空涙 2
4
ハンガーもないので、濡れたコートは段ボールの上に広げて置いた。
皺にならないよう、ジャケットも脱がせて、その近くに置く。
少し冷えるのか、青島がバスタオルを肩から掛けたままなので、見かねて寝室から毛布とタオルケットを持ち出した。
無言で手渡しながら、とりあえず唯一残るソファに座るよう目線で促す。
一瞬躊躇うような視線を向けた後、ぱふんと腰を下ろした青島が、縋るように室井を見上げるから
頬を強張らせながらも、渋々真横に座った。
「・・・・・」
「・・・・・」
奇妙な沈黙が支配する。
並んだまま、正面に詰まれた段ボールを視界に映し、揃って二の句が続かない。
二人きりで放りだされると、もう何からすべきか分からない。
隔たてられた時間と距離はあまりにシビアだ。
戸惑いを隠すように、とりあえず手に持ったままのビールを口に運ぶ。
釣られるように青島も缶を口元に運ぶから、その動きを追って室井はチラリと横目を流した。
同じように青島もチラリとこちらを見る。
「!」
「!」
中央で視線がかち合った。
室井が逸らさないから、青島も逸らさない。
じっと見つめ合ったまま、二人して固まる。
「言いたいことがあるなら言え」
「え・・と・・・・久しぶり、ですね?」
「・・・・一年だ」
「そうでしたね」
「一体何だ、こんな夜更けに」
「あ。・・・・食べます?」
青島が視線を外さないまま、人差し指を下に向けた。
何処までもあどけなさを装いながらも、何処か不安を覗かせる顔に
普段は器用に隠している素の青島を見る。
室井への温情を、どこまで向けて良いのか探っている気弱さが、そこには浮かんでいた。
それはつまり、直向きで一途な情が、今も青島の中に息づいていることを、意味している。
陽気さと稚さを同居させたそれが、成人男性である青島の相貌に不釣り合いな筈なのに、しっくりとしていて
そのアンバランスさに、室井を纏う空気が少し色を変えた。
合わせて、室井の変化を聡く受け止め、齎す安穏に、青島の精神的緊張が解けるのを感じる。
こんな風に、暗闇の中でスイッチを押すように
青島と視線を合わせる時
何故だか言葉よりも雄弁に通い合う物が存在し、共振してしまうことは、珍しくなかった。
それは、少しミステリアスでありながら、何かとてつもない破壊のような力を秘めていそうで
自分たちですら制御効かなくなりそうな、畏れがある。
だから、あまり考えないようにしてきたのだが、こうして久しぶりに見えると、やはりそれは予想以上の作興だ。
何よりその崩れ落ちるような感覚を、嫌ではないことが、一番始末におえなかった。
黒目がちの瞳で、じぃっと青島を一瞥した後
室井はその指先を追う。
「・・・・そうだな」
大きく詰めていた息を吐き、静かに同意する。
沈黙が余りに重く、青島の気配に呑まれそうな恐さを取り払いたく
さり気なくテレビのリモコンを取り上げた。
突如空気を裂く浮いた笑声が、ガラリと空気の色を変える。
ビール缶を歯で噛んで、青島がビニール袋をガサガサと探り出した。
音を立てて広げれば、玉手箱のように色んなものが出てくる。
コンビニで適当に買ってきたものかと思ったら、意外にも、百貨店や惣菜店などでちゃんと選ばれてきたようなラインナップである。
それぞれの梱包を解き、辺りに並べ始めた。
まるで、おもちゃ箱で遊んでいるようなその仕草に、室井は横で内心苦笑った。
「コンビニ弁当じゃないんだな」
室井が言うと、視線をチラッと向けて、得意気な笑みを浮かべ、缶ビールを口から外した。
「俺の昼飯じゃあるまいし」
「カップラーメンだろ」
「ひでぇ」
「肉物が多い」
「そりゃあ、ガツンと喰うのが一番でしょ」
「やっぱり若いんだな」
「――。年寄りの室井さんのためには、さっぱり系もあります」
「・・・4つしか違わない」
「・・・・」
「そういや、嫌いなものとかありますか?」
「特にない」
「そ。なら、どうぞ」
独身男二人の、侘びしく、出来合い物を並べただけの、何とも味気ない夕食である。
テーブルも解体して隅にやってしまったので、床に無造作に広げられた食料と、割り箸、缶を片手の、武骨な風景だ。
その、皿にすら盛られない粗雑さが、返って室井の気負いを失くさせた。
何処か青島らしく、そして、室井にとっては普段とは様相の異なる不可思議な空間である。
しかし、この上ない晩餐だった。
食べ物に有り付けたという意味ではない。隣に人がいる。青島がいる。
「・・・・」
チラリと視線を持ち上げる。
青島は室井が手を付けるまで、待つつもりなのだろう、にっこり笑って両手を広げてみせた。
何の衒いも乗せないその焦香色の瞳が、真っ直ぐに室井を見つめてくる。
何故だかとても胸が詰まった。
どうしてこいつは、惜しむことなく、分け与えてくれるのだろう。
青島の造り出した空間は、なんとなく古里で両親や祖父母と長テーブルを囲んだ食卓 を脳裏に思い浮かべさせた。
そういえば、小原久美子とも定食屋で共に食事をしたが、誰か他人と食事をするというのは、やはり違うのだ。
誰かに手間を掛けて貰うこと。
誰かの意識に触れること。
誰かと、共に在ること。
共に食事を摂るということは、それだけで、古来からそれなりに意味のあることなのだと、今更ながらに思う。
群れから逸れがちな室井にとって、その貴重さは比類ない。
並べられた食事をじぃっと視界に入れながら
室井は、急速に人間らしい感情に戻され、満たされていくのを感じた。
「どうせなら、温め直すか?」
「ん、あ、賛成」
「・・・ちょっと待ってろ」
室井が幾つか総菜を持ち、台所へと腰を上げた。
青島の視線から逃れられて、急激な緊張感から解放される。
意図せず再び、ほぅ・・と重たい息を吐いていた。
青島が、その本質を臆すことなく広げてみせれば、対象的に室井の鏡像となり、そこに室井自身が映し出される。
己が、どれほどみすぼらしく、矮小な存在なのか、心が歪んだ。
これに縋ってしまうことは、今は、自己確立さえ崩壊させてしまう気がした。
こんな夜には、こんな風に接してほしくない。
どこまでも溺れてしまいそうな予感に、魅惑と畏怖を意識する。
そうなると、これは毒りんごか、最後の晩餐か。―――――いずれにしても結末は同じである。
蓋をして、電子レンジに入れる。
レンジが回りだすのを眺めながら、室井は気持ちを切り替える。
今は、わざわざ訪ねてきてくれた青島の心遣いを、邪険にはしたくなかった。
負荷に耐え兼ねる時、人は周りに優しくなる。
それは室井も同じだ。
今の室井には、自分の限界よりも、青島の配慮を黙殺することは、出来そうになかった。
どこまでも青島には甘くなってしまう自分に、嫌気する。
レンジが止まるのを待っている間に、 キッチン脇の段ボールの中から、日本酒の酒瓶を取り上げる。
振り返った。
ちょこんと所在なく据わって、居心地悪そうに辺りを見回していた青島が、鋭敏に室井の視線に気付く。
青島が、はにかんで、首を傾げた。
「・・・・呑むか?」
「でかっ。それ、室井さんの・・・?」
「引越の邪魔なんだ。まだ他にもある」
青島も近寄ってきて、室井の背後から覗きこむ。
風の流れで、ふわりと雨に濡れて芳しさを増した青島の匂いが、鼻孔を擽った。
懐かしく、変わらない、この香り。少しだけ煙草の匂いが混じるのも、同じだ。
「いっぱい」
どうする?と視線で問う。
瞳を悪戯っぽく輝かせて、青島の口元が持ち上がる。
さっきまで面倒この上ないと思っていた夕食を前に、室井は急速に自分が酷い空腹であることを感じ取る。
人間の三大欲求とは、実に弁えのない。
タイミングを見計らったように電子音が告げられ、二人で酒と食料を抱え、フロアソファまで戻った。
5
「新城に何を言われた」
「ん~・・・別に。気にするようなことは、何も」
ぱくぱくと気持ち良いスピードで総菜を空けていく青島が、室井へは視線を送らず淡々と答える。
――そんな訳はないだろう。
そうでなければ、青島がここへ来るだけの決断を、下すとは思えなかった。
・・・・いや、新城の電話が、切欠となったと考えるべきか。
返答を返さない室井を気に留めることもなく、青島の視線は目の前の晩餐に釘付けだ。
次の獲物を嬉々として物色している。
箸で、ホウレン草の白胡麻和えを口に運びながら、室井は暫し青島を観察する。
「早く食べないと俺にみんな喰われちゃいますよ」
「・・・・私に買ってきてくれたんじゃないのか」
「俺も腹減ってるって言いませんでした?」
「・・・・・」
「
全部終わったぞって。・・・気にしてましたよ、あの人も。口悪いけど」
流石だなと思った。
声のトーンはやや高めの、声量は6割程度。
目線の使い方を心得ている。
取り調べも、じっと目を見据えることと、逸らす仕草を組み合わせることで、相手の心理を誘導し、本音を引き出せる。
本題と雑談を織り交ぜるセンスも、嫌味がない。
基本的な対話技術だ。
何度も経験した、そして、多くの刑事たちに見てきた、馴染みの技巧である。
青島も、今は多分、室井に自由に語らせたくて視線を合わせないでいる。
目を見るタイミングを何処で図るか。
相槌を何処で打つか。
カードを何処で切るか。
拙いながらも、長い警官生活の中で培い身に付けたスキルなのだろうが
青島の場合は少し、スマート過ぎる気がした。
もしかしたら、警察官になる前――営業時代の方のトークスキルかもしれない。
そういえば、青島と二人っきりで、個人的なことを話すのは、酷く久しぶりだということに、気が付く。
あの頃から、俺たちは何か変わったんだろうか。
あれから、近づいたのか。何かは重ねてきたのか。
ごく普通の家族や友人のような会話が、自分たち二人にはこの上なく異様な、非日常だ。
ならば、何故今夜、青島はこの部屋へ来たのだろう。
「手間を掛けたな」
「いえいえ、全然」
「君のことだから、どうせ酒の肴くらいにはしたろ」
「俺のこと、なんだと思っているんですか」
「湾岸署のみんなは元気みたいだな」
「うちの署長たちがまた、お騒がせしたんでしょ」
「・・・・もう慣れた」
「・・・ですね」
「あれで、みんな変わらずということを、理解した」
「あのあと、和久さんが自宅任務です」
「随分気を揉ませてしまった。改めて詫びを入れておいてくれ」
「んんん、まさか。だって弁護士、津田さんでしょ?全面降伏してました」
「何だそれは」
「なーんの心配もないだろなって。任せられると思ってましたよ。・・・事実、信用できたでしょ、あのオッサン」
「君の時の担当弁護だったな。でも私の担当は新米の少女だ」
「あはは~ワイルドカード?聞きましたよ~。・・・でも、オッサンが育てた弟子でしょ――・・・。そこは賭けないと」
「・・・そうか」
室井の流れるような優雅な動作とは対照的に
目の前でガツガツ平らげる男食いは、見ていてとても微笑ましく、気持ちが良い。
「少しは野菜も喰ったらどうだ」
「だからその辺、室井さんのために買い込んであるでしょ。・・・・腹減ってるんですよ・・・昼飯も食い逸れてて」
何故、今夜ここに来たか、じゃない、重要なのは、何故今夜ここに来る気になったか、だ。
黒豚コロッケを平らげ、今度はローストビーフに意識が移っていく青島を視線で追いながら、何となくそう思う。
「その弁護士さんって、どんな女性でした?」
「小原くんと言って・・・。控え目で頼りない感じだったんだが、芯の強い・・・・・、随分、叱られた」
「室井さんが?」
「ちゃんと話せだの、勝手なことするなだの・・・」
「・・・でしょうね」
「職業柄、沢山の弁護士を見てきたが、あんな脆そうなのに威勢の良いのは初めてだ」
「室井さんにぴったりじゃない」
「どういう意味だ」
「そのまんまでしょ」
箸からグラスに持ち替えて、室井が日本酒を舐めながら
ここ数週間に一気に起きた出来事を反芻するように、遠い目をした。
嵐のようだったのに、振り返れば人生のほんの少しの負の遺産だ。
「弁護側の誹りにも挫けず、最後まで放りださずに戦ってくれた」
「・・・・そですか」
「ああいう女は苦手なんだが」
「すみれさんなんか、何で新人なんだ~ってむくれてましたけど」
「灰島に単独乗り込んだ時など、引っ叩かれた」
「ええぇ?室井さんを?・・・・すっげ」
「・・・過去の出来事を調べに西表島まで行ってくれた」
「ちゃんとしてるじゃん」
「秋田にも飛んでくれたりもしてな」
「秋田・・・」
青島が口の中で呟き、ここで初めて彼の箸が止まる。
「元カノ・・・・のこと?」
「見たんだろ、ファックス」
「・・・・・まあ。ちょろっと、ですけど」
口を濁しているが、世間がバッシングした内容程度はほぼ掌握しているのだろう。
室井は顔に寂びれた影を浮かべて、ゆっくりと酒を口元に運んだ。
「叩いたら出る埃は持つもんじゃないな。もう20年も前の話なのに」
「・・・埃・・・・じゃ、ないでしょ」
「後ろ暗い過去だ」
「ああいうので一緒になって騒ぎたてるのは大抵部外者ですからね。関係者は信じてないと思いますけど。俺も・・・・」
「ほぼ事実だ」
被せるように、黒目がちな闇を深めて、室井が厳かに告げると
青島が驚いたような顔をして、視線を上げる。
「大学生の時に彼女は死んだ。俺が追い詰めた。それが事実だ」
「・・・・」
「こんなに月日が経って尚、ご家族まで再び巻き込んでしまった」
急に押し黙ってしまった青島に、室井の方が何だか居たたまれなくなったかのように、初めて室井が、口を滑らす。
何も応答を返さなくなった青島の純潔な瞳から逃れるように、室井はゆっくりを視界を閉ざした。
ここまで室井は、表面的な事実しか口にしてこなかった。
それは初めて漏らした、内面の言葉だった。
「こんなに時を経てからも、清廉潔白な彼女を姦することを、また止められなかった、冷徹で・・・甲斐性のない男の話だ」
雨の音がサァと流れていくのが耳障る。
「何も知らない連中が、彼女の名前を口にするだけで、腹が立ったでしょう」
その言葉に、室井は虚を付かれ、顔を上げる。
きっと、辛かったですねとか、大変でしたねとか、お決まりの同情的な言葉を掛けられるのだと思っていた。
あんたは自分に厳しいからだの、彼女の運命だったんだから一人で背負うなだの、散々当時も周囲から言われた。
江里子の死後、ウンザリするほど掛けられた両親からの惻隠の情は、自責の念を募らせていた室井を、より追い詰めた。
誹謗中傷を向けるのは、いつだって事情も良く知らぬ周りの人間だ。
悲しむべき立場の人間から、失意と絶望に相応しい痛みを与えて貰わなければ
自分は哀しむ権利すら、剥奪された気がした。
苦く嘲笑う室井を、慰めるでもなく、諭すでもなく、ただ、隣で聞いている青島が
まるで、室井の当時に居るかのように、哀憫にぽつりぽつりと呟いていく。
「あんたはきっと、葬式でも泣かなかったんだろうな。じっと、いつもの、その険しい顔で遺影を見つめて・・・・頭を下げてお別れしたんだ」
「・・・・・」
「遺体が見つかったって場所にも出向いて、好きだと聞いた花を手向けて・・・・それでも泣かなかった、と思う」
どう?という瞳で、青島が惻隠を帯びた瞳を向ける。
「男が早々、涙を見せれる訳ないだろう」
「あんたなら、そう言うんだろうな」
「君は喜怒哀楽がはっきりしてそうだ」
これまでの遠い記憶の中で、青島の、笑った顔や怒った顔が、零れるように一つ一つ鮮明に蘇る。
彼ならどんな顔で泣くのだろうと過ぎった。
視線を伏せ、日本酒そっと舐める。
「俺のことはいいんですよ。・・・どうせ、あんたのことだから自分が哀しむ訳にはいかないとか、そんなこと考えているんでしょう?」
「江里子が命を賭けて願ったのは俺の未来だ。・・・泣けるか」
隣で青島が、口元を歪ませて、ホッと空気を弛緩させた。
視線だけ持ち上げて見遣ると、欠片も笑っていない瞳で、一言一句室井に刻み付けるように、箸で室井を指す。
「哀しみが強すぎて、でしょ」
「買い被りだ。そんなことは彼女の醜聞に、何の意味も持たない」
「だからきっと、全てが終わって一人になった時、人知れず泣くんでしょ、声も出さずに」 「・・・・自己経験か」
にべも無い室井に、青島はちょっと口籠り、何か躊躇うように何度か息を呑んだ後
下を向いた。
「その人を・・・・まだ愛してるの・・・・・?」
箸を置き、両手で持つ日本酒の入ったグラスを、所在なくクルクルと回しながら、口を開いては閉じている。
結局、そこから何の言葉も発せられない。
「さぁ・・・どうだろうな」
本当に、分からなかった。
江里子のことは、余りに遠い昔となりすぎて、それほどリアルではない。
美化されすぎて、室井の中の純潔と言っても過言ではない熟成をしていた。
記憶に刻まれ、今も慕う江里子が、現実の江里子とは既に遠くかけ離れ、似ても似つかない気もする。
自分の存在が彼女の背中を押してしまった後悔が、薄れることなく蔓延り、江里子を生涯離れぬ何かへと形を変えた。
その刃が、尚鋭く、胸に突き刺さる。
愛しい者を死に追いやった自分が、今も受け容れられない。
あんな愛し方をしなければ。
でも、今も、ああいう愛し方しか、きっと自分は出来ない。
思えば、そういう意味で、彼女には自分は不釣り合いだったのだ。
俺が、江里子には重すぎた。
本当に、苦しいのは、彼女を失ったことではなく、気持ちを受け止めて貰えなかった事実が、辛辣なのかもれしない。
その擦れ違いが招いた結末とも言えた。
有体に言えば、俺はとっくに振られていたのだ。
「愛す資格はないだろう・・・」
「どうして?」
「江里子の最後の日記を・・・小原くんが届けてくれた。葬儀の日にも、彼女の父親から、そう言われていた。一度は断ったものだ」
「読んだんですか?」
室井は力なく首を振る。
「読んではいない。でも・・・・最後のページに、燃やしてくれって書いてあったのを見てしまった。俺が持つべきものじゃない」
室井が静かに言葉を終わらせたことで、重い沈黙が支配した。
「それは違う・・・と、思うよ、室井さん」
「?」
長い長すぎる沈黙のあと、青島がゆっくりと口を開く。
「あんたは確かに愛されていたんだ。燃やしてくれっていうなら、それは踏み越えていけって合図に決まってる」
「処分する余裕がなかったとも考えられる」
「絶対見せたくないなら、死ぬ前に確実に自分で処分しておくさ。一緒に海へ持って行くのもアリだ。でもそうしなかったのは――」
早口で、畳み掛けるように一気に告げていた青島の口が、ハタリと止まる。
「もう過ぎた話だ」
「時が経っても今も現存しているのが証拠じゃない」
「・・・・・」
「終わってないんでしょ、あんたの中では」
「・・・無理だ。資格がない」
「資格って・・・アンタ。終わらせるのが怖いだけなんじゃないの」
「・・・・、勝手なこと言うな」
「惚れているんでしょう?最後に甲斐性見せてやれって」
「減らず口だな」
眉間を潜ませ、険しい眼差しを送れば、青島がめげずにひょいと肩を竦ませる。
奇妙に醒めたままでいる室井の批難を見透かしたようなタイミングで、青島がその瞳を光らせた。
「っていうか、真実、知りたくないんですか」
室井がぐっと喉を詰まらせる。
お互い警察官なのだ。
正義を貫くこと、真実を探求することには、常人より貪欲であることを見透かした台詞は、的確に室井の本質を撃ち抜いた。
少しだけ室井にしては疎放な仕草で酒を煽るのを、愉しそうに頬杖を付いて見返す青島を
無言で思い切り睨みつけてやる。
それでも青島は、たわやかな笑みを浮かべて首を傾げて見せた。
思えば、大抵の人間は、室井の無愛想な態度や硬質な口ぶりに物怖じし、第一印象はあまり良くないことを自覚しているが
青島はそういう室井の仮面を、最初から物ともしない。
不遜な物言いと、人懐っこい笑顔で、室井の懐に飛び込んできた。
青島には、最初から、室井の素が見えているのだろうか。
室井を見守るように映す青島の、その焦香色の瞳が、透明に瞬く。
青島の眦が眩しそうに細まり、それを隠すように視線を伏せた。
前髪が合わせて揺れて、額に掛かった。
「読んであげなよ。彼女を受け止められるのはあんたしかいないんですから」
「女には甘いんだな」
「女には?失敬な。みんなに優しいつもりなのに」
「私には意地が悪い」
「あんたがそれを言うか」
温柔だった視線が、ふいに色調を深める。
まるで挑発するかのような酷く悪魔的な瞳だ。
「怖いんだったら、俺が隣で手でも繋いでましょうか?寝物語に読み聞かせてあげてもいい」
「江里子の人生と子守歌を一緒にするな」
結局青島のペースに巻き込まれる。
いつだってそうだった。
そしてそれは、決して青島自身の利徳のためではないのだ。
こうやって、室井だけのために、室井を導こうと尽力してくれる。
あまりに切ない程の優しさを注がれ、室井は息が苦しくなった。
こんな無垢な優しさに、甘えたくて青島を望んだ訳じゃないのに。
葛藤が静かに室井を追い立てる。
歯車が狂っていく。
口から飛び出そうな咆哮を呑み下すように、酒を口に運んだ。
「楽しい話じゃない」
「お葬式っていうのはさ。生前を語り合うことも、供養になるでしょう?あんたの話なら、俺は聞くよ」
「四十にも近い男の振られ話など、何故聞きたがる」
「じゃ、俺の恋バナにします?ワイ談になりますけど」
室井が半眼で青島を見遣る。
今度は江里子と猥談が同列か、と思ったが、そこが本音で無いのは、長い付き合いだから室井でも察せた。
青島も、ニヤリと口端を持ち上げた後、そのままグラスを煽る。
両足をぽんと投げ出し、後ろに両手を付いた格好で、壁の方を向いた。
「カッコイイですよ~。惚れたら何もかも捨てることが出来る、なんて」
「何故君がそれを知っている」
「風の噂?・・・ちょっと羨ましいかな」
「茶化すな。若気の至りだ」
「室井さんって、そういうとこありますよね」
「いい加減にしろ」
「本気で言ったのに」
藍茶色にも桑茶色にも見える、柔らかそうな細髪が、さらりと舞って目元を覆う。
長めの前髪がその表情を隠し、彼がどんな顔をしているのかは分からなかった。
「・・・・君こそ、どうなんだ」
「俺ぇ・・・?」
「結婚の一つも考える歳だろう?」
雲行きが怪しくなってきたので、返答を避けると
意外にも、ここまで恋愛の先輩ぶって意気揚々と語っていた青島の頬が、少し染まっているのが
向こうを向いていても、見て取れる。
肩から掛けたままのタオルケットから、丸っこい指先がちょこんと握られて覗いていた。
「何、やっぱり俺の猥談聞きたいの?」
軽く乾いた笑いを忍ばせながら、青島が姿勢を戻すことで空気を変え、日本酒瓶を取り上げて目線で継足しを促してくる。
それが、話題を逸らされた仕掛けであったことは、後になって気が付いた。
黙ってグラスを差し向ければ、青島も黙って注いでいく。
トクトクと波打つ音を二人で聞いていた。
~~~~~~
深々とした時が流れた。
窓の外に目をやれば、雨はいつしか雪に変わり、窓枠を白く縁取っていた。
明日は東京でも積もるかもしれない。
黙って傍に座り、何処までも優しく付き合ってくれる青島に
室井は泣きたくなった。
不甲斐ない自分を蔑み、嘲笑い、叱咤し、罵倒してくれれば
まだ心の均衡も取れただろうに
どこまでも侵食される生温い柔らかな空間は
それこそ夢か現か分からなくなりそうな不確かさがあって
目の前にいる青島さえ、自分の願望が作り出した都合の良い幻であるかのように、思わせる。
「おまえ・・・・・今日、何で此処へ来た・・・・?」
「・・・新城さんに・・・・・今日が最後だからって聞いて・・・・」
「それだけか?」
「それだけですよ」
「今までだって一度だって来たことないだろう」
「それは・・・・。来れませんよ」
「いつも通りでいい。変に気を使われる方が惨めだ」
「そんなつもりじゃ・・・・。そういうことじゃなくて・・・・」
江里子の時と、おんなじだ。
自分にはこんなことをされる由縁も資格もないし、優しくされるようなことを成し遂げたものもない。
全ては自分の無力な責任なのに、こうも容易く赦しが与えられ、贅沢な慰みが齎されていく。
触れそうな距離で間近に感じる体温。煙草の匂い。
そんな儚いものだけが境目を熾烈にさせ、アルコールの揮発と混ざって、青島の気配が脳裏を突き破るように焼いていく。
青島の醸し出す空間は、あまりに情愛と博愛に満ち溢れていた。
「青島」
「はい」
「・・・・・」
「何?」
「おまえ、もう帰れ」
グラスの中で揺れる酒に答えが浮かんでいるかのように、一点に視線を落としながら、室井が淡々と告げた。
6
「・・・・イヤです」
珍しく反発されたことのほうが意外で、室井は顔を上げる。
青島は、正義が絡むこと以外に於いては存外素直で、流されやすかったように記憶していた。
「夜も更けた」
「後悔してるんですか」
動こうとはせずに、青島はタオルケットを膝下でぎゅっと握りしめ
それが泣きそうな顔に見えたのは、室井の気のせいかもしれない。
しかし、突然迷子の少年のような顔をして俯く青島の方が、途方に暮れているような錯覚をさせた。
青島が言った「後悔」が、室井の失態なのか、青島との邂逅なのか
何を指しているのかも判然としないまま、言葉を奪われる。
遠くで機械的に流れているバラエティ番組が、何やらテン
ション高く賑やかな世界を繰り広げ
隔離された二人に辛うじて現実を知らせ、通り過ぎていった。
言語として耳に入って来ない、取って付けたようなそのBGMが、雨雪と共に、浸み落ちる。
ペース配分を考える余裕もなかったせいで、ここまでで二人でかなりの酒量を消化していた。
部屋に散在しているその残骸が、無機質だった空間を人の気配に塗り替えていた。
騒動の名残を見渡しながら、大人の苦みを乗せた顔で、室井が静かに告げる。
「もう、充分だ。終電もなくなるぞ」
「ここに居ます。今夜は居させてくれませんか、もう少しだけ・・・」
「雪に変わっている。帰れなくなるぞ」
窘めるように言うと、青島が視線を上げた。
「でも」
「別に居なくていい」
「駄目だよ」
「なんでだ」
「だって・・・!室井さん、未だ何も話してない・・・・!」
「――・・・・・」
青島が下唇を噛んで、苦渋に満ちた顔で横を向く。
「このまま、帰るなんて俺・・・。こんな室井さん、一人にしてなんて・・・出来るかよ・・・」
「おまえ・・・・何言って・・・?」
一瞬、本当に言っている意味が分からなかった。
ここまで、随分とダラダラと恥辱な会話をしていた気がするのに。
「これ以上話すことなんかないだろう」
「俺じゃ、救えないのは分かってるよ。そんな傲慢なこと・・・踏み込むべきじゃないことくらい弁えてますよ!・・・でも!」
「何を言っている・・・・・?」
「せめて最後の夜くらい独りにならないで・・・・そんな顔して独りでいないで・・・クダサイ・・・」
当事者である室井より必死な形相で、懇願にも縋るようにも見える不思議な顔を見せる青島は、室井より痛ましく見えた。
ひょっとして、自分もずっとこんな顔をしているんだろうか。
子供の叶わぬ駄々を見せる青島が一周りも二周りも小さく見え、何だか青島が泣き出してしまうような錯覚を覚える。
室井は、一つ悄々たる小さな笑みを零して、青島のその柔らかそうな髪をくしゃりと握る。
「私は私が赦せない。俺を甘やかすなよ、青島・・・」
「みんな、もっと身勝手ですよ」
「私だってその一人だ。私の行動がたった一人の女を・・・・惚れた女を追い込んだんだ」
「でもそれは・・・・っ」
「愛した女の一人も護れない男を、赦すんじゃない」
江里子がいなければ、こんな世界、何の意味もないと思った。
それから時だけが流れて、自分の心はあの日凍り付いたままだ。江里子の消えた海の温度と共に。
季節は移ろっても、世界が変わっても、何も変わらない。
今回もまた、結局人を傷つけて終わるように。
「そんなこと・・・そんなこと、ないです。あんたは愛情が深すぎて、他の人の分まで担いでいるんだ。全部が自分の責任みたいに」
「だから今こうなっているんだろ・・・・。良い歳して下手くそにしか生きられない。こんな風にしか生きられない男のことなど、放っておいていい」
「その不器用さが、あんたの誠実さなんだ、と、思う」
「君は・・・・傷を知っている人間なんだな。知っていたつもりだったが」
ポツリと呟いて、もう一度名残惜しむように、初めて触れた青島の細髪の感触を確かめた後
そっと視線を外した。
姿勢を戻し、日本酒をひっそりと舐める。
チラリと視線を向けただけで青島も特に何も言わず、黙りこむ。
駄目だと室井は思った。
ここが限界だ。
これ以上、青島の傍にいたら、自分がとことん惨めになる。
こんなにも、欲している心を思い知らされ
この愛念にこのまま包まれていたら、自分はもう、一人で堪えることが出来なくなる。
この優しさに触れていたら、いつか俺は、これを手放せなくなる。
甘い誘惑は、むしろ悪魔のように蠱惑的に、室井を狂わせる。
「青島、あんま、俺を甘やかすな」
「でも・・・」
「捜査で人が一人死んでいるんだ。軽率に流していい話じゃない。元々の事件被害者を加えれば二人の人間の命が失われている」
「・・・・・」
「その他にも、多くの人の利己が多くの人の人生を狂わせた」
室井が少しこれまでとは違った視線を投げれば、やはりその変化を聡く察知してしまう青島が、少しうろたえる。
「警察官は、人の人生を狂わすリスクを背負いながら、踏み込ませて貰う代わりに、影響を与えてはいけないんだ」
少し下がった温度が、床に着く足元から体温を奪った。
雪の音が聞こえてきそうなほどに、空気が凍てついている。
手の平に残った青島の髪の感触が、いつまでも消えない。
「必要以上に俺に関わるな・・・。君にメリットはないだろう。こんなプライドがあることさえ、煩わしい」
「・・・っ」
「おまえのせいじゃない。俺の問題だ。・・・こんなことも言わせないでくれ」
「やっぱり、俺じゃ駄目なんですね」
どういう意味だろうと思う前に、本能が、それ以上聞くなと警告する。
胸がぎゅっと軋んだ。
傍に居て欲しいのに、欲しくない。
手を伸ばせば届いてしまう距離にある温もりが、痛いほど、切なく愛おしく、そして、憎く思えた。
痛みより強烈な感情の起伏を感じて、室井は眼を瞑る。
今、辿り着けない程遠くなってしまった温もりを、そっと手放すように、室井は黒い睫毛を揺らし喘ぐように息を吐いた。
気のせいか、青島も唇を噛み締めて、何かを堪えるように横を向く。
「俺のことは気にするな。こんなのはいつものことだ」
「嘘吐き」
言った途端、突如、空気を一変される。
目が覚めたように瞼を上げれば、青島が、唇を一文字に引き結び、上目遣いで僅かに気色ばんでいた。
その焦香色の瞳が、濡れた焔を滾らせる。
思わず眼を奪われたその光が、室井の身の奥から蕩けそうな痺れを走らせ
同時に、カッと感情まで走らせる。
「体裁ってそんなに大事?」
「――」
一番の深部を直接抉る言葉に、思わずカッと躯に熱いものが競り上がる。
「体裁で社会は回っているんだ」
「俺が言っているのはあんたの体裁だ」
「同じことだ」
「どうかな。あんたがやっているのは、ただ、自分で決めた枠の中で雁字搦めになっている一人相撲だ」
「おまえに何が分かる」
「ああ、何も分かりませんよ。話してもくれないんだから」
「なら、用はないってことだろ。察しも悪いな」
「・・・っ!寂しいって言ってみろよ、辛いなら辛いって言えよ!愚痴、零してみろよ!」
箍が外れたように青島が胸倉を付かんできた。
負けじと室井も、擦り切れるような囁声で、睨みつける。
「なら言ってやる。俺は人を選ぶんだ」
「へえ、あんたに選べるだけの人脈あるんですか」
「それで飯喰っているんでな」
「の割には、学ぶってこと知りませんよね」
弾けたようにぶつかり合った熱が中央で裂けた。
触れそうな程の距離で睨み合う視線には、お互いしか映っていない。
吸い込まれそうな焦香色の瞳を魅入りながら
室井の中の、堪え切れぬまま鬱屈していた衝動が迸る。
骨から燃やし切ろうという貪婪さで向かいながら、必死で護ろうとしている庇護的な色が突き刺さり、それが室井の芯を逆撫でする。
均等であった二人の関係は、確かにこの事件でバランスを失っていた。
青島の優しさと、人としての憧憬が
閑却な世界で独り苦しみながら、それが定石なのだと刻み付けられてきた世界に生きる男の腐心を無に帰する。
この魂に、引き摺られる――!
「・・・ッ、自惚れるな。君の前で、益体も無い愚痴を零し、縋れとでも言うのか。そして君は、それを大変だったねとでも言うつもりか・・・っ」
「違・・・っ」
「これは仕事なんだ。仕事の失態を、これ以上晒して何になる。君にこそ関係ない話だろう」
「違うよ、そんなことを言っているんじゃないっ」
「じゃあ、約束を交わした相手として駄目出しでもするつもりか」
「そうじゃなくて!仕事の愚痴まで、俺、口出し出来ませんよ・・・っ」
「じゃあ何のつもりだ!」
「だからそれは・・・っ」
青島を感じて踊りだす心の奥で、甘く、優しい空間が、同時に、酷く、痛みを齎す。
青島と対峙する時――それは室井の奥底に眠る人間本質が、根こそぎ揺さぶられることを、今更ながらに思い出した。
「帰れ。おまえじゃ役不足だ」
「室井さん・・・っ」
「これ以上俺に近づくな・・・っ。とっとと帰れ、邪魔だ・・!」
腕を振り上げ、青島の手を乱暴に振り払う。
何故こいつは、こうまで俺を見限ってくれないのだろう。
こいつだけではない。
どいつもこいつもだ。
何故、俺を放っておいてはくれないのだろう。
新城も新城だ。
馬鹿だよなぁと、ふと思う。
こんな俺のために、一線踏み越えやがって。
繋ぎ止めてくれたということは、己の自己価値が新城の中にもあるということだ。
あれで良いと本気で思っているのか。
アイツはそれで、納得しているのか。
「くそ・・・っ」
苛立ちを隠さないまま、垂れて乱れた前髪を掻き上げる。
彼らの範疇ではあるが、動いてくれたという事実に、青島と向き合うことで、今頃になって胸がジンと痺れたように痛んだ。
それぞれの雄姿が眩しく、そして羨ましくもある。
一方で、かつて自分も青島と共に、これが歓びであるとばかりに奔走した時の独り善がりが、恥辱と紙一重であることに思い至らされた。
純粋に、誰かの歓びになると自信を持って言える強さは、どこにあるのだろう。
それこそが、人の世の幸せであり、社会構造であることは、本音は気が付いていた。
そして、そんな風に室井の価値を周りに認めさせたのもまた、この青島の存在なのだ。
自分一人じゃ、戦うことも出来ない不甲斐なさ。
色々な事が去来する。
心が虚しい。
肝心の何かが、酷く空虚だ。
今は、その温もりある想いが受け取れなくて、こんなにも切ない。
みんな、零れ落ちていく。
暫く睨み合った後、青島が力なく襟元から手を放す。
彼も、同じように視線を伏せ、顔を背けた。
「こんなことしても何にもならない・・・ッ」
室井らしくない荒くれた言葉遣いで、室井も青島を蔑むように背中を向けた。
顔を背けたまま、それでも青島が畳み掛ける。
「そうして、俺を遠ざけて、一人護るつもりかよ」
「君には関係ないだろう」
「遠いよ・・・」
「・・・?」
「近づいても近づいても、あんたの中には絶対踏み込めない領域がある。そこに誰も踏み込ませてくれないんだ。届かない・・・」
「閉じた人間の末路など、今更何だ。おまえに影響ないだろう?」
幾分穏やかになった口調で、室井が流されていく身体を繋ぎ止めるように自らの腕をそっと抱き締めた。
「・・いや。悪い。――別に約束を投げ出すとか、君のことが重荷だったとか、そういうことが言いたい訳じゃない。・・・疑うな」
穏やかな口調に潜ませた諦観には、僅かな拒絶が潜み、悟りきってしまった大人の男の態度は、世知辛く酸っぱさと哀愁を纏った。
その妙に優しい言葉と、色を乗せない瞳が、逆に青島の心に細波を立て、確信を呼ぶ。
「俺はあんたが優しすぎることを知ってる。自分に厳しいのも知っている。それでも、あんたは傷つく訳にはいかないんですね」
「・・・そうだ」
目だけで振り返ると、青島は不敵な笑みを口の端に乗せ、眼差しを強める。
「今夜は絶対ここに居る」
「・・・なら、俺が出ていくさ」
「逃げんの」
グラスを置いて立ちあがろうとした腕を、グッと掴まれる。
引き止める青島の手の平が、熱い。
その伝わる力の強さと体温に、室井は胸を抉られるような悲しみを感じた。
そこまで、他者の温もりに焦がれていたのかと、唖然とする。・・・・正確には青島の存在に飢えているのだと。
「・・・ッ、離せ」
「ヤです」
「いいから離してくれ」
「逃げんのかよ、俺から・・・・自分から」
「俺は逃げてなどいない・・・!」
逃げずに、ちゃんと事実を正面から受け止めているからこそ、苦しいのに。
そんな風に、変わらぬ眼で見ないで欲しかった。
これ以上、何を覚悟しろというのか。
しかも、青島に。
もう勘弁してほしかった。
~~~~~~
睨み合う二人を囲う窓が白く結露し、熱を籠もらせる。
窓の下を、車の走行音が通り過ぎた。
雪を弾く音に変わっていた。
青島の髪に触れた同じ手で、今度は自分の短髪をくしゃりと鷲掴みにする。
青島の柔らかさとは異なる自分の感触が、妙に苛立たせた。
「君は・・・ずるい」
後ろから腕を掴ませたまま、じっと動かない室井に、青島も硬直状態を放さない。
「選ばせるふりをして、逃がしてもくれない。俺の中に住み着いたままで、俺の隅まで打ち砕いたおまえが」
「じゃ、俺が消えれば・・・・それがあんたの救いになれる?」
「それを俺に言わせるのか」
どうも昔から、青島と向き合うと心が細波立つ。
夕刻まで無性に会いたいと思っていたことだって、そうだ。
逢いたかった。逢えて嬉しい。だが、同じくらいの強さで、苦しい。止めて欲しい。
室井にとって、確固たる精神と、揺るぎない信念こそが、己を奮起する原動である筈だった。
そうやってここまで来て、それを裏付けしたのが、青島の存在であり、共鳴する思想だった。
そこに、どれだけの想いを注ぎ込んでいるかを
コイツは知りもしないで、そんなことを軽々しく口にするのだ。
必死で青島を求める自我を抑え堪えている努力を、分かりもしない、知りもしない青島が
身勝手にも憎らしい。
こんなに自分だけに刻み付けておきながら、その魂の強さを自覚していない。
どうせ、この光から離れられない俺を、嘲笑うかのように。
「どこまでも残酷なんだな・・・誰にでもそんな顔を向けて、いつか消えてしまうくせに、俺には忘れさせないのに」
「それは――」
「その気もないのに・・・・・気のある素振りをするな・・・ッ」
「・・・ッ」
せめて、対等であったなら、振り切れたものを
こんなにも鮮やかな差を見せ付けてくる。
逢えない間に遠ざかってしまった二人の距離を、思い知らされるだけのこの優しい空間が、痛みを伴い
青島と直接向き合ってしまえば、割り切っていた筈の傷口が、再び疼き出した。
青島という具現化が、室井に己の立場や境遇や、果ては冒した事実に至るまで、克明に思い起こさせるのだ。
眼を背けさせてくれない。
彼の魂は、それほどまでに、精強だ。
この眩い存在がなければ、俺は、惑い、揺らぎ、歩くことも出来ない。
青島なら、室井が抜け出せず逃げれもしないこの世界の片隅で、独り堪えているものを
きっと鮮やかに手放してさえ、見せるのだろう。
その身すら、賭け値の対象として、大空に投げ捨ててしまえる潔さで。
自分の情けなさや、叩きのめされた事実が、リアルに蘇り、室井に弁えるべき罪が、再度、脳裏に去来した。
手を離そうとしない青島を、室井は振り返って見下ろす。
「昔っからそうだ。俺に踏み込んでは掻き回していく。もう放っておいてくれないか」
「・・・・それは、嘘だ」
今度は小さな、消え入りそうな声だった。
俯き加減の青島の旋毛辺りを、じっと見つめる。
「俺の前でも、意地、通さなきゃ駄目?」
「・・・・。おまえの前だから、筋通したいんだろうが。察しろ」
「何で?約束した相手だから?」
「そうだ。対等でいたい。・・・対等で、いたかった」
だけど、現実は力不足で叶わない。
小さな掠れ声で、青島の頭の上に、今夜の雪のように、静かに言葉を積もらせた。
心の中で、共に在れた歓喜と、せめぎ合うドロドロとした敗北感という自己矛盾は、室井を圧迫し押し潰すほど膨れ上がる。
何処までも儚い青島が、悪魔的なまでに愛しく、殺したいほど憎くもあった。
青島がゆっくりと首を傾ける。
「本気で――そう思ってんなら、俺が役に立つと思いませんか」
そう告げる青島の瞳は、先程までの頼りなさとは異なり、殺されてしまうのではないかと思う程、咽返るような熱と狂気に満ちた艶を放っていた。
室井は言葉も無く、険しく眉間を寄せ、その強い眼差しを睨み返した。

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