ク リスマス・ローズ 1.5










2.
本庁の正面玄関まで来ていた足を止め、室井は背筋を伸ばした姿勢のままに振り返った。
わざわざ車を降りて見送っている青島が、運転席の向こう側からひらひらと緩んだ笑みで手を振ってくる。
影法師が弁柄色に延びる向こう側。
青島がどうしたのと首を傾げた。
透明に夕暮れを映す蜂蜜色の瞳は本人の口以上に多弁だ。

「少し休憩してから戻らないか。袴田課長には私に引き留められたと言えばいい。・・・もうそのくらいの融通は効くだろ」
「え、でも」
「珈琲くらい、驕る」

室井が表情一つ崩さず返事を待っていると、無骨な誘い文句にきょとんとしていた青島が、やがて口角を持ち上げ視線を逸らした。
冬の情緒を惜しむように流れていった大気の中で、北風が柔らかな土の香りを運んでくる。
堅牢にそびえる本庁の外壁が燃えるように反射しているのがバックミラーに映り込んだ。

「んじゃあ・・・・お言葉に甘えて?」

暮れの日没は足早だ。
西日の強さに室井が目を眇めるのと同時に、影の向こうから青島の変わらぬ声が届いた。


*:*:*:*


本庁の休憩室は上層階に位置する。
常に何名かのキャリアが打ち合わせをしていた李時間外れの食事を取ったりしているところだ。
室井と青島が連れ立って入っていくと一斉にざわめきが止まり、空気がどよめいた。

何かと騒ぎの渦中に居る二人として、庁内でこの二人の所縁を知らぬ者はいなかった。
否、二人揃った時の悪評として邪な目で噂立てる者が多数だ。
室井の広島異動騒動も、もう数年も前のことになるのに、あの時のゴシップ染みた噂と合わせ根強く遺恨は残る。
更に遡る青島との反逆もまた、室井が帰還したことで思い出したように動揺を孕んでいた。

どちらかというと名前と事件の派手さだけが一人歩きし、コレが「あの青島」だと初見する新米刑事もいて
休憩室は喧噪と共に二人の姿に注目された。
表沙汰にならなかった幾つかの真相は、むしろ庁内での噂話という語り部で、真実味を増していた。
騒ぎというものは、いつになっても風化させて貰えていない。


もうすっかり慣れてしまっている室井とは対照的に、好奇の視線に晒された青島が挙動不審気味に室井の後を付いていく。
時折意味の成さない愛想を周りに返している。
素知らぬ顔で室井は堂々と窓辺まで行くと、コートを脱ぎ、わざわざケトルを沸かし治しドリップ式珈琲を淹れた。
淹れたての珈琲を手渡すと、大人しく受け取る様子が彼がまだ委縮していることを窺わせた。
ぺこりと頭を下げるだけの礼に特に反応もせず、室井もまた湯気を立たせた使い捨てカップを片手に、二人並んで窓際に寄りかかった。


「・・・むか~しね、ほら一度此処呼ばれた時あったでしょ、あん時からね、コレ。飲み損ねてたから飲んでみたかったんですよ~」
「市販の珈琲だ」
「セレブの味です。憧れたなぁ」


声を潜めて青島が囁いてくる。
口唇を寄せ、内緒話でもするような二人の様子に、まだチロチロと視線は注がれていた。
外野にも青島にも反応の薄い室井に、そんな室井の不器用さを全て察してしまっているかのような青島の苦笑いが擽ったい。
どうしてだが青島には、思うように饒舌になれない胸の内も、もどかしさのままに燻る焦燥も、透き通るように通じてしまうようだった。
なのに、大事なことは何一つ、伝わらない。
伝わっていない、と思う。

「いいなぁ。このメーカーの、署に入れて貰おう・・・」
「あるだろ、珈琲くらい」
「でもこんな美味くない・・・」

しかし敢えて伝えようとも室井は思っていなかった。
広島へ飛ばされていた数年だって明確な身辺報告をしてきた訳でもないし、だからといって途切れてしまうこともなかった。
それが全てだと思っている。

室井がどうなろうと、どこにいようと、青島には関係がなく、だが変わらず接してくる青島の親しげな誘惑に甘え
奇縁が結んだ仲は付かず離れず細々と結び目を増やし、今も時折繋がってい る。
青島の財布事情に合わせ寂びれた居酒屋で交わす酒の味を覚えたのは、出会ってどれくらいの頃だったか。
二人で額を突き合わせる温もりの温度を知ったのはいつだったか。

この瞳に、この先も映り続けるためならば何だって出来た。
どんな嫌味も醜聞も苦難も厭わなかった。
熱く渦巻く心を大人の分別で秘めることも、甘い夢を捨てようと心決めたことも。


「これで夢一つ叶いました」
「ひとつ?」


わざと声を落とし、隠れるように寄り添う耳にかかる少しの煙草の匂いを、いっそ独占し見せびらかしたい気分で室井は満喫した。
奪えるものなら奪ってみろという気分だった。
この感情はなんなのか。
遥か昔に勝手に植え付けられた火種は突き止めることを放棄した今も、冷め止まずに室井の奥底をじわじわと疼かせていて
癖になる。


「刑事ドラマでもよくこうやって集まってさ、定番じゃん?」
「珈琲を飲むのが?」
「違いますよもぉ。分かってないなぁ。『そっちはどうだ、裏取れたか』『いやぁ、さっぱりですねぇ』」
「・・・・いつの時代だ」
「・・・にしても、すっげぇ景色ですね後ろ。ビルの窓明かりと隙間から見えるイルミネーション、豪華だな~」
「都心だからな・・・」

珈琲を片手で持ちながら啜り、室井が適当な相槌を打つ。

めっきりと冷え込んだ季節は温かい飲み物が身体と心に沁み渡った。
冬の夕暮れは急速に室内を薄暗く濁らせていて、燃えるような夕焼けが背後の窓に広がっている。
青島がふぅふぅと息を吹きかけているのが、なんか可笑しい。
カップを両手で掴むようにして持つ青島の指先がくたびれたコートの袖口から小さく覗いていた。
丸っこい、、子供みたいな丸い指先だ。


「このくらいなら湾岸署からも見えるだろ」
「俺的には旧署がおススメなんですけどね・・・。でも海沿いだから。結構都会夜景見てきたけど、ここは絶景ですよ」
「そんなにあちこち行っているのか」
「当然でしょ。デートスポットの定番ですよ。コンビナートとか。室井さんは行かないんですか」
「・・・・」
「かーっ、何その余裕。女の子落とすのに世の男共は色々と手間暇かけてんですよ。キャリア様には分からないんですねっ」
「・・・ここは案内出来ないな」
「!!」

青島が詰まった顔で固まった後、恨めしそうな視線を投げてくる。
おかしくなって、そして、室井の胸の奥がなにやらほんわかとした。
古ぼけた埃臭いの照明の中で蜂蜜色に光る青島の瞳が艶めいて見え、甘く視線が交差したのを室井は瞼を伏せることで遮断した。
狂おしいほど、熱いそれは、喜びだと知っている。


「これをまいんち見てんのかぁ」
「向こうのビルから丸見えだ」
「手ぇ振っちゃったり」
「よせ」
「深夜まで残業はあちらさんも同じか」

そう言いつつ、青島の気配は弾んでいて声は明るかった。少し高めで滑らかな青島の声はいつだって室井の耳を綿菓子のように癒してくる。
ずずず、と音を立てて青島が横で珈琲を啜る音が混じる。
熱心に夜景を見る瞳は、本気で純粋だ。

「・・・そんなに羨ましいか」
「まぁねぇ~」
「おまえが言っているのは捜一のことだろ」
「・・・・・バレた」

チロリと目を向ければ、青島も室井を見ていた。
寄せた肩が少しだけ触れ合った。


青島は誰かの役に立ちたくて刑事になったと、いつだか言っていた。
だからこそ現場に拘るわけで、その分、捜査一課への憧れはあっても、本気で強請っているわけではないことは室井には透けていた。
現場と中枢で戦うと誓ったその結束が、約束の真の価値を高め、自己価値を生み出し、室井を戦う男へと変貌させる。
だからこそ手放せないし、失うわけにはいかない。
その源泉さえあれば、室井はこの先を如何様にも生きていける。

青島が意味深にニヤリと笑みを浮かべた。

絡み合う視線は確かな熱を伝達した。
吐息も、気配も、淹れたての焙煎の芳香が湯気に乗って鼻孔を擽っていた。
可笑しなもので、実現不可能だと分かっていながら心が泣き喚く程に諦めていないことを、こうした一瞬が閃光のように室井に覚らせてしまう。いっそ、傍迷惑 な くらいに。
だから困る。
だからこそ戸惑いも大きく、得られる享楽は深く、境目のない関係は恐怖でもあり、そして。

室井は無防備なままに、余りに透明なその夜を映す瞳を見つめ返してしまった。
無意味に見つめ合う二人を、傍観者たちが興味深げに注目する。
無論、室井は気にしない。

どうしたものかと半ば自嘲を込めてその甘い瞳を内心傍観していると、不意にその顔がふにゃっと崩れた。
眉尻が下がり、なにやら苦みを潰した顔をする。


「・・・・」
「・・・・」
「・・・・なんだ」
「その・・・・ねぇ、駄目元でおねだりしちゃいますけど」
「言ってみろ」
「お、屋上とかって行けない・・・ですかね?」
「屋上?」
「ほら、ヘリポートみたいなのがある・・・ドラマでよく空撮されてるやつ」
「何を考えている」
「だって折角来たのに。こんなチャンス滅多にないのに。・・・見てみたいです」

ついでとばかりにずうずうしい提案をする青島に、室井の視線は心底呆れたようなものに変わる。

「本庁を観光スポットにするな」
「あはは~・・・」
「この夜景では不満か」
「ちがう・・・」

青島の眉尻が情けない程に下がり、恨めしそうな視線が上目遣いになる。
躊躇うように何度か視線が左右に振れた後、意を決したのか、スッと室井に身を寄せてきた。
甘い匂いと煙草の匂いが室井の視界を覆う。

「連れてって」
「・・・・」

耳朶に青島の吐息がかかった。
ゾクリと背筋が栗立つままに、目線を上げれば、至近距離で艶と光る水晶に自分が映り込んでいる。
理性で封じ込めた古の傷痕が色濃く咽ぶように浮かび上がり、室井の思考を腐食する。

「・・・・それに此処、キャリアの視線が痛いです」










3.
「すぅ・・・っっっげぇぇ~!一望だぁぁ!思った通りっっ!」


青島がファイティングポーズで叫んだ後、両手を広げて際まで走り出す。
モスグリーンのミリタリーコートがばさばさと風に煽られ細く金色に縁取られた。

青島の甘い声色に諭されたのか、或いは見世物にしてしまった罪悪感か
要求どおりに屋上へ連れてきてしまった自分に、室井は直ぐには追い掛ける気になれず、視界に捉えるに留める。
本庁の人間と言えど、本来ならば無断で許可なく侵入することのできない場所である。
だが青島の嬉しそうな態度が室井の心を晴らしていく。
そんな顔を見せてくれるなら、まあいいかと思いなおし、始末に負えない自分に室井はもう一度溜息を落とした。


「いい口説きのロケーション」

青島の後ろまで来て室井は黙って立ち止まった。室井の気配を察した青島が振り返りもせずに呟く。
風の音が青島の少し陰った声をも掻き消してしまうから、室井は更に一歩近づいた。

「・・・下心満載の感想だな」


先程まであれだけテンションを上げていた青島は、今度は打って変わったように闇の中に染まるイルミネーションを瞳に映していた。
どこか遠くを見るような視線は何を見ているのかを悟らせない。
指先を手前のポールに軽く乗せ、表情の消えた横顔は知らない男の影に沈んだ。

青島には子供みたいな無邪気さが未だに残っていて、時折覗く強気な瞳とのギャップが、室井を震えさせるが
急にこんな男の顔をされるとどうして良いか分からなくなる。
室井は少し困惑した不透明さと戸惑いを瞳に浮かべた。


「考えることは一緒でしょ。イイ雰囲気作って~、甘い言葉で酔わせて~、キスのひとつも出来たらな~、なんて、ね」
「君もか」
「オトコなんて皆そんなもんです、世間では」


風の音が室井の耳を閉ざす。
凍える心まで閉ざしていく錯覚に見舞われ、室井は啜り泣きのような風音に誘われるまま声も音も吸収されてしまう故郷の雪原を思い出した。
息吹も咆哮も、命さえ埋め尽くす、あの膨大な白い大地と山脈。
都会の冬は凍えるだけで漂白はされず、深々と、実態のない亡霊のように冷たさだけを訴えてくる。
それはどこか青島とシンクロした。


「人の陰口なんて、気にすることじゃないですよ。そんなの半分やっかみですから」
「後の半分は」
「いじわるですね」
「そうやって女を口説くのか」


耳を叩く風音が激しく、少し大きめに出した声もまた風音に半分掻き消された。
屋上は吹き晒しで、土台が一段高く周囲を囲み、申し訳なさげに据え付けられている手摺りが冴え冴えと月の灯りを銀色に反射する。
遮るものがなくなった展望は360度視界が開けていて、とっぷりと陽が落ちた都会イルミネーションがビーズを散りばめたように地平線まで広がっていた。
東京の大動脈が赤く連なる。

「好意も悪意も・・君のはただ、芋の煮えたも存じないってだけだろ」

青島が苦笑した視線を肩越しに室井に投げた。
ようやく出会った瞳は蒼に染まっていて、不意に豹変させた退廃的な気配に、室井は不覚にも呑まれる。

休憩室の滞在中ずっと囁かれていた陰口を聞こえていたんだなと室井はどこか他人事に思った。
室井が思う以上に青島は気にしていて、むしろ室井を救い出すために少々厚かましく屋上への移動を強請ったのだと分かる。
他人のことなど眼中になかった顔をして、その実、誰よりも繊細に心を痛める。そういう男だ。
そういう男だから人を救えるのだし、危なっかしくもある。


バタバタと、耳を殴る風音が煩い。
室井はもう一度確かな視線を青島に向けた。
それに気付いたかのように青島が今度は身体ごと振り返り、後ろ手にポールを握った。
コートがマントのように大きくはためく。


「あんただって・・・何か口説こうとしてたでしょ。ここなら聞きますよ」
「――!」

先に水を向けられ、逆に探っていた自分を見透かされていたことに、室井言葉を失った。
水を向けるということは、つまりはそれが真実を指している。
青島がゆったりと宙を仰いだ。
綺麗な喉仏が天に晒され、性を呼び覚ます造形が美しく誘った。青島がまるでこのままそこから落ちてしまいそうで、室井の心は急速にざわめいていく。
それはまるでスローモーションのように室井の眼球に映り込んだ。


「室井さん・・・・知ってるんですね・・・」
「・・・・」

黙ったことが答えだった。

「ちぇぇぇ~口の軽い奴らばっかだなぁ・・・」
「そこが君の言う仲間内ってやつなんだろ」

宙を仰ぐ青島は夜空に映えて、聞いていた通りだなと室井は思った。

「だから今日、俺のこと誘ったんだ・・・」


今日湾岸署に出向いた時、車を回している間に一つの噂話が聞こえてくる。
青島が捜査の中でまた一課の人間とやり合ったという話だった。
大袈裟にはならなかったが、軋轢が生まれ本部は混乱しているとの情報と、青島が担当から外されたという処分だけが聞かされた。

本庁の応援に駆り出されているうちにまた所轄の捜査が蔑ろにされ失態があったらしい。同じことが繰り返される日常だ。
被害者が出たということだけ、聞いた。
詳しくは、知らない。


「お節介ですねー」
「・・・君ほどじゃない」
「そんで?人伝に聞いて本店として苦情言いに来たんですか?それとも説教?」

先程までとは打って変わった瞳色が表れた。
一瞬にして、室井の肌が栗立った。

たった、これだけのことで。


「あんたの目的はなんだよ」
「目的・・・か」

風音で途切れる声が頼りなく背後の黒い宇宙に溶けて、予告なく吹く突風が二人の間を通り過ぎた。
スッと一歩前へ進み、室井は青島の真横に立った。
青島が不審な目をして、不貞腐れたように室井の態度を窺っている。
まるで捨てられた野生の小動物のようだと思った。


「そうだな、深く考えてはいなかったが。説教されたいか?」
「・・・はぁ・・?」

室井は階下に視線を向けた。
遥か下には国道がシャンパンゴールドの泡の中、ジオラマのように広がる。

青島が、弱った時、自分を頼らないことは分かっている。
恐らく愛想で室井に限らず誰もかもを煙に巻いてしまうだろう。
だからこそひた隠しに痛みを抱える瞳は健気というよりは痛ましく、いっそ腹ただしくさえ見えた。
どんな幉も縄も効果なく、食い千切って飛んでいってしまいそうな危うさに制御の無効を突き付けられる。
こんな風に、執着しているのは自分だけで
求めてしまえばきっと自分の方がより強くより深く絶望的に必要としているだろう執着が、忌々しい。


自嘲するように少しだけ口元を引き結んだ室井の視線が困惑したように僅かに伏せられた。
拭い去れぬ違和感と罪悪感に言葉を失い、室井はただぼんやりと都会の夜景を同じ色の瞳に燈していた。
沈黙を選ぶ室井に、逆に時間を持て余した青島の目が泳ぐ。

「あ~・・・。えと、そんなに・・・俺のこと気になっちゃいました?」
「――」
「あ、や!・・・えーと。‥‥冗談、です」

あまりにも室井が黙ったままなので逆に青島の方が諸手を上げてしまった。顔の前で両手をひらひらとさせている。
室井は思考を戻し確かな視線をチロリと向けた。
青島が後悔を浮かべるより先に、口を開く。

「だったらどうする」

素直に口に出したら、更に青島が絶句した。
怒声どころか、抗議の言葉すら出てこなくなった青島の気配を、室井は苦笑気味に追う。
一向に引かず、だが押さず、こんな屋上まで時間を割いて付き合い、誤魔化される気だけはないのだとだけ態度で示す室井に
青島はやがて、まいったとでも言うように、空を仰いだ。

「あんた・・・色々反則だ・・・」

湿った室井の吐息の裏で、くぐもった青島の呻き声が聞こえる。

「捜査の件について、やり方につべこべ言うつもりはない。ただ・・・そうだな、どちらの顔も立てるのが最良のやり方だとでも言っておくか」
「んな教科書みたいなこと、そっちでやっといてくださいよ」

ぶうと脹れっ面で青島が唸る。
それを横目で往なして室井は怯まず告げた。

「チームを組む以上、どんな猿山にも指揮を取るリーダーは必要なんだ。やり方をもっと考えろ」
「俺だって、あんたがジャイアン目指していることを否定したい訳じゃない」
「誰もがそれに付いて来れると思うか?人の闇は想像以上に深い時もある」
「別にあんたに尻拭いして貰おうとか思ってないですよ」
「今のままじゃ同じことだ」
「俺は俺の仁義を通したいだけだ。仕事って誰かがどこかで線を引いちゃったらそこで終わりじゃん。完璧でぶつかる からこそ完璧が返るんだと思いませんか」
「・・・青島」


彼の言いたいことも、もどかしさも充分伝わるが、それを今ここで自分たちが議論しても仕方がない。
室井は窘めるように名を呼んだ。

身の危険も顧みず、野生の嗅覚のままに事件の肝に首を突っ込んでいく青島が
このまま室井の手からも永遠に擦り抜けてしまいそうな錯覚で、室井を追い詰める。
一度知った喪失の恐怖は、絶えず今も熱だけを失った残渣として室井を苛ませていた。
彼を、失いたくないのだ。
警官として、それが間違いであっても、彼自身がそれを望んでいたとしても。
遠くでおもうだけの日々まで奪われたら。
身体を張ることを厭わず、命を顧みず、被害者も加害者も、そして仲間たちまでを一人で背負おうとしてしまう未成熟な片鱗は
だが気高く尊い。
責任問題と化すその前に、君が心配なんだという一言は、それでも最後まで口に出せなかった。


青島がくしゃくしゃともどかしそうに髪を掻き混ぜる。

「俺、また無茶言ってます?」
「・・・・いや」
「俺、全力でやり遂げたいだけなんです。和久さんは俺に刑事の在り方ってのを教えてくれた。今度は俺が、それを後輩たちに見せないと」
「いっちょ前に先輩顔をするようになったか」

迷い燻る若さと瑞々しさが、室井にはただ美しく見えた。
そんな時代を自分は過ごしてきただろうか。そんな時の狭間で数多の結晶に心砕いてきただろうか。

「刑事って・・・しょっぱい・・・」

声もなく、室井が吐息で笑った。

「そうでなきゃやっていけないだろう、刑事なんてものは」
「おっとな・・」

馬鹿にするというよりは、どこか冷めた嘲りのようにそれは響いた。
刑事として室井が彼に何か遺すものがあるのなら、それは願うところだった。
いつか思い出して貰えるのなら、この刑事人生も誇れるはずだ。


「焦っているか?」
「焦っ・・・・て、いるつもりはないですけど・・・、や、焦ってんのかな・・・。俺、あんたには置いていかれたくない・・・」

不意に掠れた甘えるようなそれは室井を絶句させた。
それは君の方だろうという反論を室井は辛うじて呑み込む。

見限られ、捨てられるのはこちらだとずっと思っていた。
青島は自由で迷わない。いずれ価値観を交差させている階級構造の中枢に位置する自分たちは、袂を分かつ運命にあった。
表舞台で火花を散らす日を心待ちにする特攻隊だ。
それでも宿命を共に出来るか、どこまで共鳴出来るかは、信じているという次元の話とは別問題で、天のみぞ知るところだと考えている。

「この先も、ずっと、一緒に行けたらなぁって・・・」

危うい本質を零す青島が、熾烈な共鳴を成し得た彼とは別人のような脆さを覗かせ、室井は喉の奥で震えた。
雄の嗅覚で理性より先に身体が反応する。

青島も、そんな風に思っていてくれたのか。
知ってしまえば欲は更に深くなる。

何もかもを共振させてしまいたいと思うのは、驕りだろうか。
それが叶わぬと知っていて、それでも心が欲しがっている。
その無自覚の言葉が不謹慎にもどんなに室井を喜ばせたか、青島は知っているんだろうか。
君と今この景色見れたから、俺としては満足だ。そう言ったら、君はどんな顔をするんだろう。

強い突風がまた二人の間を遮った。

「君は・・・変わるな」
「え?」
「・・・いや」
「そうそう簡単に大人にはなれませんよ」

聞こえてたんじゃないか。
室井は困ったように眉間を顰める。

「俺、かっこ悪い・・・」
「そうでもない」
「あんたみたいに割り切れないし、無力だなって思うし・・・、なんも出来ない・・・。些細な感情にも振りまわされる」
「だから経験だ」
「子供みたいにって思ってるでしょ」
「・・・・そこが君の良いところだろ」

一拍置き、青島にしては珍しく言葉を選ぶ迷いが伝わる。

「だから――・・・」
「え?」

何かを言い掛け、青島がまた口を閉ざした。
その置き去りにされたような目に室井は虚を吐かれた。

「青島?」
「だから・・・結婚するんですか?」
「え?」


一瞬、本当に何を言っているのか分からなくて室井は疑然と見入った。
拳を口元に宛て、青島が言い過ぎたって顔をしている。
細い髪が風にばさばさと浮き上がっていた。


「俺が聞ける立場じゃないのは、分かってるけど」
「・・・」
「俺じゃ、役不足、だから当然だけど・・・でも、その――・・・」
「青島?」
「この間見ちゃった・・・。張り込みん時に。あんたがカノジョとデートしているの」

ようやく合点がいく。
先日プライベートでホテルを利用したが、確か今メディアを賑わせている収賄疑惑の舞台も近くのホテルだったと一課の人間が言っていた。

「ちっこくて、ふわふわの、可愛いカノジョだった。結婚も秒読みだって・・・聞きました。なのにあんた、俺には何にも言ってくれなかったから」
「ああ」


室井が肯定とも承諾とも付かない生返事をしたことで、青島が気まずそうに苦笑する。
ちっくしょ、と小さな声がして、青島の目元を風が隠した。
その髪があの夜の彼女より柔らかそうだなとまた室井は見当違いのことをぼんやり思った。


「婚約したこと、話してくれても、良かったのに」
「言うほどのことじゃないだろう」

デリケートな部分にまで踏み込まれたことはこれまでなく、気恥ずかしさもあって、居た堪れなさが込み上げる。
室井は少しぶっきらぼうになってしまった自分の口調に眉を潜めた。

「お見合いしてたんですね・・・、って、当たり前か」
「ああ」
「式は来年?」

青島が不安な陰りを隠しもせずに見つめてくるのを、室井もまた心細さに耐え兼ねた子供のように、ただ見つめた。
変わっていくことは、この距離の終了を意味するのだろうか。
それはどこか切なさと恐怖を感じさせ、室井を少し緊張させた。


「・・いや。婚約もまだ口約束だ。詳細な打ち合わせは年明けになる」
「会議じゃないんだから、あんた・・・」

室井の定型的な口ぶりに、笑おうとして失敗した青島が、口元に拳を宛て、頷いた。

「・・そか」


結婚は、室井にとって審判の日だった。
階級も上がり、東京へ戻ってからはいよいよ出世レースは本格的となっていた。
もう失態は許されないし、何処で足を踏み外すか分からない。何で失脚するか分からない。またあの惨事のように適当な醜聞で足を引っ張られるかも分からな い。
失脚したら今度は個人の領域ではない。家族親族を巻き込んだ大事 に発展する。
だが本気で戦うつもりならば、そのリスキーな賭けは余る程の副作用を持ち、相応の対価を還元する。
欲しいなら、強靭な後ろ盾を防護壁に前へ進むしかない。

そんなギャンブルに彼を連れていくだけの自信はない。
だからこそ傍に置きたいと願う彼を、だからこそ巻き込めない。
いつか迎えに行くとも言えない。

矛盾した欲望の渦中で、それでも手放すことはできない脆弱と惰弱は、呆れるほど繰り返した憫然たる室井のパラドックスだ。

いつかは青島も恋をする。誰か一人のものとなって生涯をささげる。
これまで、青島を誰かに盗られることは然程現実的ではなかった。
だが自分の身辺が身勝手に形造られていくうちに、それは別の蟠りを室井の内部に燻らせた。
傲慢であっても駄々であっても、青島にとって一番でないことは耐えがたかった。
永遠に彼が手に入らないという審判だ。

だから、この話はしたくなかった。


「オメデトウって言うべきですか」
「まだそれは先だ」
「・・嬉しくないみたいにも見えるけど」
「官僚の結婚は政略結婚だ。家柄の価値だけが意味を持つ」
「うん・・・それも、そう、聞きました。それ聞いた時、俺、あんたが頑張っているんだなって思えて・・・少し、誇らしかった」

胸の奥がこの北風のように悲鳴を上げているのに似ている。

「やめてくれ。政略結婚は君が考えているような綺麗なものじゃない」


手放すことも出来ず、だが遠ざけることも出来ない。
欲しいなんて生易しい都会的な感情で想っているのではない。その原生の如く激しく要求する情熱を、視界がブレるほど溢れて飽和する。
都合の良い距離感で付かず離れずな幻想を愉しんでいたのに、その傲慢さを、青島本人が突き付ける。

吐き捨てた言葉は少し責めるように響いてしまい、室井は言い訳の言葉を探したが、適当な文句は何も出て来なかった。


「納得してないんですか?」
「結婚は男女の恋愛とは違う。そんな簡単じゃない」
「乗り気じゃないってこと?」
「別にこの人生を悔んではいない」

畳みかけられる言葉に追い詰められながら、思い付くまま弁明を口にするしかなかった。
結婚が秒読みに入り、どんどんと肩に掛かるものが重くなる。
ナーバスになっていたのかもしれない。当然だ、人生のレールが変わるのだ。
でもそれを、青島にだけは悟られたくないプライドがある。

「結婚が決まったって聞いて、俺、男としてカッコイイって思ったのに」
「・・・」
「あぁ、違うか。きっと・・・・室井さんのやることだからカッコイイって思ったんだ俺。・・・なんでも」

昔からそうだったなぁと青島が一人納得したように呟いているのが風に途切れた。
その顔に、その言葉に、室井の何かが打ちのめされる。


「そんなに買い被らないでくれ。結婚は手段だ。この先過酷なキャリアの道が待っている。その覚悟を求められるんだ」

口重く、吐き出すように室井の怒号が落ちた。

重責だけが重く押し潰す。
歓喜に導く光は見えず、遮る困難を踏みしめ越えていく。
それだけの戦いの果てに、痕跡さえも遺さず消えていく青島の温もりを秘めて、このために戦えると鼓舞することがどこまで出来るのか。

誤魔化せる所まで甘い蜜だけを吸わせてほしかった。室井にしては投げやりな曖昧な夢の誘惑の先送りだ。
逆に言えばその日さえ来なければ、夢を見ていられた。こんなみっともなく嘯いた妄想でも、室井には大事な宝だった。
その相手から、カッコイイだなんて、言われるほど惨めなことはない。


「・・・いいんですよね?信じても」
「信じるのはおまえの勝手だが、現実はちゃんとみておけ。・・・刑事だろ」
「なにそれ・・・」

突き放したような室井の物言いに、青島が息を飲んだ。

「投げ出すの。それとも次が出来たから、俺はもう用なし?」
「君にはそう見えることもあるだろう」
「それを俺たちは乗り越えてきたんじゃないの。なんで今更、そんな自分を潰す様な言い方すんの」
「それが此処で生きていくということなんだ」
「そんなの分かってますよ、分かってますけど――」
「分かってない」
「じゃあ、あんたの心は?あんたの気持ちはどこにあんの・・・?これは何のために戦い?」

正に今考えていたことを見透かしたように口にする青島に、室井の腹の奥がカッとなる。
心持ち声が大きくなった。

「それこそ散々見てきただろう!そんなものは最初からない!君もいずれ学んでいく」
「だから俺たちが目指したものがあったんでしょ!」
「ツールと目的は違う。所帯を持つことになった時に分かる」
「それ、結婚してなきゃ半人前って、馬鹿にしてる?」
「・・だったら」
「人を救う刑事が心を分かってやれなくて、どうすんの」
「刑事だからだ。刑事だから規律を護れ。心だけでは救えないと肝に命じるんだ」
「違うでしょ・・!」


立派な信念を口にしたって、その根源は突き詰める所、青島に見切られたくないという甘かな期待があることもまた無視できなかった。
その烙印が今、ありありと冬空に冷たく浮き彫りとなる。
身体が震えていた。
何の震えかも悟らせぬまま、室井の足元が崩れていく。


「約束は枷ですか」
「――」
「じゃ、なかったことしますか!俺たちも!」
「・・!」

絶句した室井に、青島もまた、瞬時にしまったという顔をした。
そんなことは、室井には口が裂けても言えない言葉だ。それを言えてしまう青島が悔しい。言えるだけの心の温度差が、哀しい。

「・・や、それは、ない・・・んですけど」
「・・・」

室井にとっては恐怖と紙一重の何よりも恐れている悪夢を、青島にとっては紙屑にもならないこの現実の乖離は残酷で。
分かりもしない青島に、今はただ悲しみが渦を巻く。

「現実を知って、怖じ気付いたか・・・」

それは自分のことだったかもしれない。
凍えるような風がまるで軽蔑するように頬を打っていた。

「なんで・・・なんでそんな中途半端なことしてんの・・・」
「誰もが君みたいに全部割り切って生きていると思うのか」
「俺だって割り切ってないですよ!」
「誰もが夢に向かってまっしぐらで、誰もが望む仕事に就いていて、誰もが自己矛盾なく社会で生きているとでも思って いるのか・・!」
「ちがうよ!でも!」


くしゃくしゃと髪を掴み、青島が悔しそうにもどかしそうに項垂れる。
青島もいつもの陽気さや生意気な余裕も影を潜め、変わっていく室井に付いていけず、心乱されているように見えた。
それを引き出したのが自分であるというなら、自惚れだろうか。

「あんたが、そんな顔すんなよ・・・」

青島が室井と正面から向き合い、怒りとも悲しみとも取れない瞳を煌めかせた。
ゾクリと栗立った背筋は同時に、最後の絶望的な己の情を突き付ける。

途切れさせたくないのは室井の方で、そんな傲慢に気付いてない。
失うことの本当の恐怖を知りもしない無防備さが、妬ましい。
その現実感もない要求は、こんなにも鮮やかだ。鮮やかな血の色で刻印する。
自分だけが。自分ばかりが。

「男なら!決めたことをうじうじ振り返るなよ!胸張って進んでいけよ!みっともないことすんなよ・・・っ」
「君に何が分かる。圧し掛かる責任の多さに押しつぶされそうな重圧も!ここから始まる傷のないレールも!・・・何も背負わない癖に!」

進みたくなかった。進まずに済むのならこの曖昧な距離のまま君に甘やかされていたかった。

「だから支え合うんだろ!何一人で決着付けてんの!」
「周りはみんな敵だ!頼る相手なんかいないのが官僚社会だ!」
「俺がいるだろ!」
「!」
「最初っから!俺たちずっとふたりだったじゃん・・・っ」


ああ、これはなんて美しい魂の昇華なのだろう。
やり場がなくなった想いや視線を噛み砕くように、青島の瞳は少し水面を湛えていて、直向きな眼差しを向けていた。
最後に見た景色が、あまりに美しく、劇的に湧き上がる。

室井の身体が寒さではなく強張り、長い間震えていたことを改めて自覚させた。
拳を堅く握り締めた指先が冷たい痛みを齎し、自分の状態を知る唯一の警笛はもう耳に届かなかった。

一歩を踏み出すことが、何も出来ないことがもどかしく、全てをなかったことにした。
ただ隣で寄り添うことしか与えられず。
傍にある権利も、今奪われる。

身体の震えは止まらず、下腹に力を入れ、室井は意思を込めて一度瞼を閉じた。
これが、最後だ。
武者震いなんかじゃない、これは、恐怖の幻影だ。

ゆっくりと瞼を開ける。


「その気もないのに・・・・気のある素振りをするな・・・」
「その気って?俺はあんたに賭けた」
「口先だけの誤魔化しが、俺に通用するか」
「本気だったよ!その覚悟を馬鹿にすんなっ、レールの上で温かい部屋の椅子取りゲームをしているあんたにこそ分かんないかもしんないけ !ど」
「・・・だったら、どこまで受け入れられるのか試させてもらおう」

掠れた声は風に掻き消されていたのに、確かにお互いにその耳に届いた。
不安定な突然変異が何かの境界線を一気に変化させる。

「・・?」

室井がぐいと青島の二の腕を引き寄せ、その頤を指で強く掴む。
低く唸るように漏れた室井の声に青島が怯みを見せた。
力を入れ過ぎて少し歪んだ青島の顔を、間近に寄せる。

「逃げないのか?」
「・・試すって・・・?」

二人の声は低く上擦った。
強気なままに怖じ気付かない青島の瞳は壮絶で、こんなにも穢れなき宝玉がこの世にあったのかと思わせる生命の輝きを湛えていた。
これが自分のものであったなら。
男なら誰もが心奪われる。幻が倒錯的な夜気に呑み込まれる。
熱い吐息が途切れがちに白く浮かび上がった。

室井の指先に力が籠り、少しだけ顔を傾けた。
眦に浮かんでいた涙が天空のライトに光るのを恍惚な想いで見遣り、小さく囁けばその肩がぴくんと跳ねる。
大気は心底うらぶるもので、素気なく包んでくる。

室井は眼光を強め、その焔を鋭く宿した。その変化に青島が怯えを覗かせる。

怖がっているくせに、強気な光を失わない。
その顎を強く上向かせた。

「今ならまだ間に合うぞ。私を突き飛ばして逃げればいい」
「・・・逃げて何かが解決するのかよ?」


刹那。青島の蒼の瞳が、キラリと光った。

瞬間――弾けた。


室井はネクタイを強く引かれ、そのまま濡れた熱いものに口を塞がれる。
軽く触れただけで震えて逃げたそれを、目を見開いて目に映す。

呼吸さえ止まった至近距離で交差する視線は闇に溶ける。

すぐに離れたそれを追い掛け、室井はもう一度掻き寄せ、奪うように重ねた。
両手で頬を掴み、しっかりと重ね治し、その夢幻のような口唇を確かに確かめる。
冷え切った温度は、直ぐにお互いの熱で混じり合った。


「・・ふ・・っ・・・」

片足で踏み込み、身体を寄せれば、青島が少し後ずさる。
青島の前髪が室井の額を擽った。
あったかくて優しい温度と煙草の匂いがする。

瑞々しい湧き水が出ずるような、激しく真正面から摩擦を起こす二人だけの瞬間が、いつも室井を如何様にも細波立てた。
強い彼の視線が身の裡から蕩けさせてきた。
なのに飢えるほどの物足りなさを自覚させ、もっともっとと強欲な自身を暴いてくる。

ああ、また青島のリードにやられた。

爛れた思考の片隅で、少しだけ恨み言を乗せた調べが室井の脳裏を過ぎった。
それもすぐ靄と風の中に消える。

顔を傾け、強く押し当て、角度を変えて何度も擦り合わせ、引いていくのを追い掛けて。
その度に深まっていく接触の熱だけが確かに現実を刻印した。
頬を掴んだ室井の指先に青島の髪が絡まり、きゅっと目を閉じた青島の長い睫毛が伏せた視線で微かに震える。
冷え切った青島のコートも頬も、それと違わぬ室井の指先も、ぎこちないながらに千切れそうに風に晒されていて痛覚が軋んだ。
耳元は轟音に近い風音で遮られ、他には何も聞こえなかった。

袖口から少しだけ覗く青島の指先が、室井のコートを縋るように掴んでいた。

掻き乱し、息をも止め、絶望と歓喜の境界の上で、この上ない解放と束縛を高らかに植え付けられる。
ひと時も自由でいさせてくれない。
こんな感覚は知らない。


「・・・く・・・ふ・・・っ、・・・っ」

初めてのキスは、室井の震えを、ぴたりと止めた。
その代わり、震えは青島へと伝染したようだった。



ずるずると青島の膝が力を失い、その場に崩れていく。
ポールに背中を押し付けたまま剥き出しのコンクリートに座りこんでしまった青島を解放し、室井は背を向ける。

「事故、起こすなよ」

それだけを言い残し室井は立ち去っていく。
泣きたいぐらいの、キスだった。
冷たく、強い、キスだった。

銀色に聳える鉄塔が、室井の視界の隅で凍ったように闇空を突き刺していた。




***

扉が冷たい音を立てて閉ざされた後に、また風が唸る。

「・・・奪われちまった・・・」

ぽつりと置き去りにされた青島が愕然としたまま零れ落ちる。
モノクロームの世界は何も映さない。









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