席あるかしらね』
『ちょっと!勘弁してよ』
『忘れられないようにマメにしないからよぅ』
『色々大変だったんだよ』
『それはこっちも同じ!』

だぁよねって笑う青島の声がすみれの身体の細胞まで満ちていく。
ああ、潤される。
どれだけ会いたかったかを自覚する。

『元気、そうじゃん』
『すみれさんもね』


そう言ってから、すみれは青島の置かれる現状を改めて思い出した。

『怪我。・・・したって聞いたわ』
『あ~、そこは忘れていいや』


電話では分からない回復ぶりは、すみれの胸の内の奥深くに蔓延った不安を完全に払拭はさせない。
声は元気そうだけど、青島は気を使ってしまう人間だから、きっと、痛くても笑って交わすのだろう。
そこに、頼ってもらえない虚しさが芽生え、すみれはひっそりと口唇を噛んだ。
青島には昔から、優しさの裏側に抱え込んでしまう悪い癖がある。


『そろそろ出て来れるの?』
『ん~・・・・』
『なによ、まだ無理なの?』
『そうだねぇ、関係各所に足止めされてるかんじ?』
『なにそれ。重役さんみたい。治ってるの?治ってないの?どっちなの?』
『治っ・・・・・・・てた、ん、だけど・・・』
『うん?』

何故か少し口籠り、煮え切らない空気が漂う。
すみれが訝しげな相槌を打つ。

『だから・・・』
『だから?』
『ん~・・・、実はこないだのさ、大雪ん日に』
『うん』
『凍傷になりかけて今ミイラ』
『はぁっ?馬鹿なの?』
『言うなって・・・』
『なにやってんのよ・・・』
『ダンジョン?』
『平成の東京で雪の日に凍死ってどうやったら出来るのよ』
『仰る通り』


ああ、でもなんか、この感じ。
突拍子もないこと言われちゃって、でも青島くんならやっちゃいそうとか脳内変換して。・・・懐かしいな。
ぶり返した軽率な行動にも、今は起こる気にもなれず、変わらない姿に、てへって笑っている青島の笑顔まですみれの脳内に蘇る。

すみれは頭を抱えてデスクに額を付いた。
溢れる笑みを零し、溢れる想いを噛み締める。
ああ、変わってないじゃん。青島くんだ。
柔く朱が差す笑みは、本人には見せられないけど、電話だから丁度良い。


『ねぇ、会えないの?』
『俺のミイラ見て笑う気でしょ』
『ばれたか』

電話の向こうが拗ねた気配に変わる。
すみれは目を瞑って、光景を思い描いた。


『ねぇ、出て来れないの?顔くらい見せなさいよ。みんな気にしてるのよ』
『あー』
『仕事はともかく顔出しだけでも』
『みんな・・・・元気?』
『あ、うん。げーんき、げんき!相変わらずだよ。・・・和久さんは腰庇ってたら膝やられたってぼやいてる』
『最近朝晩冷えるからねぇ。やっぱ俺がいないと』
『あ、そうだ。雪乃さん、多分真下くんとデートしてるよ』
『お、マジで。真下もやるじゃん』
『袴田課長は神田署長たちと相変わらずつるんでいるし・・・』
『――・・・』
『魚住さんはねぇ、お正月にお子さんと会ったんだってよ。きっと、惚気話、いっぱい聞かされるから』
『・・・・そか』
『青島くん?』

なんか声が聞こえにくくなった気がして、問い掛ける。
くすりと零れた吐息が耳に残った。

『へへ。ごめん、なんかしんみりしちゃった。たった数ヶ月なのにね。懐かしいや』
『そだね』


どちらともなく、口数が減る。
こんなぎこちない空気は、同じ部屋に居る時は感じなかった。

傍に居ることの自然さと、居ないことの不自然さ。
確かに今、自分たちの背後で何かが起きてて、こんな太陽が燦々と降り注ぐ蒲公英色の平和な日常の奥底でじわじわと腐食していく現実がある。
急に部屋の明度が曇り陰りを差す。
拭い去れない源がゾワリと近付いた気がして、すみれは背筋を震わせた。


『今・・・どこにいるの?』
『ん~・・・、ごめん、それはまだちょっと言えなくて』
『え、何でよ?』
『上に口止めされてる』
『ちょっと・・!そこ大丈夫なの?』
『あぁ、そーゆーイミではダイジョーブ』
『そういう意味って・・・。青島くんもついに本店の人間になっちゃったか』
『なってないっての』


騒がしい筈の署内も、今は青島の声しかすみれの耳には届かない。
他の電話がけたたましくなっているのも、気にならなかった。
横で中西課長が、慌てて受話器を取り上げる。


『じゃあ、こっちから連絡も出来ないの?』
『それも――ごめん』
『それもぉ?・・・あたしがこの電話逆探したらどうなるの?』
『物騒なこと言わないの。ってか湾岸署にそんな御大層な設備ないでしょ』
『そこが欠陥よね。その時点で終わってるって気がするわ』
『確かにね』


また、一緒に笑い合うタイミングまで揃った。
姿が見えないことが辛い。嬉しいのに、胸が痛い。
すみれの中で、黒い染みのような点がじわりと広がり、それが不快で急かされる。
無性に、ただ会いたい想いが沸々と湧いた。


『ねぇ・・・・ケータイは?』
『あれ、そういや俺どうしたっけな・・・?確か・・・あ、最初の時に失くしてそれっきりだ』
『潜入に入る前、本部から新しいケータイ渡されてたよね』
『そうそう、それ。連絡用に盗撮しけこめるヤツ。でも壊れた』
『元々の自分のは?』
『それは自宅に置きっぱなし。たぶんもう充電切れてんな』
『取ってきてあげようか?ご自家から連絡とか入ってんじゃない?』
『あ、ん、それダメ。・・・聞いてない?すみれさん、危ないから俺んちとか近寄っちゃ駄目だからね』
『それって』
『実家はダイジョーブ。さっき一報入れてすっげぇ叱られたとこ』
『ねぇ、でも』
『ダメだよ』
『・・・じゃあ、やっぱり――』
『すーみーれーさんっ』


甘く、子供をなだめるような、優しい声。
窘められ、少し言葉を噤んだ。


『心配しないで。俺は大丈夫だからさ』
『心配させるような状況なんでしょ・・・?』


いざ言葉にしたら、思った以上に胸が込み上げた。
痛み、腫れあがっていた何かが破裂し、堰を切って溢れだす。


『どうして・・・?ねぇ、なんで帰れないの?何で終わりに出来ないの・・・・?』
『すみれさん・・・・』
『ずっと連絡くれないし・・・、あたし、すごくすごく心配したんだからね・・・』
『――うん』
『待っても待っても声聞けないしッ、上は何も知らないの一点張りだしッ、この間ここの本部まで撤収されちゃったのよ・・・っ』
『――うん』


身を全力で捧げてしまう青島だからこそ、その危うさが切実だった。
優しい青島だからこそ、その不安は大きく、喪失の恐怖が押し寄せる。
姿が見えない声だけの逢瀬だからこそ、まるでこれは夢でも見ているかのような儚さを感じさせ、実態が霞んでいく。


『ねぇ、なんで青島くんだけこんな目に会うの・・・っ』
『・・・・』
『もう会えないの・・・?』
『・・・会えるよ・・・』
『嘘だよ、いないじゃん、ずっと、いないじゃない・・・っ』
『・・・・』
『あおしまくん・・・っ』
『ん』
『どこにいるの・・・』
『ん』
『――会いたいよ・・・っ』
『ッ』


掠れた声でようやく告げた本音は、ここが湾岸署であることも忘れさせた。
辺りの喧騒が、すみれの嗚咽を誤魔化してくれる。
ストレートの黒髪が俯いた動きに倣ってさらりと目元を覆った。

どうしてこんなにも手遅れにならないと、人は自らの本音にも気付けないのだろう。
失くして初めて知る大切さは、当たり前と思っていた日常の中に潜んでいて、こんなときだけ顔を出す。
どれだけ幸せだったかを描きだし、戒めるのだ。

もう戻れない。取り戻せない。
贅沢だった日常は遥か後ろで、もしかしたら永遠に続く暗闇の道を、この先ずっと耐えていかなきゃならないのかもしれない。
なのに時は止まらず、闇にすみれを押し流す。
一人きりで。


微かな嗚咽は、確かに向こう側にも届いているのだろう。
言葉にすれば届くのに、この手は届かない。
遠く戻れない過去は今尚眩く輝きを放っている。


青島は、すみれの激情が治まるまで黙って付き合ってくれた。

『ここに・・・青島くんがいないと、背中が寂しい』
『そか』
『それだけ?』


くすっと肩を竦めたような、甘い吐息。
泣いてしまったことで取り繕うこともなく素直に強請ってみれば、小さく一言だけ呟かれた言葉に何だか悔しくなる。
甘えたな気分は、それでもすみれの内情を穏やかにした。


『うん、俺も。・・・・早くそこに戻りたいよ』
『・・・ほんと・・・』
『ごめん、いっぱい心配させて。俺は元気だし、一人じゃないし、安全なのは確かだから』
『うん』
『本店も極秘では動いてくれているんだ。ってか、主に新城さんが』
『やるね、二号機』
『見直しちゃった?』
『ちょっとだけ』


きっと、言えないことがいっぱいあるのだ。
マスコミや警察が情報源を秘匿することは珍しくなく、時にそれは必要なことでもある。
作られた虚像を表舞台に出すことで操作される現実は、それが確かに誰かを陥れたのだとしても、何かを護ってもいる。
そんなことに、今更拗ねたりはしない。
そんなことに、今、惑わされたりしない。
私達はその覚悟をもって、この世界で生きることを決めた人間だ。
今出来るのは、待つことしか、きっとない。時が満ちた時、すみれでも出来る役割がある。

きっと、もう少し。
もう少ししたら、悪夢は終わる。


『すみれさん』
『ん?』
『きっと、必ず、帰るから。そこに会いに行くから。――待ってて』
『ん・・・・』
『絶対、また、連絡入れる』
『ん』


名残りを残しながら、すみれは通話が切れたのを認めて、受話器を下ろした。
その指先は小さく震えていた。










3.
長すぎた冬が山嶺を凍えさせるように、いつしか凍りついて見失ってしまった道標は、三年前で止まっていた。
寝静まる夜の内に世界を変えてしまう氷の結晶に、残した爪痕の深さを思い知る。
音も立てずに忍びよられた脅威だけがリアルだった。
それは無意識の忘却に近かった。


五cmほど隙間を開けておいた背後のスライド扉から空気が流れ込んだ気がして、室井はパソコンから意識を逸らした。
もそもそと奥から衣擦れの音もなく影が忍びよってくる。

「起きたのか」
「・・・、なんとなく、です」

小さく誤魔化す言葉の裏に潜む怯えには敢えて触れずに室井は顔を上げた。
青島がだぼだぼのパジャマから髪を幾分乱暴に掻き上げながら、苦笑いを向ける。

解っている筈なのに、顔を見た瞬間、室井の胸が疼いた。
自分にだけ向けられる頬笑み。変わらずそこにある瞳。
ようやく取り戻せた宝石に日増しに歓喜が募る。
少し色素の薄い室井だけを映し出した透明の水晶に、直向きな信頼を乗せていた。
これがいつだって室井を満たし、壊すのだ。その度に鼓動が高まり、芯から打ち震える。

自分の意思ではどうしようもない反応に室井は瞼を伏せた。


「なんか飲むか」
「ん~・・・、」
「お茶がいいか、それとも」
「それ」
「ん?」
「それでいいです。一口頂戴」


室井の飲みかけのマグカップを指差し、半分裸足の足がぺたぺたと近づいた。
踵だけ開いているサポーターが下膨れの指先を治め、折り曲げたパジャマの裾から覗く。
黒の布地が肌をより白く電灯に反射させる。

凍傷寸前の寒冷傷害でも、患部を切断することもある。
あの日、雪に晒され続けた青島の足指や手、耳などの末端は、皮膚の変色が進んで黒っぽい色になり、水泡が出来ている部分すらあった。
室井が直ぐに適切な応急手当てを行ったため、幸い大事に至らずに済んだが、あれから数日。
折角回復してきていた身体はまた包帯の装飾品を纏うこととなっている。


室井が僅かに戸惑った瞳で無言のままに飲みかけのマグカップを手渡せば、青島は立ったままゆっくりと二口ほど飲んで、室井に視線を向けた。

「寝ないんですか・・・?」
「こんな時間か」
「仕事?」
「いや・・・。単なる資料だ」

青島がぱふっと腰を下ろして室井の傍に座った。

「どした」


穏やかな時間が戻りつつあった。
乱暴なやり方ではあったが、二人の時間をあの冷たい夜が結晶化させたことで、今、新たな時間を再び形成しつつある。
室井の懇願にも似た説得に応じこの部屋へと戻ってくれてから、青島が見せる表情は少し年下らしさを混じらせるようになった。
同じ生活サイクルの中で、室井の一人称は〝俺〟に統一された。
遠慮するほど青島が委縮するので、もういっそ邪険にも見える物言いをする時もあり、皮肉にも楽になったのは室井の方だった。
あまりに他愛なくささやかな願いは、室井を喜ばせるものでしかなく、また、切なくなるほど淡いものばかりだ。

手に取って触れてしまえば霞のように溶けて消えてしまいような時間は
多くは変わっていないようで、でも確かに何かが組み替えられていた。
唯一見た目で変わったところは、布団は並べて床に就くようになったことだ。
室井が青島を隣に寝かせ、寄り添うように眠りに付く。
ただ時々こうやって気になることがあると、室井は青島が寝入ってから起き出し、所用を済ませていた。


こくりと嚥下する音を鳴らし、青島が上目遣いでマグカップを返してくる。

「手伝えること。あるんだったら起こしていいんですよ~・・・?」
「大層なことはしていない」
「あ、守秘義務があるから駄目か・・・」
「捜査資料は情報漏れ防止のために持ち出せるわけないだろ。ここにあるのは私物だ」
「ん?」

寝癖の残る栗色の髪を揺らし、青島がコテッと首を傾ける。

「手伝ってもらうほどのことじゃない。・・・判例の新たな解釈が出たっていうんで、つい目を通してただけだ。・・・仕事じゃない」
「へぇ・・・」


青島がぽてぽてと隣ににじり寄り、テーブルの上のノートパソコンを覗き込んでくる。
同じシャンプーと石鹸の香りが室井の鼻孔を擽る。

「こんなとこまで目を通すんだ・・・」
「一般に知られ難い判例は社会通念だから捜査の役に立つこともある。知っておきたい」

嗅覚というものはかなり鮮烈に五感に突き刺さるもので、青島から同じ匂いが辿れるということは、妙な独占欲と支配欲を満たした。
然程強くない芳香なのに、触れ合いそうな体熱と共に、室井に凶悪な酩酊感を引き起こす。
たっぷりと布を使ったパジャマは黒地に赤のチェックで、緑のチェックである室井と色違いだ。傷に触らないようにと少し大きめのものが新たに用意されてい る。
袖口から僅かに除く手先もしもやけのようになっていて、指先を腫れあがらせていた。


「法の中で動く人ってかんじ」
「今更何を言っているんだ。警察官は法と秩序を体現する職業だ」
「あぁそうか」
「むしろ――統括者には先入観と感情があってはならないと警察学校で叩き込まれた」
「所轄と逆だ」
「逆・・・にしたのはおまえだろ」
「・・・・・褒めてる?」

咄嗟に眉間に力を入れると、逆に青島の口元は締まりの無いものへと変わる。
愛おしくて愛おしくて、大切だと伝えるにはどうすればいいのだろう。


「その皺寄せが上にくる」

それでも努めて冷静に言葉を選べば、それはつい小言染みたものとなった。
ちぇ~っと青島が不満そうに頬づえを付く。

「ま、ね。行政の常識って民間じゃあり得ないこと多々ありますしね」

室井の葛藤など知りもしない青島の瞳がくるくると変わり、モニタを追う。


「そういや室井さんって・・・今更なんですけど、今、何の仕事なんですか?」
「今更そこか」
「だって詳しく聞いてなかった」
「刑事局だ。刑事企画課課長補佐」
「・・・・」
「閑職だ。ただ名前が付いてるだけの」

言い訳染みた文言を続ける室井に、青島がくすりと息を漏らした。

「また俺に地味って言われると思ってる?」
「言うんだろ」
「東京に戻れただけ儲けもんです。そこはポジティブに行きましょうよ。貰っちゃったモン勝ちですよ」
「・・・・慰めにしては創意工夫が足りないな」
「もぉぉ。頑固」


青島が困ったような顔をして笑う。
現在の室井の役職が一体どんな仕事内容なのか、青島には結局よく判らなかった。
ただその〝閑職〟のお陰で、こうして新城の補佐としても時間を割くことが出来たのだということは想像に難くない。
暇なだけでなく、相互作用や副作用も起こさないくらい、つまりは捜査一課からかなり離れた遠い部署であることが伺い知れる。

依頼を受けた時、室井は何を感じたのだろうか。
嬉しいと一言で言ったって、きっとその裏には計り知れない様々な困窮があったに違いなく、青島は口唇を噛んで隣の室井を見上げた。
なんだ?と目で問う室井に、恐る恐る口を開く。


「やっぱり捜一に戻りたい、ですか・・・?」
「――そう、だな・・・、いつかはな・・・」

誤魔化しても仕方ないと思い、室井は幾つかファイルを閉じながら生返事を返した。

「・・・って、俺のせいか、ハハ」


冗談めかして話す青島の言葉の深さに、彼の抱える重さを知る。
室井はモニタから視線を戻し、項垂れるように歪な笑みを浮かべる青島を見た。

築き上げた関係が消えていく様を、青島はずっと一人で見ていたのだ。放置することもできたはずなのに、傍で、ずっと。
病院のベッドの上で。北海道から遠いこの東京の地で。
待ち続ける決断の裏には、事故の呵責も罪咎もあったのだろう。それ以上に、これくらいで室井が終わる筈はないと賭けてくれた願いでもあって
こんな時、室井は例えようもない熱の渦に翻弄される。

青島の、身体と心に残る傷痕はすべて室井の痕跡だ。

博愛で多情な情愛の強さを愛嬌で誤魔化してしまう男の、手間のかかる深さは青島の冷たさの裏側だった。
本当は室井に必死に追い付こうと踠き、室井をその細腕で護ろうと粉骨していることを
陳腐な言葉ではなく、こういうところで感じ取る。

崩れ落ちそうな愉悦を感じ、室井は頬を強張らせた。


「君が気にすることじゃない」

それでも拭い切れない想いがあるのか、青島が遣る瀬無く微笑を見せ、人差し指でモニタを指した。

「じゃ、手伝える?」
「・・・おまえ、その手で何をどう手伝うつもりだ」
「あ」


青島の身体と心の中で生きている傷痕が、青島を動かしているのであれば、それはとても危険で甘美な誘惑だった。
過去を押し流したことで、新たなステージへと始めることは、一方であれほど共鳴した時間を過去にするという含蓄がある。
二人を繋ぐものが薄れていくことに、室井は得体の知れない闇を見た。
許されることは、望んだ筈のことなのに今となっては名残りを惜しむ。
鎖で繋ぎ、閉じ込めて縛り付けてしまいたくなる。
身勝手な貪欲さは、恐怖に近い。

室井はいつもそこで凶悪なまでの廃れた自分の思考に、辟易する。
失った先の未来が恐ろしい。
自分の底なしの欲望がおぞましい。
室井の中の脆弱さを嗅ぎつけてしまった青島に、現実的に見限られる恐怖も合わせて、足元が竦む。


「青島」
「ん?」
「俺はまた君を傷つけるかもしれない」
「うん・・・傷つけてよ」

すんなりとその口から転がり出た願いに室井の肩が驚きに跳ねる。

「室井さんが前を向いていけるなら下っ端はいくら傷つけられてもいいんだ。・・・って、前言いましたよ。命だって惜しくなかった」
「軽々しく言うな」
「そんくらいの気持ちって意味で」
「その熱意は他に回せ」
「へへ。・・・行こうよ、室井さん。てっぺんまで。頂上から見える世界を拝んでやろうぜ」
「この先のキャリアの道に首を突っ込むのなら、君だって泥まみれだ。引き返せなくなってもか」
「上等。付き合うよ。付き合わせてくれるならね」
「・・・・」
「あんたは、俺を綺麗なだけの過去にしてみせている間は、こっちはそれを演じてもいいけど、そんなのいつかは化石になっちゃうんですよぅだ」

――俺が、知らぬ間に見知らぬ男に穢されていくように。
少しだけ胸の痛みを残す記憶に蓋をして、青島は綺麗な瞳を悪戯な色に変え室井へ向けた。
室井の漆黒の瞳がより一層闇色を深めて野生味さえ抱かせる。


「・・・君は、本当に・・・」
「え?」
「いや、なんでもない・・・」


こんな風に言葉を濁すのは、室井にはよくあり、青島はその度に何か濁されている気がしてくる。
不安げに青島が眉を潜めると、室井は青島の頭を優しく叩いて撫でた。
青島の言葉はいつだって室井の奥底から壊れるほどに揺さぶってくる。

民間出の青島の豊かな発想と地に足の付いた着眼点は、いずれ雲の上で仕事をする室井にとって、他キャリアに負けない強みに変わる。
あらゆる差異を持つ二人がタッグを組むからこそ、そこに息吹と可能性がある。
例え今、青島と共に過ごすことが室井のキャリアに陰を落としたとしても、それはいずれ覆えせると室井は考えていた。

そんな取り繕った言い訳のような理屈を用意して、それでも繋ぎ止めようとする執着に、室井は自嘲気味に口端を歪める。


「なんだよ」
「物好きだなって話だ。・・・お互いに」

青島の苦みには気付かないまま、室井は天井を仰ぐ。

あの日、一倉の電話で邪魔されて以来、どうもにチャンスが掴めないでいる。
あれからお互いの誤解と擦れ違いを正すための他愛ない話はいくつも重ねてきたが、室井にとって肝心の種の部分はまだ何も告げられていなかった。
青島から戸惑ったような、怯えたような瞳を見せられてしまえば、それこそ踏み込む隙すらない。
いつ言うか。なんて切り出せばいいのか。
考える程に思考は袋小路に入っていく。
元々こういう色恋沙汰は不得手なのだ。


チロリと青島に横目を投げ、室井は眉間を深めた。

「ほら、きちんと袖通せ。肩を冷やすな」
「ん、もぉ寝る時なんてTシャツでいいのに」
「パジャマにはパジャマの利点がある」
「・・・しかも、だぼだぼだしぃ」
「似合ってる」

チラッと視線だけ上げてそう告げると、室井は寝崩れていた襟元を正した。
少し朱を叩いた青島の顔を横目に流す。

「寝る時身体を締め付けると傷に障る」


いつか、思い出の階段もその身体に残る皮膚の刻印も、青島に残っていれば室井はそれで生きていける。
化石になった遺跡でも、形を残す限り、室井はそれを神殿のように奉るだろう。
道外れた価値観に、吐き気がする。
それでも時は残酷で、いつか新しい何かに上書きされていくのだろうか。
青島の中の室井も、いつか消されていくのだろうか。

次の関係に進み始め、忘却という恐怖が室井を蝕んでいた。

無邪気に信じていた未来は、実は最初っから用意などされていなかったという悪夢に消え
続いていることにしてしまいたいから、続いているように振る舞っているだけで
本当は何もかもが嘘なんじゃないか。

魂と瞳が突き刺すほどに鮮烈で、その目も眩む存在感に圧倒された。
こんなに凶悪なまでに底の底まで奪われて、この先他の誰でもこれ以上を満たすことはない気がしてくる。


「また・・・いつか、一緒に仕事、出来たらいいですね・・・」
「おまえとか?・・・気が重くなるな」
「そこはそうだなって言うとこでしょ」
「あんまりしみったれた声出してるからだ」


くしゃくしゃと室井が青島の髪を掻き回した。
黒地のパジャマから覗く白い肌が艶々と光る。
それでも、これは俺のだ。
どんな形であっても、これは、俺のだ。
放っておくと一人で突っ走ってしまうやつだから、ちゃんと護ってやりたかった。自分の手で護りたかった。
何も望めないと思っていた反動で、解放された今、強欲の境目は緩やかに溶け、室井を澱ませていく。


青島の何もかもを委ねたような、親愛の反応に酩酊感が襲い、不意に吸い寄せられそうになる。
室井はさり気なく視線を外し、話題を変えた。

「明日の服、まだ用意してなかったな」

ゆっくりと膝を立て、クローゼットに向かう。
翌日の青島の服を選ぶのも、相変わらず室井の役目だ。

青島は後ろで苦笑しながら胡坐を掻いた膝を立て顎を乗せた。
顰め面で悶々とクローゼットに首を入れる室井に、後ろめたさを感じていたのは昔の話となった。
あれは、嬉々として楽しんでいるのだ。

まったく、分かるかっつーの。


「前回はこれにニットを合わせたか。今回はもう少しこなれ感出したいが、差し色が欲しいな・・・」

仏頂面で真剣にクローゼットと会話する室井を、可笑しそうに青島の瞳が柔らかさに滲む。
あの雪の夜を思い出した。

なんかあの夜は色々しんどくて、お互いに限界で、無理を重ねた攻防の中、室井の勢いに押されて、綺麗に丸めこまれてしまったような気がする。
流石キャリアだ。侮れない。
男同士なのだし、警察官なのだから、誤解が解ければそれで充分で、それ以上何かを伝え合う方が異常なんだけど。
そんな関係を望んでいるとも思えないんだけど。それにしたって。

色々誤解は解けて、とりあえず迷惑にはなってなさそうなことと、室井との距離が遠くなってしまった訳ではないことは理解した。
雪が舞い上がる中、室井が必死に告げてくれたことは、朦朧とした意識の中でもはっきりと覚えている。
だが、絆されて戻ったところで、現状何が変わるわけでもなく、結局は室井の思い通りというか、反乱は不発に終わったというか。
ただ傷を増やして返ってきただけのような虚しさが底辺に残る。

くっそ。俺、何で絆されちゃったかなぁ。

立てていた片膝の上に頬を乗せ、横を向いた。


薄汚れてしまったのはこちらの方だ。
何の力もないことを思い知らされ、傍にいることの意味を見失う。
見失いそうだからこそ、いっそ過去など捨ててきっぱりと決裂してほしいのに、なんだって室井はそんなにも自分に拘るのか。

それでも、そんな自分が隣にいることを、少なくとも室井自身が所望しているうちは、応えたいと思った。

ここに戻ってから、室井は静かに色々話してくれた。
青島の置かれている状況。外出の危険性。室井が匿う意味。
外に飛び出したことの迂闊さは、舌打ちしたいほど悔しい。

室井がどんなつもりでこの仕事を引き受けたのかは分からないが、かつての悲劇で途切れた二人を確かに繋いだ。
室井は間違わない。
目指す場所は同じだ。
だったら、室井が選ぶ道を期限が終わるまで応援していきたい。
どうせ、キャリアとノンキャリの道なんか、どこかで分離する。

ってゆーか、俺、別に好きだとか惚れたとか付き合ってくれだとか!何にも言われてない・・・!!


ばふっと手元に合ったクッションに青島は倒れ込むように顔面を押し付ける。
どうしたら良いのか分からないままに、暴走してしまった自分も恥ずかしい。
これ以上の共鳴を拒む青島を、室井の情愛はじわじわと追い詰めていく。


「どうした?」
「――、なんでも。・・・明日の天気は晴れですよぅ。軽めでお願いしますぅ」
「軽めか。だったら指色はスカーレットレッドで明るく行こう。黒地に映える」


クローゼットにご執心の室井を、セットしていない前髪の奥からそっと覗き見る。

まあ、それでも、充分幸せだった。
馬鹿みたいな勘違いと擦れ違いの惨劇で、キャリアである室井を雪の中、走りまわらせてしまったが
結果的には青島よりも、室井が、諸々事情に置いて色々好都合だったらしく、良い口火となったと後に語った。
他愛のない話しをしながらサッカー中継見たり映画見たり・・・
期限付きの室井との生活は、甘い感情を抜きにしても凄く居心地が良かった。
あの頃の切ない想いが引き寄せた今の幸福が、俺たちを繋いでいる。
もう、それは過去の幻影ではない。

――俺は室井さんを見くびっていた。
彼は、俺とは異なる視点で色々考えていたし、俺以上に二人の関係を大事にしていた。
そして俺はそんな彼の表面しか見えていなかった。
彼の抱える孤独とか、脆弱さとか、閉塞感や絶望。
置かれる世界の重さだけに目を奪われて。
彼が俺を必要としたのはそこなのだ。
現実的な立場や属する世界ではなく、彼が俺に欲しているのは、そういったもっと内面的で、それでいて彼の根幹を成す部分の未成熟な部分が
俺を求めたんだろう。

だったらせめて言い訳して、傍に在り続けることを赦されることはないだろうか。

都合の良い理想論が脳裏を過ぎり、青島は緩く目を閉じた。


パタンと今度は箪笥を開ける音が聞こえ、青島は少し足を崩してクッションを抱いて起き上がる。
後ろ手に手を付いた拍子に、何かが背後で雪崩を起こして崩れた。
なんだろうと思って振り返ると、白い台紙が山積みされていたらしい。


「あ。崩しちゃった・・・すいません・・・」
「ああ、いい、放っておけ」
「でも。・・・ん?なにこれ、見合い写真?」
「・・・・・ああ」

興味無さそうに室井が生返事を返す。

「ふーん・・・、やっぱあるんだ、こうゆうの」
「いつもは庁内のデスクに押し込んでくるんだが、今日は帰り際に渡されてな」
「・・・結構ありますね。・・お、美人」
「以前より少ない」
「そうなの?」
「左遷からこっち、これでも半減した」
「ふぅん?」
「経歴にも変化が見られて・・・、見苦しいもんだ」
「あ~・・・・、それもまた俺のせい、ですかね?」
「お陰で楽だ」


苦笑いとも取れない曖昧な笑みを青島が室井に向ける。
楽だなんて言ったところで、強固な組織基盤と後ろ盾は室井の明瞭な戦力になる。

幾つかの服を持ち出し、組み合わせを鏡の前で考えていた室井が、渋面をしているのが鏡に映り込む。


「全部断っちゃう気?」
「・・・ああ」
「なんで?・・あ、俺が言えることじゃないですけど。・・・・いんですか」
「おまえが気にすることじゃない」
「・・・・」


チロリと室井の視線だけが鏡の中で青島に向けられた。
不安気な顔色の青島に室井が肩で大きく息を吸う。
また隠されたと思うのだろうか。


「別に怒っているわけじゃない」
「・・・・はい」
「――、左遷された俺を、東京に戻してくれたのが吉田副総監のご尽力だった。立場上誰もが敬意を評する御方の判断だ。表立って反論する者はいない」
「・・・・」
「だが、皆がその判断に納得している訳じゃない」
「室井さんの復帰を面白くないって思う人がいるってこと?」
「いるだろうな。そんな水面下の中で、副総監から直々に己の立場を護るためだと政略結婚を勧められる」


言いたいことが分かり、青島は口を引き結んだ。
つまり、恩を返せとも泥を塗るなとも、何通りもの逃げ道を断たれた状況で、その一番意味する所は
ここまでして戻した室井にこのままでは価値がないと副総監自身から言われているのも同然なのだ。
副総監にそのつもりがなくても、そうすることで周りの剣呑を往なす意味を含めてあるのだろう。

―何故あんな人間を庇い戻したのか。歴史ある秩序を乱すだけだ
―他に幾らでも人材はいる
―あの事件の指揮官というだけで室井は上手くやった

――聞えよがしの陰口は後を絶たない。
室井のおかれた政治的立場の困窮さは、むしろ協力者や援護者のいない孤立にあると言っても良い。
多くを語ることもなく、一心に背負うだけの室井の背中を、青島はただ見つめた。
噛み締めるように下唇に指を宛て、クローゼットを睨みつけている室井からは、だが気負いは感じない。
室井を熱中させているのは、政治でも官僚でもなく、青島の服選びだ。
青島なのだ。

薄っすらと開いたその膨らみに目が止まり、青島はパッと顔を背けた。

〝ざまぁみろっ〟
あの雪の夜のことが不意に閃光を帯びる。
何とも淫らな爛れた記憶だ。

あそこにキスしちゃったんだよなぁ。
我ながら、なんてことをしたんだと思い起こす。
勢いって怖い。

くしゃくしゃと髪を掻き混ぜて、頭を抱え込みたい思いで青島はこっそりと溜息を吐いた。

あの夜は何もかもが辛くて、めちゃめちゃだった。
その後あったことも、室井は気付いているだろうに、聞かない。
青島の仕出かした暴動を責めもしない男は、きっとあのキスもまた、なかったことになっているんだろう。
それならこちらとしても幸いだ。
大人だなぁと思う。


「だが、そんなもので掴んでも意味がない」

ぼそりと呟いて、室井が選んだ服を皺にならないように丁寧にハンガーに掛ける。

「断れるうちはな・・・」

あ、この目、好きだ・・・。

「そか・・・」

喉を絞り出すようにして出した相槌は、夜に静かに溶けた。


室井が用意した服を整え終えると、またパソコンの前に戻ってくる。
そして、改めて青島の顔を見た室井の眉が微かに歪んだ。
少しだけ悲しそうで、何かを呑み込んでしまったような瞳が蜂蜜色に光り、室井の心臓がドキリと高鳴った。

・・・そんな目をするくらいなら、もっと飢えの深さを赤裸々に曝け出して欲しかった。
嫉妬でも独占欲でも、室井の中で疼く情念に似た淫らなものを見せてくれたらいいのに。
そんな目で呑み込むものは何なのか、青島は告げてはくれない。

あの夜の一件で、そしてあのキスで、青島の中にも室井に対する直向きな熱情があることは、察せられた。
未完成で未成熟な想いをそれでも瑞々しくその胸の内に浸らせ、潤む瞳に乗せながら
尚、青島は隠してしまう。
それが室井と同じものなのかまでは分からないが、室井の深部を共振させるように疼かせるのに
その青島の瞳が全てを躊躇わせる。


「明日の昼飯のリクエスト。あるなら今聞くぞ」
「言ったらコース料理でも出してくれんの」
「俺は仕事だ。現実的に考えてくれ」

はは、と笑う青島の顔からは、もう先程の憂いは消え失せる。
少しホッとして室井の頬も合わせて緩んだ。

「室井さん、もぉ俺に甘すぎ。こぉんなに至れり尽くせりで、俺、元の生活に戻れなくなりそう」
「ずっとここにいるか」
「ずっとっていつだよ」
「ずっとはずっとだ」
「嫁さん、貰うんだろ」


青島では白い台紙で微笑む女たちのように、室井に付加価値を付けてあげることはできない。それ以前に男だから社会単位すら形勢させてやれない。
ましてや壮年期の成熟した男として満たしてやれることもない。
そんな言葉の響きに、室井の心は震える。
自分を立場やキャリアではなく想ってくれるひとがいる。


そっと手を滑らし、室井がその温かくふっくらとした頬を撫ぜた。
急な接触に少し驚いたような瞳が、室井を真っ直ぐに映し出している。

大切にしたいものが何なのか、分からなくなっていく。
これから先も大切にするには、何をするべきなんだろう。

〝お慕い申し上げていると言ったんですよ〟
あの夜の新城の声が木霊する。

深々と夜が更けて、物音一つしなかった。
二人の出す呼吸の音さえ聞こえそうな眠りに就いた空気の中で、ただ見つめ合った。


「今の俺にはおまえがいるからな。役目は足りている」
「何の役に立ってるって言うつもりですか」

気のせいか、お互いの声は熱に掠れていた。

「人生で必要な相手は多数いても仕方ない」
「頂点に立つキャリアが言う台詞じゃないですよ」
「手厳しいな」
「女が満たすのはそこだけじゃないですよ」

意味深に青島の瞳が夜の色に染まる。
危うく呑み込まれそうになった意識を理性で留め、室井はその顎を人差し指で辿った。


「そこまでおまえに頑張ってもらってもいいが」
「!」

そう返ってくるとは思わなかった青島が、目を見開いて背中から後退さる。
瞳だけで室井は笑って見せ、手を解放した。


「男を揄うからだ」
「おっおっ俺だってオトコですよっ」
「そうか?コドモに見える時がある。・・・どうしてかな」
「知るかっ」


青島の慌てぶりに堪え切れなくなり、室井がふっと息を漏らした。
俯いた額に短い前髪がかかる。

――笑った。
笑うんだこのひと。室井は時々、こういう反則的な笑顔を見せる。
思わず魅入ってしまった青島に、室井は小さく呟いた。


「 おまえ、面白いな。あんまり表情を崩さない飄々とした奴かと思っていた」
「ほっといてよ」


赤らんでしまった顔を見られたくなくて、青島は胡坐をかいた足を両手で掴んでそっぽを向く。
すっかり拗ねてしまった青島はまるで4つ以上の小さな子供のようで、室井は余計に可笑しくなった。
純真で天真爛漫で、こんなにも可愛いくせに、いざとなったら警察組織ごとひっくり返す力を見せるのだから
稀有な能力だ。
大事で大事で、愛しさまで満ち溢れ、それは室井の呼吸さえも奪っていく。

なのに自分は、青島みたいに身を捧げて愛するなんて芸当はできそうになかった。
欲しいものは手に入れたい。大事なものは抱きしめたい。共にあることを切に望む。そういう愛し方しかできない。
それは弱さなのだろうか。

この腕に抱いて眠る。その貴重で優しい時間が、ただ切なかった。
だけど止められない。
どこか理性的な鎧を纏い、自分たちは残酷な手に導かれるままに、流されていた。



パソコンをシャットダウンすると、室井は冷めてしまったほうじ茶を最後まで飲み干した。

「寝るぞ」
「う、うん・・・」

片手を取り上げられ、青島が手を借りながらのろのろと立ち上がると、リビングの電気を消灯する。
一緒に寝室の扉を潜った。









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背景には突っ込みをいれてはいけません。あくまでボケボケカポーの馴れ初め話です。