STRAWBERRY KISS 2.5







4.
夢を見た。
墨色の海は荒れ狂う波に粉雪を巻き込んで、何度も何度も打ち返す。
銀の砂浜はただ一人の足跡を残して続くのだ。


*:*:*:*:*


条件反射で筋肉が全身を収縮させる。

「うあっ・・、と、」

出会い頭にぶつかり、高めの声を意識する間もなく、室井は小脇に抱えていた書類を滑らせた。
狭い廊下の忙しない所轄内のことだ。が、ひっ迫している状況では苛立ちも出る。
軽く目を瞑ってから、不機嫌な眉間を乗せ腰を折ると、先に相手が資料を拾い上げてくれた。

「どーぞ」
「青島・・・」

誰かを探していたのだろうか、少し上がった息を整えながら青島は袖でぐいっと額を掻き揚げた。
くしゃりとなったくせ毛の奥から覗く大きな瞳はコクのある深さで室井を映し、悪戯気に口端を綻ばす顔には室井が感じたような怒りも苛立ちもない。
狭量な自分との差に、室井は愕然とした。

「接触事故」
「・・・気を付けろ。車だったら大惨事だ」

ですよね~と言いつつ青島は、物珍しそうに室井を覗き込んできた。
少し高めのスレンダーな造形美に反し、ふっくらした頬が年下の幼さを残させ、血色のある口唇が室井の目を惹き付ける。
ぶつかったのは相互不注意であるのに、素直に詫びも入れられない自分とは対照的に、そんなことを気にも留めていない青島が異次元の生物のように思えた。
キャリアは下手に出るなと下命されているとはいえ、室井は強い敗北感を覚えた。

「今から上?本部ですか?」
「ああ」

青島が人差し指を上に向けて、小首を傾げる。
湾岸署に設置された特捜に室井が出向してから二週間が経過していた。
管理官代理として率いる本部は、今、正に正念場を迎えようとしている。
丁度、室井も本庁から戻ってきたところだった。
捜査状況の進捗説明と、確保に至る許可と逮捕状の請求を申請し、準備を整えてきた。
いよいよ大詰めだ。
愛用の黒いコートを腕にかけ、太い黒鞄を抱える姿に、青島も事情を察したようだった。

「じゃあ、引き留めちゃって悪かったですね。行ってらっしゃい」
「いや、・・その」
「?」

不思議そうにも、楽しそうにも見える青島の顔に、先日の海の告白が室井の脳裏に蘇る。
こんな男が、どんな形であれ、室井に好きだと言ったのだ。
なのに、その事実がまるで無かったかのように振舞う青島に、室井は困惑する。
あの時は年上ぶった手前、気立ての良い男を演じて流してしまったが
気障を演じてみたって、意識している方が負けなのは大昔から決まっている。

「もう少し、話したい。駄目か?」
「!」

室井にしては珍しい誘い文句は、かなり意外だったようで、青島がきょとんと固まった。
室井の額に皺が寄る。
険しい顔は凡そ多くの他人が見ても、情とは無縁の枯れたオヤジである。

室井はただじっと判定を待った。相手は共通一次試験よりも就活面接よりも手厳しい。
駄目か。軽薄だったか。唐突過ぎたか。
室井が口唇を引き締めて自分の採点に反省の弁を演じていると
少しの間をおいた青島は艶然と微笑んでみせた。その色香に飲まれ、室井はただ息を呑む。

「じゃあ――少しだけ?」
「あ・・・ああ」

ぎくしゃくと、室井が窓の方を向いた。
自分から誘ったのに、今度は何から話せばよいのか分からなくなった。
どぎまぎしていると、青島の方から話題を振ってくれた。

「すんなり逮捕許可降りました?」
「良い顔はされなかった。まあ、大詰めを迎える時はこんなものだ」
「楽しそう」

こんなにも稀有で美しい男には、どこか禁忌的な香りがする。
完全に室井の意思と感覚とは逆に、右半身がビリビリした。

「室井さんが代理の管理官なんて、びっくりしてましたよ、みんな」
「あの事件以来か」
「・・ええ。出世しちゃったからもうこういう機会はないのかと思ってました」
「・・・、今回も蚊帳の外ですまなかった」
「室井さんがいた分、士気はありましたよ。みんな、室井さんには上に行って欲しいんだって」
「・・・」

ちらりと青島の顔を盗み見た。
窓の方を向いたまま、室井に視線はくれず、静かに見上げていた。
空ばかり目をやる青島に、室井は寂寥感を募らせる。

雲間から光を映し込む瞳は虹彩豊かで、こんな目をしていたのかと改めて思った。
こんな目で捜査に向かう彼を羨ましくも絢爛にも思う。
その仲間を妬ましくさえ思えるほどに、それは見た目だけではない、彼の濁りのない結晶だ。
きれいだ、と素直に思った。

「ん?」
「すっかり大人になった発言だ」
「揶揄わないでくださいよ。これでも強がってんの!・・・いちお、係長だし、また、あんたに迷惑かけるわけにはいかないし、さ」
「そこまで気遣われると、気味が悪いな」
「ひでぇ」

所轄は確かに今回も蚊帳の外だった。
大会議室の最後尾にまとめられ、発言権もほぼ与えられないまま、本庁の若手捜査員が牛耳っていた。
数年前と相似の組織構造は、室井と青島を忘れ得ぬ時空から交錯させる。
数度、部下に怪我を負わせのはこちらの失態であり、過失だ。
書類上も消されている現場の真実は、関わった者だけの胸にある。

「少しはね、大人にならないと」

本庁サイドは結局のところ、大きく変わるものはない。
組織がシステムを変えるということは、それだけ大仰なことだった。
それでも、青島は何も室井を責めない。
怒りを迸らせるのは事件の真髄だけで、彼は黙って室井のやり方を査定し、見定めて、待っていることが多かった。
静かな目は、何を映すのか。
それを思う時、室井は彼が愛おしくも、哀しくもなった。

「上に立つというのはどうだ」
「そりゃもぉタイヘンですよ~。色々見ててやんなきゃならない連中ばかりでね。いい奴らなんだけど」
「先日、本庁刑事にタンカを切ったと聞いた」
「げ。なんでバレてんの」

危なっかしくて、直向きで健気な生き様を、なんとかしてやりたくなる。
どうしてそうまで強く思うのか、今まで他人に対して強く思ったことは少ない室井は自分の思考に少し困惑する。


――あの時。
室井は海辺で、正直に白状しようと思ったのだ。
こんな自分に関わらない方がいい、こんな自分をせめて許してくれ。
謝罪と弁解をしたかった。否、出来ることなら初めから、清算したかったのかもしれない。
それとも、青島に許されたら過去の罪も赦されるとでも思ったのか。

「また盗聴されたのかと思っちゃったっ」
「!」

脳味噌が抉られるようだった。
見透かしたような過去の言葉に、室井は頬を強張らせた。
――エラくなったら、俺たちは虫けら扱いですか!
いつかの青島の台詞が耳に木霊する。いつかの悔恨が冗談の裏で蘇る。

「あれは、君が、裏切るからだ」
「裏切ってまーせーんー。あん時は、すみれさん、あんなふうに傷つけたから」
「・・・君たちの仲間意識には頭が下がる」

今回、青島も率いる立場として、部下との調整役にも、頭を悩ませたことだろう。
それでも青島の瞳は、あの頃と同じ色をしている。
突き放されたように感じたあの秋も、勝手に傷ついて、勝手に責めて
青島が向けてくれる無垢な信頼すら、手のひらから零れ落ちていった。

「いや、・・・君なら理由があるんだろうと思った」
「・・・さすが」

時を経て、同じ過去を記憶しているという繋がりは、こそばゆく、擽ったい。
変わっていない青島を見るのが、今は忍びなかった。
変わってしまった自分を顧みるとき、それはむしろ、時の差を色濃く炙り出した。
柔らかな面影が示すものは、いっそ悪夢かもしれなかった。

「俺だって別に目立ちたいわけじゃないですもん」
「上から、最後の裏取りをしておいた方がいいと助言されている人物がいる――これも我々の誰かに頼むか?」
「・・・意地悪いよ」
「どうする」

いいの?という頼りない視線をしっかりと捕えてやると、青島はあどけなく笑った。

「・・・・・・・・やる」

室井が胸ポケットから取り出した写真をピッと青島に差し向ければ、青島はそれを粗雑に上から掴んだ。
しばらく写真をじっと見つめてから、徐にポケットに仕舞う。

「室井さんって、カノジョ、いんですか?」

突然の話題に、室井の脳はフリーズした。

ちょっと待て。何故この流れでコイツはその質問が出るんだ。
今、何かそれらしい前振りってあったか?
どこから出てきたんだ?
何故それを聞きたがる?
室井のプライベートを知りたいということはつまり室井の交遊関係を知りたいわけで、要するに室井の心を占めている相手を知るということはつまり――

折角恰好を付けて気取ったのも台無しに、室井は勝手に逸り出す心臓に動揺し、汗ばむ拳で鞄を握り直した。
本人を目の前にして恋を暴露するのも何か違う。だからといってこの質問の意図を他に探れない。
胸の奥が酷くジリジリする。

「・・・・・・・・・・・・・何故そんなことを聞く」
「え~?だって、こんな忙しかったらたぶん、家帰ってないでしょ?時間作れないでしょ?電話してる暇ないでしょ?メールもしないでしょどうせ」
「つまり、甲斐性がないと言いたいのか」
「ジジツ?」
「見くびるな」

これは試されているのか?男としての商才に探りを入れられているのか?
否、付き合ったって男としてあんたは何もしないだろうと駄目出しされているのか。
そもそも上司の男の恋路に興味持つか?
ならばこれは恋の相談か?
これはチャンスだろうと後指を指す新城が室井の脳内で派手に嫌味を言う。

「お?それはフォローくらい入れられるって宣戦布告?それともそんなことで一々騒がせないって愛の自慢?」

ちょっと男くさい色香を瞳の奥に潜ませ、青島が室井に視線を投げてくる。
その視線に狼狽えつつ、室井は涼しい顔を作り直し、少しだけ強張った口端を引き締めた。
元々朴訥な顔で良かった。

「どっちが好みだ?」

男として、青島にどう自分は見られているのか。
それを知らされるのは、やはり怖い。

「んん~・・、室井さんのオンナ見る目を信じたいところですねぇ」

また、あの海の音が、耳の奥で、ざわついた。

「買い被ったな」
「そ?・・ま、キャリア射止める女はそのくらい覚悟の上か、或いはその程度のわがままは可愛いってところで、夢見ておきます」
「君が、そういうタイプに見える」
「俺?俺はオンナノコには優しいんですよ~」

軽い吐き気すら伴う海の残響が、じっとりとした不快な汗を作って室井のまっすぐな背筋の熱を奪っていくのを感じた。

照れ臭そうに視線を外す青島は、むしろ自分の恋について話したかったように室井には見えた。
彼も切ない恋をしているのかもしれない。
それは、どこか置いてきぼりにされた気分で室井の胸を締め付ける。

室井に差し出した“すき”よりも、もっと深くもっと情熱的に抱く“すき”がそこにある。
ならば、それで良かったのだ。
自分たちは、全く違う世界を歩きすぎてきてしまった。
自分と彼の間にある溝を、埋めることが出来ない。
記憶がそれを許さない。
知ったら多分、誠実な青島も、許さない。

あの海は、室井の中にだけ、打ち寄せる。

「でも――室井さんも、でしょ?」

にやりと笑って見せる仕草は、少し痛々しそうにも見え、男の切なさも滲ませていて
子供みたいだと思っていた彼が急に他人の大人の男になる。
汗ばんでいた室井の背筋は、ゾクッと凍り付いた。

そもそも、こんな魅力的で優しくスペックも高い男を、周りが放っておく筈がなく、的外れな解釈に自嘲する。
いつか彼も誰かのものになる。

脳髄の奥で、海の音が、一際、大きくなった。
どうしようもなく理不尽な状況に、室井の硬い頬の皮膚が誰にも気づかれず少しだけ歪む。
容易く割り切れる感情でもなかった。

「どうだかな」
「どちらかというとさ、俺も今は室井さんとこうして一つの事件追っている時って、何にも代えがたいワクワクがある。あ、今、 笑いましたね?」

室井は熱も隠さずじっと青島を見た。
青島もその視線に気付いて、目を向ける。
咆哮する胸の内が、ただ、どうしようもなく震えていた。

「行ってこい」
「・・はいっ」
「内密にだぞ。分かっているな」

心得たように、青島が無邪気に敬礼をした。
だぶだぶのコートの袖から覗く丸っこい指が、残像のように室井の視界に刻まれる。
コートを翻し、青島が一気に走りだそうとしたその矢先、室井が二の腕を強く引き寄せる。

「ぅあ・・っ、と、なっ、なに・・!」
「雪が降ってきている」
「ぇ、あ・・・うん」
「これを撒いていけ」

室井は引き寄せた青島に、そのまま自分のチャコールグレイのマフラーを巻き付けた。
びっくりしたような青島は、マフラーに手を添え、その感触を確かめ、それからふわりと笑う。

「どーも」

遠くから青島を呼ぶ声と足音が近づいていた。
それでもここは別空間のようだった。
青島も室井を見つめたまま名残惜しそうな、物欲し気な色を浮かべた口唇をうっすらと開いた。だがそれが青島が音にしてくれることはなかった。
やがてパタパタという足音が角まで近づき、室井と青島は同時にそちらに目をやる。

「青島くーん・・・あ、こんなとこにいた!室井さんもいたの?」
「どした?」
「課長が呼んでる」
「わかった。今行くよ」

申し訳なさそうに室井を見る青島に、室井はただ黙って頷いて見せた。
それを合図に、青島がすみれを見て、背を向ける。
すみれが青島の袖を引き、肩越しにふわんと振り返った。

「じゃあね、室井さん」

パタパタと走り去る二人の後ろ姿を室井はただ見送った。
青島の背中には、室井に誇らしさを示している。愛しさも、切なさも、みんな彼は背負っている。
それを誰にも負担に思わせず、気付かせず、たった一人で抱え、誰も見捨てない。
でも、あの背中は室井のものではない。
どうしたって、室井のものにはならない。

初めて室井に、自己保身に走らず、傲慢に生きず、室井の実力を信じて、共に戦おうと言ってくれた男だった。
組織の中で埋もれているだけでは何も変わらないと教えてくれた男だった。
孤高で燻るだけだった戦いが、その時から、ふたりだった。

「青島!」
「・・ははいっ?!」

走りながら振り返る彼に、室井は告げる。

「さっきの話、私もだ」

それだけで、青島には通じたらしかった。
返事はなくとも、口端を嬉しそうに持ち上げ、拳を上げてくる瞳が強気な輝きを宿していく。
やがて遠ざかっていく影に、室井も背を向けた。

「ねえ、室井さんと何話していたの~?」
「え~っと、恋バナ?」
「嘘がヘタすぎ青島くん」
「ほんとだってば」

青島みたいになりたかった。
彼のように生きてみたかった。
少しでも近づける男になりたかった。

道は重ならない。
想いは拓かない。

こんなことを、許されていいわけがない。密かに秘めるだけで良かった心が破裂し軋んでいる。
それでもいい、一度でいい。本音じゃなくていい。
おまえに憧れたと、それくらいを伝えるくらい、してみたかった。

ほんの少しでよかった。ほんの少しの、何か。

消えない罰が、海の匂いを腐敗させて、当然の報いだと今も室井を陥落させる。
だが、自分で選んだのだ。
どう距離を取ればいいのかわからない?そんなのは建前だ。そんなものは、とうに閉ざされていた。
たくさんたくさん、罪を重ねた。この罰は消えない。



春先にしては珍しく、この日、昨夜から降り続いたせいで窓の外は桜の上に灰色の雪が薄っすらと被る。
一旦止んだかに見えた雪は、青空の奥からまた降り出していた。

室井のスマホが着信を告げる。

『この間の件、都合が付いた』
『――承知しました』

池神からだった。
室井の見合いの席を整えたとの連絡だった。
もう引き返せるものでもない。
室井の目は、光を吸い込む真黒な歪みで、真っすぐに誰もいない廊下を見据え、ピンと張った背筋で会議室へと向かっていた。

彼の舞台に上げさせてももらえないまま、終わっていくだけの自分が惨めだった。このまま忘れられていくのが切なかった。
ただひたすらに、あれが、欲しかった。
でも、俺のものじゃない。俺のものには永遠にならない。

せめぎ合う二つの想いが室井の中で吹き荒び、身体が二つに千切れそうだった。
置いてきぼりにされた感情は、冬の海に冷たく溶けだし、何も解からず、何も見えないまま、崩れた愛しさも砂に打ち返す。
どこまで堕ちていけば、この悪夢に終わりが来るのだろう。
どうせじわじわと苦しめられるのならば、いっそ。
いっそのこと。


耳の奥で、大きな海の音が叩き割れた。















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