STRAWBERRY KISS 3
5.
浅い春の陽射しが視界を遮る白いテラスの向こう側に真っ青な東京湾が広がる。
「どうかした?」
すみれが目の前で頬杖を付いて覗き込むので、青島は没頭してたいちごパフェから顔を上げた。
待機任務中である。
無線で指示が入るまでは、すみれと青島は普通にカフェデートを装う。
「・・あ、こぼしちゃった」
取り上げようとした苺から、クリームがぽたんとテーブルに落ちた。
しゅんと項垂れた。
青島はとにかく感情を隠すのが得意であるので、気付いているのはすみれぐらいだが、空元気もこんな太陽の下では暴いてしまう。
テラス席を選び、青島とすみれは向き合って小洒落たティータイムを演じていた。
ふぅと濡れた息を落とす青島を認め、すみれが頬杖を付く。
「色っぽ~い」
「?」
首を傾げる青島の視線を誘導して、すみれは燦々と反射する白い店内に目を配る。
「今日の被疑者、定年退職した日に離婚届突き付けられちゃったんだって」
「あらまあ、このご時世じゃね~」
「頑張った最後に裏切られたと思うか、長年のツケが回ったと見るか」
「二人にしか分らない擦れ違い、か」
青島の端整な輪郭が蔭り、瀟洒な指がスルリとスプーンを回す。
「青島くんも考える?将来」
「そりゃ考えますよ。係長だし」
「意外とマジメ」
「意外とは余計」
含み笑いを残して、すみれは足を組み直し、コーヒーカップに手をかけた。
さり気なく口にするのは珈琲なのか言葉なのか、すみれ自身、曖昧だ。
「この間室井さん来たんだってね」
「来たね」
「帰ってきてたんだね」
「そうみたいだね」
まるで他人事のように生返事を返す青島がパフェの格闘を再開する。
苺が山積みに飾られるそれは、青島の顔を半分隠すくらいの、デラックスサイズだ。
「警視監だって?」
「みたい」
「出世出来ただけ奇跡ね」
あの男の場合、と呟いたすみれの吐息で、モカ色の液体が波紋を描いた。
室井が広島に飛ばされてから、四年が過ぎた。
その間、湾岸署は移転をしたし、青島は引越し本部長として駆けずり回ったし、昇進試験も受けた。
室井に起きた事件も陰口も、時間が噂を押し流し、日々の犯罪が記憶を上塗りし、やがてみんなが忘れていった。
室井逮捕当時こそ、騒ぎ立て冷遇した空気も、日々の作業がそれを許さなかった。
そしてまた、室井が帰ってきた。
連絡も入れず、気紛れのように現れては青島の心にさざ波を残す男は、青島とその昔、誓い合った仲らしい。
らしいっていうのは、その場面を見た者が誰もいないからだ。
それ、青島くんのモーソーじゃないのってツッコミは、それを打破するだけの室井の態度に集約される。
今回は何だろう。というか、今更何なのだろう。
「室井さん、なんて?」
「今度メシ食おうって」
「想定外の発言をする男ね・・、ハンバーガーとか齧るのかしら」
「まさかカスミ食って生きてないでしょ」
「今度は連絡先くれたの?」
「・・うん」
ぐいっとすみれが身を乗り出した。
さらりとストレートの黒髪が流れるのと同時に、囁く。
「約束を果たしにきたのね」
一瞬固まったが、青島は一番上にある大きな苺を指先で持ち上げて、お道化たウィンクと共にぱくんと口に放り込んだ。
口の端に付いたクリームを指先で拭って、それも舐める。
子供みたいな仕草に、すみれは半ば呆れた面持ちを向けた。
あの頭でっかちで頑固で気難しいキャリアを上手にサポートして、火を点けられる相手がいたなんて。
すみれと室井の関係は、青島が湾岸署に配属される前からの細長い付き合いだ。
だからこそ、あのムッツリ男の扉を開かせた手腕に、当時は舌を巻いたものである。
青島が犯人の母親に刺された事件の直前、室井は青島の言葉で奮起し、あの命令を独断した。
室井には青島が必要だった。そして、室井と青島を合わせれば爆弾となると周囲を牽制した瞬間だった。
でも、じゃ、青島くんは?
店内にさりげなく警戒を配る青島の頭は、苺と事件でいっぱいだ。
「うれしい?」
「すみれさんから見てさぁ、最近の室井さんって、どう?」
「どう・・・って語れるほど、本店と関わっていないわ」
「そりゃそうだ」
要領を得ない質問に、すみれは首を傾げた。
約束とやらで、青島との腐れ縁を盾にしては、決定的なことは何も告げない男は、時に所轄を奇襲するような戦略に出る。
孤立している立場も恐らくは室井にとっては、青島さえいるのなら大船に乗った気分なんだろう。
それは、広島へ飛ばされる切欠となった事件でも、見て取れた。
青島と物理的に離れることは厭わない、置いて行かれる気持ちを顧みない。多分、意識しなきゃならないことが他にあるから。
所詮キャリアなのだと、すみれは思う。
でも、キャリアで生きているからこそ、戦う意味も持つ。
それは、分かっているつもりだ。
私たちノンキャリは時に情に流される。
「なんか、あったでしょ?」
「なんで?」
「すみれさんの目は刑事だから」
「あったと言えばあったし、なかったと言えばない」
「ふぅん?」
何やら根が深そうな状況に、すみれは、このまま放って置くのも面白そうだと思った。
でも、思い込みが暴走すると冗談ではすまなくなるかもしれない。
それはちょっと面倒だ。
「ねぇ、さっき、将来のこと考えてるって言ったけど、約束が叶ったら、青島くんどうするの?」
青島が一瞬だけ痛んだ眼をしたのをすみれは見逃さない。
春の終わりにしては冷たい浦風がテラスに吹き抜けた。
言いながら、すみれは妙に口の中が渇いた。
そうだ。いつだって青島が室井に全権を任せたのは、室井のなけなしの沽券を護ったからだ。
実際のところ、室井は青島を必要とするけど、青島に室井は必要ない。
信じている、なんて、軽薄な言葉で誤魔化してきたって、委ねるしかない歯痒さは、まるでその気になった方が負けというゲームのようだ。
すみれにしてみれば、何だが不公平な気がしてならない。
「ケッコン、とか?」
「すみれさんこそ。・・・俺もだけど、最近周りが着実に家庭を持ってない?」
「・・・みんな、それぞれの人生を決めていくんだね」
「俺たちの結婚は定年後でもいいんじゃない」
「・・・結婚、できるか、わからないし」
俺たち、という括りに宿る切ない甘酸っぱさは、まるでクリームに埋もれる苺だ。
すみれは腕に残る傷痕を服の上から掌で覆った。
青島がすみれを見て動きを止める。
無意識のすみれの癖は、左肩を労わるものに変わる。
「そう簡単には割り切れないの」
「“俺たち”にも?」
すみれは哀しく笑って誤魔化した。
「青島くん、だって、隠しごとしてるでしょ」
「しないよ」
「うそ」
「テキビシイ」
ぐいっと身を寄せて、青島がすみれの目を覗き込む。
「んじゃあ・・・余りもん同士、くっついちゃおっか」
「青島くんのその顔に唆されて昇進試験も受けちゃったのよねぇ」
けっこ、勇気いった告白だったんだけど、と、小さくはにかんで、青島は視線を店内へと向けた。
態勢を戻す空気の動きで煙草の匂いが微かにすみれの鼻を擽る。
「見て」
青島がこっそり親指を向ける方角には、栗山がパソコンを覗き込み、しがないサラリーマンを演じ
カフェの中央では夏美が昼下がりの主婦を装う。
「若手も入ってきたし、経験積んで成長もしてるし、頼もしいじゃない」
「頼もしいと表現するにはちょっと微妙な人材ですけど」
「これからですよ、これから」
これから。
これから、青島くんはどうするのだろう。
これから、彼らに道を譲り、託すのが、大人の使命だ。
もしかして、青島くんは。
「あのムッツリには、しっかり警察変えて貰わないとね」
ピラミッド型組織がゲリラ戦において機能不全に陥ってしまうという過去は、もう二度と繰り返してはならない。
情報なき本部、権限なき現場、そんな現実は、いつか本当に変わるんだろうか。
正しいことをしたければ偉くなれと和久に諭された青島は、いつしか、その夢を室井と折半するようになった。
でも、持ち場が変われば見える世界も変わる。
「捜査に政治を持ち込まないで」とすみれが詰め寄った時、室井は「私はその政治をしにきたのだ」と跳ね返した。
あの意味が正直、理解できなかった。
「・・・勝手よね、あたしたちも。そうやってみんな室井さんに丸投げね。関わることを拒否しているのと同じ」
「それがあのひとのやりたいことなんだし」
「口を出す方が無礼?でも、名もない虫けらは幾らでも替えがあるって言われているみたいだわ」
「自主性を重んじられたい?」
「仕事と結婚の根本的な違いはそこよねぇ」
すみれは、カップに付いた赤い口紅を指先で拭う。
「青島くんはそれでいいの?」
「いつまでも俺が引っ付いてなきゃダメな男にしちゃ、駄目でしょ。信じてます~なんて言われなきゃ何も出来ないキャリアなんて、こっちから願い下げ」
その口ぶりに、すみれの心が波立った。
青島くんは、いつまでも室井さんにくっついていく気はないんだわ。
すみれは青島のパフェから苺をひとつ奪い取る。
なにすんの、とむくれた青島の目の前でわざとらしく苺を揺らしてみせる。
「あの男はね、捜査員の意見を、苺が好きだと言うのと同じくらい重要さがないって見下したのよ」
「そこはキャリアだし。あのひとだって考えてないわけじゃないと思うけど」
「またそれ!・・・青島くん、もう一回刺されちゃう?」
やめてよ、と荒む青島の背後には、嫌味なくらいの青空が広がって、かつての兵どもが夢の跡、だ。
「勇ましくも、はかない栄光を夢見た武士たちは、最後に何が見えたのかしらねぇ」
「戦わなかったら見えなかったものなんだから、それでいいんじゃない」
「やぁよ。見なくて済むものまで見たがる変態シュミはないわ」
「すみれさんに掛かると男の夢もヘンタイか」
「そうよ、女の子は恋には夢をみるけど、ケッコンは現実的なのよ」
「苺でも、俺はいいんだけど、さ」
なら、私をもらって、と冗談でもいえるほど、すみれには勇気もなく、時も経ちすぎていて。
青島にしてみれば、珍しくも諦めたような投げ出したような態度が、らしくなく髪の奥から透けていた。
溶けかけたクリームを気怠そうに青島がスプーンで掻き回す。
底に沈むソーダが海の色に混じった。
私たちの事件もまた、捜査員Aとして、データベースに記載されるだけだ。伝えるのは所属と負傷した箇所くらいで、名前一つ、残らない。
積み上げられたそれら膨大なデータに、上層部は何を見るのだろう。
「青島くんさぁ、この博打、伸るか反るかって、どこで決めたの?なにかあるんでしょ?」
ふふんと笑った青島の瞳は、正しく、あの勝ち気な何かを仕掛ける時の顔で、つまりそれが出るってことは。
「やだ、室井さん、てだけ?」
青島がクリームをたっぷり乗せたスプーンを満面の笑みでぱくりと口に運ぶ。
「本気?!うっそでしょ?!ばかじゃないの、青島くん」
「それでもさぁ、一矢報いたいじゃない。やるだけやったって、言いたいじゃない」
「逆に言えばそれ、室井さんが潰れるときは青島くん、道連れよ?」
「上等。地獄の底まで、付き合いますよー?」
――でも、じゃ、なんでそんな寂しそうなの?
ここにきて、すみれはようやく最近の青島の異変の原因に思い当たった。
そうか。それでここに繋がってくるのね。
室井さんが帰京したということは、青島くんにも、決断を迫られるんだわ。
むしろ、地方へ飛ばされていてくれたほうが、青島に猶予があった。
池神の指示で中枢に戻されたということは、単なるキャリアとしてではなく、本格的に政治に踏み入れるということだ。
キャリアの統治者となり、一人で立ち向かっていける男が、いずれ、本当の強力なリーダーとなる。
そういう警視総監を私たちは求めている。
でもそれ、室井は本当にそれに相応しいんだろうか。
室井がわざわざ会いに来たという。つまり、その話?
青島も今は協力者、もとい、忠誠を誓った派閥のように室井寄りの立場を崩していないが
いずれの自分の存在の稀薄さに、気付いていないわけじゃない。
「長年連れ添って心中に付き合わされる夫婦も、愛情って言葉、カンチガイしてるって思ったけど」
「付き合わせてくれるならね・・・」
ぽつりと付け加えられた青島の言葉は重い。
付き合わせるのも愛情ならば、突き放すのも愛情なんだろうか。
でも、それは、すみれには出来なかった。
婚約者に別れを自ら告げた。重荷になる気はなかった。
それは、青島も同じだろうという意味合いよりも、恋人を失ったという意味で、室井の方がすみれには同類に見える。
だからこそ、青島を引き込んでおきながら何もしない男に、憤りだけが募る。
「・・・ばかね・・・」
思わず零れたすみれの言葉に滲む哀愁に、青島が驚いたように顔を上げた。
しばらくじっとすみれを見て、何かを確信したのか、視線を彷徨わせた後、がっくりと頭を抱えて俯く。
「あああ~ごめん、忘れて!今の、ぜんぶ!」
ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜ、そのまま席を立った。
白いテラスに肘を付き、海に目を投げる。
青島の中でもまだ整理が付いていないことをすみれに気付かせた。
すみれも黙って横に立った。
すみれは自ら破談を選んだ。愛していたからだ。
同じことを繰り返してしまうのは、人間の性なんだろうか。
離婚届と同じで、人は人生のタイミングごとに区切りを迫られる。
「ごめん、すみれさん。俺、どうしていいかわっかんなくって」
「青島くん、もしかして室井さんのこと」
すき、なの?
最後まで言えなかった言葉は、柔らか奪うように後から回された青島の手のひらによって、遮られた。
「ごめん、言わないで」
顔すら見せてくれない青島のその声に、すみれは確信をする。
同じく最後が見極められなかった刃となって、青島を、そしてすみれを貫いた。
背後すみれの肩に額を押し付け、青島は小さく縮こまっていた。
「だってさ、もぉ、どーしようもないじゃん。なんもないじゃん。も、俺、どうしよ、どしたらい?すみれさん」
振り向けば、両手で顔を覆って、気持ちを落ち着かせる青島の深呼吸が、彼の動揺を伝えていた。
ぽんぽんと、慰める手のひらで、すみれは青島の頭を撫ぜてやる。
「いっつも、置いていかれる・・・」
「そおね」
「おれ、こんな弱っちかったかなぁ・・」
「そおね」
「だめだぁぁ~・・」
「ダメダメなのは昔からよ」
「脈なしだもん。必要ないもん。も、おれ、溺れちゃいそ・・・」
でも、この温度差はなんだろう。
だって、室井さんてホントに青島くんのことが大好きっぽいじゃん・・・。
一人で抱えて、一人で踏ん張って、一人で戦って、持ちこたえて、きっとひっそり消えていく。そんな悲しい努力をさせた。
それでいいの?室井さん?
「青島くん、警察、辞めないよね?」
何だか室井と青島の置かれた状況に哀憐の情を感じ、すみれは押し黙った。
どんなに大切なものだったのか、室井自身が分かっていない。
大切なものの護り方を知らない人なのかもしれない。
強がってみえるけど、青島は根が優しい分、脆い男だ。
うまく世の中と付き合いすぎちゃう頭って、結局きりがないし、いざという時に弱い。
頑張って、頑張って、頑張って、もうこれ以上はないのに、青島は室井を慕い続けている。
そんな意地に何の意味があるの?男ってわからない。
顔を覆う指の隙間から見える情けない青島の視線に、すみれはただ柔らかく微笑んだ。
「すみれさんもね?」
男の花道とやらに口出しはできない。
んもぉ、室井慎次はなにやってんのよ!
打たれてもあれだけ貫けるって、カッコイイし本人には幸せなことかもしれないけど
揺るぎない考え方って、聞こえはいいけど死んでるってことじゃないかしら?
多分、室井さんのことだから、結果を出すまでは男は不言実行、とか考えているんだろうけど。
青島が待っているのは、室井だけだ。
何年よ、もぉ!どこまで放っておく気?!青島くんがどんな思いでいたと思ってんのよ!サイテーだわ!
青島を巻き込んだもの室井なら、引き留められるのも室井しかいない。
「食事、行くの?」
「ほんとに誘ってくるかな?」
「驕りにしてもらいなさい」
「そこまでガメつくする?」
6.
「ごめん――・・・」
墨色の海に雪は溶け込まず、モノクロの世界に一つの足跡を残していく。
夢の中では告げられた告白は暗澹としていて、あの海の音に何度も何度も掻き消された。
*****
「ほんとーにうまかったですよ。ごちそーさまです」
「私も楽しめた」
「少しは気分転換になれました?」
「君も気を付けて帰れ」
「はい。それじゃ、おつかれさまでしたっ」
「おやすみ」
タクシーのドアは閉ざされ、滑るように走り出した。
流れる夜景は金色だ。
「・・・・・・・・・・・・・・」
――ちッ、・・・違うッ!違うだろう室井慎次・・!!
拳を握り、室井は歯ぎしりをする。
おやすみ、じゃないだろう、そこは!!
徐々に小さくなるモスグリーンのコートをサイドミラーに認めながら、室井は謹直な背筋をバックシートにズルズルと沈めた。
弾みで、いつもは几帳面なジャケットが、ちょっとずれる。
また失敗した。
なんなんだこの専務と常務のような中途半端で無色の会話は・・・ッ。
項垂れたまま、順調に自宅官舎へと向かうタクシーがいっそ恨めしく思えてくる。
新城の嫌味が聞こえてくる気がした。
あれから、時間が空いた時にようやく青島に電話をかけた室井の誘いに、二つ返事は意外なほどあっさりと返ってきた。
一倉の言ったとおりだった。
それから幾度か食事を共にしている。
ようやく実現したデートもどきは、三回に一回は断られ、誘われることはない。
何度かキチンと話そうとしたものの、どこか饒舌で巧みな青島のエスコートに、いつもいつも流されている。
そして今夜もだ。
青島と会って、自分はどうしたいのだろう。
何を言うつもりなのだろう。
謝罪して、青島に許されたら、終わりなのだろうか。
ダラダラと続く曖昧な時間が、そう長く続くとは室井も考えていなかった。
青島からの弾む話題と、熱の籠る談論、愚直な眼差し。
何もかもが新しく未曾有に満ち溢れる中で、浮かれた頭の隅に聞こえる海は、波の華を立てて海蝕していた。
「こないだね、室井さんが言ってた映画、ようやく観たんですけど」
「中盤でやられただろう?」
「ええ、それであのラストかと」
飴玉みたいな口唇が美味しそうに光る。
額から相手に寄せて話すのは、彼の癖なのだろうか。
触れそうな角度で話す距離に、まだ慣れない。
「先日新城が持ってきた菓子がな・・」
「ぇ、あの人が、差し入れなんかするの?」
「意外か?あれは坊ちゃんだから、気の遠くなるほどの親戚がいる」
「へぇ」
室井の話を瞳を輝かせながら聞く青島の、その眼にこちらが囚われ引き摺られる。
吐息さえ感じ取れる熱に慣れるには、まだ時間がかかりそうだ。
何で彼もこんな話に付き合ってくれるのだろう。
「人の名前は覚えてないくせに学歴だとか処罰だとかはいつまでも覚えてるんだ。東大出でなければ話題にも着いてこれないというのか」
「んなの、あんたが価値観変えちゃえばいいだけの話じゃないの」
「んな簡単な話じゃないんだ」
「みんながマウント狙ってるって話でしょ」
「強気に出るんだな」
「そりゃもっちろん。俺の相棒、てっぺん狙ってますから」
「誰だ?」
「誰でしょ?」
友達でいい?仲間でいい?相棒で満足か?
意外とおしゃべりでもなかった青島は、静かに室井の言葉を待ち、耳を傾けてくれた。
経験も年齢も故郷も違うのに、実力がなくても自分を認めてくれているような錯覚さえ起こさせた。
本庁内では味方がいない。だったらこれは、アイツらに言わせれば、逃げなのか?
「部下が映画割引券をくれた」
「それ公取にひっかかんないの?」
「・・・行ってみるか?」
「じゃあ、いっそ流行のやつ、見に行っちゃいますか」
「いい記念になるだろう」
「ん!コンビニでおにぎりの割引券当たったんです。・・・あげます」
「・・・・いらん」
このまま、ずっと、二人でいられたら。
そんな罰当たりな夢を見る。
青島から伝わる親愛の情に、応えてやりたい。応えられない。
大切なことは、まだ伝えていない。
「君の食べっぷりは気持ちがいいな」
「室井さんがどんぶりメシ掻き込むの初めて見ました」
「今度トンカツ行くか」
「行きます」
大事すぎて、手放せなくなる。
大事になって、言えなくなる。
「ごめんなさい、マフラー借りっぱなしで」
「クリーニングしてくれたのか」
「あの日の雪、けっこ積もったじゃない?・・・助かりました」
まるでお互いにこれが最後と知っているように、語り合った。
まるで人生最後の思い出作りをしているかのように、忘れ物を二人で片付ける。
「今度ね、すみれさんも室井さんと酒呑みたいって」
「そうなのか?」
「半分は財布じゃない?たぶん、すごい期待されちゃってる」
「・・・こわいな」
答えを見つけられないまま、季節は静かに春から初夏へと移り変わった。
最初こそぎこちなく畏まっていた青島が、少しずつ季節が移り変わるように、知らない顔を見せてくれる。
くすくすと笑う彼の吐息が、甘ったるく毒のように室井の耳を、肌を、取り巻いた。
なんて甘美な時間なのだろう。
こんな時間が続けばいいと、思った。
言えない言葉を飲み込む自分は、酷くふしだらに感じた。
「青島、このあとちょっと時間あるか?」
居酒屋を出た所で呼び止めると、駅の方なのか繁華街なのか、曖昧な方角を青島が指差して振る。
室井が歩き出せば、青島はいつも一歩だけ下がった後ろを付いてくる。
「青島。話しておきたいことがある――」
「なんですか?」
「あの、な、その・・・私は・・、いや、俺はッ、」
言ってしまえ!室井慎次!!
もう、いい加減けじめを付けろ!
みっともない!
だが、室井が大きく息を吸ったのに合わせるかのように、青島が片手を上げた。
「・・・ぁっ、すいません。電話だ・・・」
「・・・出ていい」
「ごめんなさい。じゃあ・・」
「・・・・」
電話を取るのか。
待ってくれと言うのかと思いきや、青島はそのまま片手を上げて帰ってしまう。
なんだってんだ。自分より、その相手の方が大事だって言うのか。(まあ、そうなんだろう)
置き去りにされ立ち尽くす足は、コンクリートに埋もれていくようだった。
結局、何度試みても結末は同じだった。
「すっげえ景色!東京に長く住んでいても意外と知らないもんだな~。もしかしてここ、室井さんのお気に入り?」
「そんなところだ」
警察学校時代、よく抜け出して見下ろした場所だった。
新宿高層群、六本木ヒルズ、東京タワー、スカイツリー。ここは日本の首都が一望できる。
「いいの?俺なんかに教えちゃって」
「どういう意味だ?」
「とっときの場所でしょ!」
青島が石段の上まで登って両手を広げた。
子供みたいな彼に、室井は目を細め、ポケットに手を入れて、落ちるなよなどと小言を乗せつつ、下から彼を見上げる。
夜空に溶け込む青島を、目に焼き付けた。
大事すぎて、ぐちゃぐちゃにしたくなる。
「室井さん・・!あのてっぺんまで行けよ・・!」
きらきらとした目は、夜空を映していた。
室井の胸がいっぱいになった。
「青島、この間の話なんだが」
ぽんっと青島が飛び降り、室井の前に立つ。
くるんと、青島が背を向ける。まるで、聞きたくないとでもいうように。
「その景色、俺に見せて?・・・それだけでいいんだ」
「それは他に何も期待されていないということか?」
「その話はまた今度――」
*****
「どうかしたかね?室井くん、神妙な顔して」
現実の喧騒が室井に戻った。
埃と黴の臭いが沁みつく黄ばんだ壁が目に入る。
「何か不備があったら今のうちに言ってくれて構わないよ」
「いえ、なんでもありません。・・・確認をお願いします」
室井は丁重に報告書を封筒に乗せた一式を、島津に手渡した。
ここは本庁捜査一課だ。
この時間、大抵の人間は出払っており、在席する者はいない。
先日、湾岸署に立てられた特捜は無事確保を迎えられ、本庁に戻ってきていた。
その捜査会議資料をまとめあげたものを一課長がクロスチェック・押印し、全てが完了となる。
青島がよく使う“事件が解決”は逮捕の瞬間ではなく、実際はこの作業を待つところまでを指す。
正確には検察庁に回すところまでだが、それはまた別の管轄だ。
現在、新城が室井を臨時管理官として所轄へ送り込んだように、捜査一課は大型の別件で忙しく
元一課長であった島津もこうして応援に駆り出されている。
島津は今、ノンキャリア最高峰・警視庁生活安全部長となり、捜査の一戦からは外れていたが、快く雑用を引き受けていた。
ガコン、と旧式の印を押す音が響き、島津が封筒に報告書を仕舞う。
「じゃあ、これはこちらで処理しておくから」
「は」
今日は朝から雨だった。
ジメジメと肌に張り付く湿度が、不快指数の高さを思わせる。
窓に打ち付ける雨が幾筋もの光を描き、広がる霞が関の街を濡らしていた。
曇天の空は低く、霞んだ大気は隣のビルも見渡せない。
“てっぺんまで行けよ・・!その景色、一緒に・・!”
喧嘩にもならない。話にもならない。
あの日を境に、室井は青島とはすれ違ったまま、連絡すら取れずにいた。
あんな風に言ったくせに、あんなに室井の心を細波立たせて、青島には最後まで付け入る隙を与えて貰えなかった。
でもそれは自分も同じなのだ。
結局、大切なことは何一つ伝えられなかった。
逢うほどに海が、音を立てて、その香りに噎せ返る。
近づきすぎることへの警告であることは分かっている。
傍にいたくて、崩れそうで、壊れそうで、こんなにも気が狂いそうなのに、心の行き場を探れない。
大事すぎて、ぐちゃぐちゃにしたくなる。
自分から連絡するのは癪だった。
向き合って貰えない自分は、酷く価値のない男だった。
でも、これで良かったのだきっと。
海の音が繰り返し打ち寄せた。
声を上げて泣いたのは、江里子を失くした時以来かもしれなかった。
あの時も一人、誰もいない部屋で打ちひしがれ、海を想って、夜明けを待った。
ふと気づくと、島津がもの言いたげな目線で室井を窺っていた。
「?」
「いや――ああ、でも、言っておいた方がいいのか」
「何でしょう」
「言い難いんだが・・、この間の湾岸署で変な噂を聞いてしまってね・・・、上に報告しようかどうか、少し迷っている」
「噂?」
「確か君は、湾岸署とは何かと縁が切れなかったね」
島津の低い声は、感情的ではなく機械的であるが故に、物静かに事の重大さを訴えていた。
デスクに座ったまま、顎の下に拳を置き、誰もいない会議室の宙を見据える島津の横顔を、室井もまた言葉を挟まず観察する。
「青島刑事のことだ」
突如聞き慣れた、むしろ聞きたくなかった人物を名指しれ、室井の心臓がドクリと脈打った。
「我々のいう所の、好ましくない業界との繋がりを本庁内で指摘している者がいる。――所轄がニュース・ソースを複数抱えるのは今に限ったことではないんだが」
「特に問題視することではないのでは。現場の人間はリークされた情報信奉こそが強味です」
「それだけならいい。・・・ほら、あそこは和久さんがいるからね、こちらも深い部分までは安心しきっていた嫌いがある」
「・・・」
「だがそれが、野放しにされてきた結果だとするのなら、別だ」
島津はノンキャリの叩き上げではあるが、実質本庁・キャリア寄りの志向である。
室井より経験を重ねた洞察の眼差しが、ゆっくりと室井に向き合った。
「君もまた、青島刑事とは懇意にしていたね?」
「それは、しかし」
「何も聞いていないかね?」
何も聞かされてもいないのか――島津の問いかけは、室井にはそう聞こえた。
事実、事件の中で青島が室井に現場の動向を説明してくれることはほとんどなかった。
それを、本庁の人間はみな知っている。
キャリアのやり方は、かつて秋の放火未遂事件に於いても示された、マニュアル化された組織図が今も主流だ。
あの時、盗聴器を仕掛け、証拠を無理に炙り、主導権を奪い返そうとした本庁サイドのやり方が、彼らのプライドを踏み躙ったことは事実だとしても
彼らが人情とやらを優先してルールを犯したのは、本庁と所轄という警察機構のチームを乱す古い足枷である。
何が正しくて、何が悪いと、正義を問い質すことに、今更意味はない。
大切なのは、信頼関係と団結力だ。
そこに潜むモラルや道徳を、やはりキャリアが忘れてはならないのだと室井は信じる。
だからこそ、逆説のようではあっても、室井はあの時あの瞬間、青島に無線で確保を命じられたのだ。
「聞きだすことに意味はないでしょう。ただ、監視監督は然るべきだと」
「本人に聞けないのか?青島が話さなければしらんぶりか」
「!」
室井は言葉に詰まった。
それは、ある意味拷問だった。
あの時の過ちをまた繰り返しているのかと、島津の目が責めたてる。
「そういうことを我々が指導しないで、友情も約束も詭弁じゃないのかね?」
「青島は、・・しかし、そういうことは、分かっていると思います。一線は持っている男だからこそ私は」
“分かっている”――それは本当なのだろうか。
自分は一体彼の何をどこまで知っているというのか。
その存在の手綱を握ることすら、させて貰えないくせに。気持ちひとつ、教えて貰えない癖に。
あの日以来、身構える青島の萎縮と、また断られると思う室井の及び腰が、二人の間に確実に溝を残していた。
密に関わることすら、今は期待されていない。
それ以上の赦免の言葉は、室井の萎びた口からは出てこなかった。
薄い乾いた口唇が噛むように閉ざされ、震え、その横で島津の渋面が険しい影を落とす。
「君はもうすぐ結婚するんだろう?だったらかつての交遊関係も池神に晒されるぞ・・。きちんと始末しておかないと」
信頼とは、何なのだろう。
大切なことも聞き出せない怯懦なことなのか。それとも放置して気遣えない無関心のことなのか。
黙っていることと、気付かないふりは、果たして誠実と言えるんだろうか。
断られることに脅え、本音を何も告げていない自分も、青島の気持ちを聞きだすことも躊躇う自分も、どれも信頼とは程遠い身勝手な男に違いなかった。
「それだけじゃない。最近、彼の姿を見たかね?」
「はい?」
「署にも出てきていないらしい。ここ一カ月だ。問い合わせても張り込みで不在だという回答だが、今湾岸署が抱えている大きな事件は早々にない」
「!」
「湾岸署の神田とは同期でね。それとなく耳に入ったことなんだが」
「どういうことでしょうか」
「彼自身が何かに巻き込まれている可能性はないのかと聞いているんだ。或いは自ら姿を消したか」
室井はすかさずその場でスマホを取り出す。
長いコールが流れるが、その回線が通話に変わることはなかった。
「・・!!」
ハッと室井が島津を見る。
やはりそうかというその暗い目元に、室井は激しい胸騒ぎを覚えた。
「彼一流のレトリックにやられたか。・・・君も」
「待ってください・・!」
「警察官になった後に、時にそうやって外れる者も出る。気を引き締めて当たれ」
「!」
そんなはずはない。室井の心は叫ぶ。
だが、それを払拭するだけの力は、室井にはない。
「所轄がキャリアとパイプを作ることと、我々が所轄にパイプを持つことは、同義ではないことを学ぶといい。室井くん」
島津の指摘は、尤もだった。
例え青島が出世や利権に無頓着だとしても、周りまでそうとは限らない。
あの海の街の所轄の朗らかさについ騙されてしまいがちだし、恐らく島津の言っていることは杞憂に終わるだろう。
それでも室井は、自らその毒の滴る果実を口にしたのだ。
今になって気が付いた。
薄汚れた闇にでも、後ろ指を指される汚名でも、青島と共有できるのなら何でも構わなかった。
手を取れないなどと嘆く傍らで、室井はもうとっくに、青島の差し出す毒の果実を口にしていた。
怯えたふりをしていながら、一方で、もうとっくに青島を選んでいた。
“俺がやると言ったろう・・!”
二人で捜査本部を抜け出した、あの日に。身勝手にも、欲望に堕ちた瞬間だった。
「気を悪くしたかい?・・・、まあ、私も君と彼の仲を全く知らない訳ではないんだよ」
それは、誰に命令されたものでもなく、何かの規則に従ったものでもなく、紛れもなく室井自身が選択した錯覚だった。
室井がゆっくりと顔を上げる。
その顔を見た島津は、小さく苦笑した。
「見てきたからこそ、言えることもある」
「・・それは」
「差し出がましいようだが・・・、君の欠点は、そうやって簡単に大切な人間を手放してしまう。その人が、今どんなに辛いかどんな苦労をしたかを知ろうともしないで」
「――!」
「そんなでは、大切なものなど何も護れなくなるよ」
目を見開き、室井は口唇を戦慄かせた。
秘めた島津の言葉を、室井は何度も反芻する。
それは、澱んだ室井の内部をキリリと絞め上げ、いつかの恋のしっぺ返しを喰らっているような罰で、貫いた。
自分だって応えられなかったくせに、青島の方が先に消えてしまう覚悟も出来ていない。
青島がいなくなると考えただけで、室井の身体が震えていた。
「大事なら、目を反らすな」
太く低い声で、島津は静かに付け加えた。
傷つくのが怖いくせに、手放せない。
掴まないくせに、求めるばかりだ。
俺は、あの海から何も進歩していない。
「動くのですか・・」
「今は出方を見た方が良いだろう。しかし、」
「それは待ってもらえませんか」
「・・・」
冷たい雨は、シトシトと窓を打ち、心の中まで降り続いていた。
湿度の高さ、幽かな埃と黴の臭いが、廃墟のような心許なさを加速する。
江里子が消えた日も、そうだった。ある日突然電話が繋がらなくなって。
本当に愛なのか。
そのためなら、どれだけのことができるのかと、どれだけ自分を犠牲に出来るのかと、問われている気がした。
あの波が、強く打ち寄せる。
混沌と渦を巻く執着と焦燥が褪せない瞳で、室井は語る言葉もなく、縋る言葉も持たず、島津の目をただ見返した。
先程と何も変わらず、穏やかで達観した島津は、顎を載せていた皺がれた手を組み替える。
揺るがぬ態度は、何故か少しだけ室井に安心を与えた。
「もし君が、この先を彼と共に生きたいのなら、彼の手を取るリスクをしっかりと理解しておくんだ。護れる、それだけの力を持て」
「・・・はい」
「・・・君でも、そんな目をするんだな」
いつかの秋、何も言って貰えないことに、青島が自分を信じていないと嘯いた。裏切ったのはどっちだと詰った。
でも、本当に信じていなかったのは自分の方だったと、室井は真実を目の当たりにした。

すみれさんと青島くんとは傷という側面で対等な存在という感じが好きでした。本作の時間軸が2009になった理由の一つです。