シーズン企画
毎年恒例クリスマスストーリー2019の続き









腐った林檎を召し上がれ~中編
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5.
闇の中で、室井の息遣いが鋭く途切れたことが妙にリアルだった。

次の瞬間、起き上がったのは二人同時だった。
片膝で跪き、跳ね上がるように青島がテーブルのシガレットを掴みとる。真横では手を付いた室井が背中合わせに扉の方へと切れ長の目を走らせた。
記憶を頼りに青島が愛用のモスグリーンのコートを探り当てる頃には、室井も袖を入れながら入り口に向かう。

「おまえは先に電気室を見に行け。私は女将か施設管理者を当たる」
「了解っ」
「案内板は1階ラウンジにあった」
「把握済みっ」

内ポケットに常備してあった小型の懐中電灯を口に咥えた青島が白手袋を嵌めながら指先を振ると、室井も大きく頷いた。
扉からザッと二つの影が同時に外に出る。
袖を通す青島のコートがふわりと舞った時、室井の闇色のコートが裾を翻した。

左右に分かれてひた走る。
非常灯も消えていたが、闇に慣れてきた目が辺りの様子を正確に把握させた。
青島はまず悲鳴が聞こえたような気がする一階調理場へと向かった。
恐らくこの時間なら客室係もコンシェルジュも、皆そこにいるはずだ。

履き慣れないスリッパの音が、一つだけぱったぱったと廊下に反響していた。
館内はしんとしていて、空調も止まっていることが分かる。所々にある消防用ランプが赤い警告を轟かせ、海老茶色に浮かび上がる穴倉が不気味に雪の 国を意識させた。
人の気配はない。
満室であるはずだが、まるでここは最初から廃墟であったかのような錯覚を呼んだ。
夜更けでもあり、みな部屋の中で指示を待っているのだろうが、古びた外壁や手すりに潜む暗闇は、より一層の萎縮に陥れる。
それにしても、こういう大型宿泊施設ならば非常電源や誘導灯くらいは法律で常設が義務付けられている筈だ。
何故点かないんだ?
注意深く辺りを見回し、ひとつ、顔を覗かせて様子を伺う客に、大丈夫だよと明るく声をかけ、青島は階段を下りていく。

大体なにこの意味不明な絵画。こわいっての。
無駄にデカイ柱とかさ~。コワイ顔した置物とかさ~。
しかめっ面は一人でじゅーぶんだよ。
閉ざされた雪の国、前触れなく落ちた電気系統。青島にとってはホラー映画のプロローグである。

「なにか、あった?」

厨房と居並ぶ機械室の前には既に何人かの人影が集まっており、青島は咥えた懐中電灯をチラつかせた。
光に気づいた最後尾の影がひとつ振り向き、その場に崩れ落ちる。
それを支えるように隣の影がそっと寄り添った。

「お客様、・・・申し訳ございません。何らかのトラブルで電気系統が全て落ちているようでして・・・。今確認をさせているところでございます」
「空調も止まっているみたいだけど大丈夫?この雪じゃ、あっという間に温度が――」
「それは大丈夫でございます。館内の暖房設備だけは別棟となっておりまして」
「あ、そうなの」

気丈にも落ち着いた声色で応答してくれたのは渋い年配の男だ。
言葉通り背後の鋼鉄の扉も開かれている様子が懐中電灯の繊弱な火影にも見て取れ、サッと揺らしたが中も妖異で真っ暗な様子が分かる。
座り込んでしまった影は小さく震え、啜り啼いているようで、青島は今度は足元に懐中電灯で照らしてやった。

「大丈夫?怪我は?」
「だい、だいじょ・・・ぶ、です。こんなこと、初めてで・・・わたし・・・」
「そうだよね。真っ暗だし怖いよね」

青島の人懐こい声は、幽暗の中でも柔らかく響いた。
刑事である以上、やたら人の感情を乱すような口ぶりをすることは控えたい。

どさりと、窓の外で積もった雪が落ちる音がして、それがやけに鼓膜に響いた。
誰もが無口で、雪灯りだけを頼りにする紺青の大気は冷たく、どうやら従業員の多くがここに集まっているようであることは気配で感じ取れた。
もう一度青島は足元に目を落とし、膝を折る。
声の主はどうやら若い女の子のようだった。しかもちょっと聞き覚えがある。
後頭部でシニヨンを結っているその髪形から、恐らく夕食を運んでくれた少女の一人だ。

「立てる?ほら捕まって?」
「あり、ありがと・・ございます・・」
「座ってると冷えちゃうから。オンナノコの冷えはタイテキ」
「・・、すい、すいません・・・私、まだここに入ったばかりで・・」
「いーのいーの」

暗闇に脅える女の子なんてか~わいーな~と思いながら、青島は少女を立たせ、それから営業スマイルを懐中電灯を充てて見せてやると
少女は強張らせた顔をぎこちなく持ち上げてみ せた。
無理して笑っているのが痛々しく、青島は更に優しく肩をポンポンと抱いてやる。
が、次に彼女から出てきた言葉は、青島の顔も強張らせるものだった。

「ありがとう・・・ここって古い街だから・・・都市伝説なんかも多くって」
「・・・んん?都市伝説?」
「ああ、私この村で生まれ育ったんです。曾祖母からもよく聞かされていて・・」

蛍雪に縁どられ、典型的な日本人顔のストレートの黒髪が印象的な、すれてない少女から語られる声は抑揚がなく、妙にこのシチュエーションにマッチする。

「たくさんあるんですよ、しきたりとか掟とか。それこそ微笑ましいものから恐ろしいものまで」
「ぇ、えぇ~・・?・・またまたぁ・・・」
「外から来た人には分からないかもしれませんけど」
「でも、だけど、今はもう、ほら・・・」
「古い山奥の、技術や情報が入らない村なんて時が止まっているのと同じなんです。ここはそういう村なんです」
「・・・・ぇ、えっと」
「昼でも薄暗くて、暗闇坂とか言われている場所もありますでしょ。でもああいう観光名所とはまた違う噂とか、その裏にある真実がここにはいっぱいあるか ら・・」
「・・・ど、どん、どん、んな?」

ゴクリと青島が生唾を呑む横で、さっきの渋い老人の声が二人の会話を遮った。

「これ、お客様の前で、そんな・・・」
「だって支配人、あまりにもこの状況ってあの話にそっくりじゃないですかぁぁ」
「それは迷信でございますから」
「でもぉ、」

どうやら年配のこの男性が旅館の支配人らしい。
二人のやり取りを交互に見ていた青島は、そうっと口を挟んだ。

「ちなみに~・・・、その噂って、どんな?」
「いえいえ、本当に、子供だましの昔話ですよ」

支配人はそう言って穏やかに微笑んで見せたが、その頬が青白く見えるのはこの闇のせいだろうか。
青島が隣の少女に目をやると、少女も青島を見上げて目を合わせる。
それから一度支配人に許可を乞うように視線を投げた後、促されたように少女は震える声を掠れさせた。

「こういう大雪で閉ざされた夜には雪女だとか多くの伝承が多いんです。でも、この辺りで有名なのは」
「有名なのは」
「交通機関が麻痺するほどの雪夜には絶対外の声を聞くなって。聞いたら連れ去られちゃうからって」
「外の声・・・?」
「女の人の泣き声だって話です。それを聞いたあるホテルは一晩で宿泊客が全員忽然と消えたって」
「消えた?」
「唯一逃げ出した男の証言では、全てはホテル中の電気が突然消えたことから始まったって言ってて」
「・・・」
「深夜、雪が激しく降り凡そ人が出られなくなった頃、ホテル中の電気が突然止まる。すると、一気に押し寄せた雪闇の中から徐々に声が近づいてきて」
「マジか・・」
「吹雪の唸りに混じって暗闇の中女の人の声がどこまでも追って来たって話。冗談だろうと翌日村人総出で再びホテルに戻れば、そこにはもう誰もいなかったん だっ て・・・」
「いなかったって・・・?」
「荷物はそのまま人間だけが全員いなくなってたって」
「・・・・」
「外の街に連絡を入れても来られるのは雪のやみま。仕方なくその夜、その男も一緒に村に戻るんだけど」
「だけど?」
「翌朝、その男も布団の中で冷たくなっていたそうです」
「・・どどどどうして・・」
「わからない・・・聴いちゃいけない声を聞いてしまったから。それを村では雪夜の祟りだって恐れられるようになったんだって。おばあちゃんがよく言って た」
「何を聞いたって・・」
「さあ・・。でも、この辺りではここまでの雪が降ると人は家から出ませ ん。連れ去られるから」

何となく、先程部屋から此処へ来るまで誰も部屋から顔を出さず声も上げていなかった様子が青島にフラッシュバックする。
雪はまだ窓を塞ぐように降りしきり、昏々と闇を凍らせ閉ざされた村を埋め尽くしている。

「おい」
「うっきゃああっっ!!!」

いきなり肩に置かれた手の感触に、青島は飛び上がって傍の影に飛びついた。
少女も合いの手のように悲鳴を上げ、辺りは一旦騒然となる。

「びびびびっくりしたぁぁ・・・ッッ」
「やだぁ!タイミング悪すぎですよぅ」

もぉ、と、少女も顰め面で青島を睨んでくる。
目を見合わせ、少女と青島は同時にほっと息を吐きながら、笑みを合わせた。
一緒にオカルト話に夢中になっていたことから、同胞意識が芽生えていて、少しほっとする。

「一緒に連れ去られちゃうかと思ったじゃないですかぁ」
「ねぇ?」
「凍らされちゃいますよぅ」
「ごめんごめん、つい」

へへへと首を竦める青島に、女の子も安心したように隣で胸元の前できゅっと握った。
どうやら青島と立ち話をしていたせいで、彼女もだいぶ落ち着いてきてはいるように見えた。
誰かと一緒であるということは、それだけで安心するものである。
人と話せる、それだけで人は、救われていく。

変な話を知っちゃって、聞かなきゃよかったなぁと思いつつも、青島の優し気な目はその少女のあどけない笑みに少し細められた。
その頃丁度機械室の奥から人の気配がし、誰かが顔を出す。

「ああ、ちょっといいですか支配人、こりゃ、雪女の仕業じゃねぇですよ」
「どんな状況でした?」

支配人の男性が一礼を残し、扉の奥へと消えていく。
その様子を青島はじっと視線で見送った。
専門的なトラブルであるのならば、資格を持たない素人がしゃしゃり出ても邪魔になるだけである。
雪夜はまだ始まったばかりだ。

「なおるんでしょうか・・・」
「そうだねぇ・・・」

今晩中の復旧は期待したいところだが。

「とにかく、待つしかないか」
「ですね。せめてこの雪が小降りになってくれればいいですね・・」
「だね」

二人の声は神妙に闇の中に吸い込まれていく。

「いい加減、そろそろ放してくれないか」
「・・・!!?うわあああ室井さんっっ」

突然自分の腕の中から声がして、青島は両手を挙げて後退った。
雪灯りで薄ぼんやりとした青藍の中に、黒々としたコートを溶け込ませる室井が眉間を寄せて直立している。

「なんっ、なんっ、いいいいいつからっっ」
「さっきからだっ」

どうやら先程声を掛けてきたのは室井だったらしい。驚きすぎてすっかり放置していたが、その時飛びついた黒い影もまた室井だったらしい。
青島は片手を額に当てて天井を向いた。
あああああ、俺、なにした?

今の今まで室井の首っ玉に齧り付いていた青島は、弁解する言葉も持たず室井の顔も見れない。
さっきまでどこか安心していた感覚があって、ついでに妙に温かかった掌に隙間風を感じちゃって。
いや、だって、恐いんだもんここ。

口許に拳を充てたまま頬を染めて口籠る青島を、隣の少女も半眼を寄越してくる。

「いつまでそうしているんだろうって思ってました私も。普通、抱きつくなら女の子のほうでしょー?」
「だよ、だよねぇ」
「ひっどーい!」
「ぁ・・はは、あれ、おっかしぃな・・・ぁ」

チラリと青島の丸い目が室井に助け舟を求めるが、室井にはジロリと睨まれただけだった。
うひゃっと青島は首を竦める。
ぜってーバカにされてる。
救いの手のように支配人の声が遠くから聞こえ、幾つかの懐中電灯がサーチライトのように弧を描いて帰ってきた。

「――で、警察にはどうしますかね?」
「この雪じゃなぁ」
「来れても明朝か」

ガタンと大きな音を立てて窓が風圧に唸る。

「閉じ込められたか・・」
「今年は特に大雪ですからね」

おずおずと青島が声を挟む。

「あのぅ、どうしました?」
「ああ・・・その、どうやら電気ケーブルが鋭利なもので切断されているようでして・・・」
「切断?」

あれ?

「ありゃあ簡単に一朝一夕で出来るものじゃねぇよ・・・悪戯にしては手が込み過ぎてんで、通報は先にしておいた方が。――あ、館長!」
「んだなぁ」
「どうしますか」
「まず――・・・」

室井が連れてきたのだろう、背後で控えていた年配の女性と若い男数名が近寄り、事情を聞き出しながら神妙な顔で今後のことを検討し始めた。
電話をかけにいく慌ただしい影が幾つか遠ざかっていく。
その周りを他の従業員が心配そうに取り巻き、様子を見守りながら、ひそひそ声で何かを洩らす。

「室井さん・・・」
「ああ」

円陣を組む、唸り困り果てる彼らを遠巻きに、青島がぼんやりと呟いた。
室井も首肯する。
予め刃物で切断。深夜に侵入。目撃証言はあるのに今だ発見には至らない人物の存在。
奇妙な符合に、室井と青島は鋭く視線を交差させた。

「あ~っと、ちょっと、いいですかぁ?」

影が一斉に反応を示す。

「出来たら、俺たちに現場、見せてもらえませんかね?」
「はい?」

青島の声に一同疑惑を乗せた気配を発する。
その予断を許さず、室井が厳かに告げる提案が緊迫した空気に制圧した。

「施設関係者を全員一階ロビーに集めてください。出来るだけ団体行動を。今から我々が館内を確認します。それまではそこで待機を」
「・・え、でも、あの」

胸ポケットから手帳を取り出し、ピッと並べて提示した室井と青島の仕草はぴたりと揃った。

「俺ら、刑事」











6.
「嬉しそうだな」
「あれ、わかります?」

へらっと緩んだ顔に似合う軽い足取りで、青島は室井の横でステップを踏んだ。
スリッパのせいで床を鳴らす音が高らかに反響する。
置いていかれた室井は、表情を崩さず同じテンポで静かに廊下を突き進み、青島の後を付いて行く。

どこにいても何をしていても、室井は平常心を失わない。
そんな室井に目を細め、青島はまたパタパタと追いついた。
懐中電灯は青島が持つ。
室井の足元を照らしながら並んで蛍雪に浮かぶ薄暗い廊下を二人、進んでいた。

関係者をロビーに集合させてから、室井と青島は念のため館内を点検して回っている。
宿泊者名簿を元に、各部屋の点呼、避難器具の設置状況、不審者の有無などを確認しているのだが、青島の足取りは軽い。

「こうして二人で捜査ってなーんか、いよいよ懐かしいですねぇ」
「気を抜くな。犯人と対峙した時、出遅れる」
「わかってますよぅ。けどですね、あーんなハナシ聞かされた後だと生身の人間ってだけで安心しちゃって」

やっぱり事件性のある方が青島の専売特許だった。
多少不謹慎ではあっても、青島にとっては実体あるものの方がストレートに感情を吐き出すことが出来る。
それになぜか、こうして室井と並んで歩いているだけでこの暗闇もワクワクしてくるから不思議だ。
この感覚、しばらく忘れてた。

「生身の人間に殺されかけたこともあるのにか」
「ぁ、それ今言っちゃう?」
「怖いもの知らずだから痛い目を見る」
「所持している凶器は小型の刃物。刃渡り十センチ。歳は三十歳前後・・今度は対応してみせますよ」
「さっきまで怖がっていたくせに」

ぼやく室井の声さえ、この暗闇では既知の安堵を残す。
そういえばさっき、室井に組み伏せられた時、なんか変な空気になった気がした。
あれは何だったんだろうか。

「亡霊よりさ、対処の仕様があるじゃない」
「・・・精々期待している」
「・・・」
「だから何で笑っている。また辛い記憶を増やしても知らないぞ」
「二人で抜け出してさ、あちこち聞き込みして、張り込んでって楽しい記憶になってますけど」
「気楽だな・・」
「ぁ、おれのせいね・・・、でででも、二人一緒ならほら、怖さも半減」
「・・・、本当に怖いのは――きっと、生きている人間の方だ」

しんみりと俯く室井の声は対照的に、殊更重く雪に吸い込まれた。
その黒々とした瞳には意味を持たせず、悟らせない。
室井が何を指して口にしたものなのかは、青島には汲み取れなかった。
本店で扱う事件は所轄で手に負えなくなったものや、全国区に渡る凶悪犯罪が多い。それだけで所轄が抱えるものより規模も重篤さも比ではない。
また巻き込まれる勢力図や政権争いに潜む薄汚い人間の性を、目の当たりにしている毎日は、それだけで清浄な信念を保つのに負荷となるだろう。
室井の方が警察経験も長いだけに、見てきたものは数知れなかった。

「今までで一番怖かった事件ってなんですか?」
「背筋が凍り付くようなものを出してやろうか」

室井の不遜な物言いに、青島の勝ち気な瞳が揶揄われたことを悟り、反抗的に光る。

「室井さんの地元だってなまはげ伝説、あるでしょ」
「なまはげは伝説じゃなくて200年以上の歴史を有する来訪神だ」
「あ、そうなの?」

雪は止む気配を見せなかった。
時折重みに耐えきれず落ちる雪の音が、館内の空気を忘れさせぬように震撼させる。
隣では燐光の中で柳眉を険しく顰め、無表情で淡々と先を見据える室井の目は、雪灯りも通さず闇色に侵略していた。
日常、閉鎖的で冷たい室井は、雪の中で合わせてみるとより清潔で高貴な印象を持ち、今まで青島が知る室井の記憶よりも遥かに
圧迫感に近いものを青島に与えてくる。

奇妙な縁の繋がりで、濃密な交じり合いと度の過ぎた執着を見せられたあの烈しい熱は、まるで嘘のように成りを潜め
青島を雪に閉ざし、遠ざける。
浮かれているのはきっと、自分だけなんだろう。こうして過去を捨てきれない未練のように仕舞い込んでいるのも。
一体、俺たちのあの共鳴の時間はなんだったんだろう。
組織の中で改革と革新に足掻く屈強な精神を潜めている筈なのに、今の室井は同一人物とは思わせないほどその熟した精神を貫き
青島に踏み入れてはいけない――踏み込ませない一層の禁猟区を作り上げていた。
だからというわけではないが、この暗闇に於いて青島は不意に室井を確認したい衝動に駆られる。

「あのぅ、機嫌、治りました?」
「・・・?悪いように見えていたのか?」
「じゃあ山道落ちて、結局道に迷って、雪かぶって。やーっと駅に着いたら新幹線止まってて。旅館もなくて、布団の上ですっころばされて、今度は停電―― も、怒ってないってこと」
「・・・そう並べられるといっそ壮観だな」
「いやぁ、災難って重なるもんですよね~」
「半分は人災って気がするが」
「よくこの旅館見つかりましたね」
「・・・たまたまだろう」

幽暗で、懐中電灯の唯一の頼りを見つめる青島の瞳が杏子色に揺らめく。

「俺らも誘い込まれちゃったんだったりして」
「どうしてもホラーにしたいんだな」
「室井さんは絶対幽霊とか星占いとか信じなさそうですよね」

そして、きっと余程の人間でなければ懐にも入れない男なのだ。
何も信じていない。だからこそ揺るぎない精神と信念は穢れを知らず侵略を赦さず、崇高な領域を保ち続ける。
室井は知っている。一番怖いのは、人の感情が織りなす邪念というものが時に一番人の柔い部分を狙って冒してくることだ。
様々な人情やくだらない世間体や社会形式が時に腐食するその本質の裏側の副作用というものが、如何に非道で無慈悲に人を押し流してしまうか。

離れていた時間が長すぎて、絡み合った時間が熱すぎて、パラドックスを構築する距離が青島には原始的だった。
青島のことに対してどこか獣欲のような激しさで挑まれる室井への違和感が、今になってより強い落差となって青島に押し寄せてくる。
あの共鳴の日々が錯覚で幻であったかのように狂わせる。

「室井さんってさぁ・・・」

名を呼んだものの、次に続く言葉を持たず青島が俯いた。
ペッタペッタと歩くスリッパの音が青島の分だけ乱雑に廊下に反響し、まるで一人雪嵐を迷子になっているかのような気にさせられ、昏々と冷え込み始める外と 呼応する。
恐らく、青島が懐くから捨てきれないだけなのだ。
来なくなったらそれはそれで構わないくらいの、その程度の想いで、室井は情に厚い男ではない。
それでも、室井と青島を決定的に隔てたのは、あの秋の放火未遂事件だったのだろう。
その後の副総監誘拐事件を切欠に何らかの和解が見えたと思っているが、室井はそのまま美幌に行ってしまったため定かではない。
青島とて、共闘してみせたって、あの秋を許せたかどうかは今もって分からなかった。

それでも、と思う。
自分は一体何が寂しいのか分からなかった。ただ終わらせたくないと思う。
引き延ばして何を怖がっているのかもわかっていないくせに。
この暗闇が見せる幻想が、ひとときの惑乱と凜冽でありもしない夢想を誘い寄せているだけなのだと思いたい。

「なんだ」

思ってもみなかった室井からのリアクションがあって、青島ははっと顔を上げた。
濃紺に溶けこむ室井の目が、足を止め、青島をしっかりと映しこんでいるのが確認でき、青島は思わず詰めていた息をほっと吐く。
瞳を揺らす青島のその微妙な表情に、室井の片眉が少しだけあがった。
どうした?って問うその顔に、少し泣きたい気にさせられた。

「・・っと、いえ、室井さんもタイヘンなんだろうなって」
「大変?」
「室井さんは――っていうかキャリア連中ってまいんち孤独に戦っているんでしょ」
「多少誤解がある気がするが」
「でもさ、みんなが一人な分、向き合ってんですよね、それって」
「・・・・」
「それはそれで・・・・・羨ましいな~なんてね」

足を止め、青島は窓の外で唸りをあげる黒々とした自然の脅威を目に映す。
周りが囃し立てるほど、自分たちは密ではない。そして、密になることを望んでいない。
追憶と焦燥は同義だと、青島は小さく笑みを落とした。

「俺は・・・なんも出来ないんだなぁ・・・って」
「元々、所轄の人間に助けて貰おうだなんて思っていない」
「あ、そう」
「ただ、君と出会って、所轄が地域と密接に関わる意味を知って、そこは少し、不思議な感じがした。羨ましいと言えば、そうなのかもしれない」
「そうなの?」
「警察官は、その職務を隔離された所で全うすることで社会の治安が保たれているのだと思っていたから」
「けど、室井さんは、これからも染まることは望んでないんでしょ?」

一歩先を行っていた室井が、青島の足音が途絶えたことに気付き、ゆっくりと立ち止まる。
窓の外を見上げ、それから悠揚と振り向いた。
闇に溶け込むように存在する室井の幽艶さは、青島の息を震えさせる。

「そこが、君の夢の辿り着くところだ」
「そっちがあんたの居場所だもんね」
「不満なのか?」
「んん・・そうじゃない、でも、なんか・・・遠い場所だ」

幽昧な闇の中で、室井は清艶に笑った。

「でもな、青島」
「?」
「こっちは、相棒になる気はあるぞ」
「!!」

青島がパッと顔を咲かせれば、室井が意味深に口端を持ち上げる。
破顔した青島に、室井の眉間が照れたように顰められた。

「そこわね、俺もです」

室井はそのまま頬を強張らせると、それを隠すようにコートを翻した。

「付いて来いよ、青島」
「とーぜんっ」










7.
「青島」

花が咲いたように青島が笑った直後、僅か目を細めた室井が、刹那、指先を延ばし青島の手元に添えた。
その眼は既に角の向こう側を一心に見つめている。
全神経がそこに集中しているのが青島にも感じ取れる。
青島もまた一瞬だけ視線を流すと、ライトを消して、室井を庇うように手前に足を出した。

真っ暗な闇は、だがいっそ逆にリアルに意思が共鳴してくる。
それをまた室井も感じ取り、肩越しに視線で指示を待つ青島に、一瞬だけ同意の視線を合わせた。
誰か、いる。

後から青島の手を引くと室井が横脇に引き摺り込んだ。
物置用ロッカーの扉を注意深く開けると青島を押し込み、室井も入り込んだ。

うっそでしょ!せっまい・・!!

「ぁ、あのっ、」

小さく声を出す青島に、すかさず室井の手にその口を塞がれる。
気配は勘の良い青島にも分かっていたが、それでこんなところに二人で隠れる必要ってありましたっけ?
良く分からないまま、片眉を曲げ、室井の次の指示を待つために青島は大人しく従うことにした。

しんとした夜更けの廊下を、誰かがヒタヒタと近づいてくる。
倉庫の中はギリギリ大人一人が入れるくらいだ。
二人も入っているのだから当然扉は閉まっていない。

随分と長い時間な気がした。
廊下を舐めるように移動する音と合わせ、室井の呼吸が青島の耳元から支配してくる。
室井の身体が覆い被さるように青島に密着し、大きな手に肩と口を押さえ付けられていて、その体温と肉感に、青島は不意に目を閉じた。
・・・この匂い、知ってる。
懐かしいような、偲ぶことは背徳であるような、愛惜の記憶が甘酸っぱく、青島の息をきつく閉ざさせた。
逞しく硬い肉厚の身体は確かに男のもので、女の子とは明らかに違う。
違うのに、何故か顔が火照ってきた気がして、青島は目線を反らした。
どっくん、どっくんと自分の心臓が室井の香りに脈打っている。
こんなに近くで触れたのは、多分、今日を除けば、あの刺された時以来なんだ。

「こんな時間なのに・・・どこへ行くんだ?」

室井の低い呟きにはっと目を開けると、扉の隙間から、夜目にも慣れてきた動く影が青島にも見えた。
目の前には鋭い眼光で扉の外を伺う室井の肌が雪灯りに青く光る。
影はこちらの灯りに気付いていたのだろうか。二人が潜む角へ足音が近づき、止まった。
宿泊客とも考えられる。だがこの村の仕来たりを考えれば不用意に夜更けに出歩くことは考えにくかった。
青島みたいに事情を知らない余所者だとしても、この停電でひょこひょこ出歩くのは不自然だ。

青島の口許はまだ室井の手に抑えられていて、身動ぎをして大人しくしている意思を訴えたが、室井の手は外れなかった。
顔を傾け、室井が青島の耳に口唇が振れる距離で吐息を吹き込む。

「何処に行くか移動先を確認したい」

ぞわりと粟立つ肌が青島の全身に走り抜けた。
別に、俺、飛び出してなんか、行かないのに。
どうやらその点では、室井にとことん信用されていないらしく、青島は少しだけ苦笑を洩らした。
それに気づく室井の目が、一瞬だけ青島を捕える。
何故かそれが艶めかしく光って、青島は慌てて下を向いた。

凛々しい姿と、高貴な意志に憧れていた男だった。
頑固で融通が利かなくて、だけど戦う姿か誰よりも眩い。
それは裏切られても、離されても、疎遠になった今でも青島の中では変わらない。

それよりも重要なのは、あの秋の一件で明らかになったのが室井と青島の繋がりを上層部が疎ましい危険因子としている事実なのだ。
あの騒動を上が仕掛けてきたという実相こそが、室井のキャリアと青島の価値に、ひいては二人の結論を試されている。

青島の長い足に沿わせているわけではないだろうが、この狭い空間では密着する室井の膝頭が太腿に当たり、グッと抑え込まれる度に足を割り裂かれていく。
どこか倒錯的なシチュエーションと、この没落した廃墟と、日頃性など感じさせない室井の清潔感が、いっそ酷く気怠い官能を呼び
このまま室井に囚われてしまっても構わないような、このままここに閉じ込められてしまってもいいような、そんなアンモラルな幻惑を呼び覚ました。
何考えてんだ俺。
ってかモップ臭い・・。
仕方なく、青島は室井の肩口にしなだれかかり、成り行きに任せる。
コートの袖から僅か覗く丸っこい指先をぎゅっと握り、ただ時を過ぎ去るのを待った。

黒い影は、ふらふらと揺れ、やがて奥の角を曲がって消えた。
それを確認した室井は、ほっと肩の力を抜き、手を緩める。同時に青島も大きく詰めていた息を吐いた。
その安堵に室井が気付き、柳眉を深く寄せる。

「・・・すまない」
「いえ・・・」

青島の口から手を離す瞬きに、室井が頬を強張らせたことが雪灯りに映し出された。
深い眉間は、青島にはまるで苛立っているようにも怒っているようにも見受けられた。
だが、有り得ない距離でまだ狭い倉庫で抱き合うように寄り添う二人の視線が闇の中で絡み合う。
驚き、また避けられると思ったが、室井はただ黙って青島の目を見つめ、その両手は青島の腕を捕らえたままだった。

「・・・・・・ぁ、あの・・・」

あの影が消えた先を、確認しなければならない。

「・・・むろいさん・・?」

それでも身体は動かない。
まだ閉じ込められた幻惑の時間が続いていて、極度の緊張状態が青島の喉を干乾びさせた。

「・・・」
「・・・」

どさりと、窓の外で積もった雪が屋根から落ちる。
その音にはっと意識を戻したように、室井と青島は身体を離した。
どっと緊張の糸がほぐれ、変な汗が背筋を伝い落ちる。

「・・・追いかけるぞ」
「そ、ですね」

白手袋を嵌め直すように引っ張りながら、室井が扉から外に出る。
僅か遅れ、額の汗を袖口で乱暴に拭った青島も、ぽんっと飛び出した。
ふわりと舞う青島の細髪は綿菓子のようにさざめく。

「確保が必要になった場合は私が合図する。無防備に飛び出すなよ」
「信用無いようで」

わざと茶化した青島の細い声色に、くすりと吐息を洩らした室井の背中が、闇の中でも伝わった。
言葉少なに二人揃って小走りに向かい出す。
視線は合わなかった。
















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