ほろ酔いの恋物語3
少
しだけ痺れたようなその気持ちは、ともすれば、酒に酔ったような浮遊感を生み出し、現実感を喪失させていく。
リアルじゃない分、やっぱり恋は宵越しの酒のようだ。
プリズムのように、様々な光を生み出しては、見る者を幻惑の世界へと誘う。
沢山の感情を多重に映し出していく様は、確かに、狂乱なのだろう。
歓喜と興奮の裏側に、今も同じ強さで、未だ寂寞の思いを、孕んでいた。
あの時のキスが、俺たちの夢の終わりを告げている。
ー夏ー
1
そっと車窓に身体を倒して、青島は袖を唇に押し当てた。
あの時――――触れちゃ駄目だと踏み込むことを躊躇う自分に、室井は迷うことなく一線を払拭してきてくれた。
すっかりキスひとつで説得されてしまった。
身震えするほど心は救われたが、同時に、とても強い人で、そして、脆い人だと今は思う。
そんな風に、俺のためなら、その身も、その心も、その人生まで、迷いなく捧げてしまえるのなら
その穢れない想いを守るのも、救うのも――――止めるのも、俺の役目なのだろう。
だったら答えは見えている。
傍に居る。それをあの人に誓ったから。
きっともう触れられない。気軽に触れ合って良い訳がない。
感情や衝動に任せ、現実を忘れるほど、俺たちは理想を知らない聖人ではない。
あのキスが、どんなに甘い余韻を残しても、あれが、俺たちの、最初で最後のキスだ。
それが、俺たちの結末だ。
ぎゅっと目を瞑ってから、青島は、窓の外の夜の帳に満ち始めた街に目を移した。
りんかい線の車窓には、東京の日没が流れては去っていく。
ラッシュより少し前の車内は空いていて、薄暗い車内の疎らな人影もまた、サラリーマンよりも買い物帰りの主婦や下校中の学生などで占められていた。
少しだけ強いエアコンと電車特有の匂いが、季節がもう夏であることを感知させる。
今から思えば、室井もまた、あれほど青島が悶々と考えたことなど、とうに検討済みだったのだろう。
恐らくは青島を最初に誘った夜までの間に。
沢山の葛藤とか戸惑いとか、青島が思った様に胸に抱き、同じ様に惑わされ、もしかしたら青島以上に困窮し自責し、思索した後
それでもどうしようもない部分をぶつけにきた。あの夜に。
自分なりに消化して、それでも消化しきれなかった僅かばかりの願いを叶えに、希望に縋りに来たんだ。
青島の躊躇いなど、今更だった。
あれから・・・・冬の告白から、二人の関係は一気に変わった。
根本的なところは変わらなくとも、何かを確実に変えられてしまった。
ただ、もう引き返せないことだけは、知っている。
会えなくなっても良いのか。離れさせられても良いのか。あの人を――――失っても良いのか。
室井自身の思惑が青島に対しては無条件でも、青島が室井の枷になっている事実が消える訳じゃない。
周囲からの反対と侮蔑と中傷と悪意により、室井が傷つけられ、失脚を導かれ、そして二人の望まぬ別れを招き寄せてしまう。
青島の罪は何も変わっていない。
あの人は障害すら邪魔とも思わないのだろうが、世間はそうは見ないだろう。
だったら、あの口付けは、夢の終わりを告げる合図だった。
そして、この先を共にする、身の契約だ。
俺たちは、この夢に幕を下ろし、現実を共に歩み出す。
傍に居る事を赦された代わりに、突き付けられた条件・・・規制線を引かれただけだ。
逢うために何かを引き代える――それはまるで、どこかの国のおとぎ話のようだ。
――あの物語はどういう末路を辿るんだったっけ・・・・
りんかい線の窓に流れる夜の都会を眺めながら、気付かれない様に微笑した。
あの人も、こんな風にこの街を見ることがあるんだろうか。
ふと、気付いた窓に映る自分が、泣きそうな顔をしているのに気付き、青島は眼を伏せた。
2
目の前の闇に聳える、象徴的なコンクリの建物をチラリを見上げる。
盛大な溜め息を吐いた。
テレポート駅から遥々40分、ようやく辿りついた城塞は、夕闇に黒々とそびえ立つ、何とも無愛想な建物だ。
全く持って、不条理な気がしてならない。
門番の、いぶかしんだ視線に気付き、青島はようやく小走りで正面フロアに向かった。
本店――本庁は、青島にとって色んな意味で鬼門である。
~~~~~~~~
「しっつれーしましたぁ!」
一応、誰も自分に注意を向けていないとは知りつつ、空虚な部屋に挨拶をする。
追い打ちが掛かった。
「また何かあったら呼び出すから、そのつもりで!」
「そっちが来てくださいよ・・・・。所轄だってね、色々忙しいんですよ」
「口答えをするな。それから、もう少し口の聞き方に気を付けろ」
「はいはい」
――なんだそりゃ?
見送りもなく追い出され、青島は仕方なく、肩をすくめた。
扉を閉め、ふ、と息を吐く。
まったく、本店ってとこは、愛想の欠片もないんだから。
理不尽な扱いに多少憤慨しながらも、青島はそれをあんまり引き摺る男ではない。
とりあえず、ここでの用事は済んだ。
ばふっと持っていたショルダーバッグを背負い、早々に立ち去ることにする。
――と、何となく視線を感じて横を向くと
少し離れたコーナーに、ポケットに無造作に手を突っ込み、背中を壁に預けた格好で、こっちを見ている見知った影があった。
「あ」
黙って壁から身を起こし、近づいてくる。
「何してるんですか?あれ?この事件の担当?」
だったらもうちょっと協力的でも良かったかな、と勝手な事を思いながら、青島も足を向けた。
「君を待っていた」
「へ?何で?・・・ってか、俺が今日ここに呼び出されたの、よく知ってますね」
すると、室井は不本意だとでも言いたげに、苦みを潰した顔をして、横を向く。
「君が来ていることを、どいつもこいつも好き勝手に私に伝えてくるからな。嫌でも四方から耳に入ってきた」
「あ・・・・・そ、ですか。それは――・・・スミマセン」
とりあえず意味もなく謝罪する青島に、室井は苦笑して眼を細めた。
「最も、一様に事情までは知らなかったようだが。――どうしたんだ?何かあったのか」
埃の被った蛍光灯がやけに黄ばみ、古臭く廊下を照らす。
その年季の入った光の下で、室井の真っ直ぐな瞳が、怪訝な色を滲ませる。
肩を竦めてみせて、青島は苦笑した。
「大したことじゃ。・・・・・・先日の都内で起きた殺人事件ね。被害者の持ち物調べていたら、俺の名刺が出てきたらしくて。
で、これ、発砲事件でしょ。だから俺に白羽の矢が立っちゃいました」
「・・・・・・君はホントに何にでも巻き込まれるんだな」
「ほっといてください。偶然です。偶然ってコワイですよねぇ」
ひょうきんな口ぶりで、他人事のように言う。
そんな青島のポーズを既に馴染みとしている室井は、それをあっさりと黙殺する。
「知り合いだったのか」
「や・・・、知り合いと言うか・・・・・。名刺っつっても、今の俺が配ってる奴じゃなくて。前の会社に居た時の営業先さんでした。1、2度メシは喰いまし
たけど」
「気付かなかったのか?」
「ん~~~、直接の担当じゃなかったんですよね~。しかも向こうの部長が連れてきていた部下の一人だったから、意識してなくって。もう何年も前の話だ
し・・・。でも良く見たら知ってる顔でした」
「・・・そっか。それで――わざわざ本庁まで呼び出されたのか?」
「酷い話でしょ。なんか本当は所轄まで誰か寄越すつもりだったのに、相手が俺だと分かった途端、宗旨替えです。青島だったら呼び出せって」
「それは・・・・」
「管理官も知らない人だし、担当刑事たちも、俺の知った顔なんかほとんどなかったですよ。なのに俺の扱いが雑なのって・・・・。俺、本店のブラックリスト
にでも載ってるんですかね?」
そうかもな、と室井は沈黙する。
「事情聴取もなーんか一方的でね~。まあ、いんですけどね~」
「・・・・・・言っておく」
「へ?別にいいですよ~。慣れっこですから」
「・・・・・・」
「あ。室井さん、笑うとこでもないです」
「笑ってない」
「嘘。今、心ん中で、笑ってました」
「・・・・・・」
「ほら図星」
自分の眉間を指し示し、青島がちょこんと首を傾げて笑うから、釣られて室井の頬の強張りが、少しだけ緩んだ。
そのふわっとした雰囲気に、心が満たされる。
ふと、これは初キス以来、初めて顔を合わせたのだということに気付き、突然青島は赤面した。
急に、あの時、乱暴に抱きしめられたこととか、力任せに押し倒されて熱く唇を押しつけられたことだとかが、脳裏に蘇る。
この人にキスをされたんだという事実は、夢の中で思い描くのと、こうして無機質な現実で振りかえるのとは、衝撃がまるで違った。
うっわ、俺、信じらんねぇ・・・
息も詰まるような赤裸々な羞恥に、一気に全ての事が脳裏から抜け落ちる。
室井の風体がまた、一糸乱れぬスーツを着こなしているから、余計、あのように肉欲的な烈しさが信じられない。
青島は思わず片手で口元を押さえて、横を向いた。
――俺、絶対今、顔紅くなってる・・・・・
考えてみたら、あれが俺たちのファーストキスだった。
別に思春期の乙女じゃないんだから、甘酸っぱい味がいいとかシチュエーションに凝りたいとか、そこまでは言わないけれど
それにしたって、なんとも色気もへったくれもないまま奪われてしまった。
あれで、二人の関係は、一応、恋人ってことになるのかと思うと、何ともこそばゆい命名に、それこそ汗顔の思いがする。
告白された時はそれほど実感が湧かなかった恋心も、あれほど唇を合わせられれば自覚せざるを得ない。
この室井と恋仲だなんて、想像するだけで照れくさい。
・・・・・勿論、態度とは裏腹に、捧げられた想いが身体中を満たしていて、安堵の様な気持ちを抱いてもいることも、否定しようもないことは明白だった。
劣等感すら薄れているこの現状を、はたして憂えるべきなのか、喜ぶべきなのか。
既に染められた本音に、形ばかりの倫理が褪せたリスクを発するも、そこから逃れようとする気など微塵もない自分に、青島は諦観の混じった溜め息を天井に吐
いた。
「どうした?」
「いぃえぇ・・・・で、あの~、室井さんはここで何を?ほんとに俺を待ってたんですか?」
明後日の方角を向きながら、とりあえず話題を元に戻す。
「まあ、そんなとこだ」
その室井の口調に何か別のニュアンスを感じ取り、青島は不穏な面持ちで顔を戻した。
「あの・・・・・迷惑、かけちゃいました・・・?」
「ああ、違う、そんなことはない」
「じゃあ・・・・・・心配かけちゃったんだ?」
「君に、逢えると思って来ただけだ」
青島は思わず口を噤んだ。
途端に、空気が変わる。
本庁の廊下で見つめ合う二人に、生ぬるい空気が流れた。
傍に在ることへの罪悪感は薄れても、罪責感が消えた訳ではない。
だが、こうして柔らかい眼を向けられることは、抗えない魅惑が潜まされていた。
このままこの瞳に溺れて、流されてしまえば、自分の中の罪と永遠に対面することになる。それを、恐れるのか、惹かれるのか。
青島は最早自分でも分からなかった。
ただ漠然と、この誘惑に身を投じることに、本能的な危機意識を感じ取る。
「下まで送ろう」
「ええ・・・?!いい・・・いいですよ別に!一人で帰れますよ・・・・っ?」
「丁度良い休憩時間だ」
言うだけ言って、室井はさっさとエレベーターホールに向かって歩き出す。
青島も慌てて後を追った。
本庁の廊下を、二人並んで歩いていく。
既に本庁でも有名な二人ではあるが、滅多に見られるショットでもないので、ちょっとした奇異の視線に晒された。
強張った面しか見せない室井が、僅かではあるが、屈託の無い様子を見せているのも、稀な光景だった。
形式ばった本庁の廊下に、青島の砕けた楽しげな声が、小さく響く。
「そう言えば久しぶりですもんね~。元気でした?」
「知っているだろ・・・」
確かに逢うのは一ヶ月ぶりだった。
だが、その間も、メールでやり取りしているから、近況は大体把握している。
それでも、リアルの会話は、やはり心が弾む。
「それはそうですけど・・・・室井さんの口から聞きたいのに」
「元気だ」
「今日も残業のようですが?」
「その通りだ」
「もう何日帰ってないの?」
「・・・・・まだ一週間くらいだ」
「まだ、って・・・・」
ありゃりゃ、という顔をして、青島が室井の顔を覗きこんでくる。
「週末には一旦帰れる。大丈夫だ。体調管理はしている」
ふっと視線を送れば、青島もまた鋭敏に反応し、意識ある眼差しを向けてくる。
まるで貴重な宝物を見せびらかしているような憧憬に近く、室井は誇らしいような、自慢したいような、尊大な気分に包まれた。
満足気に青島を一瞥すると、やはり表情を崩さぬまま、再び前を向く。
室井にとって、青島の関心が自分だけに向かうこの瞬間だけが、最高の至福だ。
通りすがる度に向けられる奇異な視線さえ、身を痺れさす。
二度と、絶対に、手放さない。
青島のマシンガントークは、止まらない。
「じゃあ、今日のお昼は何食べました?」
「辛味そば」
「栄養ないじゃない」
「・・・・君は」
「俺?俺は~、マック~。新発売に初挑戦でした~」
「・・・・・・」
お前こそ栄養がないじゃないかと室井は青島を横目で見る。
しかしそれさえ嬉しそうに言う青島に、文句を言う気も削がれていく。
青島が向けてくれる労わりの気持ちは、室井をどんな滋養強壮材より労わった。
全く不思議だな、と思う。
惚れた相手なら、過去にも何人かいた。
恋が人生を変えるとは、俗に良く謳われるが
でも、その内の誰よりも、青島の存在が室井を芯から支え、世界を開花させてくれた。
ホールボタンを押すと直ぐに到着音が鳴り、エレベーターのドアが開く。
「仕事の合間は?休んでます?」
「呑んでいる。・・・・・・・・何だ」
「寝てないの?」
ちょっと青島の顔が曇る。
「・・・・寝る前の一杯だ」
「・・・・・」
「君は?ゲーセンで景品当てたんだろ?」
「ええぇっ?!何でそれ知ってんですか?!」
「先週だったかな、真下くんと話す機会があったんだ」
「あいつめぇぇ」
表情をくるくる変えて、無警戒に親しみを寄せる
青島は、人懐っこい性格だとは思われても、こうしてキャリアに懐くのは室井くらいである。
普段見慣れた味気ない職場の中で、二人で戯れる時間は、酷く禁忌的で、その分、甘い。
「楽しかったか?」
「まあ、それなりに。飲み会の帰りだったんですけどね。若い女の子いっぱいの。その流れで。」
「元気だな・・・・」
「あれ、妬いてくれないんですか?」
「・・・・・教えてくれなかったことには妬いた」
「マジですか?!」
「君が話してくれていることは君の全部ではないのだなと」
「あ~・・・・。メールだと書き切れなくってね」
「書き切れない程のことをしてきたのか」
室井の漆黒の瞳が艶を帯びて、揄うようにキラリと光る。
「んなっ・・・!わけ、ないでしょっ。室井さん意地悪だなぁ」
本当にくるくるとよく表情が変わる。
なんて貌をするんだ。
眩しさに目を奪われる。
室井は無作法にも、味わうようにその飴色に光る瞳をじっと見つめた。
好きだ、と思うのはこんなときだ。
いとも容易く、雁字搦めになる自分を救いだしてみせる傍らで
自分だけを真っ直ぐ見つめていて、自分だけを一心に慕い、自分だけにその清廉な魂を全身全霊で向けてくる。
ほんの少しの躊躇いすら残さない濁りの無さが、自分を特別なのだと自惚れさせる。
何の衒いもなく、無防備に心をぶつけてくれる気構えは、無垢な子供の様でもあり、全てを赦し給う神の様でもある。
だからこそ、こちらも引き摺られ、計算なく全てが欲しくなる。
駆け引きなんて忘れ、曝け出したくなる。
その瞳が、輝きを伴って室井を見つめる時、何にも代え難い至福の快楽が訪れるのだ。
室井は意識して視線を外し、キー操作盤の正面を向いた。
その一方で、あの夜、青島の見せた冷たさの残る涙と激情が、胸を軋ませる。
――俺があんなことを言ったからか・・・・
あの日、室井が好きだと告げたことで、青島の中の矛盾に触れてしまった。
青島が室井に向ける躊躇いは、少しの罪責感と劣等感、そして僅かな幻想を抱いている様に見える。
その幻想が、青島の愛情を反発させているのだろう。
そのどれもが、室井にとっては無価値で見当違いのものではあったが
その闇から救いだしてやる方法は、思う程、容易くないし、自分がそこまで器用だとも思えない。
だがもう、たとえ何処に逃げたって、連れ戻す覚悟はある。
きっと俺たちはこうやって、離れていても感じ合い、影響し合って、同じ一生を送っていくんだろう。
それは一番最初に望んだ形とほぼ同じもので、そこに不満はなかった。
あの夜までに感じていた、切実な焦燥感も今は失せ、穏やかな愛情の中で、青島を想っている。
それが、恋愛という名の、愚盲な幻想に惑わされているのだとしても。
ただ・・・・青島は、ちゃんと俺といて、俺と同じくらい、幸せな気持ちになれているのだろうか。
俺は、この無謀な世界に青島を引き込んだ分、彼を幸せに出来ているか?
少しだけ、物足りなくなり、室井はぽんぽんと青島の頭を軽く二回撫でてから、そっと手を離した。
ポーンと到着音が鳴り、思考と静寂が破られる。
1階に降り立ち、並んで出口に向かう。
室井の告白はまた、室井自身の矛盾も映し出していた。
思わず強引に奪ってしまった唇の甘さが忘れられない。
口付けた時、彼の全てが欲しいと思ったのは確かだ。身体とか心とか未来とか、そういう一角だけでなく、全てが蟲惑的に体内を浸食した。
身動きひとつ取れないほどに。
その想いの究極は、やはり独占だ。
これは俺のだと叫び、示したい。その瞳に映る全てを奪いたい。
もう、彼がいない世界になんて、戻れない。
赦されるのなら、この腕に閉じ込めたまま、逃げ出さないように全てを奪って――
どんどん、偏狭な思考に走り始めたことに気付き、室井は緩く首を振る。
これほど、烈しく熱い圧力を伴う余裕のない感情が、特定の人間に向けられるなんて、想像したこともなかった。
それは常に室井の胸の奥に甘い痛みと痺れと・・・罪を植え付けていく。
その危険な香りが、室井を狂わせ溺れさせていく。
ここから逃れられる術があるのなら、教えて欲しいくらいだった。
だが、擦り切れるような抑圧の向こうで、確かに、
同じ強さで、この火傷しそうな灼熱と罪悪感の向こう側に確かにある甘味に酔わされ、戒めに染まりたいとも望む。
出来るなら、その中に、あの鮮烈な魂をも引きずりこんで、共に、果てしない闇に、呑まれたいと。
「近いうちに、時間を作る」
フロアを横切りながら、相変わらず真面目モードで眉間に皺を寄せ、そう告げると、そのギャップが可笑しかったのか、青島がクスリと笑った。
「期待はしないで、待ってます」
「・・・・少しは期待して淋しがってくれ」
「はいはい。淋しいですよ~」
軽く流されたことを感じ取ると、室井はチロリと青島を試すような視線を向け、ぼそりと呟く。
「そろそろ私が君を補給しないと持たない」
「ななななな何言ってんですか。こんな本庁のど真ん中でっ」
瞬間、青島の頬がパアッと朱を帯びる。
それを室井は、満足そうに眺めた後、前を向いた。
「だから大人しく待ってろ」
「室井さんっ・・・」
小声で必死に青島が制してくる。
「流石にもう盗聴器は付いていない」
「そんな心配してるんじゃないですよっ。第一そういう問題じゃないでしょっ!」
慌てる青島を、室井が面白そうに見つめる。
「むろいさん・・・・・俺んこと、揄ってるでしょ」
「いや・・・」
「嘘だ、もう・・・・・」
ぷぅと膨れて、青島はそっぽを向いた。
一階ロビーは吹き抜けで、声が響く。
誰かに聞かれるんじゃないかと、青島は気が気じゃなかった。
「久しぶりだなと思っただけだ」
「それは・・・・っ、俺もですけどっ」
そっぽを向いたまま、それでも小声で同意してくる。
そんな青島を愛おしそうに見つめていた室井は、ふと口調を変えて、足を止めた。
「なぁ・・・・・青島」
突然また空気の色を変えてきた室井に、青島が視線だけ戻す。
「・・・・なんですか」
「俺たちはもう少し時間を取れないか」
「へ・・・・?」
「お互いに時間を調節して、もう少し逢わないか。出来れば、空いている時間だけでなく」
「・・・・っ」
「考えてみてくれ」
押し黙ってしまった青島を、じっと見つめた後、室井はもう一度そう言い含めて、再び歩き出した。
正面玄関を出ると、もう外はとっぷりと陽が暮れていた。
日中の熱さとは裏腹に、夜風は爽やかで、肌を滑るように過ぎる心地良さは気持ちまでも穏やかにする。
通り雨があったのか、土の匂いが鼻孔を擽った。季節は夏を告げていた。
風に乗って街道の走行音が絶え間なく響き渡る。
ここは都会の真ん中で、青島の馴染んだ街とは、やはり、音も空気も街並みも、余りにも様相は違っていた。
エントランス先を少し出た所で向かい合う。
「今日は?このまま直帰か?」
「はい。さすがに。本店の権力には誰も逆らえませんでした」
視線だけが交差する。
「気を付けて帰るように」
「はい。あの・・・・ありがと、ございました」
室井が人差し指でコンコンと胸ポケットのケータイを弾く。
またメールをくれというジェスチャーだと分かった。
「じゃあ・・・・・」
「ああ、また」
青島は少しだけ室井の目を見つめて、それから何かを振り切るように片手を上げて、背を向けた。
小走りで、弾む様に去っていく後ろ姿を、室井は見えなくなるまで見送っていた。
「こんなつもりじゃなかったんだがな・・・・」
気付かれぬよう、室井はそっと下唇に指の関節を押し当てる。
あの夜、重ねた唇の熱さは、身も心も灼き尽くしていった。
今だけは、その他の全てがどうでもいいと思えるくらいに。
本当はそんなことするつもりなど、なかったのに、青島を失いたくないばかりに、逃げようとする唇ごと了解なく塞いでしまった。
その大人気なくさせた衝動は、自分の弱さを知らしめると同時に
コイツとの口付けが、こんなにも自分のあらゆるものを押し流すような苛烈な魔力を持つものだということを思い知らせた。
我に返ってから、何て事をしたんだと悶絶した。
だからどうして自分は青島のことになると、こうまで自制が働かないのだ。
どうしてアイツのことになると、身動きとれないほど簡単に囚われてしまうのだろう。
歪んでいく独占欲は、確かに己の中に燻っている。
心全部と身体中が、青島を恋しがって叫んでいるのを、無意識の深層で確実に膨らませている。
大事なすべてのものを引き換えにしても、自分を青島で満たしたいのだ。
渇き切った感情は奪い取ることに貪欲で、向かう想いは最早、清廉なものだけとは言えなかった。
きっと、あとは、ボタンを一つだけで、あっけない程、容易く決壊する。
口火を切るのがアイツなら、発火させるのが俺だった。
俺はアイツの正しさを信じて乗じるだけで良かった。
だが、今回のスターターは自分にある。
「最後の砦も俺・・・ってことか」
かと言って、それを模索するほどの余裕は、もうない気がした。
鬱屈し、歪んだ想いは、一人で抱えている分には、充分に甘い罪だった。
でも今は。
欲求の赴くままに身を投じるのは、青島の気持ちだけならまだしも、青島の人生をも巻き込んでいく。
室井はもう、恋を幻想のままにしておくつもりはなかった。
角を曲がってから、青島は振り返る。
室井が触れた前髪に、そっと指先を伸ばし握りしめた。
建物の中に消えていくその真っ直ぐに伸びた後ろ姿を、迷子の子供の様な瞳で、いつまでも見つめ続けていた。
3
本庁からの利便性が良いからと、室井に指定された待ち合わせの場所は、ブラックを基調としたシックな外観の静かな店だった。
青島が店に着くと、すぐに異国のドアマンが丁重に出迎えてくれる。
室井がようやく青島を誘えたのは、あれからひと月も過ぎた夏も終わりの頃だった。
ドアマンに促されるままに着いていけば、アクアリウムやウォータープランツで飾られる店内を、奥へと案内される。
フットライトが等間隔で連なる薄暗い通路を抜け、奥まったコーナーを指定された。
案内されたそのスペースを、ひょこっと覗く。
既に室井が到着していた。
「お久しぶりです室井さん・・・」
「・・・・来たな」
室井が眩しそうに目を細めて青島を仰ぎ見た。
何だかそれだけで照れくさくなり、青島は店内を見渡すふりをして斜め上に視線を逸らす。
そそくさと上着のフロントを外し、忙しない振りをしながら荷物を置く。
「ここ、本店の御用達ですか?室井さんの趣味・・・じゃないですよね」
「どういう意味だ」
「誰かに見つかったりしませんかね?」
「大丈夫だろ?見つかっても」
「そ・・・・ですか・・・?・・・この穴蔵みたいな席、いいですねぇ」
「ここは植物が空間のシンボルになってるからな・・・周りの客も上手い具合に植物で隠れて分かり難い」
「ちょっとあれみたい?・・・・ほら、秘密基地?ベース基地とか?憧れたなぁ」
「・・・・・・いいから早く座れ」
メニューを渡しながら、室井が促した。
「この間以来だな」
腰を下ろすと直ぐに掛けられた声に、視線をチラリと上げると、漆黒の瞳が真っ直ぐに青島を見ていた。
落ち着いたバリトンボイスは、心の底にジンと波紋を描く。
――やっぱり、俺たちの関係はちょっと変わった
「とりあえずビール!」
振り切るようにそう言って、青島はメニューに没頭した。
「そう言えばこの間、新城さんと一緒に仕事しまして」
「そうか」
「相変わらずですねぇ、嫌味言われちゃった」
「・・・そうか」
テーブルに肘を付き、顔を寄せ合っては囁くように話す。
双方無意識だったが、ここ最近の二人のスタイルだった。
「本庁に神田さん来てたぞ」
「え?マジですか?何しに行ったのあの人・・・」
「さあ・・・・直接話はしなかったが・・・・・・目立っていた」
「でしょうね」
微かなBGMと、人々のざわめきが、程良い空間を生み出す店内は
贅沢にゆったりとした建築構造を取っているため、スペースも敷居ではなく大きめの観葉植物で仕切られており、解放感と閉塞感も申し分ない。
比較的暗めの店内に、少し低めに付けられた個々のテーブル真上の装飾ランプが、二人きりの空間を更に強調し演出してくれる。
青島がゆるやかに言葉を紡ぐのに、室井は時折相槌を打ちながら、心地良く耳を傾ける。
それは今、眼に映る世界の話しだったり、今日あった出来事だったり、営業時代の話だったりと、取りとめない。
それでもそれは、室井にとって、何より幸福なことだった。
・・・・元々、室井は青島の話を聞くのが好きだ。
とにかく青島は舞台を作るのが、上手かった。
明るい気分の時には明るく、まったりしたい時には緩やかに。静かに過ごしたい時は沈黙を演出してくれる。
室井の気持ちを鋭く感じ取り、それに合わせてくれる。
普段はあんなに、走り出したら止まらない男なくせに、こんなにも人の感情に、妙に敏感だ。
デリケートというよりは、案外ナイーブなのかもしれない。
普段寡黙で通している室井でも、青島といるときだけは気後れせずに、拙い言葉を発することが出来た。
「俺もしばらく本店行ってないな・・・・相変わらずですか?」
「そうだな・・・・・変わらない」
「室井さんも、しばらく来てないですね湾岸署」
「既に懐かしい気がする・・・・・相変わらずか?」
「そりゃもう・・・・あ、でも」
「?」
「掃除のおばちゃん変わったんですよ」
「・・・・・・そうか」
室井はくいっと透明な液体を流し込んだ。
何となく上目遣いで、室井を盗み見る。
伏せ目がちに片手で酒を舐めている姿は、仕事モードとは異なる、大人の男の仕草だった。
カットグラスの持ち方が綺麗だなと思いながら、十字に反射するクリスタルの光を見つめる。
何もかもを臆す事なく赤裸々に晒してきたように見える室井は、それでも一方で、決して青島に全てを赦してはいない気がした。
多くを語らない態度の向こうで、一方で容易く決壊する、淡く濡れた感情を見せ付ける傍ら、毅然として匿っている譲れない領域が見える。
そこに、年上の大人の余裕と純朴さという、相対するものを意識させられ、剥きになった対抗心が、青島の心をざわめかせる。
打ち破いてしまいたい一方で、臆病な畏れが妙に気弱にさせた。
恐らく、それこそが、室井が護っている最後の砦なのだ。
ただ、その禁断の領域は、恋の終末と同じ匂いがする。
あの日見せた、室井の資性とも言える行動こそが、それを証明しており、そしてそれは、室井の脆さであり、狡さであった。
だからこそ、せめて、その不完全さを俺が補う役目を持っている。
やはり、この人を支えるのはいつでも自分でありたい。
もっと知ってみたいという初歩的な欲求を尻目に
そのことは、妙に青島を躊躇わせ、臆病にさせていた。
水滴の付いたカットグラスをカラカラと回して、頬杖をつく。
氷が照明を反射してキラキラと輝く。
――そうまでして俺はあなたの記憶に残りたい。
俺を過去に置いていかないで。
とんだ子供の浅知恵だ・・・。
貪欲さと幼稚さは、呆れるほど際限がなく、原始的だ。
いつまでも酔いが醒めないような浮遊感が、まるで自分でないように自分を突き動かす。
こんな切ないほどに誰かを愛しみたい想いが、身を滅ぼす程に凄烈で、胸を締め付けるものだとは、今までに抱いたこともなかった。
それだけ、狂っているということだろうか。
それとも、酔わされているということなのだろうか。
泣きそうなくらい、心が軋み、溺れるくらい、感情が様々な色を紡ぐ。
一緒に居たい。でも一緒に居ると、どんどん苦しくなる。
泣きたくなるくらい、この人と、この恋を、大切にしたかった。
「どうした?」
ちょっと思考の闇に捕らわれていた青島に気付いたのか、室井が手を伸ばしてくる。
「酔ったか?」
前髪を柔らかく掻きあげられ、子供を慰めるように優しく問われると、胸がきゅっと軋んだ。
「酔うほど・・・・呑んだの、室井さん?」
頬杖を付いたまま、至近距離で小さく、甘えるように囁き、微笑みを返す。
髪を梳く手が心地良くて、それは特に振り払おうとは思わなかった。
「この位、序の口だろう?君が少し・・・変な気がしたんだ」
「まだ一件目ですよ」
「じゃあ・・・二件目。行くか?」
青島の眼が、獲物をとらえた獣のようにキラリと色彩を変える。
吐息が掛かるくらいの距離で、新たな戦闘開始とばかりに、二人で瞳を煌めかせて視線を交わす。
そして同時に席を立った。
気のせいだっただろうか・・・・・。
今、青島がちょっと哀しそうな顔をした気がした。
~~~~~~~
「三件目は・・・・・俺の部屋で呑み直さないか」
質の良い黒革の財布を胸ポケットにしまいながら、突然発せられた提案に、青島は固まった。
多国籍居酒屋で呑み直し、その二件目を出た所で、おもむろに室井が発した言葉だった。
関係にもうひとつ色が加わった今、別な意味も含む様になったその言葉を、室井は表情ひとつ変えず、淡々と告げる。・・・いや、もうふたつ、だ。
返事に詰まり、息を止める。
夏の終わりの夜風は爽やかで、昼間の蒸し暑さをひととき解放してくれていたが
そんな感覚は、一瞬にして遠去かった。
じんわりと、シャツの下で汗ばんだのが分かる。
黙ってしまった青島をどう思ったのか、室井は眉間に皺を寄せて戸惑った視線を寄越した後、下を向いて前言を撤回してきた。
「迷惑なら。・・・悪かった、忘れてくれ。まだ時間もあるから、その――もう少し一緒に居たいと思っただけだ」
のんびりとした音響信号機のメロディが、間の抜けた感じで二人の間を通り過ぎていく。
何処か不安そうな顔で言い訳めいた伺いを立てる室井に、愛しさと申し訳なさが込み上げ
青島は慌てて首を振りながら、両手で訂正の意思を示した。
「いえいえ!光栄です!ただあのぅ・・・・・いいんですか?」
上目遣いで、瞳に悪戯っぽい光を瞬かせて問う。
「何がだ」
「室井さんちって官舎ですよね?関係者がいっぱいいるのに、そんな中、俺なんかと一緒に居るとこ、誰かに見られたらマズくないですか?」
「そんなことは気にするな」
「ただでさえセットで疎ましがられてんのに?」
「今更だろう」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
お互いの口に、掌握を示す共通の笑いが浮かんだ。
4
初めて入った室井の部屋は、想像通りに小ざっぱりとした、物の少ない、統一感のあるシンプルな部屋だった。
恐らく、徐々に形作っていったものではなく、こういう環境に置かれることになった際に、一括して作り上げた空間だ。
それでも備えられているものはどれも、青島の目から見ても上質なものだと分かった。
使い込まれた質感が、辛うじてこの部屋に主がいる事を伝えている。
酔いの回っている頭でも、この部屋の敷居を跨ぐことが何を意味するのか分からなかった訳ではない。
室井の部屋に誘われるのはこれで何度目だったか。
のらりくらりとかわし続け・・・だが、今日は――一度だけだからと自分に言い訳をして、半ば誘惑もあって、青島はこの部屋のドアを潜った。
これで――――何の弁明も出来なくなる。周囲にも・・・・室井にも。
そうやって幾つの言い訳で現実に負けていくのか。自分の弱さにはズルくも目を閉じた。
ソファーの上質な革張りがギシリと音を立てる。
「何を見ているんだ?」
「んー・・・外?ですかね?」
「何で疑問形なんだ・・・。そこからじゃ大したものは見えないだろう?」
「でもホラ、ちょっとだけ夜景が見えます」
「・・・・・珍しくもなんともないだろ」
そう言って室井も隣へやってきた。
そっと瓶ビールを渡される。四分の一にカットされたライムが刺し立てられていた。
「それはそうなんですけど」
ペコリと頭だけ下げて礼を言い、ライムを中に押し込む。
溶解度に変化に、炭酸が覆い隠すように湧き出ていく。視界が閉ざされる程の白いベールを、カラカラと振って発散させた。
「夜景なんて、あんまり見ないんですか?」
「この部屋には寝るために帰るだけだ」
「またそんなムードの欠片もないこと言って・・・オンナ連れ込んだ時どーすんですか」
「連れ込まない・・・・」
おまえがそれを言うか、と室井が思わず閉口していると
青島はもう興味が失せたように、好き勝手に窓の外を覗きこんでは、角度が悪いだの、あの木が邪魔だの、ぼそぼそとぼやいている。
「電気消したらちょっとは引き立つかな・・・」
「・・・・・どうだったかな。あまり気にしたことがない。消してみるか?」
「いえ、いいですよ別に」
「いや、試してみよう」
半ば意地になって、室井は近くにあったリモコンで、さっさと部屋の電気を落した。
青島が後ろで笑いを堪えているのを、背中で無視をする。
ふっと部屋の灯りが消え、暗闇が支配する。が、外からの街灯りと月明かりのせいか、思ったほど真っ暗にはならない。
すぐに目が慣れてきて、部屋が青みがかって浮かび上がってきた。
「あ~やっぱ電気ないと綺麗に見えるじゃん」
「やっぱりロマンチストなんだな」
「やっぱりって何ですか」
窓の外には大都会ではないが、この街がぽつぽつと灯る。
地上からある程度の距離があるため、ここは外界から閉ざされた空中空間であるかのような錯覚を生んだ。
青島はその光を、目に焼き付けるように、見つめる。
その一つ一つに温もりがあるのだと思うと、世界が愛しい。
自分たちもその一つだと思うと、切ない程じんわりとした幸せが胸に沁み入った。
僅かに視線をズラせば、月明かりで青白く灯る、照明の落とされたこの部屋のガラステーブルが、光を放つ。
それは、この部屋の夜の顔であり、ここでいつもこの風景をその瞳に宿し、室井が暮らしているのだ。
なにか特別なものを見ている気がした。
この風景を、いつも見られる人全てに、嫉妬した。
「観賞するほど絶景ではないが・・・・・悪くはないな」
ぽつりと室井が呟く。
それに、声も出さずに青島が笑う。
「うん・・・でも・・・・」
「?」
「えっと・・・・上手く言えないんですけど・・・・これが室井さんがいつも見ている景色なんだなぁって」
「・・・・そうだな」
だから?という目で室井は続きを促す。
「・・・俺は見れて嬉しかったです。普段の室井さんの傍にいるようだ」
そう言って、はにかむように笑う。
「一度だけでいいから、見てみたかったです」
この恋を、哀しい恋にはしない。
辛い恋だとも思わない。
この人に、ひとときの恋をしようと決めた時、そう決めた。
俺たちが目指すのは、求め合う関係ではなく、補い合う関係な筈だ。
室井のように、自分もちゃんと対等に立って、そして隣に並びたい。
この人が俺に望むのもそれだろう。
これを最後の恋にしたかった。
いつの日か、笑ってこの時代を振り返れるように。
真実の断片は、自分だけが持っていればいい。
儚く笑う青島に吸い寄せられるように、室井が空いた片手を伸ばし、青島の髪に触れる。
そして、頬を手の甲で数回撫ぜた。
一瞬照れたような顔をした青島が、次の瞬間ぷくぅっと頬を膨らませてみせる。
「あのぅ。もしかしてまた俺んこと、子供扱いしてます?」
「・・・・・してない」
室井が苦笑して答える。
「最近、やたらと室井さん、俺の頭撫でますよね。何でですか?」
「なんか、君は・・・・見ていると構いたくなるんだ――危なっかしくて」
――消えてしまいそうで。
「ちぇー・・・」
青島が、敵わないなぁという顔をして、くしゃりと笑う。
多分、今も未だ、何処か酔わされているような気がして、信じ切れていないのだと、室井は思う。
出会ってからずっと淡い想いを抱き続け、無理矢理応えさせてからも、現実感が乏しく
彼が――青島が、自分の傍に居る事を赦してくれた現実が、脆く儚い。
今、目の前に、ここに居ることが真実だと、分かってはいるものの。
鼻先から額に掛けて前髪を掻き上げると、青島はきょとんとした眼で、室井のその手を追って見上げる。大きな瞳が寄り目がちになって、可愛らしい。
このまま、衝動に任せて抱きしめてしまいたかった。
室井が、そのまま、軽く拳をくりくりと、青島の頬に押し付けた。
そして、ニヤリと口角を上げ、ある意味、室井らしくない笑みを見せる。
滅多に晒さない室井の子供の様な素顔に、青島が目を見張った。
ドクンと心臓が鳴る。
惜しげもなく晒される仕草は、気を許してくれているのだろうと分かるから、それがどうにも温かくて、ひどく不思議で・・・・・
青島は切なさが込み上げた。
優しくされれば、脆弱な精神は、脆くも簡単に悲鳴をあげる。
胸が破裂しそうだ――・・・。
・・・室井が望んでくれる限り、ずっと傍で、ずっと想い続け、そうして見守る。
彼の人生を、頂点へ登っていく様を。命を謳歌する様を。そして、人生を完遂する様を。
その時、俺は――?
身の竦む様な衝撃を感じる。
この人の一番が俺じゃないなんて。
――やっぱり嫌だ、俺・・・・・・。もう引き返せないよ・・・・・
なのに、それも、出来ない、きっと。
自分が思ったより全然弱いことを、実感する。
初めて感じた、本気の喪失の恐怖というものは、紛れもなく絶望の顔をしていた。
覚束ない足元に強烈な酩酊感を覚え、青島は無自覚にも室井を縋るように見つめる。
少しだけ潤んでいる瞳で、不安げな顔をする青島に、思わず室井の手も止まり、視線も引き寄せられる。
「青島・・・・?」
恐れていたのは、多分、全てを攫う様に、自分が溺れてしまうことだ。
室井を護るためなどと言いつつ、そんなものは建前で、本音は、制御出来ないほどに我を忘れてしまいそうなことが恐いのだ。
どんなに堅苦しい言葉で言い繕ってみたって、その根っこは所詮、こんなものだ。
情愛に於ける決意など、激しさを増すだけの利己愛の前では、砂場の城と同じだ。足元から掬うように、呆気ない程容易く崩れ去る。
罪悪感をキスで奪い取られ、好きという感情に制限を付けなくて済むようになった分、心は簡単に貪欲にこの人を追い求めている。
目覚め始めた欲求は物凄いスピードで膨れ上がり、無意識下に於いて手に負えない程の激しい圧力を発生させ
いつしか、自分でも制御できない程の激しさに育ってしまっていた。
それを、今更ながらに自覚した。
なんて愚かなんだろう。
その偽善的な防壁が、如何に脆く効力のないものだと、気付いていなかったのは、他でもない、自分自身だけだ。
恐ろしい程、際限のない欲求に、むしろリスクを憂えるべきは、外的要因ではなくて内的要因かもしれない。
――魔法の時間もそろそろ潮時だ
「――・・・俺、これ呑んだら、もう、帰りますね」
青島が慌てたように視線を逸らして、口にする。
「もう少し、いいだろ・・・?」
「いえ・・・・さすがにそこまでは。申し訳ないです・・・から」
語尾は、か細く闇に溶ける。
自分の揺れる心を見透かされたくなかった。
一人で立てているこの人に、一人で立てない自分を見せたくなかった。
二人の間にある二本の黄金の液体が、闇の中、キラキラと雪を舞い上げるように炭酸を立ち昇らせていく。
「気にすることはない」
優しく前髪を掻き上げ、室井が青島の顔を覗きこんだ。
前触れもなく、急に、心細そうな色を見せた青島に、室井の中にも、呼応するように漠然とした不安が立ち込める。
――いや、多分、不安は初めから己の中にあって、隠しきれない畏れが、青島の感情と共鳴しているのだ。
「もう少し、いてくれないか」
「でも・・・・・」
室井は急に胸が詰まり、湧き出る感情に身を委ね、おもむろに手を伸ばし、二の腕を掴んだ。
瞬間、意図を察した青島が、僅かに身体に緊張を走らせる。
一瞬、悲哀色の瞳を見せた青島は、室井が引き寄せる直前、顔を歪ませ、下を向いた。
「――――嫌か?」
唇まで僅か1cm。
力の入った手をそれ以上急かすことなく、室井は眼を少し伏せ、顔を傾けたまま小さく囁いた。
ビールの黄金色が、月明かりを浴びてキラキラ光っては闇に溶けていく。
暗闇の中で、艶めく瞳が、青島を覆った。
室井の、甘い吐息が唇に掛かる。
青島は、少しだけ視線を逸らした後、ぎゅっと目を瞑った。
ああ、そうだ。こうして惜しげもなく捧げられるから、返って俺は恐くなるのだ。
室井は・・・・辛いのだと零し、弱さを晒してしまえば、きっと全身で自分を護ってくれる。
青島もまた、そういう重荷を室井に課し、室井が背負う姿を見る事で、利己的な安堵するのだ、きっと。
その甘さに、分かっていても堕ちてしまいたくなる。
このまま、束の間の幻想と幻惑を承知の上で、何を想う余裕もない位、この恋に縛られてしまいたくなる。
それでも手に入れられないのなら、このまま全部めちゃくちゃに失くしてやりたい衝動にさえ駆られるほどに。
烈しい独占欲は、正も負もなく、室井にだけ向けられていた。
それでも、辛うじて何とか自分を引き止めるのは、それもまた、この人の見せる――――その、何処か危うい情のせいだった。
どうしてこの人は、こんなにも俺に、無防備で惜しげない情を注ぐのだろう。
そんな危険な脆さが逆に青島にブレーキを掛ける。
――駄目だ。このひとに、そんな愛し方をさせてちゃ、駄目だ。いつか、それで身を滅ぼしてしまう。
楽になる事への罪悪感を消してしまう程に、それは甘く、誘惑的だ。
そうやって、最後の一滴まで室井を貪り潰してしまえば、もっと辛くなるのは・・・こっちの方だ。
こんなこと、室井には知られたくない。それさえ赦されると解っていても・・・・いや、許容されてしまうからこそ、赦させては駄目なのだ。
それでも傍に居る事を、決めたのは、自分自身だ。
青島は、ぎゅっと拳を握る。
「嫌じゃ・・・・ないです・・・けど。でも・・・・」
――この人のために、俺は変わりたかったのに
「嫌じゃないなら・・・・帰るな」
室井の甘い言葉が、優しく身を腐食する。
唇が触れそうなほど、至近距離で囁いているのに、室井はそれ以上キスを仕掛けようとはしてこない。
何処までも無限に優しいその所作に、青島の心は千切れそうに悲鳴を上げる。
じっと見つめるその黒目がちの瞳は澄んでいて、深い宇宙に吸い込まれそうな強さを湛え、ともすればそれは甘い呪縛に成り変わっていく。
「なんで・・・・」
「帰したくない」
室井の隠さぬ熱い熱情に、ゾクリと背筋が震えた。
やっぱり、こんな風に二人きりで二人だけの空間に居ちゃいけないのだ。
俺が、このひとをどんどん狂わしてしまう。
――あの街は、あまりに自分に場違いだったじゃないか――
本庁に実際に勤務する室井を目の当たりにして、何時ぞやテレビで彼を観た時以上の、分不相応な違和感に苛まれた。
室井がどうこうではない。室井の立場やキャリアは、最早、関係がなかった。
自分が、ここに集う全ての人間から、異質だ。
ここが室井の住む城で、そして青島には、決して一生、手を触れる事も叶わない聖域なのだと、そびえ立つ灰色のコンクリはそう語る。
目の前に現実を突き付けられる度、リアルはこの身を切り刻むのだ。
俺はここに居てはいけない人間だ。
俺には、やはり、空のブルーが強く濃く輝く、あの街が似合いだった。
街の影が濃く彩る、海と空の紺碧が溶け合う、あの街が。
それもまた、ここの扉をくぐる時に、分かっていたことだったのに。
俺たちにとって、共に歩むという意味は、それぞれの場所でという頭文字が付く。
きっと、青島がそうであるように、室井もまた、青島に共鳴して呼応するように同調している。
俺が、この人を狂わせている。
こうして二人で過ごす空間には、その枷がない。
――逃げろ。
未来は見失っちゃ駄目だ。
こんなリアルに体温を感じられる距離にいるのは、失敗だった。
身体ごと触れ合いそうなこの距離は、いつかの室井の甘い匂いや体温を思い起こさせた。
この温もりが愛しい。この体温を思い知らせた室井が、逆に憎らしくさえあった。
前よりずっと近くに在るような気がするから、余計に居ないことも、そして、傍に在ることも、身に染みるのだ。
そんなことに気付かされたことさえ、忌々しかった。
青島はそっと、室井の身体を押して、空間を広げた。
唇が触れる距離のまま、その瞳を覗きこむ。
暗闇に光るその光は、まるで冷たい世界の中の、ただひとつの道標のようだった。
「今夜は傍に・・・・・いてくれ」
自分の中に制御できない衝動のままに、従わされる弱さを許す代わりに、無限の寛容さで彼を護ることを、自身に課した。
幼稚な破壊衝動しか、成し得ないのであれば、この身を切り裂いて押さえ込むしかない。
――ああ、確か、逢うために条件を受け入れたあのお伽話の結末は―――・・・・
「駄目ですよ室井さん。そんな風に良い顔してたら俺、どこまでも付け上がりますよ。アンタの一番傍に居るからって」
「好きなだけ利用すればいい・・・俺を」
「・・・・・っ」
何も言えなくなって、青島は俯き、一歩下がる。
「・・・ここへだって・・・・・一度じゃないだろ。何度だって来ても構わない」
室井が一歩近付く。
室井の親指が、包み込むように目じりを撫で、青島の頤を持ち上げられた。
「・・・・・・駄目ですよ・・・・一度だけです・・・」
闇に浮かぶ紅い唇が、遠去かるように震える。
今は、室井の鮮烈で清廉な、強い眼差しを誤魔化しきれそうにもなかった。
この手を振り払うことすら出来ない。
電気を消されてて、良かったと思った。
室井は、それには敢えて返事をしない。
甘い吐息を漏らし、代わりに、別の言葉を乗せる。
「青島・・・・この間の返事を聞かせてくれないか」
「その前に室井さん・・・・ひとつ、話、あるんです・・・・」
「だろうな・・・・」
即答された言葉に、それが室井に因って仕組まれたタイミングだったことを悟る。
不安気な顔をして、青島が室井をチラリと一瞥した。
「気付いてました・・・・?」
それにも答えず、室井はようやく青島から手を離し、ビールを煽り飲み干した。
なんか、室井さんの手の平で踊らされている感じだ・・・。
でも、これはチャンスでもある。
青島は、意を決して、室井が造り出した舞台に乗っかることにする。
「あの・・・俺たちの・・・・ルール、敷いておきませんか?」
「・・・・・・・」
「・・・・俺たちは――こんな風に何もかも一緒に居ちゃ駄目なんだと思います」
「ルール、とは?」
「だから・・・・・ここから先は、もう少し、そのぅ、警戒というか、距離を保つというか・・・」
瞳がお互いの真意を探り合う。
厳格さを湛え、深みを強めた瞳で、真っ直ぐ青島を射抜いてくる室井の瞳は、その奥深くまでを抉る。
醸し出す威圧感に呑まれ、青島は息を呑んだ。
視線を逸らしたら、きっと見透かされる・・・・。
青島は根性で堪える。
ここで引く訳にはいかない。
「それで?」
「余計な隙は避けた方が室井さんの埃になりません」
「・・・・・・・」
「だから・・・・外だけで会うとか・・・・張られているかもしれないし・・・俺も私用電話持った方がいいかな・・・・それから・・・いざという時の口裏と
か・・・」
「そんで・・・・それで・・・・いつか“その時”がきたら・・・・・」
室井が青島を見る。
青島も室井を見つめた。
「俺を・・・――――して、くれますよね?」
それは闇には溶けてしまう程、細く、しかし線の透き通った声だった。
5
外界の雑音がほとんど入らない室内は、しんと静まり返っていて、時計の秒針だけが規則正しい音を刻んでいた。
更けた夜のせいだろうか、隣家の生活音さえ、二人の空間を破ることはなかった。
闇に数多の光を宿した瞳が、真っ直ぐに青島を捕らえ、瞬きもせずみつめてくる。
じっと見返していると、眩暈を起こしそうになるほど深い色に、吸い込まれていきそうになり、青島はその真っ直ぐな想いから眼を逸らした。
嘘も、強がりも、みんな見抜かれていく気がする。
「もうここへは来ませんよ」
「・・・・・・」
「最初で最後です」
室井を纏う空気が変わった。
「本気で・・・そう思っているのか?」
堅い室井の声に、青島がピクリと反応する。
室井が更に一歩近付き、その人差し指の関節で、
軽く青島の唇に触れた。
「本気で、そう思っているのか」
「・・・・・・もちろん」
青島も視線を上げ、まっすぐ応えた。
だがその声は、明らかに震えていた。
室井は心の中で、溜め息を吐いた。
どうしてコイツは自分から離れていこうとすることばかりを言うのだろうか。
あんなに言ったのに。一人で抱え込むなと、あんなに言ったのに。
惚れているのだいう気持ちが、何故伝わらない。
それも、室井に興味がないとか、一緒に居たくないからという理由ではなく
また、こうして一人で抱えようとする。
どうして、こいつはこうも己を差し出すのに躊躇いが無いのだろう。
室井が欲しい青島は、これじゃないのだ。
どうしたら、本当の彼が手に入る?
本来、青島は楽観的だとか行動的だと評されることが多い。
事実、彼は物事の本質を、本能的に察知する能力に長けているようだ。
だが、その裏で、真実により密接出来る分、酷くナイーブで繊細であることは、意外に見過ごされる。
それは、青島本人が巧妙に隠してしまうからだ。
明るく、茶目っ気たっぷりに、お調子者である表向きで、周囲をみな煙に巻き、その裏で敏感に人間の内面を察知する。
・・・・・・そのことに気付いたのはいつのことだったか。
僅かに覗く言葉のトーンや、何気ない視線の隙間に、彼の聡さを見出すようになって、そこから伝わる痛みに同調し、胸を痛めるようになったのは
いつのことだったか。
コイツがリスクを恐れず身を投じれるのは、信念――誰かのためである、という確証が、背中を押すからだ。
彼の我儘では決してない。
むしろ、周りの期待や切望に、必死に応えようとしているように見える。
誰かのためになる、と分かれば、必ず彼は自分を投じる。
自分の傷など恐れずに。
自らの意思など、簡単に封じて。
恐らく、今だって。
そのたびに自分も傷ついていることを、きっと彼は気付いてもいないのだろう。
そこに気付いてしまった以上、自分が青島を守りたいと思う。
ばかだなと言って、引き上げてやりたい。
今更その役目を、他の人間に譲るほど、お人好しでもない。
だが今は・・・・。
その対象が自身であるだけに、事は少し面倒だ。
総身に月の光を浴び、青白い空間に浮かぶ青島は、幻のように儚く揺らいでいるように見えた。
銀色の輪郭に縁取られた肢体は、そのまま闇にも溶け込み、消えてしまいそうだ。
室井は闇と同じ色を湛えた瞳で、抱きしめたい衝動を抑え込み、じっと青島の目を見つめる。
青島は、自分に惚れていない訳ではない・・・と、室井は思う。
それは直感ともいえないが、何となく、今はもう、伝わるものがあった。
性別や立場とは全く無関係の場所で、青島は確かに室井に対する大きな慕情を、その胸に持っている。
それは、恋と呼んで差し支えないほどの。
青島の恋はピュアで幼く、色を増すほどに相手から広がっていくもののように思う。
愛情と言う名の自由を与え、懐を深めて全てを包み込む。
その矛先を、今更他の人間に分け与えてやるつもりはない。
ただ、無邪気に、子供の様な直向きさを見せる一方で、無防備なまま、何処までも自分を委ねてしまう。
それが一見、室井には物足りなくも、惜しくも見える。
室井の愛情は、深まるほどに相手へと集中し、慈愛も躊躇いも、果ては愛憎も独占欲さえも彼のみへと向かっていく。
盲目的とも言える、多くを望む事のない執着や欲望は、その数の少なさに反比例するように烈しく熱し、密度が高まるのだ。
情も元々深い方であるため、時にそれが自分自身に対してすらも枷になると知っているからこそ、普段は律していて、その激情は表からは分からないだけだ。
その熱く凝縮する自身の感情に対し、まるで反発するよう
に遠ざかる青島の愛情は、逆に本人の意思を加速度的に希薄にする。
それは、危険な幼さを感じさせるほどに、無警戒に、そして無限に見えた。
自分には出来ない、と室井は、敗北感にも似た懺悔と追い付けない焦燥を感じて、歯を食いしばる。
誰かを盲目的に護りたいと思っても、それは、あくまで自分の利己的行動だ。
その人を護りたいと感じる、自分のための、行動だ。
なのにきっと青島は――
似た者同士である二人の違いは、こういう所に出て
今それが、噛み合わない最大の要因だと思われた。
好きだと思う気持ちは同じなのに、そのベクトルは反比例的に真逆を指している。
――そんな愛し方をしてちゃ、駄目だ。身の破滅を齎してしまう。
まるで彼を欲しがっているかのような、滑稽なほどあからさまに震える指先を必死に抑え込み、室井は拳を握りしめた。
もとより、挑発や説得と言った職務上必須なスキル以外、口説く話術は持ち合わせていない。
青島の本心を見定めたくて、じっとその瞳を見つめた。
この、突き抜ける程の寛容さと深みを見せる愛情に、嫉妬と敗北感さえ感じさせられる一方で
だからこそ、それが、何より欲しいと痛切に思わされる。
・・・・青島の愛情の本質は、一見広く穏やかなものに見える傍ら、その秘めるパワーは、燃える様に熱く激しいものだとも室井は考える。
その意味では、内向きに激流を内包する自分と、彼はとてもよく性質が似ている。
この暴走する白熱した感情を受け止めてやれるのは、そのターゲットである自分だけだ。
――そうだ。捕まえられるのも、制御できるのも、自分しかいない。
二人が共に生きるのも、愛し合う意味も、みんなきっとそこにある。
室井はその漆黒の瞳で、闇にさえ呑み込むように、ただ、しっとりと青島を見据え続けた。
~~~~~~
やがて、その視線を外したのは、予想通り、青島の方が先だった。
「何・・・・?何で・・・・?」
あまりの視線の深さにたじろぎ、また一歩、後ずさる。
その一点の曇りのなさに、暴力的な責め苦さえ感じた。
「俺は君を手放す気はないって、言ったぞ」
バリトンのような低音が、静かに闇に響く。
「それは・・・俺もですよ。だからもう、敢えて余計なリスクは犯したくないです・・・・」
「何が余計なんだ?俺が傍に居たいんだ」
「傍にはいますよ。だから・・・・ずっと傍に居るために、俺たちは我慢する部分もあるでしょって話で・・・」
「もう我慢をするつもりはない」
「それじゃ駄目なんです」
「何が駄目なんだ」
何て伝えれば良いのか、言葉が上手く繋がらない。
掴んでいたビールを最後の綱のように握りしめていた青島は、そこに答えがあるかのように、しばらくの間、琥珀色のゆらめく液体を見つめていた。
「だったら、なんでここに来た・・・」
「それは・・・・」
青島が唇を噛み締めた。
一番聞かれたくない質問だった。
まさか、一時の誘惑に負けましたなどと言える雰囲気でもない。
室井にしてみれば、一瞬でも揺れてくれる気持ちこそが答えなのだが、そんなことを青島が知る由もなく、青島は自分の中の劣等感や罪責感から、頑なに口を噤
んだ。
そんな青島を、きっぱりとした口調で、室井は更に逃げ道を断つ。
「それでも、知りたかった。踏み込みたかった。そうだろう?だからここに来たんだろう・・・?」
室井は、分かってていつも核心を突いてくる。いつだってそうだ。
その深い眼で、青島の芯まで見透かすように踏み入ってくる。
そうやって、その瞳と同じ無限を湛えた深い愛情で、己の何を庇うこともなく、全身で青島を救ってくれようとする。
そんな惜しみなく捧げられる愛情に、躊躇いすらないことが辛く、恐いのに、室井は止まらない。
一方で、曝け出された全ての物の、もっと奥底で、室井こそ、まだ何かを護っている。
その奥深い部分を、青島には触れさせてはくれないくせに
自分にはこんなにも強引に、領域を犯される。
安全な所から見下ろして、全身で溺れそうな青島を余裕な顔で手だけを差し伸べる。
そこまで弱さや無防備さを曝しておいて、どうするかは俺に決めさせるのか。それだって俺を充分に試しているんじゃないか。
ズルイと率直に訴える小さなプライドは、馬鹿げているとは知りつつも、拗ねたような、頑なな態度を青島に取らせた。
ただ、室井と対等でありたいのに。
「違いますよ・・・そんなんじゃないです」
「じゃあ何が言いたい」
責めるような口調は、己の中の酷く危うい部分を見透かされたようで、青島に畏れと警戒心を抱かせる。
青島は慎重に言葉を探す。
どうやったらこの頭デッカチを鎮めることが出来るのだろう。
「だから・・・、そういうことじゃなくって・・・・・。必要以上な付き合いは誤魔化しが効かないでしょ・・・っ」
「誰に何を誤魔化すつもりだ。もう俺はおまえを手放す気はないぞ」
「分かってるよ。でも現実的に・・・」
「俺たちに制限が付くのは、俺にとっては本末転倒だ。そんなのは意味がない」
「そうなんだけど!無警戒で居るのも変でしょうが!」
「それでも俺は構わない」
「室井さん!」
全く理解も協力も示してしてくれない室井に、青島がだんだんと焦れてくる。
「俺が構うんだよっ、室井さんっ!だから・・・・そういうことじゃなくって!別に物理的な距離に固執する必要もないんじゃないかって話ですよ!」
「随分、殊勝なこと言うようになったじゃないか。いつからそんな利口なことを覚えた」
おまえらしくない、とニヒルに笑う室井に、必死な想いをスカされた挙句、本音を見透かされ、更に馬鹿にされたような気がし
青島は視線を逸らして小さく舌打ちした。
前髪がハラリと表情を隠し、噛み締められた唇が震えているのが、見て取れる。
「室井さん・・・・・なんか変だよ・・・・どうして俺にそこまで拘るのさ・・・・?」
青島が、焦れたように頭をわしゃわしゃと掻く。
二人で始めるこの道が、何の生産性も未来保証も持たないことに、始める意義そのものが疑問視されることも、室井だって充分理解の範疇だった。
だが、それでも、逢えば、乾いた砂漠に水が染み込んでいくように、青島の存在が、五感を通して全身に染み渡る。
それは欠けていたものが満ち足りていくような、在るべき形に戻る様な、当然のようであり、求めることが自然なことに思われた。
その、飢えた部分を補完してくれる時間を知ってしまった今
幻想だった恋を、もう夢物語のままにしておけなかった。
「・・・・分からない。でも――」
青島が気だるげに顔を上げる。
「もう、なかったことには、してやれない・・・」
室井が小さく謝った。
世界を覆い尽くした荒れ狂う情熱と狂気の波長は、ついには臆しようもない程に成長していた。
ただ、それだけのことだった。
もう止めることは、出来ない。
――例えそれが、俺が仕組んだ罠だったとしても
「君にも俺が必要な筈だ。君は居てくれるだけでいい」
「そんなの誰も納得しませんよ・・・・」
「俺はそれで充分だ」
「ヤですよ。俺が構いますよ」
「だったら、もっと傍に来て、ずっと俺を支えてくれ」
「俺じゃ・・・・力不足ですよ」
「そんなことはない」
「足引っ張るのなら得意ですけど」
「まあ・・・・確かに、君のことが俺のウィークポイントであるのは認めるが。でもそんなことでは俺は潰れないぞ」
「ありがとうございます。分かってますよ・・・でも・・・・・・・・っ」
「でも、なんだ」
ここにきて、青島はぐっと歯を食いしばって、スッと顔を逸らした。
「・・・・・・やっぱり、俺みたいなのがアンタの傍にいるって変だよ・・・・・」
室井が本音を垣間見せたからだろうか。ようやく青島が本音を見せ始めた。
結局、青島の罪責感の根源はそこだった。
まるで、体毛を逆立て威嚇している猫のように、室井には彼が何かに脅えているように見えた。
そのまま、室井のためだけに、躊躇い一つ見せずに、存在さえ消すつもりなんじゃないか――ふと、そこに気付き、室井の全身に戦慄が走る。
優しくなればなるほど、彼が傷ついていく。
繊細なくせに、自分には疎い青島は、いつもそうやって周りには大胆で、相手のことしか考えない。
そこに気付いたのが俺だけなら、そこをカバーしてやれるのは室井だけだ。
いつも傷ついていく彼の、その部分を自分こそがフォロー出来る。
それをどうやったら分からせてやれるのだろう。
流石に話術で騙せる相手でないことは承知している。
彼は知らないのだ。自分が思う程、自分には不器用で無頓着であることを。そして思う以上に室井が惚れていることも。
そのことに、彼はまだ無自覚なままだ。
なんだか初めて彼の素顔が見えた気がした。
「君が――・・・どう思っているかは知らないが、俺は多分、君が思う以上に独占欲が強いんだ」
明度の落とされた空気の中で、青島の身体が堅くなったのが分かった。
「これ以上・・・・何が必要だって言うんですか」
「おまえの――・・・全部だ」
室井は哀しみを帯びた笑いを滲ませながらも、悠然と言い切った。
そして再び、小さく謝った。
青島は何かを言おうとして唇を開くが、胸の奥のその想いは形にならず、深く閉ざされた口からは、切ない嗚咽だけが小さく漏れただけだった。
ややして、青島がよやく小さな声で呟いた。
「もういい加減、現実に進みましょうよ」
「俺もそう思っている。だが、俺にとっての先は、おまえが隣に居る事だ」
室井が間髪いれずに言い返すと、青島は苦しそうな顔をした。
――駄目だ駄目だ。このひとにこれ以上言わせちゃ、ダメだ。
青島がキッと睨みつけ、吐き捨てるように言う。
「ハ・・・ッ、あんたの“好き”はその程度かよ。“俺のために”じゃ、あんたは動かないんだな」
「・・・・」
「いつもそうだ」
小さく、小さく、青島が音を震わせる。
「・・・そう、思わせたんだったら、悪かった」
室井はあくまで、平静を取り繕う。
「そういうのはね、惚れてるって言わないんですよ」
青島が、そっぽを向いて吐き捨てる。
「傍に居たいと駄々を捏ねているように聞こえるかもしれないが・・・・感情論はともかく、一緒に行こうと言った意味は、おまえだって分かってるだろう」
「だから・・・・・そのために、必要なことしていこうって言ってるんじゃないか・・・」
「そうじゃない。そこから、始めてくれって言ってるんだ。この関係が間違っていることも、踏みだした一歩先さえ未来があるとは限らないってことも、みんな
分かってる」
「だったら・・・・・!」
「おまえが今言いたいのは、そういう対外的なモラルの話では無くて、俺たちのモラルなんだろう?」
「・・・っ!」
「“だったら”、俺のために消えるのだけは、やめてくれ。それが。俺の提案したい、俺たちのルールだ」
青島の瞳が大きく揺れる。
――こんな気持ちで、離れることすら赦されないって?
「そんなこと・・・っ。出来る訳・・・・っ」
~~~~~~
――やっぱり、俺の前から姿を消すつもりだったのか・・・
反抗的に黙ってしまった青島を見て、室井は大きく息を吐いた。
一旦言葉を区切り、室井は再び青島に近づき、手の平をぽんっと頭に乗せる。
「青島。おまえは・・・・・・俺を・・・・・・いや」
言いかけた言葉を、室井は呑みこむ。
ここで青島の想いを追い詰めても、きっと本音なんか零す筈がない。
上手に青島を委ねさせ、本音を零させてやれない自分の不器用さが、もどかしかった。
「俺はおまえといるだけで幸せになれるんだが、おまえは違うのか」
「・・・・・・」
「おまえも楽しんでくれていると思ったのは、俺の勘違いか」
「そんなことは・・・・でも・・・・」
「言ってみろ」
「俺は苦しい、です。室井さんと居ると・・・・・・・苦しいだけだ・・・っ」
唇を噛み締め、顔を逸らし、辛そうに顔を歪めて吐き出す。
長めの前髪が、パラリと青島の顔にかかり、その表情を隠した。
期せず放たれた重たい言葉に、室井の胸が締め付けられる。
我儘を言って、青島を手放せないのは室井の方だ。
だから、そのことを強く言って説得することは、尚更躊躇われた。
「あんたといると、も、ちょっと怖いよ・・・」
室井が迷う時、誤りそうな時、道を正してくれるのはいつだって青島だった。
同時に、室井の全てを認めてくれて味方をしてくれるのも、きっと青島だ。
青島は肝心な所ではきっと、自分より室井を優先するだろう。そういう男だ。
だったら、室井が青島に強いることは、彼はどこまででも受け容れてしまう。
きっと、全部受け止めてしまうに違いない。
だとしたら、青島の意思はどこにあるのだろう?
一緒に居たいだけなのに、それが彼を苦しめる。
「逢うのをやめたいか」
「やめたい・・・です。自分がこれ以上、惨めになるのは、も、ヤです・・・」
室井の心も共鳴するように、きゅううと軋んだ。
それは、青島の本心の一部だろうと思われた。しかし、その直接的な否定の言葉が返って、本心でもないという根拠のない確信を胸中に満たす。
どうしてだか、全くの他人である青島の、奥底にある本心や本質が、室井には透けて見える時があった。
言葉にせずとも、その瞳で、言いたいことが分かってしまう。
出会った頃から、それが不思議だった。
恐らく、それは青島も同じなのだろうと思う。
普段油断している時は気付かないが、こうやって意識をしていれば、見えてくる。・・・・告白した時だってそうだった。
「キスしたことも、か」
「・・・っ」
こんなときでも青島は室井を責めようとはしなかった。あの日の口付けは、室井からの一方的なものであった筈だ。
青島が顔を強張らせて俯いた。
思わぬ可愛いリアクションに、引き寄せて抱きしめたい衝動を、なんとか拳で堪える。
あの日以来触れていない唇が、闇に浮かぶように真紅に艶めいて光った。
「ほんと、誤魔化すのが下手くそなんだな」
ふうぅっと息を吐く。
今、ようやく素の青島が透けてきた。
大人になることで取り繕われていく社会人としての同等な人間ではなく、未知の世界に脅える一人の等身大の青島が今、目の前にいる。
そう言えば彼は4つ年下だったな、と、どうでも良いことを室井は頭の片隅でチラリと思った。
「嘘なんか・・・」
「ならそれは、俺と・・・この関係を解消したいということか」
「だとしたら俺はそれこそ用なしですね」
子供扱いされたことを聡く感じ取ったらしく、へそを曲げた返答が返ってくる。
今更のように警戒心を剥き出しにして、室井に対し身構えている青島に
室井は、自分こそ格好付けて繕っていた仮面が剥がれ、欲しい気持ちでいっぱいになった。
このまま、素の青島をもっとぶつけてきてほしいもっと見せて欲しい。
それこそが、室井が欲しい青島だ。
例え否定的な言葉であっても、室井にとっては快感だった。
・・・・・・きっと、青島には小手先の気持ちなんかじゃ解けない。
このまま真正面からぶつかるのが唯一の正解なのだ。そうだ、そうだった、初めから。
だったら。
「相手を傷つけない為に全てを与えて、その上で俺にも、おまえも捨てさせる気か。自分が出来ないから・・・」
「・・・・!」
青島の眼が、驚愕に見開かれる。
「おまえは、俺の傍にいるのが嫌なんだな」
「ちが・・・っ」
「後悔、してるのか?」
「そんなつもりは・・・・っ」
「まさか出会ったことまで後悔してるんじゃないだろうな」
「それは違うって!」
「同じことだろう。終わったら終わったで解放されるとでも思ったか」
「そんなこと・・・・・っ!何でそんなこと言うんだよ!」
淡い気持ちまで否定された青島が、思わずといった勢いで室井の胸倉を掴んでくる。
その瞳が、泣きそうに見えた。
「だったら!」
瞬間、室井も堪らなくなって叫ぶ。
「そんな哀しい決断を一人でするな。今更・・・っ、俺にまでカッコつけないでくれ・・・っ」
青島は。惨めになるのは嫌だと言った。
何故かずっと、室井に対して大層な幻想を抱いているようだった。
室井に対する劣等感みたいなものと、神聖化している概念が、より彼の中で物事を複雑化している。
必要以上に青島を大人ぶらせてもいる。
憧れとも神聖化とも取れたが、室井にしてみれば、ありもしない幻想を期待されているのに過ぎない。勿論、悪い気はしていないが。
でも少なくとも、今はそれが邪魔だった。
「か・・・・っこ!付けてるのは、室井さんじゃないか!」
室井の感情に呼応して、青島の感情も走り出す。
思わず――確かに室井の言う通り取り繕ってはいた――抑圧していた思いを一瞬忘れ、吐き出していく。
「肝心なこと、何も言わないし!近寄ることも出来ないっ。結局っ、選ばされているのは・・・・俺の方だ・・・っ」
「だから傍に居て良いって、最初っから言っているだろう」
「それで堕ちたら俺が悪いって?!」
「だったらおまえも俺を悪者にして、逃げ道にすればいい」
「綺麗事だ・・・!結局、俺はあんたの疫病神だよ・・・・っ」
似た者同士だからこそ、火が付くと、相乗効果に噛み合っていく。
お互いの感情がお互いを煽っていく。
「あのキスは、夢の終わりを告げる合図だよ、室井さん」
そしてそれは、皮肉にも、お互いの深部に接触していく。
「あのキスに、意味を付けるのなら、あれこそ、始まりの合図だろう?」
「ファーストキスに夢を見るタイプ?」
青島の瞳が、闇に溶け込む様に寂しげに揺らめく。
そんな顔をさせたかった訳じゃない。
――どうしても伝わらない・・・こんなに・・・こんなにも・・・好きなのに。
もっと甘えてほしいのに、青島はいつだって一番最奥の部分は委ねてくれない。
好きなだけなのに、想いが赦されない。
俺たちの恋は、二人共、不器用すぎた。そして、多分・・・・想いが深すぎるのだ。お互いへの。
俺たちに用意されている結末は、そんな破滅的なものしかないのか。
そんな別れを呼ぶために出会ったとでもいうのか。
冗談じゃない。そんな結末を黙って受け容れられるか・・・っ。
「それがどうした」
低く、吐き捨てるような室井の声が、闇に重たく響く。
もう我慢の限界だった。
お互い、どうにも相手の理解してくれない様子に、感情は苛立った。
室井の手が、青島の襟首を掴み寄せる。
「なかったことになんか、してやらないからな。あの日!おまえが自分で選んだ・・・っ」
「ああ、そうですよね・・・!全部俺のせいですよね!」
青島の手も、室井のシャツを締め上げる。
青島に呼応して、室井の自制心もついに箍が外れた。
「覚えておけ・・・・俺はおまえをもう手放す気はないぞ・・・っ」
「俺だってないですよ!今の所!!」
「おまえがどう困ろうと、俺はずっとおまえの傍にいる。物理的にも精神的にも・・・・時間的にもだ!」
「知りませんよそんなの!」
「ならお前はっ!いつか来る別れを意識しながら俺と共に居るのか!」
至近距離で顔を突き合わす。
そのまま二人の感情が室内に反射した。
「そんな大袈裟なっ。俺はただ可能性の話をしているんですよっ」
「仮定法未来になんの意味があるっ。おまえはただ俺に踏み込めないだけじゃないか!話を逸らすな!」
「話を逸らしているのは室井さんでしょ!何で伝わんないかなぁ!」
「自分の気持ちを誤魔化すことが逸らすということなんじゃないのか。事実を逸らしているのはおまえの方だ。もっと素直になれっ」
「俺はこれ以上ないくらい素直ですよ!」
「だったら今この場で口付けてもいいのか!」
室井はグッと掴み上げた襟首に、力を込める。
「覚えておけ。俺はもうおまえに関しては遠慮しない。他の人間に欠片も渡すつもりはない」
「やな男ですね。独占欲の塊はモテませんよ」
「君にさえ好かれれば問題ない」
「・・・・っ」
ギリリと青島が強気で睨み返す。
「だからなんで自分を大事にしてくんないの・・・っ。室井さんに無茶させたくないんですっ」
「一緒にいることのどこが無茶なんだ!」
「全部だ全部!どう考えても変でしょうがっっ」
「そうやって、今から逃げて、自分から逃げて・・・俺からも逃げるのか・・・っ!」
「俺は逃げてないって言ってるでしょ!」
「誰が逃がすかっ!」
「だったら!もし俺に好きな人が出来ても室井さんは俺のために別れてはくれないってことですか!」
「当たり前だ!!」
「な・・・・っ!」
あまりの理不尽な文句に、一瞬青島の手が緩み、絶句する。
その隙を付き、服が切れる程、手繰り寄せ、青島の唇に熱い息がかかるまでに室井が顔を寄せる。
鋭く睨みつけ、熱く掠れた声で、絞り出すように告げた。
「どんな想いでおまえを手に入れたと思ってるんだ・・・!」
「・・・っ」
「今更距離を取ろうなんて許さないぞ・・・っ!堕ちるなら上等だ・・・・!地獄の果てまで道連れにしてやる・・・っ」
「んな・・・・・・っ!」
まるで、全てを手に入れるなど不可能であることを百も承知で、それでも諦めきれない現実に、正直に生きるしかない大人の男の覚悟が見え
その大きさに、青島は怯む。
その根源は、どこまでも透明だ。
「おまえは何も分かってないんだ・・・俺がどれだけおまえが好きなのか。俺がどれだけ浅ましくおまえを欲して
きたのか。俺におまえが・・・・どれだけ必要なのか・・・っ!」
「そ・・・・・・んな、の・・・っ、俺だって・・・・!」
一旦、タガが外れた室井の感情は、理性的に事を進めようとしていた分、反動も大きく、もう止められなかった。
青島への激しい情熱が、堰を切ったように室井の中から溢れてきて、身体を支配する。
その強烈な浚われるような激情に、青島の心が追い込まれる。
一緒に、どんどん、追い詰められていく。
痛い・・・そして、苦しい。
「ママゴトをする気はない・・・!俺はおまえの幼稚さに付き合う気はないんだっ」
「な・・・んだよそれ・・・っ!アンタだって分かってないよっ!俺がどんなに自分が疎ましいか!アンタばかりに迷惑かけて足ひっぱるしか出来ない自分
がっ!どんなにっ」
「俺はそんな風に思ったことは一度もないっ」
「アンタがなくてもそれが事実だろっ!」
「お前に沢山救われてきた!そっちが事実だ!!」
「そう思っているのはアンタだけだ・・・っ!」
それはもう泣き声だった。
「力が欲しいよ・・・っ。アンタを守れるだけの力が欲しいっ。アンタを救えるだけの・・・・・っ。アンタを支えるだけの!!だけど俺には何にもないんだ
よ!俺にはアンタを想う気持ちしか、な・・・っ」
「・・ッ」
室井が眼を剥いた。
――瞬間、二人の間で何かがスパークした。・・・・・気がした。
磁石が引き合うような勢いに任せて、ほぼ同時にぶつかり合うように口付ける。
荒々しい激情のまま、お互いを喰い尽くすように噛みついていく。
優しさも愛情もない、ただ貪るだけの感情を、臆しもせず、剥き出しにする。
お互いに相手の胸倉を握りしめたまま、力のままに引き寄せ合い、唇をぶつけた。
室井の手が、更に青島のシャツを更にキツく締め上げる。
青島もまた同じように、室井を胸倉から手繰り寄せる。
お互いに相手の都合などまるで考えなかった。
「むろ・・・さ・・なんて・・・っ。どうせ・・・っ」
恨み事が漏れてくる唇を、何度も何度も塞ぐ。
割り切れない感情を、とぎれとぎれに漏らす青島の唇が、至近距離で熱い吐息を吹きかける。
室井は息も吐かせず何度も齧り付いた。
言葉の意味とは裏腹に、青島も唇で獰猛に室井に歯向かってくる。
奪い合うというよりは潰し合うといった、狂気に支配されたような接触だった。
少しだけ唇を解放する。
荒い息の下、闇に光を宿した瞳で、青島が吐息のように漏らした。
「こんなの・・・駄目だ・・・・」
唇を震わせ、何かを耐えるように眉を顰め
そして再び、哀しく歪んだ顔で、睨みつけるように室井を見上げ、胸倉を絞り上げた。
「こんなことして・・・っ!あんたは馬鹿だ・・・っ。汚れるのは俺一人にしろよ・・・っ」
震える声で、最後の糾弾をする。
「堕ちないように、護りたかった、のに・・・っ!」
「おまえ一人に罪を背負わせるなんて、俺が出来る訳ないだろ・・・っ」
室井の、熱に浮かされたような低い声が、震えるように響く。
「でも結局、アンタを狂わせているのは、俺じゃないか!」
「どうしてそう決めつけるんだ!」
ただ単に、嬉しいって気持ちを向けてくれたら、それだけで室井は良かった。
そんな簡単なことが、今は、こんなにも遠い。
哀しいこの恋が、どうか届けって、心の底から叫んでいる。それはきっと――お互いになのに。
「俺にだって、おまえを護り抜く覚悟くらいある・・・っ」
「そんなのさせられる訳ないだろ・・・っ!どうすんだよ、これから・・・っ。こんな・・・っ、こんなキスされたらおれ・・・っ!あんたが大事なのに・・・
おれっ」
「だったら一緒に堕ちてくれ・・・っ」
「ふ・・・・ざけるな!一緒に道踏み外して何になるんだよっ!もう俺を解放しろよ・・・っ」
「冗談じゃない。誰がこんな終わり方、させるか・・・っ」
グイッと襟首を引き寄せる。
このまま青島を手放したら、コイツは確実に俺の前から姿を消す。痕跡すら残さずに。
「放したくない・・・!放せるか・・・っ」
切なく胸を締めつける寂寞の想いが、溢れては、闇に溶ける。
「アンタには真っ当な道を歩いていって欲しいんだよ!」
「俺がおまえに願うことも、おんなじだ・・・!」
「・・・・・っ!・・・・言ってること・・・っ、めちゃくちゃだよあんた・・・っ」
泣き声が暗闇に木霊する。
「もう引く気はないと言った!おまえこそ、俺とこの先の未来を賭けてはくれないのか!!」
「そ・・・んなの!とっくに覚悟済ですよっ」
「だったら本気でかかって来い!!」
「出来るか!あんたに!!」
ほとんど悲鳴のような涙声で青島が叫ぶ。
「果てまで連れて行くぞ!俺たちの約束もおまえも、おまえの未来も!全部俺のものだ・・・!」
「そんな都合よくいくかっ。ば・・・かじゃないのあんた!」
「おまえこそらしくないじゃないか!何もしないで諦めるのか?!どうしてもっと貪欲にならない・・・っ!どうしてもっと好きになってくれない・・・っ!ど
うしてもっと・・・!」
「もっと俺を欲しがれっ!」
「欲しいよずっと!!」
被せる様に叫んだ悲鳴――・・・次の瞬間、ほぼ同時に唇をぶつけ合った。
そうだ。青島なら、あれもこれも何とかしようと、色々模索しそうなものなのに。
どうして俺にだけこんなにも消極的なんだ。
つまり、それが本気だということなのだろう。
青島は、彼なりに室井のことを本気で大事にしようとしたから危険な真似が出来なくなったのだ。
あんなに暴走癖があるくせに。
室井と同じように、失うことを恐れているから。
つまりはそれが恋なのだ。
6
求めれば求めるだけ返ってくる口付けが、より気持ちを暴走させていく。
凶暴なまでの熱情が身体中を支配し、獣のような本能が止まらない。
口付けの角度を変える瞬間、自分の呼吸を確保しただけで、相手のタイミングを考えず噛みつき合う。
密着した身体が、薄いシャツ越しに体温を伝えてきて、室井はその存在を確かめる様に更にシャツを引き寄せた。
青島の手も、室井のシャツを同じ強さで引き寄せてくる。
濡れた音だけが熱く交差する。
もっと奥へ、もっと奥へ。
唇では物足りなくなり、室井は両手で青島の身体を掻き抱いた。
青島も同じように室井の背中を引き寄せる。
それさえも強く、乱暴で、労わりの欠片もない抱擁だった。
室井はめまいがするような衝撃を感じ、更に青島の肩と腰を掻き寄せる。
強く腕の中に閉じ込めて何度も唇を重ね続けた。
「・・・ぁ・・・・・・・ぅ・・・・・・・ッ」
青島の喉奥から唸るような音と熱い息が漏れる。
それに勢い付けられるように、室井はめちゃくちゃに口内を舌で弄った。
本当の意味で何も分かっていないコイツに、全てを押しつけたかった。
どれだけ遠い昔から、室井が青島を見つめてきたのかとか
室井と付き合うことで生じるリスクは、何も室井だけに限ったことではなくて青島の身にも降りかかるのだとか。
職業上、仕事のリスクは、明らかに所轄より本庁の方がその性質上少ないと青島は思っているようだが
そんなことはない筈だった。
家族や親せき、恋人へと飛び火する社会的危険はむしろ本庁より末端組織の方が上だ。
また、室井と青島の繋がりを良く思っていない連中は警察内部にも多いが、その際、表だって被害を受けるのは、恐らくこの先は青島の方だろう。
青島は室井の立場を随分と警戒しているが、二人の親密さが露見した場合、ターゲットにするのはむしろ、室井より青島にした方が効果的だからだ。
そして、何より哀しいのは。
例えその悪夢が現実になったとしても、コイツは俺には何も話さないだろう。
全部を自分独りで背負って、室井を頼ろうともせず、室井を護ろうとするのだろう。その身を差し出すことさえ厭わずに。
いつもいつも、いつかこの手から零れてしまうのではないかと、不安になって、竦んでいた。
突然消されてしまうことを、失うことを恐れているのは、室井の方だ。
青島がいなければ、一歩も動けない。
青島がいなければ、息さえ――・・・
「ずる・・・・・・よ・・っ。むろ・・・・さ・・・はっ、・・・るい・・・っ」
忙しなく漏れる熱い吐息が、烈しく交差する。
切迫する息遣いと、激しく上下する胸。
濡れた音が淫靡な響きで耳に届く。それが新たな熱を生じさせ、本能を逆撫でする。
青島を守りたいかと問われれば、守れるものなら何処までも守りたい。
しかし、室井の奥に燻るのは、もっと狂乱した、もっと我情に満ちた、凶暴な感情である。
いざという時に、自分がどこまで青島を守れるかは、正直、分からない。
むしろ、傍に居る事しか出来ないのは室井の方だ。
なのに、いつだって遠くから見つめて、護ることも出来ずに、赦すことしか出来ない。
でも、そういったことも全部ひっくるめて、傍に居たいと、室井は言っているのだ。
もし、それで潰れるようなことがあれば、一緒に共倒れしてくれと懇願しているのだ。
堕ちるならば、もう、青島の幸せなども考慮せず、道連れにしたい。
その背徳に巻き込みたくなかったから、ずっと黙っていたのに。
なのに、またこうやって、室井だけ安全な蚊帳の外に置こうとする。
「お、れ・・・っ、ば・・・・・っかり・・・っ、好・・・っ」
青島の漏らす恨み事が、室井の胸を締めつける。
リズムもない交接にお互いの息が乱れても、それでもまだ足りなかった。
「・・・ッ!・・・・・・っ!!・・・・・・・・ぅ・・・っ」
渇き切った内部が、満たされることはなく、止めどない想いは獰猛な程に内から溢れてくる。
衝動のままに唇を貪るが、それでも、飢えたような抗えぬまでの熱は、治まる気配はない。
熱く絡ませ合った舌をお互い痛いほど吸い付いて、その痛みさえ足りなくて、飢える様に吸い尽くし合う。
技巧も愛も、何もあったもんじゃない口付けが、今は、ただただ熱い。
濡れた音が、耳に淫猥に煽る。
「俺・・・っ・・・・こと、・・んか・・・・・・・っ」
こ
れが自分のエゴだとは、そんなことは当初から承知の上である。
室井は、青島を大切だと思う以上に、青島の人生が恋しいのだ。
そのくらい、青島が欲しかった。
もう、知らなかった頃には戻れない。
「・・・・ぅ・・・・・・・ぁ・・・・・ッ」
青島の口から時折漏れる湿った音も、口の端から時折漏れる熱い息が、灼けるように頬を刺激するのも、縋る様に引き寄せる手が震えているのも
今は全てが愛しく、全てが哀しい。
後頭部を強く押さえ付け、室井はありったけの想いを込めて、唇を重ね合わせる。
ずっと疎ましく想っていた、青島をひたすら欲する浅ましくも醜い心さえ、今はもう伝わってくれとさえ願う。
届かないまま失うならば、いっそ曝け出して見せつけてやりたい。
その全てがもう室井のものであるという事を、この男に思い知らせたい。二度と忘れたり、離れたり出来ないように、身体と心に刻み付けてしまいたい。
むしろ、ずっと青島に暴かれるのを待っていた気もする。
秘密に隠していた宝箱を特別な人にだけそっと教えるみたいに――
身の裡に棲みつかせていく。一番奥深いところまで染み込ませていく。
少しでも伝えたくて、室井は濡れた吐息を漏らしながら、被せるように唇を重ねる。
勢いに任せて乱暴に吸い上げると、合わせた唇の奥から、呻くような振動が漏れて伝わった。
すかさずタイミングも都合もなく、吐息ごと呑み込み、粗雑に差し込んだ舌で、骨まで喰いつくす勢いで掻き乱した。
今はとても優しくなんかなれそうもなかった。
全てを寄越せと、あからさまな欲求を隠すこともせず、むしゃぶりついてくる室井の唇に、一寸でも離れるのは嫌で、青島も唇を押し付けるように吸いついてい
く。
勢いに流され、二人の足元がたたらを踏む。
・・・・ほんとは多くなんか望んでいない。今はただ、子供のように、このひとの傍で寄り添っていられたら。
このひとの一番と言うポジションで。
軋む心が、止め処ない俺の浅ましさを、赤裸々に零していく。
この恋を、哀しみに彩っていく。
共に在ることを赦されて、傍に置くことを望まれて、満たされた心は、奪われ、手からすり抜けていくことを、何より恐れている。
そのために青島が出来ることもまた、些細で陳腐なことだけだとしても。
室井への必要以上の接点は、何の生産性も持ち得ないだけでなく、諸刃の剣にしかなっていなくとも。
そのことを気に病むことはないって、室井は言ってくれているのだと思う。
優しい人だから。
俺に甘い人だから・・・。
どこからこんな哀しい恋にしてしまったのだろう。こうするしかないなんて。こんな結末しか呼べないなんて。
深入りする程に、この恋は切なく、透明だ。
同じ波長を感じて、同じ時を共有し、共鳴する。
それだけで良かったのに。それだけで・・・・ほんとうは。
それだけで、俺は幸せだった。
確かに、幸せだったんだ。
やがて呼吸するタイミングを外された青島が、少し音を上げ、踠き始めた。
微かに身じろぎする身体に、それさえ許せなくて、室井は強引に腕を絡め、引き寄せる。
構わずに舌を押し入れたまま、更に奥深くまで征服していく。
「・・・っ・・・・んぅ・・・・・・・・・ぅ・・・」
舌を最奥まで押し込み、喉奥までまさぐっていくと、青島が息苦しさからか痛みからか、喉を鳴らして微かな抵抗をみせた。
その反応さえ、室井の心を戦慄かせるものでしかなく、そのまま何度も強く舌を吸い上げる。
青島の甘い舌の感触が、後を引き、室井から遠慮を奪う。
飲み込み切れない唾液が、密着した唇から溢れ出し、滴っていく。
酸素を求め、青島が眉を寄せ苦しそうな顔をした。
横に逸らし、息継ぎをしようとする口を、室井はそれも許さず、力任せに顎を掴みあげ、乱暴に唇を覆い被せる。
「・・・・っ・・・・・んッ・・・・・・・苦・・・し・・・っ」
微かな抗議の声が聞こえた気がしたが、身の内から噴出する激情に、現実は遠い。
青島の抗議は何も聞こえないかのように、室井はその顎を掴んだまま、後頭部からも押さえ付けた。
両手で強く身体を拘束し、淫猥な音を立て、口内を激しく蹂躙する。
繰り返し乱暴に舌を吸い上げ、ついでに軽く舌にも歯を立てた。
突然、青島がガクッと膝から崩れた。
室井も合わせて膝を折る。
強く青島の腰を抱き、圧し掛かる様に唇を重ねると、青島の背がしなやかに反り返っていく。
その背を支える様に片手を添え、それでも尚、唇は離さない。
膝立ちのまま、青島の脚の間に自身の片膝を割りこませ、脚を開かせた。
グッと腰を引き寄せる。
さらりと、青島の髪が後ろに流れていくのが、目の端に入った。
後髪を乱暴に鷲掴みにして、力強く下へと引っ張る。
「・・・ぁ・・・・ぅ・・・・・・・・・・っ」
喉元を美しく逸らした青島に、覆いかぶさるようにして閉じかけた唇を舌で解く。
逃げ惑う舌を追い掛け、強く絡め上げた。
熱い。
何もかもが、熱い。
キスは解かれない。
室内には二人の切迫していく息遣いだけが木霊していく。
やがて、室井のシャツを掴んでいた青島の手が緩み、助けを求めるように室井の首に回ると同時に
青島がカクンと腰から砕けた。
片手を腰に回したまま、肩を抱き込むようにして、室井も一緒になって座り込む。
傾く頭を強い力で押さえ付け、尚、息もさせずに唇を合わせる。
もどかしげに耳や首筋を撫でまわしながら、逃げ始めた青島の舌を、執拗に絡め取った。
「・・・・・・っ・・・・ん・・ぅ・・・・・っ」
そのまま室井が僅かに体重を掛けると、容易に青島の身体が後ろに傾いた。
もう平衡感覚もないようだった。
一方的になった室井の唇を受け止めながら、弱弱しく抵抗を見せる指を軽くいなし、顔を傾けて唇を塞ぐ。
「・・・ぅ・・・・・・っ・・・・・ん・・・っ」
膝で脚を割り割いた間に入り込むと、室井は青島の身体に乗り上げた。
そのまま共に床へと倒れ込む。
トターンと身体が打ちつけられた音と、拍子に倒れた空き瓶がカラカラと転がる音が、空気を微かに振動させた。
圧し掛かって尚、顔を傾け、更に奥深くまでを貪り続ける。
前髪を撫で上げ、額を押さえ付け、一寸足りとも解放してやらない。
重力の影響がなくなり、心許なさそうに室井へと伸ばされた手は、宙を彷徨った。
それをぐっと引き寄せ、きつく指に絡め取り、床へと縫い付ける。
しっかりと握り合う手は汗ばみ、肌が隙間なく密着した。
湿りと熱と、僅かに握り返してくる強さに、切なさが込み上げる。
感じているのがもう、苦痛なのか愛情なのか、区別さえつかない。
暗闇の中で、二人は、そのまま口付けを交わし続けた。
~~~~~~~~~
二人分の乱れた息が暗い室内に響き渡る。
ようやく、ほんの少しだけ室井は唇を離し、真上から青島を見つめた。
青島は、ほろほろと泣いていた。
後から後から溢れてくるその涙の粒を、唇で拭い、優しく前髪を掻き上げる。
震える唇にそっと口付けを落とすと、青島の身体も震えた。
「あんたが、好きなんだ・・・・・」
「知っている・・・・」
「・・・・・」
「・・・・やっと言ってくれたな・・・・」
「・・・っ」
涙がビーズのように転がり落ちた。
真上から真っ直ぐに青島の瞳を見つめる。
「もう一度・・・・・」
室井が、青島の涙を唇で掬う。
濡れて闇に光る唇が震え、小さく、好きですと、音にもならない吐息が頬にかかった。
青島の耳朶へと小さなキスを落としていく。
「好きだ・・・・。おまえしか欲しくないんだ・・・・・おまえが欲しい・・・・・誰よりも・・・・何よりも。だから・・・・」
そのまま青島の耳元へ唇を押しつける。
「もう俺を一人にするな・・・」
生きるのも共に。
堕ちるのも共に。
そう、春に誓い合った。
返事をする変わりに、青島は室井のシャツをぎゅっと掴む。
なんだか感情が乱されて、今は細かいことが全て思考の隅へとまどろんでいく。
理由も分からず視界が滲んでいた。
だけど、もう、ずっと感じていた空虚感は消えていた。
