STRAWBERRY KISS 5
9.
生涯をかける約束をした。
あの大階段で、君は私を選んでくれた。
私にとって生きる意味を与えてくれた君からも、海の匂いがした。
******
天王洲アイルの倉庫ターミナルに室井が到着した時には、幽かに空は白染み始めていた。
黄ばんだ満月がせせら笑うように海をゆらゆら照らす。
遥か遠くまで居並ぶ倉庫は蒼い大気の中、皆シャッターが閉ざされており、辺りはまだ眠りについている。
防波堤を叩くチャプンチャプンという水音が海の近さを伝えていた。
室井は監視カメラの位置を一つ一つ確かめると、柵を黒光りの靴でなぎ倒し、敷地内へと踏み入った。
歩みを進める度に、閉塞した構内に続いている夜の闇に飲み込まれてしまいそうな感覚に陥る。
光のない道の先は、まるで闇に自ら堕ち、魔物に喰われることを待っているかのような錯覚を齎した。
今更死が怖いのか。それとも俺が脅えているのは生者か。
室井は怯えてしまいそうな自分を自嘲気味に奮い立たせた。
怯む理由はない筈だ。ここで闇に飲まれてしまったら青島を護れない。
チェーンは錆びつき、ざらりとした感触で指先からまた一つ剥げ落ち、地面にパラパラと落下していく。
その痕跡は真新しい。恐らく短時間内に、ここから誰か、侵入した。
誰か。
その人物の当たりを付け、室井は薄暗いターミナルをゆっくりと進んだ。
精肉加工の倉庫が続き、見知った社名が薄暗い大気にぼんやりと浮かんでいる。
街灯が等間隔に点いていて、辛うじて当たりの様子を把握できた。
「こっちだ・・!」
ふと、小さく室井を呼ぶ忍び声が聞こえ、目を凝らすと、そこに和久の姿らしき黒い輪郭が動いた。
室井は小走りに近づいていく。
「来てくれると思ってたよ」
「いつからここに」
和久は首を竦め、顎をしゃくった。
「うちの馬鹿がここにいる。もう丸一日連絡がない。今、見張りの者が数名出ていった・・・時間はねぇ」
「一体これはどういうことです」
「詳しいことは本人に聞けや。わしらがここで押し問答してても、時間がもったいねぇ」
確かにそうだった。
室井が弁えて静かに頷く。
「さすがに年寄りのミッションにしてはしんどい。腰をやられちまってるからなぁ。俺ぁ、行けねぇ。室井さん、あんた行ってくれるか」
心得たように、室井が闇に目を光らせると、和久は年長者らしい皺がれた目元を綻ばせた。
室井はグッと喉を詰まらせる。
それは、青島を託してもいいのかとの許可に室井には聞こえた。
もし、青島の横に立つ男として相応しいと和久から選ばれたのだとしたら、この上ない栄誉だった。
元より、室井にはその覚悟がある。
死に花としての信望なら申し分ない。
距離を保った関係を青島がまだ望んでくれているかも分からない現状では、幾ら室井とて打つ手はなかった。
でも、それを確認するのも、今じゃない。
改めて年配の者から受け継ぐ重圧を拳に込め、室井は口許を強く引き締めた。
室井の気負いに、和久はそれすらも弱齢だとばかりに、達観した顔で顎を擦る。
何となく気恥しいまま、室井は熱くなった耳がこの朧に紛れていることを願った。
「おまえさんも変わったなぁ。・・・そりゃあ、あいつが、原因なんだろう?」
「・・・」
「出会っちまったってのは、避けられねぇもんなぁ」
「――はい」
フフンと掠めるような笑みを零し、和久は室井を振り返った。
今となっては、和久の言葉は室井を泣きたくさせて、深く濃く沁み込んでくる。
「まだ現場に関わっておられるのですね」
少し震える喉を引き締め、室井は話題を変えた。
和久は、旧友でもある吉田副総監が勇退すると同時に自身の引き際も決断し、完全に警察を引退し隠居生活に入った。
ただ、終の棲家となった湾岸署には時折顔を出しているようだった。
「盆栽が随分と増えたんだよぉ」
「素敵ですね」
「でもなぁタンコブは消えねぇ。古傷ってぇのは、忘れさせないようにこちらにジクッと裂けるんだ」
「・・・」
「でもよ、時折な、青島が慕って電話くれてよぉ、現役の勘をこうして、一本、ピンと張ることで許されてんだ」
語る和久の目は、可愛い孫のような年代となったかつての相棒を愛おしむ色に満ちていた。
徒然の思い出話は温かく、危なっかしいという苦情まで、彼の一部になっていることを伝えた。
傷を抱えて生き抜いた男の言葉に、純粋な恐怖まで湧き上がり、余計なことまで思い出した自分の迂闊さに
室井は頬を硬くして込み上げる悪寒に堪えた。
「室井さんよ」
「はい」
「おめぇさんたちは約束で繋がっている。でも、約束はおめぇさんの上にだけあるってことを、考えたことがあるかい?」
「・・・それは」
「俺も吉田と何度もやりあってなぁ、あいつの置かれた状況のもどかしさを思うたんび、考えたよ。俺くれぇは、果てまで付き合ってやろうって」
「・・・」
「そうしてアイツが上に立って、二人で成し遂げたら、こっちの役目は終わりだ。あとは、吉田に託す。ノンキャリなんてそれで充分なんだよ」
どこまでも無欲で、天を向き、二人で駆けた若い日々を陽だまりの中で惜しむように、濁りを落とした懐古の言葉で、和久は顎を擦る。
室井は何も言えなかった。
「青島に会ったら・・・伝言だ。おめえさんの連れてた女は無事保護したよと。伝えといてくれ」
目覚めたての海風は初夏特有の冷たさで、ひんやりと肌にへばりついた。
明け染まぬ夜の薄闇に、静寂と喧騒が微妙に入り混じる。
海の匂いに侵された身体では、無欲な願いも、ただ平たい正義の中の使命でしかなかった。
刑事の眼差しを戻した和久が、倉庫街の一角を再び警戒を寄せる。
その頬や手が泥で薄汚れているのが、菫色に染まり始めた大気の中でも見て取れた。
まずは救出が先だ。
和久もまた、差し入れを貰いながらも、少なくとも一昼夜はここで待機していることが推測される。
事情は読めないが、もしかしたら、タイムリミットも近いのかもしれない。
「どこから入れるか、分かりますか」
「左側に回りこめ。従業員用の勝手口がある。そこは常に開いている。中には――これは憶測だが、人数もそんなにいねぇと踏んでいる。精々二、三人だ」
「――・・・」
「室井さん、おめぇさんだって刑事の端くれならこんくらい、どってことないだろう?」
「場所の目安は」
「二階の北窓に影が時々、チラッチラッと映るんだ。恐らく全員そこだ。どうせ一階は豚肉だの牛肉だのがコチンコチンさ」
敷地は広く、横に長く続いていた。
トラックが数台停められているようだったが、どこも無人だ。
「あいつは丸腰だ。一応、拳銃持たせたが、ありゃダミーだ・・・。それに、正直、アイツの手は汚させたくはない」
深く室井も頷いた。
五メートル先の視界すら、霞んだ大気が澱ませてくる。
だが、その分、黒いスーツの室井はそこに紛れて近づけるだろう。
和久が室井の手鞄を預かる素振りを見せた。
警察官は必要なものは皆、身に着けている。恐らく青島もだ。
室井は黙って手渡すと、そのままジャケットの前ボタンもヒラリと剥ぎ落した。
スリーピースのぴっちりとした胸板が明けの月に浮かび、手袋やコートもスッと差し出す室井に、男の本気を感じ取った和久が意味深な目を光らせる。
室井は背を屈め、倉庫に近づく態勢を取った。すみませんと心の中で和久に謝罪する。
その室井に、和久が合図を送る。
「いいか室井さん、逮捕の瞬間は、気を付けろ」
10.
波の音が聞こえる。
もう、それが脳髄から染み出るものなのか現実のものなのか、室井には区別がつかなかった。
****
壁に背を張り付け、錆び付いた赤茶色の扉を行儀悪く爪先で蹴飛ばせば、それはあっけなく開いていった。
ギィィという錆びた音、まだ肌寒い季節の大気よりも冷えた空気、中はひと気がなく真っ暗である。
操業前の精肉倉庫からは、消毒液の臭いがした。
天窓から射し込む街灯の光で、辛うじて二階に上がる鉄骨階段が見える。
スタスタと、音もなく室井の黒い影が床を走る。
辺りに誰もいないことを確認し、室井は階段に足を上げた。
革靴が靴音を立てるので、慎重に足を運んでいく。
一番上まで登る直前、室井は階段すれすれに頭を下げて二階通路を冷厳な目で探った。
従業員詰所らしき扉が幾つか。
汚れた段ボール、空のコンテナ、バケツ、脚立が寄せられた最奥に扉。恐らくはテラスに通じる避難通路。
部屋の数が無限回廊のように連なって、靄に霞んでいた。
「一つ一つ確認するしかないのか・・・」
それはかなりのリスクを伴うだろう。
どうも青島への道のりはいつも遠い気がする。
世話が焼けるし、思うとおりになんかいかないし、振り回されてばかりだし。
「ったく、なんだって俺が」
眉尻を下げ、室井は階段の最上段に背を付けて、ふぅと天上に息を吐いた。
通路は細く、身を隠せるような積み荷などはなかった。走り出したら短時間で事を済ませる必要がある。
無論、室井もまた、和久の察したように任務執行上必要となる基礎体力、基礎技術を身に付けるための訓練は受けてきている。
官僚になる訓練生は、術科卒業後にも様々な訓練が実施される。
逮捕術・武術・拳銃操作術・鑑識実習。在りし日の基礎訓練を室井は懐かしく思い出した。
あの頃は、無我夢中だった。
久しぶりの実地に、室井は日頃高めている筋肉を改めて意識し確認する。
「こんな時、あいつなら楽しくなってきたとか言いだすんだろうな・・・」
何となく苦い味が口に広がり、室井は自分で眉間を寄せた。
カフスを外し、袖をジャケットごと丁寧に折りたたむ。
手堅く手首、足首を回し、準備を整えた。
こんな時でも、室井を強く支配するのは青島だった。
それがもう当たり前になっていることに、明け染まぬ夜の薄闇が、気恥しさを隠してくれる。
男同士でなければ、もっと事は簡単だったんだろうか。どちらかが女だったら、青島に好きになって貰えたんだろうか。
意識してもらえて、距離を縮め、その肌を触れ合わせて、未来を共にして。
掟破りも欲張りも承知の上だ。
それでも、それら室井の願いは青島のことを考えた上での結論ではなかったと、今ならわかる。
自分はただ、己の空白を埋めたかっただけだ。
「行くか・・」
日の出前に始末を付けたい。
波音の合間に、ジャケットの胸ポケットから拳銃を取り出し、最後の動作を確認する。
スマホがチカチカと点灯している。
室井は静かにその電源を落とした。
息を潜め、意識を張り詰め、漲る緊張感は、警察官として馴染みのものだ。
久方ぶりに強烈に感じるスリルに、室井は一つ深く息を吸い、静かに玲瓏な瞼を落とした。
拳銃を両手で掴み、下に構える。
何かを始めるこの瞬間が、室井をいつだって熱くしてきた。
自分がやりたいものは何なのか、自分が目指していたものは何処なのか。教えてくれた。
じわりと締め付けるそれらの随想録は、懐郷の顔をして海の向こうから、室井を呼ぶ。
目的は一つ、青島の確保だ。
フッと短く息を吐き、剥き出しの天井に顎を上げ。
カッと目を見開くと同時に片手を付いて、最上段まで身体を持ち上げると、室井はひらりと二階に舞い降りた。
片膝を付いて左右に鋭く視線を走らせる。
前ボタンを外したジャケットの裾が、半瞬遅れてトサッと音を立てて着地した。
裾が床の埃を吸い取り白くなり、室井は不満げに顰め面を後に遺す。
欲しい――原始的でありながら、酷くシンプルで潔い欲望に忠実となって、室井は走り出した。
細い廊下は鉄骨造で、爪先から繰り出す音を微かに反響させる。
――結局、自分は過去に歯向かい、批判の眼差しを自己に向けてその腹いせに組織を過激に煽っている、くだらない人間なのだ。
自分を騙すことは、強い意志さえあれば可能だと思っていた。
欲しがる資格などない。
何もしてやれない。何も与えてやれない。救えない。
こうして戻ってきたって、池神の小間使いだ。
怪我をさせて護れもしない男が、性懲りもなく欲しがるだけのみっともない妄執だった。
青島といる時だけ、室井は少しだけ普通の夢を見れた。
戦い抜いて生きていくこのタフな世界で、青島は、室井にとっての理想だった。
それももう、終わる。
まさか、青島を縛り付けているのは、あの“約束”なのか。
二人の間で交わした決意が、青島にとってはどういうものであるのか、室井は考えたこともなかった。
やんちゃな相棒の“信じてます”だの“待ってます”だの、掛けられた言葉も、室井は受け取るだけだった。
自分の悪夢に流され、自分のことしか見えていなかった。
その間ずっと、青島は、ゴールを見据えていたのか。
警察に生きる意味が、あの約束で変化したのかもしれない。
青島が、辞める・・?
“あとは、吉田に託す。ノンキャリなんてそれで充分なんだよ”
まさか、私との約束のために、か・・!
馬ッ鹿野郎!!
青島は、室井の奮闘を誰よりも願ってくれている。そのために罪も怪我も、処分だって恐れない。
室井と青島はふたつでひとつの車輪のようなもので、自分たちなら約束を成し遂げられると本気だ。
だから、彼は心のどこかで、最後に私が、幸せになればいいと思っている。
約束は私の出世と警察の未来のものであって、青島のものじゃない。
そこに自分がいるとは思っていないのだ。
むしろ、私の幸せのために戦っている気にすら、なっているだろう。
「あンの馬鹿・・・信じて待っててくれるんじゃなかったのかッ。そばにいるって言ったじゃねか・・!」
約束を果たしたら、室井にその功績を託し、青島は消えていくつもりだ。俺たちの夢が叶った世界に勇者は二人も必要ない。
いっそ、強がりのご満悦な笑みすら作って、化かしてくる。
そんな男だ。きっと、そんな彼を救えるのは、誰もいない。
あの約束とは、そんなものだったのか。
「なんでもかんでも、全部、一人で決めやがって・・!」
室井の中で、辛うじて保たれていた純潔なものが、湧き上がる激しい感情と合わせて、墨色の凍てつく海の底まで引き摺り込まれる。
何度も叩きつけていた高波が、室井の全身を荒れ狂う海水に沈めていく。
危うさを残す彼を絶対に消させはしない。なんとかしてアイツが消えようとしているのを食い止めなければと思った。
取り戻せるか?いや、間に合うか?
だから君は私の前から消えたのか。だから私の答えを聞かなかったのか。たった一人でそんな哀しい決断をして消えていくつもりだったのか。
だったら、私の返事などもう決まっている。
君は、私を許すか?それとも怒るか?同じ罪に塗れてくれるだろうか。
一人で消えるつもりなら、私を付いて行く。
一人消えるつもりなら、こっちだって全部捨ててみせる。
もう手遅れだ。必ず捕まえてやる。必ず道連れにする。手放してなどやらない。
「・・ンの、ぼんずなす!信じてるって何さ・・!腐れ縁って何さ・・!絶対、取っ捕まえてやる! 警察、舐めくさりやがって」
勝手に引き金など、引かせてやるものか。
一人で終わらせてなど、やるものか。
消えるなら、ふたりでだ。
覚悟なんて、とっくに出来ていた。信じていないのはお互い様だ。
全てを懸けて、全てを捨てて、全てを託して、終わりにする。
君がそのつもりなら、これで何もかもを終わらせられる。過去も未来も恋も悪夢も。
君に、全てが知られる前に。
あのどす黒い海の音が、大きく戦慄いて、室井の全身を飲み込んだ。
ひとつめ・・・ふたつめ・・・、最初の扉は無人だった。
室井の額に緊張の汗が夜露のように光る。
人を好きになることに理由がいるのなら、私にはきっと二度と恋など許されない。
例え江里子が背中を押してくれても、室井はあの日の彼女を追い詰めた自分を許さない。
純粋な青島も、全てを知ったら、許さない。
みっつめ・・・よっつめ・・・、扉は開かなかった。
廊下の中央辺りまできて、小さな天窓が見えた。
時間の観念はなかったが、恐らく外は日の出の時刻を迎えている頃であることは肌で分かった。
海の匂いが強い。
今、君を捕まえに行く。
室井は硬く目を閉じ、聡明な瞳に焔を宿した。
いつつめ・・・むっつめ・・・、事務室のようだった。パソコンが鎮座する。
キャリアは常に感情を制御し、客観的な思考を保つことを求められてきた。
なのに、青島と出会ってから室井は身の内に潜む獰猛な獣を自覚した。
それが、弱さなのか、強さなのかは、室井には未だ分からない。
扉は残り三つというところまできて、室井は微かに人の気配を感じ取る。
スッと鋭く深呼吸をすると、その扉の横に背筋を貼り付けた。
僅かな隙間から灯りが漏れているような気がするのは、電灯ではなく、多分、外の明るさだ。
顎を持ち上げ、天上へ向けて目を瞑り、息を整えてから、室井はドアノブに手を掛ける。
やはり鍵は掛かっていないようだ。
数センチ開け、目線だけ部屋の中へ送る。
人影は、ひとつだった。
その輪郭に、室井は瞠目した。

和久さんにね、あの台詞を言わせたかったのだ。