ク リスマス・ローズ 2








4. 
午後九時を回る。
節電のため照明が落とされた館内は冷たく黴の臭いを荒んだ大気に麻痺させ、ベールに包まれた陰影を漂わせていた。
時は師走半ばとなり、世間は来たる週末のイブに向けて煌びやかに浮足立つ。されど都会の鼠色に聳える堅牢は眠らない。
はしゃぐ俗世を尻目にいつもと何ら変わらぬ日常を意地のように繰り返していた。
思いは違えどここに集う者たちの心境は皆一様かもしれない。

エレベーターの前で到着を待つ僅かな間に、同じく残業となっていた新城と鉢合わせた。
疲れているのか、珍しく世間話を振ってくる。


「独身最後であろうクリスマスも一人ですか」
「同じだろう」
「食事くらいは」
「順調なのか。いつ頃になりそうだ」
「式場の日取りを任せた所、年末年始はおろか、卒業、入学シーズンと、世間はやはり何処も盛況のようでしてね、来夏にもつれ込みそうです」
「ジューンブライドになるな」
「向こうはそう言って喜んでいますがね」
「・・・」
「まあ、そんな問題も夫婦の一歩と思えば違うんですかね。そちらはどうですか」


新城とこんな会話をすることは勿論これまでに在る筈もなく、妙に擽ったかった。
不思議なもので室井もまた、同じ新婚となるであろう同志の存在は、些かささくれ立っている心を治めてくるのを感じている。
それは一種のシンパシーであり、怠惰でもあるのかもしれない。

不意に増した苦みを喉奥で潰し、室井は顔を顰めた。

先に進む男に見せられる焦燥は劣等感であることに由来する。
自由に生きる男に重ねるのもまた劣等感であり、何も手に入れていない錯覚を室井に縛り付ける。
定まらぬ心を揺らす不甲斐なさに、未だ敗北の証となって室井を切り刻んでいるキャリア構図は、一歩間違えれば数年前の再来を予期させた。
今度の失敗は敗北を意味するだけでは済まされないだろう。
一点の曇りもなくキャリアを積み重ね、且つ、揺るぎなく受け入れられる新城が妬ましい。
こんな状況になっても自分は官僚の道を望んでいる戯話に、いっそ新城の方が超凡な気さえした。


「本当に、結婚するのか」
「今更可笑しなことをお聞きになる」
「・・・君には必要のないことだと思っていた」
「独身でいることが似合うと言われるとは心外ですね。サイボーグか何かで?」

官僚としての立場のことを指摘したつもりだったので、そう切り返されると甚だ失礼な台詞ではある。
室井は詫びを込めて視線を丁寧に向けた。

「過ぎた発言だった。君の政治能力を評価したつもりだった」

親愛の情を込め、室井は哀れなる同胞者に労いの視線を向けた。
いや、勝手にシンパシーを感じ取り哀れと思っているのは室井だけで、新城は華やかなセカンドステージを心待ちにしているんだろう。

室井の視線に何か違う色を感じ取ったのか、新城が気配を緩め行儀悪く壁に背を齎せた。


「・・・この先の席に座るからには甘い期待は抱いていられない。その利害と、たまたま叔父の持ってきた縁談のタイミングが合ったんで」
「そうか」
「点数だけで発言権が得られるのであればこんな茶番に付き合うつもりはないのですがね」
「夫婦になれそうか」


新城は口端を持ち上げるだけに留める。
ざっくばらんに本音を零したことに彼らしさを感じると共に、室井は彼を満たすものは何なのかをふと考えた。
今までそんなことは考えもしたことがなかった。

もう数年前となる新宿北署の一件で失態を犯した室井を救いあげてくれたのも彼だった。
何を思っていたか、何を狙っていたか。
真意は今この横顔を眺めていても感じ取らせない。
そんな彼と、奇妙に見合い話の段取りまで重なり合うとは、人生とは奇縁なものである。


「君は、恋人はいなかったのか?」
「恋人?」
「人を愛したことはあるのかと」
「この牢檻の中で随分と哲学的なことを口になさる。迷っていたら潰されますよ」
「・・・虚しさを感じた。懸命に息を切らしている間は気付かないだろうが、人生の時間に終わりが見えた時、虚無感で支配されるんじゃないか・・・、」
「人生の終わりに、何も成しえなかったと敗北感だけを抱いて終える方が私は恐怖ですがね」

人を満たすファクターは様々だ。
それを自覚し、得ている人間は少ないかもしれないが、一度実れば強いし折れない。
今まで気にもしていなかったが、新城には新城なりの穴を塞ぐツールを持っていて、そこに異論も反論も認めないのだろう。

新城らしいなと思って、室井は瞼を伏せる。
丁度到着したエレベーターに揃って乗り込んだ。中には誰もいなかった。


「相手の女性のことを、聞いても良いか」
「・・・・別に、普通の、白くて小さいつまらない女ですよ」
「もう少し言い方があるだろう」
「室井さんがそんな女子会のようなノリがお好きだったとは意外ですよ」
「確か、本部長の遠縁だったか」
「会話も弾まない、主眼主張も一致しない。ただそこで微笑んでいるだけの女に多くの興味はない。が、全てを忘れられる時間はくれるのだろうと」
「・・・・そうか」


割り切ることが、ここでは賢哲な答えだった。
上から支配的に鎖で結ばれることは、一方で、面倒な入会金や手続きなどを踏まずに良質の案件を提供してくれる安価な結婚紹介所と同じだ。
この歳で一生独身貴族を気取ることを決意したつもりはなく、またそんな勇気もない。
両親など、未来を案じてくれている人々の厚意を阻害する気も毛頭ない。
しかも紹介される相手は見紛うことなく、それなりの器量と確かな血筋と堅実な経歴の持ち主だ。
詐欺に合う心配もなければ、騙される隙もない。舅姑関係もむしろ良好だ。
こんな高雅な物件はそうそうない。


「どうかしたんですか」
「・・・いや」
「私のことはこれだけ聞いておいて、だんまりですか」

普段なら無視されたであろう事案は、同じ境遇であるというシンパシーは同種のようで、新城も珍しく友好的な態度を覗かせた。
完璧に進む男にも、思う節はあるのかもしれない。
同志憐れむ訳ではないが、共に同じ戦いに出る戦友であることは、孤独である決断を少し斑かす。
人は変わることが求められ、変わる環境に生きていく。
それも時が満ちたということなのだろう。

室井が僅かに片眉を動かし降参の素振りを見せると、新城が促しの視線を送ってきた。

つまりは最初から室井の異変を汲み、敢えて話を合わせてくれていたのだと室井はようやく察する。
会話術は確かに政治の場でも要求されるスキルで、どう話を持っていくかで頭脳と才能を査定される。
その意味では、少しやられた。

「別に、弱味を握って揺すろうとか小賢しいことを考えてはいませんよ」

悪ぶる新城の口ぶりに、室井は肩の力を抜いた。


「大したことじゃない。ただ、少し迷いが。・・・元々潜んでいたんであろう違和感に気付いてしまっただけだ」
「外界の騒々しさにやられましたか。クリスマスなんてキリストとは無縁の日本がよくやる・・・。それともマリッジブルーですか」
「女性じゃないんだ」
「男性だって人生を賭ける一大ギャンブルだ。青くなるくらい許されそうですけどね」
「・・・そうだな」

エレベーターの昇降音だけが静かに響く。

「順調なのでしょう?」
「ああ。でもこっちはまだ口約束で正式なものは全部年明けに回りそうだ」
「スムーズ過ぎて御不満ですか」


新城の揶揄に眉間を歪めつつ、室井は思考を散在させた。
だが、色々考えたが適当な言葉は何も浮かばず困惑を虹彩に暈すだけだった。
そういうことではないのだ。

キャリアであることに迷いはないし、一足飛びに縁談が進むなら望むところだ。迷わず突き進む新城に嫉妬もしている。
元々闘争心の高い人間ではないが、実学主義に生きてきたキャリア人生に異論はない。
ただ、マイペースで邁進することが基本である室井にとって
それでも乱れる心が今は疎ましかった。
身体の奥で警告のようにハザードが点滅している違和感が気持ち悪い。違和感・・・いや、その亡霊のような実態にこの間気付いてしまったことによる、向こう の違和感だ。


奇妙な沈黙が二人の間に流れる。
流石に新城に悪いと思い室井は持っていた鞄を場持たせに握り直した。
散漫している思考を掴み取れぬまま、舌足らずのままに思いを口にしてみた。

「ある人に、心は何処にあるかと問われ、咄嗟に答えられなかった。そしてそこに心がないこと・・・それは自分の心が確かに熱る場所を、別に知っているから だと、思った」
「・・・・」
「人は誤魔化し続けてどこまで行けるのか。誤魔化し続けた先はどうなっているんだろう。興味もあるし、取り返しのつかない酔狂なことだとも思う」
「誑した人生から逃げ出したくなりましたか」
「誤魔化せられるのだったら、それに越したことはなかった」
「結婚に求めるものを別にしたらいい。愛情や情熱ではなく、安らぎと居場所。そして明確な基礎能力」
「君は強いな」
「結婚の魅力を聞きたいのなら、一倉さんにでも振ってみたらいかがですか。熟した惚気が返ってくる」

二人の独身男は、共通の溜息を苦笑と共に漏らした。


声の調子を変え、新城が瞳の色も変えた。

「青島ですか」
「え?」
「貴方の交遊関係など知りもしませんがね。生賢しい貴方を惑わせることの出来る人物、結婚に経済力よりも心を気にするなんて青臭いことを言い出しそうな人 物・・・」
「・・・成程」

しょうもないなという風に新城が悟了を見せたので、室井の中の警戒心も少しだけ和らぐ。
だがまだ少し戸惑いを乗せたままの室井を、新城は顔色一つ変えずに一度だけ視線を送った。

「まだ続いていたんですね。途切れさせるおつもりもないのでしょうが」
「そんなに密に会っているわけではない」
「まあ、あんな風に懐かれて、あんな強さで信頼を寄せられ、期待され、全身でぶつかってこられたら、無理もない。流石に同情はしますがね・・・」
「・・・・」
「それも出会ってからずっとだ。・・・長い時間だ・・・」
「・・・ああ」

噛み締めるように室井は応えた。

「貴方の胸中に撃ち込まれた熱は想像付きませんが、あんなのを知ってしまっては、生半可な女では満たされないでしょうね。そこは期待しない方が利口だ」
「――・・・」


確かに、青島との共鳴は快楽を越えたような超越的な所で結実した、禁断の果実のようであった。
嵐のように風を起こし、太陽のように照らして、室井に新天地を拡げてみせた。
二人、何の柵もなく原理主義に徹し夢を語り合った時間はまるで眩しい宝石のようだ。
だが時間は容赦がない。
いつまでも生半可でいられるリミッターが迫る。
付いていくと青島に言われ、怖くなった。
道連れになることを望むのに、彼を巻き込むことが途端空恐ろしく思えた。

どこまでも入り込んでくる温かい情熱に、勇気も情熱も委ねてしまいたくなる。


「そういったことを、青島もまた、感じているんじゃないですか」
「まさか」
「傍にいることもつまらない男だと?」
「――」
「まさかこの程度のことで貴方に裏切られたと軽蔑されているとか言いませんよね」
「その程度には、信頼されているとは思いたいが」


室井はずっと、考えたこともなかった。
掴み取ろうとしている大きなもののために、犠牲にしてきた沢山の欠片が今になって惜しくなるなどとは合ってはならないことだった。
納得の上で青島を手に入れたつもりであったし、盟友であり続けると思っていた。

だけどそれは、相手もまた誰も室井を大事にしなかったから出来たことだった。
誰にも特別に想われない人生は、寂しく孤独であったが、気楽だった。
勝手に理想とできたし、勝手に心酔できた。
そんな強がりを言えたのも、背負うものを確かに背負わず、差し担っていなかったからなのだと、改めて弁える。

背負うにしろ、背負わぬにしろ、同じ責任を負わせる賭けはリスクも共有する。
割り切っていた筈でも、この先は彼を巻き込み、傷つけることだけは、したくない。
彼が何よりも大切だから。
その反動で、手に得た大事な欠片が零れ落ちてしまっても。

想いはいつもシンクロした。同じ想いがそこに渦巻いていた。
そんな彼を、ここに置いていく。
生涯忘れ得ぬ戦友となるだろう。
肉迫する飢餓は今更の十字架となって縛り付ける。
きっとどちらを取っても、痛みも後悔も、消えることはない。
許されたとは思わない。
死ぬまで、忘れることはないだろう。


「欺瞞だ。私は自分のエゴのために彼を利用したいんだ」
「そういうことに、しておいた方がいい」
「・・・甘いことを思ったのは、この季節だからだ、きっと」
「ええ」


到着したエレベーターの前には、照明の落とされた暗い廊下が闇へと伸びる。
新城が迷わぬ足取りで、降りていく。

人の気持ちは変わる。
自分で気付いていなかった本音に、後で気付くこともある。
そんな人生の脆さに、人はどう対処していくのだろうか。


「新城、君は引き返さないんだな・・・」
「ここまできたら、もう止まれない。引き返せない。褒美も詰まっている。・・・・行くしかない」
「健闘を祈る」
「言葉が違いますよ、室井さん」










5.
順調だった。
確かな軌跡を積み上げているという実感がある。
忙しい仕事の合間の逢瀬に文句も言わない女との食事は申し分ない。

レモンイエローのライトが無数に降り注ぐ店内は楽しげな顔と品の良い音楽で賑わっていた。
シーズンのため満席のフロアは豪華な装飾に埋もれ、いつもより肌の露出の多い女性が目立つ。
壁にはリースやベルの飾り。正面フロアには大振りのもみの木が飾られ、銀色の装飾が巻き付けられていた。
壁際をぐるっと囲んでいる赤や白を基調とした花々はクリスマス・デコレーションを意識したものだと分かる。

趣向を凝らしたコース料理が芸術的な盛り付けをされ、テーブルに運ばれてきた。
恭しく礼をされ、本日のメイン料理の特徴を細かに説明される。
テーブルごとに灯される蝋燭の炎がチラチラと揺れ、幻惑的な空気が優雅だった。
熟した赤ワインの芳香が薫る中でふと視線を上げれば、狙ったかのように彼女の視線も上がり、優しく微笑まれた。


夕食はいかがと定時間際に誘われ、室井は彼女の指定した高級フレンチ店で食事を摂っていた。
代議士である彼女の父親は、その世界では権力者として知られ、警察とも縁が深い。
何度か仕事で顔を合わせている内に親しくなり、やがて何らかの食事会の折に、うちの娘はどうかと問われた。

異質な経歴を持つ室井への縁談は、ここの所減っていた。
そんな中での申し出は、不死鳥のごとく蘇ってくる強運を高く評価されていて、東京へ返り咲いた後の室井への期待が見えた。
失態も汚点も評価に変えてくれる深い洞察。
最近は、よろしくとにこやかに肩を叩かれる。
それはつまり、彼女をさっさと抱けということなのだろう。
・・・・分かっている。
そして、一度抱いてしまえば、もうこの家督相続の螺旋から逃れられない。


「とても美味しい。昔から良く来るお店なのよ。お口に合う?」
「ああ」
「そう、良かったわ」

室井の弾まぬ返答にも嫌な顔一つ見せず、理解してしまったような気遣いを乗せる。
室井は口数の多い男ではないため、周りはみなそうだ。
だが今は、それが理解ではなく黙過であることを知ってしまった。知っていたことを改めて突き付けられたというべきか。
そんな風に後ろで静かに微笑むだけで、数多を察してくれる男の存在を知っている。
苦みが喉の奥にこびり付く。

嫌なタイプの女ではなかった。
かつて付き合ったどの女よりも教養高く、どの女よりも少しだけ、派手だ。


「この後はまたご予定があるのかしら?」
「いや、今夜はない」
「でしたらもう少し一緒にいられる?」
「・・・ああ」


露骨な誘い文句だ。
上品な口ぶりの裏に幾重にも張り巡らされた賤陋 で俗悪な罠が待ち構えている。
とりあえず悪意がないのが、幸いと言ったところか。

これが青島だったなら、その言葉通りの気持ちが裏にあるだろうにと、つい先日会ったばかりの男の顔を思い出す。
〝もう少し一緒にいたい〟――言われてみたいそんな台詞を、彼が自分に言う訳がないみすぼらしい妄想に没却する。

あいつが言うとしたって、それは約束だとか信念だとか少年みたいな誇大妄想だ。
室井が抱く癒えぬ瑕疵などとは対極にある、淫靡な色など欠片も持たない純潔だ。
いや、大差ないかと思い直す。
あの夜、初めて口唇に触れてしまったそこに、どれだけの陋劣な下心があったかなど、あの時の青島は想像もしていないのだろう。
捨てた。そう取られてもおかしくないような言い方を確かにした。
そう思って憎まれた方が、後腐れなく彼は幸せになれるだろうと思った。

だが自分だけ追い詰められた矛先はあの夜、口付けという卑劣な手段に成り変わった。
室井が仕掛けたのだとしても、先に触れてきたのは青島だ。
挑発に乗り易い男であることは百も承知で、でも、本当に乗ってくるとは思わなかった。

乗ってきたということが、どういうことを意味するのかも。


「どうか、なさったの?」

思考の溜まりに沈んでいると、目の前の女が訝しげに首を傾けた。
気付いているようで何も気付いていない女に、室井は湿っぽい笑みを落とした。

少し年の離れすぎている彼女は、元々室井の仕事の半分も分かっていない。会話も空々しいテキストの受け売りばかりだ。
だからこそそこに男の解放があると、彼女の父は笑う。
〝女はエスケープでいい。男はそれで戦う英気を搾取する〟

新城も言っていた。
そこに求めるものを間違えてはいけない。


「いや、すまない、こうしてゆっくりと摂る食事が久しぶりなのでつい、堪能していた」
「まあ」

花が咲くように笑う女に、室井は表情を緩めることはない。
眉間の皺は抑えて、控え目に瞼を伏せた。
このままいけば、今夜はこの女を抱くことになるのだろう。

男の英気は確かにこんな享受と認知で養われるのかもしれない。
豊満な胸を強調したようなドレスの胸元に、小さなダイヤモンドが光る。
先日室井がプレゼントした。


「ワインをもっといかが?」
「君も一緒になら」
「嬉しいわ。喜んで」


だが、室井の英気は鋭気に満ちた、あの目だ。
そして、たった一度だけ触れた、あの熱。

壊すつもりで仕掛けた罠はそのまま自分への戒めとなってしまった。
時が経つほどに熱を帯びていく。
青島はいつだって全力で室井にぶつかってくる。その分、全力の室井を全力で受け止めようと尽力する。それが出来る人間がこの世に存在したという絶望感は
今となっては無用の長物だ。

本気で青島が室井を鼓舞しようとしていたのなら、あの時の手段はキスでなくても良かった筈なのだ。

どうしてキスなんかしたんだ。
室井があの夜しようとしたことを、青島は正確に汲み取って、先に仕掛けてきた。
何故汲み取れたのか。男同士であるのに。
室井が仕掛けた。でも先に乗ってきたのは青島だ。何で乗ってきた。

あのキスが、どうしても、忘れられない。


楽しげに最近観たという外国映画の話をする彼女のウェーブがかった栗色の髪と肩越しに、白と黒の花が控え目に咲いていた。
シーズンだからそれらしいもので店内を飾ったのだろう。
ポインセチアの赤をメインに、周りを小ぶりの小さな白と黒の可憐な花で囲み、引き立てる。

それを胡乱に、女性の肩越しから室井は瞳に映した。


クリスマスローズだ。
小さき花であるクリスマスローズは、葉の尖った部分が腕や足などに刺さると炎症や皮膚のただれが見られることがあると聞く。
触れた程度では痛みは感じないが、時と共にその毒は体内を冒し、気が付いた時に皮膚がただれている。
毒草と呼ばれる有毒植物は犯罪にも使われることがあるため、昔捜査で関わった時に詳しく調べたことがあり、一通りの知識はあった。
トリカブトやジギタリスなどが有名だが、日本にも意外に猛毒を持つ植物は多い。

ポインセチアの影で控え目に咲く小さく可憐な花。
まるで、青島みたいだと思った。

目の前に座る可憐な女のような堂々とした存在ではないが、室井の後ろで絶対の信頼を寄せ寄り添ってくれる。

多くの人間は彼のあの陽気な雰囲気と派手なパフォーマンスに騙され、見逃してしまうが
本当の彼は劇場型の鮮やかな赤をダミーに本心を巧みに覆い隠す。
あの小さな花のように、主役を引き立て、その存在は儚い。
だが確かな残照を残す痕跡が、じわじわと、後になって毒に冒されていたことを知らされる。

毒がじっくりと時間を掛けて全身に渡るように、その痕跡はじわじわと室井を追い詰め、気が付いた時には手遅れになっていた。
派手に解決された事件よりも、その後に齎される地味な気遣いや幸せの英知を
そして、室井のキャリアを誰よりも賭していることを、時を以って身を腐す。

毒は、約束の証だけではなかった。
その存在の強さと陶酔に身を打たれ、恍惚を身の裡を蕩けさせている内に、その残照の濃さを今になって知らしめる。

あのキスが、時間が経つ程に熱を持ち、細胞を冒し、室井の記憶から消えない。


「今度、休暇など取れたら何処かへ行きましょうよ。海外などにも興味があるわ」
「ああ」


他人のことなど眼中になかった顔をして、その実、誰よりも繊細に心を痛める。そういう男だと分かっていて、分かっていたのに、傾く心を止められなかった。
人生の時間に終わりが見えた時、虚無感で支配されるのが怖いんじゃない。
それよりも、そういう感情を誤魔化していく内に感じなくなり、忘れていって、いつか見えなくなってしまう鈍感な感性になるのが、空恐ろしい。
そういう鋭利に研ぎ澄まされた刺激に騙されて、彼を貪り、骨までしゃぶり、喰らい尽して潰してしまいそうで恐い。

青島を失い、光も見失う自分が怖い。
絶望は、どんな方法でも形でも、もう室井から青島を切り離すなんてことは不可能であるということを示していた。
青島には何一つ残せずに、散って枯らしてしまいそうな己の底のない欲望は、圧倒的な激情となって、今も奥底から湧きあがる。


これではまるで青島に恋をしているようだ。恋なんて生易しいものじゃない。
目の前の女性を見る。
女性として成熟していると思う。身体のラインも妖艶で、男なら理性を飛ばし陶酔の時間を愉しめる、申し分ない人物だ。
だが、青島に感じる瑞々しい欲望と荒々しい情熱の方が、室井の細胞を沸騰させる。
よほど恋のようだった。


「この後はどうなさる?」
「先日のバーで飲み直さないか」
「素敵ね。あの時のカクテル、気に入っちゃったのよ」
「また注文したらいい」
「飲み過ぎかしら?」
「部屋も取ってある」

先日クリスマスプレゼントを支度され、手渡したあの夜は、ホテルのバーでカクテルを飲んだだけで終わった。
丁度仕事の電話が入ったからだ。
今夜はコールが鳴るだろうか。


青島を、ホッと一息つくような、そんな存在にしてはいけないのだと思う。
だが、確かに瑞々しい鋭気に魂が煽情されるように、室井にとってあれはホームだった。

彼の記憶の欠片をただ夜に抱くだけで、自分は気の遠くなる道のりをこれから幾夜誤魔化して行くのだろう。
レールに乗っかっているということがどれだけ恵まれ裕福であるかは、誰よりも室井が熟知していた。
目的達成のため、余計な労力を割かずに済む。無駄な反勢力を抑えずに済む。

揺るぎない信念と天府の質、決して穢れない魂に惹かれ、嫉妬した。
心の内から掻き立てられる焦燥が、室井を飛躍させた。
どうしたらこの欲望を捨てることが出来る。
どうしたらこの泣き喚いている心を鎮めることが出来る。

息が詰まるほどの絶望感を赤ワインで飲み干した。
進まなきゃならない時が満ちている。
室井の硬い口唇が動いた。

「近々、お父上に個人的に面会を申し込みたい。出来れば、君も一緒に」

室井が目の前の女に静かに口を開けば、ええ、と女は嬉しそうに微笑んだ。










6.
ふらふらと青島は街中を歩いていた。
世間はクリスマスムード一色で右を見ても左を見ても、何処を見てもクリスマスだ。
交差点でぼんやりと信号を待つ。

平日なのにみんなどこから湧いてくるんだろう。仕事はどうしているんだろう。
どうでも良い余計なお世話を抱きながら、その人波をただぼんやりと追った。
平日の夕方とあって、辺りはまだオレンジ色に染まっていた。
長い影が幾つもランダムに交差する。

退社には早い時間、学生たちがはしゃぎながら背後を通り過ぎていった。
寄り添う影の流れが目の端に流れる。


彼の作る倖の中に、俺はいない。
それがただ強く青島に圧し掛かった。

あの夜、室井は冷めた目で未来を語った。
言っていることは現実的だったし、どこにも幻滅する要素はなかった。
堅実な男の未来予想図を初めてその口から聞き、むしろ嬉しさの方が強かった。・・・途中までは。
もっと、別の言葉を聞きたかったのかもしれない。
もっと別の言い回しで語って欲しかったのかもしれない。

何を間違えた?
途中までは、なんてことない、腐れ縁の、男の会話だった。

どこか苦渋を飲んだような口ぶりは、この先の過重な未来に突き進む男のそれであって、壮年の男の熟成が見えた。
青島にとって、その余裕が、その諦めた感じが、癪に障った。
賭けたいと思った男の弱気な発言が、ここまで惚れこませたくせに逃げ出す臆病者のように青島の目に映った。


「・・・っ」

口唇を噛んで、俯いた。

なんであんなことをしてしまったのか。

室井にはもっと輝かしい未来で豪華な人生プランを生きて欲しいと願った。
勿論そんなことは夢想の塊で、現実の厳しさを知らない若者では、青島だってなくなった。
悔しいのは。
哀しいのは。
室井の捨て牌となることは範疇の内だったのに、現実的には室井の幸せに貢献できない身の丈を越えたはりぼてに過ぎないということ。

自分が情けなかった。
だって、あんな顔するから。

「ああぁぁもうっ」

小さく呟いて吐き捨てる。
身体の芯がじわりと熱っている。

なんでああいう手段でなければならなかったのか。
室井の目を見ていたら、瞬時に身体が動いて、後は頭の中が真っ白になって、追い詰められて、逃げ場がなくて
カッとなった勢いのまま、気が付いたら触れていた。
室井も仰天してたけど、やらかした自分の方が驚きだった。

男が男にキスするなんて、有り得ない。何の衝動だ。
それも、敬愛する上司だ。相手は未来の警視総監だ。

敬虔なものを穢した冒涜の罪状が、青島にとって一番辛酸なことだった。
室井が厭世的な気配を強め青島に迫ってきた時、男だからとか嫌だとかそういう表面的なことよりも
呑み込まれそうに背後に広がる闇と同じ色の瞳の中に、微かに浮かぶ自罰的な虹彩が針のように青島を突き刺して、もう、どうにもならなくなった。
どうしてそんな目をして、どうしてそんなことを言うのか。


「あうぅ~・・・・」

頭が沸騰しそうに茹だる。
やばい、また熱上がってきた。
頭を抱えてその場に蹲る。
大丈夫ですかと声を掛けてくる誰かの声に、片手を振って、紛らせた。

なのに、室井は罵倒するどころか、更に追い掛け、強く青島の口唇を塞いできた。
息さえ呑み込むように重ねられて、奪われて。
逃げる隙も、奪われて、強く、憂愁のままに刻みつけられた。
甘く、滴るような卓越したキスを残した男は、何も告げることはなく、そのまま去っていった。


信号が変わり、波が変わる。
のそりと膝を支え、人並みの渦に押され、青島も重たい足を引き摺り歩き出した。
足取りは重く、アスファルトに縫い付けられるようで、平衡感覚も危うい。
寒さを隠すためにコートの襟を立てた。

――こんな事をしたいわけじゃない・・・・俺はただ・・・・。
 あんたの瞳に映りこみたい・・・・それだけなのに・・・それだけだったのに・・・・。

何でおれキスぐらいでこんな追い詰められてんの?
いつもみたいに冗談ですって笑ってなかったことにすりゃいいことじゃん。
相手が室井だったというだけで、こんなにもそれは背徳的だ。
青島にとって室井はなんだったんだろう。
もっと気高く、もっと数奇で、もっと偉大だった。
こんなんじゃない。もう駄目だと思った。
劣等感が青島の心を苛ます。

あの瞬間、二人の描いてきた軌跡が澱んで別のものに成り変わった。
もう傍にもいられない。
あのひとの傍に、俺はいちゃいけないんだろう。近寄ってはいけない存在だった。

渡りきった交差点の音響信号機の音が止まる。
地下鉄の入口から生温かい独特の匂いのする風が青島の髪を揺らした。
ぼんやりと国道に目を投げる。
夕陽が目に浸みる。
ダークカラーのサラリーマンの群れ。
待ち合わせする女子高生たち。
年の瀬の風は古い記憶の土の匂いがして、哀愁を膨らませる。


時間も電車も止まってしまえばいい。
変わっていく時代の速度に、俺だけが追い付けない。

ずっと、一緒にいられるんだと思っていた。
変わらずに傍で見ていられるんだと思っていた。

見限られるのも、当然だった。もう道は重ならない。あんな甘い共鳴は起こらない。
生きていくって、そういうことだ。
死という終焉に向かって覚悟を決めるってことなのだ。


湿度を限界まで失くした大気はかさ付いていて、問いかけても渇いた大気に答えはなかった。
頼りなく揺れる前髪の間からオレンジに染まった夕陽が金色に揺れる。

一度だけ口付けたあの灼けるような熱が、まだ口唇に残っている。
また脳味噌が沸騰していく気がする。

知らなかった熱を炙り出す。
やっぱり、室井が好きなんだと思った。
その気持ちを認めてしまったことで、心まで痛くなった。


「なんで、なんで・・・・俺になんか優しくしたんだよ。 恋人にするみたいに大事に・・・・ どうして・・」

風が、冷たい。

「どうして、こんな・・こと」










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