空涙 ~side Tokyo five Chips
case1.恩田すみれの場合
「恩田くん、恩田くん、恩田くん、ちょっと頼みたいんだけど!」
「なんですかぁ?」
「先日のコンビニ強盗の件、何だか余罪が出そうなんだって。交通課からの報告、後で聞きに行ってくれる?」
「交通課?まさかあいつ!」
「そう、切符」
「ああぁ・・・」
「それと~」
「まだあるんですか?」
「そうじゃなくて・・・・。アレ、何?」
中西がシャーペンで差した方には、特徴的なモッズコートを着たまま椅子に座り、宙に視線を浮かばせている何とも異様な――ある意味邪魔な塊が
指定席でフリーズしてい
た。
膝元に鞄を抱えたままの姿は、連れて来られた迷子宛らで、意識ここにあらずといった顔で蹲っている。
どうやら出勤したままデスクに着き、そのまま別の世界へ行ってしまっているようだった。
心得たように大きく頷き、すみれは鼻から大きな息を吐き肩を竦めてみせた。
「知りませんけど・・・。見ていると面白いんですよ、百面相してて」
「百面相?」
椅子をゴロゴロと引き摺りながら、魚住も話に入ってくる。
「一体どうしちゃったの青島くん」
「私に聞かないでくださいよ、知らないっての・・・・。でも大方の見当は付きますけど」
「何?」
「どういうこと?」
すみれはちょっと眉を潜めて、もう一度、微動だにしないまま赤くなったり青くなったりしている青島を見つめた。
新宿北署の一件は、ここ湾岸署でも終始話題が持ち切りだった。
恐らく何の言い訳もしないであろう室井が、逮捕されたり訴えられたりと、かなり身辺が派手に動いたことで
メディアでも連日報道され、その動向に注目が内外から集まった。
こと湾岸署では、同胞の不祥事とはいえ、見知らぬ相手でないだけに、ほぼ同情的で、仕事もそっちのけでテレビに齧り付く者も多く
皆がある意味、急いた気持ちを持て余していた。
中傷ファックスが送られてきたり、室井が辞表を迫られたらしいとの噂話が、連日カッ飛び
その度に、ざわめいた。
正直、今、本店と新宿を拠点に、何が起きているのか、詳細なことは何も伝えられることはなかった。
伝わるのは、噂話と、操作されたような情報リーク。
例の室井の過去を暴露するようなファックスが届いたのも、そんな頃だ。
本店の見知った人物に直に連絡を取ろうにも、向こうはこちらよりもそれどころではないらしく
一所轄の気遣いなど、鼻にも掛けられなかった。
下手に動けば返って室井の足を引っ張ることになりかねない。
事は、室井の進退を掛けたデリケートな局面に突入していた。
管轄が違う上に関与のない仕事上のトラブルなので、署として表立って動くような軽率なことは何も出来ず
情報も錯綜していた。
ただ時折、風の便りで入る進境を糧に、時期と進捗を窺う焦れた日々が続いた。
その中で、唯一人、人一倍騒ぎそうな、そして人一倍心配しているだろう、青島が
誰より静かだったことが余計にすみれの心を重苦しくさせていた。
取り繕い、平静を装い、乾いた笑顔を乗せる青島は、まるで自分が渦中の最中のようですらある。
事実そうだったのだろう。
もっと、騒いでくれたり、愚痴でも零してくれたら、相談にも冗談にも乗ってあげられたのに。
ただ黙って、捜査の状況すら知ろうともせず、大人しくルーチンに明け暮れている姿は、ある意味痛々しくも不気味でもあった。
どこで、その静なる衝動が破裂するか。
何となく、室井さんの終わりは、青島くんにとっても終わりであるのかもしれない。
彼が、どういう運命を辿るのかではなく、どういう判断に出るか。
それを、知るのを怖がっているようにも見えた。
そして昨日。
本店から――新城から一本の電話が入る。
別に、これを待っていた訳ではないだろうが、伝えられた内容は青島くんを動かすのに充分な内容だったらしい。
・・・・・たぶん、最後なのだ。
「大方、室井さん絡みでしょ」
自分を納得させるかのように、すみれが呟く。
「え?室井さん?」
「ああ、なんか異動になったって聞いたよ」
「そうなの?次、どこだって?」
「さあ・・・・?恩田くん、知ってる?」
「知りませんよ・・・」
そう答えてから、もう一度三人で青島の方へ視線を送る。
俯いたかと思えば唇を噛み、眉を寄せる。
サッと顔の血の気が引き、視線が上がる・・・・・・が、次の瞬間、頬が真っ赤に染まり、視線が彷徨う。
渦中の人物は、我知らず、一人百面相にご執心だ。
「何あれ?」
「「さあ?」」
・・・・室井が異動になったことは、すみれも知らなかった。
恐らく、青島も、それを昨日新城から伝えられたのだと、すみれは思う。
昨日、電話を受けた後、黙ったまま神妙な顔をして、外回りに出ると伝え・・・・事実上の早退をしてしまった。
何かあったのだと、胸の奥で直感した。
――で、一体何があったら、一晩でこんなのが出来あがるの?
「使い物にならないってことだけは確かなようね」
すみれは、こてんと小首傾げて、頷いた。
「まあ、確かに・・・」
「・・・どうする?」
「放っておくしかないんじゃないの」
「邪魔だね・・・」
「邪魔だね・・・」
愚にも付かないことを繰り返すオヤジ共を取り残し、すみれは席へと戻った。
椅子の背もたれに身を預けると、錆ついた椅子が軽く軋む。
背後の気配に気付く筈なのに、今日の青島はそんなことは遥か遠い上の空だ。
本当に、一体何があったんだろう。
恐らく――ううん、考えるまでもなく、青島は室井に逢いに行ったのだ。
それまで重たい腰を上げなかった青島の気持ちは、すみれにも充分理解出来る。
遥か雲の上の人に、一所轄の分際が逢いに行ける訳がない。
どんな約束があろうとも、職務上の上流階級に、しかもキャリア組に、こんな時に逢いに行ける訳がない。常識的に考えて。
青島と室井の仲からすれば、それはまた、別の意味も持っていた。
男同士で、約束をし合った仲で、強く繋がりあっている関係では、手を出さないという選択肢は、何よりの餞別になるのだろう。
自分も一緒に戦ってきた同志だから、それは分かる。
逢いになんて、行けない。・・・・・いや、行っちゃうかな、私なら。
心配だし、一目見たいし、励ましたいし。
誰かが味方だって伝えるだけで、それは戦う人の勇気になるって、知っているから。
でも、青島は行けない。
自分を強く抑え込んでしまう人だから。
そして凄まじい信頼を置いているから。
室井への期待や羨望が大きい分、雁字搦めになってしまっ
ているのが、傍で見ていて手に取るように分かった。
すみれが行くのとは訳が違うのだ。
基本的に、青島は残酷なほどに優しい。
その分、自分のことには物凄く疎い。
青島は、誰かのためになると分かれば、閃くより先に脊髄反射出来る鉄砲玉だが
そこがネックなのだ。
誰かのためになると自分が納得しなければ、動けない。
自分のためには、決して動けないのだ。
自分自身の命運は、簡単に天秤に賭けられるくせに。
破滅的に、残酷なまでに、優しく、惜しみない。
向けられる、隙だらけの情愛に、勘違いしてしまいそうになる程に。
「そんなの優しさじゃないのに・・・・」
ポツリと誰にも聞こえない文句が、口唇から洩れる。
だが、これが最後なら。
その状況が、ようやく青島を動かせたんだと思う。
きっと、躊躇って躊躇って、散々迷って、やっと通話ボタン押したんじゃないかな。
――でもだから、それはいいとして、何があれば一晩でこんなアホな・・・・失礼、可笑しなものが出来あがるの?
すみれは椅子を回転させ、肘を突き、後ろから青島を黙々と眺めた。
どうせ、今の青島じゃ気付きもしないだろう。
落ち込んでいる風には見えない気がした。
少なくとも、この一カ月程の静かな荒れ様に比べたら、全然マシである。
しかし、真っ青になり、時に、顔を茹だる程に赤らめ、再び青くなる百面相を、飽きずに黙々と繰り返している不気味な姿は、ちょっと理解不能だ。
人一倍案じて、信じ続けた青島に
一体室井は何をしたのだろう。
人を巻き込む天才の青島を、ここまで腑抜けにするなんて、やはり室井も大したものだ。
思えばそんな風に、一度走りだした暴走気味の青島を、その気高い意思で上手に制御出来るのも、室井だけだろう。
東京にも珍しく雪が積もり、この冷え込んだ朝に、少し肌も汗ばんでいるようにも見えた。
何かに脅えてる?
そして酷く動揺しているのかもしれない。
後ろ髪に寝ぐせが見える。
よっぽど朝慌てていたことが伺えた。
case2.青島俊作の場合
湾岸署に飛び込むと、ギリギリ遅刻はせずに済んだ。
膝頭に両手を付いて、大きく肩で息をする。
思ったように走れなくて、予定より大分時間をロスした。
テレポート駅から湾岸署まで、こんなに遠かったとは、大誤算だ。
腰に思うように力が入らず、太股で踏ん張れないから、雪道に足を取られるのだ。
何度躓いたことだろう。
ふらふらと倒れ込むように、椅子に縺れ込む。
大きく息を整えながら、デスクを見ると、目の前に昨日途中で投げ出したファイルやメモ書きが仕舞われもせずに散在していた。
それを額の汗を拭いながら視界の縁に映す。
昨日までの仕事の残骸が、昨日までの自分を映し出している。
――えーっと。えーっと。どうしたんだっけ俺?
そうだ、確か三丁目の衝突事故の報告書を急き立てられてて、そしたら領収書を清算していないことに気付いて、そっちを先にやろうとしたら
そこで電話が
鳴って――。
新城からの伝達は、酷く愛想のないものだった。
これまでの室井の事件経過の概要と、広島への異動を教えてくれた。
辞表は俺が破ったと言うから、そうこなくっちゃ!って返したら、三割増しで嫌味が返ってきた。
おまえのせいだとか、毒されたとか、年下のくせにとか。・・・・苦笑していたような声ではあったが。
そして、 中傷ファックスと辞表に繋がる、向こう側の利権が絡んだ委細を、
言葉少なに語った。
事件を弁護士同志の諍いに縺れ込ませたこと。上層部の利権の的になったこと。その中央に、象徴として室井さんが祭り上げられていたこと。
そこで室井さんが何を考え、どう出るか・・・・俺には手に取るように次の手が読めた。
瞼を抑え、淡々と語る新城の見てきた事件概要に、静かに聞き耳を立てる。
あのひとらしいなと思った。
辞表を出してまで、信念と正義に走った雄姿が、見てもいないのに、瞼の裏に滲んだ。
電話の最後に、何で俺に?って新城さんに聞いたら、気紛れだと返ってきた。
「今夜だ。今夜が最後だぞ」――――そう言って電話は一方的に切れた。
新城さんの言葉は簡素なものだったけど、確実に何かが俺の背中を押した。
そうすることを、新城さんも望んでいたんだろうか。俺がこう出ることを、分かっていたのだろうか。
新城さんはその眼で、室井さんの何を見つめてきたんだろう。
湾岸署を飛び出して、ひたすら走った。
曇天の空が泣きそうで、それにも煽られて気持ちが破裂しそうだった。
官舎の前まで辿り着いた時、既に辺りは暗くなっていた。
初めて来たこの街は余所余所しく、灰色のコンクリが分不相応な自分を、拒絶しているかのように影の中にそびえ立つ。
余りにも冷徹で、場違いな世界に見えて、熱も心も冷や水を浴びたように凍りつき、足が竦んだ。
久しく連絡を取り合っていないのに、俺だけ盛り上がった気持ちで押し掛けて、室井の都合なんて考えていなかった浅はかさに、今更ながらに思い至る。
そもそも、一所轄の人間が、キャリアの部屋を訪ねても良いんだろうか。
室井だって、こんな事件の後だ。青島のことになど構う余裕があるとも思えない。
でしゃばって良い問題ではないだけに、躊躇わせた。
第一、どんな顔して逢えばいいんだ。
俺は、彼に逢って何がしたいんだろう。
俺に何が出来るというのだろう。
新城さんは、何で俺に電話した・・・・?
混沌としてしまった思考は、足を留まらせ、最後の一歩を戸惑わせる。
このまま帰った方が、誰の手も煩わせずに済むような気がした。
そうこうしている内に雨も降り出してくる。最悪だった。
ぐるぐる回る思考を閉ざし、ようやく電話出来たのは、それから何時間経ってからだろう。
逢えなくてもいいから、せめて別れの挨拶くらいはと、言い訳を整えた。
もう時間の感覚はあんまりなかった。
手足の感覚もなかったけど。
室井さんの第一声を聞いた時、心が震えた。そして同時に凍えた。
怖かった。冷たく、低い声で。
哀しくなった。
このひとは、今、傷と哀しみを抱えている。
抑え込んだような震える声が、それを伝えた。
隠そうとして隠し切れない痛みは、受話器を通して俺に共振してくる。
それは、お互い様だったのだろうか。
室井さんは、何故か俺が近くにいることを正確に言い当て、呼び出そうと思っている俺を制し、部屋へ上がるよう促した。
その一言で、何だかもう色々どうにも堪らなくなって、俺は一目散に言われた部屋まで駆け上がっていった。
扉を空けて室井さんの顔を久しぶりに見た時、逆に今度は、来て良かったと心底思った。あまりに見ちゃいられない顔をしてるから。
こんな顔で、一晩一人で過ごす気だったのかよ。
言葉が詰まって、やっぱり何も言えなかった。
そうして、酒を入れながら、他愛ない世間話をした。
事件のこと。過去のこと。
今回の一件をを室井さん自身の口から語るのは、彼なりの懺悔なのだろう。
誰に対する贖罪なのかは、その時は分からなかったけど。
ただ、彼の誠実な精神と、最後までブレなかった強靭さが、酷く美しいと思えた。
グラスを持つ指が長く、綺麗だと思った。
このひとは、崇高なままで、何も変わっちゃいない。
・・・・・なのに、喰い終わった頃から何故か帰れ帰ればかり言うから、カチンときて
だから室井さんを煽ったんだ。
別に、本当に邪魔なら帰っても良かったんだけど、何だか不自然に拒絶したみたいな口ぶりが、俺に不信感を与えた。
これで最後になるのに、また次いつ会えるか分からないのに
そして、まだ、そんな顔して寂寞を湛えるのに、突き放す。
このひとは、未だ本音を晒していない。――直感した。
室井さんを煽ることなんて、俺には簡単だ。どうすればこのひとの本音を晒せるか。どうすれば人の心に踏み込めるか。
長くはないが、濃い付き合いが、お互いの性格を熟知させている。
駆け引きは営業時代に学んだ。
だが、それでもどこまで持ち込めるか、分からない。
室井さんは、いついかなる時でも、その鉄壁の鎧の中に激情も本性も見事に隠している男だった。
でも絶対、その面の皮、破ってやる。
こんな顔して、崩れそうな眼をして、俺を突き放そうとすることで耐える姿が痛くて・・・・相手は俺じゃなくたっていいんだ。一人になるな。
それに本人が一番、気付いていない。
今回の件で、抑圧された憤りや、苦しみや痛み、やるせなさ、後悔、不甲斐なさ・・・全ての重い感情が行き場を奪われている。
このひとは、抱え込むことしか知らない。
ずっと、打たれても戦うことで、結果に浄化を求めてきたのかもしれない。
エリートに在りがちな落とし穴だ。
そういう人間の対処法は、誰でも同じだ。
どこかで成功体験が必要だった。
だから無理にでも動かせて、それを俺が――相対する人間が受諾する必要があったんだ。
頼む。俺の挑発に乗ってくれ・・・!
強く、願いを込めた。
・・・・・そこまでは間違っていない筈だった。
なのに。
隙を突かれて、口唇を奪われて。
これ、キスだよな、と思った頃には、身体をひっくり返されていて・・・・・・。
***
「・・・・・!!」
突然思考が止まる。
リアルの世界に戻った。あまりに記憶が赤裸々過ぎて。
ボッと顔が熱くなるのが分かり、辺りをキョロキョロと辺りを見回すと、席に余り人はいなくて、魚住さんが苦みを潰したような顔でパソコンを睨んでいる。
なんだろう。
変に汗ばむ額を甲で拭い、鞄を机に置いた。
***
・・・・・え?ちょっと待て、俺、室井さんにキスされたんだよな・・・。ってか、その後・・・・。
組み敷かれて、奪うように隅々まで舌でまさぐられて、信じられない所に指を入れられて・・・いや、指だけじゃなく・・・・。
うっそだろ!
夢じゃないよな?
だって大きさ覚えているし・・・・って、そんなことどうでもいいんだよ!そうじゃなくて・・・・。
なんか、すっごかった。
ただ、すっごかった。
烈しくて、息も出来なくて、奥深くまでを奪われて、散々に蕩けさせられて、理性の欠片も吹っ飛んだ頭で、何かを色々口走った気がした。
『好きだよ・・・ッ』
『他の女の代わりでもか!』
最終的に、それが最大の煽り文句になった気がする。
これで、俺が忘れられても、この先一緒じゃなくても、このひとが踏み越えていく土台になれ――
呑まれていく。彼の激情に。彼がぶつける切ない熱情に。
胸が潰れるように痛い。
打ちのめされた男の、それでも崩れまいとする男の、ギラついた眼が、哀しく燃える。
彼の歯痒さが、痛いほど身体中から迸り、それが俺に共鳴する。
澱み、湖面の底に、濃さだけを与えるように、静かに漆黒の宝石が闇に染まっていった。
熱くうねる身体を、抱き返すことは、出来なかった。
躯を這いまわる指先が熱く、突き上げる度に熱を打ちこまれて。
押し殺し、音にもならない息が肺から千々に漏れる。
軽く反り、蕩けさせられた内部を掻き乱されながら、それでも逃げようとした
腰を押さえ付けられ、鮮烈に刻まれていく躯は
もう思うようにすら動かせず、ただ、切なく強く室井が与える深みに突き落とされた。
筋肉質の腕に掻き抱かれ、最も奥まで奪われて。
共に堕ちていくのなら、今だけは、この姑息な手段も、意味があると思った。
例え、奪われ、壊されるだけの交接であったとしても。
魂を削るようなやり方でしか、分かり合えないことだってあるんだ。
滲む視界の向こう側で、見上げる室井が苦しそうに眉を寄せ、それでも野性の迸る壮絶な色気を纏い、漆黒の瞳の奥に焔を宿しているのを
どこかほっとした気持ちで、瞼の奥に焼き付けた。
忘れない。
俺は、ずっと忘れない。この一瞬の幻のような灼熱を憶えておく。
弊害の多いこの恋は、踏み込むべきじゃないのは分かっている。そこに俺の意志なんか関係ない。
このひとは、俺を通り過ぎていく。
それを望んだのは俺だ。
当初の予定通りじゃないか。
俺は二番目でいい。
永遠に一番にはなれないし、特別ですらないのだ。
でも、少なくとも今は、自分にとってたったひとりの人間が、他の誰でもない自分を見ている。
あの室井が今宵だけ自分を求めている。そうだ、今は一人じゃないことを、躯で知ってくれ、俺で。
『あんたのことが好きだった・・・っ』
口元を押さえ込まれ、まるで押し潰すかのように、情欲に瞳を染め、室井が容赦なく責め立てる。
自分を貪り、穿つ男を、組み敷かれたまま、見上げた。
ただ、相手に自分の存在を示したかった。
室井さんさえ、無事なら、俺なんて。 希望の欠片は俺じゃなくてこのひとだ。 どうか、どうか、弱音も本音も吐かないこのひとを。 苦労ばかりの道なりで、逃げ方を知らないこのひとを。 誰か、救ってあげてくれ。一縷の望みで護ってくれ。 俺なんか、どうなってもいいから――
なのに、何故か胸が潰れそうに軋む。
揺れる視界が滲んでいた。
どうせなら、このまま崩れる程の愉悦に堕とされて、何も分からなくさせてほしい。
・・・・自分は結局、こんな風に彼を汚すことしか出来ない。
こんな形でしか、癒す力も無い。
どうして俺には力がないんだろう。
もっと、このひとを救って護れる力が、俺にもあったら良かったのに。
身体中を支配され、室井の紡ぎ出す激情に、溢れる程の切ない熱情が引き出され、奪われ、溺れて
最後の夜に、秘めた欠片が散っていった。
翌朝、室井さんの匂いが残るベッドで起こされた後、室井さんは、何故か俺を優しく抱き締めた。
その腕の中で、現実が戻ってきて、ああいつもの室井さんだと思って、彼が、もう俺ではなく、未来を――先を見ていることを察した。
ああ、もうこのひとは大丈夫なんだ。
このひとの原石を引き出せたことにホッとして、良かったと素直に思った。
胸の痛みは変わらなくとも
せめて、朝日の中で、室井さんがいつもの室井さんの瞳で俺を見ていたことが、救いだ。
***
――――遠くで電話が鳴っている。
入り口から、会議を終えたらしい袴田課長が、何やら小言を言いながら入ってきたのが視界に入った。
「ちょっとちょっと~、急かされちゃったよ~。この間の事件、どうなった~?」
「事件てどの?」
「ほら、あれだよあれ!」
「あれ?」
「あれって言ったらあれだよ。分かんないの?」
ああ、ここは俺の日常だ。
仕事しなくちゃ。
とりあえず、コートだけでも脱ごうとして、ふいに室井の整髪料と体臭の混じった、一夜で憶えさせられた匂いが鼻孔を付いた。
一晩部屋に置いただけで、衣類や自分に、室井の痕跡が残っている。
急速に胸が締め付けられ、切なくなった。
合わせて昨夜の、闇に浮かぶ室井の筋肉質の裸体や、汗で褐色に滑る肌の様子が断片的に蘇り、今度は口元を手で覆う。
「・・・ッ!!」
サッと顔が火照る。
ガタンと音を立て、椅子がビク付いた身体に合わせて鳴いた。
幾つかの訝しげな視線が感じるが、今はそれどころではない。
――俺、マジで昨日、室井さんと・・・・あの、室井さんと・・・・
一生知る筈のない残像が、青島の中に色濃く残されている。
躯の至る所に残された痕は消えても、記憶は消えない。
こんなの職場で思い出す映像じゃない。
誤魔化そうと視線を上げれば、古臭い室内の見慣れた風景に、突如、社会的な現実も舞い戻った。
「・・・っ」
室井は、青島の唯一無二の存在であるだけではなかった。
いずれ、警察機構のトップへ君臨する、エリートキャリアだ。
将来を嘱望された、稀有な階級職。
そして、それを成し遂げるだけの資質を持つ、誰もが認める崇高な存在。
今更ながら、仕出かした事の大きさに、サァーっと血の気が引いていく。
冷や汗が背中を伝ったのが分かった。
俺、室井さんに、とんでもないことさせちゃったんじゃないか?
物凄く今更なことが、この湾岸署の風景の中で事態の深刻さを理解させていく。
浮かれた気持ちに、急速に水を差し、途端に、世界が陰りを増したように褪せて視界が暗く見えた。
救うべき人に、なんてことさせたんだ俺!
オトコとの情事なんて、シャレにもならないじゃん!
このままなかったことにしてくれたらいいんだけど・・・。
バレたら停職どころじゃないぞ。
バレない・・・・・よな・・・・?
―たまに連絡を入れる―
ん?あれは今晩電話くるってこと?だよな?
急速に現実が戻る脳味噌に、最後に室井が残した言葉が、実感として蘇る。
言われた直後は、ただ急激に満たされる想いに夢中で、その真意を理解する余裕もなかった。
どういう意味だ?俺たちはまだ続いていくってことか?
続ける、つもりなのか?・・・いいの?
あれは、一夜限りの幻のようなものだと、あのひとこそ切り捨ててしまうと思っていたのに。
―そのとき俺の本音を告げてやる―
「・・・ッ!!」
不意に蘇る、帰り際に至近距離で囁かれた言葉が、再び青島の耳に木霊した。
火照った口元に手の甲を当てる。もう動揺なんて隠せない。
告げるって、何をだ?
何を言う気なんだ。
・・・・この場合、勿論、そういうこと?
広島に、俺が行けば、それが告げられるってこと・・・・・?
何で?昨日は告げてくれなかったくせに。
一体何が彼をそこまでふっ切らせたんだ?
どうしよう。
断るべき?だよな?
って、ちょっと待て。
なら、俺が広島に行くってことは、あのひとに抱かれに行くって意味になるのか!!?
今度こそ、青島は顔から火が出たと思った。
case3.新城賢太郎の場合
胸のポケットでケータイが振動していることに気付き、新城は歩みを止めることなく着信画面を確認し、眉だけを上げた。
そこで足を止める。
「先に行ってろ」
部下に指示を出し、通路の脇へと逸れる。
ゆっくりと間を取ってから、通話ボタンを押した。
『田舎の空気は馴染み深いでしょう』
『・・・・開口一番がそれか』
向こう側から、穏やかに呆れた声が返ってくる。
『余程、暇と見える』
『無事に到着し、任命も滞りなく完了したことを、君には報告するのが筋だと思っただけだ』
『律義ですね』
言い返しながらも、新城は口の端を持ち上げた。
室井の声が、いつもの調子に戻っている。
どうやら企みは成功したらしい。
『私の進退に興味はないか』
『出世コースから外れた人間を眼中にいつまでも入れておくような道楽趣味はありませんよ』
『その割には気を使ってくれる』
『何のことですか。そんなつもりはありませんが。客観的な判断の、所謂民意ですよ』
『随分とデカイ餞別が届いた』
『餞別?』
『違うのか』
『・・・・・あれを餞別と思う辺りが、貴方の失点ですよ。・・・・いや、失点の原点というべきか』
『君もだろう』
思わぬ切り返しに、口籠る。
どうやらこの先輩は、新城の中の少年染みた欠片が芽生えた甘さも見抜いてしまっているらしい。
そしてそれが、留まる所、誰由来のものなのかも。
同じ穴のムジナだろうと言わんばかりの擦れた同胞意識が、妙に可笑しい。
警察に必要だ――そう言って承諾も得ず広島へと繋げた行為は
確かに度を過ぎていた。
やってしまったという思いも多少はあったが、果たしてその真意は、何だったのだろう。
自分でも良く分からないその心境は、きっと、命令を無視して判断を決めた室井と、大差ない筈だ。
『毒されたんですよ、貴方がたに』
受話器の向こう側で、穏やかながら、纏う空気が苦笑めいたものに、スッと変わる。
『たまには気分も晴れただろう』
『金輪際、御免ですね』
『慣れると癖になる』
『知らない人間が見たら正気の沙汰じゃない』
『知っている人間が見ればまたかと思う』
二人の気配が同時に緩む。
大人として受容し難いことを、割り切って認めてしまう開き直った姿は、一層の強さと艶を匂わせた。
『趣味を疑われますね』
『懐くと可愛いもんだろう』
『そう思ってくれている内が華なんですがね・・・』
誰が、とは言わなくとも、そこはこの先輩の方が理解しているだろう。
察したように、室井の口調も灯る。
『危ない橋を渡らせた』
『この借りは大きいですよ』
『借りとさせてくれるのか』
穏やかで気高く、内面など滅多に見せることのない、崇高な男の気配が、ふわりと潜む。
新城はニヤリと口角を持ち上げた。
この人は、完全に、平常なる状態に戻っていると考えて良いだろう。
姿は見えないが、恐らく、瞳の輝きにも強さが宿っているに違いない。
以前と違うのは、何かを決意した後の様な、強さと威厳のようなものが備わっていることだ。
もう、自らの失態を嘆いているだけの、自らの力不足を悔むだけの、打ちのめされた男の声ではない。
失態を恥じていることを隠そうともせず、屈辱にも後輩に救われた稚拙な恥を否定もせず
堂々と現実を受け容れ、次を見据え始めている。
どっしりとしたその威風たる貫禄に、舌を巻く。
これが、上に立つ者の資質というものなのか。
僅かな空白のあと、声色を整えて、新城が口を開いた。
『激務なのは、正確にはこちらに戻られてからです。勝負はそこで決まる。準備を整えて待っています。戻ってこられるのであれば』
『一応、礼を言っておく』
短い謝礼で切れたケータイを見つめ、新城は今度こそハッキリと頬を持ち上げた。
新宿北署で手帳を返した時、険しい顔をしてはいたが、それよりも悲愴な痛ましさが全身に滲んでいて、酷い顔色だった。
何より、それを理性的に必死に堪え、それでも曲げない背筋が
逆に、見ているこちらまでを苦しくさせた。
まあ、無理もない。
傍から見ていても、それだけ心身ともに衰弱させられる事件だった。
しかし、上に立つ者ならば、それ如きで潰されるような器では、所詮排除されていく人材の一人だ。
用はない。
上が、そんな弱音を見せては、下に舐められる。
それを分かっているからこそ、室井も背中を曲げないのだろう。
その孤高な男の後ろ姿からは、まだ上に立つ資質を醸し出す、最後の灯が見えた。
このまま潰れるか、復活するか。
新城としては、越権までして、やれることはやった。
あとは室井次第だ。
お手並み拝見と行こう。
・・・・・ただ。
それでも、今回の件は、新城にとって、またしても上への苦みを増すものであった。
その、内なる仕返しや反逆をしたかったのだろうか。
それとも、室井への同情だろうか。
或いはある種の期待か。
あの時、去っていくこの先輩の姿を見ながら、この灯に、爆薬を投下してみたくなった。
それは、ある意味、賭けだった。
正が出るか邪が出るか。・・・・・だが、賭けてみる価値はあるギャンブルだ。
上層部は、危険因子として認識していながらも、まだその真の力に気が付いていない。
甘くみている彼らに一矢報いるのに、うって付けとも言える、火薬。
そう思った時、新城の指先は、もう湾岸署へのコールを始めていた。
「何もかもが思い通りに行く訳がないのには、上も下もないんですよ」
フッと冷笑を浮かべ、新城は足早にその場を立ち去る。
お楽しみは、これからだ。
case4.一倉正和の場合
一日中降り続いた雪は、東京を空と陸の境目さえ分からない灰色の世界へと塗り変えた。
新木場の駅を出ると、辺りはいつもより早く陽が落ちて、電信柱の灯りがうら寂しげに浮かぶ。
雪が青白く反射し、幻想的な氷の世界が続いていた。
一日帰らなかっただけなのに、何だか随分隔たってしまった気がする。
足早に自宅へ向かおうとして、青島はコートの襟を窄める。
覚束ない足はまだ力が入り切らず、千鳥足になって踊るように進んでいく。
ワンブロックを越えたその時、突然ビル陰から延びてきた手に腕を引かれた。
「ぅ、わ・・・っ」
雪で足場が悪いのと、腰に力が入らないお陰で、あっさりと身体が傾く。
そのまま、たたらを踏んだ身体を工場の壁に縫い付けられた。
驚いて見上げれば、それは見知った顔だった。
「一倉さん・・・・!あんた、何して――」
「聞きたいことがある」
「・・・・・なんですか」
不貞腐れたように上目遣いで応えるが、一倉は二コリともせずその眼光を強めた。
「昨夜、室井に会ったな?」
「・・・ぇ・・・」
「一晩泊まったのか」
「・・・・あんたに関係ないだろ」
無難な所で返答を避けると、一倉は徐に、青島の胸倉を乱暴に掴み上げた。
「馬鹿が!軽率なことしやがって!」
「な・・っ?」
「公安が張っているのにも気付かなかったのか!」
「!!」
青島が目を見開き、言葉を失う。
「事件は表向き収束したし、上層部も暫くは表立って動かない。今回室井を矢面に立たせたのは偶然だが、それが奴らにとって不本意だったとは限らない!」
「・・・ッ」
徐々に激昂していく一倉の口調は鋭さを帯び、青島の瞳に不安色を植え付けていく。
「上は未だ室井の身辺を一部の人間に追わせている。室井を追い込むことで地位の安泰を図るためにだッ」
「・・・・でも、俺・・・っ」
「お前がどういうつもりだったかなど、お偉いさんには関係ないさ。ただ余地を与えてしまったというだけだ・・・!」
一倉は怒りに任せ、更に襟元を強く締め上げる。
苦しさで青島が少し呻くと、それが快感のように、口元を歪めた。
「出る杭は打たれるって言葉も知らないのか。室井の周りには事件前から今もずっと、監視の目が付いていた」
「何のために・・・!」
「何のために?そんなことも分かってないのか。・・・・奴がジョーカーにもエースにも成りうる脅威だからだろ」
「やり方間違ってるだろ・・・ッ」
「その幼稚な理屈が、通じると信じる程、夢想家じゃないだろう」
「・・・っ」
正確に腹案を見抜かれ、青島も押し黙る。
一倉の危惧は理解でき、また、上層部のやりそうなことだとも思えた。
そういう中で室井も新城も、そして一倉だって戦っている。
それは最早、彼らの常軌であり、そこに異議を唱えることは、迂愚の極みであった。
出世レースを目的に据えることが本質かどうかは、さておき
約束を叶えるためには、どうしても必要な手段の一つであり、避けて通れない。
そのゲームの戦況に、変化を与えてしまったのは、確かに青島かもしれなかった。
俯き、下唇をキツく噛んで、昨夜の迂闊な行動を振り返る。
雨の中に立ち尽くしていたことも、注目の的だっただろう。
そんな青島の表情を見た一倉が、掴み上げた胸倉をそのままに、浮き上がり爪先立ちになっている青島の身体を壁に押し付けた。
「二度と室井に近づくな。今、これ以上の失態をおかせば、復帰の可能性は完全に潰される!」
「アンタだって・・・・アンタだってそっち側の人間じゃないか・・・っ」
「――ああ、新城か。だが、俺に言わせりゃ、躊躇わず寝返ることが、生き残る秘訣だぜ」
「仲間なんじゃないのかよっ」
「そうさ、同期でずっと傍でアイツを見てきた。そして、護ってきた。それが、お前如き庶民に逆上せやがって」
「だったらあんな顔させんなよ!」
「ふーん、口だけは達者だな。――で、お前に何が出来た?一晩かけて薄い慰めの言葉でも掛け合ってきたか」
「・・・ッ・・・・」
「
どうせお前が居たって何の役にも立たないだろ、今回のように」
地を這うような低い怒声が、耳から脳へ、身体へと響いていく。
一倉の言うことは一々尤もで、冷たく青島の深部にまで浸み込んでいった。
反論なんか出来やしない。
青島の立場では、具体的に関わることすら、赦されていない。
所詮、昨夜のように、蟠りを聞いてやるしか、能がないのだ。
悔しさと、不甲斐なさ、そして屈辱が、渦となって青島を襲う。
自分たちが巻き込まれているもの。
自分たちが押し流されていくもの。
たった二人きりという余力は、なんとちっぽけで儚いものなのだろう。
まるで底知れない沼に引きずり込まれるような恐怖を感じ、キッと目の前の一倉を睨み付けた。
そうしなければ、まるで、得体の知れない闇に呑み込まれていきそうだった。
「ほぅ・・・、まだ睨み返すだけの気力が残っているのか。上等じゃないか」
青島の顎を指先で捉え、一倉は顔を斜めに傾け、青島の街路灯を辛子色に反射する瞳をねっとりと覗き込む。
「成程、上玉・・・・か。打たれて尚、純潔を失わない・・・。室井もこれにやられたのか・・・・?」
独り言のように呟いた後、顎を解放し、その人差し指を曲げ、青島の胸元をぽんと突く。
「そこんところで後生大事に温めているもの、一生アイツに告げるな」
「・・ぇ・・・・」
虚を突かれ、青島が一倉の瞳を見返す。
「本気なら、想いごと消せ。悟らせることもするな。いつもの冗談だったら、アイツの前から消え失せろ!」
「・・な・・・に・・・」
「しらばっくれるな」
一倉は、自分たちの関係に気付いているのだろうか。
一晩共に過ごしたことで、俺たちがどうなるか、予測していたとでも言うのだろうか。
あまりの一方的な一倉の迫力に、虚勢を張るのも忘れて、青島は目を丸くする。
「アイツはな、徹底した実学主義者だった。そうすることで不利な条件である戦いを、若くして勝ち抜いてきたんだ」
ゆっくりと昔話のような過去を、一倉が視線に鋭い灯を宿したまま、語りだす。
「キャリアなんか、皆そうだ。そんな場所で、おままごとのような友情ごっこは寝首を掻かれる元だから、誰も信じない。
そういう中で生きてきたアイツが、初めて気を傾けた」
顎を再び上向かされ、押さえ付けた指先に強く力が込められる。
その指が、闇に白く浮かんだ。
一倉が掴む指先に、感情に任せた力が更に加えられる。
骨が軋む程の力に、青島が眉を潜め微かに呻く。
襟首を締め上げたまま、喉元を押さえ付けている腕も喰い込み、息も出来ない。
「・・・ぅ・・・・ぁ・・・・ッ」
息苦しさから、少しだけ青島の瞳に薄い膜が張った。
「お前なんかに・・・。少なくとも、室井にとって唯一信じられる、拠り所となれる相手はお前だけなんだ。それをこれ以上裏切るな・・・!」
「俺、は・・・・裏切った、こと、なんか・・・っ」
「あるだろ、所轄のやることなんか、みんなそうだ」
「今回、のことで、明確に追い込むような、真似をしたのは、誰、だよ・・・・」
「その今回の件で、それでも室井が立ち続けたのは、背後にお前の存在があったからだろう?」
「・・・・・」
「そのお前まで無益だと分かれば、室井は今度こそ完全に潰れる。いいや、お前をネタに、潰される。それがどれだけ辛酸なものか、考えろ」
酸素が足りない。
一倉の押さえ付ける腕を引き剥がそうと、爪を立てるが、筋肉質の男の腕は、そう簡単にはびくともせず、益々締め上げる。
縋るように青島の指先が彷徨った。
「俺、に・・・そんな価値・・な・・・・」
目を瞑り、苦しそうに踠く青島の表情に、満足げな冷笑を浮かべ、ようやく一倉は両手の戒めを解いた。
掴んでいた胸倉から勢いよく手を離し、今度は青島の顔横に肘を付いて顔を寄せる。
「アイツを傷つけたり裏切ったりしたら、今度こそ潰してやる」
「それを、アンタが言うなよ・・・っ」
胸元に手を当て、荒く肩で息を整え、軽く咳き込みながら、それでも青島は涙目になった胡桃色の瞳で強気の意思を向けた。
前髪が乱れ、少し幼く見える貌が、切なそうに歪む。
その青島から、一倉も食い入るように視線を外さない。
「でも俺は、アイツを庇ってやることも、手を貸すことも出来る。裏で動けるだけの位置に居る。・・・・で、お前に何が出来た?」
「・・・・・!」
「そこが全てなんだよ。もっと身分を弁えろ。自分の存在がどれほどヒエラルキーの最下層で屑であるか、思い知れ」
暫く一倉を睨み返していたが、ついに青島が視線を逸らした。
横を向き、震える口唇を一文字に引き結ぶ。
「護りたいなら、綺麗な過去として閉ざしてやれ。どうしたって住む世界が違うんだ。理屈も正義も変わるのは当然だろう」
一倉の言葉は理不尽で、暴言とも言えたが、青島に、自分たちが犯そうとしていたリスクがどれだけの対価を払うものなのか
ハッキリと示していた。
このひとも、歪んだ感情ではあるが、室井の発する崇高で凛とした光に魅せられた一人なのかもしれない。
必死に室井を請うている姿が、痛いほど伝わる。
このひとなりに、大事に想っているのかもしれない。
一倉なりに、事の成り行きを思案し、必死なのだ。
そうまでして室井に拘る想いは、ひょっとしたら同期の慣れ合いなんかじゃなく
もっと深く長い時間を掛けて熟した、人知れぬ執着のようなものの気がした。
その拘泥と、青島が抱く淡い想いの、どこに違いがあるだろう。
完全に手折れた青島に、一倉が心底軽蔑した冷笑を浮かべ、体格で威嚇する。
俯いた青島の顔に、乱れた前髪が舞い落ち、表情を隠していく。
「いいか、俺らの世界は一瞬の迷いが命取りになるんだ。それは何も現場だけじゃない、政治の世界でも同じことだ。
失点を冒したアイツはここから更に過酷な戦いになる。ほんの少しの隙でも与えたくないなら、身を引け。いいな」
僅かに青島が頷いた。
「大切なら、消えろ・・・!」
「・・ッ・・・」
バッと塵を捨てるかのように言い捨てると、横目で冷たい視線を残し、一倉が去っていく。
その気配を、ただ見送った。
何も出来ない。与えられるものがない。
それだけは、言われなくても、事実だった。
手の甲を口に当て、視線も伏せる。
未練だらけの気持ちを、一夜限りだなんて割り切れるのだろうか?
割り切らなきゃいけない、冷たい現実が、風となって吹き抜けた。
あのひとが、触れた肌が、まだ、火照っている肌から熱が消えていく。
あそこまでされて、行き場を失う募る想いが、喉を締め付け息苦しくさせる。
この広い荒野で、地図を失くしたような、心細さを感じた。
これは、恋、なのだろうか。
ずっと、焦がれていた。
逢えない間も、想うだけで支えになって、刑事の青島を象ってきた。
それはいつしか、素の青島をも侵食し、慕う想いの境目がどこまでなのか分からなくなっていった。
こんなに俺ばっかり身体中にあのひとを憶えさせられて、じゃあ、俺は忘れられるんだろうか。
あのひとは行ってしまった。
もう、逢えない。
「・・・ッ」
自分の中のあのひとの存在の大きさに、呼吸が詰まる。
身体中にあのひとが残したこの痕も、数日経てばまるでなかったかのように消えるのだろう。
都会に積もったこの雪だって、あっという間に消えていく。
ここまで長い間胸の奥に秘めてきた想いもまた、いつかは消えるのだろうか。
それで良かったと、思える日も来るんだろうか。
だけど今は、それよりも、室井の置かれた場所と、そこで戦う立場が
冷たく、哀しい。
何でこんな戦いを強いられるんだろう。
室井がただただ、哀しかった。
雪混じりの冷たい風が、身の奥まで浸み込んだ。
傷めた躯が、凍え、軋んでいた。
「――・・・さ・・・ん・・」
case5.沖田仁美の場合
『夜分遅くに恐縮ですが、今少々お時間取れますか』
深夜遅く、室井のケータイに沖田からの着信が入った。
まだ仕事中らしく、慌ただしい様子が受話器の奥から届く。
室井自身は広島での新たな一歩が始まっていたが、本庁に比べ、比較的時間には余裕が残されていた。
『私はもう自宅だ。君の方こそ大丈夫なのか』
『お気遣いありがとうございます。今少しだけ休憩を取らせて頂いていますので』
『仮眠でも取っておいた方がいい』
『火急の用なんです』
『なんだ』
一息置いてから、沖田が話し始めた内容に、室井は眉間の皺を深めた。
ケータイを持つ手に力が籠もるが、逆に、口元には徐々に微苦笑が滲む。
――そういうことか。
ここ数日の不可解な現象全てに合点がいく。
広島に越した夜、宣言通りに青島に一本入れると、どうも別れた朝とは様子が異なり、ぎこちなさが滲んでいた。
口調は柔らかく、電話越しに届く穏やかな声に、照れを滲ませる。
築いたばかりの新たなる距離感に心地良さを感じながらも、何か違和感が残った。
それを突き止められなくて、最後まで聞けないままだった。
初めは、慣れない関係になってしまったことへの羞恥かと思っていたが、どうもそういう浮ついた雰囲気が感じ取れない。
そして、ここ数日は、電話も繋がらない状況が続いていた。
沖田に指摘されて改めて振り返ってみれば、心当たりがあった。
同じく初日、広島に越した夜のことだ。
飛行機がかなり遅れ、到着した時は既に辺りは真っ暗になっていた。
引き継ぎや正式な辞令がなくとも、このような仕事ではいつ緊急事態に呼び出されるか分からない。
引っ越し業者には鍵を渡してあり、先に荷物を運びこむよう指示を出してあった。
となれば、さし当たって急ぐ用もないため、その晩は
ホテルに泊まることにする。
広島空港は山の頂上にあり、最寄駅やホテルも皆、山を降
りた裾野に立地している。
連絡バスで麓に降り、そこからホテルを探したので、部屋を取り、一息吐いた時には10時を回っていた。
そこで青島に連絡を入れようとケータイを見ると、一倉から着信が入っていた。
・・・・・・今思えば、あれは探りを入れてきたものだったと推測される。
一倉は多くを語らなかったが、促されるままに、室井は今回の事件の謝罪も兼ねて、少し、話をした。
それさえも、一倉の策略の一つだったのだろう。
だから、電話を掛けるのは今夜だった。
早々に確認を取って、先制するために。
相変わらず、気の抜けない狸である。
しかし、公安とは。
不用心だった。
自分をマークしている数名がいることは知っていたが、まさか所轄の人間とプライベートで逢うことまでリークするなどといった強引なことまで範疇だとは
意識していなかった。
となると、青島の次の行動は簡単に予測できた。
『そこでご提案があるのですが』
沖田の落ち着いた女性らしい声が、深淵に入ってしまった思考を遮る。
『提案?』
『私を利用する気は御座いませんか』
『利用?君を?どういう意味だ?』
一瞬、言っている意味が本当に掴めず、脳をフル回転させる。
すぐに思い至り、ハッとする。
池神や安住が手に入れたいカードは、所轄との癒着や危険思想の膨張という有り触れたものではなく
恐らく、揺すれるだけのネタに塗り替えることだ。
つまり、友人を越えた、ただならぬ関係であるという色を付けて、何かの暁には交渉手段、主に脅しに使ってくるのだろう。
それが事実となってしまっていることまでは、気付かれていないだろうが、問題はそこじゃないということか。
そしてそれを沖田が暗に匂わせてくる辺り、既にそのカードの存在は知れているのかもしれない。
だからこそ、一倉も青島に手段を選ばなかったとも言えた。
となると、ここで沖田が言いたいのは、カードが示す癒着が、どういった代物であるにせよ
その関係性を越える情報で上書きしてしまえということだ。
それには、つまり、女である自分を利用しろと。
随分と乱暴な手段を提示してくる。
それだけ事態は切迫しているということか?
『君は・・・もう少し自分を大事に扱った方がいい』
『あら、広島まで通うくらい、どうってことないんですよ。警察官になろうと思うような女には』
或いは、この聡明な女性なら、室井と青島の関係にひとつ変化が訪れたことにさえ、公安の動向などとは無関係に
もう察しが付いてしまっているのかもしれない。
そうでなくとも、一倉がそうであったように
室井と青島ならさもありなんと思われる環境にあるということ自体、室井には初耳で、それこそが、一番懸念すべき材料なのだと
警告しているのか。
確かに二人揃って消すのに、格好のターゲットに成り得る。
だとしたら、尚更、彼女を巻き込む訳にはいかなかった。
『君のような高根の花では信憑性も薄い』
『私では御不満ですか?』
『そうじゃない。私にはもったいないと言っているんだ』
『女を口説くのはストレートなんですね』
『沖田くん・・・・』
困り果てたような室井の声に、くすりと漏らす可愛らしい苦笑が耳を擽る。
そして沖田は口調を変えずに、そのまま何でもないことのように話を進めた。
『新宿北署の件で、裏で主に動いたのは私と新城さんであることは、もう耳に入っています。なので相手が私ですと、一切、根回しする手間が省けます。
勝手に邪推してくれるでしょう。
通話記録は敢えて消すことで、偽装を匂わせておきます。それから・・・・夜は空けておきますので、必要な時はご連絡を』
『おい、ちょっと待ってくれ・・・』
『形だけでも一晩、躯を差し出すことはやぶさかではありませんのよ』
『先走るな。私が君を抱いたとして、それが君の何のメリットになる・・・!』
『女に、駆け引きはないんです』
徐々に狼狽する室井とは対照的に、沖田の声色は一定のリズムがあり、提言内容は過激なのに終始温和で、調子を狂わせる。
こういうのには散々取り調べで慣れていた筈だったが
沖田のそれは、流石警察官といった手前で、隙がない。
これもまた、女の武器というものなのだろうか。
声色に妖艶ささえ嗅ぎとり、室井は次の言葉を失った。
警察社会は未だ色濃い男社会であり、その中で渡り歩こうとする女性にとっては、性差が壁になり、不利益を被ったり、あらぬ妬みや噂を立てられ
人知れず苦しんで来ている筈だ。
ジェンダーを売りにすることこそ、この上ない屈辱であり侮辱であろうに、それを敢えて前面に押し出そうとする意図が掴めない。
不意の沈黙の後、細波立った心を制し、室井は口調を戻す。
『君の職が失われる可能性もあるんだぞ』
『心配してくださるのは光栄ですわ。何かしたいという想いだけでは不服でしょうか?』
『だからといって――』
『馬鹿げている、とお思いでしょうが、何かを護るためなら必要な代償もあることは、貴方も御承知の筈です』
『・・・・君は、それで何を護る気だ』
沖田は、声を立てて笑った。
『駆け引きはないと言いましたでしょう?それとも恋の駆け引きを?』
『黙っているのはフェアじゃない。取引をするならイーブンが条件だ』
『この場合、室井さんの方がメリットが大きいと思いますが。・・・・私の沽券を、と言えばご納得して頂けます?愛を囁いた方がロマンティックでしょう
か?』
『揄うな』
沽券、と彼女は言った。
誰かと噂になることで、根も葉もないセクハラ紛いの噂を一掃してしまおうという魂胆だろうか。
噂を一つ事実にしてしまうことで、信用性は落ちるが、誰も彼女の地位を脅かすことは出来なくなる。
後はそれを挽回するだけの実力を示して見せる。
勝気な彼女らしい選択だ。
確かにその相手として、地方に飛ばされたエリートキャリアなら、相手として申し分ない。
話題性も充分な上に、主に彼女に同情票も集まる可能性だってある。
その相手としての条件に、室井はうってつけだったかもしれない。
だがしかし、彼女なら、もっと好条件の相手もいるだろうに。
何処か府に落ちない奇妙さに包まれる。
この提案は、室井にとっても利点が多過ぎる気がした。
汚点の付いた妙齢の男に、見合い話など条件の良いものはもう来ないだろうし、来たとすれば利権絡みの拒否権のない契約だ。
そんな男が打つ手など、たかが知れている。
もう、二度と手放せないと思ったあの夜を隠すためなら、確かに自分は何をしてでも護りとおすだろう。
しかし、それをしてしまったら、逆に青島は二度と手に入らなくなる。
冒した罪の重さにも、逆風が荒ぶ現状にも、二人で堪えていこうと、そのための決意をして、この新天地へやってきた。
そうして、ここから新たなスタートが始まる。・・・筈だった。
だが、決意を秘めても、心を入れ替えても、室井は室井であり、こうして過去からの声が室井を終わった筈の闇に落とし込む。
逃がしては貰えないらしい。
求められる象徴としてのトップという栄光の部分だけでなく
そこに行き着くまでの、醜い争いと、己自身の犯した罪、汚れてしまった手。
惑いも迷いも、羸弱した自身のなれの果てだ。
何処まで行っても蛇のように纏わりつく柵に、そここそが戦う地なのだと、知らしめる。
東京から、こんなに離れていても、尚、柵は続く。
――あぁ、どんなに抗っても、自分自身からは逃げられないものなんだな・・・・
室井は目を堅く閉じ、顎を逸らした。
沖田が繋げる細い回線が、そのまま東京との切れぬ因縁のように思えた。
ケータイを握り締める手が、じわりと無意識に力が籠もり、きゅっと軋む。
室井の逡巡を感じ取って、沖田が電話口の向こうで、くすりと妖艶に笑った。
それを合図にしたかのように、室井の口が開く。
『有り難い申し出であることは確かだ。男として、君の様な女性を抱けることを含めてもだ。だが、だからこそそれは出来ない。
仲間を裏切ることは出来ない。気持ちだけ受け取らせてくれ』
ほぅ・・・と柔らかい溜息が耳元に落とされる。
『振り方まで誠実なんですね。多くの人が惹かれる所以です』
『買い被りだ。俺は惚れた女の一人も護れなかった男だぞ。知っているだろう』
『そうやって、悪ぶり、落とす相手を乱すのも、無意識なんでしょうね。性質悪いですわ』
『乱されてくれればいいが・・・』
『え・・?』
今は遠くで、頑なにこちらの意に反する決意を固めてしまったであろう、意固地で、難攻不落な存在を、瞼の裏に思い浮かべる。
説得は、かなりの骨を折りそうだ。
だが、このことで、逆に僅かに残っていた迷いも、完全に立ち消える。
広島に来るまでは、青島に逃げ道を用意してやったつもりでいた。
最後の最後で、この先の未来に迷いがあったからだ。
自分ではなく、青島の。
だが、そんなもの、遠に、自分が認めていないことを、思い知る。
清楚な魂を穢してしまったのなら、その代償として、その手は決して離さない。
かつてのように、心にこびり付いているだけの存在で満足する程、もう想いは平穏じゃない。
思い出と記憶によって得られる喜びは、ごく僅かだから。
俺は、本物が欲しい。
『いや・・・、ありがとう、不甲斐ない男の決意が、ようやく付いた。感謝する』
『そこが、貴方の本当の優しさであり、魅力なんだと思っています・・・・とっても残酷』
『・・・すまない』
『いいえ。今回の事件の、もうひとつの顔が見えた気が致しました』
『もうひとつ?』
『例のゴシップ記事の女性。私は信じておりませんが、もし真実だとしたら・・・・・全てを賭けて貴方の未来を護った反面
貴方の誇りになることで、一生を捧げたんだと思いました。それは女の幸せの形の一つではありませんか?』
『よしてくれ。そんな価値のある男じゃない』
『やはり、ご自身が一番気付かれていないのですね』
『何故そう言い切れる』
『だって、似たような人がもう一人――・・・・貴方の傍にいるんじゃないですか?』
『え?』
『貴方のためなら、全てを捧げてしまいそうな人物が』
『――』
口籠ってしまった室井に、沖田は苦笑混じりに言葉を繋げた。
『今回の御提案は、貴方の身を護るためでなく、渦中の彼も護る意味にも繋がります。ご検討を』
『・・・・・だからだ。そんなことをしたら、私が青島に叱られる』
『あら。青島刑事が貴方を叱るんですか?査問委員会で遣り込められたって噂、本当なんですね』
『勘弁してくれ』
―全てを投げ出してしまいそうな人が――
他に、効果的なカードを何も持たず、何も出来ないからこそ、身を捧げてしまう。
確かに、その通りな気がした。
事が揃ったら、青島なら間違いなく勝負に飛び込みそうだ・・・。
室井は頭を抱える。
同時に可笑しくもなる。
余りに似通っている自分たちが。
こうと決めたら全部を投げだせることが出来るのは、自分の方だと思っていた。
江里子は自分の愛情が重くて、それを止めるために、そして受け止めきれず、逃げだしたのだと思っていた。
受け取って貰えなかった熱が、ずっと行き場を失っていた。
時を越え、今、青島がその姿に重なる。
そして、自分が重なる。
違うのだ。切ない想いがこんなにも満ち溢れていた。
誰が手放すか。
今度は絶対逃がさない。
『・・・・貴方の愛情を受ける人は幸せでしょうね』
『どうだろう。そんな賛辞、言われたことないが』
その時、受話器の向こう側から、部下らしき人物が沖田を呼びに来た様子が聞き取れた。
『邪魔をした。仕事に戻ってくれ』
『はい。最後に』
『何だ?』
『私も簡単に引く気はありませんから。この件は保留にしておきます。何かの際には思い出して頂ければ』
『おい・・っ、沖田くん』
『貴方に愛された人は、残酷な苦しみの中で、この上ない悦びを得るのだと思います』
『何を・・・・』
『では、失礼致します』
切れたケータイをじっと見つめる。
やはり、沖田は室井の想う相手に気付いているのだろうか。
性を代償にするなど、プライドの高い彼女に取って堪え難い仕打ちを推してまで取引したい真意は何だったのだろう。
そのままソファに座りこみ、両手を額に当てた。
沖田と話したことで、気分はだいぶすっきりしていた。
図らずも、励まされてしまったようだった。
だが、問題が全て解決した訳ではない。
どうしたらいい。
一倉がしたことは、同僚としては当然のこととも言え、真っ向から詰る気にはなれなかった。
だが、それを聞いた青島を引き止める手段は完全に断たれたことになる。
同じ地にいるのなら、攫いにも行けるものを――
―戻れなくていいっ、あんたに付いていくって決めた・・・っ―
奪い、溺れていく最中、無我夢中の忘我の霧の向こうで叫んだ言葉こそ、青島の本心だと思っている。
絶対連れ戻す。
躯だけ与えて、煙のように消えていくなんて許さない。
そんな哀しい恋にはさせない。
状況を知ってしまった青島が、恐らく痕跡もも残さず離れていこうとしている今、沖田の提案に乗る訳にはいかなかったが
これは、彼のためなんかじゃない。
彼の真摯な目と心に、真っ直ぐと向き合うだけの、男でありたい。自分を構成する最後のピースなのだ。
今回の一件で、それが骨身に染みた。
そのためには溺れる者が掴む藁だって、藁でなくてはならない。
「護りたいもの、か・・・・」
室井はもう一度ケータイを取り上げた。
短縮ボタンを押す。どこから崩そうかと思いを巡らせながら。
沖田が護りたいもの。
一倉が手に入れたいもの。
青島が手放したもの。
新城が仕掛けた一手が、室井を中心に渦巻き、様々な思惑を乗せて静かに動き始める。
やはり、自分自身からは何処へ行っても逃れられないのだ。
覚悟を決めろ。
本当の戦いが、決戦の地・東京へ向けて、今始まった。
Final end
あれ?ちょっとざわざわするラストになってしまった。おっかしいな・・・。
東京最後の夜に雪が降り、翌日も飛行機の到着が遅れるほどに積もって・・・・。こういう情景設定すべてが、妄想ではなく公式ってとこが踊るの恐ろしさだと
思う・・・・。
凄いです、色んな意味で。
20150627
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