シー
ズン企画
毎年恒例クリスマスストーリー2025のつづき
聖都幻影 中編

4.
迷いを残した重い足は凍り付いたように動かせず、室井は立ち尽くしていた。
霧雨は身体の奥底まで入り込んで、霧の立ち込める視界には人影はない。
水溜まりを弾き、車が止まる。
そんなことはどうでも良かった、だがウィンドウが開いて聞こえた声に、ようやく室井に葉から落ちる水音や
表通りの車道の音が戻る。
「なに惚けてるんですか室井さんッ!!」
「・・?」
「早く!追ってください!本当に!!」
改めて現実を突きつけられ、室井は竦んでいる自身の足にも気付かされる。
同時に鼓膜に残る鋭利な言葉も蘇る。
革靴は電灯を反射し玉虫色にくすんでいた。
闇に囚われたようなスーツの裾は湿り、足指が悴んでいる。
雨が撫で上げた頭髪にも染み込んで、室井の額から鼻筋を伝い落ちた。
「室井さんッ」
「あ、・・ああ・・」
追って、どうするというのか。
捕まえて、どうするのか。
何を言えばいいのか。行き先は。組織は。親族は。
悴んだ身体に洩れる息が白く、歯を食いしばっている強さが凍えた先にも伝わった。
震えているのは寒さのせいだけじゃない。
新城が助手席から降りてきて、室井の前に立つ。
手には白地のタオルがあって、突き付けるように胸元に押し付けられた。
室井はそれをぬるい動作で見下ろした。
迷った思考は今の動作さえ億劫にさせていて、新城によってもう一度押し付けられたことで足元はよろけた。
青島に捨てられただけで崩れ去りそうな男の脆さに、新城が顰め面をした。
微かなデジャブに眩暈を覚え、受け取らされるまま、またしても拳を爪が食い込むまで握り締めていたことを知る。
ふわふわの乾いたタオル地の感触はどこか凍えた室井の心を泣きたくさせた。
「逃げられますよ。そして、あの手のタイプは、消えますよ、一生」
「し・・、ん、じょう、なぜ・・ここに・・?」
「それはどうでもいい、誰かに捕られていいんですか!」
「・・追って、私にしてやれることが・・」
「ただ引き留めればいい、それだけの話なのに、貴方は何故止まるんです!」
「・・しかし・・」
歯切れの悪い言葉に吐く息が目の前を白く霞ませ、冷たい12月の空気と礫は更に芯を悴ませていく。
その痛みが、次第に室井の意識を冷静に、明朗にさせていた。
それは胸に突き刺さったままの青島の言葉の鋭利さも伝えてきて、室井は拳で眉間を叩く。
新城もまた、呆れた顔つきから車に手を伸ばし、バックドアを後ろ手で閉めた。
「室井さんが青島に縁を切られても傷は浅いというのであれば、先輩に対し余計なお節介でしたと反省します」
「・・先輩・・」
「警視監までなられた御方ですので」
「君もだろう」
「もう二度と会わない。それが今生の別れになってでもですか?」
「お前・・どこから見ていた」
「・・たまたま通りがかっただけですよ、送迎の帰りにね」
気怠く見れば、運転席にいるのは先程まで新城宅でお世話になった給仕の使用人だった。
目が合い室井は軽く一礼する。
いつもなら南が送迎を買って出る流れに、今は仕事じゃないことを改めて突き付けられた。
青島に、仕事上、衝突して逃げられたのではない。
金輪際、室井の人生に関わらないと言って逃げられたのだ。
奇妙な間を継続される居たたまれなさに、室井は新城を直視できず、彷徨い、それから顔を背けた。
逃がしてはもらえないらしい。色々なものから。
そもそも逃げたかったのだろうか自分は。
口端を歪め、手に持っていたタオルを遠慮なく使い、適当に顔や肩を拭いつつ、室井は息を落とす。
「傷が、浅いわけないだろう・・人生の一部となるほどの長い年月だ。致命傷に決まっている」
「・・青島に、告白させておいて、放置していたのですか?」
しっかりと会話を聞かれている。
ここにきてようやく室井の漆黒が新城をギョロリと睨み上げた。
だが、どこ吹く風の新城に、室井は、思えばこんな胸の内を晒せる相手が自分にはいなかったことを打ちのめされた。
いつも一人背中だけに背負わされて決断だけ求められる。
いつも一人立ち竦むとき、そこに新城がいた気がする。
「俺たちの悪運に振り回されているな、君も」
「ようやくお気づきですか」
思えば長い月日だった。
青島と出会って、極彩色の日々を貰えた。
新城と戯れて、衝突して、妍を競った。
「なぁ、新城。護るってなんだ?どうしたら俺たちは共に戦えたんだ?」
「手を取るだけで良かった、恐らく、青島にとってもね」
「そんな無責任なこと・・できるか・・」
「青島だって多くを望んでいないと言っていたじゃありませんか。あれは本音でしょう?」
「・・・」
「色々雑音は届くでしょうがね、貴方のお立場ですと。しかしその先のことは二人で考えていけたら、それは充分な“共闘”なのだと私は思いますがね」
護って欲しいわけじゃない。
庇い合い、傷を舐め合いたいわけじゃない。
駆けつけてやればいい、あの頃は何も迷うものはなかった。
欲望の無かった自分のルールが崩壊した一瞬だった。
「いいじゃないですか、追いかければ。貴方がたが手を組もうと、悪巧みしようと、そんなことは上層部は織り込み済みだ」
「盗聴器でも付けられたら終わりだ」
「寝物語など、それこそ隠し合えばいい」
新城の目と室井の目が交差した。
何とも言えぬやりきれなさを共有し、お互い笑うことに失敗する。
手放せるのか?自問に答えは明白だ。
今、青島に別れを切り出されて、それだけでこんなにも竦んでいる。
逃げられて、こんなにも不安になっている。
二人で途方に暮れればいい。逃げることだけは選択しない青島の、それはエールだったり、コンセンサスだったりする。
遠くには人々の声が漏れ聞こえ、クリスマスの甘い時間を夜の街に伝えていた。
影絵のようにゆらゆらと千切れるそれは、時に反射し時に闇に紛れ、途切れ途切れの声と七色のリズムが華やかな時間を謳う。
あんなにもたくさんの人がいるのに、室井は青島しか選べない。
選べないから足が竦んでいる。
「私は・・アイツがいないと・・動けない・・」
「そんなこと、最初からすべての警察署員が知っていますが。上層部も含めたタヌキジジイまでも」
「私はそんなにひ弱か」
「室井のキーマンとなる男がノンキャリにいる、大抵の人間の考えることは同じです」
「・・使い道などないだろう・・」
「切り札は持っていて損はない。目障りになってクビを切るか、或いは、目障りにすらなれない男として捨てるかは、神のみぞ知る、だ」
室井は湿ってしまったタオルを目頭に押し当てた。
震える肩は、寒さによるものなのか、凍えた心が引き起こしているのか、或いは身の内から湧き出る愛おしいものなのか、もう明確ではなかった。
いつかの室井を無責任と責めない新城は、ならば今の室井の決断を無責任だと責めるのだろうか。
現実はいつも意地悪だ。
こうやってある日突然奪い去っていく。
「君なら、行くのか・・」
「好きだと言っておきながら手を出さないなんて恥はかかせません」
「手厳しいな・・」
「想いを伝えられただけ、マシですけどね・・」
言わせてももらえない鎖が新城にもあるのだろう。
お互いが我慢し合って、大事にしているつもりが、傷つけあうことになっていた。
大事にしているものが、自分の弱さだとしたら、それは傲慢以外の何物でもない。
それでも自分が危ういところで保たれいるその箍を外した時、どれだけ残酷になれるのか、想像もつかない。
食いしばるように誤魔化して来た情動を、新城は知らないのだ。
「捕まえて・・いいんだろうか・・」
「貴方は、一番大事なものを失ったと言ってましたね、世界が色褪せると。その色褪せた世界で、青島もまたぼやけていたのですか?」
「アイツは・・、アイツは・・」
「大事なものを見失ったら、道標を見失うのと同義だとは、貴方が一番ご存じでしょう」
出会った頃は迷いもしなかったものが、今はこんなにも足枷になる。
それは、積み重ねた年月だったり、育んだ情愛だったり、形に見えないものが確かにそこにはあって
それがいつしか自分の一部となっていて、欠けることを怖れるハンデとなっていくからだ。
慣習とは、躾けとは、呪いなのだろうか。
室井にとって青島は失ったかつての穴を補う破片として、価値を与えながら室井を再生させ、本能として抱く瑞々しい欲望まで漲らせ
本当の意味で蘇生させた。
瑞々しく滴り落ちるその感覚は、かつて青島が血を流して倒れたあの時の喪失に近く
今、相まみえた。
あの日のコートを染めた血の光景は異常なほどに室井の脳裏に焼きついている。
「そんな、簡単じゃなかったんだ」
「難しくしたのは貴方です。最初からシンプルでしたよ青島は。誰よりも」
穢れなき魂を宿すあの眩しい存在が、自分を見つけてくれた誇らしさと、出会わせてもらえた奇跡に
一体幾度、天に感謝を祈っただろう。
宙に放たれたもう届かぬ愛情に、見上げることしか出来ぬ悔恨と哀傷を抱いて生きる年月は長すぎて
無邪気に振舞うだけの精力を奪った爪痕を誰よりも知り過ぎていた。
臆病なのは、失う怖さではない。
このままでいいと思った、今の居心地の良さだ。
「手を出すのが恐いと言ったら君は笑うんだろうな」
「勃たないのですか?」
「おい・・」
「確かにおっぱじめてからの中折れは恐いですね、年齢的に」
「・・そんなことを言っているんじゃない・・」
「まさかヤり方が分からないと?男の風上にも置きたくない」
「手を出したら止まれなくなりそうで恐いんだ!」
「成程?青島相手なら絶倫になれると」
意地悪く新城が笑んだ。
盲目的に喪失に囚われた室井の気を紛らわせてくれたのだ。
言わされた失言に、だがあながち間違ってもいない不安に訂正するのも気恥しく、室井は咳払いをして会話を圧しとどめた。
白いタオルで雨を拭う仕草で間を繋ぐ。
顔を背ければ、新城もまた止まったままの車にジャケットが濡れるのも厭わず背を預けた。
二人見上げる空に星はなく、吐く息が暗黒の空に細く登っていく。
「なあ・・、俺は間違っているのか・・?」
「貴方らしいですよ逆に」
「今のこの幸せを護りたい、それだけだ。それだけ、だったのになぁ」
聖夜に見るのは一夜限りの倖せで、それは現実を変えられず未来に進まない幼さにとても似通う。
連綿と続く血の継承者に、躾けを呪いにしてしまった掛け違いを、そして同じように組織という巨大な構造物の中で課せられてしまった賭け違いを
自由で駆け抜けていく彼とはまるでそぐわないと知りながら、どこかで救われる道を与えてくれるのではないかと期待している。
「アイツは何も言わないから」
陽気に、無邪気に、時に柔らかく傍にいて微笑むだけで、多くを語ってくれない。
仕事の意見相違のように真正面からぶつかってこない。
物足りなささえ覚えるその裏に、一体どれほどのものを内包していたのだろう、青島は。
だが、それを全部受け止めれやれるわけではなかったから。
「恐いのでしょう?捨てていくことが」
「まだ美味い汁が底に残っている気がする意地汚さだ」
「聖夜に返り討ちに合ってみますか」
それはそれでコワイなと室井の眉尻が下がる。
ようやく砕けた表情に、新城も肩を竦める。
雨脚が弱まって霧が深くなった緑色の大気がどこまでも街角を覆い隠していた。
細かな水滴が光となって、電灯を反射しオーナメントのように視界に粒を瞬かせる。
ここは聖夜の分岐点だ。
「君は結婚しないのか」
「今夜の腹探りも、その一環だったと推測しますね。年明けには恐らく縁談が組まれているかと」
「子孫を残すことを切望されているのか」
「直系血族の効益も身を持って知っていますからね」
ふと、気になって口にする。
「君は、誰か心に決めた相手はいないのか?」
「私にも惚れた相手くらいいましたよ。意外ですか?」
過去形で白状した言葉に、それ以上の追及を拒む意図を見る。
結ばれぬ運命だったのは、どこか重なる幻影に、飾るものなどない。
どういった思いで新城がその決断をしたのか、痛む胸はただこの聖夜に自分と酷似した。
それは、新城も同じだったのかもしれない。
「先祖に言い訳出来ないな、俺は」
「ざまあみろ、です」
「だから私を嗾けたのか」
「折角送り狼になれる切欠を与えて差し上げたのに、使えないなんてガッカリですよ」
バックガラスに寄りかかったままの新城が空に息を吐けば、室井も真似て空に投げる。
冬の匂いだ。
何年も前から変わらぬ都会の冬の匂いは、懐かしさと幻想を不用意に抱かせる。
恐がってばかりで、立ち竦めば、時間は止まった錯覚に陥った。
動けなかった。
だが日々は確実に動いている。年を重ね、人生の終焉を意識した時、人は何も残せなかった自分に気付く。
残された時間の少なさに、惧れをなすのかそれとも絶望するのだろうか。
そんなことは、とうに知っていた筈だ。
動けなかったのは、抱き潰してしまいそうだからではなくて、ボロボロになった自分を立て直してきたこの場所にも
それなりの美点はあるからだ。
「確かにお節介だな・・」
あの頃の瑞々しい衝動と共に、青島の幻影は室井の中で今も色鮮やかに生き続けてる。
失くすことなどもう出来やしない癖に、残すことを抗っている。
失言だと思った青島の言葉を、室井がどんな思いで聞いていたか。
奮い立たせる熱量に、室井がどれだけの憎悪にも似た嫉妬をしていたか。
大切なことは何も伝えていなかった。
心の内の全てを伝えきることが出来る術があれば、この胸の痛みも消えるんだろうか。
「私を軽蔑しているか?」
「これ以上取りこぼしたら」
「何でそんなに押すんだ?」
「さあ・・これも、この、聖夜の幻でしょうかね」
何かの罪滅ぼしなのかもしれない。
みんなが誰かの罪を赦して、誰かのサンタになる。
5.
クリスマス・イルミネーションは表通りに沿って並のような長々とした光の束を作り出していた。
青や緑の光の粒が無数に瞬き見る者の目を眩ませ、浮足立たせる。
ささやかな恋人たちの足並みを彩って行く中で、たくさんの人が行き交う通路は先が見えず
皆がそれぞれの相手と光に夢中で、誰も周りを気にしない。
雨は止んでいて、腕を組んで歩く人波は、吐く息の白さも忘れるほどごったがえす中
誰もがみな笑顔で通り過ぎていく。
目当ての人影は割とすぐ見つかった。
人波を避けた街路樹の鉢に一人腰かけ、俯いている影は、一人きりというだけでなく、室井の目を奪った。
長い足を放り出し、両手を膝の上で組んで、指先で煙草を弄ぶ青島は、光のオブジェを見上げるばかりの中で、それはとても寂し気に見える光景で
室井は声をかけるのすら躊躇い、立ち止まる。
青島の手元に残る煙草の煙が、またひとつ、灰を落としていく。
彫の深い整った造形に、端正な顎のライン。こめかみまで撫で上げていた柔らかい髪は崩れ、水滴を纏う光の中に溶け込み
食事会のためのスーツも濡れていて、いつものコートは色が変わったままだ。
濡れ鼠となった、それでも気品と愛くるしさを損なわないのは、彼本来の持つ雰囲気によるものだろうか。
人目を引くスラリとした体形は、見映えも良く同時に色香を併せ持っている。
誘う気がなくても誘われてしまう魔力のような毒は、こんな闇夜に相性が良い。
トラブルとなった際に付けられた傷跡もまだ生々しく、それは、息づいた生命の美しさをありありと齎していた。
ピチャリと水溜まりが鳴る。
黒いスーツに黒のコートという室井の容姿もまた浮いており、青島もまた割とすぐに室井に気が付いた。
逃げることもなく、丸い目をくりりとさせ、またそのままそっぽを向いてしまう。
不貞腐れたような、甘えたような、むくれた姿に、ようやく室井は止まっていた足を動かし近づいた。
「帰っていなかったんだな」
「・・帰るよ」
言い捨て、またプイっと向こうを向いてしまう。
その横顔を見つめながら、室井は静かに横に立ち、光を纏う細く滑らかな髪を見下ろした。
一旦上がった雨は空気の清浄さと冷たさを残し、まもなく12時を迎える空を寒々と凍らせていく。
青島のセットしたような濡れた髪から覗く首元が寒そうに伸び、うざったそうに額を拭った動きで飛んだ粒まで、さめざめと地面に落ちた。
「私が、少しも君のことを大事に思わないとでも思ったか」
大切なものが擦り抜けていく絶望と喪失を知っている室井が、今ある何かを切り捨てられるわけがない。
それが例え愛情という生温いものではなく、執着だったり脆弱さだったり、幼稚さだったとしても
確かに言えるのは、粗雑に扱うわけがないということだ。
「・・もういいって言いましたよ、その話は」
「あんな捨て台詞残されて、放っておけるか」
だがそれに青島が答えることはなく、ポンっと身軽に腰を上げて、背を向ける。
また消える、思わず室井は手を伸ばした。
その指先が室井に触れる、その刹那――
「俺、秘密を知ったら殺されちゃうのかな?」
「え?」
タイミングを見透かしたように発せられた言葉に、室井の指先は空で止まる。
言われた意味も消化できず、室井は事実上、青島に足止めされた。
それが青島の狙いだったのか、偶然だったのか、その判断もさせてもらえず、室井は二の句を失う。
肩越しにニヤリと振り返る顔も寂しそうで、室井の眉間が深まった。
「俺、あんたのこと、なんにも知らない・・あんたの昔語りは正直面白くないし、俺が話したかったのはそういうことじゃなかったし」
足元の小石を蹴って、肩越しに視線を投げる青島の、雨に濡れた髪が光に揺れる。
光に縁どられた青島はただ純潔の麗姿だった。
「俺が嫌だと言えばあんたは逃げる。このシーソーゲームから。
やめてと言えばやめてくれるし、居てと言えばこうして待ってもくれる
俺が消えても、いてもいなくても、きっとあんたは変わらない。だったら、先に進めないあんたは、いくじなしだ」
青島の声が、一つ、小さくなる。
「さよならを、言えない俺も・・いくじなしだ」
思わず伸ばしそうになった手も、堅く拳が握られたままだ。
青島の言いたいことは室井の心の内そのものだったし、室井こそ、青島のすべてを知っているというわけでもない。
見せ付けられた事実というものは時として残酷で無慈悲だ。
ツリー点灯時間が過ぎたのか、駅へ向かう人の群れが増え、足早に行き急いでいく。
新城の教えによると、メイン通りに出てしまうと駅へと向かう方向と、ツリーの飾られる広場へ繋がる方向の二極化で
人垣の流れは偏り、有象無象の動きにも隙があるのことだった。
その流れが、変わっていく。
もうすぐイブが終わるのだ。
「俺なんか切り捨てて、先行けよ、室井さん」
ようやく思い余った手を伸ばし、室井は青島の二の腕を後ろから引っ張った。
力なくバランスを崩して傾いだ青島を、羽交い締めするように、そのまま背後から抱き止める。
「おまえがいないと、だめなんだ」
「・・・」
「もう、自分を誤魔化すのは止めだ。どう抗ったって、俺にはおまえが必要なんだ」
初めて腕に落ちた想い人の身体の衝撃に、目が眩むような震えを覚え、室井こそ足元が竦んだ。
否、身体に触れたことや、抱えたことくらいはある。しかしこうして室井が雄の意味を持って抱き留めたのは初めてだった。
だが、呟いた室井の言葉に青島は返事をしなかった。
少し背の高い青島の肩に額を押し当て、室井は青島に回した腕に力を籠める。
鋭利な青島の言葉は室井の胸をも突き刺し、氷のように手足から奥深くまでを凍えさせた。
そのくらい、室井にとって青島が消えることは、身を引き裂かれる残虐に等しいのだと、愚かにも本人によって呪縛される。
「どこにも行かないでくれ。俺はおまえがいい」
「ずるいよ室井さん。自分は何も見せない、何もしないで、俺の気持ちは全部知ってるくせに、自分の気持ちも見せない」
「そんなつもりは」
「俺が待ってたのはそんな言葉じゃない、本音を聞かせてくれるだけで、よかった、のに、」
「青島、」
「付いて行くことは許してくれない」
「・・・」
「知らない男に賭けるって、しんどいです 俺一人勘違いしてるだけなの?恥ずかしいよ」
「護りたかったんだ」
「ナイト気取りかよ」
室井の腕の中で室井の腕を振りほどこうと、青島が身を捩る。
だが室井の腕がしっかりと周り、それを許さない。
暴れ、大人しくしない青島の顎を背後から捕まえ、室井は耳に口唇を押し当てた。
視界に青島から垂れた水滴が光飛ぶ。
嫌がる怒りに濡れた美しい瞳が室井を強かに責めていて、それさえも室井を虜にした。
海の匂い、煙草の臭い、愛しい男の温かな肉感。手触り。なんという衝撃なのだろう。
久しく感じていなかった感覚に、眩暈がする。
「ふざけんなよ、俺、そんなの要らない、秘密知って殺される方がましだ――」
愛していた。誰よりも大切な人。
青島の気持ちを知った時は簡単に出てきた言葉が、今はまるで出てこない。
何もしてやれなかったこと、何も成し得ていないことが負い目となって、室井を凍てつかせる。
赤子のように、溺れる者のように、抱きすくめる傍から消えていくぬくもりが、室井に手応えのなさを知らしめて
まるで嘲笑うかのように冷気に奪われていくのは、自らの孤独と罪を同調させているみたいに思えた。
室井は奥歯を食いしばりながら、青島に回している腕の力だけを強めた。
暴れ、逃げ藻掻く青島の、濡れて冷えた身体をただ抱き締める。
ずっと触れたくて触れられなかった躯体の重みと肉が、飢えた手に胸に嗅覚に視覚も刺激となり、室井の脳裏に刻まれていく。
恐らく救われたいのは自分なのだ。
「ずるい、ずるいよ室井さん・・っ」
腕に込めた力を増して、片手で頭部を抱え込み、室井は縋るように、懇願するように、ただ青島を抱き締め続けた。
背後から羽交い締めにされた青島は突き放すことも出来ず、腕を振り払うことも敵わず
息が乱れ、次第に抵抗が弱まっていく。
「ん・・っ、も・・っ、やだ・・って!やだ!ん、も・・ぉッ、室井さん・・っ」
往来はまだ人波も多く、何事かと通り過ぎる人の注目を浴びた。
だが、寒さと雨脚の悪さで、立ち止まる人は多くない。
世間などそんなものなのだ。
あれだけ欲しがり、ようやく抱き留めた躯体の感触を、忘れまいとするかのように、力加減も忘れて室井はただしがみ付いていた。
悴んできた指先が、ただ一つの手触りを教えてくる。
これが聖夜の幻ならば、ひとときの空夢を取りこぼしたくはなかった。
ここで力を抜いたら本当に彼は消えてしまう。
「・・はぁ・・っ、今更、なんなの、もぉ・・」
「・・そうだな・・」
「俺・・逃がしてももらえないの・・」
「・・そうだな・・」
根負けした青島が身体を室井に預け、力の抜けた身体を傾いで室井に委ねる。
「は~あ・・、なにやってんだか・・」
「・・そうだな・・」
男の欲望に任せて身を貫いてしまえば、何かが変わっていたのだろうか。
口付けて、思いの丈を注ぎ込み、覚えさせた記憶があれば未来を受け止められたんだろうか。
思えば青島は従順とも言える率直さで、室井を支持し、室井の意思を従容と受け止めていた。
青島が何を考え、何を思っていたか、全てを理解していたわけではない。
どれほど膨大な感情を内包して選択してきたことなのか。青島が気持ちを告げた後、目立った抵抗をしたことはなかった。
正直に生きることを勇気と呼ぶのならば、やはり現実はいくじなしだ。
「しあわせ・・に・・なりたかったなぁ・・」
「・・そうだな・・」
遠くではまだメイン会場のクリスマスソングが微かに漏れ聞こえ、通りの人垣もまだ大勢の恋人たちが
それぞれの世界に浸って過ぎ去っていた。
終電の時刻が迫る。
チカチカと色を変える視界は冬の大気に機械的でぬくもりもなく、無機質に繰り返され
見せ付けられる光景はごく普通のありふれたものなのに、どこか遠く異世界の出来事のように映り、流れ去っていた。
手にしたかったのは、あんな風に一般的で、凡庸的で、平凡な日常だった。
吐く息は白く、視界を滲ませる。
霞んだ視界の先に光る点滅に、今は目を閉じ、息さえ憚る。
置き去りにされたように、街道の光の束からは外れていた。
12時を回る。
今、世界は二人ぼっちだった。
