ク リスマス・ローズ 4








10. 
今夜は都会でも珍しくホワイトクリスマスになりそうだった。

締め切ったカーテンの向こう側から深々と冷気が浸み込んでくる。
天気予報は夜半からの雨を告げ、大型の低気圧がまた接近しているということだった。
布団を頭まで被り、青島は目を瞑る。

熱が下がらない身体は重く、悶々とした思考が堂々巡りの恒久に脳味噌を茹だらせた。
いい歳して、初めてでもあるまいに、室井としたあのキスが青島を追い詰める。
日を追うごとに深く強く、胸の奥まで冒してくる毒素は細胞まで満ちていく。

何でキスなんかしちゃったんだろう。
同じ問いが答えを導けぬまま、不穏な気配に揺れていた。


どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
あの夜室井に誘われ二人で話した。途中本店屋上に連れて行ってもらって、煌めく夜景に息を呑んだ。
そこまでは室井も普通だったんだ。

繰り返し繰り返し、蒸し返しても仕方のないことが脳裏を回り青島を愚弄する。

だけど結婚の話が出た辺りから、様子が変わった。
思えば室井とは親しく交流を続けた年月は長く、五本の指どころではなくなったが
プライベートなことを知らせ合ったりしたことはなかった。
踏み込み過ぎたのだろうか。
いつだって室井からは一定以上の距離を保った。それを何であのときだけ。
論陣を張る堅気な様子は追い込まれた犯人のようで、そんな室井の窮迫に青島もまた追い込まれた。
いつだってそうだった。自分たちは感情が共鳴してしまう。

続けていたい想いを告げた時、室井の中の何かの限界が破裂して。
そこからは、あまり、良く覚えていない。
砕け散る何かを塞ぐように、思わず口唇を押し付けていた。
今何した?と脅威に浸る間もなく熱く塞がれ治した口唇は、解放されないままに呼吸さえ止められ、その後ろに広がる無数の星が涙のようで、ただ静かで
それが口唇に重なる熱だけを鮮烈に残し、その余りの落差が忌避感で
見たくなくて目を閉じた。
押さえ付けられ注ぎ込まれた激情に、何が含まれていたのかも悟らせないまま
今も熱だけが、消えない。

まるで毒を食らったかのように、それは臨終を待つだけの余命を案じている身体を蝕んでいた。


「・・くそ・・っ」

思い出しては赤裸々な記憶に耐えきれず、布団の上できつく瞼を押さえる。

多くを知らない男。
全てを知ってみたかった訳ではないし、知りたいとも思っていなかった。
ただそこに居るだけで青島に幸福の一端を与えてくれた。
滅多に表情を崩さない男がふと目尻を滲ませる時。青島を闇色の瞳にまっすぐ映してくれる時。
そこに掛け替えのない悠久の時があった。
でももう、それもお仕舞いだ。自分が終わらせにした。自分が台無しにしたんだ。

キスという毒が淫らに冒してくる。
自分で自分が分からない。分からなくなくもなくない。
あんなことやらかしてしまった自分が受けつけないだけだ。
あの瞬間に変色してしまったのか。或いはいつの間にかとっくに腐敗していたのか。

あんなことさせたかった訳じゃないのに。
でも逃がさぬとばかりに塞がれ押し込まれた熱情が、青島の胸で息衝き、強く軋ませ、呼吸を止める。
甘い余韻を疼かせる。
もう一度、して欲しいと思うくらいには。


「あうぅぅ~・・・・」

朦朧としつつある頭を振って、ばふんと布団に潜り込んだ。

そんな自分が最低だ。
その満ちない願いを抱え、この先一生生き続ける絶望も、最低だ。

ふるふると頭を振る思考の向こう側で、今度は昨夜真下に突如奪われたキスが蘇る。

「あぁああぁぁ・・・・・」

右を見ても左を見ても逃げ場がない。

何で真下も自分にキスをしたんだ。
慰めと言ったって、他に方法は幾らだってあるだろう。
室井のキスに茹だる青島に、キスをする、この符合。
それは何かの天罰のように感じた。

――しかもあンの馬鹿、舌まで入れてきやがって。

熱に冒された身体は言うことを効かず、抵抗もろくに出来なかった。
押し出そうとした舌を軽く囚われ、無遠慮に掻き回された。
良いように貪られて、飢えた心が誘惑に負けて、流された。

知りたくなかった。男の味なんて。
消されたくなかった。室井の味を。

出会った頃から確かに息衝いてきたそれら羈絆は、時を経て別の顔も持っていたことに気付かせる。
忘却と烙印は天からの宿命のように青島には思えた。




――ガタン

部屋の気圧が変化し、誰かが玄関を開閉したことを感じた。
・・・・誰だろう、ああ、今日は誰の番だろう。

扉が閉まり、鍵を掛ける音の後、人が入ってくる気配がする。
足音の様相から、女性ではなさそうだった。
青島は布団から顔を上げるのも億劫で、確かめもせずナゾナゾを当てるように答えを五感で探る。
和久はインフルエンザだし、栗山や王らも本店の方の応援に掛かりきりで、風邪引きの面倒にまで時間を割かしてはくれないだろう。
夏美ちゃんじゃないとすると・・・・、ああ、また来るって言ってたっけ・・・。


「んん~・・・、誰ぇぇ・・・・」

足音が傍まで来たとき、青島はもっそりと布団の中から問いかける。
返事がない。
答えがないので、ああやっぱりと思って溜息を落とした。


「なんだよ真下ぁ・・・もう来んなよ・・・俺、」
「ということは、真下が此処へ来たのはやはり本当なんだな」
「・・・・・・・・っ!?」

声に驚き、上掛けを飛ばして振り返った。

「な・・っ」
「不用心だぞ。開いていた」


居る筈のない黒いコートを着た男がそこで見下ろしていた。
夢か幻を見ているかのような仮想的な視界に、青島はただ固まる。

あの夜、一度も振り返ることのなかった男は、今は静謐な艶を乗せる漆黒の瞳をそこで青島へと向けていた。
藍鉄色の三つ揃えスーツを皺一つなく着込み、深い萌葱色の格式高いネクタイを緩めることなく首元まで締め、生真面目な良く知る顔で凝然と立つ。
起き上がることも忘れ、投げ出した腕を頭上に置いたまま、青島はうねる髪の奥から今の今まで想像していた男を唖然と見上げた。

「・・・・」
「・・・・」

暫く見つめ合った室井は持っていた小さな紙袋をそっと青島に向けて差し出した。
それを視界の隅に映し、青島はのそりとベッドの上で起き上がる。
視線は外れない。
青島が導かれるように手を差し出すと、室井はようやく視線を外した。
カサリと紙袋が青島の指先に落下する。
触れそうで触れなかった指先から静電気のようなピリッとした刺激が走った気がした。


「刑事は逆恨みもされる。戸締りはしておけ」
「見舞い・・・来てくれる人がいるから・・・、ってか、・・・なんで・・・」

自らのコートに室井が手を掛ける。
まるでレストランで着脱するかのような優雅な動きでするりと両肩から背中に落とす仕草は、手慣れていた。
派手ではないが筋目正しい男なのだと視界が物を言う。
脱いだコートを適当に畳み、室井が座る場所を探すように足元に視線を走らせた。
その視線で察し、青島がしまったというような顔になった。

「あ~・・・、てきとーに・・・座っちゃってください・・・、昨日すみれさんが押し退けてたから・・・」


窓の外は暗く、外はもう夜になっていることが分かった。
昨日はお昼くらいに外回りついでのすみれが表れ、散々文句と陰険漫才の応酬をしたが
今日はまだ誰も来ていなかった。
朝に雪乃が一度遅めの昼食を持って様子を見に表れただけで、そのあと、うつらうつらとしながらも一眠りはしていたようだ。
薬のせいもあるのかもしれない。
覚醒とまどろみの間で蕩揺う思考は熟睡感を与えず、身体は酷くだるい。


室井がベッド前に胡坐を掻き、じっと見つめてきた。
あの夜以来だ。
なんか妙に緊張する。

「えっと・・・その。・・・うち、よく分かりましたね」
「本庁のデータベースでおまえのプロフィールを呼び出させた」
「・・・・・なにしてんすか」
「しょうがない、何処に住んでいるのか知らないんだから」

これだけ長い付き合いだったのになと、室井が小さくぼやく声を、青島は漫然と見つめた。

折に触れプライベートな交流もあったが、待ち合わせをして馴染みの店で酒を飲むくらいだった。
話の流れで室井は六本木官舎に戻り、青島は新木場付近を居住区としていることくらいは話したかもしれないが
お互いもう良い歳を重ねた大人の男の付き合いである。
家にまで上がり込むほど野太くもなければ、世間擦れもしていなかった。


自分の部屋に室井がいる、その不自然な光景が青島の現実味を失わせる。
何しにきたのか。それを聞いてどうするのか。聞いても良いのだろうか。
・・・聞いては、いけない気がする。

「・・・仕事・・・は?」
「年末だから忙しないが、所轄ほどじゃない」
「・・・そう」


そのまま青島が口を閉じると、世間話が弾む筈もなく、会話は途絶えたまま重たい沈黙が辺りを支配した。
酸素が薄くなり、キーンという空気振動さえ聞こえている気がする奥で、遠くを走る救急車のサイレンの音が通過する。
青島は辺りに視線を彷徨わせた。
少し動くだけで衣擦れの音が鳴り、妙に大きく耳に聞こえる。

手元に持ったままだった紙袋が目に留まった。
見たことのある店のロゴが中央に印刷されていた。これは何のメーカーだっただろうか。咄嗟に思い出せない。
食べ物かな?

軽く持ち上げ、首を縦に振ることで礼を言う。
青島に視線を戻した室井は、一旦座ったにも関わらず、もう一度膝を立てた。
もう帰っちゃうのかと、思わず青島の視線が姿を追う。

あろうことか、室井はベッドの脇に腰掛けてきた。

音もなくベッド際に近寄られ、青島は途方に暮れたような顔で見上げる。
後ろは壁で、手前は室井の影。迫られた威圧感に行き場を失くし、不意に近付いた距離がお互いの息遣いさえ意識させた。


室井の手が伸びてきた。
それは、壊れ物を扱うようにうねる髪の毛の隙間から青島の額に乗せられる。

「・・・・ああ、まだ熱いな・・・」
「・・ぁ・・・、移っちゃう、から、あんまり・・・」
「どうせもう保菌者だろ」
「・・っ」

言っていることの意味を察すると、青島の頬が更に少し熱くなった。
どうしたんだろう、なんかいつもの室井じゃないみたいだ。

「ぁ、あ・・・あんた、その・・・・」
「何時まであそこに居た・・・」
「う、す、すいません・・・」
「帰り方も忘れたか。この時期あんな北風に晒され続けたら風邪を引いて当然だ」
「た、堪能してたんですよ」

キスを、なのか、景色を、なのか。
どっちにも取れるなと思い、青島は俯いた。
その頬は林檎のように熱っている。

その顔を物珍しそうに目に映した後、室井は額に宛てていた手をそっと外した。
青島の手に治まったままだった紙袋を奪い、ベッドヘッドに移動させる。
置きながら、室井が口を開いた。


「ったく・・・君は馬鹿か」
「そうは言いますけどねぇ・・・」

三つ揃えのスーツを隙無く着こなした男が垣間見せる、無骨な男くささと懐の深さ、そして少し傲慢な執着が、青島の胸を柔らかく締めつけた。
室井の優しさが今は辛い。
何かが胸に痞え、青島は瞼を伏せて苦く笑った。
壊れてしまったパズルを取り繕うように、嘆息だけが薄く開いた口唇から漏れていく。


「全く目を離す隙もないな」
「う」
「刑事は身体も資本だ。今更そんな基本を言って欲しいとは君も相当だ」
「それでびっくりしたと」
「腐れ縁とは良く言い当てたものだ。またかと思う」
「そこは慣れでしょ」
「違うな、そこは俺の癖だ」
「趣味わる」

普通に話せているだろうか。声は震えていないだろうか。

「君は昔から自分には無頓着なんだ」
「そこまであんたに迷惑掛けてないでしょ」

軽口で応答してくる室井の態度が、唯一の幸いだった。
気付かれぬように口調を合わせながら青島は布団を握り締める。
室井が半眼を寄越してくる。

「今夜も夕食に行く筈だった」
「あ、そう」
「イブだぞ」
「あ~決めるとこですよねぇ」
「また仕事なのねと言われた」
「げ。んじゃ、こんなとこ居んなよ、そっち行けよ」

「ホテルで食事した後は彼女の実家に挨拶参りだ」
「それ、もしかして決戦日ってやつ・・・」
「まったくおまえには足を引っ張られてばっかりだ」
「すすすすいません・・・」
「勝手にキスしておいて勝手に熱だすとか、手間のかかる・・・」
「重ね重ねすいません・・・」


カノジョを放ってここへ来たって?
胸の裏にひっそりと飼っていた情熱が甘い官能の香りを放ちだし目の前で交差するのを、本能だけが鋭敏に感じ取り、布団を掴む青島の指先を震わせる。
予想が導き出す答えを恐れ、青島は軽口で誤魔化した。


「えっと・・・怒りに来た?」
「いや――」

そこで不意に室井が口を噤む。
沈黙が怖くて口走った。

「俺、あんたが怒っているかと思って」
「君に口煩く言いたい件など多すぎる」
「あ~、そこは腐れ縁のよしみですね」
「死活問題だ」
「はは・・・」

渇いた笑いを乗せてから、重たい嘆息を吐いた。
覚悟を決めて口にする。
室井だって、これが本題だろう。

「ごめん、あの夜のこと。怒ってますよね」
「怒る理由がないだろう」
「嘘ですよ。・・・あんたはこの先なんか望んでなかった。それを台無しにした。終わらせたのが、俺だから」
「あの夜は、言葉が露骨だったことは、謝る」

青島が反論を述べる間もなく室井も同じく嘆息と同じ吐息を漏らした。

「謝る必要はない。不作法だったのはこっちもだ」
「・・・、」
「怒りはしない。離れるのが耐え難いと思うだけだ・・・」


俯き、視線を合わさず、口端だけを持ち上げる青島を室井はじっと見つめる。
見定めるようなその視線は、瞼を伏せている青島は気付かない。
見ていないからこそ勇気が満ちて、室井は青島へと再び手を伸ばした。
もう一度、その額を霞めるように指先が滑る。

青島がびくりと反応する。


「・・・私のせいか?」
「・・ぇ・・」
「この熱・・・私のせいだろう?」


室井の両手が不意に肩へと周り、そのままふわっと壊れ物を扱うかのように引き寄せた。
びっくりして青島が目を見開く。

どうして急にこんなことをするのか。どうしてそんなことを言うのか。
自分のせいだという言葉は、物理的に青島を置き去りにしていったことをもう指してはいなかった。

室井は何も言わない。
室井の片手がぎこちない仕草で肩から後頭部に周り、少しばかり回された腕に力がこもり、抱擁に意味を持たせる。
そのまま室井は腕の中に青島をすっぽりと囲んでしまった。
室井のしっかりとした肉付きをシャツ一枚の身体はリアルに感じ取る。


「・・・拒まないのか」
「・・・ずるい」
「泣きそうな顔をしていた」
「してないです」

青島の耳元で室井が堪え入るような声で聞いてくる。

「真下を。・・・この部屋に入れたのか」
「うぇっ?、・・あ、は、はい」
「キスされたというのは本当か」
「・・ッ」

何故室井がそれを知っているのか。あの時部屋にいたのは二人だけなんだから、真下がバラしたに他ならない。
一瞬身体に走った緊張を室井は見逃さない。

「本当なんだな・・・」
「・・・」


室井が溜息にも似た大きな息を肩で吐き、その額を青島の剥き出しになっていた襟足辺りに押し当てた。
シャツ一枚を無造作に羽織っていただけだった青島の肩は着崩れて、浮き出た鎖骨から胸元までの際どいラインが覗いている。
若い肌は熱を帯びていることもあって瑞々しく薫っていた。
抱き締めているのに、どこか縋るような室井の仕草に、青島は言葉を告げず、ただ目の前の黒いスーツを見降ろした。

だったらどうだというのだろう。嫉妬でもしてくれるんだろうか。・・・いや、するだろう、室井の青島への執着を、これまで知らなかった訳ではない。
そういう類でなかったという言い訳は、最早完全ではなくなった。
だからこそ、これ以上踏み込ませてはいけないのだ。
あの夜のように。

心の奥底でハザードランプが激しく点滅を始めていた。
このまま室井のペースにはまったら不味い。のに、熱った脳味噌はろくな計算を導き出さない。
今は駄目だ。せめて今夜は見逃して欲しかった。
言わないで。今は何も言わないでくれ。
再びの前兆に、熱に冒された身体は言うことを聞かず、茹だったままの脳味噌は何も明確なことを弾き出さず
室井の気迫が音もなく忍び寄る。


「またかと・・・思うだけでしょ。これもあんたの癖だ」
「・・・思えない」
「・・・っ」


何とか絞り出した言葉は、あっさりと室井に排撃された。
抱きしめられたまま、室井の肩越しに見慣れた自分の部屋を映していた視界を、恨み言にも似た思いで青島は閉じた。

同じ色の熱が共鳴する。
今夜、室井は何をしにきたのか。
問うまでもなく、あの夜とは異なる室井の覚悟を感じ取ってしまった。
それは元々室井の中に潜んでいたものなのかもしれない。でも今になって、それが分かる。

鼓動が煩いくらい警告してくる。

ああ、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
嘘だろ?でも嘘じゃないことは目を見なくても、もう、分かる。

室井は終わらせることなんか望んでいなかったから、逃げた。それを青島があのキスでぶち壊してしまった。

出会って、どれくらいの月日が経っただろう。
こんな結末を辿ることになるなんて。
反発し、衝突してきた過去は、言いかえれば、詮議する中で二人の平衡を調整し均等を促す指針を担っていた。
でも今、二人は同じ熱に冒される。

選ばれたかった。でも選ばれる責が、今は重い。


「ずるい、ですよ」
「君に決めさせたことをか。おまえのせいで私のプランはずたずただ」
「そういうの、自業自得っていうんですよ」

青島の勝手な責任逃れに、室井は息を殺すだけで笑う。

「俺がしたことに怒って、逃げれば良かったのに」
「やっぱり、私を見限るつもりだったんだな」
「見限ったのはあんたもだろ」
「・・・そうだな」

室井がそっと青島の髪に鼻を埋める。

「怒るか?」
「そうね、怒っているのかも」


純粋な上司でいてくれなかったことに。一緒に戦うこともさせてくれなかったことに。
絶望よりも歓喜を感じさせる糾弾は、そのまま己へと返ってくる。

きっと、室井も閉じたいのだと青島は思った。
その言葉を躊躇い、呑み込み、幾度も幾度も反芻した末に、今、同じ苦みを味わって、そうしてここに巡り着いた。
潔癖で頑固な室井らしいと思った。


「・・・・、もう、俺たちは別々に歩んだ方がいいって思います。あんたに、あんなことさせたい訳じゃない」
「・・・分かってる」
「出会った意味まで、失くしたくないです」
「無駄な足掻きだな」
「分からないじゃん」
「あんなことも、どんなことも、全てひっくるめておまえを相棒に選ぶ。きっと何度間違えてもおまえを選ぶ」
「俺だって・・!」
「後悔なんか、していない。・・・後悔も、させない」

青島の声が震える。

その先を、聞いたらいけない。聞きたくなかった。
今になって、何故室井が事を先延ばしにしてきたのかの気持ちまで、汲み取れる。


「駄目だよ」
「連れていくと、言ってもか」
「ん・・・」

室井の腕に力が籠もる。

「私は、君が思っている以上に欲張りだぞ」
「知りませんでした。知ってたらこんなこと」
「どうして、泣く」
「・・・・どうして、かな」


ゆっくりと、室井が腕の力を解き、埋めていた顔を上げた。
頬を包むようにして、青島の顔を上げさせる。
親指で瞼をなぞられて、青島は自分の視界が滲んでいたことに気が付いた。
室井の指に呼応するように、目尻の睫毛を光らせる。

「意地をはるな」

室井の言葉がひとつひとつ、青島の枷を剥ぎ取っていった。
丸裸にされた心は無防備なままに室井に晒される。

知恵熱を出してまで寝込むほど熱るのも、全ては一つの結論を導き出していた。
誤魔化しの効かない熱情が確かな熱となって、溢れ出る。
分からない想いのままに、言葉には成らないから雫となって零れ落ちる。


「どうして・・・」

先に、逃げたくせに。
俺から離れたかったくせに。
一緒に、背負わせてもくれなかったくせに。
こんなことになる前に、どこかで自分たちは正すことは出来なかったんだろうか。
時を取り戻すことは誰にも出来なくて。
その先を言わせたくない。


「もう、誤魔化しようがない・・・」

息を呑んだ青島の前で室井は切なく微笑んだ。

「君が・・・気付いていないようだったから・・・」


心から甘く蕩けていきそうになり、青島は口唇を震わせた。
赤裸々な心が丸裸になって、防御を失い、今は自分さえも支えきれず、縋るように室井を見る。
その瞳に、室井は吸い込まれるように顔を寄せた。

求めてしまえば、自分の方が限度を知らない闇を持つことを、重々承知している。
忌々しくもあるその妄執を、室井は今自らの意思で放棄した。


「そのままなかったことに出来れば、それが一番良いと思っていたんだ。でも」

知ってしまった口唇の甘さは熱く、触れてしまった心は切なく。

「だから、今夜、確かめにきた」



――嗚呼。
青島は堪える涙も放り、天を仰いだ。


これで終わりになる。
足掻いて、逃げて、変わっていく不安に押し潰されながら、引き寄せ合う時間は温かく眩しかった。
大切だからこそ、室井の覚悟に反発する威勢はない。元より熱がそんな気力も根こそぎ奪っていく。

室井が少しだけ身体も離す。

「青島。一度しか言わない」
「・・・・はい」

青島がゆっくりと仰いでいた顎を引く。
室井は一旦目を瞑り、薄い男の口唇を固く引き結んだ。


「・・・好きだ」
「・・・」
「君の事が好きだった。ずっと前から、好きだった。だから、そんな風に泣かないでくれ」


幸せに、なれる筈だった。
熱い恋に燃えるなんて、もう一生ないと思ってた。
そして、恋は必ず幸せを連れてくるものだと思っていた。

瞬きと共に落ちる雫が青島の頬に一筋に光を乗せる。
切れ長の、黒目がちの、室井の瞳。
きれいだと青島は思った。


「言って、くれれば良かったのに」
「言えるか、かっこ悪くて」

室井が細長い指先で愛撫するように髪を梳き、濡れた頬を甲で撫ぜる。
ぽろぽろと零れるものを押さえることもせず、青島は室井を見上げた。
いつの間にか溢れだしていた雫は後から後から溢れ出る。
頬を伝った雫を、遠慮がちに室井の親指が追う。

「君が同じ気持ちでいてくれるなんて、考えもしなかったんだ」


ふわりとそう微笑んだ室井の目尻には、どこか嬉しそうな色が載せられていて
この人の傍に居られた年月は幸せだったと思った。
もう、それで充分だ。

ずっと、室井一人に背負わせていたんだなと思う。
背負わせてくれないのではなく、室井は一人で抱え込まざるを得なかったのだ。
長く枯渇していた心が、絶望的な歓喜でもって潤っていく。
きっとそれも同じだ。


「俺、真に受けますよ」
「ああ」

もう一度、室井の腕に抱き込まれる。
小さく耳元で名を呼ばれ、身体よりも心が震えた。

「俺たちは、お互いの想いに乗っかりながら、きっと色々なことを誤魔化してきた。一つの決断で一つを壊す勇気も持てないままだった。でも」

室井の腕が強まる。

「あの夜みたいな別れは、もうたくさんだ」


きつく、吐息ごと抱き潰すように室井が胸に青島を掻きこんだ。
後頭部を押さえ、肩に青島を押し付けたまま、もう片手で背中を強く引き寄せる。

力任せの男の抱擁に、男としての情愛が伝わり、青島の息が止まった。
室井の追及は甘く蜜の呪縛を齎した。
毒に冒されたと思っていた熱情はとっくに青島の中にも存在していて
それを本能で嗅ぎつけていた室井によって、封印されていた。


「君に他の男が触れるなんて、堪えられない・・・」

強い抱擁に絞り出されるように、恋情が溢れ出る。

「君を手放すことも、考えられない」


視界が白く滲んでいた。
ありったけの想いで抱き締められる強さはぶっきらぼうで
同時に、青島はいつだったかもこんな風に室井に抱き締められたデジャブに溺れた。
腰を、刺された時だ。
担ぎあげられた時、一度室井は生きている青島を繋ぎ止めるかのように、抱き締めた。
息も止まるその抱擁は、時を経てもきっと同じ恐怖の色を持っているように思えた。

手を回すことは、出来なかった。あの時も、そして今も。


「室井さん・・・」

そっと、青島は室井の腕の中で身動ぎする。
至近距離でお互いの瞳を深く覗き込んだ。
吸い寄せられるような輝きは、憧れ続けた男の美しさそのものだ。
室井の瞳は痛罵するものに変わっていた。


「それでも・・・いいか。全てが変わってしまうぞ」

気付かれず青島はスッと息を飲む。
決断の時は苦く辛い痛みの味がした。
口唇が触れそうな距離で室井が熱い息を吐く。

「それでも覚悟を決められるか」

手を取れば、手に入るのか。
俺が頷いたら、このひとは飛び込んでくる。この酔狂な恋に。
頭部を両手で鷲掴む室井の指先が喰い込むように力んでいる。

「どうする。なかったことにするか。・・・おまえが決めろ」
「!」



嗚咽を喉で噛み殺しながら、青島は室井の両腕を掴んで、横を向いた。
歯を食い縛り、身を裂く程の亀裂に堪える。

残酷だ。
室井は答えを望んでいる訳ではなくて、逃げることも出来て。
でも熱を出して寝込んでいる自分では勝負は見えていて。
熱った脳味噌ではろくな解答を導き出して来ない。


「出来るというなら、おまえが・・・壊せ・・!」


低く構えた声は太く、静かな部屋に威令のように響いた。
この至高な命令に従うことが、ずっと、青島の献身だった。

はらはらと、音もなく赤い目をして青島は室井を見つめていた。
急激な鼓動が高鳴り、胸が張り裂けそうだった。
分からない。どうすれば良いのか何も見えない。
甘い疼きが両思いの悦びに冒していく。
冷徹な裁きを下そうとしていることは百も承知だった。でも、それが出来ないのなら、この先もっと辛くなる。


「どうした。意気地がないか」
「いいの・・・」
「もう、言ったぞ」
「そんなこと、俺・・・も、望んでなんか・・・いなかった・・・」
「ああ。分かっている」

未来を託した男が造り出すこの祭壇が残酷な裁きを連れてくる。
気高いこのひとを押し上げるのが相棒の役目であるのに、足を引きずり落とすような、そんな真似などするべきではない。
でも、確かにこの胸の奥で疼く熱が、正直な現実を訴えてくる。
そこから、逃げ切れるのか。

「おまえが、壊してくれ」

弾攻するように、厳かに室井は告げた。


「・・・は・・っ、・・ぁ、やっぱあんた、ずるいや・・・」

意味のない時間稼ぎだと分かっていながら、口を突いて出てくるのは熱い息だけだった。
身体が熱い。
答えを求めるように、青島の濡れた瞳が室井を映す。

これは、罰なのだろうか。
自分の気持ちを隠して、気付かず良い子ぶって、側にいようと欲張ったから、こういう目に遭う。
相棒の善意に付け込んで、その好意に取り入って、ずるい男のずるい策略で信頼をおびき出し、喰らおうとしてたから。

いつの間にか深く冒された毒は細胞にまで満ちていて、胸の痛みが唯一の真実を急かすように青島に告げていた。
熱で朦朧としてきた視界がまともな思考を奪い、本心だけを剥き出しにしてくる。
恋とはこんな甘美で蕩けるものだったろうか。


「だめだ・・・俺・・・、そんなこと・・・」

そう言いながらも青島の手は恐る恐る室井の頬へと延びていた。
室井も何も言わず、青島の行動を音さえ吸い込む雪原の如く、ただ侘びた瞳で見つめた。

これほどひどく傷ついた人の顔というのを、見たことがあっただろうか。

キッと眼光を強めた青島の瞳に、室井の中で何かが這い上がる。
真っ直ぐに見つめ てくる青島の瞳の奥に室井は今まであった余裕が徐々に吸い込まれて行くのを感じた。


縋るように室井の頬に伸びた手が直前で止まり、ゆっくりと重力に従い、室井のネクタイを掴む。
軽く引っ張り、青島が熱で掠れた声で囁いた。

「俺と出会ったこと、ほんとは後悔してるでしょ」
「・・・・」

パタリと手が落ちる。
青島は、泣きながら崩れ落ちた。

「出来ないよ・・・俺には・・・・できない・・・」





嗚呼。
慄き、室井も堅く目を閉じる。


「ごめん・・・っ、なさい・・・っ・・・」
「・・・いい」
「でも・・っ」
「・・・ありがとう。・・ありがとう青島。俺よりも俺の人生を讃えてくれて・・・ありがとう、感謝する」
「・・ろい、さん・・・っ」


搾り出すような室井の声は、低く掠れていた。
冷徹な裁きを下させたことは百も承知だった。でも、それが出来ないのなら、この先もっと辛くなると思った。
でも青島は、そんな我が身よりも室井の未来を案じてくれた。


「俺・・・はっ、あんたに、会えたこと・・・ッ」
「ああ、俺もだ」

間髪入れずに即答した室井の答えに、青島の顔が堪え切れないように歪む。

守らないといけないものがあるなら、いくらだって嘘をつける。
たとえ、それが世界中の誰よりも愛した人を失うものだとしても。何より大切なものを壊すことだとしても。
沸いていた頭の中は警告が鳴り響くかのように、キンと冷たく冴えていた。

いつか、いつの日かは分からないけれど、あなたを拒んだ日を赦される時代が来るのならば。


窓の外は雪に変わったらしく窓枠が白く浮かぶ。
深々と冷え込んできた夜気が、忍ぶように重なる二人を音もなく包んでいた。


「あんた・・・は、俺をッ、忘れない・・・っ?」
「当たり前だろう」
「・・・、俺、あんたを忘れなくていいの・・・」
「・・ああ」


今夜は積もるかもしれない。
水分の多い牡丹雪が窓から見える。ひっきりなしに降り注ぐ勢いは、当分止みそうになかった。
懺悔する心を埋め尽くすように雪は窓を叩いてくる。
崩れ落ちた青島を、抱き寄せるでもなく室井はただ、穏やかな手付きでその両腕を受け止めていた。
その肩越しに、雪が降っていた。

必死な想いで埋め込む嘘は、真実を凌駕し雪のように冷たく降り積もり、毒のように心を腐らせて。


「幸せッ、に・・ッ、なってくださいね・・・」
「・・・・・・・ああ、約束する」

大人じゃなかったら恋は楽しいままだった。
男じゃなかったらもっと俺たちは幸せになれた。

「今度逢う時は・・ッ、お互い幸せですって・・ッ」
「ああ」

だけど後悔するな。この日の別れを無駄にするな。この決断を越えていくことがあなたと共に生きた証だ。


「最後ッ・・に・・・」


青島が多くを語る前に、室井の腕が強く青島を浚い、首を傾ける。
視界が覆われ、荒々しくそれは重ねられた。

歯がぶつかり、柔肉は腫れ上がってジンジンと疼いたがそれさえも甘美な蜜となって唾液に濡れた。

最後の酸素を惜しむように擦り合わせる熱に痛みに近い刺激が青島の視界を曇らせる。
あの夜とは違う、優しくて、切なくなるほど淡い、キスだった。
触れる傍から消えていく気がして、何度も何度も重ね合わせる。
柔らかく食まれ、かさ付いた肉が男のそれだと意識させた。
それだけのことなのに、圧倒的な破壊力を持っていて、別の男とした戯れなどきれいさっぱり上書きする。
同時に、分かった。
これは、二人の歴史に対する謝礼と決別のキスだ。

指先ひとつ、動かせなかった。
ただ室井に抱き寄せられるままに上擦る口唇を塞がれ、青島は密着する熱を憶えた。


五指を髪に差し込むように頭を掴まれ、名残惜しむようにそっと解放される。


安っぽいドラマのハッピーエンドのように、二人で強く刻みつけあう方法を、喜べる訳がない。
室井には用意された煌びやかな成功者の道が待っている。
ゴールはここじゃない。室井だけが全てじゃない。彼にとって自分が全てではない。
歩む道が同じだからこそ妥協できない何かを誰より知っている。

だからきっと、俺たちは、最初からそういう運命じゃなかったのだ。




*:*:*


「もう寝ろ・・・。身体に障る。・・・今夜は付いててやるから」
「・・・ほんと・・・?」


青島をゆっくりと横たわらせ、肩まで布団を掛けてやる。
まだ涙で濡れた瞳で見上げてくる様子を、胸の潰れる思いで室井は見降ろした。

そっと覆い被さり、タオルで目尻を拭いてやる。
口付けの名残を残す紅いふくらみが、敏感に腫れ、濡れて震えていた。
黙し、そっと視線を瞳に戻す。
子供みたいにくしゃっと崩した青島は、ようやく小さな笑みを覗かせた。
熱で汗ばみ束になっている前髪をそっと避けてやった。


「朝になっていなくなっているのは反則ですよ」
「いいから」
「そこにいてよ」
「分かってるから」
「それ、何だったんですか?」
「明日のお楽しみだ」

枕元に置かれた小さな紙袋を、つぶらな瞳が布団の中からじっと見上げる。


それから。
暫く愚図ってはいたものの、三十分もしないうちに青島は安らかな寝息を立て始めた。
室井は枕元の紙袋を開ける。
そこには小さなクリスマスケーキが入っている。

明日の朝にはどんな顔をしてこれを見つけるだろう。
安らかに眠るあどけない顔は輪郭も整い目鼻立ちも良い。可愛くぽてっとした口唇は紅く、随分と年下に見えた。

何の経験も知識もないまっさらな所から、過酷な決断を誰よりもあっさりと勝ち取って見せる。
そんな雄姿に惚れたのだ。



「呑気に寝やがって・・・・俺がどんな気持ちでいるか、全く気付いてないな、コイツ」

室井は狂わされた未来の、先の長い道のりを思って深い溜息を落とした。











11.
歩道橋の向こうへと消えていく青島の背中を室井は小さくなるまで見送る。
モスグリーンのコートが冬の風に揺れてプリズムに冴えていた。

もう少し早く告げていたら結末は選べただろうか。
もっと早く気付いていたら結果は変えられただろうか。
誰にも渡したくないただ一人の男を置いて現実が明ける室井に朝陽が射す。


今朝起きた時には青島の熱はすっかりと下がってた。
本当に知恵熱だったらしい。
考えすぎて、袋小路になって、感性で動く青島が普段は使わない脳味噌をフル回転させたことでオーバーヒートしたんだろう。
そう本人に言ったらむくれていた。
愛情の成せる業かと揶揄したら、今度は赤くなった。

室井が手渡した15cmほどのホールケーキを半分、二人で朝から食べた。
とはいっても朝からそんなに無理だという室井を尻目に、けろっとしてほとんど食べたのは青島だ。
残りを大事そうに冷蔵庫に仕舞う後ろ姿を見て、彼の違う一面を見た気がした。


視界を鎖すように吹雪いていた雪は朝日と共に嘘のように消えた。
常緑樹の上に名残りを白く反射している。
溶ける水音。湿った空気。冷たい大気が昨夜の記憶さえも眩しさの中に消してしまうような気がした。


何もかもが、遅すぎた。
恋だけに生きられる片生な時代は遠に終え、他人の人生までを背負う男としての腹構えが求められる歳になった。
人生観よりも死生観を問われる過渡期だ。
昨夜の一幕は青島は別れ話だと思っていたようだが、室井の目的は一番初めに告げた通り、確かめることだった。
その目算は滞りなく完遂した。
名も付かない不完全な熱さだけを持つ歪みに、円熟した答えを望みはしなかった。
だから、今はこれで良かったのだ。

青島と二人で生きてきた時代に悔いはなく、眩しい欠片を胸に焼き付ける。
鮮やかなのはいつだってひっそりと快楽の匂いさえ放つ二人の共鳴と、喪失に怯え続けた背徳の影。
まるで雪のように降り積もり、毒のように忍び寄る。


遠くなっていく青島の背中を目を細めて見治め、室井はタクシーに戻った。
足元の花壇でクリスマスローズが可憐に揺れていた。


「出してくれ」

胸のポケットからケータイを取り出した。












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