ク リスマス・ローズ return match!








1.
「新城!」

鼠色のタイルに音が反響する。
室井は廊下の先に居た新城を追い掛け足を速めた。

「その・・・、良かったのか?」
「何がですか」
「君まで何故婚約を解消した。上手くいきそうだったんだろう?」
「ええ。そういう意味では」


室井が青島を連れ去った翌日。
本庁には室井が見合いを辞退したという噂が色めき立つままに冬暁に雪崩れ込んだ。
嘘か誠か、主に中傷寄りに真相を探る浮説が職員の感心を独占する厄日は円卓の空言にまで登っていた。
その僅か三日後だ。
熱風冷め止まぬ中、新城もまた婚約を大胆に白紙撤回してみせた。


「別に張り合った訳でも、とち狂った訳でもありません。条件が合わなくなっただけですよ」
「しかし――」
「偶然です。上はダブルパンチのようですが」
「――」
「室井さんが何故そこまで慌てるのですか」
「あぁ、いや」


確かに新城の結婚は室井とは別次元の所で成立する出世話であって、室井がうろたえる理由もない。
それでもこの符合が数奇な偶然じゃない気がして責任の一端を募らせていた。

少しだけ視線を彷徨わせた室井は、一つ息を吐き、冷静さを取り戻して新城をもう一度見た。
新城もまた見返してくる。
新城は敵を造らず堅実で負荷の少ない理想的なキャリアを積み上げてきた男である。
だが一方で、心を割って話せる友人や古い仲間、同期などがパッと浮かばない。
孤影の新城に踏み込めるのもまた、自惚れでなければ室井だけな気がした。


「叱られたろ」
「大したことじゃない」

結婚が恋愛と違う過失を生じさせるのはこういう所だ。
当事者意思とは別の所で多大な意思や思念が蠢いている。
今回の突然の離脱は、新城の家族を始め、親族、縁談を持ってきた叔父や、女性側の全ての親族に対し、かなりの不義理を働いたことだろう。
それは封建社会の警察内部に於いても要らぬ火種を蒔いたことでもある。

室井の脳裏にも、破談を報告した時の、局長や次長の蔑みと侮蔑の記憶が新しい。
八方を塞がれ、これを理由に服従させられる取引を、下卑た笑みを浮かばせ屈服させるだけの恥辱に
あまりに無残な地位格差だ。


「良かったのか?」
「ええ、いずれ何処かで噛み合わなくなるのなら、今でも後でも同じです」
「上に臍を曲げられたな」
「焦ってはいません」
「条件とは何だ?何が不満だったんだ?」
「何も」

何言っているんだ?という顔をして室井が眉間を寄せて新城の顔色を窺う。
それに肩を竦めて見せて、新城は窓の外を仰いだ。

「何も不満を持てなかったところが不満になるなんて酔狂ですか。こんなオチになるなんて私もかなり毒されてきたようだ」
「何があった?」
「貴方がそれを聞くのですか」

新城はまだ窓の外を眺めていたが、室井は些細な変化も逃すまいと新城を見続けた。

「今日も良い天気ですね室井さん」
「・・そうだな」
「実に長閑だ」

新城の瞳は遠い。
だが、この天気と同じく穏やかだった。

「目の前であんなの見せられてはね、こっちはたまらない」
「・・・・」
「無難に手を打っている自分が逃げているように思える」
「・・・・すまない」

とりあえず無難に謝罪を口にしてみた室井に、新城は目を眇め、視線を戻した。

「中々面白い茶番でしたよ」
「その噂は出来れば広めてくれるなよ」
「無理でしょう。暇な人間が面白がって騒ぎ立てている。私のことも含めて」
「お互い、やり難いな」
「ええ、まったく」


今度は二人で窓の外に身体ごと向ける。
真っ青の冬空が長閑に広がり、鳥が数羽群れを成して飛んでいた。


「真下のあの時の顔は見物でしたよ。見せてやりたかったくらいだ」
「煮え湯を飲まされたのはこちらも同じだった。今は同情したくないな」
「護りきれるのかと聞くのも野暮なんでしょうね」
「堕ちて行く時は道連れになる。これも愚かな茶番だと君は笑うのだろうが」
「――」

新城は明確な答えは見せなかった。
だがその気配は凪ぎのようで澄んでいる。

「その時は君の厚意を無駄にすることになるが・・・勘弁してくれ」


吐息を漏らすように新城の肩が震動した。
笑ったのだと後になって室井は気が付いた。新城がそんな風に笑うなんて意外だった。
虚を吐かれたままに室井は傍視する。

罰の悪そうに眉を潜め、新城も半眼を寄越した。

恋愛なのか同盟なのか。
新城はそれを問うことはしなかった。
自分たちの奇異なる関係に、それでも嫉妬染みたものを向けてくれる新城の存在は、結婚という共通項がなくなってもシンパシーみたいなものを残置させる。


「自分が結婚すると言ったら知恵熱を出して寝込んでくれるなんて。そんな可愛いところがあるとは知らなかった」

新城の揶揄に室井は苦みを潰した顔を見せる。
困ったような体裁が悪いような室井のその顔を瞥見すると、新城は顎を上げて勇ませた。
毒気を抜かれ、室井は口端を結んでフッと気負っていた肩を落とした。


「骨・・・くらいは拾ってくれると助かる」
「そんな気弱な発言は聞きたくありませんね。浚っていった時は颯爽としてらしたのに」
「だからその話は・・・」

困ったように眉を寄せる室井を、新城は実に素気ない顔で受け流した。











2.
「目の前!目の前ですよ!!信じられますっ?」
「まあまあ、落ち付いて」
「これが落ち付いてられますか!」
「というか署長、何をなさっているんですかもぅ・・・」


魚住が呆れたような視線でいきり立つ真下を眉尻を下げて宥める。
ここは署長室だ。
先日の本庁での一件を、行き場もなく鬱積させた真下が青筋を立てながら魚住に愚痴ながらに聞いて貰っていた。

少し零れたお茶を布巾で拭いながら魚住が隣に座る。


「大変でしたねぇ」
「だって、手に入ると思うじゃないですか!チャンスだと思うじゃないですか!期待するでしょ!脈あるでしょ!いよいよツキが回ってきたと思ったのに!」
「そんなこと普段から考えてらしたんですね」
「駄目ですか。考えますよそりゃ!キャリアですもん」
「腐っても・・・」

魚住の呟きには耳を貸さず、真下はまた立ち上がる。

「大体青島さんも青島さんだ。思わせぶりなこと言っちゃって、迎えにきたらあっさり出戻りなんだから・・・ッ」
「大体青島くんをどうしようと思っていたんですか」
「そこは――・・・」

何やら意味深に色立つ真下を魚住が不思議そうに見上げる。

「ゴホン、まあ、そこはともかく、署の体系モデルとしてスムースなシステム管理構築には彼が必要です」
「ほぉ」
「だからこれから色々協力してもらおうと思いまして。まずは秘密の関係を結ぼうと思って」
「大きく出ましたね」
「リスクを背負わない政治は時代に潰れます」
「青島くんが好きそうな台詞だねぇ」
「でしょお?乗ってこない訳がない。そう思うでしょ!?」
「相手が室井さんじゃ、ま、こうなるよね・・・」
「それがそうでもなかったんですよっ」
「というと」
「ちょっと強引だったかもしれないけど迫る僕に嫌がる感じでもなかったのに」
「強引て何したの」
「・・・・」
「・・・・」

「で。それに青島くんが応えてきたの?」
「そう!男だったら期待するのは当然!昔っからそういう風船みたいなとこあんですよセンパイ」
「そもそも弾みでしょ」

小さく突っ込んだ魚住の言葉はやはり真下に届かない。
大体室井と青島を長年見てきたのは魚住も同じである。
二人を知っている人間なら当然の帰結である。割って入ろうという発想が凄い。


「だって・・・」
一度触れたら欲しくなっちゃったんだ・・・・まるで毒に冒されたみたいに。あの感触が、抜けない・・・


「署長?」
「こんなんで僕が引き下がると思ったら大間違いですよ。恥を掻かされたままでは終わらせません」
「勝負はこれからです」
「そうです。今回は敢えて譲りますがリターンマッチです」
「室井さんに勝つ気なんだぁ・・・」

魚住のぼやきは真下の耳を素通りする。

「少なくともあの夜は確かに隙があった。僕にもチャンスがないわけじゃない。今度は逃がしませんっっ」
「もう手遅れかもねぇ」
「まだまだっ」
「だってクリスマスに年始でしょ。あの堅実な室井さんが手を打たないとは思えないけどねぇ」
「そのくらいの障害、乗り越えなくちゃ!」
「どうやって」

真下がノートパソコンを用意し開いてくる。

「僕だって同じ時間、傍にいた人間です。特に強みであるのは青島さんの性格の熟知。それを踏まえて攻略法を考えてみました」
「そんなのも用意してたの・・・」
「ネゴシエーターとしてのスキルを駆使して、青島さんの中の感情割合は属性別に分析すると今のところトントン。つまり――」


意気揚々と気合いを入れ説明を始める真下の後ろで、魚住が力無く手を叩いて演説を讃える。
ソファに凭れながら、ふと、魚住は北風の強い中、張り込みをしていた夜を思い出した。
あんな顰め面で女性と向き合う室井を青島と二人見ていた夜。

室井は魚住にとっても古い付き合いとなったが、そんな室井の眼力が強まるのは青島の前だけだ。
畏まって女性を見つめる視線は、品格はあれど、年配者から見ればその態度は行事の一環に見えた。
でも官僚である以上、背負うものは致し方ない。
独身者であることの不利も中傷も、実学主義すら貫けぬ逆風でしかないだろう。


そんな室井があの婚約を蹴ったという。
――勝負なんか見えているのに

それは誰に向けて思った言葉なのか。
様々な思惑が求心力を高め勢力が食い合う中、魚住は先の長さと自身も巻き込まれるだろう懸念に
足掻くこともまた若さであると知る目尻を細める。
ギラつかない老成の無常観で、続く真下の演説に相槌を返しながら、魚住は来年は忙しそうだと運を天に任せた。










3.
「また来たの?」
「・・・・」

開けた扉を片手で押さえた格好で、青島がうんざりした声を出した。
ラフな普段着を無造作に着ているため、肩が下がり、胸元が夜の灯りに妖しく透けている。
スーツを脱いだ男の姿は微かな色気とフェロモンで美装され、別人のような落ち付かなさを室井に植え付けた。
まだ少し、慣れない。
それでももう少し歓迎の意思を見せてくれても良いのにと、室井は渋面で睨みかえしてやった。

「お。反抗的」
「俺に対する尊重がまるでないぞ」
「師走ってそういう意味じゃなかったでしたっけ?」


あれから。
室井は毎日青島の部屋へと帰るようになった。
青島が夜勤に当たった日は抜かされたが、それでもほとんどの時間をこの部屋で過ごしている。

この先、誰にも言えない重荷と罪を自ら容認して踏み出した一歩は深甚だった。
それでも室井の中にあれ程までに鬱積していた迷いも邪念も、嘘のように消えていた。
バレたとしたら封建社会である警察は相応の罰を自分に与えるだろう。
バレなくても鎧のなくなった自分の歩む道は過酷となった。
別に好き好んで棘の道を選んでいるわけではないが、何故かいつもこうなる自分の星巡りに恨み言のような溜息も漏れる。

ただ、こいつのためなら敢えて耐えて見せようと思った。
伴侶を得るということは本来こういうことを指すのかもしれない。
結婚という契約の本当の意味を室井は強かに知る。

一人で立てない訳じゃない。
でも誰かの人生を背負い立つことは格別の意味を具える。
そしてそれが新城の指摘していた〝何もない〟ことへの解答であるかもしれなかった。


「ま、入って」

全てが解決した訳ではなかった。
まだ一つ、室井にとって最大の難攻不落の問題がここに残っている。

「メシは」
「まだだ」
「鍋だけど」
「いいな」
「熱燗にする?」
「最高だ」


室井がコートを脱いでいる間に、青島が手際良く準備をしてくれる。
あんなに不満そうな顔を見せたって、テーブルの上には室井が来ることを予想した配置で皿が並べられてあるし
鍋の中も一人分にしては多めだ。
目を走らせ心の中でじんわりと噛み締めながら室井はジャケットも脱いだ。
全く素直じゃない。


「手土産がある。缶詰なんだが」
「へぇ、どんなのですか?」

キッチンから応えながら青島が戻ってくる。
手にはビール。二缶。

「一倉がな、伝手でもらったものらしいんだが。高級缶詰だ」
「まさか賄賂?」
「違うと思うぞ流石に」
「肝心の中身は?」
「あわびの水煮だ」
「まじでー!すっげー!やったー!」

瞳を輝かせて室井の手元を覗き込んでくる。
自分の来訪にもこのくらいの歓迎をしてくれたら嬉しいのにと思いながらも、青島が喜ぶ顔を見れるのは室井も嬉しい。
二人で向かい合わせに座り込み、ビールで乾杯して、食事を開始する。
青島が鍋から取分けてくれる甲斐甲斐しさにはもう満足感しかない。


「ん、この缶詰、ぱっかんじゃない」
「ぱっかん?」
「取っ手のないやつ」
「ああ・・・」
「やべ、うちに缶切りあったかな・・」
「そこの引き出しだ」
「――、なんであんたがうちの缶切りの居所を知ってんの」
「こないだ泊まった時、荒探しした」
「何してんだよ・・・」
「先に寝たおまえが悪い。布団の位置から知らなかったんだぞ」
「ああ~・・・・」

師走の冷気で冷え切った身体が酒と鍋で優しく温められていく。
冬の鍋の醍醐味は歳を重ねる程に有難みと楽しさを噛み締める。
歳を取ることは失くすばかりじゃない。
それは人間関係にも言えて、一緒に同じ時代の同じ時間を過ごせるという偶然が、奇跡だ。


「物色するのも面白かった。色んなものが見つけられて」
「ちょっと待った。どこまで探しました?」
「枕元の裏に隠れていた卑猥雑誌に」
「・・・ッ、・・・、ま・・・っ」
「引き出しの中のコンドーム」
「なっ、・・っ、なっ」
「本棚の右端に挟まっていた女性の写真」
「・・ッ、・・ッ・・」
「隠し場所に工夫がないのはがっかりだった」
「あ、あんたね・・っ、」
「若いな。初恋の君か?」
「ちが・・っ、あれは元カノ・・っ、じゃなくてっっ。なにしてんすか、あんた!」


狼狽して慌てる青島は目尻を朱に染めて少し潤ませ、言葉も発せないでいる。
可愛いというか、この顔は誰にも見せたくないなとか。
欲が深まるのを感じながら、室井はビールから青島の用意してくれた熱燗に手を伸ばした。


「油断も隙もないっての・・・、キャリア、侮れねぇぇ」
「狭いが良い部屋だ」
「馬鹿にしてます?してますよね・・っ?」


湯気の向こう側で拗ねている青島の色素の薄い瞳が綺麗に室井を映す。
どうしても傍にいたかった。
一緒に生きてみたかった。
そんな小さな我が儘が、こういう瞬間に詰まっている。

「鍋、美味いな」
「あ。誤魔化しましたね。なんか納得いかない・・」

物事に対し脊髄反射をするように感受性が高いのは青島の方だが
一度細かいことまで腹を据えてしまうと度量が深いのは室井の方だった。

「明日は休みだよな?」
「師走に休みがあるわけないでしょ」
「年末年始に出るために休みを取ると聞いた」
「捜査済みかよ」

「泊まっていくつもり?俺にカノジョ出来たらどうすんの」
「今年も寂しいイブだったろ」
「そこは否定しませんけど・・・っ」

「ああぁあぁぁ~・・・そうだよ、いつの間にかクリスマスも終わってるよ・・・大晦日だよ・・・」
「また一つ歳を取るな。そういや今月が誕生日だったんだよな」
「・・・なんでそれも知ってんの」
「おまえのデータベースを呼び出したって言ったろ。一度見れば頭に入る」
「何?何かくれんの」
「言ってみろ」
「ゃ、やっぱいい・・・っ、あんた本当に出してきそう」
「それの何が不満なんだ」

「恋人作ろう・・・、うん、作ろう」
「作ろうと思って作るもんなのか?」
「そういう理想論言っていると一生一人モンなんですよ」
「またイルミネーションに詳しくなるな」
「~っ、くぅぅ」


箸を握り締めて悶絶する青島は、それでも取り繕っていない素の青島に見えた。
こんなことになる前からこうやって共に酒を飲む機会はあったし、会話も気負いなく普通に弾んでいたが
やはり少し何かが違う気がした。
くだけて、年相応で、むしろ幼くて、でもそういうことではなく。
どう違うのかは少し分からなくて、なんとなく室井はじっと見る。
青島が何気なく顔を上げた。
視線に気付いた青島の視線と室井の視線がテーブル越しに交差する。
パッと挙動不審気味に青島が視線を外した。


「ら、来年!恋人作ってみせますっ」
「作れるものなら作ってみろ」
「・・余裕な言い方」
「どうせ作れやしない。幸か不幸か、な」
「・・・何で?」

憤懣に任せていた戯言の空気が、途端ここで色を変えた。
室井がゆっくりと口を開いた。

「新城な、結婚止めたぞ」
「ぇ!マジ?!」
「そこに満たす答えがなかったのだと」
「・・・・」
「気付かずに済めば人は幸せなんだろうな・・・」


室井が呟くように言って、ゆっくりと酒を運んだ。
程良く温い温度がアルコールと共に喉を潤していく。
箸からグラスに持ち替えた青島も、言いたいことは伝わったのだろう、考え込むように日本酒を舐めた。
無造作に着ているせいでシャツの襟元から綺麗な形の鎖骨の窪みが覗き見える。
湯気の向こうで浮かぶラインは、少しだけ婀娜っぽくて、色男だ。
俯いたままの前髪が青島の揺れる目元を隠した。


「あんたは・・・いいんですか」
「気付いてしまった男に取れる方法など、二つしかない。孤独に生きるか、手に入れるかだ」
「どっち・・・取るの」
「――、答えても良いのか」
「あの女性・・・あんたのカノジョ、待っているかもしれないですよ」
「挨拶当日に朝帰りした男に用などあるものか」

実際、交渉は少し難航した。
でもそれを青島に告げる必要はない。
室井が背負う室井の代償だ。

「来年には俺にもカノジョがいるかもしれませんよ」
「恋ってやつは厄介なものだな。そう簡単に見つかったりはしない」
「・・・怖く・・・なりましたか?」


それには答えず薄ら笑いを浮かべただけで室井が瞼を伏せると、青島は困ったように横を向いた。
こういう所が青島の真の優しさだと室井は思う。
大雑把さででたらめな楽観を与えておきながら、適当な気休めを口にしたり短絡的な理想論を押し付けたりはしない。
深く同調し、相手の痣を慮る。

テレビを点けていなかった部屋は会話が途絶えたせいで鎮まり返った。
沈黙を持て余したように青島が腰を上げた。

「缶詰。折角だから開けてみましょうか」
「そうだな、一倉が美味いぞと自慢していた」
「引き出しって――ここ・・?げ。ほんとにあるよ・・・」
「貸せ」


粗方食べ終わっていた鍋を下げ、本格的な飲みの態勢に入る。
室井が缶詰を開けて用意している間に、青島は酒の肴になりそうなものを探しに台所へ向かい
その足が手前で止まった。

「ねぇ、シャンパンがあるんですけど、呑みます?ちょっと時期外れちゃってますけど」
「どうしたんだ?」
「そこの商店街の福引で当たっちゃった」
「幸運な奴だな」
「ついでにキャンドルでも立てちゃいます?」
「やる気満々じゃないか」
「ちょっと待ってて」


そういって冷蔵庫に冷やしてあるボトルを持ってきた。
そのボトルを受け取り、室井はしげしげと見降ろす。フランス産の有名メーカーラベル、750ml。
そこそこ高品質のものだ。

あまりに室井が凝視しているので、青島が小首を傾げた。

「室井さん?」


その瞬間、室井には全てが分かってしまったのだ。
これは昨日今日調達したものじゃない。
これを景品として当てたのも、嘘かもしれない。
本当だったとしても、その瞬間から、青島は室井と一緒に呑もうと思っていてくれた筈だ。
だから封も切らず、きちんと冷やして取っておいた。
他の人間と飲むつもりなら何週間も冷やしておく理由がない。さっさと飲めばいい。飲めるだけの猶予は合った。
自分一人で飲むつもりなら正月にでも出せばいいし、室井に教える必要はない。

そういう下準備を抜かりなくするくせに、青島は、最後の一歩は運に賭ける。
遠慮して踏み出せない。
欲望のままに相手を動かさない。
室井に電話を掛けることも呼び出すことも出来ないし、室井が部屋に来なければ、このシャンパンすら話題にすることはないのだろう。
こんなにも室井のために色々と考えているくせに。

そういう男なのだ。
だからこそ室井は彼と共に人生航路の舵を切る決意が出来た。


「ぁ、嫌いだった?」
「好きな銘柄だ。有り難く頂こう。ワインオープナーはあるか?」
「あ。そっか、そうだよな、どうだろう・・・・そんな洒落たもん、うちにあったかな」
「流石に俺もそこまでは見かけていない気がする」
「んん~・・、ちょっと待ってて」

細々としたものを押し込んでいるチェストを青島がごそごそと探る。

「なさそう・・・、そういやこの家でワインなんか開けた覚えないや。しまったな、どうするか・・・」
「さっきの缶切りで開けるか」
「缶切り?そんなんで開けられんの?」

青島が持っていた如何にもな形の缶切りは最新型のではなく、こういう昔堅気のタイプには尻にワインオープナーが隠れている。

「そっか、そんなとこにそんなものがありましたっけね」
「意外と見落とされがちだよな」
「良く知ってましたね」
「酒は色んな席で嗜まれるからな。機会の差だ」
「接待じゃウェイターさんが開けてくれるでしょ」
「いや、肴というか、ネタというか」
「ふーん・・・・、じゃあ、これもなかったらどうする気でした?」
「その時は・・・、そうだな少々荒技になるが、これは炭酸だろ。だから底を壁に数回叩き付ければ・・・、空圧で、多分、開くと思う」
「うひゃぁ~」
「そんな感心することじゃない。酒呑みの意地汚さだ」


ポンと甲高い音がしてコルク栓が開いた。
どくどくと白い泡が吹き出してくる。
慌てて青島がグラスを差し向ければ、室井が優雅な手付きで注いだ。
ビールグラスだが、淡黄色の液体が細かい泡を浮かばせながら上品でエレガントな芳香を芳せる。
青島が嬉しそうに光にかざせばその透明な美しさが光を乱反射させた。

二人で目線を合わせて、同時にグラスを鳴らす。

「うまーい」
「よく冷えてるし喉越しもいい。これは進むぞ」

室井が素直に感想を述べたら、パッと青島が華が咲くように綻ぶ。
嬉しそうにそのままもう一口含んでから、青島が腰を上げた。
元居た居場所に戻ろうと膝立ちになる。
その手を間髪入れずに室井は掴んで引き留めた。
離れていく、そう思った時には、動いていた。もう離れたくなかった。
青島が驚いたように振り返る。


「もういいから。ここへ座れ」
「いいよ別に。こっちで」
「隣へ来いと言っているんだ」
「・・っ」

少し強めに強請ると、案の定青島は固まった。

「嫌か?」


空気が変わった。
肌に突き刺す様なピリピリとした緊張と熱を感じながら、室井は返事を待った。
青島はどう出るか。
散々迷った末に、青島は渋々と身体を戻してきて室井の隣に座ってくれた。
ちょこんとまとまり、不貞腐れたような顔を向けるから、室井はじっと見る。

呼吸の速度も分かるくらいの距離。
先程も感じた違和感が室井の中で此処に来て繋がった。
不自然な空気は、青島が、意識してくれているからだ。
室井との関係が少し変わってしまったことに、距離感を失っていて、まだ照れているからだと分かった。

キスも済ませた大人の男同士なのに見せる初心な反応に、そこまで意識が向かなかった室井を密かに苦笑させる。

ほぼ毎日ここへ来ては二人で過ごしていたが、ずっと感じていた何となく妙な塩梅の悪さに気付きながらも
室井もまた、自分の気持ちに手一杯で気付けなかった。

ニヤけるのもどうかと思い、室井は嬉しさ隠しにそっぽを向いてワインを含んだ。
青島も反対側を向き、明後日の方角に視線を投げている。

なんだろう、この擽ったさは。


並んでグラスを傾けるタイミングまで揃う。
黙ってキャンドルも焚いて、炎が揺れるのを見ながらアワビも食べて。
シャンパンは辛口で爽やかさとキリッとした飲み応えが喉に心地良かった。
青島の持つ、薄緑色の輝きが炭酸を浮かせて宝石のように見える。
いつかいいことあるなんて幼稚な未来図を描くだけの若さはなくなったが
それでもこの時期外れのクリスマスは悪くないと思った。
偽物のイブだって、楽しみたい人と楽しめたのなら、きっと間違っていないのだろう。

今夜を青島と過ごせてただ素朴に幸せだと思えた。
面映いその熱さのままに身を寄せ、室井は青島の頬にそっと口唇を押し当てる。
直前で気付いた青島が身動ぐように肩を竦めたが、構わずそのまま頬を掠めた。

「な・・っ、む、ろぃさん・・っ」

俯く瞳にシャンパンの泡が移り込んでいて、少し頬を染めた青島が触れた頬を片手で押さえる。
なんて顔をするんだ。

「どしたんですかっ、急に」
「先にキスくらいさせろ」

口唇をそっと指先で辿れば、青島はこれ以上ないというほど真っ赤になった。
あの夜以来だった。触れるのは。
照れて避けようと抵抗する手を掴み取る。
戸惑った瞳が慌てて、揺れて、伏せられた。
青島の持っているグラスを取り上げ、室井は身体を向き合わせた。
逃がさない気迫を感じ取ったらしい青島がピクリと怯えを覗かせる。

「そろそろ答えをくれないか」
「!」
「こんな風に傍にいて、でも曖昧なままなんて中途半端なことは避けたい。けじめを付けたい」
「俺、あの日断りましたよ・・・」

もうお互いの気持ちは分かり過ぎる程、分かってしまった。零れてしまった。
好かれていた。好きでいることを許された。
長い間、独り善がりだと思い秘めていた恋情は咲くことなく散る筈だった。
もう隠さなくていい。もう抑えなくていい。
それが室井の最後の理性を冒していく。

じわじわと瞼の裏で炎のように決壊を破る毒素は解毒剤を持たない。
絡み取られて青島に身動きとれなくなっていく。
こうして傍にいることに明確な確約が欲しい。誰かに盗られる隙をもう残したくない。

「違うか・・、言い訳だな。俺の方がもう、限界なんだ」

室井は掴んでいた手を離し、強い力で肩を掴み、瞳を深く覗き込む。
図らずも自分の元へ落ちてきた想い人をここで逃がすわけにはいかない。

「君がどういう結論を出そうと俺の気持ちは決まっている。だが、君の傍にいて理性が持つかは・・・約束出来ない」
「な・・っ、っ!」
「仕方ないだろう、嘘じゃないかと思うぐらい・・・君が欲しいんだから。この手で確かめていないと信じられないぐらい・・・不安な んだ」

はっきりと、欲しいと言い切った。それは男として欲情するという含蓄を青島に伝えるものだ。
答えを待つ室井の瞳は真っ直ぐで、逸らされることはなかった。
あの時とは違う、覚悟を定めた男の瞳に、青島は絶句したまま、視線を外した。

「俺はまだ待たなきゃ駄目か」
「待たれても・・・困るよ」
「おまえの傍で歩いていくその重責を、おまえに背負わせるつもりはない」
「んな、勝手な・・・」
「まだ迷うか」

青島は小さく頷き横を向いた。

恋愛を始めることと結婚放棄は似て非なるものだ。
室井にこの先の結婚可能性を全て消滅させるということは、恋の代償だけでなく家族親族を巻き込む一大事件となる。
事件、そうだ、彼らにとっては惨禍だ。
昔は簡単だった一言が、どうしても言えなくなるのは、青島が室井を大事に想ってくれているからだ。


「俺が幾ら言っても君には確かに重たいものを背負わせてしまうか。だが、頼む。覚悟を決めてくれないか」

戸惑いを隠せず、動揺した身体を反らそうとする青島を、室井が堰き止めた。
今重く圧し掛かるこれこそが結婚という社会システムだと青島は思った。
プロポーズしたことはなかったが、こんな覚悟を持って世の男たちは女性を娶るのか。

「俺・・・は・・・」

苦しそうに、泣きそうに、青島が顔を歪ませる様子を室井は痛まし気に瞳に映す。
ここまで自分を想い慕い、胸を痛めてくれるひとが、かつて居ただろうか。
好きなくせに。きっと、俺が、すごく好きなくせに。

堰を切ったように溢れる自分の恋情に自分で窒息しそうになる。
ああ、こいつが、本当に好きだ。
こいつを好きになって良かった。

随分と昔、海に消えた女が脳裏を掠めた。
どれほど彼女が深く室井を愛してくれていようとも、彼女はたった一人で決断し、重荷を背負い、そして室井に残す痣を顧みず、海に消えていった。
最後の方は何も――何一つ、話してはくれなかった。
深く重い愛情は幸せだったけど、行儀良すぎた愛は切なさだけを痣とした。

告げることで苦しめるのだとしても、想い合いすぎることで擦れ違い、伝わらなくなって逸れることは、もうしたくない。

「もう一度、言おうか?」
「だめ・・・」

青島が指を伸ばし、室井の口をそっと押さえる。

未練はどれも冷たい醜さを連れてくる。
こうしてほしかった。
もっと優しくしてほしかった。
行き場を失った温情は今も凍りついたままだ。
だから、青島には全てをぶつけたい。
だけど青島がそんな過去も未来も全て攫っていった。告げられるその幸福と奇跡に室井は目を細める。
届かない想いがクリスマスの魔法で重なった奇跡を、ここに願う。

踏ん切りがつかないと嘆くならば、俺が始めさせてやる。


室井もゆっくりと指先を伸ばし、目の前の愛しい宝物にそっと触れた。
自分の口許を抑える青島の手を握り締めれば、青島がハッと固まった。

「・・あ・・、その・・」

師走の街を賑わせた象徴的な赤は目に眩しい。誰もが青島の劇場型のパフォーマンスにポインセチアを意識するのだろう。
間違っていはいないが、本当の彼はその影でひっそりと主役を浮き立たせるクリスマスローズのような男だ。
ささやかで、優しくて、沈黙していて。
皆が騙され気付かぬのならば、それでいい。室井だけに見えるその色を独り占め出来るのだから。
触れれば毒に冒される。それさえも本望だ。

傍に居たい。
気持ちが溢れてくる。満ちてくる。
世界中の誰もが間違いだと批難したって、この気持ちを蔑むことは生涯ないなと室井は思った。

到底手に入らない高根の花だと思っていた。
そんな彼が自分と同じ気持ちでいてくれるなんて。
もし叶うなら。

誘い込まれるように強く深く室井が見つめ、顔を近づける。
困ったように口唇を尖らせて青島が上目使いで睨んでくる。
それすらも愛おしい。

「んだよもぉ・・・」

まいったなと呟き、青島が顔をくしゃくしゃにした。

「彼女の前ではあんな堅苦しい顔をしてたのに・・・そんな不意打ちに笑うとこ見せるとか、反則だ」
「気張っていた。ずっと。彼女は権威と肩書で繋がっていたから」
「・・・、俺にはもっと、我儘でいいですよ・・・」


室井の憑物が取れたような清々しい顔は覚悟を決めた精鋭に満ちていた。
その瞳が青島を映す時、強く鋭気に潤っていく。

青島の指先が、室井の目尻をそっと辿る。
その手も室井はしっかりと強く掴んだ。
少し見開かれた目が室井を映す。
青島の蜂蜜色の瞳に室井が移り込んでいる。

言葉はなく見つめ合った。他に音はなかった。時間が止まっていた。

ゆっくりと熱に浮かされたように、少し視線を下げた青島が室井へと顔を傾ける。
引き寄せられるように室井も近付いた。
ぎこちなく戸惑って、近付いて、引いて、やがてその瞼が震えるように伏せられると、先に青島の紅い口唇がそっと触れてきた。
ふわりと重ねられた時、青島の閉じた目尻が一粒の光を放つ。

柔らかく触れるだけのぬくもりに、室井は眉間を寄せて険しく息を止めた。
泣きそうなほど気持ちが禍々しさを浄化しシンプルになっていくのが分かった。

軽く離れた熱を追い、ぼやけるほどの至近距離で瞳の奥を覗き込む。
一拍遅れ、室井の世界が弾け、両手を青島の背中に周して一気に引き寄せた。

乱暴に背筋が折れる程掻き込み、しっかりと口唇を塞ぎ直した。
力任せの男の力で抱き潰し、確かな想いを力で示す。
激しく貪るように口唇が重なり合った。

ソファの上で身を寄せ合い、熱い息を混ぜ合い、深く塞ぎ合う。
忙しなく擦り合わせるそれは獣のようで技巧もなにもないままぶつかりあった。
思いの丈を注ぎ込むように舌で甘い弾力を割り裂き、掻き回してから絡め取る。
きつく吸い上げる。

「・・ん・・っ、・・っ」

突然の猛攻に青島が上擦った息を漏らした。
ゾクリと栗立つ肌を意識しながら、それでも追いかけ押し付けてくる可愛さに、そこで室井の理性も切れた。
暴力的な接触にも構わず、擦り合わせる角度を変えて何度も重ね直す。その度ごとに口付けは深さと密度を増して官能を帯びていく。

「ばっかやろ・・っ、本気で見捨てられンのかと思ったぞ・・・ッ」
「んぁ・・っ、ごめ・・っ」

顔を包み込むように撫ぜ、髪を掻き混ぜ、顔を傾ける。
酸素を与える隙もなく、室井が粗雑に口を塞ぐ。
いつの間にか青島の手は室井の首に周り、その髪を刺激に震えた指に絡めていた。
室井は青島の腰に手を回し、身体を密着させて更に強く引き寄せる。
多少痛みを伴う強さで舌を奪えば、青島が切なそうに息を途切らせた。

こんな、先の見えない愛に踏み出すなんて意味がない。
いつかきっと懺悔と別離の決断がくる――

でも、それは、今じゃない。


男の力のままに抱き寄せた身体はくしゃりと室井の腕に収まっていた。
肺から息が漏れた音で、青島が耳元で囁いた。

「俺ッ・・が、必要・・ッ?」
「ああ・・ッ」
「俺が・・っ、欲しいんでしょ・・ッ」
「ああッ」

引き千切れそうな衣擦れの音が空気を遮断する。

「ん・・っ、もぉ、根負け・・ッ。あんたには一生、勝てそうもないや・・っ」
「それはこっちの台詞だ・・!」
「ま、責任とって先のことはあんたが考えてよ・・・」


あ、今、俺に責任丸投げしたなと、室井が肩越しに柔らかい小さな笑みを残す。
だが、抱き締められている青島はそれに気付くことはなかった。

何を与えてやれなくても、何を生みだすことはなくとも、確かに深まるものはある。
そして、大切にする一番の方法も。
それはずっと傍にいることだ。



「大好きだよ・・・室井さん・・・っ」

首元から小さく聞こえた声に、今度こそ室井は胸が詰まって息を殺した。










happy happy end

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すべての皆様に素敵な聖なる夜が訪れますように。MerryChristmas!
20161225
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