ク
リスマス・ローズ 5
12.
「あ、新城さんだ。どうも~」
「なんでここにいる」
へらっと笑う青島に新城はあからさまに顔を曇らせた。
それを青島は嬉しそうに顔を綻ばす。
本当に目の敵にしているのなら、視線も向けない無愛想で良いわけで、つまりはこれは新城なりの親愛の情であることを青島は察している。
そんなことを分かるようになっているのだから、ここも長い付き合いだなと感慨深い。
「署長のお伴でね」
「都合の良いアッシーか。似合いだな」
「それ死語じゃない?・・・最近うちの署長、人使い荒くて」
「こんな時間から御苦労なことだ」
「俺、目を付けられちゃってるみたいなんですよね~。なんとか言ってくれません?」
「目立つのは今に始まったことじゃないだろ。知るか」
肩を竦めて重そうな書類を持ち直す新城の横に立ち、青島が石柱に軽く背を預ける。
吹き晒しのホールは西日を斜めに射し込ませてオレンジ色に染まっていた。
足元を抜ける北風が青島のくたびれたコートの裾をを揺らす。
ポケットに無造作に突っ込んだ指先は悴んでいた。
足を止めた新城もまた、急ぎの仕事がある訳ではなかったのだろう。
コートは着ていないままに、白く光るタイルの向こう側に眇めた目を向ける。
「新城さんも、ご結婚するそうで」
「珍しくないだろう」
「ま、ね。結果オーライ。オメデトウゴザイマス」
「殊勝だな。年貢の納め時などと憎まれ口を言うのかと思った」
「それ、俺をダイブ誤解してますけど」
「お前は独身で行くのか」
「痛いとこ突きますね、モテないって言ってます?」
吐く息は白い。
渇いた冬の大気が清涼感を持って身を包んだ。
本庁にはまだ沢山の人が仕事をしているだろうに、裏手となるこのホールは時を忘れたように静かだった。
「この間室井さんと会ったぞ。結婚の収穫に付いて意見を交わした」
「・・・、なんで俺の顔見るとみんな室井さんの話題するのかな」
「そりゃセットだからだろ。・・・嫌なら離れればいい」
少しだけ青島の虹彩が憐憫に溶ける。
見逃さなかった新城の見透かす様な眼差しに、青島も気付き、味気なく空笑いしてみせた。
「そうだね・・」
「野放図のようないつもの意気込みはどうした」
「あのひとはさ、意外と情が深いから・・・、でも、もう問題ない・・・」
もう終わったから。
年の瀬に抜けた大きな毒の穴は今も拭い去れぬままに虚無を残していた。
注がれる豊かな情愛も雪と共に消えていった。
時が止まったような本庁ホールの空白は、手負いの痣が癒えぬ心に波紋を投げかけない。
深呼吸するように、青島は冬の空気を肺に吸い込んだ。
靴音が響く。
所用を終えた真下が戻ってきたようだった。
顔を上げた青島の虹彩に最後の落陽が反照し、真下を認めると揺らめきに翳った。
先日の一件から、強引に迫ってくることはないが、真下はこうして青島を以前よりあからさまに連れ回すようになった。
係長としての統括があるから、仕事終わりを見計らったように、夕方頃、不意に刑事課に顔を出してくる。
勿論一署の署長ともなれば専属の送迎士はいる。
なのに敢えて青島を指名する辺り、あの時のキスは冗談ではないことを、何も明確にしないままにこうして鎖として植え付けてくる。
真下が何も言わないから、青島も告げる隙がない。わざわざ蒸し返したくもない。
あれを単なる慰めだと言ったのは、他でもない真下本人だ。
真下が新城を目に留め、眩しそうに細めた。
「あれ、新城さんじゃないですか。お疲れ様です~偶然ですね」
「ああ」
「めっきり冷え込んできましたねぇ」
「忙しそうだな」
「全くですよ。今日も呼び出されちゃって」
真下を見遣りながら新城も適当な世間話に興じる。
キャリア二人の会話も所轄と大差ないなと思いながら青島は一歩下がり様子を見守った。
「歳取ると一年って早くないですか。もう今年も終わりですよ」
「年単位で暦を意識している内は順当だということだ」
「流石ですね・・・でも忘年会とか忙しいでしょ」
「つまらない付き合いは数知れないがな」
「あ、今年のイブは違ったんじゃないですか」
「それもどうだか」
「そうだ、言ってなかったですよね。ご婚約おめでとうございます。いやぁ、新婚って良いもんですよ」
適当に話を進める真下に青島は後ろから小声で突っ込みを入れる。
「まだ式も籍も未定」
「いいじゃない、おめでたいことなんですから。ねぇ?」
「前の署長に似てきたね・・・」
「何ですって?」
「いぃえぇ~」
ひょいと肩を竦めて青島がまた一歩下がる。
触らぬ神に祟りなしだ。
その青島を、真下は手首を掴んで引き留めた。
訝しげに振り返る青島を余所目に、真下は話を続ける。
「今度の内示、楽しみですね」
「露骨だな、お前は」
新城が物怖じしない真下の口ぶりに鋭い視線を走らせる。
「隠してもしょうがないんで」
「他では謹んでおけ」
「分かってますって」
真下の意図が読めず、青島は探るように視線だけを真下の背後から向けた。
自分とほぼ変わらない身長と背丈。少し低い。平均的日本人体型ながら頑健な肉付きの質感はやはり生粋の官僚であると伺わせられる。
官僚は外見もまた物を言う世界だ。
この身体に圧し掛かられた体積は今も覚えている。
横顔は笑ってもなく、こちらに意識も向いていなさそうだった。
なのにしっかりと手首に指を巻かれ引き寄せられる。
「そう言いながらもお前は恋愛結婚だろ」
「でも僕はほら、他にカードありますから」
新城と真下の他愛ない会話は続く。
「それが効くのもそろそろになる」
「効く間はと」
真下の手はかなり力が入っていて外れない。
掴まれていることが恥ずかしく、意味も分からず、青島は真下の手と顔を交互に見るが、真下は意に反さなかった。
きょろきょろと辺りを窺った。
不審な動きに幸い気付くような人影はここにはなかった。
新城が一瞬だけ青島に気を流しそこに視線を走らせる。が、直ぐに立て直す。
「欲しいものは何でも強請れば手に入るおぼっちゃんか」
「そこはお互い様です」
ニヤリと新城が笑みを漏らせば、合わせて真下も口端を持ち上げ人差し指を立てておどけてみせた。
意気投合しつつある二人の横で、青島は軽く腕を捩るが、真下の指は外れなかった。
まるで飼い犬に首輪を付けるように、逃がさないと、それは更に強く纏い付く。
腕力というよりは身分と官等の禁圧だった。
服の上からだが男の力で握られて、青島は少し眉を潜めた。
「でも僕はそこまで上を目指していた訳ではないですからね、気楽なもんです」
「本当に要領の良い奴だな。それで一所轄の長に収まっていれば世話もない」
「一度撃たれたことがあるでしょ。人って死に掛けると人生観変わっちゃうんですよ。今は可愛い妻と息子が愛しくて」
「それだけじゃないだろ」
「新城さんは狙うんでしょ、あの椅子。今その話題で持ち切りじゃないですか」
「ふん」
「羨ましいなぁ」
真下の言葉にゾクリとして青島の抵抗が止まる。
トップの座を争う人間へと成長した新城と、それを抜けた真下。
死に直面した人間の主義が胸を抉る。
それは忘れかけていた青島の中の亡霊もまた誘き出した。
命を零しそうになった時、人は確かに縋るものを誰かに求め、もっとと後悔を抱く。
青島もまたそれは知っていた恐怖だった。
誰も信じられなくなる階級社会を迷うことなく突き進む新城の変わらぬ覚悟は命の対価であるだろうし
別の道を選んだ真下も相応の覚悟あるのだろう。
背負うもの、護るものがある人間の背中は逞しく神聖だ。
妻を、息子を愛する想いもまた、事実だろう。
立場も価値観も違えど、この二人は紛れもなくキャリアで、それぞれの畑で勝ち取っている。
だとしたら、この手は何なのだろうか。
使い捨てられる自分自身の中途半端な存在感の希薄さが不意に不穏な色を浮かべる。
人の造形が無機質にさえ思え、惨めに思わされた足搦みが、急速に濃度を高めて迫った。
「保守的に生きるのも否定はしない」
「ま、その分、影に埋もれて欲しいものは何でも手に入れていきますから僕」
青島の抵抗が少しフリーズしていた。
その様子を適時に察した新城が、時は満ちたとばかりに意識を向けた。
「で、それもか」
新城が顎を上げ、真下の手元を指摘する。
瞬時に察する真下が悟了の瞳を向けた。
「ええ、勿論」
「手懐けるには野生すぎだな」
「ライバルもいなくなったようなんで。そこは時間をかけてゆっくりと」
「成程。いい趣味だな」
「お褒め頂き」
褒めてねーよと青島は内心突っ込むが、怖くて口を挟めない。
決定的なことを言われてしまえば困るのはこちらなのだ。
恐らく真下もそれを見越している。
「リスクは大きいけどアドバンテージも高いから」
「それはどうかな」
新城の瞳が不意に不敵に翳る。
「どういう意味です?」
「それを使いこなせる器であるかを試されることでもある」
「時間は平等ですよ、僕だって同じ時間傍に居た」
「勝てると思うか」
「ええ」
「大した自信だな」
「敵前逃亡されたら勝ち逃げするまでですよ」
フッと気配を緩めた新城が真下の肩越しに青島へと視線を流す。
「――と、いうことだそうだ青島。いいのか?」
「良くねーよ!言っている意味も分からないって!」
青島が新城に振られてようやく呪縛が解けたように意思を早口に捲し立てた。
だが真下は飄々と肩を竦めて往なしただけだった。
手首は掴まれたままだ。
「いいんですか、青島さん、そんなこと言っちゃって。この先、キャリアの道だって拓けるかもしれないのに」
「そんなことどうだっていい!」
「青島さん、ここは本庁です。少し謹んで」
「おま・・っ」
掴んだ手首はそのままに、真下が口元に人差し指を立てる。
眉を寄せて、青島も声を落として顔を近付けた。
「まさか俺を本店に連れていく気じゃないだろうな」
「ご不満ですか」
「俺は所轄を離れるつもりはない・・・っ」
「でも今、父を通して色々と言ってきちゃった」
「何してんだよ!」
「どうせ逃げられないんだし、ここらで観念してみませんか」
「・・なっ」
「嫁も紹介出来るかもしれないし・・・大人しく僕の飼い犬になりましょうよ」
「冗談っ」
「それとも破滅してみます?」
「・・っ」
雲がかかったのか、太陽が沈んだのか、辺りが誂えたように衰微していた。
真下は明らかにあの夜のことを言っている。
追求されれば真下だって危ういが、だからこそ青島が拒絶する筈もなく、行き場もなければ従う道しか残されていない。
真下は自分の価値というものを、良く分かっているのだ。
「脅す気かよ。おぼっちゃま気質、抜けてないですねっ」
「そこはセンパイ、お互い様です」
急に昔馴染みの呼び名に変えて親密さを見せ付ける。
しかも新城の前で。
青島はその巧妙な罠にゾクリと泡立った。
これは真下の最初の関門であり、めくるめく産声を上げる人生計画の開幕だ。
この先は真下の配下であり部下であり忠実な犬であることを周囲に知らしめ納得させ、誰にも手を出させないよう雁字搦めにし
やがてそれは当たり前に周りが受け止めていく地盤を造り上げていく布石となる。
囲われ自由を奪われる一方で、真下が見せる未来予想図は、それなりに青島を満足させた。
男なら開拓してみればいい。
新しい風を巻き起こせるというならば、それを拝んでみたっていい。
時代が幕開けていくのなら新たな繋縛は虚無感を埋めてくれるかもしれない。
真下の口ぶりはおどけた戯れだったが、目は微塵も笑っていなかった。
そこまで必死になって自分を取り込もうとする姿は可愛くもある。
情けなくも可愛い後輩だ。
青島が呆れて力を抜く。
額を寄せたままの距離で上目遣いに探りを入れる。
キャリアの属性は様々だ。
だけと戦う男に相違はない。
青島の瞳が悪戯っ子のようにくるくると煌めいた。
「なら、そっちも色々保証してもらわないと」
「交渉次第で」
「だったら、楽しませることをお約束するよ」
「そうこなくちゃ先輩!」
「後で文句垂れるなよ、俺そこまで――、・・・ぅわ・・っ」
突然だった。
青島が言い掛けた時、いきなり後ろから二の腕を引っ張られ
何の警戒もしていなかった身体はあっさりと後ろにバランスを崩した。
気配すら感じなかった。
ふわりと浮遊感に青島の身体が舞う。
傾いた身体を支えようと一歩後退すると同時に、トスンと何かに当たり、人らしき胸板に背中を預ける。
不味いと思うのと、助かったと思うのと。なんか知っている感触だと思うのはほぼ同時で
振り仰ぎ、またびっくりする。
「なん・・・っ」
「・・・・」
顔色一つ変えず、室井が青島の二の腕を掴み、真下を鋭く威圧していた。
発するオーラに息を飲むままに、更に室井に手前に引き寄せられる。
ふわっと後ろに青島の身体は流れて、室井の掴んでいた手は二の腕から手首に移動した。
逆に油断していたこともあり、真下の手からはするりと抜け出せていて、驚いたままに青島は室井を凝視する。
傾いできた青島を室井はそのまま背中に庇うように下げた。
一言だけ放つ。
「青島を、連れていく」
あらゆる意味にも取れるその言葉は、ホールに静かに残響した。
恐らく室井自身、百時の意味に取れる言葉であることを承知している上で発した。
何故ここに室井が。
どこまで話を聞いていたのか。
真下の思考が散在し反応が一瞬遅れたのを余所に、室井が更に踏み込んだ。
「いいな」
それは誰に向けて問うたものだったのか。
静寂が訪れた一瞬の間を、完全に支配したのは室井だった。
やがて我に返った真下が慌てて訂正をしてくる。
「・・っと、駄目ですよ、車――・・・・」
徐に室井が青島の胸ポケットに勝手に指を突っ込み、何故そこにキーがあると分かったのかと周りが戸惑う間もなく目的のものを取り出し
それをヒュッと切音を立てて背後に放り投げた。
「お帰りだそうだ。中野くん、送ってやってくれ」
「畏まりました」
中野がキーを受け取り、恭しくお辞儀をする。
そのまま室井は踵を返し、青島を引っ張ってその場を立ち去っていく。
引き摺られるように青島が、真下と室井を交互に見比べながら、まだ状況から浮上出来ていないままに千鳥足になる。
「ちょっ、ちょっと、室井さん・・・っ」
室井は足を緩めることなく迷いない足取りで進んでいく。
青島の声が徐々に遠くなる。
小さくなっていく影を、新城と真下は唖然と見送るしかなかった。
何故捨てた男が取り返しに来るのか。
今何が起きたのか。
一部始終を興味深げに傍から見ていた新城は、さも可笑しそうに頬を持ち上げた。
そうこなくては人生は面白くない。
*:*:*:*:*
「ちょ・・っ、ちょっと室井さん・・っ、どこまで行くんですか・・っ」
「・・・」
「もっ、・・追ってきてませんて・・・ッ」
裏口の奥手まで来てようやく室井の足が止まる。
手首を掴まれ引っ張られたままだった青島は困ったように室井を見た。
ビルの向こうまで沈んだ紅日は濃い残照を見せ、辺りは弁柄色に染まっている。
そう言えば、歯車が狂い始めたあの時も、こんな夕暮れだった。
室井の丁寧に撫でつけた黒髪が同じ色に染まり、姿まで大気に溶け込ませていた。
逆光になっている青島の髪は風に揺れて金色に光の粒を奏でる。
「あの・・・」
車通りもなく人影もない周辺はただ静かで、風だけが吹いていた。
静寂の中、離してくれと言う意味を込めて青島は視線を自分の手元に落とした。
しかし室井は更に強く握り締めてくる。
「真下と行くつもりか」
「は?」
どこまで聞いていたんだろう。青島は首を傾げる。
「君の狙いは一課ではないだろう」
「あんなの言葉のあやじゃないですか」
「ここは本庁だ。政治の場では全ての言葉に意味が付随する。軽々しく発言するんじゃない」
「実質俺を本店に迎えるなんて真下にだって無理ですよ?」
「君のやるギャンブルの様な取引とは訳が違うんだ。責任も取れないくせに軽はずみなことはするなと言っている」
「・・ッ、何であんたにそこまで言われなきゃならないんですか」
理由も分からず突然叱られて、青島はぶぅっとむくれて頬を膨らませた。
青島とて政治の恐さを知らない訳ではない。真下と新城が相手だったから乗った軽口である。
頭ごなしに叱られては不満も募る。
室井も流石に言い過ぎたと思ったのか、眉間を深め、鋭く尖らせていた気配を緩めた。
掴んだままの手首はそのままに夕陽の名残を刺す瞳を青島へと向けた。
「君の言う相棒とは誰でもいいのか」
「いいわけないでしょ」
「・・・、いや、違う、こんなことが言いたい訳じゃない・・・」
それは頼りなく空気に溶けた。
堅実な室井らしくなく言葉が纏まらない姿に、青島は急かすことはしなかった。
形だけは酷く親密な距離を保つ間近さは、終わらせた筈の幻影を造り出してくる。
例えそれが偽りでも常識的な愛着も同居させる。
友達と恋人の境目を決めた以上、弁えねばならぬ想いがある。
暫く黙ったままでいた室井は、物理的な距離は変えぬまま少し低い声で応えを返してきた。
「これから、どうしていきたいか。聞いてもいいか」
「どうするって・・・別に」
「俺は離れるつもりはない」
そう言えばいつの間にか一人称も変わっていた室井の声を、ただ手首だけの檻で閉じ込められながら青島は漫然とした瞳で聞いた。
「終わったんでしょ、俺たちは」
「終わらせたつもりはなかったが。・・・君の言う終わるとは?」
「気に掛け合う、働き続ける、それで充分なんじゃないんですか」
「随分と消極的だ」
「精力的に生きるには歳を取り過ぎちゃいました」
「君は私より年下だと思ったが?」
「それ以上の何が必要ですか」
「逆に問いたい。それだけで何を満たせるんだ?」
「――・・・」
あんたで満たすことは前提と出来ないだろ。
返す正しい答えが見つからなくて眉尻を困ったように下げた青島に、室井は焦れるような瞳を向けた。
掴まれたままの手元が熱く、近付けも遠ざけもしない距離を保つ。
「君の・・・涙と、気配が――消えないんだ。もう、ずっと」
「――、そんなこと・・・言ったって」
「これから先も道は続く。結婚したって偏見は根強いし縁談を蹴ったからには中傷も多いだろう。出世に必要なものは何故かにみんな零れていく・・・」
淡々と昔話をするように語る室井の口調はどこまでも穏やかだった。
それをただ青島も黙って耳に入れた。
「この先もやり辛い道になるのだろうと思う。そんなキャリア人生に悔いが残るのだとすればそれは、状況ではなく過程だ」
「過程・・・」
「どこまで戦えるかと考えた時、俺は彼女のためには耐えられないと思った」
「・・・・」
「どうせ壊れるのなら、俺はおまえに留めを刺されたいと。そう思った・・・他では嫌だ。君の手で切り裂いてくれ」
「馬鹿なこと言うなよ・・・それにあんたには・・・」
青島は俯いた。
その先に自分のエンジニアブーツのトウを映す。
口籠る途切れた息が苦しげに青島の口端を震わせ、吐く息を薄闇に淡く溶けさせた。
「俺・・・断りましたよ・・・」
情が強く盲目的に自分を認める室井のその妄執は、そのまま自分の中の一途な愛慕を共振させてくる。
あの夜の不必要に鮮明な記憶が青島を苛ませた。
「全てを終わらせてきた」
「・・・うん?」
「清算してきたと言った」
「何を?」
「婚約は破棄になった」
「!!」
「結婚は破談となったので、次の見合いも来ないかもしれない」
「ななな何してんだよあんた・・・!」
突如、朧な大気にぶち込まれた爆弾発言は、青島の理性と冷静さを壊すのに充分だった。
驚く青島を余所に室井は飄々と続ける。
「口約束の段階だったから慰謝料などの話は気にするところじゃない」
「そういう話をしてんじゃないですよ!」
「だから出世街道からどこまで外れるかはまだ不透明だと言ったんだ。まさかクビにはならないだろう・・・」
「って、あんたね!」
「もう飛ばすことはないと言われていたがどうだろうな。その際は遠距離になるが」
待って、待ってくれ。
話の勢いに思考が追い付かない。
このひとは何を言っているんだ?
「一番大切なことを見失っては戦う意味がないと思ったんだ。君は違うのか」
「・・・っ」
「もう何もかもない。ゼロからだ」
「・・・・」
「またここから始めていく」
それまで黙って呆然としていた青島の細髪が冬の大気の中でふわりと浮いた。
北風が逆立った感情を鎮静化させていくようだ。
車一台通らない都会の片隅はとても静かだ。
やがて。
彼独特の救いあげるような奥底まで見透かすような上目使いで青島がニッと口端を持ち上げた。
「・・・・ふーん」
小悪魔の様な意地悪で、でも泣きそうな微苦笑。
それを室井は顎を持ち上げて往なす。
「おまえのせいだぞ」
「どうだか」
「俺でいいか。何にもなくなった」
「俺があんたの肩書で付き合っていたとでも?」
二人の視線がグラデーションを描くように色々な色を折り混ぜながら融合した。
試されて生きていくことを俺たちは選んできた。
言っていることは傲慢で身勝手な内容なのに、容赦なく冒してくる毒は全身に周り、二人きりというシンプルな意識が陶酔感を持って現実を凌駕する。
警察に限らず、結婚をしていないというだけで見下し、何も知らないくせに生意気なことを言っていると蔑視する態度は未だ根強い。
心細さを感じる未来も、頼りない時間も、何処へ何故行こうとしているかも分からない明日の色も
それは答えを持たぬままに手の平に舞い落ちる。
今はここに在る。
それが全てで、それだけの心許なさが刻みつけるように青島の胸に感傷を溢れさせた。
「俺・・・またあんたの足を引っ張ったことになるんですかね?」
「人のせいにするほど落ちぶれた男にするな」
青島はくしゃりと顔を歪ませる。
それでもこの結末に責任を感じるなというのは無理な話だ。
自分が出会わなければ室井の人生をここまで狂わせることはなかった。
やはり気付いてしまったかと、室井も複雑な色を乗せた瞳で真っ直ぐに青島を見つめ治した。
青島は小さく夕焼けの残渣を留めた色の瞳を揺らした。
夏の暑さに似た熱だけが冬の季節の中で幻のように拭い去れぬ烙印を確かに意識させた。
疎ましいほどの熱は、足掻き、呻き、逃げた、その証であり、今もなお胸の奥で疼く。
纏いつくような室井の圧倒的な情愛に息が止まり、逃げ場を失ったまま、無防備に青島が瞳を向ける。
その崩れそうな弱さを覗かせる瞳を、室井は愛しさを確かに感じながら受け止めた。
どうせ自分はこの男から逃れられやしないのだ。
自分の中に眠る獣を呼び覚ます様なそんな真似をしないでほしかった。
だけどこうやって向き合うだけで、挑発され誘因され追い詰められていく。
だったら見逃すことはもう止めて、記憶から消えないほど深く強く刻みつけ、道連れにして、いっそ二人きりの視界を塞いでしまいたい。
青島の目に映る男は自分だけにしてしまいたいとすら思う。
そのくらいしないともうこの爛れた欲深は消化できない。
「無茶しますね」
「今に始まったことか」
「名コンビ復活?」
「腐れ縁だからな」
「後悔したって俺知らないんだからね」
「向こう見ずは天才であり魔法であり力だと、ゲーテも言っている」
「はぁ・・」
長すぎた曖昧な関係は終わりを告げた。
知り得るのは、そこに答えはないということだ。
もう久方の夢の続きは見ない。過去は壊れた硝子の欠片のように突き刺さってももう振り返らない。
先へ進む時代の節目を越えていく。
変わっていく景色の中で変わっていく君と変わっていく自分が変わっていく未来に身動き出来ずに足元を竦ませても。
それはどちらにとって不幸なことになるのだろう。
弁柄色に色付いた木々が夜気の風にざわざわと鳴いた。
そう言えばあの日もこんな夕暮れだった。
「で、どうする」
「どうするって・・・」
日没の暗さに埋もれる青島の顔は困ったように笑っていて、瞳だけが光を閉じ込めるように奥底で瞬いていた。
視線を逸らさず、照れたように見つめてくる青島には数多の憧憬が潜んでいる。
「とりあえず・・・んじゃ、メシでも行きます?」
「・・・いいな。焼き鳥はどうだ」
「庶民の俺に合わせましたね」
「最近金のかかる飯ばかりで飽き飽きしてたんだ」
「すげぇぇ・・・言ってみてぇ台詞」
「じゃ今度連れてってやる」
「オトコ二人で行って何が楽しいの」
「そこは想像力だ」
並んで駅へ向かい歩いていく。
二つの長い影が細く伸びてアスファルトに重なりノスタルジックな郷愁を募らせる。
「俺金ない」
「奢る」
「やだよ」
「礼は別なところで返して貰うからいい」
「別な所って?」
「・・・・」
「ちょっと・・・っ!」
*:*:*:*:*
その後、室井の婚約解消は、同時に何故か新城の婚約解消の呼び水となり、ダブル挙式だった噂は一転、ダブル破断として大きな物議を呼んだ。
詳細を知りたがる噂話が四方に飛び交ったが知る者はなく、語る者もなく
やがてそれも本庁の七不思議として密やかに鎮火していった。
happy end

本編はこれで完結です。あとは後日談をちょっと付けて終わろうと思います。
唯一の心残りは書き終わってから気付いたのですが、時間軸として、OD3辺りではもうケータイではなくてスマホの時代だったよなと。
OD2はまだ完全にケータイ時代なのでうっかりしてしまった。