シー
ズン企画
毎年恒例クリスマスストーリー2025です
時間軸はODF後のおっさんズにしました。政治描写はテキトウ。ズルズルときちゃっただらしない男二人と新城さん。
三者の思いが奏でる聖夜の夢物語
聖都幻影 前編

1.
あれはたぶん、失言だったのだろうと思う。
*:*:*:*:*:*
年の瀬も迫った12月、数少ない日常を損なう強化月間である。
くすんだ一室で室井は黄ばんだ目をして書類を見つめていた。
昼夜を奪われ、食事すら抜け落ちていく時間は、世情の移ろいなど無関心だ。
皺の濃い指先がゆっくりと紙面を撫ぜ、無機質な動作を繰り返していく横で、下界は異常に活気づいていた。
そんな時期になったのだと認識するのは闇色の背中だけで、瞬く色とりどりの点滅さえ、間を置かず鳴る着信音に相殺される。
いつもは蜘蛛の巣すら張っているのではないかと錯覚させてくる扉も、ノックすら控えめに、幾度も軋んだ音を上げた。
「室井審議官、先程の件、了承出ました」
「続けてくれ」
「室井さん、刑事部長へのお返事、待ったなしです」
「進めてくれ」
扉が開いては出ていく影法師は、人相すら知覚させない。
声だけで反応するのは、どこか手探りの暗闇にいるのと似ている。
また扉が開く。
「室井さん、ちょっといいですか」
「手短に」
手短に、と言ったのに、その影は反抗的だった。
声の色で脳は影を認識していた。だがここには然程姿を出さない珍客だ。
馴染んだ声は少し重苦しく――思わせぶりな足取りで薄いファイルを室井の手元に投げ、ソファに沈み込んだ。
図々しく居座り、片足を組み、背を沈み込ませる様子から、引き下がる意思だけはないことが窺える。
室井はようやく知覚外の視覚という情報を得て、新城を見据えた。それすらも、この男に誘導されたことは百も承知である。
ただ、その表情は思いの外、険しかった。
尤もコイツが大口を開けて笑ったところを自分は見たことがあっただろうか。
記憶を掘り起こすほど暇ではない。
「次の打ち合わせが入っているんだ、知っているだろう。それまでに押さなくてはならない印鑑を手伝ってでもくれるのか」
「――」
室井は一瞥で終わらせる言葉をぼそりと口中で発したが、その声はそのまま主に届かず部屋に落ちた。
分かりやすい男だ。
室井もまた分かりやすく鼻息を落とすと、再び視線だけ上げて見せた。
老眼鏡がギラリと反射するそのレンズに、新城は横目で見たことも隠し、腕を大きく広げ、ソファに沈み込んだまま、反応はない。
彼にしては粗雑な態度に些か不満を、否、ここにきてようやく室井も異変を覚え、流石に腰を上げた。
師走に感じる異変、もとい、非日常は、危機感の裏返しだ。
「なんだ」
「頼みたいことが出来ました」
「珍しいな」
「人手が足りてないのでは?」
「来週以降もスケジュールは詰まっている上での判断か」
「貴方にではありませんので。采配だけお願いしたい」
「――采配?」
先の一件――あれほど世間を騒がせた、地位を落とさせた警察不祥事から数年が経っていた。
独立した機関を任された室井は表向きには出世と捉えられたが、中枢に位置しない機関なだけに手続き面での苦労が目立ち、疎まがられている。
北側の片隅に宛がわれた黄ばんだ部屋が今の現状を如実に語っていた。
何の結果も出せずにいる今、予算の無駄遣いだとの声も少なくなく、表立って賛同してくれる烏合の衆など、一時の幻だ。
だからこそ、焦燥が室井の精神を蝕む。
その荒んだ心境を、組員である新城とて、感じ取っているであろうに。
「不吉な予感しかしないな」
「依頼は刑事局になります」
「この組織に、ということか?」
「そういう狙いを持たせていることは言わずもがなですが、出処は刑事局長からです」
「昨日の件なら」
「別件ですよ。二週間ほど、一名、人員を調達してほしいとのお達しです。その間、刑事局直属扱いになる」
「条件は」
「特には。ただ、私から助言を申し上げるとすれば」
新城はここに来て初めて室井の方に目を上げた。
「口の堅い者、年齢は問わないが、現在の一般社会に精通している者、そして、ある程度機転と融通の利く者」
「・・・」
「ついでに付け加えるならば、室井さんが尤も信頼できる人物でお願いします」
老眼鏡を外し、室井は目頭を揉みながら分かりやすい溜息を落とした。
「なあ、新城。まどろっこしくないか」
「そうですかね?」
「とぼけるな。お前、それで俺の交友関係から誰を“選抜”してくるか分かっていて言っているだろう」
「室井さんの交友関係まで緻密に私は存じ上げませんが。ああ、でも、コミュ障であることは痛感していますよ」
「先日の会議では確かに君の助言に助けられた。だがあれは――、いやそうではなく」
先日、他部署との情報交換目的の中間会議が開かれ、そこに独立機関である審議会も参加した。
交流とは耳障りの良いネーミングだが、実際は晒し者に近い。
そこでやり玉に挙げられた当該組織を、新城が上手に制した。
勿論そこにはバックボーンである新城の派閥が物を言っているのは明白だ。
話が逸れたことを頭を振って取り消し、室井は目頭を抑えながらゆるりと近づく。
空調の音が鼓膜を遮った。
「はっきりと言ったらどうだ。君が“その人物”を適任だと思うのなら私を介さず直接打診すればいい」
「他に候補があれば聞く耳を持つつもりです」
「敢えて私の口から言わせたいのか」
「私は未だ、誰とも言ってませんよ」
「だったら君の知り合いから選んだらどうだ」
「生憎私の知り合いとなると皆キャリア組ですので」
幼稚な反論で意地を張ってみせた室井に、新城もまた引かない。
勝ち気な性質はキャリア組共通の悪癖だ。
「キャリアじゃ駄目なのか」
「組織の統率を乱す者はご遠慮いただきたいとのことですので。まあ、審議会が推薦する者をエリートにお目通しするほど私も強心臓ではありません」
「君にだって所轄に知り合いくらいいるだろう、コミュ障か!」
「選抜するにふさわしい人物に打診しているだけです」
「あれが化けた後始末はしらないぞ」
「それこそ願ったり叶ったりですよ」
「そんなところに推薦できるか!君の周りに他にいるだろう!」
「居たとしても、貴方ほど蜜に仲良しこよしはおりません!」
「私だってそこまで踏み込んではいない!」
「何年目です、情けない!」
「情けないとはなんだ!君には関係ないだろう!」
「ならば、私が誘ってもよろしいので?」
「!」
何となく、不満だと思った心を見透かされ、室井は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。
それが新城によってまた言い負かされたと気付くのはもう少し後だ。
捜査のほとんどを捜査一課の部下にしか任せなかったため、新城が所轄署員から完全に敵視されていた時代を室井は知っている。
そういうやり方を今更のように非難する気はないし、指摘したところで、新城の変革など語れはしなかった。
そしてそれはブーメランとなって室井に返ってくることでもある。
逡巡を汲み取ってか否か、揶揄うにしては複雑な表情になった新城もまた、それ以上の軽口を続けてこない。
電話で済みそうな要求をわざわざ出向いてきたことからも、専属部下の南をよこしてこなかったことからも
新城の中でも断り切れなかった不透明な案件なのだろう。
厄介で不吉な予感がした。
「君は元刑事部長に何を命じられているんだ?」
「・・・」
答えることに、意味はない。
上級官僚として生きていくのであれば、背負うリスクも承知の上だ。お互いに。
「私の意思を反映させていいと、局長が仰っているのか」
「――ええ」
恐らく、新城の脳裏にも今同じ人物が想起されている。
その男を呼び出せという、暗に命じられた厳命であるとも捉えられる案件に、二人の視線は生温く交差した。
敢えてその男を関わらせるのなら、そこに潜む数年前の足きりが胸を過ぎる。
今の立場でそれを断ることは、同じ足切りをこちらにも承諾させるということだ。
「分かった。伝えてみる」
新城もまた、目を細めて室井の返答を聞いた。
何をやらせる気なのか。
それでも、あの男に委ねてしまうのは、ある種の期待、或いは淡い幻想を彼らもまた欲しているのかもしれない。
こんな時こそジョーカーとなり得る資質の男に、新城も室井もまた、同じ溜息を落とした。
断れないヒエラルキーの弊害と、それを庇えない権力の希薄さを、こうして共有できるようになっただけ
マシなのかもしれない。
年末は、いつもどこか不穏な気配を生み出してくる。
「追って、君に連絡すればいいのか」
「いえ・・恐らく、拒否権もまた、ないに等しいのではと」
「そうか」
話を進めてくれと呟いて、室井は首肯するに留めた。
断ってくれればいいがと、室井もまた心の片隅でありもしない期待を微かに祈った。
年末の繁忙期に紛れ、上層部が考えている腹の内が読めない。そこに所轄を巻き込もうとする意図と、敢えて片腕だけを関わらせようとする作為に
打つ手がないことが室井の呼吸を阻害する。
力がないことが歯痒い。
これで用件は終わったはずだが、沈み込んだソファに互いの腰は深く居座る。
空調の音が二人の間を跨ぎ、モズの声が窓の外から聞こえていた。
あれだけ忙しなく開いていた扉も、今は静まり返っていて、奇妙な時間は目が合わさることで、動かされた。
「まだ、何も伝えてらっしゃらないので?」
「・・・」
ふと、新城が口を開いた。
黙ったまま、室井は無造作に両手をポケットに突っ込み、重い腰を上げると新城に背を向けた。
やはりか、と思う気持ちは背中に現れる。
何を、だなんて今更とぼけるにはタイミングを伸ばし過ぎた。
窓際に立ち、すっかりと葉の落ちた並木道を見下ろせば、ようやく世間の季節と自身が追いついてくる。
目に入った街並みの色とりどりの灯りは、どこか遠い国の祭事のように映った。
「もう、本当に、随分と長い時間を過ごしたな・・」
「アンモラルだの世間体だのお立場だの、雑音は届くでしょうが、少し、しつこすぎではありませんか?貴方も」
しつこい、という物言いに、室井は思わず苦笑した。
新城らしい。
背中で砕けた空気が伝わったのだろう、新城もまた、鼻で笑い返す。
「待たなくていいんだ」
「待つでしょう?あれは」
「・・・」
「追いかけるにはプライドが許さない?」
「追うつもりもない」
その答えは、意外なほど冷静に、達観として室井の口から零れ出た。
長い間悩み、迷い、恐れ、どうしても決断できなかった言葉が、今、新城の促しに抵抗をしなかった。
観念したかのように、師走の街並みに呼応する声音で、するりと出せた言葉に、驚いたのはむしろ、室井自身だった。
その言葉の持つ意味に怖れ、慄き、室井は思わず新城を振り返る。
新城もまた、驚きの顔をしてこちらを見ていた。
「アイツには、自由でいて欲しいんだ」
「付いてきますよ」
「縛り付けるのも巻き込むのも御免だ」
「そんな顔で言われましてもね」
恐らくよっぽど酷い顔をしているのだろう。
室井は片手で顎を擦り、少し伸びた髭に眉をしかめながら、机に行儀悪く腰掛けた。
ようやく言葉にしてみた音は、思った以上に的確だったのだと納得する反面、思った以上に心を抉ってくるものだった。
言葉にして初めて知る自身の決断に、今更慄いているのは、室井自身だ。
「新城、俺はな、長男教と男尊女卑の色濃く残る地方の、雪の深い、小金持ち家庭の、正に長男として生を受けた
頑固で吝嗇家の父からは虐待にも近い厳しい扱いを、一方で母親と祖父母からは跡取りとして、厳格な躾けを受けてきた
彼らの都合の良いように生きることが目標だった」
君も似たようなものだろう?と室井が目線で問えば、新城もまたいきなりの昔語りに飽きもせず、共通の目の色をしてみせる。
こんなものは、家督に縛られた家系に生きなければ理解できない類で、その世界の人間にとってはよくあることだ。
「彼らの望みは警察庁の親玉になることではなかった 地方に根付く古いしきたりや歴史、連綿と続いてきた時間を継承することだ
つまり入庁した時点で、こちらは裏切り者だ」
「貴方の中に巣食う情熱が束縛だというのなら、ここでの反乱は自由への革命だったのですか?」
誰とも群れをつくらず、友を作らず、護ったつもりで逃げてきた男は、終の棲家へ流れ着き、何を思うのか。
何かが欲しいと泣き喚いた記憶などない。
聞き分けの良い子を演じることが由とされ、執着や欲など持つことを我侭とされた。
「人生は行き止まりだった、それだけのことだ」
「“それだけのこと”で、手放すのですか?」
キツイな、と室井の片眉が持ち上がる。
「充分だろう?」
「キャリアが“お断り”の直接原因ではないという言い訳にしか聞こえませんがね」
「そう思っているのは、アイツの方だろう」
新城と室井。一定の出自を持ち一年違いの先輩後輩として、共通の柵に生きながら、真逆の結末を用意された。
室井の漆黒はもう光を映さない。
そんな室井を、新城はどんな目で見ているのだろう。
知るのは怖かった。
それは、青島にどう見られるかという意識にもつながる。
結局、古き慣習に生きる者は、他者の目というものが何より肝要なのだ。
この警察という長い歴史を持つ組織においても、それは変わらない。
そんな中で生きる人間にとって掟や抑圧を厭わない青島みたいな人間は異分子となる。
室井にとって青島は、年一度、街に彩りを添えるイルミネーションみたいな光だ。
その時だけ人を沸き立たせ、世界に光を散りばめる。
有り余る時間と社会への不満を持て余し、怒りを娯楽にするしかない残念な輩が大半な世界で
そこで出会った眩い存在を、これ以上穢したくないというのも、一因ではあった。
ここにいる多くのキャリアは、つまり加害者は、匿名性と秘匿という名の肩書がなければ何もできない卑怯者であると同時に
現実社会では法と階層に護られて、失う物が何もない無敵の人であることが多いと言える。
「恐いのですか?」
「恐いに決まっているさ」
キャリアとはそんな性質を備えた上での、大いなる権力を授かり行使する、ブレーキの無い車と同じなのだ。
だからこそ、ブレーキとなり得る存在を、欲するだけの理解と知識を持ち得た時、制御もなく欲望が暴発する。
我々は、匿名性と肩書が残虐性につながるリスクを孕んでいることを決して忘れてはならない。
それを、知らぬほど初心にはなれぬが、それを課すほど薄情になりきれなかった。
「大切に思っているのは伝わりますが、本人には伝わりませんよ」
「新城、この世で一番大切なものを一度失うとな、すべてのものが色褪せるんだ
感情はここに存在するのに、でも失う前とどこか違う。あの頃のように敏感に繊細に動かない」
近づけなかったのか。
近づかせてくれなかったのか。
一つ確かなことは、過去はもう変わりようのないことだということだ。
「物語はここで終わる。それでいいんだ」
「ですが・・キャリアの向こう側にいる者たちの選択は、これからも続いていくんですよ」
上層キャリアと関わる度、出世する度、都度迷う道しるべは、どこにも存在しない。
ノンキャリは、キャリアという庇護もないままに、この世界に踏み入っていくことになる。
それは、室井が囚われる古き慣習もまた然りだったりする。
「過去の栄光に縋り続けるなんて、みっともないですよ」
「縋っているんだろうか・・いや、そうなんだろうな」
ただ一人、愛した女が消えた恐怖と絶望の深淵を、あれから月日が過ぎたとて、覗き込む勇気が持てない男が
他に何を欲して良いというのだろう。
欲することを教えてもらえなかった男は、やり方すら分からない。
幸せに生きる誰かを妬み、怒りさえ覚え、呪ってしまう室井の奥底など、思いつきもしない誰かに
唱えなければ叶わないと言われたところで、心は冷めていくばかりだ。
あの時止まった時間は今も動いていないのだと思う。
「逃げてみせれば断ち切れているという幻想を見せてくれるほどの親切な世の中だといいですがね」
「キツイな、もう少し表現を変えてくれ」
「単に信じることは、知ることの放棄ですからね」
手加減しろと言ったのに追い打ちをかけるところが新城である。
分かっているから室井を口唇を尖らせる。
「君だって偉そうなこと言えたものか」
「いつか、お手本をお見せして差し上げますよ」
「君にアイツが落とせるものか」
室井は最後に粋がった。
直向きに、ただ純粋に、穢れなき手を差し伸べてくれる、あの優しい男の面影は
瞼を瞑っていても消えてはくれない。
だとしても、全てをかけて飛び込めるほど、勇敢でも無謀でもなかった。
過去に囚われ、過去に潰された男の見る、最後の幻影だ。
倖せであれ。
それを命賭けても護ろうと祈る。
口唇を尖らせ、頬を強張らせるそれは、正に泥に塗れ、膝小僧を擦りむいた山の少年だった。
返答は拒否した新城がただ小さく肩を竦めてみせた。
見え透いていることは、不快な一方で、馴染みの安寧も齎す。
「まず、どんな案件なんだ」
目を見れず、今更のように足元に落とした室井に、新城はようやく胴体を持ち上げ、ファイルを手に取った。
2.
「ふぅぅん・・。それでぇぇ?」
舌足らずな声は湯気の薫る部屋に甘たるく響いた。
少しくぐもっているのは、みかんを丸々頬張っているからだ。
青島の声に興味の無さを汲み取り、室井は話を続けるか迷った。
興味の無さではなく、非日常の欠如、かもしれない。
「嫌なら、他を当たる」
「別に嫌とは言ってません」
「君なら本庁の仕事に興味を持つと思った」
「持ってますよ。でもどうせ、補欠でしょ。この時期じゃあ、交通整備あたりがいいとこかな」
中々の鋭さだ。
ロクな仕事は与えて貰えないことは承知の上なのだろう。
室井が提案した刑事局への応援要請を、青島は特に感情を見せることなく聞いていた。
「君を名指しだ」
「寒気がしますね。同時にこの時期が来たかと思います」
「この時期?」
「繁忙期。年の瀬の」
「なるほど」
青島にとってはそういう認識か。
可愛さと幼さが混じる反応に、室井は気付かれぬよう口端を滲ませた。
どこも人手が足りなくてノンキャリにまでしわ寄せがきている年末の風物詩。
補うように、結露と白い窓を曇らせる部屋は外の寒さを伝えていた。
室井宅に青島を招く様になってから、何年目の冬だろう。
こちらも馴染みとなった光景には古い家族の幻像が重なる。
実家では毎年この時期、クリスマスなどとはそこのけで、早々に年末年始の準備に取り掛かり始める。
雪深く、街が埋もれてしまう前に始める、風物詩だ。
実家には冬になると炬燵(コタツ)があった。
掘り炬燵だ。
中央に竹籠を置き、みかんが盛られていてる、ザ★昭和、の食卓風景であった。
都心に出てきての生活の方が長くなったが、それでも室井宅にはこの時期になると必ず設置される。
みかんもだ。
細胞の中まで、或いは遺伝子に組み込まれてしまった、古き慣習は無意識下で強かに息づいている。
ぬくぬくと足を温めながら、しゅんしゅんと湧くやかんの鳴音とくれば、遥か遠き霞む日さえ思い出してしまう。
時間なんか戻せない。
それでも戻りたい場所というのは、幾つになってもあるものだ。
「すっかり冬だなぁ」
「まあ、そうだな。そんなことを君でも思うのか?」
こたつに顎を乗せていた青島が目線だけ上げれば、その前に室井が淹れ立ての緑茶を置いた。
マグカップでも紙コップでもない、陶器の渋い湯呑から上がる湯気に、青島は寄り目となって溜息を落とす。
「冬生まれだし。ここに来たのは夏だったんで」
初めて来訪した時は、と青島は言っているのだろう。
そうだ、あれは、記録的猛暑と言われた、ギラついた晴天の夜だった。
茹だるような蒸し暑さが陽が落ちても残っていて、息苦しさと気怠さを汗ばむ肌に感じる、夏の終わり。
虫の音は聞こえるが、黒々とした色を持たない都会の夜はまだ熱気をため込んでいて、酷くうだるような熱がスーツに貼りついていた。
「あの頃は月一とかでもビビってたのに、今じゃ俺のちゃんちゃんこ。いつ用意したんです?」
「今年はブラックフライデーに参加してみた」
「はい?室井さんが?」
「ネット通販だ」
「暇なの?」
「今抱えてる特捜本部は三つ。今回の実績を踏まえてプロジェクトを本格的に立ち上げるための準備も来週からだ」
「はいはい、つまりめちゃくちゃ忙しい、と」
みかんをまたひとつ大きく頬張る青島の、まるっこい指先がみかんをまたひとつ、選んで弄ぶ。
その幼子のような仕草に、室井は瞼を伏せる。
「・・誰にも知られていないから安心していていい」
青島から想いを零され、応えてしまった夏祭りの帰り道の、世界が一変してしまった日だ。
獰猛で緻密な欲望に、敗北した夜だった。
うだる夜気の熱と、青島の言葉がじっとりと纏わりつくような、そんな息苦しさを今も覚えている。
そこから始まった奇妙な繋がり。
拙い連絡頻度と僅かな暇に、こうして部屋に連れ込むまでになって、不可思議な関係は続いている。
楽しいかと言われれば、まあ、それなりに楽しい、のだろうが。
「不満そうな顔だ」
「大きなお世話ですよ」
ふーんだとこたつに両手を突っ込み、青島は顎を乗せた頭を反らしてしまう。
俺が何に不満かなんて、気付きもしないくせに、と顔に書いてある。
そういう感情を隠さない青島に、ほっとしたり、癒されたりする度、室井は胸が苦しくなる。
それほどまでに自分はキャリアの読み合いに辟易している。
こんな風に自分は感情を隠さず生きてきた時代があっただろうか。
青島といると見える見違えた世界はいつも室井を驚かせる。
でも、そのための存在になってほしいわけじゃない。
ただ、あれは、誤算だったのはお互い様だろう。
青島の掠れるような声に身震いしたのを見抜かれ、受け入れてしまった。
関係を変えることは了承させなかった。
奥底の、想いを告げるつもりはない。
「今日は駄々っ子か」
そう言って、室井は神経質そうな、それでいて雄弁な指先が青島の髪にそっと触れた。
愛しそうに掻き回すように見える自分の視界に堪え切れず、だが、指先を離せず室井は視線を明後日の方に向ける。
益々顔が向けられなくなったのだろう、青島もまた、さして抵抗もせず、されるがままだった。
お互いに照れているのが伝わってしまう甘い距離。
それだけだ。
お揃いのちゃんちゃんこくらい、許されたっていいだろう。
そんな風に室井の指先が触れる人間は、恐らく自分だけだと青島も分かっている。
そして、室井が決して本音を告げてはこないことも、わかっている。
こんな風に、青島を見る時だけ僅か、目尻だけ細めてしまう仕草からも、きっと淫らな想いなどバレているのだろうに。
一度も抱き締めたことのない自分がどんな目をしてこの男を見ているかなど、知りたくもない。
「室井さんってさぁ、冷めてるっつーか、人に対して冷たいとこありますよね」
「君が嫌がることはしたくない」
「してるよ」
「・・そうだったな」
「そういうことじゃないよ」
「君は黙ってそこにいればいい」
隣同士がいちばん自然だ。
そんなことをまた一つ思い知らされて、室井はそっと青島の髪から手を引いた。
手放せないくせに、手に入れない。
触れることが許されたら、奪うことを認めない。
もどかしさは迫る年の瀬に焦る気持ちと相似だ。
「勝手に拗ねているのはこっちだけで、何だか、遠いなぁって、思います」
その言葉にドキリとし、室井は顔を戻した。
室井が乱した青島の前髪の奥から、透明でいて清楚な瞳が室井を真っ直ぐに映していた。
仕組まれたタイミングだったことに舌打ちする。
黙って見つめ合い、時さえ止められて、息が止まった気さえした。
遠いと思うのは、こちらの方だ。
到底手の届かない、身に余るものを欲してしまった罪を償いきれず、喘ぐままに立ち竦んでいる。
大切だと伝え、好きだと言えた、それだけで満足するべきだ。お互いに。
そんな身勝手で臆病な奥底を見抜かれた気がした。
ややして、干乾びた喉を必死に動かし、室井は時も動かす。
「新城の話には続きがある。というより、ここからが本題だ。新城の父上が元検事総長と懇意なのは知っているな?」
「知らないよ」
「退官後、毎年年末にご自宅に招く囁かな内輪向けの会食に、今年は私も招かれる予定だ」
「なんで」
「審議会が発足し軌道に乗り始めたからな、お披露目とお祝いというところか」
「脂っこい話がてんこもり」
「そこに、君を招待したいのだと思う」
流石に驚いたのか、青島ががばりと起き上がった。
自分に人差し指を向け、ホントに?俺?という顔をしている。
室井はただ黙って漆黒を向けて返答とした。
「お父上から、ご子息の上司となる人物を直接拝顔されたい思惑が告げられたそうだ」
「それは、室井さんのことじゃん」
「かねてより噂に上がる、その異端児とコンビの問題児にもご興味を持たれておられるということだ」
「うわぁ、新城さんもタイヘンだぁ」
顎に手を付き、ニヤリと笑う青島の性質悪い笑みは、あどけない幼顔と相まって、悪戯な気配を纏い始める。
こういうときの青島は、悪魔的な魅力を放ち始める。
室井が虜にされた、蜜の味だ。
「で?行くんすか?」
「君が一課に出向後、最終日の仕事終わりに偶然を装い誘ったことにして、新城と合流する」
まるで高校生の待ち伏せみたいですねと、青島が吐息で笑った。
しっとりとした甘ったるい匂いの重みを持つそれが、室井の鼓膜にこびり付く。
話を終わらせるため、室井は茶を飲み干した。
「詳細は追って連絡するが、もう直接君の方に行くかもしれない」
「わっかりました」
「上手くやれ」
「そろそろ帰りますね」
返事の代わりにみかんを頬張り、青島は腰を上げた。
ぱふんと馴染みのコートを羽織れば、青島は“青島”になる。
この部屋で寛いでいた愛おしい男は、誰もを魅了する警察機構の隠し玉になる。
了解と、小首を傾げて敬礼してみせる愛嬌は、出会った頃と変わらない。
振り回されてきた懐かしい日々を想起し、室井は見上げる目を細めた。
青島は、こういう些細な小さな仕草が実に巧い。
みかんをひとつ取り上げて、掲げて見せる無邪気さに室井だけが独り占めできる面影の名残を見て
小さく頷き返せば、青島はポケットにみかんを忍ばせた。
身軽に玄関へ向かう足取りは、長い足を贅沢に見せ付ける。
「見送れなくてすまない、気を付けて帰れ」
そして逆に、青島がこの部屋を出た所から、室井と青島の関係は上司と部下というだけのシンプルなものに変換する。
室井に言わせればこのプラトニックな茶飲みの戯れに、どんなやましく淫らなものを当て嵌めるられるのだと叫びたくもなる。
プライベート一つ、散策しない。待っていてくれも、付いて来いもない、浅くて後ろめたさもない関係だ。
扉の向こうの彼に誰が触れようと、室井はそのことすら知らされない。
聞くことに脅えて、知ることに怯えて、息だけが詰まっていく。
「年末まで、突っ走りますよ」
「望むところだ」
乱れた感情を制して、室井は眉間を深めて頬を強張らせた。
本分を忘れてはいない。
擦り切れるようなストレスと多大な根回し、両肩に任される官僚の重責が、官僚の基本だった。
それらを望んだのは室井自身だが、青島を見ると感じる瑞々しい躍動感・先鋭的な情熱は、いつも室井を奮い立たせてくれる。
青島とのこういう感覚が、好きだった。
こんな関係がずっと続くと思っていた。
ほんの少しの逸脱が膨れ上がり、誰よりも大切で愛しく、誰よりも憎くて狂おしい。
「・・・」
「・・?」
少し、間を持たせ過ぎた。
ただ見つめ合う先に、それは甘い疼きは室井を満たしていく。
痺れるような感覚に麻薬のような中毒性を感じ、室井は狼狽える。
それだけで震える心に蜜を味わう後ろ暗さに、長引かせればまずいという本能が警告を差す。
「外は・・冷えてきたようだ」
「また、呼んでください、今年はもう無理そうですけど」
「忙しくなる。体調管理を怠るな」
あんたもね、と言って、青島が指先を室井に向けてお道化てみせた。
乱れた甘い色の髪から覗く、宝石のような瞳に、直視される怖れは漆黒の闇が隠してくれる。
そうして、青島は海の匂いを残して去っていく。
残り香に、室井の心をズタズタに切り刻むほどの鋭利さを残して。
鋼鉄の冷たい扉が閉まる音を確かに聞いてから、室井はゆっくりと握り締めていた拳を拓いた。
汗ばみ、爪が食い込み、血が滲むそれを、薄笑いしながら眺める。
帰るなと、腕を引き寄せたかった指先をどれだけ必死に堪えたのか、視覚的に物語る事実は、容赦ない。
「ばかみたいだな・・」
遠ざかる足音を聞きながら、胸に迫る圧倒的な寂寥感に息を途切れさせた。
自分の際限のない欲が恐ろしかった。怖れは得して現実となる。
自分が何を我慢しているのか最早、不明瞭だ。
3.
実際、一課に応援に行った後のことは室井に知らされていない。
仕事モードに入れば青島は室井に連絡一つ寄越さないし、庁内において室井と青島の関係は以前ほど著名ではなくなっていた。
一方で、青島みたいなタイプは使いようによっては毒にも薬にもなる。
決して上品なだけではない、力強い反抗精神のある人間性に、ある種の人間は惹きつけられていく。
実際、ムードメーカーになっているだの、人気者だの、上に取り入っているだの、反抗的だの、嘘か誠かな様々な雑音は諸々に入ってきた。
それを一つ一つ目を細めて流していく室井の姿など、誰も知らないことだ。
そして最終日がやってきた。
*:*:*:*:*:*
待ち合わせ場所に現れた室井は目を丸くしていた。
「その・・、あいつらとちょっとモメちゃいました」
最後の最後に・・と舌を出して笑って見せる顔には痣や擦り傷が多数残され、血が滲んでいた。
軒先で雨宿りしながら待っていた青島の指差す方にはまだ赤色灯があって、緊急車両が止まる。
現場検証は既に終わっているらしく、規制線の向こうに人影はなく、まばらだが、12月の暮れの街角を慌ただしく急かしている。
恐らくこの現場には突発的に出向かされたのだろう。
まあ、これから出向く刑事局長の顔に泥を塗るような事態ではなさそうなので、室井は小さく溜息を落とした。
「そういうことを・・あまり男の前で言わないほうがいい」
何があったかは聞かない室井の手がそっと腫れた頬に触れ、痛みに青島は顔を歪めた。
そして、その顔を見た室井の顔も歪んだ。
今日は朝から雨だった。
メインの刑事課の方はまだしも、呼び出された別件では雨対策も追いつかなかっただろう。
すでにかなりの時間雨に濡れて、青島のワイシャツが透けてることに気付いた室井は、自身のコートを脱ぎ、かぶせた。
が、その後どうしたらいいか分からない。
小糠雨は室井の髪もスーツもじっとりと重さを持たせていく。
「よく・・耐えてくれた」
最悪の事態、審議会の打ち切りや足切りを避けられたことは、大きな一手だ。
室井の立場を、審議会の命運を、青島に告げることはなかったが、恐らく汲み取った上での“反抗ナシ”なのだろう。
どこまでも繊細で、どこまでも勘が良い。
そんな青島を想う時、室井は更に切なくなる。
「あんたまで・・濡れちゃうよ」
「君は、一部の人間には尽く嫌われるな」
「自覚してんで言わないでクダサイ」
「その格好で新城家に出向けば年寄りが腰を抜かす」
空気だけで笑った青島の吐息が室井の冷えた指先を痺れさせる。
指が外せなくなる。
泥と血で汚れた青島の濡れて張り付く髪と長い睫毛、しっとりとした肌は、息を呑むほど妖冶だった。
野性的で、生気に満ちている一方、穢れなき純潔が芸術的だ。
視線が絡む。
魅入るままに、目が反らせない。
距離感が喪失して、平衡感覚も薄れた気がした。
室井の顔がすぅ、と青島に傾けられる。
夏の終わり、告白してくれた彼の手を取ったのは、熱情からではなく、恐怖からと言っても差支えない。
彼を誰かに取られたりすることよりも、彼に見捨てられることの方が、室井に途方も無い恐ろしさを細波立てた。
そんな些細な我儘さえ言えるような間柄にはなれないのだと思うと、無性に悔しくも、苛立たしくもあった。
ただ、一瞬にして芽生え消え去ったその衝動に、抗う隙は無かった。
この手を取れば、きっと一生俺に捕らわれる。分かっていて、それは甘美な毒と密を持って室井を制した。
“ねぇ・・おれ あんたのことが すきなんです 覚えてて・・”
酒におぼれた甘たるい舌足らずな声と吐息は今も耳に残り、直後のしまったという大きな瞳は色濃く目に焼き付いている。
「服を乾かしてからにしよう。新城ももう来る。顔だけ洗っておけ」
日比谷公園の水道を指差せば、ようやく室井の指先も青島から解放された。
解放、そう思ったのは青島の方だったかもしれない。
視線が外れて俯いて、小さく頷いた青島の気配が室井から離れる。
息も止めていたらしい。
青島の両肩に手を置いて、物理的にも近づいていた身体をそっと押し離した。
まだ降り続く雨が目に沁みて、雨が室井の前の名残香も消していく。
二人の間に生じる爛熟した腐臭に、青島は気付いているんだろうか。
後ろ姿をずるりとした視線で追いながら、室井は青島の揺れるコートにいつかの幻を見ていた。
*:*:*:*:**
新城邸に到着する頃には青島のスーツは濡れも目立たなくはなり、ウェットに富んだ青島の髪はセットしたかのようにも見えた。
新城には散々どやされたが、男の怪我一つだ、笑い話で迎えて頂けた。
ホームパーティとはささやかながら、給仕の持て成す食事は豪華で、古い西洋のテーブルに所狭しと並べられていた。
大正時代の建築様式が色濃く残る、和と洋の調和の創り、美しい曲線のデザイン階段や、開放的なベランダの造りなどが彩りを添え
精細なデザインと装飾が美しい暖炉の火が、懐かしく温かい時代をしっとりと想起させてくる。
手入れが行き届いた昔ながらの庭園が夜露を浴びながら覗いていた。
入口脇のクリスマスツリーが迎えてくれたリビングには総勢15名ほどが揃い、夕食会は始まった。
ワインや日本酒が次々と開けられ、中央に添えられた生け花が12月の生花を謳い、奥方の気遣いは丁寧に緊張を和らげた。
お暇する頃にはどこか珍しく萎縮していた青島もすっかりと溶け込み、静かな会話を楽しんでいるように見えた。
いつもは持ち前の営業スキルで言葉巧みに場を盛り上げる青島も、遠慮してか、空気を読んでか、抑え気味で
ここがどこかをきちんと弁えていた。
それが妙に大人びていて、洗練された気品と美しさを放つ。
それでも会話は途切れることもなく、社交という場をこのように好ましく使い分ける青島に、改めて舌を巻いた。
秘かに誇らしかった。
話題は当然、古い栄光の自慢話から始まったが、造詣深さと豊富な知識、分かりやすい言葉で語られるそれは興味深く皆が聞き入っていた。
そのくらい、新城家の人間というものはひどく温かなものだった。
食事会は賑やかに、華やかにオレンジ色の温かい光に包まれて終幕した。
「帰りの車を用意させますか」
「いい、酔い覚ましに歩いて帰ろう。駅までもそう遠くはないだろう」
「私は歩いたことはありませんがね」
おぼっちゃま発言の冗談に軽く目配せをしていると、青島の帰り支度も整い、手土産まで持たされて現れた。
すっかりと乾かされたコートを羽織らせてもらい、整え直された男はまた見映えが変わる。
先に玄関先で待ってた新城と室井に気付き、へらっと笑う姿は屈託ない。
「これ、室井さんの分だって」
「ちゃっかりしてるな」
「サンタのプレゼントってことじゃん?」
「すまない、新城。食事を頂いた上に」
「我が一族御用達の一品ですので、味は保証しますよ」
またとんでもないものが出てきたものだ。
青島から正方形の紙袋を受け取ると、室井は改めて新城に一礼した。
「これで失礼する。お父上にはくれぐれもよろしく伝えてくれ。今夜は楽しかった」
「これが何を意味するのかを知るのは来年でしょうね。ただのクリスマスケーキを食べる会であることを祈るには相応しい夜だ」
「恐いことを言うな」
強気な目に変わった新城が、室井の背に背を付け、小さく耳打ちする。
「送り狼になるには持ってこいの夜となりましたね」
「貴様、それを分かってて送迎をあっさり引き下がったのか」
「お膳立てと仰ってくれてもよろしいのに」
「偶然にそこまで恩を着せられたらたまらない」
12月24日の夜だった。
4.
小ぬか雨は、降ったり止んだりを繰り返し、アスファルトの地面を駅まで銀色に照らしていく。
「冷え込んできましたねぇ」
「この時期の雨は堪える」
凍えた風が頬を打つ。
メイン通りを避ければ、窓から明かりが漏れて、楽し気な笑い声さえ届かせる家もあった。
温かい家庭がそこにある。
夜道というものは、自分たちには入れない温もりというものを、遠巻きに見させてくる。現実などこんなものだと見せ付けられる。
だが、それを護るのが自分の使命だ。
「新城さんって、ものすごぉっく、おぼっちゃまでしたね」
「三代どころではないと聞いたことがある」
「うひゃ~、俺、ひぃおじぃちゃんも知らないや」
「いいご両親だった。アイツはどこであんなに捻くれたんだ?」
「育ちって関係ないんですかねぇ?」
くすっと笑う声がまた室井の耳を擽った。
二人の足音と、お互いに足元だけをみて途切れながらの会話が耳に残される。
吐く息が幾つも白く上がった。
室井のわずか一歩後ろ、会話が届く絶妙な車道側を、青島は静かに付いてきていた。
隣を歩かない、絶妙な距離に、室井はただ半身で気配だけを辿った。
こんな、浅い会話をするような仲を目指したわけじゃなかった。
だが今、語るものは何も持たない。
それでも彼が隣にいるのなら良いと思えている。
「物静かで良い街だ」
「この辺はみな高級住宅街からの古い地主へ続く立地だ。それこそ三代前から顔見知りだったりするだろう」
「室井さんのとこも?」
「・・そうだな」
あの偏狭の慣習に囚われた街へ抱く感情は、一言では語れない。
だか自分はあの土地を着ることは出来ないのだろうと漠然と本能が察している。
この話をあまりしたがらないことに気付いているのかいないのか、青島もそれ以上聞いてくることはなかった。
「さみぃ~・・室井さん、へーきです?」
「このくらいの寒さならまだ慣れた温度だ」
「う~わ~・・」
表通りはイルミネーションに彩られているのを、行きがけの車中から見た。
今は恐らく恋人たちの群れで埋め尽くされていることだろう。
彼らには寒ささえ味方となる。
馴れ合いもしない我々には味方になるものは何もなく、雨にさえ邪魔をされて、50㎝ほど離れて歩く。
足音を揃えて歩くことくらいしかできない。
人混みは苦手だと言って、敢えて裏道を選択した意味も今は忘れて、吐く息の白さに凍えた身体を丸めて目線で笑いあった。
二人きりを満喫できる、秘かな、そして限られた時間だった。
「今日、誘ってくれてありがとございます」
「礼なら新城に言え」
「うん・・でも・・楽しかったよ俺」
ふと、青島の足音が止まる。
「あ、クリスマスツリーだ」
「ああ・・、立派なもんだ」
「きれいだ」
どこかの家が庭先に飾る一本のクリスマスツリーを見つめる青島の瞳が点滅を繰り返すライトに合わせて、幾重にも光を吸い込んでいく。
雨により湿度の上がった大気は光を拡散させ、ヴェールのようにツリーを闇に浮き上がらせた。
それをじっと見つめる青島を、室井はただ見つめる。
優美な顎のラインを際立たせる横顔の美麗さは夜に映え、撚れたコートでもその凛とした魂は霞まない。
なんと美しく見映えする生き物なのだろう。
隣で見れる時間の尊さに、言葉などでない。
こんな日がずっと続くわけはない。
一瞬の、今だけの、偶然の与えられた時間だ。
「一年に一度だもんなぁ」
ドキリとした。
室井の心境を言い当てられたのかと思った。
「・・この家もクリスマスを祝っているんだろう」
「ここからだと表参道辺りに出るのが一番近いのかな・・」
青島の顔を見た。
青島も探るようにこちらを見ていた。
視線がまた交差して、止まって、冷たさも忘れて、そして、また降り出した雨粒に、世界が霧に閉ざされる。
怪我をしていた頬の傷はまだ赤らみ、濡れて張り付く前髪、ふくよかな口唇は雨に打たれて、更に赤味を増していて
凍えるような大気の中で、時が止まった。
上司と部下、キャリアとノンキャリという一般的には大きな隔たりを黙殺する青島は一体何だってこんな男を無条件に慕ってくれるのだろう。
多くの人間はキャリアに出世や利権を欲した。
肩書を失えば手のひらを返された。
でも青島からはそういう下心は一切感じ取れない。
気の置けない距離感がキャリア連中にはない風通しと緊張感を残してくれる。
正しい事が出来るようにという真っ直ぐな青島の気持ちは縦型社会に立ち向かう室井の心を強く揺さぶった。
どうしてこうまで無防備に慕ってくれるのか。
それは、平伏したくなるほどの勘違いをしたくなるほどに。
「ごめん、な・・。帰ろう、明日も現場だろう」
一体何に対してごめんなのだろう。今更。
それだけを、絞り出した。
知らず吸い寄せられるように近づいていた身を離し、いつものように握っていた拳に食い込んでいた爪を解除する。
僅かな電灯だけの緑色の灯りでは、青島の表情は良く見えなかった。
でも青島の足は動かない。
「青島?」
「・・やっぱり、おれ、もぉ、むり、かな・・つらいや・・」
言い出した言葉の意味を、まだ脳が正確に処理していない。
「ずっとね、言おうと思ってたんですけど、なんか、きっかけなくて」
「何の・・話を?」
「勇気、でなかった」
食いしばった口唇は切れていて、この冷たさに痛そうに充血し、震えていて、室井は顔を歪めた。
ああ、そんなに食いしばったらまた血が出てしまう。
室井が一歩近づこうとした、それを制するように青島が顔を上げた。
「傍にいるだけで充分なんだけど、他にほしいものは、ないんだけど、それはほんとなんだけど、こんな風に見せ付けられると、きつくて」
「?」
「傍にいて、見ていきたかった。一緒に年を取るだけの、ただそれだけの願いだった。でも、叶わないんだ」
「青島、」
「終わりにしませんか。・・って・・。笑っちゃいますよね、始まってもいないのに」
自分たちの曖昧な関係について言っていたのだと分かったころには、青島は更に一歩、下がって緑の大気に霞んでいく。
目を凝らせばコートの裾を小さく掴んで何かに堪えていた。
まるで今まで見たいたものが幻想だったといわれているようだ。
途切れの悪い雨粒が終幕の鐘を告げてくる。
「あおしま・・?」
ヴェールのように光の輪郭を縁どらせる青島の、細身の体が震えて、足元の水溜まりが弧を描く。
「新城さんみたいな世界で生きている人たちには相応しい人っているんですね。そこには人脈があって」
「そこに俺は入らない」
「同じだよ、俺にとってはね」
まるで室井の心を凍えさせるように、冬の雨は冷たく、鋭く、急速に体温を奪った。
一体何が青島の引き金を引いたのか。
今夜が切欠なのか?
ずっとと、先程青島は言った。
取るに足らないうやむやな状態に、繊細に傷つくだけの、関係に終止符を打たせる、明確な根拠が今夜にあったということか。
浮かれていたのが自分だけだったと室井は今知らされた。
「どうした、急に」
「急ではないんだけど、あんたにはそう見えるんだ?」
「・・・」
「そう見えちゃうんだな・・そこがそもそも間違いの元なのかもね」
切なく笑って、ようやく青島の飴色の瞳が室井を映した。
琥珀の光を差すそれは薄く水幕を張り、それは夜の帳に殊に妖しく光って、室井の息を止めさせる。
「あんたにとっては簡単なことでもさ、俺にとってはそんな簡単じゃないです。怪我作って痣作って血流して、上の世界見せつけられて、
こんな夜景のひとつも隠れてなのかって思ったら、なんか、もう、限界です・・つらいや」
絞り出すように、ゆっくりと、言葉を選んで喋る青島を、室井が遮ることはなかった。
気持ちは痛いほど伝わった。
ひとつ、ひとつは、たいしたことないことでも、重なると、心はキャパシティーを越える。
青島は最初から室井が出身派閥の不利を持つ男だと分かっていてパートナーにしてくれていたが
それでも知識として知っているのと、目の当たりにするのは訳が違う。
見せ付けられることなど、警察人生で今更なことではあった筈だ。
新城家の確かな血筋と政脈、あからさまに違う身分と、自分の手に残る錆びた遺産。
今夜はクリスマスイブで、その独特の聖なる空気感もまた、青島を追い詰めたひとつなのだろう。
こうして隠れるように歩く裏道も、室井にとっては至福の時間だったとしても、青島にとっては罪の深さを突き付ける。
この聖夜に。
「そうさせたいわけじゃない・・」
そんなことすら、叶わなかった。
置いていかれるだけの毎日に、笑ってやりすごすだけの気力がない。
何で追い縋っているのかも分からなくなる。
「言わなきゃ、よかった・・!」
言ってくれた時の戸惑いと嬉しさと、少しの安寧で支えていた室井の原動力とのあまりの落差が室井の中で吹き荒ぶ。
一番大切なものを失ったあの傷の裏側で、それは確かに室井に支えていたのだ。
子供染みた夢を一緒に追い続ける鎖をこの男へ植え付ける姑息な想いが、彼の手を取らせた。
他には何も求めない。束縛もしない。俺のものにもしない。
そのかわり、傍にいてくれ。
それがどんなに傲慢で酷な要求であっても、その時の室井に抗う余力は残されていなかった。
自分の脆弱さを隠して、縋っていた。
「こんなん、さみしいだけだ・・!」
違う、言ってくれて、どんなに救われたか。
聞かせてくれて、どんなに身が震えたか。
「すきって言ってくれて、嬉しかったよ。傍に居られて、楽しかった・・ほんとに。でも、でもね、おれ・・っっ」
「青島・・ッ、俺は君を」
聞きたくないという風に、青島が首を振る。
駄々を捏ねる仕草に飛沫が光を纏って、滴る雨粒にイルミネーションの七色が反射して。
美しいと思う間もなく、消えていく儚さに青島の幻影が重なって。
これは一夜の幻なのだと室井に伝えてくる。
「っ、勝手ですけど!もう会わない・・っっ」
最後は叫ぶようにして、青島は背を向ける。
哀しみに千切れるような青島の声が、室井の胸を突き刺し、抉った。
追ってよいのか、追ってどうするのか、一瞬の躊躇が室井の出足を遅らせた。
大切なんだ。
幸せでいてほしいんだ。
慌てて足を動したが、角を曲がった先には既に青島の影はなく、雨に霧がかかる視界に人はなく
置き去りにされたのはこちらの方だと知った。
遠いと思っていた予感が現実となった。
こんなに急に。
「待てッ、・・青島!!」
叫ぶ声に応える者はなく、しとしとと降る雨脚が表通りを眩ませて、傘も持たずに立ち尽くす室井の紺地のスーツは
色濃く重みを増していく。
重さはまるで支えを失ったことを表しているかのように嘲笑った。
恐怖で身体が震えるということを初めて知った。
青島にしては今夜は言葉数が少なかったと、今になって気付いた。
聖夜が、お膳立てどころか、トドメの矢となった。
ああ違う。
馬鹿野郎、どれだけの思いで制御してきたと思っているんだ。
どれだけ大切なのか、まだ伝えていない。
ああ、愛とはいつもこんなにも壊れやすい。
気持ちが、破裂しそうだ。

BGMはいつかのメリークリスマス Bz
タイトルはなんか四字熟語みたいなのにしたくて造語です。
今回は擦れ違い&切な系で。
折角新作映画に新城さんご健在でしたので、また拙作の新城さん、割と人気高めでしてリクエストも多く、久しぶりに出張ってもらいます。
拙宅ではODF後の室井氏の処遇についてはそこそこ出世街道に乗るのではないかという解釈の元
ある程度の発言力権力を持ち得ている一角として描いてきたものが多かったのですが、成程、なおかつ苦境に抗うが室井慎次かという発想もアリなのかと思いまして
今回は不憫な、もとい、無様な室井氏です。その上ヘタレ。最悪じゃん。だからモテないのよ