空涙




ドサリと唯一つ残されたフロアソファに身を投げ出して、室井は鬱陶しそうに前髪を掻き上げた。
クッションが沈み、意図せず、大きく溜息を吐く。

ぼんやりと、天井に映る影を見つめた。



粗方荷物は纏め終わり、後は明朝出発までの必需品が散在しているだけである。
朝一には来るという引っ越し業者との時間にも、充分間に合うだろう。
明日には、自分もこの地を離れる。
これで全てが終結する。
東京最後の夜だった。


段ボールが無造作に積み上げられ、凄然とした部屋は、深閑で無機質だ。
長い独り暮らしで嵩んだ私物も、箱詰めされれば残酷で質素に積み上がる。
骨壷に入れられたような無味乾燥さが空疎だった。
いつか自分が物質に還る時、自分は何を持っていけるというのか。
――その前に、抱けるものが、そもそもあるのだろうか。

飾り気のなくなった埃臭い風景が、時の終焉を誇示し、室井の中の現実を具現化しているようだった。



クルリと見渡す。
特にすることも、もう、ない。

重たい身体を背もたれに預けていた室井は、ゆっくりと身体を起こし、膝の上に肘を付いた。
回転速度を唸るように上げたヒーターの、モーター音だけが奏でる深々とした空気は、懐かしい古里の感傷さえ想起させる。
いや、それさえも、無闇に引き出された最近の面影か。

江里子のことさえ戯れ半分に弄ばれなければ、自分は古里すら思い出さないに違いない。
古く色褪せた面影は、今は痛みを伴い、胸を圧迫する。



出てくるのは、溜息だけだった。
頭を垂れれば、洗い晒しの前髪がパラパラと舞い落ちる。
夕食を買い出しに行くか、それとも出前にするか。面倒だなという気持ちの方が強く、気怠い重さだけが揺蕩った。
食えるものといえば、梱包した大量の酒ぐらいだろうか。
最近、帰宅も儘ならなかった所以で、食料と呼べるものが、自宅にほとんどない。



新宿北署での一件。そこから派生した誤認逮捕。襲撃。辞職勧告。そして広島への異動命令。
まるで、嵐のようなワンシーンだった。
置き去りにされた過去の罪は厚く、いつまでも棘のように突き刺さる。
時間さえ戻せるものならば、自分はどこからやり直すだろう。

全ては空回りし、迷惑を掛け、果ては、意識の底に沈めて いた過去まで掘り返された。
もがいて、しがみ付いて、直向きに喰らいついたものは、 すべてこの手から零れ落ち、何も残っていない。
あれだけ多くの人が関わり、有象無象に交差したのにだ。
まるで最後の悪足掻きだとでも言う様に、命が燃え盛っていた。
例えそれが、全て否定されることであっても。

何処にも、感傷などない。
何にも、未練は感じなかった。
ただ、拭いきれぬ空虚さだけが、見納めとなる部屋に重い吐息と共に舞い落ちる。

心疲れだけが、残された。





とりあえず、飯でも喰わなければ、力も湧かない。

食事は生命の基本だ。
自分にそう教えたのは祖母だったか。
自己管理も出来ないようでは、ますます自分が惨めになる気がした。

そんな風に思う自分に、また、自嘲が浮かぶ。


まだ、そんな風に取り繕う自分いる。
まだ何か、自分に捨てきれない何かがあるとでもいうのだろうか。他人をむざむざと傷つけた果てに。
擦り切れるだけの不条理に恥を忍んで縋った先に。
それは、ピエロのようだと思った。
これだけ醜態を晒し、どうせ、堕ちるところまで堕ちたのだ。これ以上、まだ惨めになる箇所が、俺の中に残っているとでも?
こんなになっても取り繕おうとしている自分に、吐き気がする。


室井は緩く首を振って立ちあがる。

こんなことを考えるのも、腹が減っているからに違いない。
それで良いと割り切っていた筈だ。
刑事なる職業に就いていれば、人生が交差する起点に、こ ういう事態は多々起こる。

「もう事件は終わったんだ」

声に出して小さく呟く。
何度も周りに諭し使い古した台詞を、まさか自分に向けて言う日が訪れるとは。






~~~~~~


のろのろと部屋を跨ぎ、電気も付けていない隣の部屋へ向かった。

漏れる灯りを頼りに、財布を探すため、スーツのポケットをまさぐる。
良く見れば、スーツも布地が少し痛み始め、新調の時期を迎えていた。
もう一着、雨に打たれ、駄目にしたばかりなのに。

都内で買い治す時間はもうない。
――落ち付いたら広島で買うか。

何もかもがこの地で、役目の終わりを告げていく。



「・・・ぁ・・・・」

小さく声をあげた。
財布と一緒に何かが零れ落ちた。
警察手帳だった。


あの時、新城がもう一度と与えてくれたこの手帳は、いわば、最後の砦であり、戒めの鎖だ。
もう、手にすることはないと見切ったものは
何故か今もここにある。

室井はじっとそれを見つめた。


見切ったのか、見切られたのか。
素質があろうがなかろうが、結果は変わらず、自分はこの世界に閉じ込められていく。

泣くことは許されない筈だった。
傷つくわけにも、跪くわけにも、いかなかった。
警察官である以上、他人の人生に深入りする、その責任は自己に帰する。
誰かの人生を狂わせるリスクを背負うなら、それに伴い、こちらが傷ついたなどと自覚する訳にはいかない。
自分が泣いたら、それこそ関わった全ての人が、報われなくなる。
他人を傷つけて、自分だけ安全な所で泣くなど、おこがましい。

ならば今更、傷つくのは
その派生で、要らぬ過去を掘り返され、公然と辱められたことか。
それとも、不始末を俺に押し付けて身の保全を計る、あからさまなやり方か。



ゆっくりとした動作で、手帳を拾い上げる。
手の平にしっくりと馴染んだ。
なぞるように指先で拭い、嬉しいんだが哀しいんだか、良く分からない感情をやり過ごす。

今更、適職かどうかなどといった根本原理にまで立ち返ることにまで、問い直す意義はない。
それを問われる事件ではあった。辞表まで提出させられたのだ。
だが、その辞表も今はない。


スーツの胸ポケットに戻そうとして、ふと、その昔、こんな風に誰かの手帳を巡って、似たような焦熱の感情を抱いたことが
突如脳内を疾駆した。
一瞬の昇華と鮮やかな邂逅。
閃光に縁取られる偶像が、フラッシュバックのように再生されていく。


「手帳・・・・・か」

敢えて記憶の片隅に埋めていた戒めの燻りが、決壊したように胸 の 奥に広がった。





段ボールを一つ開け戻し、缶ビールを取り出すと、再びソファに戻る。
腰を落ち着け、ケータイを放り投げ、室井はじっと警察手帳を見つめた。

外は雨が降り出したようだった。
静かに雨脚が眼下の屋根を打つ音が聞こえる。
手帳が、上がり始めた湿度で少し湿っているのが、妙に生気を思わせた。



連絡など、取ったことがなかった。
そういう仲でもなかった。
だから、今、青島がどこで何をしているのかなど、知らない。
かつての二人を知る同僚は、揄い半分、忠告半分に、青島の近況を尋ねてきていたが
室井はいつも口籠る。
本当に何も知らないからだ。
いつも、何をするにも、近況報告などしたことがなかったし、仕事上で相談を持ちかけることもいつしか無くなった。

だが、流石に今回の件はメディアが悪戯に騒ぎすぎた。
過激に歪曲された噂話が、嫌でも青島の耳に入っているだろう。

青島の日常を知りたいと思ったことは、なかった。
青島の日常を、手元に欲しいと思ったことも、なかった。
知らなくて不便はないし、知ることが目的ではない。
相変わらず元気で、怪我でもせずにやっているなら、それが室井の求める理想である。
それ以外に青島に望むものは、なかった。
関わることで縛り付けるロスこそが、弊害だ。



プルトップに爪を掛ける。
空っ腹に流し込むビールは、冷蔵庫に入ってもいなかったのに、冬の冷気で適温になっており
乾いた喉に、心地良く炭酸が弾けた。
引越作業に集中しすぎて、そう言えばろくに水分も取っていなかったことを、おぼろげながら振り返る。

カーテンまで取り払った窓ガラスから、深々と冷え込んできた。
静かだった。
手持無沙汰になってしまった独身男の末路など、テレビも点けなければ、趣味に没頭する元気もないとくると、やることも特にない。
急激に思い出した鮮やかな記憶は、強烈な麻薬のような余韻を齎して室井を呑み込んでいく。

室井はビールをグイッと呷ると、眉間に手を当て、苦みと共に何かを流し込んだ。




室井の眠っていたヒーロー魂に火を点けたのは、青島だった。
信じる正義を達観するため、出世することだけに盲目で、我武者羅に働いていたあの頃。
得るために捨てるものもあるのだと諦観していたあの頃。
無垢で若い青島の志は、常に室井の捨てた筈の熱を見せ付け、苛立たせた。
捨てずに戦うという、生きる貪欲を見せ付けた。
捨てることで、失うもののリスクを教えた。

いつしか、その熱が重なり、同じ色に染まり、やがて、遠い日に約束をする。



ビールで濡らした唇を一文字に結び、膝頭に頬杖を付き、額に翳した手の隙間から横目でじっと放り出してあるケータイを見つめる。


「もう8年になるのか・・・」

遠い日の、過ぎ去りし抒情だと思っているのは、多分、青島の方で
室井にとっては、今も鮮やかな現実だ。
何よりも儚く綺麗で、何よりも強い残像を放つその存在と熱が
普段は気にも留めていないままに、常に室井の奥深くにこびり付いている。

それは酷く疎ましく、忌々しくもあるのに、こんな風に――・・・
こんな風に、時折、いざという時には、絶対に裏切らず、社会や世間や室井を囲む全てのものが、こんなに室井を疎外しても
それだけは、そこにある。
勝手に入り込んできて、何も語りもしないくせに、その塊は、だがもう、とっくに室井の一部だ。


――だから俺は、最後まで俺でいられたんだな

室井は口唇の端に、皮肉めいた笑みを滲ませる。
乱雑にビールを呷った。


「全く・・・・余計なことを」

全てを失くした筈なのに、あいつだけが心の隅に宿っている。




警察手帳を軽く撫で上げ、ソファに置いた。
ビール缶も足元に置き、両手を髪に差し込んで肘を付き俯く。


無性に声が聞きたい。
決壊した心が、乞い叫んでいるのを、痛切に感じている。

あんなに自己尊厳さえ打ち砕かれるようなことが立て続けに起き、それでも強かに踏ん張れたのは
どこかで青島との交流が、室井を試していたからだ。
細胞の中にまで浸みついて、意識せずとも、どこかで自分は捨てきれなかった。
あいつにまで、手放されたくない。その無意識の脅えが、室井の正義を走らせる。
それは、最後の一線だ。


整髪料で固めていない無造作な短髪を、差し入れた両手でぎゅっと掴む。

――もう一度・・・・。

最後に一目、逢いたい。
今、その枷が外れ、時間的な隙間に、室井の奥底で燻る渦が、悠然と湧きあがる。
そのあからさまな渇望に、室井はいっそ可笑しくなった。


清純潔白に無邪気な約束を交わした従時と違い
何も変われず、澱んでいる今の立場は、余りに遠く、対極的だ。
なのに、心の奥底が、歴然とその光を乞う。
あいつが遺した、鮮やかな刻印が、疼く。

彼の空気に触れ、燻ったこの胸のドロドロとしたものを浄化したいと言うのか。
認めてくれる筈だ――そう身勝手に思う応えを、彼自身の 声で確かめたいとでも言うのか。
長い時間の中で、そう思う瞬間は度々あったが、ここまで 鮮烈に思ったのは初めてだった。


つまりは、それほど、穢れた自分を、自分こそが本当は受諾出来ていないことを、思い知る。
自分の不始末を自分で処理することも出来ない。

室井は、傾いだままに、口端に歪んだ自嘲を滲ませる。


今更、どの口実で連絡なんか取れるというのだろう。
こんなに惨めに落ちぶれた俺が、どの面下げて向き合えるというんだ。


「くだらない・・・・」

縋りたいなんて、思ってない筈だ。
今まで一度も連絡を取らずにここまできて、その間、縋りたい夜や意見を求めたい日々だって少なからずあって
でもそれを何もせずに乗り越えてきた。
それでなんとかなったじゃないか。
今更。

お互い、何かを共有してもいない。
例えば、どちらかがこれまでに結婚していようが、昇格していようが、異動してようが
そんなことはお互いの生活に、何の影響も与えなかった。
言い換えれば、それだけの繋がりにしてきたのは、自分の方だ。

それなのに、今更、縋るように求めるなど、都合が良いにも程がある。
ここで、連絡を取って、これまでのルーチンをリセットすることにも、意味があるとは思えなかった。


なのに、一度火が付いてしまった願望は、妙に過去を蘇らせ、室井を寂寞の彼方へ押し流す。
何でもかんでも記憶が彼に結びつく。こんなにも長い時間 隔たっていて尚。
イライラする。




雨脚が更に強くなったようだった。
耳に届く雨のリズム。霧のように覆い隠される都会の灯り。窓を叩く音。
ビールを乱暴に流し込み、天井を見上げながら、意識と共にソファに沈み込む。

もう、買い出しに出るのも、造るのも億劫だ。
インスタント食品でもあっただろうか。
一日がかりで詰め込んだ荷物を反芻する。合ったような、無かったような。

眼をキツく瞑り、唇を真横に引き結ぶ。
ビールの残りを逆立つ感情のままに、一気に流し込んだ。



新宿北署の中で、過剰な取調べについて捜査責任者として捜査指揮中に知りながら黙認したことは
現場を信じたかったからでもあり
そういう現場のやり方で、最後まで見届けたかったからだ。
捜査半ばに於いて、間違っている可能性の示唆を口を挟むことは、彼らの足枷にすらなる。それを躊躇した。それが捜査の遅れに繋がるリスクも。
かつての青島との諍いが、それを顕示していたから。

だが、現場に任せることは、こういうリスクも背負うのだ。
捜査員が常に正しいとは限らない。
そのことは、自覚していた筈だった。



ギリリと奥歯を噛み締めた。
嗚咽のような吐息が漏れる。


青島の存在が、自分の脆弱性を、報復するように見せ付ける。
真実を嗅ぎつける眼がなかったのは、俺の素質の問題だ。
捜査員の幉を裁くだけの技量がなかったのは、俺の器の問題だ。

目的を履き違えたのは、上層部も自分も同じだった。
真実を追求することの本当の目的。被害者も加害者をも救う想いを等閑にした。
どんなに小さなことでも、それが誰かのためになるのなら。――青島はそう言って、腐らずにあの碧い街を走っていたのに。


何故詰めが甘くなったのか。
結局、自分と阿吽の呼吸でゴールへ辿り着けるだけの相性を持つのが、青島だけだった。
皮肉にも、青島との息の合い方が達観しすぎていて、人間のアベレージを見失った。
青島だけが、俺を導いていく。
そういうことなのか。

室井は自分のあまりの虚弱さと貪婪に、深い憫然を吐い た。
またしても彼に、自分の至らない部分や、弱点を気付かされていく情動が、室井を更に、追い詰める。
――俺にはあいつが必要なの か・・・。
今それを、判然と理解する。



結局、俺は変われていない。
今も人を冷徹に傷つけ、尚、自己を取り繕おうとしている。
精一杯やれた、もう終わったのだからと、複唱する慰みの一方で
冷徹に仕事をしていたかつての自分から、結局何も変わっていないじゃないかと、嘲笑う世界が重く圧し掛かる。

見当違いの奔走は、自分が刑事にすら向いていないのではないかという天性の素質さえ、曖昧にし
室井を、根本から暗闇に引き摺りこんでいた。
それを、青島の潜在能力が、室井に焦燥と共に、限界を見せ付ける。
変われたと思ったのは、そこに青島がいたからだ。

己の無力さは、もう充分思い知っているのに、世界は更なる自覚を、自分に求める。
生き難さは、自分の宿命なのか。
自分の存在は、何処にも馴染めず、いつだって疎外しか生み出さない。

僅かに残された矜持は、今となっては室井の中にだけあり、それは誰が知ることもなく、燻り続ける。



「・・・・ッ」

室井は上を向いたまま、両腕で瞼を覆った。

独り善がりの熱が、カッと身体の中心から閃光し、破裂する。
あいつじゃなきゃ、駄目な、理由は何だ。

室井は急速に湧き上がる胸の圧迫と、灼然たる眩暈のような 錯覚に襲われ、小刻みに息を吐いた。

愛しいというには、あまりにも重く、持て余してしまう程の清亮な激しさが、今は息苦しさに擦り変わる。
正直、悔しい。
それでも、胸の奥に蔓延るこの語らぬ塊が、室井を苛立たせながらも、漲らせていく。
青島に逢いたかった。
この感情を、何と表現したら良いのだろう。
素直に認めてしまえば、楽になれるのだろうか。

俺はあいつみたいなヒーローじゃない。
あいつみたいには、どうしたってなれない。本来なら、共に歩む相手としても相応しくないんだろう。
だが、俺を支えているのは、いつだってあいつだ。
あいつがいなければ自分はこんなにも簡単に迷うし間違えるし・・・頼りない。
ひとりの女さえ、護れない。


忌み嫌っても、彼の残像が胸の隙間に入り込む。
ただ、それでも。
あの鮮烈な魂に、縋れるのは、きっと自分だけだ。

独り、思い燻る傾慕の呪縛は、甘い媚薬の香りがする。




室井はゆっくりと瞑っていた瞼を持ち上げた。
打ち砕かれた哀しみを宿した漆黒の瞳に、変わらぬ沁み垂れた天井が広がる。


ただ、ひとつだけ、胸に蔓延る塊が証明するように、ひとつだけ確かなことがある。
青島なら、約束を反故にし、そして自分の職歴を捨ててまで、真実に喰らい付いたその男気を
理解してくれていると、衒いなく思えた。
何もせずにただ運命を待つだけではなく、逆境こそ、歯を 食い縛って背筋を伸ばした。
しくじったことも、結 果的に辞職を招いてでも突き詰めたかった我儘も
青島ならば、立ち向かった事の意義を、理解している筈だ。
そう言い切れるのは、何故だろう。

一人でも自分を誰かが理解してくれている。この生きづらい世界の中で。

誰に認めてくれなくてもいい。みんなに罵倒されても構わない。世間に非難されてもいい。
青島に向き合えるだけの、恥じない自分であれば、それで構わないと、ようやく思える。
根本の所を、きっと青島だけが讃えてくれる。
遥か遠くの、この同じ地で。

でも、それだけで、充分だった。
自己弁護だった言い訳が今、信念に変わる。

急速に、身体中に何かが沁み渡っていくのを感じた。




段ボールからもう一本缶ビールを取り出し、戻りがてら、開封する。

特に連絡する必要もない。
事情など、余所から幾らでも情報が入る。
慰みの言葉も、欲しくない。
彼との細い糸は、こんな過酷さの中であっても千切れない。例えそれが、室井の中だけに残る残像なのだとしても。
この胸の塊がその証拠だ。
・・・・その稀有な現象の方が、どれほど愛おしいか。

きっと青島は、俺が路頭に迷っても、認めてくれるのだろう。



なら、と室井は頬杖を付く。
口角が僅かに持ち上がる。


どうせ、彼と再会するのなら、もっとカッコつけた自分で逢いたかった。

そう思って、室井は一人ほくそ笑む。
今更、カッコつけたい相手がいるというのが、妙に可笑しく、同時に胸に焔を灯す。

みっともない自分で戦っている足掻きも、そして最高にカッコつけて向き合いたいのも
そう言えば、彼だけかもしれない。
ならばいっそ子供みたいに見せ付けてやりたい。こんなにやったぞ、こんなに頑張ったんだぞ。

いつの日か、立派な男になって、ちゃんと胸を張れる仕事が出来たら、逢いに行けるだろうか。










遠くでケータイが鳴っていた。
ぼうっと物想いに耽っていた室井は、はっと意識を浮上させ、這い蹲りながらケータイに手を伸ばす。
足元に散在させていた空き缶を幾つか蹴飛ばした。


もう、自分に事件の連絡は入らない。少なくとも、今夜は。
小原弁護士だろうか。
明日見送りに来ると言っていた。断って仕事に行けと随分言ったのだが。

彼女には随分と世話になった。
頼りない少女のようだったのに、強かで、未完成で、今の俺に相応しい、俺の共闘者だった。

彼女が届けてくれた江里子の日記は、手つかずに段ボールの底に眠っている。




一定の金キリ音を上げるケータイを取り上げる。
着信画面を見て、室井は眼を剥いた。

信じられない人物の名前が表示されている。


登録をするだけで、一度も使われたことのなかった、そのアドレスナンバーとフルネームを
室井は、幻を見ているかのように不可思議な感覚に包まれたまま、目を凝らしていた。

割と長く、何十コールしたか分からなくなった時点で、室井は慌てて通話ボタンを押す。

回線が、繋がる。
外部の雑音が、まるで遮るかのように耳を覆う。


「・・・室井さん・・・・?」
「・・・・・」

耳に直接届く、久方ぶりの変わらぬ甘い声に、何も言い出せない。
これは、現実か?

室井は喉をヒリ付かせた。


「えっと・・・あの・・・・?・・・・室井さん・・・・?・・・・ですよね?」
「・・・・・」
「・・・・・」

どちらも言葉を発せなくなる。
電話口から、向こうの風の音や、雨の音、雑踏の声が、微かに届いた。
どうやら外にいるようだ。


ゆっくりと時が流れ、電話口の向こう側から戸惑いの気配が消える。

「・・・・終わったん、ですね・・・」


室井はグッとケータイを強く握りしめた。
その言葉に、突き動かされるように、口が開く。

「・・・ああ」
「・・・・お疲れさま、です・・・」
「広島に行く」

それだけで、青島には数多が伝わる筈だった。

「了解、です。身体には・・・気を付けて」


青島の声は細く、頼りない電波では途切れそうで、室井は必死に電話口を耳に押し当てた。

逢わない間のぎこちなさや、遠慮などは、気にもならない。
二人がこうして向き合えば、そこにあるのは時間も空間も越えて、ただの馴染みの共鳴だけになる。
それが、ありありと空気を満たす。

労いの言葉が、事件が終わって初めて、抵抗なく身の内に沁み込んでいった。

なんて不思議な空間なのだろう。
なんて不思議な相手なのだろう。
こんな人間になど、出会ったことがない。


無言のままの時間が、泣きたくなるほど、愛おしい。
独特の空気に促され、思わず黙っている筈だった言葉が、ぽろりと口から転び出た。


「・・・・明朝、会えないか」
「え・・・?」
「朝にはここを発つ。東京には暫く戻らない」


早口で告げると、電話口の向こうで、息を殺す気配がする。


「新城さんから、連絡貰ったんです」
「新城・・・?」


唐突に告げられる馴染みの名前に、思わず問い返した。
あいつは最後まで色々と気を回してくれる。
恐らくこれが最後だと分かってて、青島に詳細を告げたのだろう。餞別のつもりか。


「ホントは・・・・あんたのこと知って、だけど、何かする訳にもいかないから・・・」
「・・・青島?」
「でも、テレビで・・・事件が終わったのを知って、あんたの辞表のことも聞いて」
「受理、されなかった」
「それも・・・・聞きました」


青島の話はどうも要領を得ない。
雨打つ音に混じり、車の走行音が背後に微かに流れ、声を時折掻き消した。
妙に頼りない雰囲気に、室井のケータイを握る手に力が籠もる。


「青島?今、外だろ?仕事帰りか?」
「あんたの話をあんたから直接聞きたかった。・・・ああ、違う、そうじゃなくて。そんなことは本当はどうでもよくて・・・」
「何を言っている・・・・?」
「だけど、どうしても最後の勇気が出せなくて・・・俺・・・」
「勇気?」


車のクラクションが電話口の奥から届く。
しかし、同時に、同じ音がこの部屋にも聞こえた気がして、室井はハッとした。

「君は――今、どこに居るんだ」

ソファからガバリと立ち上がり、カーテンも取り外した窓の鍵を下ろす。
カラカラと窓を開ければ、雨粒が顔に降りかかってきた。


「・・・・下」

室井は、服が濡れるのも厭わず、裸足で窓手すりに片足を掛け、身を乗り出した。
官舎前の道路を左右に見渡す。
紫の薄煙の中、少し離れた街路樹の下、そこに、黒いものが傘も差さずに立ち尽くしているのが、眼下に小さく見えた。

思わず息を呑んだ。


「出て、来れませんか・・・・?」
「・・・ああ」

グッと喉を唸らし、室井は頷く。

「いや、家に来い。そんな恰好じゃ風邪をひく。上がって来い」
「へーきですよ」
「平気な訳あるか。いいから早く」
「でも・・・・」
「そこまで来ておいて、何を躊躇うんだ。いいから来い」


「今、行きます」

くすりと微かに笑う吐息の後、掠れた声を残し、プツリと電話は切れた。








「こっの、バカが!!」
再会の余韻も室井の怒声が弾かせた。


それから1分もせず、本当に青島は室井の部屋にやってきた。

何ヶ月ぶりだろうか。
玄関の扉を支えながら、変わらぬグリーンのコートに包まれ、僅かに覗く丸っこい指先をきゅっと握って、飴色の瞳にポーチライトの淡いオレンジを映し出す。
1年・・・ぶりか。
そこに立つ本物の青島の姿に、室井は言葉を失った。
ドクドクと高鳴る心臓を他所に、玄関に立ち尽くし、やは り言葉無く室井を見続けるだけの青島を、その黒い瞳に焼き付けるように凝視する。
青島の幻を見ているような錯覚に陥り、玄関口で仁王立ちのまま、二人は僅か50cmにも満たない距離を保って固まっていた。


信じられない思いの方が強い。
大したことない時の長さなのに、室井には永遠にも近い、時の残酷さに見える。
今はあまりに遠い二人を隔てる変貌が、肌に突き刺さった。

交わらないと思っていた二人の時間が、今再び、こんな所 で相見えるなんて・・・。
東京を去る、この夜に――。


「・・・っ」

バスタオルを握り締める室井の指先に力が籠もる。

言いたいことも聞きたいことも、何ひとつ口が凍ったように、出てきやしない。
何かを堪えるような瞳をする青島を見たら
無様な俺を嘲笑いに来たのかとか、情けでも掛けに来たのかとか
そういう自虐的な言葉はどれも、自分ではなく青島を傷つける気がして、口を閉ざした。

凍った空気を震わせるように、青島の喉から嗚咽のような音が漏れ
室井も、自分が息を止めていたことに気付く。
青島が、ちょっとだけ瞳に痛みを乗せ、笑おうとしたのか、口元を少し綻ばせ、首を傾げてみせる。
その何気ない仕草にすら、室井の頬が強張った。


「変わって、ないな」
「そっち、こそ」
掠れた声。
「薄情もん」
「どっちがだ・・・」

お互い、それだけ口を付くのがやっとだった。
飴色の瞳が泣いているように潤む。
真っ直ぐに投げてくる視線を、真っ直ぐに受けとめた。

それだけで、室井を見透かすことなど、青島には簡単なことだったのだろう、青島の方が顔を歪めて、俯いてしまった。
濡れて桑茶色に染まる細い髪がうねり、表情を隠していく。
その髪からポタポタと水滴が連なり、まるで本当に泣いているかのように、コンクリに染みをを作っていった。


そこにきて、室井はようやく我に返り、持っていた紫紺色のバスタオルを放り投げ、青島の頭に被せる。
その隙間から、青島が驚いたようにきょとんとした瞳を覗かせた。
次の瞬間、柔らかく光らせる。

室井がグッと息を呑み込んだのを気付きもせずに苦笑して、それからビニール袋を掲げてみせる。

缶ビールらしきものと、惣菜のようなものが透けて見えた。
一杯やろうという合図なのだろう。

室井は黙って頷いた。




「こっの、バカが!!」

玄関で、滅多に声を荒らげることのない室井が、余りに粗末になった青島が猫のように身震いして水飛沫を払うのを見て暴言を吐くと
それにすら、青島は、柔らかく笑みを見せた。

「あ、ちょっとこれ持ってて貰えます?」

室井の文句など気にも留めず、ぐしょ濡れのグリーンコートを差し出してくる。
室井は眉間の皺を深めながらも、条件反射で手を延ばした。

ぎこちない室井にお構いなしに、青島は鞄を置き、片脚を上げて靴紐を解き始める。
廊下が濡れるのも構わずに、バサバサとコート振って軽く水滴を払い、チェストに置くと
室井は、拭いもせずに被っているだけのタオルに手を掛け、代わりにガシガシと拭いていく。
中からくぐもった笑い声が楽しそうに漏れ聞こえた。

「バカか君は・・・っ」

「一体いつから外に立っていた」
「え・・・そんな長くは・・・・」
「傘はどうした」
「だって出る時は降ってなかったから・・・・」

誘導尋問であったことに、青島は気付いていない。
雨が降り出したのは、確か室井が荷造りを終えた頃だから、悠に3時間は経っている。


何でさっさと連絡を入れなかったんだと咎めようとして、室井は言葉を呑み込んだ。
多分、青島は、考えすぎて、足が竦んでしまったのだ。
仮にも上司の家で、仮にもこんな事件の後だ。

彼は、いつだって人の心に敏感で、何処までも利他的だ。
排他的になる自分とは、真逆なのだ。
きっと、電話一本も指を震わせながら押したに違いない。
ひょっとしたら、朝までそこに立ち尽くして去っていくだけだったかもしれないと思うと
その優しさに、痛みが走った。



粗方水滴を拭うと、室井は黙って身体を避け、バスタオルを取り、青島を自宅へと招き入れた。
ボサボサに乱れた髪のままペコリと頭を下げて、青島が靴を脱ぐ。
擦れ違いざまに、懐かしい煙草の匂いがした。


「ほとんど荷造りしてしまって、何もないぞ」
「だと思いました」

そう言って青島が屈託ない笑顔で振り向く。
積み上げられた段ボールに、視線を送り、小さく呟いた。

「これで全部?」
「ああ」
「・・・・・そ・・・・・・っか」

それきり、青島も黙りこむ。


官舎前の道路を車が水を弾いて走り抜けた。
秒針の音が雨に混じる。
青島がおもむろにガサガサとビニール袋を漁り、缶ビールを取り出した。

「ん」

黙って差し出してくる。

室井が訝しげに受け取ると、もう一本取り出す。
いきなりそのまま、カシュッと開封した。

「はい、室井さんも」
「・・・・・」

促され、室井がのろのろとプルトップを引っ張る。
コツン、と缶の底を当ててきた。

「お疲れ様でした」


めでたいことも、祝いたいことも、労いたいことすらなかったが
青島の縋る様な、泣き出しそうな瞳に、何も言えなくなったのは室井の方で
静かに、青島の持つ缶に、縁を当て返した。

小首を傾げて、青島も哀しそうに微笑む。


「どうせあんた、夕食も食べてないかもと思ったし、俺も腹が空いてたし、途中で色々買い込んできました」
「・・・・ありがとう」

ようやく、室井の口からも、素直な感謝が零れ出た。









next     menu