STRAWBERRY KISS 6
11.
「悩殺出来っかなー・・・」
「誰を殺す気だ?」
「・・!!」
驚きすぎて、まんまるに口を開けた顔が、壮麗な夜明けを背負いながら泥だらけの顔で振り返る。
室井の不安と安堵が入り混じるその顔に、すぐに青島は煙った表情に変えた。
コートもジャケットもなく、薄汚れたワイシャツもその所々が破れ、インナーシャツまで裂かれている。
スラックスは金物で裂いたように大きく千切れ、血とも泥とも判別しがたい汚れが多数付着しているのが見て取れた。
肌に張り付いた薄い布は、その内に秘める艶肌を月に暴かれ、見る者に淫靡に媚びる中、彼の身に起きたことを正確に証明していた。
理由もいらず、ただ好きだなと室井は思った。
もうそれで、充分だった。
銃を戻しながら、警戒を解かず室井は質問する。
「その格好はなんだ」「なんでここにいんですか」
同時だった。
パチクリと瞬きをする青島に、室井は肩から息を落として、もう一度口火を切った。
青島の性格からして、どうせ室井に会話の主導権を譲ろうとするに決まっている。
「・・・元気そうだな」
「そっちこそ、ミッションインポッシブルでもしてきたかんじ」
「こんなところで何をやっている」
「ふふん、聞きたい?」
「・・・・」
「や、えっと、その、だから、不可抗力といいますか・・・ミラクルといいますか・・・、あれよあれよという間にこの状態に。人生ってもぉ不思議ですよねぇ~」
何を照れているんだ?
愛想笑いを貼り付けながら、青島が視線を彷徨わせて説明する様子を、室井は呆れた顔で眺めた。
青島の言葉は時々室井には異次元の暗号となる。
「目を離すな」と新城に叱られたが、全くだ。目を離した隙に一体何をやってんだか。
良く分からないものは放置して、室井は意識を変えた。
部屋の入口付近で仁王立ちのまま、無暗に動かず、室井は鋭い目つきで慎重に辺りに神経を張り巡らせる。
がらんとした室内、事務用テーブルと椅子。床には転がり落ちたリモコン。ビール缶。
埃の被った鉄製の陳列棚があるくらいで、人の気配はない。
窓はひとつ。
電気は消えている。
人が隠れるところは見当たらず、テーブルの上にはカードゲームと吸い殻が散乱していた。
事務室兼休憩室として、倉庫関係者が使用している場所だと思われた。
「和久さんから伝言を預かっている。君が保護した女性は無事だそうだ」
「!・・・ぁ、あぁ!、そう、そうですか・・!・・・・・・・よかった」
「・・・」
「へへ、それだけが心配でした」
不意に零れるように落ちた安堵の笑みは、先程見せた愛想笑いとは違う、内から滲み出るようなものだった。
恐らく本当にそれだけが気掛かりで、それだけが心残りだったのだろう。
背後の窓から注ぐ目覚めたばかりの宵闇にその輪郭を浮かび上がらせ、艶麗な顔が光と陰で浮き彫りとなる。
芸術的なフォルムに、室井は息を殺すしかない。
自分が弱っている時に、どうしてそこまで言えるのだろう、本当に、他人のことばかりだこいつは。
おまえのために何かしたいのに。それもさせてくれない。
それは周りを赦さないということだ。きっと、同時に自分も赦さない。まるで今の室井と同じだ。
海に捨て去り、失った何かが、室井のささくれだった部分に引っ掛かる。
ひそりと笑った口唇と、疲れた目元に漂う色香に奪われる視界が悔しくて、室井は意識して視線を反らした。
「えと・・・、それで、どして室井さんまで巻き込まれているんですかね?」
長い沈黙に不思議そうな顔を見せ、薄闇の中で青島の瞳がキラリと不安気に揺れた。
恐る恐ると言った様子で伺ってくる青島に、室井は厳格な目を伏せ、低い声で諭す。
「私のことはいい。怪我は」
「あ、はい、だいじょーぶです、けど」
「君こそ何に巻き込まれた」
「それは・・・えっと、・・・怒らないで聞いてくれます?」
「内容による」
「!・・・えと、だから、ホストクラブのね、女の子がクスリやってるみたいってタレコミから始まって・・」
「薬?麻薬か?」
「その辺を確かめるために」
「ホストクラブ・・・・、以前、君が潜入捜査したところか」
青島が目を見張った。
「よく覚えてますね・・・」
「世辞など要らん。で、この状況はその仲間、関係者に捕らえられたということでいいんだな?」
「はしょるとそんなかんじ」
「薬対に連絡は」
「してない・・・すいません、まだ物証がなくって、こっちである程度解決しようと頑張ったんですけど」
「そんなことは分かっている。・・・一倉を覚えているか?アイツは元々薬対の人間で、顔が利く」
室井はその場でスマホを取り出し、一度電源を入れると一倉へ一報を入れた。
たったこれだけの情報で、あっさり青島の言い分を鵜呑みにする室井に、青島の方がどぎまぎと狼狽える。
室井は堂々と鼻から息を吐いた。
確証などない。
物証は出ていないとの旨を添え、耳に入れておくだけで、充分だろう。
だが、恐らく、出る。
青島が絡んで穏便に済んだ試しがないことは、室井も経験上分かっていた。
それに、本当にシロであるのなら、嗅ぎまわる刑事をこんなところに拉致したりはしない。
「――よし。じゃあさっさとズラかるぞ」
「室井さん、なんか、キャラ変わってません?」
「君を前にすれば誰でもそうなる」
「・・・・了解」
むくれた顔で言い切る室井に、青島は片手を上げて悪戯気な瞳を薄闇に光らせた。
ドキンと高鳴る鼓動は、きっとこの非現実のせいではない。
だが次の瞬間、青島は、あ、という顔に変わる。
「どした。何かマズイのか」
「そぉじゃなくて。コンビニ行ってるだけだから奴らも直ぐ帰ってくる。でもそこじゃなくて」
「なくて、なんだ」
チャランという金物の音。
青島が上目づかいで腕を上げて見せてくるのを、室井は目を瞠目させて慄いた。
そこには、陳列棚に手錠で繋がれた青島の手首があった。
「・・・・」
「繋がれちゃった」
「・・・・」
「へへ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・君は」
何をやってるんだこいつは。
室井は眉間に皺を寄せて頬をピクピクと強張らせる。
そうだ、そうだった。
見張りがいなくて、施錠もされていないのなら、青島だって簡単に逃亡できたのだ。なのにそれができないでいるということは。
「そんな顰め面しないでくださいよ。オンナノコ庇いながらの多勢に無勢だったんですよぅ」
「女性だけ逃がしたのか」
「外に和久さんを待機させてたから、この状況伝えて貰えればと思って」
「拳銃は」
「盗られちゃった」
ばかやろう、それは始末書モンだぞ。
事前に和久から聞いていなければ、室井は脳血管が切れたかもしれない。
「タマ入ってないですよ」
「それを奴らは知っているのか」
「気付いてなさそうだった」
「・・・そのブツは奴らのか?」
「んん、俺の」
室井が顎で手錠をしゃくると、青島が首を横に振る。
室井はもう一度深い溜息を落とした。
胸ポケットを探り、それから尻のポケットを叩くと、そこにいつものキーチェーンを見つける。
取り出しつつ、室井は青島に近づいた。
「警察のならこれで開く。なんだか以前にもこんな君を見た記憶があるな・・・」
「俺も、なんか、デジャブ感があります・・・」
カチャリと小さな音がして、手錠は外れた。
くりくりと少し鬱血した手首を回して摩る青島を、室井はキーを戻しながら不躾に目を走らせる。
泥だらけで、ワイシャツも血濡れ、随分必死に抵抗はしたのだろう。
手錠の金具が青島の柔肌を擦り剥いていた。
鎖骨やわき腹に複数の擦り傷。
だが血痕かと思えたそれらの大半は泥や油のような汚れで、致命傷になるほどの傷は一見見当たらなかった。
破けたシャツに辛うじてぶら下がるネクタイと、第三ボタンまで引き千切られ覗く臍も
ちょっと残る煙草の匂いと共に、健康的ないつもの青島を薫らせる。
引き裂かれたスラックスの一部に、月が太腿を白く照らし込んでいた。
ふと顔を上げると、青島もじっと室井を見ていた。
ドクンと脈打つ鼓動が室井の心を震わせる。
一瞬で、言葉を失った。
近づきすぎた距離に、室井も息を呑んで奥歯を噛んだ。視線が外せない。
会いたかった。もう一度最後に一目見たかった。取り戻したかった。
夢でも妄想でも記憶でもなく、現実に手を延ばせば届く距離に、青島はいた。
意思とは裏腹に吸い込まれそうな翡翠の瞳に、室井は動きを奪われ、食い入るように眼差しを向けた。
「・・・・」
「・・・・」
浦風に混じり、海の匂いがした。
引き寄せてしまえる禁忌に、室井の拳が堅く握られる。
壮絶な海の夜明けの中で、息詰まるような至近距離に室井は理性から食い潰されそうに歪む。
吸い寄せられるままに、室井の身体が、もう一歩、青島ににじり寄った。
ゆっくりと持ち上げられた室井の指先は、硝子に触れるかのように、少しだけピクリと動いた。
「・・あの、俺・・・」
室井の煤けた情味に気付いているのかいないのか、ピクリと赤い口唇が微かに戦慄き、青島も痕は残さぬ強さで下唇を噛んだ。
室井の指先が思案深げに青島の頬に伸ばされる。
「・・、」
もう一度青島が何か言おうとしたその時、幽かに階下で物音がした。
刹那、スッと意識を集中させ眉間に皺を寄せた室井に、青島もまた察した顔で、辺りをきょろきょろと見回した。
「出入口は」
「そこだけ!」
「だったら鉢合わせになるな」
くそ、どうする。
室井が扉の方に意識を集中し、青島を庇うように片手で背後に下がらせた。
「ん!こっち!室井さん!」
しかしその後ろで、青島が室井の手首を掴み、窓辺へと引っ張っていく。
夢にまで見たこの光景に、室井は触れられた手首だけが熱い。
ガラッと窓を開ければ、冷たい潮風が一気に入ってきた。
「急いで!」
「どうするんだ」
「抜け出すに決まってんでしょ!」
「ここからか!?」
「早く!来ちゃうから!」
乗り出してみれば、海岸沿いの倉庫であるだけに、下には青藍の海が広がっていた。
白々と染め始めたばかりの視界は、五メートルほど。
朝陽を浴び始めキラキラと飛沫を打つ水平線が、黄金のヴェールを走らせている。
朝霧を含む白藍の大気が、夜明けを迎えたことを告げ、室井の丁寧に撫でつけられた髪も、煽る力にパラパラと風を受けた。
「急いで!室井さんっ」
青島が長い足で身軽に入り口の扉へと向かい、音を立てずに閉ざす。
時間稼ぎのつもりなのだろう、ちゃっかり鍵までしてから、近くにある椅子やら棚やらをトラップ用に扉の前に置いているのを横目で感じとった。
その辺の作業は青島に任せ、室井は窓の外を注意深く観察する。
周囲には非常階段が設置され、錆び付いた海老茶色の手すりが所々剥げているのが見えた。
外観こそ塗装工事を行っているのだろうが、築年数は相当行っている。
非常階段までの外廊下はなく、ここが一番端の部屋だったことを踏まえても足は届きそうにはない。
となると、突破口は下か。
仮に失敗しても、眼下には海が広がる。
オフィス、住居などの天井の高さは3~4m程度が標準であるが、倉庫の天井の高さは5~7mと普通の建物の2倍程度が標準である。
特にここは海上コンテナ向けであるため、最大限の高さが適用されている筈だ。
東京湾へと続く水路は両岸が埋め立てられていて、海流の状態から、今が満潮時刻ではないことが想像できた。
風はかなり強い。
さざ波は対水風速が毎秒3mを超えると発生すると言われている。
防波堤に打ち付ける水音に誘われた視線の先には、底など見えないどろっとした真黒い海が揺れていた。
白波は雪の如く海面を揺蕩い、墨色の海が何度も何度も打ち返す。
防波堤は、銀の砂浜に見えた。
ただ一人残して続く筈の足跡を捜すように、室井は食い入る目で海を見つめた。
「びびってんすか」
ふと掛けられた声に、見れば準備を終えた青島が窓辺に片手を伸ばし、潮風に舞う髪が頬を打ちつけ、表情を見え隠れさせる奥で、挑発的な瞳で室井を映していた。
それは、いつもと変わらなく始まった夜の筈だった。
普通の朝を迎え、登庁の支度をして、ブランドスーツに身を固める。
常と異なる状況に、少しの脅えも覗かせない室井の短髪が、潮風に散り散りに崩れた。
他に選択肢はない、か。
「・・馬鹿を言え」
「お堅いキャリアさまは、こんな冒険もしたことない?」
「言ってくれる」
室井は窓を全開にすると、両手で身体を持ち上げ、窓辺に両足を乗せた。
ひゅ~と口笛を吹く青島の手を取る。
「ん?」
「君もだ」
「!」
青島だけを置いて行くわけにはいかない。
タイムオーバーとなった暁には、こいつはまた室井のために囮となる。
もうそんなことはさせない。
跪き、かしずく室井に、だが青島は手を引く素振りを見せた。
それを室井が力を込めて引きもどす。
「行って・・!」
「だめだ」
「キャリア護れなかったら、ノンキャリなんか立場ないんだって・・!」
手首を掴まれ、至近距離に顔が近づく青島が、室井を煽るように、口角を妖しく持ち上げる。
もう足音がそこまで近づいていた。
吹き込む潮風が殴るように二人の髪を巻き上げる。
足場もない窓際で、青島が室井の指を外そうと、手を掛けた。
ドクドクと脈打つ音は、心臓なのか、奴らの足音なのか、歴然とした差を見せつけ、室井が青島をきつく引き留める。
青島のシャツの襟が音を立て、緩めのネクタイが乱れ飛ぶ。
潮風がその髪をはためき、素肌を晒し、そして、青島が風に押されるように一歩下がる。
振り返り、もう一度室井を見た青島は、薄闇に悲しく瞳を灯らせ、声を出さずに口唇だけで、言葉を象った。
≪行って。だ・い・じょーぶ≫
だからッ、なぜそうなるッ!!
強引に口付けて、黙らせてやりたい衝動すら覚えた。
室井はもう有無を言わさず、力任せにその腕を引き寄せる。
「っ、ちょ・・っ」
「だったらここからは私の指示に従え」
「!」
「現場では指揮官キャリアの言うことが最優先だ」
「けど!」
「窓伝いに隣の部屋から階段まで行ってもいい。だが鍵が掛かっていたら面倒だ。・・飛び降りるぞ」
「うっそでしょ!」
「時間がない。下は海だ。大事には至らない」
「・・・・」
「君こそ、びびったのか?」
窓の下を恐る恐る覗き込んだ青島が、ぷぅっと頬を膨らませた。
底の見えない墨色の海は、時折強まる風を巻き込み、二人の足元でまるで赤子が啼いているような風音を立てている。
それは、故郷の海となんら変わりはなかった。
太陽が昇り切らない海は、どんよりと重く打ち返す。
消えない罪と罰を奏でる波が、心の奥底まで入り込む。
冷たい風が頬を叩いた。
皮肉な運命の導きに、口を閉じ、室井は青島を黙って見据えた。
この運命には抗いきれない。
感じているのは不安なのか、強烈な違和感なのか。或いは焦燥感かもしれなかった。
今の心境を表すに相応しい言葉はなく、行き場を失い、海に囚われ、微かな恐怖に溺れる男が、最後に流れ着いた海で
古傷が室井を急き立てる。
全てを捨ててきた。失くして良かった。拘るものはもう何もなかった。
権力も立場もキャリアも、未来もいらない。救いなんてなくていい。
海が室井を連れていきたければ、連れていけばいい。どのみちもう取り返しのつかないところまで来ている。
もう、いいんだ。
これで終わりに出来る。終わりにしてやれる。
綺麗なまま、これ以上の穢れを犯さぬまま、自分が自分のまま。もういらない。なにもいらない。
室井の異様な気配に気付いたのか、或いは強引なやり方に閉口したのか
青島が何かを感じ取った顔で、表情を変える。
しばしじっと室井を探るように見つめ返していた青島が、やがてぱんぱんと頬を叩いた。
「このままアイツらに転がされっぱなしってのも癪だったんですよね・・」
「私が付いている」
「こっちの台詞!」
挑発すれば、乗ってきた。だから室井は青島を道連れに出来る。
嬉しそうに目を細める青島が、誰よりも愛おしいと思えた。
「一緒だ」
不安定な窓枠に片膝を付いたまま、室井が指先でクイクイッと上がるよう指示すると、心得たように、青島も片手を付き、隣の桟へとひらりと優雅に飛び乗ってくる。
身軽な美しさに見惚れる傍で、青島はブラックのエンジニアブーツをトントンと鳴らした。
足場もなく不安定な桟は、まるで自由を謳う舞台のようだった。
遠くから、複数の足音が近づいてくる。怒号も聞こえる。そしてそれは、扉を体当たりする音へと変わった。
視線を合わせ、室井は青島へとその高潔な指先を延ばした。
じっと見つめ、そして待った。
“君は、私と一緒に"あの海"に飛び込んでくれるか?”
青島の手は、躊躇わずに室井の手に、ちょこんと乗せられる。
ゾワッと鳥肌が立った。
室井は青島の手をしっかりと握る。
「いいな?」
「・・当然・・っ」
青島も力を込めて室井の手を握り返してくる。
擦り切れるようなスリルと冒険と、未知への瑞々しい期待は、青島から溢れ、海に残る罪咎と重なっていく。
背後で、バァンと派手な音を立てて扉が蹴り開けられた。
倒れる棚、雪崩れ込む複数の黒影、舞い上がる埃が、スローモーションのように、映る。
畳みかける怒号と、向けられる銃口を尻目に、室井と青島は最後に婉然と微笑んだ。
艶やかな青島の瞳は、目覚めたばかりの大気に透明に透け込んでいた。
見交わした視線は紛れもなく誰よりも信頼でき輝きに満ち溢れる相棒のもので、その背後には夜明けの薄紫色の空がどこまでも広がっていた。

留置所で手錠に繋がれちゃう青島くん。湾岸署にきた室井さんがそれを見つけちゃうあのシーンすごく好きです。