空涙 4



11
「行くん・・・ですか」
「そろそろ引っ越し業者が来る」

ベッドで死んだように眠る青島の肩をそっと揺さぶると、青島は酷くしんどそうな顔をして、重たい瞼を持ち上げた。
常人より少し高めの、赤子の様な温もりが手の平に伝わる。
うつ伏せの格好で、形の良い首筋から背骨のラインを晒し、枕を抱き抱えるようにして眠っている寝姿は
掠れた声で応答してくる色寝とは対象的に、赤ん坊のような屈託なさとあどけなさがあった。
肌理の細かいつるつるとした素肌とシーツが、やけに強い朝日に白く光る。

「辛いだろうが、起きてくれ」

起こす振りをして、そのくしゃくしゃになっている細い唐茶色の髪に指を通す。
酷く、柔らかい。





昨夜、シャワーを浴びて戻ってくれば、青島は室井が抱いたそのままの嬌態を晒し、タオルケットに縋るように躯に巻き付けて意識を落としていた。
眦に、まだ一滴の雫が睫毛を黒く濡らしている。
余程、疲れてしまっていたのだろう。
熟睡の寝息に、疲労の痕が見て取れた。
考えてみれば、そもそも室井に電話を掛けるに至るまで、雨の中に長時間立ち尽くしていた筈だった。
愚直に与えられる想いが、室井の心を抉る。

段ボールからタオルを数枚取り出し、熱タオルにして身を清めていく。

そうこうしている最中に流石に目を覚ましたので、少しはベッドの方が身体も休まるだろうと思い、その腕を抱え起こした。
抵抗にもならない身動ぎをする。
面倒なので、やけに細いその腰から抱き上げ、寝室に運んだ。

パジャマを着させて、ベッドに押し込む。
濃紺のパジャマから覗く指先で、今度は室井のシャツの裾を掴み、離さない。
暫くの間、甘えたような拗ねたような、舌っ足らずの声で何やら訴えていたが、室井が隣に潜りこむと、途端に大人しくなる。
ややして、安心したように眠りに落ちていった。
それを見届けて、室井も誘われるように眠りに付く。

そう言えば、こんな風に穏やかな気分で睡魔に襲われるのも、酷く久しぶりだった。




「起きれるか」
「なんとか・・・・・。えと、その・・・・、おはよーございます・・・」
「・・・おはよう」

今更な朝の言葉を述べる青島に苦笑する。
思えば、青島はこういう基本的な礼儀や社会摂理をきちんと身に付いている所があった。
恐らく、彼を象る人懐っこい笑顔で多くの人に愛され、真っ直ぐに育ってきたのだろうと思う。
その、子供の様な哀しみを時折惜しみなくぶつけてくる姿さえも、好ましく、室井には、羨ましく、眩しいものだ。
室井にとって、青島は、やはり捨ててきた過去の結晶なのだ。


のそのそと起き上がる青島の、目元まで垂れさがる前髪を梳き上げ、額を掌で固定する。

ベッドの上にちょこんと起き上がり、青島もまた、何も言わずに上向かされたそのまま、じっと室井を見上げてきた。
気丈な意思の強さの裏に、行き違ったままの昨夜の感情を引き摺り、それを隠そうとして隠し切れずに
不安と惑いを混ぜた瞳が頼りなく瞬く。


昨夜は、欲しいというただそれだけの飢えのままに気持ちを走らせ、その肌の隅々まで触れた。
不義理にも、冒涜とも言える行き場のない膨大な負の感情を、この純潔な存在に、組み敷き、全身で受け止めさせたのだ。
獣染みた雄の欲望を叩き付け、気遣う余裕もない荒々しい腕に、その律動に、奪う口唇に
それでも青島は、導かれるままに、室井を深くまで受け容れた。
大きく限界まで開けた脚を小刻みに震わせ、最も奥深くまで室井を呑み込み、揺さぶられ貫かれる刺激にも堪え
軽く仰け反りながら、初めての烈しい責め苦に堪えていた青島は
一体何を想っていたのだろう。
そうすることで、一切の否定も澱みも見せず、室井を導き、赦した。

一夜明け、激情が過ぎ去った頭には、自分に貴重な存在を、手酷く扱った事実だけが、去来する。



透明な瞳が、物も言わず朝日を反射していた。
なんて透明で綺麗なままなんだろうか。

窓の外は白く、昨夜の雪は一晩中降り続けたことが伺える。
きんと冷え切った空気が瑞々しく、ヒーターの中でも息を凍らせる。


そっと片手で引き寄せ、胸に顔を埋めさせた。

寝崩れて、パジャマの襟から晒された無防備な首筋が、朝の光の中でまじまじと視界に入る。
瑞々しい張りのある無垢な素肌に浮かぶ、幾つもの昨夜の情交の名残が、その行為の烈しさを伝えてくる。
朝日の清純さとは真逆の、妖艶さを漂わせる若い躯を、濃紺の生地から晒し
それでも青島は大人しく額を服に押し付けている。

室井は躯の奥が熱く迸るのを、気を入れて片手で押さえ込んだ。


手には入らなくとも、もう、この存在は、俺の性を知っている。
この無垢な原石を、無慈悲に組み伏せ、自分が淫らな性の色に染め上げた。
俺が、穢した。
踏み越えてしまった、最早後戻りできない関係は
室井を、苦い後悔と仄暗い歓びが綯い交ぜになった、不可思議な感覚で惑乱させる。


・・・・故郷の、一面まっさらに積もった雪に、最初に足を踏み入れた感覚を、再び思い出す。
雪原は自分のものではないのに、そこに遺す最初の足跡。
やがて消えゆくその毀損は、それでも自らの手が印した証――記録だった。

みんな消えていく。
静かに通り過ぎていく。

この腕の中で熱く乱れていたのも、嘘か夢か、今、朝日と共に嵐が過ぎ去っていこうとしていることを、理解した。



青島の乱れたままの髪に手を差し入れ、強く肩に押し当てる。

これが最後になる。
当分の間は、触れることは勿論、逢うことも叶わないだろう。
また、孤独な一路にお互い身を遂げる。



「無理をさせた」
「へーき、です」
「嘘を吐くな」
「どってこと、ないですよ」

返ってくる、くぐもった柔らかい声。
怒りも侮蔑も乗せない。

「強がるのは、相変わらずだな」
「室井さんだって、意地っ張り」

一緒ですね、と言う物怖じしない軽い声が胸元を振動する。
それが逆に、苦しい。
きゅっと肩を抱き寄せる手に力を込めた。


「我儘を言った」
「今、眉間に皺寄せてるでしょう」
「生まれつきだ」

穏やかで、痛みも乗せない声で、室井のされるがままに、青島は頭を室井の肩に当てられ、じっとしていた。
だが、青島の手は室井を抱き返そうとはしない。

「君は・・・・こんな時まで人のことばかりなんだな」


ベッドに片手を付き、青島の頭の形を感じる程、手を押し当て、キツく目を瞑る。

ありがとうも、ごめんも、驕慢な気がした。
今頃、大切だと気付いた存在に、こんな瞳色をさせる不甲斐ない男でしかない。
少しは、責めたり、どす黒い本音を晒してくれれば、室井も何か出来るのに、躯を開いても、室井がぶつけたような澱みは
青島は表わさない。
心は、開かれない。

それが、今は、身勝手にも少し寂しく思う。


「恨むのも、詰るのも、君の自由だ」
「――。あの。・・・少しは前に・・・・・向けますか・・・・」
「・・・・ああ」

それだけを言うのが精一杯だった。

「なら、昨夜のことは・・・・忘れてください・・・」
「・・・ああ」


空気は冷たく、朝日はカナリア色で、包まれる人肌の温もりは、ベルベットのように柔和だ。
これは鎮魂歌なのか。
悪夢は過ぎ、胸に押し寄せるのは、終音の調べ。
今、静かに一つの時代が閉じていく。

思い出と記憶によって得られる喜びは、何てごく僅かなのだろう。

この新宿北署から発した、激甚な一連の事件が、今、自分の中で静かに収束を迎えたことを、室井は肌で感じ取った。
青島の柔らかい髪に鼻を埋め、その温もりと匂いを確かめる。


「ここからまた、出直しだ」
「はい」
「どうやらそう簡単には逃がしてくれないらしい」
「期待してます」
「今度は西の街で・・・」
「・・・俺は湾岸署で」
「無茶はするな」
「あんたもね」
「それは広島県警に言ってくれ」


青島が微かに肩を震わせて笑った。
くぐもった吐息が素肌に触れる。

名残惜しさを匂わせた腕の力を抜き、そっと身体を離した。
視線を交わす。
艶やかな琥珀色に光る瞳が、室井を見上げている。
着崩れてしまっているシャツをそっと肩にかけ直し、昨夜の刻印を視界から消した。


「室井、さん・・・・」

青島が、頼りなく呟き、室井を見つめた。
その瞳は捨てられた子供のようで、室井は思わず唇の端だけ持ち上げる。

「おまえの方が、辛そうだぞ」
「・・・・っ」


泣きそうな瞳が、やせ我慢していることを、容易に伝える。
その哀しい瞳に、室井の胸の奥に、逆に温かいものが浸み渡った。


夢の名残が消えても、朝が来ても、俺が失墜しても、青島は青島だ。
想像していた通り、青島は、室井が路頭に迷っていても、認めてくれるのだろう。
見上げる不安げな表情が、それを物語る。
昨夜の熱を瞳の奥に隠しながら、気配だけを滲ませる青島に
それは、まるで、遠く離れていても、決して青島の中でも室井という存在が失われないのだという錯覚を、確信に変えた。


彼が利他的に優しいことにも、もう傷つかない。苦しくはならない。
どんなに彼が受動的で優しくとも、ここまで受け容れる相手は、きっと室井だけなのだ。


過去と記憶を引き摺る青島が、感傷を燻る自分の姿と重なる。
俺のことは忘れろと、青島に思う気持ちはそのまま、それは己の戒めでもあった。
自分だって、結局の所、今回のことを引き摺るのではなく、先へ進めと、逆説的に青島に言われているようだ。

何だかそっくりで、愚鈍な自分たちに、室井の気張っていた神経がふっと緩められる。
どうすれば一番良いのかは
鏡像となっている青島の上に、こんなにも明確に示されていた。



室井は、想いを込めて、青島の琥珀色に光る瞳を見つめた。

――今は何の約束も与えられない。 情は告げられない。

彼のこれからの幸せと目の前に広がる道を奪い取ってまで、自分に縛り付けることは、出来ない。
手放してやるのが筋だろう。
ここでキツく言えば、きっと青島は手酷く傷つけられた痕だけを抱き、自分の前から完全に姿を消す。
そういう奴だ。
室井のためになると分かれば、徹底した決意を見せ付ける。
そうなれば、過去の同じ宝石だけを胸に秘め、遠くで思いやりながら、俺たちはそれぞれの道を歩き出していける。


でも。


「向こうに着いたら、連絡を入れる」

青島の眼が見開かれた。

「いいか」
「・・・・・」
「嫌か」
「・・・・・・いいの?」
「俺が聞いているんだが」


何もあげられるものはない。
この愛おしい存在を、誰かにむざむざと捕られても引きとめられない。
大切に触れることすら出来ない甲斐性なしに、一体何が言えるというのだろう。


他には何も要らないと思えた程に惚れた江里子を、欲望のままに情を傾け、その重さで彼女を追い詰めた。
青島には断ち切らせるために、今も引き摺っているような言い方をした恋だが
もう室井にとってはもう随分遠い、過去の恋だ。
だが、自分の全てを捨てても構わないと思える程の、のめり込むような愛し方を、もう二度とする気はなかった。

そんなことをさせたかった訳じゃなかったのに、意思はいつも最悪の結末を連れてくる。
いつだって、自分の想いは邪魔で、迷惑で、嫌味にしか、ならない。
護りたいなら離れろ。――恋のパラドックスこそが、室井の愛情だ。

人生を賭けられるくらいに大切な相手なら尚更に。


でも、カッコつけて、気張ってみても、本当の所は脆く、頼りない。
昨夜の痴態で、本音を晒されたのは、むしろ室井の方だ。
自分の至らなさ、脆弱さ、足りないもの。・・・・・・そして、必要なもの。

狂おしい程、欲しいと枯渇する心を認めることと、それを口に出すことは、また別問題だ。
口に出すことは、常識や摂理を越えても、そんなに許されざることだろうか。
本音を隠して生き続ける勇者に、真の力は備わるだろうか。

無駄なことでも、言うのと言わないのとじゃ、全然違う。
それを昨夜教えてくれたのは、他でもない、目の前のこの片割れの存在だ。



「・・ぁ・・・・、や。別に、いらないです・・・・よ」
青島が俯き、緩く頭を振る。


恋はいつだってパラドックスだ。
その身勝手に、青島を巻き込むことだけが、唯一の気が引 けたのだが、そんな気を使う気障さえ、今の室井には無価値になった。
惨めに全てを失った男には、取り繕う他所行きの顔の方が、みっともない。

全身で、そのままの室井で良いと言ってくれた青島の透明な心が眩しいと思う。
自分の方が年上で、しかも失うものも多く、深刻だ。
それは、青島も分かっていて、だからこその、「忘れてくれ」なのだろう。


初めて、彼に遺すものが何もない自分が、悔しいと思った。
事件を経て、流されるがままに足掻いてきた中で、徐々に小さくなっていった何かが、胸の奥で破裂する。

俺にもっと力があったら、欲しいものを欲しいと、思うままに手を引き寄せられるのに。





昨夜は躊躇ったその口唇を、そっと寄せる。
驚いて硬直している青島の瞳を眼の縁に最後に捉えた後、瞼を伏せ、そのベリーのように艶めく口唇にそっと押し当てた。
昨夜の奪うだけの粗雑なキスではなく、愛おしむようにゆっくりと触れていく。

青島の口唇が震えている。

頭の片隅の思考は、今も踏み止まるよう警告している。
手放してやるのが筋だろう。
手を取るなど、おこがましいだろう。

重ねる口唇の熱さと反比例する、心の遠さが重く圧し掛かる。
この重さは、捕らわれてしまった、俺の罪だ。


開かれているこの躯に、身を委ねても良いだろうか。
もう一度、誰かをあんな風に、心の底から愛しても、良いだろうか。
自分の気持ちを、全部受け止められるだけの人に、俺は出会えただろうか。
青島なら、全力で向かうこの情熱に、見合うだけの応えを、くれるだろうか。

時は巡り、今再び、同じように、他に何も要らないと思える相手が、此処に居る。


室井は五指を刺し込んだ後ろ髪を握り、クッと引き寄せる。
何度も何度も唇を擦り合わ せ、ぷっくりとした感触を名残惜しむように、口付けた。
柔らかく舌で舐め上げ、少し強めに吸い付く。
耳元の青島の吐息が小さく乱れるのが分かった。

徐々に熱を帯び、溶けあうように絡み合う。
胸が、軋む程に痛かった。


気持ちを全部告げられたら、どんなに楽だろう。

だが、これでお終いだ。
もう、物理的にも、傍には居られない。




室井はゆっくりと口唇を離した。

「たまに・・・・連絡を入れる」

至近距離で、濡れた痛みを乗せた瞳で、青島が緩く首を振る。


「俺・・・・今、いらないって・・・言いまし・・・た・・・」
「お前の意見は聞かない」

じっと視線が絡む。

「駄目、だよ室井さん・・・・そんなことされたら、俺、広島まで行っちまう」
「・・・俺は、何も変わらない。今も、昔も。俺の中には必ずおまえがいて、俺を叱咤する。それはきっと、これからもだ」
「・・ぇ・・・・」
「そうやって俺は生きていく。おまえが物理的に俺の隣に居る居ないは、関係ない」
「そんなの、俺、だって・・・・」


締めつけられる胸の奥の痛みが、熱く、熱く、走らせる。
いつか、この哀しい交わりも、宝石のように生まれ変わる日が来るだろうか。
明日への満ちる欠片となるといい。
いつか、遠い日に。


音も無く、二人の上にも、時代の終焉が舞い落ちる。


「とんでもないもんに捕まったもんだ・・・・たぶん、出会った時から」
「室井、さん・・・?」
「おまえが付けた熱だ。ずっと・・・・消えない」
この勇気の灯は、決して消えない。


ぼんやりと、遠くを見る目付きで呟いていた室井の荘厳な瞳に、スッと鋭い焔が灯される。


「そうやって生きていく男の、その部屋に、もし、おまえが来るのだというのなら・・・・・その時は――その時は、覚悟を決めて来い・・・ッ」
「・・・!」
「何も護ってやれない。何も与えてやれない。何も出来ない。俺はおまえに何もしてやれない・・・・幸せひとつ」
「俺、そ・・・・んな、こと!そんなこと思ってなんか・・・!」
「おまえがいなくちゃ、何の価値もない男だ・・っ」
「そういう意味じゃない・・・、あんたから俺、何かしてもらおうなんて・・・・!」


まだ甘い夢を謳う青島のパジャマの襟をグッと鷲掴み、室井が荒々しく引き寄せる。


「全てを捨てる覚悟だ・・それが出来るっていうんなら、来てみろ・・・ッ」
「・・・ぇ・・・」
「その時は、俺の本音を告げてやる」
「・・っ!!」


シャツの襟首を両手でグッと開き、露わになった首元に、噛みつくように歯を立てた。
昨夜、何度も吸い付いた肌に、またひとつ、朱色の印が刻印される。

「・・ィ・・ッて・・ッ」
「こんなもんじゃ済まさない。地獄の果てまで道連れにしてやるから、そのつもりで来い・・・!」








11
二人で仕度をする。
もうすぐ出発の時間だ。
この部屋を出たら、二人の時間も閉ざされる。
別離の時が近付いていた。


「曲がってるぞ」

室井が青島のネクタイを締めるのを手伝ってやる。
いつも緩めで締めるネクタイを、ワザとキツく絞り上げてやった。

「ぅげ・・・っ」

青島が苦しそうに顔を顰めるのを、微苦笑を浮かべて視線を合わせる。
何も言い返さない眼が、恨めしそうに細められる。

それから、手串で髪を整えている青島の、ボタンの飛んだシャツを、スラックスの中に入れてやり、ジャケットのフロントを止める。
これで、とりあえず、飛んだボタンは分からないだろう。
あとは署に着いて、替えのシャツにでも着替えれば良い。


段ボールの上で乾かしていたモスグリーンのミリタリーコートを取ってやる。
一晩ですっかり乾いたそれを、ばさっと放って手渡す。
青島が、片手を伸ばし、掠めるようにそれを空中で奪い取った。

ぱふりと羽が広がるように、音を立てて羽織る。
鞄を肩から掛けたのを確認してから、踵を返し、誘導するように玄関へ向かった。




「忘れ物はないな」

しゃがんで靴紐を整える青島の旋毛を見降ろしながら、ポケットに手を突っ込んだまま壁に凭れて問う。

「ないですよ」
「・・・早く行け」
「・・・・」


靴を履き終わった青島が俯き固まっている。
その背に、静かに促しの視線を送る。
気の効いた別れ文句など、今は何も思い浮かばない。

口唇を引き結び、青島が名残惜しそうな眼をして仰ぎ見た。


昨日まで繰り返していた馴染みの時間へ戻るだけで、現実は何も変わらない。
何があっても人生は続き、どんな過去を背負っても歩いていかなくてはならない。
魂が引き裂かれるような痛みと苦味を確かに感じているのに
これも、所詮、時の迷いになるのだろう。
扉の外には、何ら変わりない日常が、待っている。
勝ち負けの世界──容赦ない出世レースが、またここからスタートする。


「遅刻するぞ」
「室井さん、オトナすぎるよ・・・」
「おまえが子供すぎるんだ」
「・・・・」

むくれている青島に、内心苦笑するが、表には出さない。

こういう時、先に惜しむ姿を見せられると、見せられた方は案外、余裕が出来、落ち付くものだ。
室井をこの部屋に残し、先に扉を出ることが、後ろ髪を引かれるような思いなのだろう。
そんな風に、必死に名残惜しく思ってくれる青島に、愛しさが募る。
心底、可愛いと思う。


ふと、新城が最後に見せたあの不敵な、してやったりと言った笑みが、オーバーラップした。

馬鹿なことを、と思ったあの最後の無茶も、今はそれさえも甘い痛みに変わる。
同じように、聞き捨ての、沖田や一倉の裏の動向もまた
みなが必死に生きようとした証だ。
この一連の事件の最中、誰もが生きることに精一杯だった。
様々な利権が絡み合い、澱んでいても、歪んでしまっても、それらは全て、同じ世界で生きる者たちの、奮闘の記録だ。

形振り構わないやり方も、心の底から慈しみにも似た感情が溢れる。
不器用な生き方しか選べない自分らにも、虚仮な同胞たちにもだ。
運命に左右され、災いの前では成すす術もなくなる人間存在の儚さは
同時に、人間としての慈しみにもなる。

不完全なのは、誰もが同じで、補完しあうのは、誰もに当然な行為で
何故なら、人間は人間と一緒に生きるものだからだ。
自分もまた、その時代の中の一欠片だ。
みんな、繋がっている。


みんなが生きるこの時代の淡い想いが、降り積もる。
そんなこと、考えたことも、なかった。

あの江里子が消えた海にも、華のような雪はまだ降っているだろうか。



目の前の青島のふわふわした旋毛を見下ろす。

だったら俺は、この光源を失わない宝石のような魂と共に、生きたい。
粉々に砕かれても、尚、輝きを失わない。
これが、俺のジョーカーだ。
そして、真のラストカードだ。


「じゃあ・・・・身体には・・・気を付けて・・・・ください」
「ああ。君も」
「無理は・・・しないで」
「分かってる」
「広島で・・・また俺みたいな、暴れん坊がいたら・・・」
「対処法ならおまえで習得済みだ」
「・・・ッ」
「それに、よっぽどの気持ちの融合がない限り、俺は絆されない。おまえと違って」


青島の身体が少し、震えている。
そんな青島の、瞬きすら見逃したくなくて、室井も真っ直ぐに見つめる。
青島の零す、一粒の涙さえ、知らない所に消したくない。

「んだよ・・っ、それ。人聞きの・・・悪い・・・」

憎まれ口が朝に溶ける。

「・・・あんたの――活躍の噂が、こっちまで届いたり、する、の、かな・・・ッ」
「おまえほど派手な騒ぎを起こす奴はいないだろ」

青島の声は徐々に甲高くなり、泣き声を抑えているのが分かった。

「俺のこと、忘れても・・・・っ」
「忘れるか、馬鹿」



室井にとって、青島は出発点であり原点だ。
そしてそれは、青島にとっても、恐らく同じなのだ。

君は風であってほしい。
俺の背中を押し、惑わないように、見失わないように、そしていつでも君の居場所を知れるように。
強く想うだけで真っ直ぐに還っていける場所であるように。
何処までも飛んでいく旋風のように、自由であってくれ。
それが、室井の最後の願いだ。

その想いが、宵の哀しみを消していく。


くしゃくしゃの顔で、青島が唇を噛み締める。
寄りかかっていた壁から身を起こし、組んでいた腕を外し、青島に一歩近付いた。


「ここから・・・・・・また、始まるぞ」
「・・・・!」
「一旗、二人で上げるんだろ」
「・・・・・はい・・・っ」
「俺の相棒はおまえなんだから、しっかりしろ」
「はい・・・っ」

「行け・・・っ!」


「行って!きます・・・っ!!」

叫ぶように青島が拳を下で握って俯いたまま、声量を上げて応える。

涙を零れんばかりに溜めた瞳を堪え、ドアノブに手を掛けながら室井の眼を見納めとばかりに振り返った。
口の端を少しだけ持ち上げてみせる。
それに応えるように、室井の口唇にも微かな笑みを滲ませた。

華が咲くように青島が笑って、そして、扉が開かれた。


頑張れ、頑張れ、頑張れ。
踏ん張れ、俺たち。
きっとそこからまた同じ未来が始まる。

光の世界に青島の残照が強く焼き付いた。



一面の雪景色が痛いほど、まっさらに世界を染めている朝だった。








happy end


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とりあえず完結です。
容疑者は室井さんの物語なので、室井さん視点だけになりました。
エピローグとして最後に、湾岸署に着いた青島くんのことを補足して終わろうと思います。

これ、広島編とか書いたらべったべたの甘甘物語になるんだろうな~とか、自分で書いておきながら妄想しました/////// 
私が馴れ初め好きなため切欠物語になりましたが、付き合っている二人が巻き込まれた事件として容疑者を妄想しなおしても、また、青島くんの対応も少し変 わっ てくる訳で
別の味が出てきて、そういう話も面白いですよね。例えば、戦いが終わった後に訪ねてきた室井さんと拳でガッツを交わすとか。共闘者って感じ?だれか書いて くれないかな・・・。

ここまでお付き合い下さりありがとうございました!
20150619