シーズン企画
サイト10周年記念作品
恋
歌 5

9.Side-決着
薄れゆく白い意識の向こうで、ネコジャラシが揺れている。
黒塗りの車体がタイヤを軋ませてブレーキをかける。
耳をつんざくような金切り音が有明埠頭に響き渡った。
アスファルトが煙を上げ、左右の扉が同時に開き、右から新城、左から室井が飛び出してくる。
護岸が整備されたこの橋の先はもう観光地としての機能はないため、トラック数台が停まっているだけで、ブロックは所々ひび割れていた。
ひと気はない。
「青島ッ、生きてるか!」
ターミナル中央に蹲る汚れた白い塊。
真っ先に走り寄った室井が跪き、薄汚れた布を掻き起こせば、泥と痣の顔が歪んだ。
「む、ろぃさんだぁ?・・ホンモノ・・?」
「よし、生きてるなッ」
「・・今度は、良い、タイミングで・・、あれぇ?新城さんもいる・・」
後から追い付いた新城を見上げ、青島がへにゃっと笑えば、新城もまた、口端を持ち上げた。
「くたばってないな青島!よく踏ん張った!」
室井の胸にもたれかかり、腫れあがった瞼や頬の痣が、見た者に大凡の事情を悟らせた。
意識ははっきりしているようで、新城の怒声に覚束ない指先で埠頭先の公園を指差す。
「あっち・・はやく、追って・・遠く、行っちゃう・・」
新城が今走り去った影を追って、鋭い視線を海岸線に沿った遊歩道に投げる。
並ぶ木立の影が揺れる。
「あそこだ!細川走れ!奴は遠くには逃げない!」
「ハッ!」
背後に控えていた細川が弾かれたように走り出した。
続けて新城がまだ車の脇で、近寄ることも出来ずに戦慄く男に声を張り上げる。
「ハヤシ!貴様!そこから逃げたら一生戻れんぞ!!」
「!」
一瞬の遅れを持たせたが、ハヤシも続けて、細川の後を追いだした。
小走りに沿道に向かう細川の背中を見て、青島が肩肘を付いて起き上がろうとし、痛みに呻く。
慌てて抱え治した室井の腕を青島が掴んだ。
「いい、から・・。室井、さん・・も、行って・・」
「大丈夫だ。大丈夫なんだ。キャリア二人で取り逃がしたら罵ってやればいい」
室井が片膝を付いた膝に凭れさせ、青島を腕に抱き治した。
促されるように目線を上げた青島と、室井の視線が克ち合って、時を止める。
哀愁の漂う夏の日差しを遮る海風が二人の頬を叩く。
薄汚れてはいるが白いスーツを着た青島と、黒の高級スーツを着た室井の頭上にオレンジの西日が刺さった。
「なにをされた」
出血など目立った外傷は上半身に集中していた。
口端が切れ、血の滲んだ下唇は青く腫れている顔は、昨日会った時より酷く
几帳面な室井がそれを見逃すことはない。
「ほとんどが、前の傷で、今日のじゃないよ・・・」
面倒臭そうに言い訳するも、青島が辛そうに腕を額に宛がった。
室井の腕の中で大人しく身を委ねているのも、身体を動かそうとすることすら辛いからだと分かる。
気怠い息は抵抗する元気もないことを室井に伝えてしまっている。
「やっぱり、キャリア・・すっげぇ・・、ぜんっぜん、太刀打ちできなかったぁ~・・」
「――当たり前だ馬鹿」
「ボディに一発、こう、ずしんと。それでもう体勢崩されちゃって。・・あとはボコボコ」
「接近戦に持ち込まれたら確実に仕留められる急所を狙え。顎か脛か金的だ。刃物でも所持していたらどうする」
「おっそろしいこと言わないでくださいよ・・トラウマになってんのに」
傷痕の共有なのだろうか、二人の苦笑が交じって消えた。
それでも青島の声の震えは隠し切れず、目許を覆ったままの青島の腕を、室井が強引に外す。
少し潤んだ目元を見て、青島が隠したかったものが露わとなる。
放っておけよと、もう一度抗う腕を強く縫い留め、室井が厳格な顔で腕の中の男を見下ろした。
力で縫い留められ、見上げる青島の瞳は縋るように不安定な色を湛え
絡まる視線が、痛みに近い熱すら生んでいた。離せない。
「今度こそ俺を置いて消えてしまうのかと思った・・」
「・・何度も置いてったのは、あんたじゃん・・」
「俺はいいんだ」
「なんだそれ・・」
吐息に笑みを含め、見つめ合う視線に囁く声は掠れて熱を交えていた。ようやく室井の方が、自分の身体の震えが止まっていたことを自覚する。
痛みのせいか、恐怖から解放された気の緩みか、震える青島の手首に、つい室井は力が籠った。
そして、グッと青島の後頭部を引き寄せ、自身の胸に埋めた。
もう何も隠さない腕は強く、屈強なその胸板に青島が息を呑み、揺れる髪に室井が頬を押し付ける。
「今度は間に合ったんだな」
室井の言葉には在りし日の残照を丹念に綴っていて、青島から言葉を失わせた。
室井に強く抱き締められながら、その視線を彷徨わせるが、その抱擁を阻むことまでは出来ない。
「自販機ごと返してくれるって・・まだ叶えて貰ってないし」
「そうだったな」
溢れ零れ落ちるものを、堪えて、耐えて、そう答えた。二人して。
大ウソつきだ。どちら共。
それでもこうして、今ここにいることが全てだと錯覚して、幻覚に酔うくらい、許されてもいいんじゃないかと。
そんな気にさせられて、今は抱き締め合える時間に室井の目頭が熱くなる。
「いつまでそうしているおつもりですか?」
突如かけられた言葉にガバリと室井と青島が同時に身体を離した。
顔はどっちも真赤だ。
サッと背けあった。もうまともに顔なんか見れていない。
そんな様子に新城はジト目を向ける。
「揃って私がここにいることを忘れていましたよね」
「・・・・・・・・そんなことはない」
「その間はなんです?」
室井の顔には珍しく焦りが浮かび、青島に至っては口許を覆ったまま顔すら上げられずにいた。
「公衆の面前で堂々と・・」
「君だって病室で抱き締めたと言っていたじゃないか」
「そんなどさくさに紛れたような行為はしていません」
「それもどうなんだ」
「今度は“間に合って”良かったですね」
「人の古傷を蒸し返す発言は止めてもらおうか」
「失礼。古傷を負った経験がないもので」
新城の意地悪な追及に、室井がジロリと睨みを効かせる横で、素知らぬ振りをして新城が今度は青島に問いかける。
「ところで青島、ケータイはどうした。探すのに手間をかけさせやがって」
「あああ~・・、俺のケータイねぇ~」
項垂れた青島が視線を向けた先、倒れていたところから凡そ100mほど向こうで、恐らくケータイだったと思われる金属の破片が光っていた。
電波を追えないわけである。
「壊したのか。壊されたのか」
「目の前でね。思った以上の痛手ですよ」
「帰ったら備品請求しろ。私の名前を出していい」
「気前いいですね~、あれ?でも、なんで此処に新城さんまで出てくんの?」
「どうやらこれは私の案件らしいからな」
スッと新城と室井が目配せをした。
遠くから細川とハヤシ、間に男を一人、細川がもう一人、腕を引き連れ戻ってくる。
新城が立ったまま身体を開き、室井も請け負うように顔を上げた。
渋々といった感じの二人は、無言を貫き、手前で立ち止まる。
細川が背中を叩いて新城の前に押し出した。
「ほら、詫びを入れておけ」
「・・ッ」
二十代くらいの男と、三十代半ばくらいの男。その脇に隠れるようにハヤシが立つ。
室井に支えられたままの青島を見下ろし、ごめんともすまんとも言えない男三人が、反抗的に視線を反らした。
反省の色が皆無の彼ら同様、先程まで自分をリンチしていた男らに、青島だって愛想はない。
「べっつに。もぉいいけどさ・・結局これ、何の騒ぎだったの?」
口も開かない三人の容疑者に、細川が代弁した。
「事情は大体聞きましたよ。大凡我々の推理は当たっていました」
「そのツラを見れば、私にも想像が付く」
室井が合いの手を入れ、新城が舌打ちすれば、その言葉に青島が推理?と眉を顰めた。
室井が年配の男の方に顎をしゃくる。
「信仰者の暴走というだけではなかったようだな。新城」
「ええ、点数稼ぎに失敗し、室井さんに嫉妬し、私のために仇討とばかりにお前に八つ当たりした案件だ。そうだろう?アサノ」
アサノと呼ばれた男が顔を盛大に歪め、怒りに身体を迸らせて、拘束から逃れようと身体を揺すった。
その無様な末路に新城がせせら笑った。
「落ちたなアサノ。同期の昇進レースはビリッケツ。ここで出世を諦め、金に走ったか。幾ら貰った?」
「・・・!!も、もらってなんか・・!」
「ないわけないだろう。地下の連中が絡んでいる情報を我々が掴んでいないとでも思っているのか」
想像以上にくだらない理由に、青島の口があんぐりと開いている。
その顔に、新城も肩を竦めた。こんなのは日常茶飯事だという顔だ。
「どうせ情報屋に踊らされたんだろう。室井さんの弱みを握ったつもりで腹いせだ。この程度の点数など、くれてやるものを」
「あ、あんたらキャリア揃って、何引っ掻き回してくれてんだよ!」
身に降りかかった火の粉が本当に飛び火だったことを知らされ、青島が思わず叫んで、天を仰いだ。
それに煽られ、アサノが思い余ったように吐き捨てる。
「た、大したことないじゃないか!飛び出た才能もない!力もない!その上、人生奉げてもいないくせになんだよ・・!突然出てきて、新城さんより目立っ
て!」
室井に向かって堰を切ったように唾を飛ばすそこに、キャリアの品格はなく、徐々に声も大きくなる。
「上からチャンスなんか貰っちゃってさぁ!何やったわけ?どうせお前もカラダ売ったか金貰ったか、知れたもんじゃない!汚いやり方したんだろ!」
アサノの目は血走り、協力者だったのだろう、確保されたもう一人の男も、眉を逆立てる。
その後ろで、ハヤシが口を挟めず視線を彷徨わせていた。
アサノは室井や一倉より一つ下、新城と同期である。
点数を稼ぐチャンスすら与えて貰えない不遇にいた。
例え嫌がらせでも、室井が指揮官を命じられたことは、アサノにとって羨ましく妬ましいものでしかなかった。
失敗すれば溜飲が下がったものを、それをまた、所轄の若造が直向きな情熱と信頼を寄せ、見事な援護までしてみせた。
「苛々すんだよ!お前見てると!お前らの絆って何もない薄っぺらいものじゃんか!ノンキャリ?はあッ?何の覚悟もない!何の才能もない!」
「それで青島を狙ったのか」
「ああそうだよ!後生大事に、一番可愛がっているモン、いっそ潰してやりたかったんだよ!ざまあみろ!」
アサノが勝ち誇ったように高笑いする。
「所轄は大人しく俺たちの言うことを聞いてりゃいい!出しゃばって、こっちの捜査も、新城さんの盗聴も台無しにして!好き勝手やってんの、こいつらじゃん
か!」
ここでお前がバラすのかよ。――新城はそのまま視線を青島にチラリと向けた。
驚いた眼で、青島も新城の視線で意味に気付く。――そうなの?
青島に小さく口端を持ち上げてみせてから、新城は改めてアサノの胸倉を掴み上げた。
「いきなり上に媚び売った男が気に喰わない気持ちもわからんではない。が、所轄に手を出したことは非常に腹立たしい」
「クッ」
「所轄は我々の下僕だ。その点は私も同意だ。だが、貴様がしたことは、私の足を引っ張り、私の顔に泥を塗った。それだけじゃない。
もしこれが上層部の耳に入ったら、明日からここに貴様の席はないぞ」
「私はただ・・!」
「どれだけ私に敬意を払おうと、どれだけ忠誠を誓おうと、このやり方を選んだこと、情報屋を使ったこと、軽蔑するからな!」
「でもだってソイツはっ」
「あれが本当に名誉挽回のチャンスだと思っていたのか、この下民がッ」
「けど私は新城さんのために・・!」
「貴様はうだつの上がらない自分の遺恨に私を利用しただけだ!正当防衛だと薄っぺらい理由をつけてな!」
「違う!新城さんが大好きなんですよぉぉ」
「いらんわッ」
「付いて行かせてください!もう居場所ないんですぅ!」
「うっとおしいッ」
アサノの形振り構わぬ態度に、ハヤシも真似て新城に追い縋る。
恐らく口車に乗せられただけなのだろう、一番若手の青年は、事態の変貌に呆気に取られてオロオロとしていた。
派閥を最大限に活用している新城にしては突飛なその言葉に、背後では細川が笑いを堪えるのに必死となっている。
何とも愚かしい事態の顛末に、室井はただ空に悪態を飛ばした。
実際、派閥とは何なのだろうか。
仮にも一年先輩である室井への態度に、派閥の無いキャリアへの偏見が重く潜んでいる。
新城にもバレ、しかも最悪な形で幕引きとなって、身の保証も危うくなった事態に、アサノの最後の矛先は室井へと向いた。
「目障りなんだよ!やっといなくなって清々してたのに!!」
更に続きを罵ろうとしたアサノの足を、遮ったのは力ない青島の手だった。
少しバランスを崩した男に、青島が誇らし気に目を光らせる。
「残念だったな、室井さんは戻ってきたよ」
その言葉が全てで、どちらに勝敗があったのかも、明らかだった。
***
鎮まりかえったその場を治める形で、細川が動く。
三人の肩を軽く叩いて押し出した。
キャリアとして生きる以上、背負うものが分からぬ間柄ではなかった。だからこそ、彼らが選んだやり方が恥ずかしく、惨めだ。
蹴落とすなど簡単だと思えた相手に、こんなにも助けられ、揺さぶられ、完敗していく後輩の屈辱など
出世の本懐と厳然を知らぬ若造に、分かるはずも無い。
渋々といった体で三人の男たちが頭を下げる。
ここまで無言で成り行きを見守っていた室井が威厳ある双眼を向け、厳かに口を開いた。
「私はいい。コイツに言え。君達のしたことは、懲戒免職にも相当する行為だ」
三人は青島にもぺこりとだけ頭を下げる。
あっかんべぇをする青島は、それでも心の中では同じ土俵で戦う意味を知ったことだろう。
「どうしますか、この馬鹿共を」
「今は未だ大ごとする気も告発する気もない」
「いいのですか?いっそキャリアどころか社会復帰も出来ないくらいにして差し上げてもお釣りがくると思いますがね」
そもそも新城は良家の出自であり、血統からも派閥からも護られたおぼっちゃまである。
歯向かう輩や抵抗勢力に容赦はない。
新城の発言に、完全に部外者となった三人の容疑者・・と、青島が萎縮して青ざめた。
はわわ・・となって、室井に視線を送るが、長い付き合いの室井にしてみれば新城の本性など知れたことだ。
執念深いんだなどと言って飄々と肩を竦める。
「今宵は室井さんに免じて不問にしてやるか。それも面白いだろう。貴様ら、もう室井さんにも頭が上がらなくなったな」
新城の確認に、青島も室井の腕を掴む。
「室井さん・・出来るの?」
「俺が得意なの、知っているだろう?」
黙認することも、黙秘させられることも。
「おまえは?どうしたい?」
「ん~・・、でも、もし俺がここで嘆いたり責めたりしたら、室井さんが責任感じちゃう流れですね?」
青島のおちゃらけた言い分は、新城にだってわざとだと分かる。
室井が片眉を上げて見せている。
随分と距離が近くなった。
最初から、どこか不安定なバランスを持つ二人だった。仲良しだなんて思っちゃいないが。
そういえば、この二人が揃っているのを新城が見たのは、あの事件以来だと気付く。
希望に燃え、だがそれが絶望に変わる瞬間の孤独、憤怒、悄然。哀傷をいくつも知ってきた。
キャリアを選んだ時から、宿命だ。戦わなければ、心が抉られるような痛みも、引き裂かれる熱も、知らずに済んだ。
今尚それを強要する男に、室井は降参する。
あの瞬間、新城もまた彼に陥落したのだ。
「この人は無駄な事が好きなんだ。気にすることはない」
「そうなんですか・・?」
「私には理解できない物好きだがな」
言い方に不満があるようだったが、室井も特に反論はしてこなかった。
でもきっと、この男を手に入れたとき、その者は禍々しいものすら跳ね除ける力を手に入れるのだ。
キャリアなら、男なら、誰でも欲するそれを、果たして手にするのは誰なのか。
「だが、言っておく。次、青島を巻き込むようなことがあったら、その時は容赦しない」
室井が今回の“容疑者ら”に、高圧的に言い放った。
室井さんの方が執念深いですと言った新城の声は波飛沫に流された。
10.Side-幕引き
それまで控えていた細川が新城を庇うように背後に立った。
意図を察した新城が、賢明に状況を理解する。
「室井さん」
「ああ、気付いている」
「我々がどこから付けられていたかも?」
「恐らくここに到着するのを待ち伏せされただけだ。その正体も恐らくこちらの想像通りだ。――そうだろう?龍村!」
ゆっくりと、室井が声を張り上げる。
だがその影はその場から出てくることはない。
黙って気配を探り合う駆け引きに、口を挟む隙さえ及ばず、ピリピリとした緊迫感がじわりと続いた。
「彼は誰なんです?」
「所轄の情報屋だそうだ」
「室井さんとはどういう関係で?」
「正に昨日、顔を合わせる機会があっただけだ。・・まだ、な」
新城の声にも緊張を含んだ鋭いものが混じり、警戒が官僚のものになる。
聞き慣れた名に、青島が倉庫を見て、もう一度室井の腕を掴んで見上げた。
「龍村・・?なんで・・?」
「今回、情報をくれたのは、彼だ」
「・・え?」
この場から立ち去ろうとはしないことに、不気味な余裕と執着を感じさせる。
先程までは傍観者のそれだった。だが今はこちらが落着をしたことを見届け、己の出番だとばかりに敵意を感じるものに変化している。
そもそも地下の人間は気が短い者が多い。
日も暮れ始めた海の街に、緊張が静かに走っていく。
「彼は放置していて大丈夫な人間と言い切れますか?」
「そういう意味では問題ない筈だ。違うか?」
ターミナル奥の倉庫の一角、暗がりに意識を集中し、青島には視線も寄越さず室井が問えば、青島もおずおずと頷いた。
「そうだけど・・。ごめん、また何かやらかした?俺」
青島が遠慮がちに囁くその言葉に、室井は少しだけ気配を緩める。
やるせない様子に青島に不安が伝染したのだと分かり、言葉を詰まらせた。
「気にすることはない。少々、駆け引きをしただけだ」
だが新城が、まだ引き下がらないことを視線で警告する。
「なにかと油断ならない気配を持つ男ですね。具体的に貴方がたの間に何があったんです?」
「今度会ったらしばきたおしてやろうと思っていたんだがな・・」
「は?」
「あの男。私を官僚と知りながら堂々と挑発してきた。執着しているのは我々にではない。特に取り入ろうとしているとも思えないな・・」
「何出し抜かれているんです?」
「しょうがないだろう、こっちにだって段取りというものがある」
「そんなものが通用する相手ですか?」
「まったくだった」
「呑気ですね・・で?今度はどうするんです?」
そうだな・・と室井が小さく呟いて、それから青島を見下ろした。
不安そうな影を揺らした瞳が室井を映している。
きっと、室井を巻き込んだことに後悔している。それが室井への零れ落ちた情熱の欠片だとも気付かずに。
―馬鹿野郎が。
悪いが踏み込ませてもらうからな。
「巻き込むぞ、おまえを」
「ん?」
青島が答える前に、室井が覆い被さり、そのまま青島の口に口唇を重ねた。
目をまんまるに見開いた青島を他所に、室井は青島の肩をしっかりと抱き寄せ、頬に手を添え、抵抗を阻む。
深く重ね合わせた肉を見せ付けるように、室井は舌で輪郭をなぞり、割って入った。
「っっっ」
驚いたままの青島の指先が、縋るように室井のスーツを掴む。
塞がれた口唇を割られ、薄らと赤い舌が覗いた。
無防備な口唇を、室井は思うままに貪っていく。
痺れを怺るように青島の眉が顰められ。瞼が閉ざされた。
やがて、応えるように、青島が角度を変え、ほんの少しだけ口唇を動かした。
艶冶に睫毛を震わせ、顎を上げる。
みんなが見ていることなんか承知の上だ。
見せびらかしたいこの男の作為に、とことん付き合ってやる。
いきなり見せ付けられたラブシーンに、ハヤシが膝から崩れ落ちた。
アサノや細川なども、口をポカンと開け呆気に取られて見入ってしまう。
厳格で朴訥な室井がここまでするとは思っていなかった。
こういう手段を選べるとは誰もが思っていなかった。
無論それは、影の男も同じだ。
ニヤリと悪巧みをする新城も、視線を奥に投げ、気配が二つ消えたことを見取る。そう、二つだ。
同じく気配の消失を感じ取った室井が、ゆっくりと青島を解放した。
濡れた紅い口唇を震わせ、青島がやや遅れて薄っすらと瞼を上げる。
惚けたように至近距離の室井を見上げる青島よりも、青島に魅入る室井の漆黒は雄の色に染まっていた。
「あ・・、ななななにしてくれてんだ、あんた?」
でもキスに応えたよな?と室井の強かな目が青島を捕える。
じっと見つめ合って、そして青島がはにかんで瞼を伏せた。
恥じらいを載せるその顔に、またスカした面を向けて揶揄ってくるだろうと高を括っていた室井は
意味深に目線を添えて、少し考えるようにして、最後に反らす青島に、逆に頬を強張らせてしまう。
なんだこの可愛い反応は。
「行ったようですよ。これでよろしいので?」
気配は二つだった。
つまりもう一派、誰かに見張られていた。察するに、公安だと思われた。
確実に池神の耳には入るだろう。
それでも、そもそもこれがパフォーマンスなのか真実の愛の儀式なのか、公安の連中に見定めるだけの情報はない。
「で?何でその手段なんですか室井さん・・一番効果的だったようですが」
「ただの倍返しだ。あいつも同じ手段で私を挑発してきたんだ」
「つまり、貴方、目の前で奪われたわけですか?」
室井のボヤキに、事態を正確に察した新城は腕を組んでニヤリと笑った。
「おい青島、何故そんな面白い修羅場を私に報告しない」
「ほんっきで新城さんのキャラが分からなくなってきちゃいましたけど」
青島が脱力して顔を上げた時には、既に遅かった。
新城の目が好奇に染まっている。
濡れた口唇を袖口で拭い、青島がそっぽを向く。
そうだ、この人もウチの署で大股かっぴらいて拳銃ぶっ放そうとした要注意人物だった・・!
「とんだ三角関係じゃないですか」
「そんな綺麗なモンじゃない」
「あの程度の人種にすら勝てないとは、これだから田舎者は」
「秋田は関係ないだろう」
「ではつまり貴方の甲斐性の問題ということですね。みっともない」
「立場上出来ないと分かっているシチュエーションで仕掛けられたんだ、君だってどうすることも出来なかった!」
「そもそも私ならそんな隙を与えませんが」
「一歩リードしたのは私だ」
「キスごときでリード出来ただなんておめでたい」
「嫉妬したんだろう?」
「実際目の前で奪われて妬いたのは貴方では?」
「当たり前だろう!八つ裂きにしてやりたかったくらいだ!」
室井が叫び、そこで室井も我に返った。
腕の中で青島が真っ赤な顔をしていた。
室井も口元を片手で覆う。
「あんたでもヤキモチ妬くの」
「だったらなんだ」
「ホンキ?妬いてたの?」
「俺のだって叫びたかったが?」
「あんたでも照れるんだね」
「何故分かる」
「その反らしたまんまの態度が証拠かな?」
コツンと室井が青島の後頭部を小突いて、ようやく二人の視線があった。
「君こそ、そんな格好して祝言でもあげるつもりか。誰に嫁ぐんだ」
「・・嫁ぐってあんた・・」
「私に言えないところか」
「その前に、もっとまともなスーツ支給するように上に言ってくださいよ・・これじゃ宴会芸にしか使えない」
タイミングを逃し、青島は去年の制服支給は残り物しかなかったことに神田署長に直接苦情を述べると
予算の都合だとか、処分の関係だとかで、一昨年の余り物だという一式を渡された。
今度はオフホワイトのジャケットスーツだった。
残り物でも余り物でも、なんでこんなもんしかないんだ、誰だよ注文した奴!と嘆いた所で、実際着ちゃうのが青島である。
新城がまた靴音を鳴らした。
ゴホンと咳払いをして存在を主張する様子に顔を上げれば、二人のやりとりに、周りもまた正視できないでいる。
アサノに至っては状況に付いて行けず、頼りないと思っていた室井がここまでしでかず暴走ぶりに、思考が止まっているようだった。
「室井さん、そろそろ男の見せ時では?いつかまたなんて言っていたら逃しますよ。例えば、私によって」
「君の発言はどこから出てくるのか良く解からん」
しかし、横から掻っ攫われるのはまっぴらである。
室井は腕の中の青島を見下ろした。
「昨日の続きを、いいか?」
「今?ここで?ジョーダン」
「何故冗談になるんだ」
「だって、それっぽいこと言われてないし、そういう素振りないじゃん」
「君が止めるからだ」
「止めたのはあんたでしょ」
「ここまでしておいて?」
「そこから演技じゃなかったの」
合わせたつもりだったのにと、動揺する青島の顔はもう茹だるほどに真っ赤だ。
「信頼、絆。言葉にするとそんな不確かなものに逃げてもっと深いところで繋がってると思っていた。こちらの自惚れだったようだ」
「・・ぇ、待っ」
「青島、俺は、君の事を、」
「待って!待っ・・」
だが沈黙で不穏な空気を察した青島が慌てふためく。
大勢の観衆の前でケロリとした顔で始まった室井の告白に、慌てて室井から離れようとするが、室井の力によって阻まれた。
室井の口許をまた両手で抑えるが、それも奪われ縫い止められた。
「お、俺が、いつか言わせてくださいって言った!」
「言わせるわけないだろう」
「んでだよ」
「俺が言いたいからだ」
「・・・・・・あんた振られたいの?」
「振れるのか?」
額を突合せて、意地を張り合って、挑発し合って、共鳴する。
もう勝手にしろと、新城が両手を広げた。
11.二年後
―2003年11月―
湾岸署に設置された特捜本部前に新城はいた。
この署も久しぶりだが、懐かしくはない。
一旦出払った室内は閑散としていて、くたびれたモスグリーンのコートを着た男が何かを探して段ボールを引っ掻き回している。
「室井さんとは会っているのか」
「会ってませんよ、なんですか急に」
あっちの段ボールだったかも、と、青島が別の段ボールをまた探り出す。
「ねぇ、室井さんどうしてます?あれからなんか電話もしてなくって」
「今は本庁に戻って・・相当、追われてる。会議と特捜だけでも5つ以上は抱えている筈だ。寝る間もないだろうな」
「――・・・」
中々の観察力、いや、勘の良さか。
青島が言わんとしている主旨を、新城は巧みに汲み取る。
人が人に拘る理由など、古今東西太古から、権力か、でなければ情に由来すると決まっている。
「会いたいのか?」
「べっつに?」
だってずっと傍にいるって!あんな身勝手で無謀な宣言残して、信じてやるって言わされて!そんでまた置いてっちゃうの?
あの秋の、青島の涙が溶け込んだ空はもう遠い。
室井が青島をどうしたいのかは語るまでもない。
認めて欲しくて彼を執拗に求めてしまう傲慢さに、拗れた本音が爛れていることを知った男は、見えない鎖で青島を縛った。
「次の事件で、恐らく帰ってくるぞ」
青島の手がピクリと反応する。
名を呼ぶたび、自分が必要とされていることを知り、その事実に罪の意識を感じている。
真実なんてとっくに確信しているだろうに、キャリアが仇となって付け込むことを認められないのだ。
それが恋だと自覚させるために、あの日の室井は青島を同じ罪に巻き込んだ。
「どうする」
「どうするもなにも」
新城が室井を見る時、その夢幻郷に絆される悔しさと、そこから生まれる果てない力の訴求力に、焦燥と嫌悪が綯い交ぜになった。
それは今も変わらない。
「ってゆーか、新城さん、俺のこと心配してくれてるの?」
「くだらんことを言ってないで早く探せ」
「無駄話振ったの、そっちじゃん」
「あんまり室井さん室井さん言うなと言っただろう」
「新城さんって、意外と」
「意外と、なんだ」
こっちだって久しぶりだ。
本部で顔を合わせると、邪気がなく、屈託が無い様子が必要以上に新城をささくれ立たせて苛立たせた。
その苛立ちのまま、深い憧憬と澱み、腐臭を放つ、醜いものへと変化して。
囚われてみてもいい。囚われるくらいなら、いっそ。
ちゃんと見つけたい。自分にとって、そういう相手に見つけられたい。
うかうかしている内に掻っ攫うことだって出来る。まだ勝敗はついていないですよ、室井さん。
キャリアなんてどいつもこいつも諦めの悪い人間の集団だ。
「貴様と関わると確かにロクなことにならないのは痛感したからな」
「元を辿れば俺のせいかもですけど、新城さんだってお見舞いに来てくれたし、なんか腹立つとか言ってたくせに何言ってんすか」
「自惚れるな」
「へえ?そう?」
新城の胸の内を見透かしたような、生意気な瞳。打ちのめされても、それでも消えないあの目の奥の炎のようなもの。
新城の嗜虐心が満たされる。
「連絡も取れないような男は止めておけ、青島」
「大きなお世話!」
そして重なる時代は繰り返す。
「・・・二年ぶりだな」
「ええ、潜水艦事件のとき以来ですね。あ、ありがとうございます自動販売機入れてもらって」
happy end

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20230723