ク リスマス・ローズ 3.5








9.
「どちらさまですかぁ?」

刑事課の入り口で立ち尽くしている見掛けない男に栗山は声を掛けた。
誰かを探すかのように視線を走らせていた。
黒のコートを身に纏い、凛とした背中が印象的な品の良い中年男性だ。

「案内なら下に・・・」
「ちょっと・・!何やってんの、その人室井さんよっ」

慌てて栗山の袖を後ろから引っ張り、篠原夏美が小声で耳打ちしてきた。

「え?」
「室井慎次警視監っ、知らないわけないよね!?偉い人なの!」
「うわっ、ほんとだ、テレビで見る顔と同じだ・・・ッ」
「ばか・・・」

二人のやり取りを、室井はにこりともせずに、まるでテレビで流れる画像のように、瞳に映す。

「取り込み中すまないが」
「え?あ!はいはい、何でしょう?・・・あ、青島さん?」

夏美がパッと花が咲くように笑顔を浮かべ、栗山を尻で押し退ける。
この人の身分で今更刑事課になんか用はないだろう。あるとしたら、旧知の仲である青島だ。

「姿が見えないが、外か?」
「あ~・・・実は青島さん・・・、・・・ぁ」

夏美が言い掛けたその時、その肩を軽く叩かれ、その人を見上げて驚く。
振り向けばそこに真下署長が立っていた。


「室井さん、青島さんならいませんよ」
「?」
「昨日から休みを取らせてます。理由も知りたいですか?」

わざと室井に仕掛ける言い方に、室井は眉間を少し深めた。
それを確認し、真下は笑みを張りつかせる。

「風邪引いたみたいで」
「・・・そうか」
「交代で見舞いに行ってますけどね~。今日はすみれさんの番かな」
「・・・・」
「用事があるなら伝言承りますけど」
「いや、結構だ」
「そうですか」

そのまま室井は目礼し、踵を返した。
エントランスへと向かっていく。
真っ直ぐに伸びた姿勢の良い気高い背中を真下は暫く見つめた後、不意に声を掛けた。

「そうだ、室井さん。ちょっと署長室にも因って貰えませんか。お時間はあるんでしょう?」



*:*:*:*:*


「珈琲か緑茶。どっちになさいます?」
「どっちも結構だ」
「いやぁ、嬉しいな、室井さんがこの部屋に来てくれるなんて。想像も出来なかった・・・」
「用件は」
「あ、そうだ。室井さん、ご結婚するんですよね?まだ言ってなかった・・・おめでとうございます」
「・・・ああ」
「いよいよトップの席が見えてきましたね」
「世辞はいい。まだ決まった訳でもない」
「謙遜しちゃって。僕、応援してますから」

その辺は本心である。
昔から憧れたキャリアだ。多少汚点が付いてしまっても、そこも含め生き方や媚びない姿勢がカッコイイと心底敬愛している。
ネゴシエーターとして室長を一任された時以来、対等に能力は認めあって貰えているのだと自負していた。
ただ、ここからはそれとは別問題のつもりだ。


「真下、用件を」
「そんなに気になりますか。・・・青島さんのこと」
「――」

回りくどい言い方をする真下に、室井は真意を定めるかのように一度だけ真下に視線を送る。
発するオーラが違うと肌で感じ取る。

玲瓏な気配を研ぎ澄ませていく室井は、東京へ帰って来てから何らかの覚悟が備わった分、貫禄と威迫が増大していた。
静かで無害な物腰は一見大人しい頑愚な印象を与えるが
その男が見せる油断は罠だ。
そしてそれは青島の名を出した時、動かし難い事実となることを、経験上真下は知っていた。
それは間近で相対すると、気圧される。
眼力強く黒目がちの瞳で静謐なままに見据えられ、真下は心の奥まで支配されそうだった。

緊張を悟られないように、目線を伏せ、真下は本題を口にする。


「というか、室井さん、青島さんの風邪の原因、知っているんじゃないですか?」
「・・・、いや」
「青島さん、今高熱でぶったおれているんですよ。その原因に心当たりがあるんじゃないかなって」
「・・・・」
「すみれさん曰く、今週の始め、室井さんを本庁にお送りした後辺りから、少し様子がおかしかったって」
「言いがかりだろう」
「だと良いんですけど」


進めたソファにも座らずドア前に立ち尽くす室井は、圧倒的な威圧感でそこに佇んでいた。
憤怒も動揺も、今の室井は容易に悟らせない。
その気配を、素知らぬ顔をする裏で真下は肌を逆立てる。


「話はそれだけか」
「とも言います」
「用がないのなら帰らせて貰おう」


鞄も置いていなかった室井が、一度だけ真下に切れ長の視線を投げると、そのまま取り合いもせずに退席する。
身体にフィットした黒いコートのウールが真下の視界に絡み付いた。
心臓が煩いほど脈打っている。


「僕、せんぱいにキスしました!」

去ろうと背中を向けた室井に、思い余った勢いのままに真下は言葉を投げつけた。
室井の肩が一瞬不均等に揺れたのを真下は見逃さなかった。

室井がゆっくりと振り返る。

再びかち合った視線は、先程までのものとは質も圧も違った。
目線だけで人を殺せるんじゃないだろうか、この人。

だが、負けてやる気はない。


「一応・・・、言っておこうと思って」
「・・・・」
「別に、構いませんよね」
「どういう意味だ」
「捨てたって聞いて」
「だから?」
「先輩を、僕に下さい。・・っていうか、もう署長である僕の部下ですけど」
「――・・」

静かに二人は睨み合った。
緊迫した空気がピンと張りつめ、極限まで高められた内圧に、耳鳴りがする。
無関心を装うために、真下は軽く移動をしながら、世間話のそれのように会話を進めた。

「室井さんには、もう無用のものってお聞きしたんで。だったら僕がって」
「君にもだろ」
「そうでもないです。これからは幾らでも傍にいてやれるし。先輩の理想って僕の理想だし。二人でこの所轄の成績爆上げさせてやりますよ」
「その答えがキスなのか」


言葉は短く低くても、室井が昂ぶり張り詰めた神経を尖らせていることは、その目で伝わった。
室井を本気にさせたのだ。
だが、こんなにもあからさまに独占欲を見せるのに、手には入れない。
愛しすぎて手を出せないままに暴走した情愛は、そのまま青島のあの涙に直結する。

真下の目が同じ官僚として渡り合うものに変わった。

素知らぬふりを続けるつもりならば、それでいい。
敵前逃亡する男に用はない。
だったら奪わせてもらっても、文句はないだろう。

真下もまた、野生の眼差しで室井を真正面から見据えた。
キスをした瞬間の、何物にも変え難い寡占の接触が、真下の身の裡から圧迫している。

悲愴な激情を持ち合う二人の仲に本気で参戦出来るとは思っていない。
それでも、青島にあんな顔をさせる室井が今だけは許せなかった。
あんな顔をして欲しくない。
あんな顔をさせたくない。


「僕の方が大切にしてやれる」

はっきりと言い切ると、室井はようやく真正面に身体を向けてきた。
節度なく侵蝕する妄執をその気配に隠しもしない。
同じ、雄の瞳だ。


「あれ、なんか御不満でしたか」

しれっと、かまととぶるが室井は眼光を強めただけで、挑発には乗って来なかった。
エリートキャリアである室井の駆け引きは、しかしそう簡単に打ち崩せそうにない。
元より取引は政治の場で生きる自分たちの本業だ。


「まあ・・・でも、少なくとも泣かせるようなことはしません。・・・泣いてた・・・先輩を泣かしたのは、貴方なんじゃないですか」
「何か、君は誤解をしているようだが」
「誤解」
「私は別に青島くんの生き方にとやかく言える立場にない」
「ですよね」
「ただの腐れ縁だ。だが、警察官として君の発言は見過ごせる下限を越えている」
「ほう」


室井の気配はアクセント一つ細波立たせず、凛としていた。
明らかに激情をそこに渦動させているというのに、完璧な演技で煙に巻かれる。
そんな目をして貪婪な執着を秘めているくせに、怒気一つ、こちらに掴ませない。
ピタリと撫でつけた前髪と同じで、それは一糸乱れぬ魂と肉体の統一だった。


「愛情くらいで目くじら立てることもないですよね」
「君の言っていることは、男同士の性愛を示すのか」
「そう・・・取れるのであれば」
「それは不倫を指すのか。どちらにしろ、キャリアにあるまじき行為だ」
「そこは、ほら、室井さんがバラさなければ。まさか先輩を陥れるようなことはしませんよね?」

それはまるで、室井と青島もまたそんな純愛を貫いていたのではという糾弾を含ませていた。
それを室井は正確に察しただろう。

少し、室井の色彩が変わった。


「そんな浅い倫理観で青島が大人しく手に入るものか」
「まるで自分の方が分かっているみたいな口ぶりですね」
「キャリアが受け止められる幅は限られているのも覚悟の上か」
「潰されそうになったからって室井さんみたいに見捨てたりはしません。それに先輩だって覚悟の上でしょ」
「青島がそんなこと了承する筈がない」

親しげに呼び捨てになっているのを、この男は気付いているのだろうか。
そこに独占欲が満ちていることも。

「でも昨日キスした時、大人しく受け容れてくれましたよ」
「男同士だぞ」
「それが?」
「同意の上か?」
「さあ?多少強引に攻めるのが男です」

真下は内心含み笑いをした。

「・・・本気か」
「そもそも、このことについて、室井さんにとやかく言えるんですか?」


二人の枠外な交際関係に付いて指摘したつもりだったが、室井は目を見開いて頬を強張らせた。
思った以上に室井の急所を掠ったらしい。

威嚇射撃が思わぬ命中をし、真下は思考を張り巡らせた。

どういうことだ?交際のことで色の付いた噂話など、今更のことだろう?交際のことじゃないのなら、接触、キスのことか?
もしかして室井も青島に何か性的な接触を持ったことがあるということか?

はっきりと室井の虹彩には怒りの焔が浮かんでいた。
殺気にも準じたその息遣いに、真下は恐れ戦く。
なのに、どうしてそれを解放しないのだろう。

会話が途切れ、二人は身を固くしながら攻撃に備えていた。


「君たちは上司と部下という以前に、友人ではなかったのか」
「友情と愛情を履き違えているなんて、そこまで虚けじゃありませんよ。でも友情が愛情に変わることは摂理だ」
「向こうもそうだとは限らない。いきなりキスされる男の気持ちを考えてやれ」
「そんなこと迷っていたら手に入らないでしょ、あのひとは」
「受け容れてしまうからこそだ」


室井の鋭い視線は突き刺すように真下を威圧していた。
手に入らないのか、手に入れられないのか。
室井の闇色に広がる瞳は何も映しだしはしなかった。
それでも、真下が今更蒼く追及していることなど百も考えた後の、老成した深い色に漂わせていた。


「君にとって・・・大切にするとはなんだ」
「官僚世界で生き抜くためだったとか言い出すおつもりで」

室井が不意に瞼を伏せる。
これ以上の攻防はするつもりはないのだと分かる。
やっぱり、逃げるのか。
真下は何だか無性に悔しくなった。
何としても陥落させたくなる。


「それを私に聞いてどうする。信頼に値する男かどうか確かめたいのか」
「権力に屈するのも、奉仕すんのも、結局は権力に魅せられた人たちの祭りごとだと僕は思いましたよ」
「権力が常に正しいことをするとは限らない」
「随分と弱気ですね。先輩の覚悟を何も分かってないじゃないですか。それじゃ負けて当然だ」
「覚悟があれば戦えるとでも思っているのか」
「少なくとも先輩はそうしたかったんじゃないですか」
「違うな。あいつは私のためなら戦うことを放棄する。護ることに特化するのは他者のためだけだ。それがあいつのやり方だ」
「放棄?犠牲でしょ」


室井はその口端を少しだけ歪ませながら、少しだけ頬を緩ませた。
それが馬鹿にされたような気配に映り、真下の眉が寄せられる。


「君は青島を分かっていない。そんな男に、彼を護りきれるものか。あしらわれるのがオチだ」
「言ってくれますね。でもそっちも見限られたんでしょ」
「きっと、私のためだ」

付き合いの長さでは負けていないつもりだった。
でも、真下では勝負にならないこともまた、明白だった。

「何でも知ってる風に言うんですね。彼が裏で泣いていても気付きもしないで」
「・・・・気付いていないわけじゃない」
「本当の先輩を何も知らないでしょ」
「君よりは知っているつもりだ」
「でも。弱いとこみせてない。ホントの彼はもっと違う」
「そうだ、必死で食いしばり戦っている。これから社会で戦っていく自分を見ていてくれと言っているんだ」
「・・ッ」


何も、言い返せなかった。
庇う訳でもなく、護られる訳でもなく、ただ尊厳と存在を認め、背中を預けられる度量の深さが、底知れなかった。
信じるとは、どういうことなのだろう。
愛するとは、犠牲なのだろうか。



ドアは静かに閉められる。

くたっと真下は椅子の隣に座りこんだ。

「す・・・・っげ。・・・恐かったぁ・・・・ッッ」

全力疾走の後の様な疲労感と倦怠感が身体に蓄積していた。
だが、最後まで室井の感情を引き裂くことは出来なかった。
あの強張ったままの頑なな心は閉ざされたままで、キャリアの質の高さを啓示した。

――でも、これで借りは返せたかな

後は室井次第だが、これは室井のためじゃない、青島のためだ。青島のためにやれることはやった。
愛の儀式は確かに達成出来たと真下は思った。

二人の歴史は警察機構の墓標に深く刻まれ、未来の若者たちもまた彼らを目指すんだろう。
だが彼ら自身をを満たすものはなんなのだろうか。

「なんか、切ないね、あの二人は」

時は流れていく。
遺すものの儚さをただ受け容れて人は生きていく。
――それに、キスという報酬も貰ったしね。


窓の外にはもう濃い西日が射していた。




*:*:*:*:*

待たせていた車に室井は滑り込むように乗り込んだ。
間を置かず黒塗りの車はゆっくりと湾岸署正門を越えていく。


真下の言っていることは、上司として言っているのか男として言っているのか、最後まで明確には室井には悟らせなかった。
それでも室井に告解してきたからには、これは宣戦布告なのだろう。
いつ、どうして、なのかは判らないが、おそらく真下は室井と青島の関係に気付いたのだ。

正しいことをしていると思っている。
選んだ人生の岐路に何処にも間違いはない。でもなにか、大事なものを取りこぼしている気がして。

〝キスしました・・!〟

あの瞬間、煮えたぎるような嫉妬が腹の底を渦巻いた。
嫉妬なんて生易しい感情ではない、これは憎悪だ。
自分のしたことは棚に上げ、真下を批難していた。
自分がこんなに非論理的行動に出るとは。
割り切った筈の未来に、あれほどの途方もない激情をまだ含蓄している自分に、室井は自分で絶望した。


室井は汗ばんだ拳を膝の上で強く握り締めた。
奥歯を噛み締め、窓の外へと視線を向ける。
クリスマスの装飾が連なる景色が後ろに流れていく。
日没からのトワイライトは短く、あっという間に街は宵闇に包まれ始めていた。
シャンパンゴールドに眩く街を車は静かに走り抜ける。

楽しげな人の群れは心の孤独と空疎に呼応する。
信号で停まった時、花壇に植えられたクリスマスローズが目に入った。


〝泣いてた〟

泣かせたのは、自分なのだろうか。
捨てたとは、どういうことだろうか。

針で刺したような痛みが胸をキリキリと締め上げていた。
シャンパンゴールドの飛礫が目に痛い。

セットされていない細髪の手触り。少し煙草の移り香が残る匂い。自分より少し高めの体温。
振り返って笑う蜂蜜色の背の丈にある瞳。室井を呼ぶ時の独特の声。
戻せるものなら、あの頃に戻って何の矛盾もなく彼の隣で包まれていたかった。
室井を活かすも殺すも、出来るのは青島しかいない。
あれが手に入るのなら何も惜しくはないのに。
時代が、環境が、立場が、もうそれを許さない。

室井の瞼に最初で最後に触れた口付けとクリスマスローズが重なった。
あの花に触れてしまったら毒に冒される。
クリスマスローズの花言葉は確か――

あの花を手に入れることは中傷なのか。
だが室井にとっては。

じわじわと身体を侵蝕する毒がやがて脳まで冒し、室井の息を震わせた。
息さえ止められ、きっと、彼なしでは世界の息吹さえも止まるんだろう。


もうそんなに簡単に手放せる人ではなくなっている。
そんな簡単なことに、今まで気付かなかったなんて。

「ったく・・・なんてことしてくれんだ・・・」

手が届かなくなってから、大切なものを大切にする方法を会得する。
追い掛けてくれるのなら本望だが、いつだって行動を起こすのは青島の方で、来てくれることだけを怯えたように望み、窺い、期待した。
もう手が届かなくなってから、大切だった想いが密生する。
真下に横取りされたのではない、自分が失ったのだ。
失くすくらいなら、俺が、走れば良かった。


「あんの、跳ねっかえりが・・・」










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