シー ズン企画
クリスマスストーリー2021 Ⅳ









ラストダンス
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1.
12月の雨は街を芯まで凍てつかせる。

「これが最後の仕事になる。夫婦喧嘩ができるのも今のうちだぞ」

それが出来てたらこんな顔してないの。
そう顔に書いてある青島が、うんざりとした目を眇める姿を新城が敢えて干渉せずにいると、案の定予想通りの答えが返ってきた。

「しませんよ。仲良いんで」

見透かされた台詞も事も投げに口にする。
大胆なのか繊細なのか、今宵も丁寧に着飾られた正礼装で顎を軽く上げ、新城に生意気な顔を向けた。
絹の手袋をした手に、白ワインが入ったグラス。
繊細な輝きが上品なイエローダイヤとピンクゴールドがワンランク上の大人の手元を演出し
普段の青島を知る者に、未開拓で蠱惑的な、しどけない毒を再認識させてくる。

「惚気ているわりには脇が甘い。本庁を探っただろう」

ガクッと膝を折り、呆気に取られた青島がぐりんと開いた口を向ける。
新城からもそれを指摘されるなんて、青島にとっては公開処刑みたいなものだ。

「どこまで漏れてんの?アンタたちね、どんな地獄耳?」
「封建社会の定義に噛みつくのは貴様くらいだ」
「そおかな?思ったより揶揄の対象だったんで、びっくりしちゃいましたよ。そんなに俺ら、受け入れられちゃうもん?」

囁き合う言葉はどれも、壇上でセレモニーを仕切るホストに配慮してのことだ。
最終報を受け、室井はバルコニーで通話中だ。
今宵この館で開かれるクリスマスパーティの接待役を務める主人――ホストである壇上の彼が、今回のターゲットであり、この館の所有者である。
傍らに妻を控えさせ、儀礼的な挨拶に追われている。

月初頭、大使館のパーティで無名のパートナーを大仰に見せ付けたことは、師走の政財界で誠淑やかに尾を引いていた。
それは本日のホストである財務次官へも牽制の狙いであったが、同時に室井の隠し玉への興味を刺激させたらしく
イブの夜に開かれる、内々のパーティ招待状を4枚、送って来た。

「お前らは元々問題児という色眼鏡が付いている。またかと思っているだけだ」

ひでぇなと肩で苦笑する青島の横で、新城も小さく口端を滲ませる。

「聞いたんだろう?」

それが、何を指しているのかは、目的語がなくとも通じ合った。
チラッと青島が視線だけ向ければ、新城にしては臆面もない眼差しに承諾を乗せる。

「新婚早々浮気されたもんでね」
「寝取られるのもツメが甘いからだ」
「うううう~・・・」

唸るように歯を食いしばり、青島が新城を睨み上げる。
片手をちょこんと握り、若干瞳も潤んでいるように見える姿は、正に子供みたいで新城は苦笑する。

それは一週間前の酒の席で零された。
実際、一課の連中の反応は青島の毒気を抜かれるものだった。
口々に祝い事を述べられ、警察官の妻となる作法を説かれ、馴れ初めを問い質され、ベッドマナーを仕込まれ、あたかも結婚祝賀会のようであった。
席の終盤、現在の一課長だと名乗る定年間近の故老が重い口を開いた。

トップに担がれ実力もないのに政を任された中堅は、身体を張るしかないのが常套手段だ。
旧池神派や安住派の残党は、次の蜜を欲している。水面下での動きは長まで届かない。利用するために身売りされた――

長らく階級組織に在籍している者にしてみれば、キャリアのあるある話である。
一笑することも出来た、その時の青島の脳裏に過ぎったのは、午前中にたまたま立ち寄った湾岸署で耳にした室井の黒い噂とやらだった。
夏美が指摘していた、“見返りに室井さんが身体を売ったとか――”“具体的なメリットがないところに政治なんて――”
火のない所に煙は立たぬ。キャリアはそこを積んでいく職業だ。

「面白い。だとして、夫の浮気で取る妻の行動は、二択だ。どうする」
受け入れるか責めるか。

少し考え込むと、青島が眉を寄せて変な顔になる。

「婚前に二股かけられていたんなら慰謝料取れますかね?」
「いいな。搾り取ってみるか」
「ねぇ、そんなに俺、魅力ない?」

とんでもない質問が飛び出てきて、新城は流石に噛み殺した笑いを隠し切れなかった。
この手に余る感じが、室井を虜にするのだろう。恐らくそれはこちらもだと新城が知ったのも、そう遠い日ではない。

パーティは華麗なポロネーズで始まった。
オープニングには白いイブニングドレスの女性とタキシードか燕尾服の正装男性による若いカップルがポロネーズを踊る。
そのあとカドリールが何曲か流れ、そしてついに皆がお待ちかねのマズルカの時間となる。
マズルカでは愛が語られるのがお決まりだ。

「こりゃまたシュミ丸出しなパーティですこと」
「狙いが分かりやすくていいだろう」
「権力?」
「あと、お前だ」

スッと涼し気な目元を戻した新城に、青島もまた目を合わせることで合意した。

「繋がっておいて損はない御方だ」
「よくやったって褒めないの?」
「フン、余程痺れを切らしていると見える」

壁の花となって逃れた先までシャンデリアの光が反射し、キラキラと磨かれたダンスホールが目に眩しい。
きらめく宝石、オーケストラの雄大な響き、人目を忍んだ口付けと振られる扇、シガールームでの陰口。
優雅な笑顔が本物ではないことくらい、皆わかっている。
上流階級が権威を誇示するために必要な、シナリオ通りの小芝居だ。

「手筈通りに」
「ええ」

叙情的な管弦楽の音色の裏で、ひそひそと囁き合うのもまた、お互い様なのだ。

視界の端、壁際に並ぶ椅子に座った貴顕の面々には、馴染みの老翁たちが地を這う小声で探りを入れている。
中央の姿勢の良い髭面の老人と穏やかに談笑しつつ、その後ろに控えている執事たちに命ずるのは、恐らくホストの意図を知っているからだ。
彼らは政治的な交渉の場に臨んでいるのだ。

「聞かないのか、室井さんに。いつものように、真正面から」

新城もまた、視線を正面に戻しながら静かに問うた。
少し考え、青島は緩く首を振る。

そこに新城は、室井と青島だけにある、数奇な繋がりを垣間見る。
この二人はお互いに多くを語り合わない。それゆえに誤解も擦れ違いも惹起する。
あれだけ室井に懐いてきた青島が、夫婦の真似事が出来て浮かれてこないのも
戸惑いすらみせてくる、対面の連中とは対照的な脆弱に、新城には一種の後悔のようなものすら抱かせた。

「わかってるくせに」

余程途方に暮れているのか、華やかな場に似つかわしくない疲れた表情を浮かべた青島は、ホゥと気怠い溜息を漏らした。
室井が何も告げないからこそ、いざ彼から語られる言葉に、ある種の怯えが生じる。
だから、自分からは聞く事が出来ない。踏み込めない。
手を取り合わないからこそ保たれてきた室井と青島の関係性に、読み違えたものは、大きい。

「こちらの都合で勝手に婚約させたことが、お前たちの仲を乱したのなら、――悪かった」

青島は何も答えては来なかった。
音は聞こえぬが外は雨脚が強くなってきたようだ。凍えさせる冷気が足元から忍び寄る。
しっとりと奏でられる変ロ短調の円舞曲は、胸奥を抉るように闖入する。

「新城さんはさぁ、どのくらいえげつないことやったの?」

代わりに落とされた言葉は、青島の生来の人懐こさとは異なる、蔭りに脅えていた。
新城の断定が、殊の外青島に突き刺さったことを意図している様子に、新城は酷い吐き気を覚える。

「そんなことを聞いてどうする」
「キャリアってめんどくさいなぁって」
「所轄から同情が欲しいキャリアはいない」

簡単には答えちゃくれないかと青島が肩を竦めてみせた時、新城は見透かしたように胸を反らせた。

「ただ、引き立て役に担ぎ出された時は虫唾が走った」
「はは・・、新城さんらしいご解答で」

名家の血統を持ち東大派閥というエリートキャリアでも、そんな時代があったのだと
微かに隙を見せた新城の白状は、青島の表情を少し和らげた。
チラリとバルコニーに視線を投げ、まだ室井が通話中であることを確認してから、新城が青島を目だけで窘める。

「手段を択ばなければ幾らでもやりようはある。それは室井さんが一番身に染みてきたことだろう。でもそれをしない。何故か?」

新城にしては寛厚な声は、情けとばかりに青島に優しく染み入ってくる。

「情報戦など古典的だ。日本社会にとって真に重要なルールと言えば、依然として法律ではなく世間の不文律だ」

青島の顔を窺った新城は、争いを好まぬ眼差しで、冷酷な言葉は避けた。

「重要なのは、手段を択ばなきゃならない状況ではない。いつ、誰と、どの手段を選んだかだ。よく考えろ」
「その手段でしくじっても?」
「上に媚びりたければ見習え」

伝統的式典は形式に則って進行していた。
ホールの照明が少し落とされ、まろやかな赤香の光に乗せ、ゆったりとしたテンポのワルツが演奏される。
パーティーの序盤、未婚の男女が踊る初々しい曲だ。
独身の男女がダンスをする場。そこは、ただ踊るだけでなく若い娘と息子たちのお見合いを兼ねる。
政略的に人生が決められていく。

「警察の闇は、もっと深いぞ」

世間を欺くことがお前に出来るのかと、新城の言葉は青島に暗に問うていた。
室井に付き合いきれるのかと。
いっそ青島を護るかのように告げる新城の気遣いは、甲高いヴァイオリンに掻き消された。
ゆっくりと長い睫毛が震え、伏目がちに青島の視線が床に落とされる。

そんな手段を選ばなきゃならないんだろうか。
そうして、選んでいくことが正しいんだろうか。
そんなことを言ってるうちは、青臭いんだろうか。

ぶつかって、騙し合って、裏切られて、それでも俺たちは、戦ってきた。変わらぬ共鳴を胸に響かせていた。
そんな世界に、室井は青島を引き摺り込んだ。

青島の視線が窓辺に投げられる。

「新城さん、俺、分かったよ・・。俺が間違ってた」

青島の目はどこか透明のままバルコニーの男を見つめていた。
その深い色に、新城は少しゾッとする。

「人を傷つけても、陥れても、あのひとは最終的に悪人にはなれない。・・忘れてた」

出会ってから誰よりも近くで曖昧な距離感を保ち続けてきた室井が、いつものように多くを語らなかっただけなのに
その過去の一部について何らかの異変を探知し、ここまでの結論を洞察する。その感性の鋭さが新城を震わせる。

「だって、あのひと、根っからの警察官だもん」

くしゃりと、青島の顔が泣きそうに歪んだ。

「すっかり誑かされましたよ。俺がやるべきことが、見えた」

あんがと、新城さん。
無理に笑みを作って、青島が新城に片手を上げる。
廃退的な美しさに心臓が軋むのは、青島のものなのか新城のものなのか、もう判然としなかった。

室井には青島は必要だ。だが青島に室井は価値がない。
引き留めて良いのかの匙加減が、新城には分からない。だから新城が選ぶのはいつだって目の前の錬金術だ。
他方、青島が選ぶのは室井の既得権だ。
新城と青島の狙いのシグナルがシンクロする。

「室井さんを、恨むか?」
「・・・」

新城の涵養した一言に、青島はやんわりと笑い返すだけだった。
通話を終えた室井がバルコニーから戻ってくるのが見える。
窓には結露が幾筋も流れ、屋外の灯を吸う滴がオーナメントボールのように光を放つ。
室井と青島の空にはいつも冷たい雨が降る。それでも、願わくば。
クリスマスは、聖なる夜を連れてくる一夜限りの魔法だ。

「愛しちゃってるんで俺。妻がやるべきことは、浮気夫の証拠隠滅でしょ」

少し訝し気な顔を浮かべた新城は、未だ渋る胸の悪さを、これまでのように飲み干した。
隣で同じような顔で青島がグラスに反射した光に瞳を揺らす。

「新城さん、あとのこと、頼みます」

どこからしくない青島の行儀の良い愛し方も、白いヴェールに包まれて霞の向こうに朧に消えていく。
戻って来た室井に、何でもないような顔をして青島が真夏の向日葵のような笑みを向ける。
室井が顰め面を向けて視線を釘付け、真正面に立った。
誰にも渡すつもりなどないくせに、何食わぬ顔で黙殺する。
不穏な衝動のまま、新城は青島を呼び止めた。

「少しはまともな紳士ヅラを手に入れてきたようだな。青島」

新城さんが初めて褒めた。
なんだか情けないような、切ないような、小さく歪んだ笑みが、新城へは返った。

「行くぞ」

室井がゆったりと左手を青島へ伸ばす。
それを青島はしっとりと見つめていた。

何があっても怖いものなんてない。このひとが行く先に、答えがある。
胸のうちが聞けそうな二人の視線に、新城はもう言葉を挟まない。

「――はい」

青島が右手を差し伸べ、室井の表情を見る。
その手を、室井は優雅に己の手の平に乗せた。

「一か月猛特訓した成果を、アンタに見せてやる」
「やってみろ」

照明が変わり、管弦楽のリズムが変わる。

「ラストダンスの時間だ」










2.
ゆらゆらと、ランタンのような対流式石油ストーブが独特の臭いを放ち、朱色の炎で揺れていた。
特徴的な明るい7色の光がガラス円筒に浮かび上がる。
ろうそくの炎のように窓に幾重にも反射した。

曲の中盤、室井が手を取り、エスコートをしながらパートナーをホール中央へと誘った。
ざわっとホールの空気が乱れる。
ここまで壁の花となっていた男がライトの元へと現れた。最初で最後のチャンスが訪れたことを意味している。

――そうなれば、どうなるか。

皺ひとつない黒のウール生地の美しさが長い足を引き立てる。
ホワイトタイで黒の燕尾服の室井に対し、ブラックタイのタキシードの青島が対となる。
二人の黒革靴が揃い、ホール中央まで来ると、向き合った。
室井が繋いだ手を掲げ、鷹揚にお辞儀する。微笑を湛え、二人はゆっくりとステップを踏む。

抱き合うわけじゃない。回るわけでもない。ただ管弦楽の典雅な音色を荒らさず、足を揃える。
エスコートのゆかしい動きが、パートナーの気品を格付けていく。
豊かな肢体を管弦楽の優美な音色に晒し、正礼装をしている分、柳腰を際立たせる。

「まあ、見て。本物よ」

「なんてことだ。息がぴったりだ」

「ここにきて室井が動いたぞ」

一つ、曲が終わる。
何とも言えない空気がその場に張り詰めていた。
偶然を装い、一人の夫人が隣に立つ。

「踊ってくださる?」

このようなパーティでは最後のワルツは“ラストダンス”と呼ばれ、『本命の人』とラストダンスを踊るのが一般的だ。
決まった相手や同伴者が居ない者達の間では、誰がその誘いを出来るのか、そしてその誘いに乗ってくる相手は誰になるのか。
家督と財産を継げる長男嫡男に人気が集中する。

渦中の人物として、誰もがこの男の指先を注目していた。
だが、一向に声掛けをするタイミングすら、訪れなかった。

「お願いしても?」

背後から満面の笑みを見せるのは、いつの間にか近づいていた本日のホストだ。つまり彼女は財務次官夫人だ。
顔を塗りつぶすわけにはいかない連中は誰も動けない。
騒めきの中に一瞬の緊張が支配する。

いい?と青島が目で問えば、踊ってやれ、と室井が目線で合図する。
室井の合図には必ず意味がある。
見せ付けてやれ、ということだ。

「どうぞ」

エスコート役の男性二人がスッと後退る。
青島は彼女と向き合った。
手のひらを差し出した上に、夫人は勝ち誇った笑みで、あくまで優雅に自分の手を乗せた。
握手のように握ったその手を、甲を上に向けるように軽く回転させ、青島はハント・クスをする。

時が満ちたように、バイオリンの多感で典雅な音色が流れ出した。
青島が夫人の手を引き寄せた時、脂ぎった顔を綻ばせた財務次官の反対側で
室井が睥睨した目許を悠揚に伏せる。
その一瞬の表情は、スポットライトの動きに隠滅した。

「初めて声を聞けたわ。声まで素敵なのね」

ゆったりとしたテンポで歩みを進めながら、青島はパートナーとなった女性と視線を合わせた。
向かい合って、挨拶をして、右手を繋いで左手は女性の腰へ。
タキシードの上質な生地の滑らかさに包まれ、艶のある表情がより引き立ち、背が高くスラリとした青島の姿態に夫人がうっとりと肩から手をはべらせる。
燃えるような赤色のドレスと真っ赤な口紅が彼女を鮮やかに彩っていた。

「ダンスもお上手なのね」
「この曲だけ練習したんです」

ステップを踏むたびに艶やかな生地の裾がひらひらと舞う。身につけられたアクセサリーもホールの光を反射して眩い。

「ダンスの上手な殿方は、こちらを気持ちよく踊らせてくれるの」

耳に囁かれ、耳に囁き返す。
真紅のマニキュアは秘める毒を匂わし、存在の高さに剛愎な気の強さを思わせた。

「ねぇ、貴方、一体誰なの?」
「名前なんて一夜のダンスには無益ですよ」

誰もが最高ランクのドレスコードに合わせ、普段とは違う煌びやかな装いに身を着飾っている中
数歩歩けば女の一人や二人、いっそ男も二三人連れ帰ってきそうなベビーフェイスは、ウェットに固めた栗色の髪と合わせ
一際醇美で、見る者を一瞬で虜にするような、危うい肉感に揺れている。
近くで見ることを許された恍惚感を隠しもせず、端正な青島の顔をうっとりと見上げ、夫人は睫毛を伏せた。

「主人が貴方を欲しがっているの」
「貴女がじゃなくて?」

ふふ、と喉で哂った息が青島の肌を這っていく。

「どうせ脚を開いて御奉仕したんでしょう?」

突如耳打ちされた際どい言葉にも、動じた顔を見せずに二人はダンスを舞い続けた。
傍からは仲睦まじい光景に皆が嘆息する。

「それは・・・寝てくれって意味ですか?」
「貴方の腹一つ・・・室井の首が決まるわ」

ドレスのチュールが月光のようなライトに透け、床に折り重なる薄く影を作っている。
少し背伸びをして、夫人は直接青島の耳元に口付けた。

「これまでのこと、全てこちら胸一つに収めて差し上げましょう。そのかわり」
「そのかわりに」
「・・あなたの躯を一夜」
「・・・」
「お金でもいいの。でも、夜の腕前も知りたいわ」

今回の招待状は、あからさまに青島を誘い出すものだとは承知の上で、4人で乗り込んでいる。
それは同時に、彼らの永劫の静心を貰い受ける生贄を意味していることは、お互いが分かっていた。

「これで誰も手が出せなくなったぞ」

「最初から生贄にするつもりだったのか」

「だが喰われているのはむしろ次官の方じゃないか」

口々にはべる噂話も青島の耳にまでは届かない。
だが、青島の目的はもう既に達している。

財務省トップクラスの男の妻と、警察庁次期トップの隠し玉が踊る。
それは、観衆の目にはどう映るだろう。
明日から世相の構図が一変する。

同時に、この情報は警視庁にも流れる。
室井の黒い噂もただの噂となり、情報が情報を上塗りしていく。

「これで彼はあの男のものだ」

「だがそれで室井に後ろ盾が出来る」

「派閥がないから外堀を埋めるつもりか」

「面白い男じゃないか」

始まりは、権力を欲しがったわけではなかった。
正しいことをしたかっただけだ。
だが、時が流れ、目的は立場を欲し、立場は力を願う。いつか上に言ってやると息巻いた室井の願望は、いつしか権力の要求に過ぎなくなり
今こうして、自分たちも具体的な指針へと擦り変わっている。

青島が少屈み、強めに彼女の腰を引き寄せた。
艶のある瞳で、貴女の方がいいですと囁く。

「彼にはこんな魅力的なご婦人がいるのに」
「!」
「貴女を傷つけるような真似なんか、僕に出来るわけないでしょ」

青島が額が付くほど顔を寄せ、瞳を覗き込み、甘い声で囁いた。
その少女みたいな蒼い発言と屈託ない笑みに夫人の頬が不覚にもほんのりと染まる。
ムキになって睨む瞳にも完備にウィンクを送れば、更に夫人は目尻を染めた。

室井さんがこの賭けの相棒に、俺を選んでくれた意味なんて誰も知る必要がない。
財務次官はもう勝利を確信している。
でもそれで、警察庁を切れなくなったリスクに気付いていない。

「女の武器はひとつじゃないの」
「じゃあ、暴いて。俺のこと」
貴女が。

瞳は熱っぽく潤んで、指先には力が籠もる。
青島は舞踏靴の踵を鳴らし、力強く踏み込んだ。これはもはや、戦いですらない。栄光ある凱旋であった。

曲が終わる。

「ねぇ。2000万や3000万出すのをもったいながると、本当に人生終わるのよ」

青島は答えず微笑んだ。役目を果たした後は、無暗な挑発に乗る必要はない。
青島は名残惜しむように彼女から身を離した。
これは、青島がかけた魔法だ。

室井が音もなく近づき、その気配に青島がそっと振り返ると、照明が戻ったホールに和やかな空気が戻った。
そこに凛と立つ男に、青島が目を細める。
出された手の平に、吸い寄せられるように青島が手を乗せる。

「そろそろ返してもらいます」

室井が夫人に宣言する。
背中に添えられた手の温もり。角ばった優雅な二の腕の感触。翻る自分のドレス。
あの瞬間、数秒でも、自分は女だった。
もう自分は眼中にないと突き放された夫人は、形振り構わず追い縋った。

「ねぇ、本当に貴方、誰なの・・?」
「サンタクロースですよ、マダム」
















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