シー
ズン企画
毎年恒例クリスマスストーリー2019の続き
腐った林檎を召し上がれ~後編

8.
キンと凍る空気が窓に幾筋もの結露を散りばめる。
苛立ちに近い限界の中で、青島はのそりと布団から起き上がった。
枕元に置いていた時計を手探りで探し取り上げる。まだ針は明け方4時前を指していた。
日の出の時刻もまだ遠い。
辺りは薄暗く、風の音も止んでいた。
ふぅと大きな溜息を残し、気怠く前髪を掻き揚げた青島のアンニュイな表情がほんのり嬌艶と白々とした靄に溶け込む。
あの後、館内を室井と見回った後は従業員の前でトラブルの概要を説明し、無駄に怯えさせないよう極力省いた事件についても触れ、自分たちはその任務でここ
にいること
そして、今回の件との関連性を伝え、宿泊客には情報を一切伏せた。
明朝改めて協議することで一度解散とし、各自部屋で休むことを伝達する。
電気系統の回復は見込めない以上、体力をすり減らすこともまた危険だったからだ。
特に不審者が潜伏している様子はなく、あの時の影の正体も分からず終いだった。
忽然と消えた影は、恐らく宿泊客だったのだろうと二人は結論付ける。随分と好奇心旺盛ないたずら小僧だ。
まるで君みたいだと揶揄する室井の目は、柔らかかった。
他に破壊された場所などの発見にも至らなかったところで、後は明朝天候の回復を待って地元警察に任せることになりそ
うだ。
僅か三十cmほど離された布団の上では、室井が安らかな寝息をたてていた。
端正な鼻筋と堅そうな男の口許が、普段の室井の荘厳さをそのままに綺麗な輪郭を薄闇に隠す。
その規則正しい呼吸に、追い詰められるままに青島は布団を出る。
くたびれたショルダーバックの中から厚手のモカのニットを仕込み、その上にコートを羽織ってアイスブルーに光る奥座敷の窓から庭に出た。
雪はチラチラと舞ってはいるが、峠は越えていた。
一晩で一m以上積もった庭園は、もこもことした造形を描き、吹きさらしとなっていた一面真っ白の銀世界が微光をきらきらと散りばめていた。
「すっげぇ・・・」
声も雪に吸い取られる感じだ。
薄っすらと月白に光る生まれたての大気がキンと凍え、つららが幾つも木々から並び、まだ眠る微かな光を纏って透明に光る。
清浄な山麓の瑞々しい酸素がまるで濁った肺から浄化していくようだった。
都会育ちでは、スキー場などの遊技場でしか味わえない大自然の猛威である。
はあっと息を吐くと、それは視界を曇らせるほどの白さで、曇天の空へと吸い込まれていった。
眠れなかった。
部屋へ戻った後、室井とふたり横にはなったが、青島は一睡も出来ていない。
隣に室井が寝ていると思うだけで、なんか意識が冴えて息遣いがやけに耳に残って、じたばたしたくなる衝動がある。
僅か三十cm。手を延ばせば容易に届くその距離が、届かせてはいけない掟を発動させ、けれども逃げ出す隙さえ奪われている。
「・・つっめてッ・・」
雪の上に手のひらをぎゅっと押し付けてみた。
柔らかくさらさらとした感触はザラメ雪となる都会とは全然違う。
雪の上にひとつ、青島の手形が完成した。
「まーきんぐ」
すぐそばの大木らしきものが重そうに雪を乗せて沈み、無音の世界にザザザと音を立てて雪を掻き上げた。
ニット帽を深くかぶると、青島はその傍まで雪を掻き分け、近寄っていく。
大木の根元に背を預け、持ち出した煙草を取り出し火を点けた。
カチっと鳴るジッポの音さえ憚られる世界だ。
寝癖の残る青島の前髪が目元を覆い隠しその愛らしい輪郭に色香を灯らせる。
室井はパートナーを必要としていない。
いざとなれば、権力とルールを天秤にかけ、また冷酷に絶ち切ってくる男だ。
だけど、あんな昇華と高揚を見せられて、あんな共鳴を与えられ、それで素知らぬ顔するなんて、俺には出来ない。
――ああ、俺、この人に餓えてたんだなぁ
意地張って、強がってみたところで、青島の奥まで入り込んだ室井の気配は消えていないことを思い知らされた。
それは実態がない分、より化け物のように息を潜めて腐敗する。
鋭く、温度も色も乗せない瞳が青島を射抜く時、細胞から沸き立った。
その瞬間が、俺、好きだった。
この村には幾つも掟があると旅館の少女は言っていたが、文字通りその掟をこの地が青島に戒めた。
何年も離れていたし、約束以外の何か言葉を交わしていたわけでもなかった。
いつだったか、二人の間に漂う不透明な感情に名前はいらないと思った。答えを欲しがるくらいなら。
男は煙草と女とウイスキーがあれが良いという。俺だってそうだ。煙草と時計とモデルガンさえあれば、大概の悪夢は消えていく。
それでいい。こうして、またひとつ室井の思い出を刻んで消えていければいい。
それだけのことなのに、室井が青島を相棒と認めてくれていたことが、死ぬほど嬉しいと思った。
このひととなら出来る、そう確信する予感が確かに室井にはあって、だからこそまだ同じ気持ちでいてくれたことが誇らしくて、狂おしいほど大切だ。
悪くない。またその次をと、願ってしまう。その次が確かに来る筈だと馬鹿な期待だと分かっていて。
ぷはぁ、と足元に吐いた煙草もまた雪と交じって濁り消えた。
いつもより苦い気がする味に、青島の眉が少しだけ歪められる。
狂おしいと思うほどに、楽しかった。この偶然に与えられた時間が、思う以上に嬉しかったんだ。この閉ざされた雪が永遠に溶けなくてもいいと思えるほどに。
何故あの男なのか。そこまでを考えたことはなかった。
でも、出会ってしまったなら、もう室井でなければ青島は懸けられない。
ふたりで懸けた時間が色褪せない。ギリギリの攻防を成すあの時代が、大切なものに変わっていた。
そうだ、俺、この人がものすごく、もっと。
すごく、すごく、俺。
もっともっとと欲しがるのは、贅沢なことだった。
室井もまた、その他多くの人間と同じように、一人の男としての面子を持っている。自分もそうであるように、それは室井の中だけで完成する神域だ。
何の因果か、今夜はそれにちょっとだけ触れてしまっているだけで。
そんな姿を見せる相手は、選ばれた一人でなければならない。
「・・?」
音さえ吸い込む白の世界で、微かな亀裂が聞こえた気がして、青島は視線を向けた。
閉ざしてきた筈の窓がまた開く音が聞こえ、独り占めしていた世界が終わる。
黒いコートはこの銀世界では完全に異物混入だ。
青島の歩いた足跡を見つけ、そこをゆっくりと辿ってくる。
「眠れないのか?」
手前で止まり、遠慮がちに掛けられた声に、青島は片手を上げて見せた。
「あんたこそ」
二人の間を一陣の粉雪がアイスブルーの世界を閉ざして、室井の黒々とした姿態を染めていく。
「それとも、俺が起こしちゃいましたか」
だったらすいませんと、煙草を言い訳にするように青島がコートからちょっとだけ出ている指先でシガレットを回す。
青島からほんの少し離れたところで止まったまま、室井は山の方に視線を移した。
まるで二つの敷布団の距離を残す室井に、青島はじっとその彫の深い横顔を見つめた。
なんで起きてきたんだろう。なんで外にまで出てくるのか。暖房の効いた部屋で朝を待てばいいのに。
「かなり積もったな」
「――ええ。でもこんなの見慣れてんでしょ」
「故郷も美幌も雪の街だった。ここも凄いな・・・」
遠い目で回想する室井は、昨夜とは違って闇には紛れない。
下からじっと青島が伺う視線に、室井が気付いていないとも思えなかった。しかし室井は前を向いたまま銀世界を漫然と見続け
そのまま、ゆっくりと薄い口唇を開いた。
「何故、部屋を出たのか聞きたい」
「――・・・」
唐突な質問だった。
どこか遠い場所の音のようで、それが自分へ向けて発せられたものだと気付くのに青島は一瞬遅れた。
不意を突かれた青島は軽くかわす術も奪われ、狙われたタイミングだったことを知る。
そう簡単に踏み入れさせないこの雪のような男に、青島は慎重に当たり障りのない言葉を探した。
「随分と直球にきましたね」
「君と世間話をする仲だとは思っていないんでな」
「煙草。・・・ってことにしてくれません?」
「――」
笑いもせず、だが交わすつもりもないらしく、室井は黙ったまま前だけを見据える。
沈黙が凍った世界を更に冷たくさせ、音のない世界はお互いの呼吸さえ拾い上げ暴いてしまいそうだった。
なんで室井がそんなことを知りたがるのか、青島には分からなかった。
だが、本能的に変な空気になりそうな気配を積んでいく才気を持つ青島が、先に声を発する。
「ゆき。見てました俺も。あんまりこういう機会って、ない・・」
立ち話を終わらせるために、青島は言葉尻を消えさせ、煙草を揉み消して、間を作る。
視線は合わせない。
しんとした大気が冷たさをもってふたりの溜息を白く凍らせ覆い隠していく。
垂れこめた雲に隠れる白い山を向いたまま、室井に動く気配はなかった。
森を散らす深閑も、木立の息吹さえ聞こえない。此処は閉ざされた銀白の世界だ。
「君にかかると何でも幸運になるんだな」
「そーでもない、よ」
吐息だけで話を終わらせ、青島が大きく息を吸う。
凍えた大気は痛いくらい清浄だった。胸が苦しいのは呼吸がきついのか息をしないからか、ただぐっと胸を締め付けられる。
「なんでこんなとこにオトコと閉じ込められてんだろってハナシでしょ」
「予定があったのか」
「ないですよ。ないですけどね、今はシゴトがこいびとだからね俺。でもそれにしたって・・・」
だろうなと言って、室井がようやく身体だけこちらを向かせ、風雅に瞼を上げた。
どきんと鼓動した向こう側で、黒々とした瞳だけが印象的の精気の薄い肌は雪と見紛う。
ようやく克ち合った面差しに導かれ、堅く熟した男の気配をあざなって、青島の知らない室井が威圧感をもって雪と共に目前を遮った。
でもそれは、何より気高く貴い男の生き様を青島に見せつけてくる。
くるりとステップを踏み、ポケットに手を突っ込んで、下からじぃっと青島の透明で飴色の瞳が室井を映しこんだ。
「あんたは、眠れた?」
至近距離で挑発的に挑まれても、室井はたじろがずじっと青島を見据えた。
凍えた大気の中では素肌を刺す空気が痛い。
青島のコートの裾がひらりと雪を舞う。
白靄の中の荘重な気配に、佇む世界の違いを思い知り、青島はこの場を冗談で済ませようと軽く睫毛を落とす。
部屋を出るまで占めていた苛立ちのような焦燥が再び湧き上がり、青島の胸の奥を押し潰した。
昨夜だって色々あったのに、その記憶も疲れさえ見せない男に、いるだけで安心を覚えた青島には苦々しい後味が煙草と重なっていた。
それは置き去りにされていく予感に近い。もうすぐ朝が来る。
しきりに注ぐ粉雪が青島の色素の薄い髪に飾られ、素知らぬ視線は白じむ空に消えていく。
充分な間を取り、饒舌な言い訳を嫌う室井の目が青島を絡め取ったまま、懺悔の口を開いた。
「眠れなかったのは、君だろう?」
「・・・さあね?」
「本当に、何も言わないんだな」
「そんなこと、なかったでしょ」
「あの時の話をしてもいいか」
話す機会がなかったんだと敬虔に視線で縫い留める室井に、青島は苦笑を隠し、努めて素っ気ない声を出した。
「昔話をする男って嫌われるんですって」
「それは、言い訳も許さないということか」
「らしくない。だから」
「あの時、本部が吐いた嘘もやったことも許されることではない。だが、元々の原因は――」
私にあった、なんて言うつもりかよ。
「君も分かっているだろうが、」
「組織のやり方に染まりたくなかったのは、あんたの方だ」
「――!」
「要は、盗聴器仕掛けたくなるほど俺たちのコンビ愛に嫉妬してたってだけのことでしょ。ちっさいよね~」
室井の言葉を遮った青島が、丸い輪郭の頬をぷくっと膨らませウィンクする。
その無邪気な顔に、室井は少しだけ尖った顎を持ち上げ、眉間を深めて青島の都合の良い解釈に戸惑いを乗せた。
本店は、放火殺人未遂事件の悪夢を忘れさせるわけにはいかないのだろう。
たった、あれだけのことで人の心なんて、簡単に遠くなってしまう。
あれ以来、室井と青島の接触は、誰も何も言わないが、はれ物に触るように秘密裏に警戒されていた。
そんな見当違いの目論見を本気に出来る上層部が羨ましくさえある。
結局何でも硬く考えてしまう室井の気丈な思想は、青島には分からない大人の世界だった。でも時にそれは息苦しくも美しくもある。
泥まみれの底辺で這い蹲るしかない俺たちを、澄ました顔で温かい部屋で見物する人間同士の諍いなんか
きっとおもちゃ箱を引っくり返すのと同じことなのだ。
綺麗ごとにしたいのは、どちらの方なのか、曖昧にしてくる現実は、いっそ潔く壊してしまいたかった。
ここで謝られたら、全てが終わってしまう気がした。
歪んでいても、捩れていても、挑み、傷つき、交差することが、息をする全てとなる。
それが逃げだというのなら、戦うことを放棄した罪状に、青島は自ら陥落していく。
「周りのこと。ちゃんと見てないと、またけつまづいちゃったって知らないから」
「またって言うな」
その不服な顰め面に、青島は精一杯笑みを象り、首を傾げる。
室井は少し驚いて、それから心得たように薄く笑った。
「とんでもないのと組んだな」
ぎこちなさを持ちながらも無邪気に笑う青島の挑発的な色香に、室井の目尻が僅か眇められた。
雄の野性味を覚えた色に、青島が怪訝に見つめ返し、空気が止まる。
ゆっくりと室井が足を向ける。
動く気があったのだと青島が理解する頃には、青島と室井の距離はほぼなくなっていた。
布団の境界は既になく、その呼吸さえ感じ取れてしまう近さにまで詰められ、青島は思わず一歩、後退る。
とん・・・と背中に堅いものが辺り、自分が大木にまで追い詰められていることを理解した。
じっと挑まれ、青島の危険察知する本能が、何かを暴かれる予感に警告を鳴らし、心臓が急速に脈打っていく。
「な、なに・・・」
「私には見ていないと危なっかしい相棒がいる」
だからそんな余裕はなかった、と告げる室井の声は妙に掠れて青島の耳に届く。
至近距離の吐息だけが熱く、青島はその男の迫力に少しだけ顔を歪めた。
情欲に濡れた雄の色香を滲ませるその眼差しに、虚を突かれたのは青島の方で、身体の奥に不意に大きな情動が走る。
どうしてこんな急速に不自然な距離に踏み入ってくるのか。
室井こそがこんな距離で青島と関わることを望んでいないと思っていた。
室井の意図するところが掴めず、足元と室井を交互に見遣り、青島が眉尻を下げて慄く。
「で?最後の説教ってわけ」
「・・・」
「裏切ったって俺を突き放したのはあんただろ」
「それで?」
「俺は――・・、俺はっ、ただ、あんたに賭けたから今更変えるわけにもいかないってだけで・・・」
「それで」
「だ、だから、確かにキャリア連中は羨ましかったけど、でも、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、俺は俺の信念を・・・」
「それで」
「・・っ、っ、だから、・・・んだよ、また俺に付き合ってお城を抜け出したいわけ?」
勝ち気に虚勢を張る青島に、室井はゆっくりと腕の拘束を解くと、得た答えに満足したかのように口端を滲ませた。
「それも悪くない」
室井らしくないぞんざいな文句が妙に男くさく、独り言のように発するその言葉を青島はただ聞き入るしかなく、微動だにさせてもらえない。
それは精神から束縛する傲慢な独占欲を持つ雄の顔をしていた。
男のずる賢さに、青島は培った経験の差を思い知り、歪んだ顔を背ける。
「気が早いのか、それとも」
室井の細長い指先が伸びてきて、そっと青島の口唇に触れた。気がした。
その白い指がそのまま青島の頭上を指す。
「その木。・・・何だか知っているか?」
「・・ぇ?」
「ヤドリギという。その木にも伝説はある」
「・・どんな」
雪の中から覗く緑色の葉と室井を交互に睨みながら、警戒した青島がうわ言のように唸れば、室井は満足げに柔和な目を青島へと向けた。
「ヤドリギはその名の通り寄生性の常緑樹だ。ほかの樹木の栄養を吸って生きる」
「・・・」
「大地に根を張らず、冬でも緑を保つ姿に古代の人は神秘的な力――不死や永遠を覚え、神聖視した」
「・・・へぇ」
「そこから派生したのだろう・・・この時期に面白い伝説が生まれた」
そう告げた室井が、青島の顔横の木に片手を付いた。
にじり寄られ、室井に踏み固められた雪がキュッと鳴く。
僅かな距離さえ消滅させ、肘を曲げ、いなすように顔を傾ける室井の黒目がちの虹彩が、青島を未知の恐怖で縛り、青島は息を詰めた。
妙に男くさい。
気迫に負けるのが悔しくて、強気に啼く前に、室井がそれを縫い留める。
「クリスマスの時期、ヤドリギの下にいる人間はキスを拒むことができない。もし拒むと、翌年は結婚のチャンスが無くなってしまうんだそうだ」
「・・っ・・」
「実に、男に都合の良い話に出来ている・・・」
目を丸くする青島の視界の一切に室井の虹彩が塞ぎ込み―ー
言いかけた何かをそのまま、室井が強かに青島の口唇を塞ぐ。
灼くような熱がこの冷たい大気の中でただ一つの印を青島に刻み込み、思わず視界が揺れ、足元がふらついた。
キュッと鳴く雪音が凍土を知らせてくる。
何故、どうして。
なんでこんなことをされているのか、分からない。
室井の与える熱だけが確かで、それは痛くて切なくて苦しくて、あとは真っ白の世界で。
動こうと思えば何か出来たかもしれない。でも、青島の身体は意思を反し、またその命令に従うことを選んでいた。
「――」
柔らかく触れるだけで、そっと離れた男の口唇に青島の丸い目は釘付けられた。
乾き、かさついた色素の薄い口唇は、たった今触れていたのが嘘であるかのように噤まれる。
上向けば、室井の真剣な顔が青島を確かめるようにまだそこにあり、唾液で濡れた青島の赤らむ口唇に添えた指先で、ゆっくりと、淫靡になぞってくる。
途端、青島が息を詰めた。
「ごめん――・・・」
掠れた風音のような声を残し、今度は青島が顔を傾ける。
自分から室井の口唇を求めて重ねた。
「っ」
触れ合う熱に息を詰めたのは、青島の方だった。
淡く重ねられたそれに、室井が指先を延ばし青島の頬を労わるように触れる。
冷え切ってかさつく男の指が妙に性的な匂いを持っているような気がして、諫めるような動きが哀しくて
青島はこれ以上深く触れ合うことを恐れ、触れるだけに留めた接触を自ら終わらせた。
その動きを封じるように室井の両手が青島の頬を捕え、もう一度だけ吸い付くように食ばんだ。
雪が溶けるように室井が瞼を半分開け、ゆっくりと顔を離す。
「・・・・」
「・・・・」
少し傾けたまま、青島の唾液に濡れた紅い口唇を伏目となって焦点を合わせる室井の黒髪に、幾つも粉雪が降りかかる。
また舞いだした雪がまるで心を映し出すように散り散りに乱れて二人の息を白く染め上げた。
本店の思惑に乗ってやるつもりなんて青島にはなかったが、彼らの描いたシナリオに准じてやることがあの約束を、ひいては室井を護ることになる。
そのためにはこうして室井と青島がもう一度交流を持つことを、由とするとは思えなかった。
そのことを、聡明なこの男もまた気付かぬ訳がないのに。
ゆっくりと室井の手の甲が青島の頬を辿り、雪を払い落す。
視線はもう外してさえもらえない。
奪われた口唇よりも、目の前にいる相手が誰かということの方が青島には重大で、だけど今、身体の裡から湧き上がる。
室井に明確な色香など感じたことはなかったが、それは室井自身性的なものを封印していたからなのだと知った。
壮麗な奥に潜めていた浅ましい欲望を隠しもしない年上の男の姿は、雪の中にあって酷く清廉に映り、雪に混じる。
コートから少しだけ覗く青島の丸っこい手が、ぎゅっと固く握られた。
明視する視線が持ち上がり、はっきりと青島を捕らえた時、青島の心臓がきゅっと跳ね上がった。
「いいな?」
室井が揶揄めいたものを零せば、青島は少し頬を赤くして、そっぽを向いた。
雪に晒され続けた肌は、首筋も桃色になる。
「・・・俺は別に」
乾いた喉から搾る声は掠れて落ちた。
背後の木に背中を預け、青島はポケットに両手を突っ込む。
拗ねた目を向ける青島に、室井は妙に雪に映える瞳を細めた。
「出会った中で、君が一番近くにいていつも私を急き立てる。なのに、こうして目の前にすると、一番遠いのは何故なんだろうな」
「そのくらい、刑事なら推理しなよ」
室井がゆったりと腕を上げ、部屋の方を指差した。
黙ったまま、青島も身を起こす。
チラチラと舞う雪は、また激しくなって二人に降りかかっていた。
答えを求めるのは愚かな気がした。
変わらぬものを確かめるのも、無意味だと知りつつ堕ちていくこともあるのだと知っていた。
9.
懶惰な動きで
室井が何度も口唇を擦り合わせてくる。
勿体ぶった動きに焦らされ、青島が主導権を取ろうと動きを交わせば、ゆるりと逃げられ拒むことを赦さぬ口唇に塞がれた。
ひとときも離れることを怖がるように誘われて、透明な青島の瞳が無垢に揺らめきを灯す。
月白の大気に溶け込み、影は一つだった。
酷く気怠い動きなのに、それは痛いほどの熱を帯びて青島の中に甘く滴ってくる。
ヤドリギの伝説を恐れなくとも、この冷たさがこの地の掟が宿命をふたりに与え、離れることを赦されていない癖に、共に生きることも擯斥されているのだと思
えた。
きっと、今だけなのだ。
薄っすらと瞼を上げた視界に恬然とした表情が迫り、雄の劣情が宿っている瞳が唯一つ穢す青島を認めてくる。
それが極上の愉悦を青島に走らせ、時間さえ蕩けさすような甘ったるい動きに、やるせない吐息が青島の口から洩れた。
「せっかちなのか、気が早いのか・・・」
口端だけで薄っすらと笑む男の官能に、苛立ったまま青島がまた吸い付いた。
呼吸のタイミングすら忘れて、足りないものをその熱の中に探り出したかった。
迷う気持ちのまま、記憶の欠片を拾い集めて、軋み続けるその意味を理屈付ける。
狡い大人のやり方に辟易していたくせに、欲しがるものはこんなにもシンプルだ。
薄い輪郭を何度も確かめながら、卑猥な水音を立てて吸い付けば、室井の手が緩く青島の腰へと回った。
膝立ちのまま引き寄せ合う身体が密着し、薄い布だけが隔てるお互いの体温が素肌を伝う。
室井の匂いが、微かな吐息が、そして微かに残る雪の匂いが、朦朧と目の前を覆い、痺れるような接触が酷く原始的な感覚を呼び
それは確かにあの日自分が感じたものと酷似していた。
混沌の中で渦を巻きせめぎ合っているものが色を変えて微かな恐怖を呼んでくる。
もどかしさから顔を歪めた青島が、一旦キスを解こうと顎を反らすが、室井はそれを許さず青島の後頭部に手を回す。
角度を変えて青島に何度も口付けた。
柔らかい接触だけだったものと異なり、濃厚な蜜を予感させる成熟した雄の仕草に、思わず青島が怺る。
「んん・・、ぅ・・・ん・・」
忙しなく繰り返される口付けの合間を縫って、こめかみに口唇を移し、室井が幾つも口付けを降らせてくる。
「俺を・・捕まえたいみたいなキスだ・・」
「そういうところは鈍い」
長い指先に青島の柔らかい髪を絡め、くしゃりと握り潰して室井の口唇は青島の耳朶を掠めた。
「おまえといると、自分が人であるということを思い出せてもらっている気がしていた」
「・・ひと・・」
「こんな感情のことだ」
「・・どんな・・?」
敢えて言わせようとする青島の挑発的な瞳に、室井は弄んでいた青島の髪を不意に乱暴に引く。
上向かせたその紅らむ口唇を容赦なく塞いだ。
太く分厚い舌先で青島の歯列をこじ開け、強引に奥へと侵入する。
突然の深い圧迫感に、青島はきつく目を閉じその肉を受け入れた。
期せず崩れたバランスを保つため、必然的に青島の左手が室井の腕に縋り、右手を後ろ手に付く。
「・・っ・・、んっ、・・っ・・」
やがて気付いた時にはもう止めようもない熱さで口付けが始まっていて、その執拗さに青島の眦が朱に染めあげられた。
濃密なキスの濃度に、大人の味を知らされた気分で、刺激の強さから不覚にも青島の手が抵抗を残す。
粗雑な扱いが逆に、女扱いはしていないようで、こそばゆい。
キスなんてこの歳になれば大したことない行為だったのに、男にされるということは初めての経験で
その容赦のない丹念な動きと、主導権も握られる怖さに、青島の眉間が切なげに寄せられた。
「・・ぅ、・・む・・ぃ・・・」
堪え切れぬように青島の喉から洩れる声音に煽られ、室井が苛烈な情動を乗せた指の腹で怯える青島の耳の後ろの柔肌を幾度も愛撫する。
成熟した男の労わるような動きは、しかし性的な匂いを持つ行為に、青島が肌を震わせれば、肩から浴衣が衣擦れに任せてよれ落ちた。
勢いづく室井とは対照的に、徐々に背を反らすように青島が布団の上に崩れていく。
その態勢を保つことが出来なくなり、青島の両手がのろのろと室井の首へと回った。
肌寒いから、心寂しいから。理由なんて幾らだって転がっていた。
胸の奥で燻り続けているものに、名前なんて意味がない。
そんな気安い文句でこの行為を正当化しようとしている自分に、青島の微かに歪められた口許に苦い葛藤が浮かぶ。
それを見越したように、室井は青島の両脚の間に膝を入れると、青島の腰に密着させ、あますことなく口腔内を探った。
「・・ふ・・っ、ぅ・・・ん・・」
喉奥まで突き入れられた男の舌に、青島の喉が苦し気に呻く。
言葉としての明確な指令はなくとも、そこには支配する男としての傲慢さが潜み、あの日の、あの時間の中に青島を閉じ込めてくる。
こんなにも青島を貪りながら、それでも飄々とした態度を崩さない室井に、青島は覚束ない指先で室井の浴衣を手繰り寄せる。
その肉厚な身体中に、そして記憶に中にまで、青島だって何かを刻み付けてやりたかった。
「ん・・っ、くぅ・・っ、ふ・・・」
くちゅりと唾液が掻き混ぜられる音が無音の雪に熱を孕ませ、月白の世界を焦爛に染めあげる。
ねっとりと絡め取り、毒に犯すように室井が舌先をくねらせる淫靡な動きに、青島の口端からは淫らな水音と共に甘ったるい呻きが幾度も漏れた。
それを堪能しながら、室井は室井は青島の浴衣の裾から手を入れ、しなる背を支えながら、背骨に沿ってゆったりと指先を這わせていく。
ゆっくりと往復する淫乱な動きに、合わせた口端からまた甘い吐息が零れ出る。
悔しくて、動きに合わせようと青島が舌を差し出せば、甘く吸い取られるようにそれは何度も掬い上げられた。
どれだけ深く口唇を合わせても、どれだけ熱を重ね合わせても、少しも満たされることはなく、もっと深くが、もっとすべてを欲しくさせられる。
そこにあるのは、爛れた貪欲な渇望だけだ。
勢いに押された青島の態勢が少しずつ支えを失って崩れ、キスに夢中になり、自ら口を開いて男の舌を誘惑する動きに、室井は更に体重をかけ
後ろ髪を手荒に引き下ろして蹂躙する。
膝を開かされ、不安定な態勢の青島に圧し掛かるような態勢で縋る青島の腰布を室井は勢いよく引き抜いた。
その間も捕らえた口唇は離さない。
「・・んぅ・・っ、ん・・っ、く・・」
感じているのが苦痛なのか快楽なのか、もう上手く判別がつかない。
兇悪的に忙しなく擦り合わせ、僅かに離れてはまた噛みつくように重ね合い、聞こえるのは荒い息遣いだけだった。
室井が室井じゃないようで、落ち着かない。縋る青島の指先が小さく震えている。
ついに青島の脚が体重を支えることを放棄し、膝折れる。
それでも肉の甘さに溺れている青島の腰を、室井が片手で強く引き寄せると、僅かに背を反らせる格好のまま、青島が室井の髪を無意識のままに掻き乱す。
その仕草に、室井は完全に体重をかけた。
とすんと平衡感覚が薄れる。
目を開ければ世界は反転していて、青島は布団に押し倒されていた。
タイミングをうまく測れず、酸素不足で潤んでしまった睫毛が黒々と光を受け、薄っすらと開いた濡れた口で青島は荒く息を整え治す。
青島の乱れた息さえ惜しむように室井が何度も塞いだせいで、刺激に青島の目尻が赤く染め上がっていた。
狂熱に染まった二つの息が同じようにアイスブルーの大気に溶けていく。
肩で息をする青島の珠艶な顔に少し驚いたような目をした室井が、目を眇めて薄っすらと微苦笑した。
その雄の顔に、青島の心臓は跳ね上がる。
黙ったまま見つめ合う二人の間には、熱を持つ荒い息遣いしかない。
「おまえとは、いつかこうなる予感がしていた」
「幽霊は信じないくせに、予感は信じるんだ・・・」
物理的な圧迫感さえ齎しそうなその眼差しはひとときも離されることはなく、それが青島に仄暗い悦びを与える。
見下ろす黒髪がはらりと額に落ちて、室井がゆっくりと覆い被さってきた。
既に着崩れた青島の浴衣は肩から脱げ落ち、片膝を立てれば淫奔にその太腿が白く浮かび上がる。
目元は朱を差したように上気し、苦し気に眉を寄せる歪んだ顔は男の理性を吹き飛ばすには充分だった。
青島の太腿に手の平を這わせ、室井が青島の肌を幾度も撫で上げる。
甘く震える戦慄きを堪能し、ゆっくりと室井の手が青島の膝を割った。
口唇を滑らせ、仰け反って悶える青島の喉元を通って更に下へと降りていく。
「・・ろぃ、さ・・っ」
信じられないくらい、熱い。
身体が暴走しそうに脈打っていて、何もかもが熾烈な刺激となって青島の若い肌を震わせる。
息苦しくて、目の前がくらくらして、それでも離れることを拒む躰が爛れた渇望をまだひたすらに訴えてくる。
さっきまで凍えていた足先はとっくに桃色に染まり、首筋は少し汗ばんで光を持つ。
すっかりと熟れ、しっとりと潤んだ青島の瞳が、室井を真摯に映し込み、切迫する息遣いと押し殺された甘い声に、室井が更に熟れた熱を与えてくる。
青島は絶え絶えとなる息を止めたくて、腕で口許を覆った。
潤んだ眼で室井を見上げ、怺るその仕草に、室井が青島の腕を外し、布団の上に縫い止める。
「青島」
「ん・・ぅ・・っ、ぅ、・・ん・・・」
名を呼んだけなのに、それは、強請るように青島の口から洩れた。
室井に深く口を塞がれ、熱も肉も室井に蕩けさせられていく。
室井の息遣いが耳を掠め、圧し掛かるたくましい肉体に一部の無駄もない美しさで腕の中に青島を縫い留める。
真っ白で、純白になって何も考えられなくなった頭にあるのは、目の前の男だけだった。
静かな会話も、行儀の良い体裁も、そんなの全然違った。そんなの、うそだ。
「・・も・・・・っと・・・ッ」
「それ以上は言わなくていい・・」
噛みつくように口付けられ、何度も角度を変えて擦り合わせては、室井が溢れる唾液を飲み下す。
清潔そうな指先に頬を撫ぜられ、首筋を愛撫され、余すことなく口腔内を探られて、痺れるくらいに舌を絡ませ合った。
タイミングを巧く測れず続いている口付けのせいで、仰け反る口唇を追われて、また奪われる。顎を捕えた指先が青島の顔を固定した。
掠れた男の声に制され、霞む思考とは裏腹に妙にクリアになっていく感覚に、青島は本当の室井を見た気がした。
それは室井が自らの意思で青島にだけ見せた真実の欠片だ。
俺たちは一番近い存在でありながら、何を避けて、或いは何かを恐れて、セットでありながら他人行儀な、歪んだ何かに流されていただけだった。
晒された青島の端正な輪郭が激しく上下し、酸素を欲して片足がシーツを蹴飛ばせば、うねるシーツが海のように波を描いていく。
密着する肌を火照らせ震わせる青島に室井の本来の性が目覚め研ぎ澄まされ始めているのが感じ取れ
こんな男だったのかと、青島が身悶えする頃には、そこら中を室井に弄られていて
だが曇りのない清洌な眼差しの前に身を晒し、青島は不意に泣きたい気分にさせられた。
触れ合うことで伝わる何かを、そして、触れ合わなければ分からない何かを、室井が身体で青島に教え込んでくる。
それは原初的で本能的なものだったとしても、崩れ落ちる危険の中に潜んでいた狂気にふたりで溶ける意味を選んだのだ。
時間も溶けていく。
窓の外で雪は舞い上がって、また白の世界が作り上げられる。
どんなに共鳴したって、社会的な繋がりだけで人は生きていない。
また、社会は繋がり合うことで形成されている。
共に過ぎていく時間が二度と帰らない記憶を連れて、眩しいくらいに輝いていたことを夜に降り積もらせた。
爛れた感情はもっと穢れたものだと思っていた。もっとおぞましく、腐り、忌むべきものだと思っていた。
なのに、あからさまに欲してくる男の姿は清廉で神々しく、雪より気高く白い。
蕩けていく意識の中で、青島は自分に覆い被さる男の背中に必死に手を回した。
雪に舞って、空に浮いて、たった一夜の吐息に染められながら、白に埋もれていく。
「・・・、っは・・・ゃ、・・あぁ・・」
太腿を下から撫ぜられ、青島の口から断続的に甘い吐息が零れ出る。
思わず怺えて横を向けば、汗ばんだ青島の額に束となった前髪がはらりと影を差した。
薄く伏せた青島の睫毛が震え、汗ばみ熟れた艶肌が投機のように艶めかしく月白の輪郭に縁どられ、シーツに横たわる。
その顔を見つめながら室井が、青島の膝を片方肘に抱えあげ、脚を大きく開いた。
浴衣が腰からはだけ、青島の桃色の下肢が露わとなる。
室井の下で、はしたない格好をさせられているのは分かったが、青島は両手を室井の首に巻き付け、羞恥を反らすために自ら口唇を受け入れる。
室井が男として何を求めているかは青島にも理解できた。
それが正しいことなのか、それを全部受け止めきれるのか、そこに明瞭な思考はなくて、答えは出ない。
今は、室井の思うままにさせてやりたかった。
このまま室井にあてどなく埋め尽くされたかった。
例えこの身を捧げる意味があろうとも、それは青島にとっては今更だったと、思い出した。
室井が片膝を抱えた手を青島の横に付き、もう片手で乱れた浴衣を更に乱し、その艶肌を嬲ってくる。
わき腹から背筋を撫ぜられ、思わず浮いた腰を室井に支えられながら、青島は綺麗に仰け反った。
顎を反らし、薄開きの青島の口から堪え切れない喘ぎが小さく零れる。爛れるような熱に支配され、理性が乱れて不自然に強張る指先がシーツを掴む。
貧欲に下肢を玩弄する甘い指先に、青島は何度も首を左右に振り、やがて啜りなくような声で哀願していた。
既に落とされた浴衣が肩の下で止まり、丸い両肩が淫乱に男を誘う。
そこに室井は恭しく口付け、熱い舌を這わせた。
衣擦れの音と二人に荒い呼吸が部屋を満たし、窓の外に夜明けが来る。
肌理の整った肌が覗く鎖骨に湿った舌を這わされ、その舌が貪欲さを伝え青島の秘めた胸元へと降りていく。
男に嬲られ、青島の若い肌は簡単に染め上がる。
灼け付く下肢に手を這わされ、男に変えられていくその嬌態に室井が満足そうに吸い付いたのが、掠れた視界に見えた。
10.
上野駅は多くのサラリーマンが黒々とした群れを作り行き交っていた。
平日の出勤光景が当たり前の日常を映し出す。
「私はこのまま本庁へ戻る」
「はい」
「気をつけて帰れ」
「だーいじょーぶですよ・・」
人混みから外れた柱の横で、室井と青島はじっと見つめ合った。
でもそれは時間にして一瞬で、室井は堅い顔を崩さずそのまま背を向ける。
黒々としたコートが鋼鉄のエリートキャリアを形作り、隙の無い壮年期の男を完成させる。
もう一束も跳ねていない丁寧に撫でつけられた後頭部が、確固たる意志と宿命を背負う背中を見せ、都会の波に入り込ませ、消えていく。
カツカツと硬質な音を響かせ遠ざかっていく後ろ姿を、青島はただ黙って見送っていた。
始発で戻ってきた東京は丁度出勤ラッシュが始まりだし、忙しなく混み合う通路にざわざわと人の声が交差する。
これから青島は湾岸署に戻って、本部に今回の報告しなくてはならない。
あの深い雪国とは違って、ここ都会は乾いた空気と砂埃が、僅かなセメントの臭いに混ざる、コンクリートが冷たく続く灰色の街だ。
白く埋まっていた白銀が嘘のように、今日も真っ青な冬空が駅ビルの間に広がっていた。
「・・は、・・・はは・・・」
カクンと膝が崩れ落ちた青島はそのまま後ろの丸柱に背を預ける。
あの大樹とは違って人工大理石で出来たつるつるとした触感に、ずるりとモスグリーンのコートも肩からずれ落ちた。
「ぁ・・、あれ・・・足・・が・・」
今更になって膝ががくがくと震えている。
めっちゃ流された・・・。
ひっきりなしに電車が到着する上野駅は、途切れぬ波がコートの襟を立てて足早に通り過ぎていた。
無口なサラリーマンは皆無表情に勇み足で、変哲ない光景だ。
ようやく現実に戻ってきた気がして、青島は胸元をぎゅっと搾り上げた。
視界の奥では室井の姿は黒々としたサラリーマンの群れに飲まれ、もう見えない。
「・・っ・・」
途切れた息を必死に飲み込んだ。
何故か少し視界が滲んできて、酸素が足りない胸元を青島はきつくきつく鷲掴む。
好きだとも愛しているとも、ふたりは口にしなかった。
あの雪の街の幻想がふたりに残したものが何なのか、それは最後まで分からなかった。
もしかしたらそれはあの街にだけ息づく幻想なのかもしれない。
この乾いた大都会に戻ってくれば、それはまるで嘘であったかのように思わせる。
でも嘘じゃない。
記憶の中で生々しく息づくアイスブルーの世界と、室井が残したものが青島の身体中に残っていて、熱い刻印として、荒い男の息遣いと共に、まだ青島の耳元に
蘇る。
「・・っ、・・ッ・・、ッ、」
こみあげてくる熱いものが痛くて、青島は何度も息を殺す。
何処からか第九が奏でられ、世間はもう師走なのだと知った。
クリスマスを祝う恋人たちが、平日のサラリーマンに紛れて桃色の笑みを零して通り過ぎる。
俺、なにした・・?
確かな印は、何も残さなかった。
明日になれば、あの雪の街のように、跡形もなく消えていくのだろう。
何かが足りなくて、どうすれば満たされるのか。
それは青島の思っても見なかった形で手元に残された。
室井は、それを知っていたのだろうか。
室井こそ、その熱情はいつからそこに持っていたのだろう。
滲む視界を消したくて、青島は口唇を噛んで横を向く。
瞬きすればその長い睫毛が濡れて、黒々と光を纏った。
「や・・・られたぁ・・・」
冬枯れの風が足元を吹き抜け、聖なる音色に乗ってモスグリーンのコートを心許なく揺らした。
今も忘れない。
自分が何をしたのか、思い出すのも朦朧としていて、糜爛の夜明けは、だけど躰が心が憶えている。
気付かぬうちに始まっていた何かに、室井と共に踏み出した未知の罪に、でもあの時、ちっとも怖いとは思わなかった。
もう一度だけ、触れていたかった。抱き締められて、その首筋に額を埋めて、ぬくもりを知っていたかった。
せめてもう一度だけでも。
でもその手はもう取れない。
もうきっと二度と触れ合うことは許されないのだろう。
何がこんなに辛くて悲しいのか、自分でもよく分からなかった。ただ会いたくて、恋しくて、切なくて、苦しい。
「・・はは、・・・ぁ・・・、も・・、ず、っ・・・るぃ、・・んだもん、なぁ・・っ」
ついに堪え切れなくなった青島の眦から一筋の滴が零れ落ちた。
それを拭いもせずに、青島は詰まる息で必死に込み上げる呼吸を整える。
明日からはまたいつも通りの毎日がここで繰り返されていく。
煌びやかに奏でる第九のメロディが、心を搔き乱し、叫ぶ想いを青島に自覚させた。
「ど、・・・しょも、ないじゃん・・・」
名を呼んだ所で、その影はもうここにはいない。
陰の立役者となって貢献できれば、それで満足だった筈だった。
不可抗力で白の世界に閉じ込められ、ありもしない幻想に惑わされ、その典雅な眼に囚われて
まだ終わらせたくなかった。ただそれだけなのに、事は思った以上にその望みを叶えてはくれない。
もっと違う人を選べればよかった。
温度も色も持たない雪とは対照的な薄汚れた世界に自ら足を踏み入れる室井を、誇らしくも頼もしくも思う。
どうしようもなく特別で、どうしようもなく大切で、すべてだった。
何で、裏切られても、切られても、消えない熱が燻るんだろう。
あのとき、あのひとが俺に向かって叫んだのを、今でも絆だったと俺は信じていたい。
例え上の階級に進んでも、今より話すことさえできなくなっても、俺を見なくなっても、俺はあのひとがいい。
熟した男らしさの裏側で、それでも、室井が清浄な信念を保てるように、どうか、どうか、このひとの未来が歪まないように。
青島は静かにあの街の雪に祈りを捧げる。
もうとっくに見えなくなった影は、また一つの人波に埋もれていく。
「・・ぅ、っそ、だろ、こんなの・・・」
下を向き必死に息を殺せば、水滴が青島の足元に絵を描いた。
すっかりと冷え切った足は一歩も動けなかった。
たった一晩で。
こんな零れそうな想いは重すぎて、受け止めきれなくて、一人ではこの先が見えなくて、今はどうしたらいいんだろう。
崩れた前髪が都合よく赤らんだ目元を覆い隠してくれるが、今の青島にとってはそんなことはどうでも良かった。
途方に暮れた年の瀬に、また同じ朝が通り過ぎていく。
透明で荘厳にただ織り成す第九のバイオリンの音色がいつまでもいつまでも流れていた。
Let’s kiss under the mistletoe(ヤドリギの下でキスをしよう)
happy end?

みなさまにも奇跡の一夜が訪れますように。MerryChristmas!
20191229