STRAWBERRY KISS 4







7.
「――・・ッ!!」

目覚めは、いつも唐突な海の音だった。
もう何度繰り返したか分からない朝の儀式に、室井は両手で髪を鷲掴む。
鼓動が速く、じっとりとした汗が不快に身体を湿らせ、寝間着を密着させていた。

「・・、」

小さく呟いた声は音にならず夜気に落ち、酷く乾いた喉を自覚させる。
激しすぎる海の音で叫ぶ声は途切れ、何を叫んでいたのかも曖昧にさせた。
それでも、妙にリアルな夢の中身は、考えなくても室井には十分すぎるほど、解かっていた。

うたた寝のせいか、眠りの浅さのせいか、中途半端な覚醒のせいか、頭痛がした。
起き上がり、朝食も取らずに出掛ける準備を始める。
ボディラインに准えたぴっちりとしたスーツも、息苦しささえ齎した。
ネクタイを結ぶ手が止まった。

もうすぐ、限界が来る。
いつか、その日を迎えた時、自分はどうするのだろう。どうなるのだろう。
この持て余した感情も、取り返せぬ罰も。

何か焦燥のような鋭いものが室井を急き立てた。
理由のない苛立たしさに近い。
鏡に映る自分は、酷く黒い顔をしていた。

「・・・あおしま」

居なくなってしまった相棒の名を掠れた声で呼んだが、返事などない。
テーブルに置いたペットボトルを取ろうとしただけで、全身は重たく軋んだ。
コロコロと足元を転がる水たまりが、床に波打ち濡らしていく。

「・・ッ、」

何かが込み上げた。

「ウ、・・・ぁぁ・・・・ッッ、・・・あああ・・・」

しゃがみ込み、クロゼットに手を付き、室井は誰にも届かぬ思いの丈を吐き出した。
一息で吐き出した肺の空気がなくなっても、室井の口は閉ざされなかった。
惰情な仕草で壁に寄りかかり、見えもしない空を見上げた。

「クソォ」

誰も気づかない。誰にも届かない。誰にも聞こえない。
どんどん追い込まれて、どんどん奪われて、どんどん失くして、何も成し得ない。全部消えていく。ぜんぶ。
狂っていく。曲がって、歪んで、淀んで、何も止まらない。留めるものがない。

クロゼットにしがみつく室井の指先が、掴むものを失い、ぱたんと滑り落ちる。

むろいさん

呼び声が耳に残っている。
一番大切なものが、消えてしまって、もうこの場所に室井を引き留める理由がない。
こんな形になるために、俺は頑張って来たのか。
こんな結末を迎えるために、俺は堪えてきたのか。

生きている意味が、まるで解からなかった。
それでも君も這い蹲れと、言うだろうか。




*:*:*:*:

その日、残務処理に追われていた沖田は、誰もいなくなった資料室でデータベースを作成していた。
だから、こんな時間に電話が鳴ったことには酷く驚いた。
続いて聞こえてきた疲れ切った声にも、その卵顔に添う眉根を歪曲させる。

『まだ残っていたんだな』
『室井さんですか・・?どうなさったのです?』
『すまないが、少々調べて欲しいことがある。頼まれてくれないだろうか』
『今すぐ、ですか?』

時刻は既に終電間際だ。
刑事ともなれば、ノンキャリ、キャリア問わず、九時-五時サラリーマンのような働き方はしないが
しかし急ぎとなると、深夜を回っていることで対応が遅れ、翌朝まで室井を待たせてしまうのではないかと危惧したのだ。

『いや――実は、その、多分、何も出ない。君の記憶くらいを辿ってくれる程度で構わない』

妙な言い回しに、これが個人案件であることを伺わせた。

『元総務部広報課の君ならと思ったんだが』
『随分と遠回しな言い方をなさるのですね』

データベースは池神の指示だ。
このデータで池神が何をしようとしているのかは、沖田も薄々勘付いている。が、それを譴責するのは今じゃない。
同じく、再びここ警察庁に赴任した室井もまた、似たような手回しを命じられている筈だった。
新たなサーバントリーダーを迎えた組織は今、改変の起爆となる戦機を模索し続けている。
誰もが不穏な動きを警戒しているだけに、室井の結論もまた沖田は測りかねていた。
沖田にとって、室井は恩人以上の男であるだけに、慕う想いは強い。

『・・・君を巻き込むつもりはない』
『私のアシストでは物足りませんか。私にも借りを返させてくださいな』

受話器の向こう側で、室井の物静かな苦笑が流れた。

『・・・何を言っている。もう充分、返してもらった。君には感謝している』
『そんな、永遠の別れみたいなお言葉はいりません』

言いつつ、室井の個人案件と言えば、と思い当たる節を沖田はそのまま口にする。

『・・・・青島刑事ですか?』

それもお見通しなのか?と室井の声が物柔らかな甘やかさに変わった。

『広報なら顔が広い。最近の所轄動向に関して、君は何か聞いていないか。雑談、噂、ゴシップレベルでいい』

意外な申し出に、沖田の思考は目まぐるしく回転する。
だが、この1カ月、この資料室に缶詰だったことを考えると、あまり他者との接点はない。

『すみません、あまり、お力になれるような情報は・・・』
『そうか・・』

落胆すら悟らせない低い声は、逆にそれだけで雨のようにしっとりと沖田の胸に落ちた。
今夜の室井はどこか陰気で、闇に紛れてしまいそうな静謐さがある。

『他に、君の周りで何か気になったことはどうだ?』
『わたくしですか?最近はずっとここに閉じこもっておりましたので、関わる相手も上層部の一部ですし・・・』
『彼らは何か言っていなかったか?』
『特には・・。指定暴力団の抗争があったとか、その末端が衝突して怪我をしていたとか・・・あらやだ、物騒なことしか出てきませんわ』

すみませんと素直に謝ると、室井の声色が少しだけ変わった。

『そう言えば・・・、島津も癒着を指摘していたな・・・』
『島津さん?ああ、あの方も知っておられるでしょうね。出処はそっちの方みたいでしたよ。あら、担ぎ込まれた所轄って湾岸署だったのかしら?』
『だとしたら、もっと騒ぎになっている筈だ』

確かに、もっと本庁内で噂になっていていい筈だった。
だが今のところ、表立って騒ぎ立てている者はいない。

『青島刑事がその件に絡んでおられるのですか?』
『そうでないといいな、という話だ』

まるでワンパク盛りの子供を躾けるような口ぶりに、沖田は室井の青島への変わらぬ情を見る。
この人は、誰かを断ち切り、断ち切られる運命に身を置くことで、雑草のように逞しく果敢に生きてきた男だ。
そんな男が唯一、見捨てきれず、運命を共鳴させる相手が、あの彼だ。

『相変わらず、仲がよろしいのですね』
『そう、見えるか?』
『あら、違うのですか?』
『・・・長らく会ってやれることもなかった。帰ってきて、食事ぐらいはしてくれたが・・・このざまだ』

青島が室井には何も告げていない。
そのことを罵倒したいわけではないだろうが、室井の声にはいつもの張りがなかった。
声も上げず破戒に堕ちそうな、際どい不確かさが受話器から伝わり、沖田の心を執拗に搔き乱す。

『でも・・・青島刑事は、直向きに待っていましたよ、あの街で』
いつだって。貴方だけを。

言葉を飲み込み、室井がどうして信じられなくなっているのか、沖田は受話器から探る。

『手放してやることも出来ない、冴えない男の足掻きだがな・・』

ああ。この男は、愛されることに慣れていないのだ。
愛し方に際限がないから、相手を怯えさせてしまう。
深い愛情が盲目となって、伸ばす指先を躊躇っている。
だがそこで尻込みし、愛することを止めるのは、愛してくれた相手に失礼だと沖田は思う。

『何があったのです?いえ、何が起きているんです?』
『君を巻き込むつもりはないと言った』
『巻き込まれるつもりはありません。でも、古い友人として話を聞くくらい、誰も咎めませんよ』

友人だなんて。
少々大きくでてしまったことに、沖田はひっそりと頬を赤らめた。
だが、何となく電話を切りたくはなかった。
それに、沖田は自分の魅力の使い方を熟知している。

『夜は長いのですから』
『・・・連絡が付かない。署にも顔を出していない。この状況が長引けば、いずれ警察組織としては容疑を掛けざるを得なくなる』
『何の・・』
『何かの接点を、上が入手している』

その意味するところ正確に理解した沖田は、事の重大さを察知した。
どう使われるか分からない、ということだ。
上の人間は正しいことなんかで動きはしない。

『それだけは、避けたいんだ』

ひっ迫した状況を淡々と口にする室井の方が、どこか畏怖のようなものを漲らせていた。
上は情報を得たからといってそれをすぐ使うとは限らない。
効果的に、最大限有効に、使えるタイミングを狙ってカードを出してくる。時間がないわけではない筈だ。
室井が恐れているのは、もっと別のことのような口ぶりに思えた。

『室井さんは、上層部を警戒しているわけではないんでしょう?失踪に心当たりが?』
『いや――』

少し口籠り、だが室井は観念したように、曝け出す。

『ただ避けられているだけならば、いいんだが。そうなると私が探してもいいのか、また別の疑問も湧いてくる。情けなくもまだ迷っていてな・・・』

青島が消えた理由を、どうやら自分にもあると考えているようだった。
沖田は素っ気ない室井の語り口を、ヒールの先を見つめながら歯痒く思った。
この男が思いあぐねる理由がどこにあるのか、沖田は知っている気がした。
いつもより覇気のない室井の声音に、沖田はどこか違和感と不安を覚える。

『男って嫉妬と面子の生き物なのかしら・・?』
『?』
『行き着く先など、もう、どうでもいいではありませんか』

誰が誰に嫉妬していて、誰の面子を保っているのか。

沖田にしてみれば、本当に怖いのは、室井がキャリアとしての道を踏み外すことではなく、一人で罪を背負うことだ。
室井は昔気質な男で、昔から一度決めたことは譲らない柔軟性の悪さは、当時から指摘されていた。
思い通りにいかないことがあれば、逆に頑固となって尻に火が点く。
そういう操守の男こそ、何かを切欠に一気に人倫に背く脆さがある。
犯し難い気品はむしろ、突然色を変える潔癖さを持つことを、青島との暴走が証明していた。
ああそうだ、今の室井は禁忌に委ねる罪人のようだわ。

『そう思い切れたら楽なんだろうが。皮肉なものだな・・・、自分だって手を掴まなかった癖に、先に逃げ出されて、狼狽えている。・・・そんな資格もないのに』

今までどんなに追い詰められても蔑まれても、グッと持ちこたえてきた室井が、全てを放棄してしまったような、限界に達してしまったような
一歩間違えば、何かを越えてしまいそうな切羽詰まった危険な香りに染まっていた。
いつもの凛とした清栄さがない。
何があったかは分からないが、引き戻さなくてはと沖田は思った。

『室井さんが踏ん切りが悪いのは、かつての恋が、枷なのでしょう?』
『踏ん切りが悪いって、君、』
『野口江里子さん、ですね』

四年前、事件の最中に室井が巻き込まれた権力抗争は、室井の過去を赤裸々に暴き出す悲運にも繋がった。
あの時ばら撒かれたチラシやファックスは、誰が作ったのかというよりも、誰の目に映ったのかという方が、後の禍根を深くしている。

『時は嫌なことほど流してはくれない。もう、皆知っているんだろう?』
『週刊誌に載る程度には、ですよ』

それでも、エリートキャリアともなれば、過去の汚点をいつまでもしつこくマスメディアが面白がって掘り返すだろう。
この先、室井が権力者となっていくほどにだ。

ふぅと重たい息遣いが途切れ、室井が黙り込んだ。
沖田はこのまま室井が電話を切ってしまうのではないかと思った。
何か一言、決定打になるような言葉はないか、思考を巡らせていると。

『・・・あれは、私が殺した』
『室井さん・・・っ』
『言葉は一つ、発してしまうと一つの呪縛になってしまう時がある』

でも、その他の女にしてみれば、室井の深すぎる愛情を支えきれなかった女、でしかない。

『見苦しいですわ』
『え?』
『行ってあげてください。青島刑事の元へ。貴方が後悔するところを、わたくしは見たくありません』
『何を・・、君にしては随分と――その』
『愛する人を迎えに行くのに、何をそんなに愚図愚図なさっているのです』
『愛って・・、待て、その物言いは・・』
『何年経っても信じて待ってくれていたんでしょう?それは愛ですよ。・・・きゃっ』
『沖田くん?どうし、』

鋭い沖田の悲鳴を拾いあげた受話器を横取りした声が、半分くらい揶揄いの口調で色褪せた。

『また青島に逃げられたんですか室井さん』
『――新城』

何故お前がそこにいる、という室井の嘆きはまるっと流し、新城は薄い笑いを張り付けた。

『さっさと捕まえないからこういうことになるんです』
『別に逃げられたわけじゃない』

時は待たない。
自分だけを置き去りに、どんどん過ぎていく中で、過去の重さだけが増していき、
どれだけ大事かも伝えられないまま終わるのであれば
それはきっと、運命なんかじゃない。
運命じゃないものに惑わされ、狂わされる人生で、人知れず追い込まれた末路に引き金を引くのは室井なのか青島なのか。
何か突拍子もないことが起こりそうな悪い予感が新城を突き動かしていた。
こういう勘は、割と外れない。

『噂は私も耳にしました。ですが室井さんが思うほどまだ機は熟していない。つまり時間はある。ないのはむしろ、』
『青島本人の方か』

その通りですと首肯する新城の顔が、幾分柔らかいものに変わった。
酷く貪欲な願いを抱く室井とは対照的に、青島にこそ、危うい亀裂があると新城は思う。

『早くした方がいいと私も思いますね。どんくさい告白もですよ』
『どんくさいは余計だ』

怖いのは、青島を自分の過去へ引き摺り込むことか、それとも同じ罪で穢してしまうことなのか。
どこか危うい一線を保つのは、まるで青島の生き方そのものだ。
もしかしたら室井は、青島にかつての自分を見たのかもしれない。そして、そこに夢を見たのかもしれない。
つい手助けしてしまいたくなる愛情は、報われなかった自分への贖罪なのかもしれなかった。

『これでも、やれるだけのことはやってきたつもりだったんだがな・・・』

それは、新城が初めて聞く室井の弱音だった。
権力抗争に巻き込まれ、降格処分を受け、理不尽な扱いを受けても、文句一つ、零さなかった男が。

『逢うべきじゃなかったのかもしれない』
『男として自信なくしましたか』

室井が年上らしい歪んだ笑みを落とす。

『そうかもしれないな』
『みっともない貴方を選ぶんだから、青島も相当変わり者とみていい。私に言わせればキチガイの沙汰だ』
『似合いだろう?』

東京は、室井にとっては決戦の場ではなく、古傷を引っ掻く場所なのかもしれない。
青島と再会したことで、室井の中で限界まで詰められた何かが吹き出した。
切欠は恐らく、青島への封印していた愛情が抑えられなくなっているのだろう。

『大丈夫ですか』
『・・・気味が悪いな』
『貴方は時々、どこかで全てを恨んでいるような節がある。そして突飛な発想で私の肝を冷やす』
『褒めているのか?』

一歩ズレれば爆弾に変わりかねない切り札を手に入れた男が、追い詰められた先ですることは、何だろう。
少しだけ季節特有の肌寒さを感じた新城は、餞別代りの言葉を添えた。

『貴方は少し、好きな相手に対して屈折した態度を取り過ぎなんです』
『お前、意地が悪いな』
『心外ですね。裏表があるかないかの違いでしょう?』
『・・・・やっぱり、意地が悪い』

小さく重なり合った笑みは、確かに伝わり合った、と思えた。
肌寒い大気の中で、言い尽くせない願いを託す。

『もし、何かあった場合、青島が取る行動は一つしかない。貴方の前から消える。・・貴方を護るためだ。そして、貴方に禍根を残さないためだ』
『・・だろうな』
『約束があるからといって胡坐を掻かないほうがいい。約束は貴方個人の席だ。愚かしくも青島は、貴方のために身を捧げ、貴方を護り、貴方の罪を被り、役目を終えて、消える』

室井は、ただ黙って新城の言葉を聞いていた。

『そんな男を見捨ててまで、過去に囚われたいのであれば、もう何も申し上げることはありませんが』

かつて海で愛する人を失った絶望と哀しみが、ブリザードのように室井の中に吹き荒れている。
吹雪は止まない。
罪も罰も、消えない。
でも室井はもう、凍えた裡を暖める方法を、とっくに、知っているだろうに。


電話を切った新城と沖田は小さく目を見交わした。

「大丈夫でしょうか室井さん・・・」
「お膳立てはしたが。あの人は青島じゃなきゃ駄目かもしれない」
「どこへ行ってしまったんでしょうね青島刑事」
「何に巻き込まれているんだか。あとは室井さんの実力次第だ」

賽は投げられた。
伸し上がって来い、室井慎次・・!

****

一方、電話を切った室井は、ハッと気づく。
結局お前、何で電話に出たんだ新城。

何の情報も引き出せなかった男に向かって、やるせない溜息が落とされた。














8.
深い溜息を残し、室井はとっぷりと暮れた夜の交差点へと踏み出した。
疲れ切った身体が鉛のように重く、足先に水たまりの雨が跳ねる。
霞が関周辺は交通量は多いが、この時間になると人通りはほとんどいなくなる。
細い雨は霧のように街を霞ませていた。

各部署にそれとなく探りを入れていたが、目立った有力な情報は今のところ入っていない。
当然だった。そもそも青島と裏社会との繋がりを本庁サイドが知る筈がなく、知らないからこそ彼らの情報源としての効力を発揮するのである。
湾岸署にコントタクトしても、特に青島の不在を騒ぎ立てる素振りは感じなかった。
何もない平凡な現実が、より胡散臭く歪んだ。

“貴方には本庁に味方がいない”――確かにこういう事態になってみれば、それが身に堪える。
誰を頼ればいいのか。援軍を頼めるほどプライベートを晒した相手も、信頼に足る相手も、思い浮かばない。
新城や沖田の言葉が、この霧雨のように室井の裡まで浸蝕した。

思えば青島もまた、自分のことを語ることは少なかった。
署内の話題、同僚の不始末、友人の笑い種。
色鮮やかな話題性に満ちた、興味を引き立てるリズムの向こう側で、濡れた口唇が打つ音の中にはどれも、青島個人がいない。
自分は恐らく、個人的な付き合いをしたいと思えるほどの人間ではないのだろう。

いつも、こうやって、後になって、後悔を繰り返してきた気がする。

スマホが冷たい振動音を立てた。

『室井です』
『例の件、年齢のことが気掛かりだったが、良い返事がもらえた。先に進めるがいいね?』
『お願いします』

これでもう、戻れない。
池神がその裏で何をしようとしているかは、室井だって薄々勘付いている。
青島は、室井のこの決断をどう思うだろう。眉の一つでも顰めてくれるか・・?

「それはない、か・・」

室井が知っている青島というのはごく僅かで、そのバラバラのピースをこちらの都合で寄せ集め、理想の形を作った虚像は
都合の良いことしか答えなかった。
するりと、この汚れた手から零れ落ち、搔き集めることも赦されず、消えてしまった気がした。
永遠に、届かなくなってしまうところまで。
青島に感じていた、消滅という側面が、現実になったのだと感じた。

青島。ああ、ただ、君に会いたい。

こうして願うことも、罰なのだろう。
飢えるような激しさで夜毎見る夢の残渣がまだ身体に遺されているようだった。
理想も常識も、知識も倫理も論理も、過去も記憶も、全部捨てられたら、どんなに楽になれるだろう。
それでも、心が、どうしても追いつかない。
あの日から、変えられない。
あの日に、帰れない。
心が、秋田の仄暗い海に閉じ込められたまま。

信号の点滅は、まるで何かの警告を発しているようだった。
濡れた道路に青白く映り込み、それはやがて赤に変わる。
地下鉄入口の手前、闇はゆらりと歪んだ。

それが、生身の人間であることに遅れて気付き、室井は身を引き締める。
訝し気に眉を寄せる室井に、影は妖しく嘲笑った。

「そんなに緊張しなくても何もしませんよ、・・・室井さん」
「――」
「こんばんわ」
「何をしている」
「成程。私が誰かご存知のようですね」

黒い蝙蝠傘を軽く上向けることで首肯すると、傘も差さないその影は、ゆらりと地下鉄のコンクリートから剥がれた。
濡鼠のような姿で、そのまま空を見上げ、だが室井に近づこうとはしない。

「何故ここに?」
「貴方は質問ばかりだ」

要領を得ない男の口ぶりに、室井には疲れもあって、軽い苛立ちが募る。
精神をコントロールできなくなったら、キャリア失格だ。
室井は背筋に力を入れ、射程距離を測った。

ただ、彼は確か和久と親しくしている六本木のバー経営者、通称モグラと呼ばれる賊子の筈だった。
昔、和久に世話になったことで、ある程度の距離感をお互いに持ち得ていると聞く。
名前は確か、龍村。

「用件を言え」
「その様子だと、こちらの目的も既に勘付いている」
「――」

敢えてその名は上げない。
だがこのタイミングで彼が室井に接触を図ったことに、意味がないわけがなかった。
室井はただ無言で漆黒の瞳を灯らせる。

彼の顔は、一度だけ写真で見たことがある。
こうして向き合うのは初めてだった。
龍村もまた、室井の顔はメディアなどから見知った程度だろう。お互い何を知るわけでもない。
それでも今、二人が心に抱く人物像は恐らく同じなのだと思えた。

隙の無い室井の警戒感に、龍村は満足気に下唇を舐め、薄く冷めた笑いを残す。

「天王洲アイルの倉庫へ」

その言葉が何を意味するのか、分からぬ室井ではない。

「どこの情報だ」
「和久さんから連絡がありまして」
「何故直接来ない」
「彼が今、その倉庫で張っている。・・・私がそこへ行くと目立つ。だから使い走りを買って出たんですよ」
「署に連絡は?」
「貴方の会話は本当にやたら質問が多い」
「いいから答えるんだ・・!」
「警察のやり方は私には理解を越えてましてね。お仲間意識があるなら堂々と道連れにするべきだ。それが同志ってものだと思いませんか」
「――」

湾岸署と何度も関わり合ってきた室井だからこそ、龍村の言わんとしていることは、何となく理解が出来た。
敢えてその心情は伏せ、室井は堅い顔を向ける。

恐らくは、また青島が何がに首を突っ込んだんだ。
たった一人で背負って、たった一人で解決しようとする。青島らしい判断だ。だがそれは。

話題を変えるために、室井は1mほどの間隔で向き合っていた身体を横に向けた。
龍村と同じように国道に向き、流れる車道を漫然と瞳に移す。
雨は傘を打ち付けるほど強くなった。

「何故それを私に」
「困っているころだと思いまして」
「意味が分からないな」
「しらばっくれるのは止めましょうよ室井さん。折角わざわざ地下から上がってきたんだ。もっと楽しませてくれないと」

室井が目線だけで一度龍村を見る。
それだけで、龍村には室井の隙が飲み込めた。

「貴方もでしょう?取引にも応じない。まったく、男を焦らす天才だ。もう十年、囚われている」
「・・・・」
「貴方も私と同じ腐敗臭がする。高貴な殻を被って、ブランドスーツに身を包み、その中身は薄汚れた淫らな欲望で快楽に従順の、欲しがり駄々っ子だ」

室井はジロリと睨みつけるが、龍村は動じず、せせら笑った。

「一度見たら脳髄にこびりつく。あの愛らしい顔、美しい肢体と、艶めかしい瞳、幼く無垢な肌、無論、男を知らない。熟した果実に相応しい肉の芳しさ」
「やめろ」
「いつか自分のものにして喰ってやろうと思っている。宣戦布告と受け取りたければ・・・・どうぞ」

その挑発には乗らず、室井は静かに息を整えた。
激しく打ち付ける雨が、視界も呼吸も塞ぎ、息苦しさを与えているようだった。

「我々は警察官だ。彼が誘いに乗る筈がない。そんなことも分からないか」
「それはどうでしょう。あなたは彼の何を知っているんですか?・・・本当に知っているんですか?彼の、裏の顔まで」
「!」
「毎日清掃員の入るお綺麗なタイルと、警備員を立たせる無駄な箱の中で生活をしているあなたたちに、地べたを這い蹲る私たちの何を知っているというのか詭弁ですね」

室井が口を開くそのタイミングで、龍村が言葉をかぶせて先制する。

「何も知らないくせに、自惚れるな」

低い、ドスの効いた声だった。
雨が強い。
隙間なく打ち付けるどしゃぶりの雨脚は、男二人の世界を切り取った。

「どうするつもりだ」
「目の前においしそうなモンがぶら下がっていて、しゃぶりつかない男なんていないでしょう?」
「なんだと・・ッ」
「イイ顔するじゃないですか」

パァーッと車がクラクションを鳴らして通り過ぎるが、室井と龍村は睨み合ったままだった。
その迸る瞳を、ヘッドライトが鮮やかに断片を切り取っていく。

「そんなに大事なら目を離すなよ」
「言われなくとも・・!」
「出会って何年だ?何年放っておいた?縛るだけ縛っておいて無視ですか。どれだけあの人を待たせた!」

龍村が室井のネクタイを乱暴に縛り上げる。

「本当に下衆なのは、どっちだよ・・!」

腹の底に響く太い声で睨みつけると、龍村の声音は急に嫌忌なものに変わった。
吐く息が熱を持っているのがライトに照らされる。
室井は、締められているネクタイを同じく力づくで解こうと龍村の手に指を掛けた。

「君に言われる筋合いはない・・!」

だがそれを龍村もまた力で押しとどめる。
ギリギリと布が軋む。

「今まで何をしてたんですか、貴方」
「君こそ、あいつを引き摺り込む気もない癖に、随分と踏み込むんだな」
「御大層な理想論並べたって、結局アンタは何もしていない。ベッドの中でも機能不全だ」

愛しているからこそ、罪に染める。
愛しているからこそ、全てを欲しがる。
海のさざ波も、愛した人を失う怖さも、置いていかれる絶望も、何も知らないくせに。

勝手なことばかり投げつける龍村にも、結局何もしなかった自分にも、衝撃だけが室井を打ちのめした。
組織のやり方に対する反論に、明確な行動原理が伴わないのであれば、所詮、こちらもその他の多数派だというだけだ。
それが本当の答えなのだろうか。
返すだけの言葉を持ち得ないことを、室井は理解した。


暫しの沈黙の後、均衡を破ったのは、だが、龍村の方だった。
するりと室井のネクタイから手を外す。

「本当は私が行きたいくらいですよ。アンタが行かないのであれば、行かせてもらう」
「・・・」
「でもね、和久さんがね・・。あの方に叱られるのは御免だ」
「和久さん?」
「貴方にこのことを伝えろと。指名してきましたよ。その意味を私はちゃんと汲み取った・・室井さん」

ただ一言、室井も初めてその名を口にする。
隠すものも失くした男二人は、ただ雄の焔を宿した瞳で応戦した。
こんな奴に、青島は渡したくない。
奪い取れないのならば、いっそのこと、青島ごと、終わらせてやる。
こんな男に青島を盗られるくらいなら、いっそ、あの海に呑まれた方がマシだった。
あの海で、この手で、青島を。青島と。

青島を失った室井の中で、何かが歪む。

ここまでか。
どうせ罪からは逃れられないのだから、自らの手で、永遠に、幕引きをしてやる。
誰にも触らせないところまで。誰にも届かないところまで。
纏わりつく海の冷たさと、青島の温もりを抱いて、望み通りの終末の舞台を演じ切ってやる。

もうおしまいだ。

きっと、これはチャンスなのだ。
もう嫌だ。もう止めたい。泣き言を言っても許されないのだとしても。

全てを終わらせる。
自分でも驚くほど、瑞々しく、それでいて荒々しい、兇悪的で原始的な情動が室井の背筋を駆け抜けた。
昼間の無機質なオフィスの中で、官僚然とした顔つきとは違う、愛情と憎悪の執着の鎖に囚われた男の目付きに、龍村も満足そうに同じ目を向ける。
でもこれで、一つの選択肢が潰された。
青島自身が室井との接触を閉ざしている可能性だ。

「どうしますか?」
「教えてくれて感謝する。――私が行く」














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