ほろ酔いの恋物語2




稀に届く業務連絡めいたメール。
“来週末には時間が空く”

4日前に届いた簡素で質素なメールを何度も見返しては、青島は小さく微笑む。


ずっと支えたかった。
ずっと救いたかった。
俺に赦される事だったなら――・・・・・

あの夜は、浮かれた気持ちと共に、青島に拭い去れない現実を残していった。








-春ー

「はあぁあぁぁぁぁ~~~~~~~」

どの位、思考の闇に埋もれていたのだろう。
本日何度目か分からない盛大な溜め息は、再び頭上を滑っていく。
青島は、これまた本日何本目か分からない煙草に、手を伸ばした。
そして、ああここは禁煙だったかと今更のように思い出し、ボールペンで頭をポンポンポンと叩く。
目の前の報告書の数は、さっきからちっとも減ってくることはなく、ウンザリとした顔でそれを横目で見た。

湾岸署の日常は、今日も騒がしい。それらを丸っと無視して、青島はデスクの上に突っ伏した。


――やっぱり・・・・・・振るべきなんだろうな・・・・

あれから、ふとした拍子に思い出すのは室井のことばかりだ。
真剣に考えれば考える程、思考は煮詰まっていく。
だから出来るだけ考えない様にしているのに、気付けば思考のループにハマっている。
これじゃ、初恋した小娘のようだと、また溜め息が出る。
自分が自分で情けない。

「あぁ!もう!」

妙にイライラして、席を立った。
こんなときに限って、通報もなかったりする。
そこに筋違いのヤツ当たりを抱きながら、青島は頭をワシワシと掻いた。
非難と軽視の視線はすべて視界からカットすることにして、そのまま休憩室へと足を向けた。




缶コーヒーをガコンと買う。
ふっと溜め息を漏らすと、ベンチが視界に入った。

ここで、かつて、室井と語り合った。室井と巡り合った。室井と――俺たちが、始まった。遠い記憶。でも鮮やかな追憶。


「・・・・っ」

室井の影を強烈に感じ、息苦しくなって視界から逸らす。
居たたまれなくて、屋上へ向かった。

重い扉の向こうには、潮風が勢いよく吹きつけ、青島の髪をバサバサと乱し、手元を打ちつける。
湿気た煙草は不味かった。
もう春の匂いの混ざるこの街の風は、すっかりと季節の色を謳い、あの冬の海の記憶をより一層、時間の残骸へと押しやっていく。
壁際にドサッと身体を預ける。
工場の稼働音とボイラーの白煙が、活気を伝え、この街が目覚めていることを告げていた。


紫煙が視界を暈していくのを、ぼんやりと見送った。





~~~~~~


話は数日前に遡る。


「ねぇ、室井さんだよ」

通報を受けて外から帰ってきた時、青島を出迎えたのは、異様にざわついたムードだった。
いつもと雰囲気の違う刑事課に足を踏み入れれば、活気の中に“室井”という名前が飛び交っているのを、耳聡く聞き分ける。
視線を送れば、テレビを囲み、浮き足立つみんなの人だかりがあった。

そこで見たものは、受け止めきれない現実を持て余していた青島を、一気にどん底へと突き落とすものだった。



「何かあったの?」
「ほら!」
「始まるみたいだよ」


空気がどよめく。
記者会見の中継のようだ。

そこに室井が映っていた。

野次馬たちが、口々に好き勝手な感想を述べる。

「なんか凄いね~」
「今、階級なんだっけ?」
「この間、また昇進したよね?」
「少なくとも俺たちとタメ口聞けるような階級じゃねーよ」
「確かに」
「もしかして口をきけてたってこと、いつか自慢できる?」
「信じても貰えないんじゃない?」
「こうしてみると、室井さんって雲の上の人なのよね」
「でも室井さんは俺たち所轄寄りじゃん」
「だからと言ってさぁ」
「湾岸署に来てたことが信じらんないですね」
「もう会えないのかなぁ」
「滅多に逢える人でもなくなったか・・・」
「立派になっちゃって・・・」
「お前何様だよっ」

どっと笑いの渦が巻き起こる。


しかし、この時の青島の耳には、ほとんど何も届かなかった。
冷水を浴びせられたように、立ち竦む。

室井の今ある立場を、ブラウン管がありありと映し出していた。


これがリアルだ。
ああそうだ・・・・二人きりで逢った時間は、まるで魔法でも掛けられたように独特のヴェールに包まれていて、淡い気持ちでいられた。
立場を忘れた訳じゃなかったけど、あのひとは偉ぶらないし、俺もつい調子に乗って。
でも、そんなのはまやかしだ。
努力や感情だけではどうにも出来ない、あからさまな立場の違い――現実の壁をダイレクトに見せつけられ、青島に、急速に弁えるべき世界が圧し掛かる。


それまでだって、室井を沢山困らせてきた。
遠慮なくぶつかることだってあったが、正しいと思ったことをそのままぶつけて、その先は室井の判断に任せられた。
それは、室井と社会的な責務に基づくシンプルな相関関係を保てていたからだ。
お互いの職務の本質に立ち、正面から向き合うことで、熱い理想を切磋琢磨してこれた。
遠慮なく全力で我を見せれるのは、同じスタンスの室井だったからであり、反発・衝突・摩擦を繰り返すことで、言霊以上の熱い思考の対話をしてきたのだ。
あとは、自分の言動に責任を持つだけで良かった。

これまでの青島だったら、嬉しく、むしろ、誇らしく、眺めていられただろう。
でも、今考えていることはもう、根本的に異なる。
今、その先の判断を室井に委ねたら、あの人はきっと・・・・。


ゾクリとした。

――自分は室井に取り返しのつかないことを決断させてしまったのではないだろうか?


青島は、手の甲を口に当てて、崩れそうになる足を、何とか必死に踏みとどまらせた。
視線を、画面から離すことは出来なかった。







どうしよう・・・。
自分は室井と違って、何の力も持たない。
所轄のノンキャリがキャリアのエリートに出来ることなど今更――

なのに、あの人はきっと、俺のためならその足を止めて振り返る。
俺のために、地位も名誉も、何もかもを捨てて・・・・きっとその立場さえ惜しまずに・・・
或いは逆に、俺を護るためだけにその身を厭わすことすら、率先して・・・
そんなことをさせるのか。
プライベートまであの人を煩わせるのか、俺は。
そんなことまで、あの人に背負わせるのかよ。

あの人に、そんな決断させちゃ駄目だ。


室井はいずれピラミッド構造の頂点に立つ男である。
底辺にいる自分が、好きだなどと言って禁忌的な色恋に手を出せる相手ではなかった。
大事なら尚のこと。
個人の主張を優先させて良い次元の話ではなかった。



「・・・っくしょー・・・」

髪をギュッと握りしめて俯く。

遠くから中西のすみれを呼ぶ声がする。
湾岸署の喧騒はいつもどこか青島の心を穏やかにしてきた。
青島はここの空気が好きだった。
でも今日はそれもしんどく感じる。
職場の日常が、急速に現実を引き戻した。まるで、夜が明けて、昨夜の酒が抜けていくように。
現実が、何を浮かれていたのだと自分を責めている気がした。



こんなこと、気付きたくなかった。
気付かないで済むならその方が良かったのに・・・

室井が近くなった。
同時に、とても遠くなった気がした。


ズルズルと、崩れる様にフェンスにもたれ、頭を抱えて蹲る。



一緒に居ることだけで、あの人の枷になってしまう自分が鬱陶しくて仕方がない。
この存在が邪魔でしかない。
自分をこんなに疎ましく思ったのは初めてだった。


「好きだなんて・・・・・・言わなきゃ良かった・・・」
そもそも好きだなんて、言える立場じゃなかったのだ。



止めてやることすら、もう出来ない。
もっと力があったのなら、あの人のために――――俺こそ、迷いなく散っていけるのに。
そうか・・・・俺にはあの人を引きとめるだけの力もないんだ・・・・。
――俺はあの人のために、この身を散らすことすら出来ない・・・・

それが今、無性に悔しかった。


咥えたままの煙草の白さが空の蒼さに少し、滲みた。








室井はいつになく頭を悩ませていた。
明るい昼下がり。
柔らかい春の陽差しが梔子色に差し込むデスクに、そこにそぐわない、ある意味この場所には大変マッチしている顔で
人生最大とも言っていい苦悩をしていた。
こんなに切迫した問題など、仕事にだって、ない。

じっと手元のケータイ画面を見つめる。

開いているのは、さっき受信したばかりの青島のメールだ。
そこには、昨日こんなことがあっただの、無理してませんかだの、室井を癒してくれる言葉の羅列が表示されている。
あれから、青島は折りを見ては小まめにメールをくれるようになった。
それは今では、室井の日課の楽しみになっている。
・・・・でも、一番聞きたい言葉はいつも入っていない。

誘うのはいつも自分からだと気付いたのは、いつだっただろうか。

いつだって、青島は今日あった面白かったことなどを折り混ぜながら、ちょっとした気遣いなども怠らず、キメ細やかな対応をしてくれる。
そういうところは抜かりのないヤツだ。
それは時折、天から降ってくる、神様からのプレゼントのように慈愛に満ち、室井の抑圧された心を穏やかにして くれる。
まるで専用の万能薬のようだ。
あの青島が、自分を意識を向けているのが、思い込みや独り善がりじゃないと思うだけで
その事実は室井を有頂天にさせた。

・・・・・恐らく誰も気付いていないだろうが、ここ最近の室井の眉間は、皺が少ない。


だから最初は全く気が付かなかった。

あれから数度、呑みに行ったが、いつも誘うのは自分からだ。
一度も青島から誘われたことがない。
誘うどころか、そういうニュアンスのある話題をしてこない。
電話さえ、使われたことはなかった。
初めは、こちらの仕事の忙しなさを考慮し、遠慮しているのかと思った。
でもある日、それはなさそうだと勘付いた。
青島なら、駄目元で軽いモーションを掛けるくらい、平気でしてきそうだ。

なのに、その青島から誘いがかかることは、一度もなかった。
最近では、室井からの誘いさえ、仕事を理由に、立て続けに振られている。


何故彼は俺を誘ってはくれないのだろう。
その手の話題を避けている節すらあるのは、何故なのだろう。
会いたくないのだろうか。
逢えば必ずいつも嬉しそうに応じてくる瞳を思い出し、それもなさそうだと思う。
では何故。


ここで室井の脳味噌はいつもキャパシティをオーバーし、必ず堂々巡りな自問自答ループが開始される。
今日も同じ袋小路に迷い込みそうになっていることに気付き、その不毛な労力の虚しさに、慌てて思考を強制終了した。


大きく息を吐きながら、チェアの背凭れにドスンと身を投げ出す。
ギイィとパイプが軋む音がした。



考えられる要因としては、恐らく、自分の立場や経歴を気遣ってくれているのだろう、とは思う。
だが、それをも受け容れた上で、一緒に行こうと決めてくれたんじゃないのか。
こんな遠慮をされるのは、まるで他人行儀のような、余所余所しさに感じられた。

そうして、気付く。
自分は彼のことを、ほとんど何も知らないことに。
事件ともなれば、彼が考えそうなことなど容易に想像できるのに、普段の彼が何を思うのかなど、まるで知る由もなかった。

近い存在であると思いあがっていた自分に、冷水を浴びせられた気分だった。


分かるのは、少なくとも青島は自分が想っているより俺のことを焦がれてくれている訳ではないのだろう。
あの告白も、半ば無理矢理言わせたようなものだった。

だがそれも計算の内だ。
彼の口で言わせることに、意味が合った。
既成事実さえ作ってしまえば、少なくとも一定の愛情は抱いているであろう青島が、明確な拒絶を示すまで青島が自分を避けることはない。
束の間の、都合の良い夢を見ていられる。
その狡さを、己の弱さであると認識しながら、室井は百も承知でその誘惑にあっさりと理性を手放した。

もう引き返すことは出来ない。
あの温もりを知ってしまった。
あの時、初めて身体の全身で存分に感じた温もりが、いつまで経ってもこの身に残っている。
以前も一度、抱きかかえたことはあったが、その時とは比べ物にならないほど甘美な戦慄が身体を走った。
思い返すと身体中が締めつけられるような、痛みとやるせなさに支配される。


自分の止めどない想いに息苦しくなり、室井は片手で眉間を揉みながら、瞼を閉じた。
濫流する甘味と痛みの混じった感情を、それさえも一滴も零したくもなく、その貪欲さに自嘲しながら、諦観の溜め息を吐く。



あの夜は――――彼を失いたくないばかりに、必死で口説いてしまった。
彼とこれっきりだと思ったら、怖くなった。
それは、世界の足元がぐらつくような恐怖だった。
だが、仮初めでも、室井が傍にいることを青島は許してくれた。
それは感動を通り越した衝撃だった。あの青島が自分を好きだと認めてくれたのだ。
あの一言で、室井の世界は反転した。
こんな心強いことはない。
それだけでいい。
このまま、何処までだって行ける気がした。

なのに、彼の気持ちも自分を向いていると知ったら、今度はもっと近づきたいという欲望が湧いてきた。

なんて自分勝手な、とも思う。
だがそれよりも、底のない沼に足を踏み入れるようで、自分の欲望が恐ろしくもある。
たまに会えるだけで良いと割り切っていた想いは、今や、もっと自分と関わって欲しいと腫れ上がった。
人間の欲望は何処までも利己的で際限ない。


近づくべきではないと分かっていたくせに、あの手を離せないなんて滑稽だ。
その烈しい熱を内包した衝動のまま突っ走って良いわけがない。
本来、手に入れて良い存在ではないのだ。
だがもう、失えない。
物分かりの良い振りも、もう出来ない。




重たい瞼を持ち上げ、握ったままのケータイをもう一度見る。
午後のオレンジ色の陽ざしに照らされる手の平の中で、それこそこの場にも、室井の気持ちからも疎外感のある、絵文字や顔文字を使ったメールが踊っている。
“無理してませんか。”
その文字の上を、そっと親指でなぞった。

どこまで欲しがれば満たされるのか分からない。
青島を手に入れたら、楽になると思った。
でも、もっと苦しくなった。
みっともなく縋ってしまいそうだった。




トントンとドアをノックする音で、室井はハッと思考の渦から浮上する。

「失礼します。例の物が用意できました」
「そうか」
「あと5分で会議になります」
「分かった。すぐ行く」

鋭く返事をして、室井は頭を素早く切り替える。
時間切れだ。
チェアから立ち上がり、ケータイをマナーモードに変え、胸ポケットに仕舞う。
卓上に散らばっていた資料を手早く揃え直す。

――とりあえず、この事件が一段落着いたら青島に会いに行こう。

それでは以前と何ら変わりない状態であることに思い至り、再び室井はどうしようもない痛みを放棄するように、その堂々巡りな自分を嘲笑い
それから、本日3度目の溜め息を吐いた。


正直、青島にそういう感情があるとは思えなかった。
そりゃそうか・・・・
やるせない痛みと切なさを滲ませ、苦く笑う。
もっと、と強請るなんて子供のおもちゃとおんなじだ。


清水の舞台から飛び降りるような心情でやっと報われた恋心なのに
室井には手に入れたという実感がまるでなかった。







『青島?』
『室井さん?どうしたんですか?室井さんからなんて珍しいですね。何かありました?』

電話口の向こうから、か細い電波に乗って、青島の柔らかい声が届けられる。
途切れさせたくなくて、室井は無意識に受話器を強く耳に宛がった。

『時間が取れたんだ。今日は早く上がれた』
『あぁ、そうなんですか。良かったですねぇ。ゆっくり休めますねぇ』
『ああ』
『・・・って言っても、もう日付が変わりそうですよ』
『帰れるだけマシだ』

『ですね。・・・もしかして、じゃあ今ちょっと話せます?』
『大丈夫だ』
『よっしゃ!久しぶりですね声聞くのも』
『そうだな』
『相変わらず忙しそうですが?』

茶化すように話す口調が甘えている様で、電話口で室井はひっそりと笑う。

『お互い様だろ』
『ん~?・・・・そうでもないですよ~。俺の方はいつも通りっていうか。あ、そっちは特捜立ってるって聞きました。噂で』
『そろそろ片が付く』
『そですか』
『それに指揮官は私じゃない』
『あれ?そうなんですか?あ、それもそうか。室井さんはもう現場とはそんなに関わりませんもんね』
『ちょっと揉めてな、借り出されたんだ。でももう終わる』
『そっか・・・・さっすが室井さん』

ふっと電話口の向こうで室井が笑った空気が青島に伝わった。
それが素の室井な気がして、青島の顔も思わず綻ぶ。

『室井さん・・・・・また無理したでしょう・・・・?』
『してない』
『即答する辺りが嘘だって言ってるようなものなんですよ』
『・・・・・・・・』
『そんなしかめっ面しないの』
『・・・・・・・見えてないだろう』
『そんくらい分かりますよ』

電話口の向こうから微かに、パァーンとクラクションの音が鳴り響く。

『また苛められたりとかしなかったですか?』
『小学生じゃないんだから。・・・・・またって何だ』
『べっつに。・・・・・室井さん、なーんでも一人で抱え込んじゃうし、マジに捉えちゃうし』
『仕事は普通マジなものじゃないのか・・・・』
『そんなの適当に流しとけばいいんですよ』
『君にかかると、くそまじめに働いている自分がアホらしくなるな』
『そうですよ。それが現代社会の極意です』

『その極意とやらをご伝授願いたいものだな』
『そうですねぇ・・・・室井さんにこそ効果を発揮する秘伝書でしょうね』

『俺に足りないものとは何だ』
『ん~、例えばですねぇ・・・・敵は下からばかりじゃないとかね。上からの攻撃にも注意して・・・そうしたら・・・・』
『そしたら?』
『ステージがクリアできます』

室井の苦笑した息遣いが、耳に柔らかく届けられる。

『君は私を揄いたいのか、馬鹿にしたいのか』
『あれ?心配してるんですけど?』
『・・・・・・』
『まぁた、しかめっ面しちゃって』
『してない』
『さっきと返事、同じですよ』
『・・・・・・・・』

信号に差し掛かったのだろうか、背後の車走音が変わった。
夢の時間も終わりに近づいたと思い、青島は終いの言葉を口にした。

『室井さん・・・』
『ん・・・?』
『お疲れ様です』
『・・・・ああ』
『あの、ちょっとでも声聞けて嬉しかったです。ありがとうございました』
『・・・・・・・・』
『・・・・室井さん?』
『君は・・・・・・声だけで満足できるのか?』

『ふえっ?』

室井の発言とは思えない大胆な言葉に、思わず変な声が出てしまう。

『何言ってんですか・・・・仕方ないでしょ、仕事なんですから』
『私は直接顔がみたい』

ちょっと子供みたいだなと思いながらも、青島も釣られて軽口を零す。

『どうせ、そのうちまた会えるでしょ』
『待てない』
『なに我儘言ってるんですか。珍しいですね』
『本音だ』
『あ・・・・・あのですねぇ・・・』
『時々、君を補給しないと足りなくなるんだ。言ったろ』
『~~~っっ///////』

何故だか普段より饒舌な室井に言葉を無くし、軽くうろたえる。
淡々と、業務連絡のような口調で、こんなことを言うから、性質が悪い。
今だって、表情ひとつ変えていないに違いないのだ。

少しドギマギしながらも、それでも嬉しくて、ふっと青島の肩の力が抜けた。
そう言えば以前までは、こんな駄々を捏ねるような発言は聞いたことがなかった。
もしかしたらやっぱり室井なりに、青島を懐に入れてはくれているのかもしれない。
それを感じて、青島は少しだけホッとしている自分を感じた。


『あのね。そういうことは直接言ってください』
『直接?』
『ええ、耳元ででも囁いてくださいな』
『じゃあすぐそうしてやるから』
『は?電話じゃヤだって意味ですよ』
『現代文明には頼らない』
『男らしい言いっぷりで感動ですけど・・・・・何言ってんですか』
『だから今そうしてやると言ったんだ』
『はい?何、そんな無茶・・・・』
『無茶じゃない』
『冗談・・・・』
『冗談は言わない』
『・・・・ん?』

なんか会話がおかしい。

『無理言わないでください』
『無理じゃない』
『あの・・・?』
『私は基本は無駄なことをしない性質だ』

『・・・・・・・・・って!ちょっとアンタ、今どこにいるんですか?!』
『ここまで来てみれば分かる』
『“来てみれば”?・・・・・・って・・・?』

時刻は既に11時半を回っている。
そんな時間に、まさか駅だの街だのまで出て来いだなんて室井が言うとも思えない。

『乗るのか?乗らないのか?』
『ええぇっ?何の話・・・?!ちょ、ちょっと待・・・っ』

青島の頭が混乱する。
どういうことだ?

――まさか!

駆けよって玄関の扉を壊れんばかりに押し開けた。
街灯が照らす電信柱の向こう。
見慣れたコートがあった。

『な!あ・・・っアンタこんな時間にそんなことで何やってんですか!!』

思わず電話越しに大声で怒鳴る。
すると受話器の向こうから甘い息遣いと押し殺したような声が伝わってくる。

『驚いたな、おまえ』

耳元で響く、青島を揄うような声音は、ともすれば凄くセクシャルで、年上の大人の色香を漂わせた。
一瞬身体がカッと熱くなったのが分かった。
それを意識したくなくて、ぶっきらぼうに言い返す。

『あ・・・ったり前でしょうが!!』

靴を適当に引っ掛け、素っ転びそうになりながら、表へと駆け出す。

――室井さん!室井さん!室井さんっ!

アンタ、何しに来たんだよ!
何もかも忘れて、階段を駆け下り、道路を横切り、ガードレールを飛び越える。
ここ最近ずっと考えていた室井への後ろめたさなど、まるで脳裏から消えていた。
目の前の室井だけに一心に集中していく。

室井もこちらへ向かってくるのが見えた。
青島はわき目も振らずに走った。
あと一歩というところで手を伸ばしたら、先にその手をグッと掴まれ引き寄せられる。
あ、と思う間もなく軽くきゅっと胸に抱き止められて、室井の匂いが一気に充満した。

息が、止まるかと思った。

「むろいさん・・・・」
「久しぶりだな」

耳に直接聞こえた声は、電話口より掠れていた。







「すいません。何にもないんですけど」

そう言って、足元にある服だの雑誌だのを足で隅にスライドさせながら、青島は室井の座るスペースを確保する。
両手で持ってきていた缶ビールを、コートを脱いでいる室井へと差し出した。

「いや・・・いい。充分だ」

結構大雑把な青島を横目で笑いながら、室井も脱いだコートを畳んで適当に床に置くと、そのまま腰を下しながら缶ビールを受け取った。



――緊張してるよな俺・・・・っていうか、俺んちに室井さんが座ってるよ・・・・・信じらんねぇ・・・

ハンガーを渡したり、クッションを差し出すことも忘れ、青島はこの状況の異様さと不自然さに付いていけずにいた。
元営業の人間としては、ターゲットへの細かな気配りは基本業務の一環であって
そういうさり気ないフォローを、青島が忘れたことはない。
それら全て吹っ飛んでいることが、今の青島の動揺を如実に露わしていた。

職場でしかあったことのない男が、今、自分の部屋で寛いでいる。
室井の背景に、自分の部屋のカーテンやらコンポやらチェストなんてのが、並んでいる。
受け容れきれない違和感がそこにあった。


「エビスじゃないか。いいもの呑んでるな」
「スペシャル用です。普段なら黒ラベルですよ」
「いいのか?」
「勿論!」

人指し指を立てて、青島が自然にウインクしてみせた。
様になるな、と思いながらも、室井は頷いた。

「ありがとう。有り難く頂く」
「どうぞ。・・・・あ、つまみとかどうします?・・・・作ろうと思えば少しはある・・・かな?どうだっただろう・・・・」
「気を使うな。構わないぞ別に」
「すいません・・・」

もう一度謝ってから、青島もフローリングへと直接腰を下ろした。


遠くを走る幹線道路の音がやけに耳に障る。
しんと静まり返った室内は、キーンと耳鳴りが聞こえそうな程、空気が張り詰めていた。
呼吸する音さえ聞こえるようで、青島は何だか部屋の酸素まで薄くなった気がした。



さっきは突然のことに我を忘れ、思い切り突っ走ってしまった。
でも、再び我に返ると、赤面するより先に、状況の不味さが際立ってくる。
会わない間に独り決意したことが、重たくその意味を擡げてくる。


やっぱり、室井の傍にはいられない、と思った。
でも、告白されたことで、青島は逃げ出すことさえ、出来なくなってしまった。
あの時の告白が、青島をここへと留めて縛り付ける。

だったら、少なくとも、これ以上近づいては、ダメなのだ。
俺が、この人を守るには、そんな消極論しかない。
それは、極端に判断が偏り、ネガティブになって、そう思うのではない。
室井の未来や立場を冷静に考えても、その方が正しいだろうという本質みたいなものが、強くそう思わせる。
それが唯一、今の青島に出来ることだった。

何てちっぽけで稚拙な内容なのだろう。
その程度のことしか俺は出来ないのか。
その惨めさこそが、室井と青島の落差であり、今の自分の置かれた価値を表わしているように思えた。

情けなくて、涙も出やしない。



青島には室井にしてあげられることなんか何一つない。
この人はそれを知っているのだろうか。

青島はきゅっと、缶ビールを両手で握りしめた。
そんな青島に頓着せず、室井がカシュとプルトップを引いて、ビールを開封させる。
開封音が、いつもより大きい気がした。


逃げることも、受け容れることも出来ずに、ただ焦がれ、逸る心だけが先走り、その身を割れそうに軋ませる。
誰かを大切だと想う気持ちが、こんなにも苦しいものだなんて、初めて知った。
何より心をざわつかせるのは、圧倒的な立場の違いを踏みにじっているような、冒涜だった。
だったら、そもそも傍に在るべきではないのだ。室井のためにも。

遠くで想っているだけで満たされていたあの頃のように、穏やかにこの人を想えたなら。
こんな気持ちにさせられるくらいなら、この人の気持ちすら、知りたくなかった。


酷く、後悔していた。
でも、今更後悔したって、もう遅い。

俯いて、プルトップを引っ張った。
カシュっと空気振動した切裂音が、やっぱりいつもより大きい気がした。




~~~~~~~


沈黙に耐えかねて、先に口を開いたのは、やはり青島が先だった。

「・・・・なんか、静かですよね。いつもはもっと煩い気もするんですけど。テレビでも点けましょか」
「ああ・・・・・。いや・・・・いい。それより何かしていた途中だったんじゃないのか?雑誌が広げられている」
「それは今日、真下から借りてきたヤツです。別に返すのはいつでもいいヤツだから・・・」
「そうか・・・」

「なら・・・久しぶりに会ったんだから君の話が聞きたい」
「俺の話?そりゃ確かに色々ネタはありますけどね。でも室井さんはあんまり話してくれてないですよ」
「そうか・・・・?」

そう言って室井は宙を見上げ、眉間に皺を寄せた。






ここ数日、後悔で凹んでいた気持ちの反動で、なんだかどんな顔をして良いのかが分からなかった。
顔も強張っている気がして、青島は両手で自分の頬をピタピタと触る。
あっちこっち視線を彷徨わせた末に、ちろりと室井を盗み見ると、くいっとビールを煽っていた。
少しだけ伏せた黒く睫毛に釘付けになる。

その顔が平然と見えて、やっぱり胸が少し痛んだ。


どんなつもりで告白したんだろう。


あの冬の夜が淡く綿毛のように蘇る。

青島的にも、あの告白は不意打ちだった。
気付いているんだか気付かない振りをしているんだか、自分でもよく分かっていないどこか曖昧で不透明な輪郭を持った感情を
勝手に見事に結実させられてしまった。

――開き直るとほんっと強引っていうか強気だよなぁ室井さん・・・

あの夜から青島の中に何処かくすぐったいようなふわふわした何かがずっと残っている。
あの日呑んだ酒がずっと醒めないような、そんな酩酊感が身体中を巡っている。
ともすればそれは、奥深くをじんわりと灼き尽かせ、酷く青島を惑乱させた。
やっぱり、嬉しかったんだと思う。


いつも何かに抑圧され、閉ざされた世界で自分の感情を押し殺して生きている人だと思った。
だからあの告白は意外だった。
あんな風に自分の気持ちを伝える人だとは思えなかった。

あの夜の、あの人の拳が強く握られていたことを鮮明に覚えている。
この人は、いつもそうやって自らを律して、すべてを呑みこんでしまう。
その身の内に、誰よりも真っ直ぐで烈しい、解放を求める感情を、厳しく抱えたままで――


あの時――本当は逃げてしまいたかった。
いつになく、射抜くような視線が強すぎて、逃げ出したかった。
でも、その拳を見た時、この人はまた、抱えてるって、思ったんだ。

だからこそ、そんな彼が禁忌を犯して伝えてくれた想いを、精一杯受け止めたいと思った。
この人もまた、俺と同じように何でもしでかしそうな危うさがある。
だからせめて俺だけは遠くで理解者でいるつもりだった。
俺が役に立つなら、幾らだって、何だって。

そしてもし、許されるのならば・・・・・ちょっとだけ特別だと思ったままで。

今日だって、こうして、逢いに、来てくれた。
きっと、トクベツ、なんだ。


でも、と思う。



ぎゅっと眼を瞑る。
傍に居る以外、何にも出来ない。そして、今は、それさえも・・・中途半端だ。
確かに室井は傍にいてくれとは言ったが、でも、いつまでとも言わなかった。
今、必要なのだと言った。
ならばそれはいつまで?
どこまで俺は赦されている?そもそもそのことに何の価値が与えられる?
本当に、このひとに俺は必要なんだろうか。

近づかなければ気付かない現実だった。
・・・・あの告白を受け、青島が一番に望んだのは、今一緒に在ることではなく、この先をずっと共に歩むことだった。
そもそも今が必要だという室井とは、出発点からして違うのだ。
ならば最初から、このひとは――・・・・!

――だったらなんで告白なんかしたんだよ・・・っ。室井さん・・・っ。



みんなみんな、幻のように無かったことに出来たらいいのに・・・。
あの夜が、俺が見た、都合の良い幻だったら良かったのに――・・・


あの夜が、まるで一夜の夢のように縁取られていく。

都合のよい夢の見ていたのは俺だけで。
だけど律義なこのひとは、もうきっと俺を見捨てられない。

こうして日常に埋もれている間に、この人の面影も埋もれていってはくれないだろうか。
このまま俺が連絡しなかったらどうなるんだろう?
この人は俺をちゃんと見捨ててくれるだろうか。
――そうして共に歩む明日に、俺は、この人にどこまで関わることを許される?


様々な感情は、入り乱れ交錯し、青島の息を詰まらせた。
僅かな隙間を求めてきた室井の意思と、その程度で満足出来る室井の愛情との、果てしない温度差が、ひたすら凍みる。
そして、それを責める権利もなく、何も返せない自分と、共に在ることすら赦されない現実が
今は、痛かった。



「えっと・・・・今日は、どうしたんですか?」
「唐突だったことは謝る。邪魔したのなら申し訳ない」
「いえいえいえ。まさか。嬉しいですけど・・・・何かありました?」
「いや・・・・・・そんなことはないんだ。そうじゃなくて・・・・」

言い辛そうに室井が言葉を探している。
それをぼんやりと見つめながら青島は、ここずっと考えていたことを、再び反芻していた。
何度も何度も、繰り返し自分に言い聞かせないと、自分が崩壊していきそうだった。






~~~~~~~~


少しだけ俯き加減で、少しだけ元気のなさそうな青島の顔を、室井はじっと見つめた。

青島の顔を見たら、今夜奇襲をかけた勢いなど、すっかり治まってしまった。
本音が見えなくて、不安に駆られて、時間の都合がついた勢いに任せて、追い立てられるように、ここまで来た。


青島は、あれから、誘いにもほとんど乗ってくれなくなった。
何度誘っても、言葉巧みに会話に乗せられ、浮ついた気分に昂揚し、気持ち良く対話を終えれば、最終的には誘いは断られていた。
くっそ、と思い、再度挑戦するが、結果は同じだった。

相変わらず、優しさに満ちたメールだけは絶やさず届けられる。
それが返って異様さを仄めかした。

これまでだって、濃密な友好関係を築いてきた訳ではないから、これで普通だと言われてしまえばそれまでなのも、苦しいところだ。
何処かに何か違和感が残る青島の態度に、でも具体的に何が不穏なのかとも言える状況でもなく
悶々とした日々に、次第に煮詰まっていった。
ただ、本能的な何かが警告信号を奥から発していた。

――青島に逢わなければ。

急き立てられるように、理屈も事情もなく、今動かなければという強迫観念に迫られ、仕事が一段落したこの機会に――――半ば疲れや過度の鬱屈からの反動も あって――
気が付いた時には、発作的に青島の自宅へとタクシーを走らせていた。

ほぼ勢いだけで行動してしまったため、用件を問われると、何ともバツが悪い。
青島の顔を見れただけで満足してしまった部分もあるし
いざとなると、何処から何をどう話したら良いのかも、皆目見当がつかない。
自分の要領の悪さを痛感するが、それよりも何の準備もなく、また突っ走った自分を恨めしく思った。

――これでは暴走癖のあるのは、俺の方だ・・・・。



軽く息を吐くと、開き直って、室井は部屋の中をぐるりと見渡した。
初めて入った青島の部屋は、思った以上にすっきりとしていて、何やら色々散らばってはいるものの殺伐としている。
少しだけ、意外な気がした。

「なんだか割と質素なんだな」
「何がですか?」

思わず口に出てしまった言葉に、青島が顔を上げる。

「シンプル・・・?いや、もっとこう・・・派手でゴチャゴチャしているのを想像していた」
「・・・・・・さり気なく失礼ですね」
「あ、いや・・・・そういう意味ではなかったんだが・・・・。色んなものがあるんだな」
「ああ、ついつい集めちゃうんですよね~」
「そうなのか・・・・」

粗雑に彩るカラトリーの隣に、見慣れた煙草のストックが山積みになっているのを見つけ、室井は何処かほっとした。

「室井さんは物を持たなそう」
「そんなことはないと思うが」
「えぇぇ?生活にコダワリとかあるんですか?」
「酒とスーツなら腐るほど並んでいる」
「ははっ、そうなんだ」
「今度来い。呑ませてやる」
「・・・・・今度ね」


そう言う青島の顔に、一瞬だけ痛みを堪えるような感情が浮かんだことに、室井は気が付いた。
それが、ほんの少し、室井の胸にずっと燻る重い感情とシンクロしたことに驚き、青島の顔をまじまじと見返す。
しかし、青島の顔にその感情が浮いたのは一瞬で、今はもう何の感情も浮かんでおらず、
その正体を突きとめようと集中したが、手に取れそうで掴めないまま、その答えもすり抜けていった。





~~~~~~~


会話が途絶えると、再び、どこかぎこちない、重たい空気が充満する。
以前室井と二人きりになった時は、もっと柔らかい空気が二人を包んでいた気がする。
もう、そんな風には戻れない侘びしさを感じて、青島は小さく息を吐いた。

とりあえず、女々しくここで悩んでいたって仕方がない。
折角室井が訪ねてきてくれたのだから、それなりの対応は社会人として礼儀だろう。

青島はうっし、と心の中で気合いを入れ、気を取り直した。
滅多にないこんな時間を堪能しないのも勿体ない話だ。


「あ~~・・・、そう言えば、よく俺んち分かりましたね?」
「番地があれば普通来れるだろ?」
「・・・え?誰かに聞いて来たわけじゃないんですか?ここ、結構入り組んでいたでしょ?」
「住所くらい簡単に照会出来るだろう」
「え?そういうもん?俺の個人情報って・・・」
「無いも同然だ」
「げぇ」
「・・・・・嘘だ。ちゃんと手続きを踏んで調べたから、心配はするな」

それはそれで何かが可笑しい気はしたが、敢えて流す。

「大体何で調べたんですか?」
「君が教えてくれないからだ」
「へ?聞かれれば答えましたよ?」
「・・・・・・・」
「室井さん?」
「言えるか」

顔を逸らし、もう一度小さな声で、言えるか、と室井は繰り返した。
きょとんとして青島が小さく表情を崩すと、ようやく室井がその視線だけを戻す。
少しだけ頬が紅かった。
照れているのだと分かり、ちょっと面食らう。

こんな顔するのかよ・・・?そんな表情されるなんて、反則だ。離れ難くなる。もっと知りたくなる。


「えっとー・・・・それで・・・・・・職権乱用しちゃったんですか?」
「身も蓋もない言い方だな・・・・」
「あ・・・・・・」
「君が何処で暮らしているのか、見てみたかった。その・・・・・迷惑だろうとは思ったんだが」

室井の目が、頼りなく下を向く。

「なんで?」
「だから・・・・・。私は君のことを、何も知らないんだと思い知らされたんだ・・・」
「そんな・・・ことは・・・」
ない――と、言おうとして、自分たちの不自然な距離感に、青島も今更ながらに気が付いた。


精神を抉るように共鳴し、誰よりも鮮烈に触れ合ってきたにも関わらず
それは長い人生の中の、たった一瞬の花火のような燃焼であって、自分たちは、その一点のみの繋がりしかない。
その他の、もっと人間的な関係は、何も知らなかった。

「君の、プライベートなことなど、私は何も・・・・知らない」
「そう、かも、ですね」
「そんなことまで、私が知っちゃ・・・駄目か?」
「いぃえ!ぜんぜんっ!」
「だったら君も少しは協力しろ」
「それは・・・・・スイマセン」


室井が柔らかい視線を向け、肩を小突いてきた。
なんだか本当に、普通の友達のような気の置けない空気が流れる。
室井が、新たな関係を模索しようとしてくれていることは、なんだか擽ったかった。

そう言えば、ケータイの番号を教えてくれとも言えなかった人である。
何にも欲しがらない様な顔をして、でも本当は誰よりも熱く燃えるものを秘めている。
一度決めたことは一直線で周りを鑑みない。
そういう人なのを、青島は知っていた筈だった。


こんなことにならなければ、そもそもこういう出会いをしてなければ
こうやって、この先も少しずつお互いを知っていって、唯一無二の間柄を一緒に築き上げていけたのだろうなと、遠く思う。
只の友人にすら、もう、してもらえない。
それを寂しく思う日が来るなんて。


「そういや室井さんも、けっこー無茶する人でした」
「普段からリスキーなことしているような言い方をするな」
「何だよ、一緒に暴走したくせに」
「必要な時には走れと教えてくれたのは君だ」
「俺のせいにするんですね・・・・」


このひとの、こういう、人への接し方が、好きだった。
見えにくいけど、人を思いやる、惜しみない情を注ぐ直向きさが。
・・・・ああ俺、このひとのことを、本当に大事にしたい・・・・

そんな単純なことに、告白されてから気付くなんて。



ふっと室井の手が伸びてきて、柔らかく青島の髪を梳いた。
「君を、もっと知りたい」

ドキリとしたことに気付きたくなくて、ふるふると頭を振って、室井の手を解く。
冗談にしてしまいたくて、軽口を叩いた。

「な・・・に、言ってんですか・・・・・・脈略ないですって」


室井の眼が、職場でとは違った色をする。
そんな眼は、知っていた気もしたが、初めて見た気もした。
唯の“知りたい”じゃないことは、容易に察せられる。
本能的に、マズイと思った。

今は、これ以上の二人の関係に深入りする話題は、したくない。



「何の寝言言ってんですか。俺らのイチバンは仕事、でしょ」
「それは・・・・・そうなんだが」
「警察の未来構造と自治権の齎す役割と効果?・・・について語り明かしましょうよ」

室井が眼を丸くして凝視した。
それを見届けた青島が、ニヤッと笑い、意地の悪い笑みを見せる。
一拍置いて、室井が、釣られたように眼を細め、微かな吐息と共に、屈託のない笑顔を浮かべた。

――あ、今のこのひとは、本当に素なんだ・・・・

滅多に見れない、打ち解けたその表情に、青島の眼が釘付けになる。
自分たちは今、そういう関係なのだと、改めて思い知らされた。

心臓が、大きくひとつ、鼓動を打つ。



どうしてこうも傍にいると、恋しさが募るのだろう。
どうしようもなく、失うことを恐れてしまうのだろう。
傍に居ると、呼吸さえ儘ならない。
関係をバレないようにしたら、少しはこの曖昧な夢も長引くだろうか。
未練がましい自分を心底下らなく否定しながらも、今は、胸が痛むのだけは、どうしようもなかった。

焦燥感と不安感の入り混じった忙しない感情が交錯し、みっともない自分を知られたくなくて
息苦しさのままに思わす目を瞑り、青島は現実を閉じた。



・・・・・・これまで――冬に室井が酒に誘ってくれるまで、青島が自分から連絡しなかったのは、何とも想って いなかったからではない。
むしろその逆だった。
少ない邂逅の中で、思う以上に気が合い、分かち合える相性の良さを、本能的に感じた。
同時に、青島が少し強気に甘えれば、きっと室井は赦してくれるだろうという、室井の甘さも本能的に察知していた。

だとして、個人的に彼と逢って自分はどうしたいのか?
まさか友達付き合いをしていくつもりなのか?
親友顔して、プライベートまで踏み入って、お互いの境界線もあやふやになって・・・・

その、想像し得る空想の全てに、何処にも無理も限度も見えない関係に、返って、怖気づいた。


友達なら馬鹿もできるけど、彼とはそういうのとは違う気がする。
軽はずみに誘い出すことは躊躇われ、揺れる心を誤魔化すように普通を装おうとして、それでも特別な位置を失うのは恐怖で
コンタクト先を何も知らない間抜けに気付いた時には、頭を抱えた。
本店に電話する大胆さはさすがになく、待ち伏せするだけの度胸さえ、あの人には出来なかった。
そこまで勝手なことをしたら、何かが狂ってしまいそうな予感がした。
進むにしても、戻るにしても、変わるのなら、もっと大事にしたかった。
そんな中、不規則な就業時間は、適度に二人の温度と距離を保ち、体の良い言い訳となった。

そうして、想うだけで越えてきた長い長い逢えない時間は、甘い縛りでこれまで青島を戒めてきた。
空白の時間が、あの時代を宝石に閉じ込める。
まるで、少年時代がセピア色に輝くように。


そんな中、前触れもなく、突然掛かってきた、呼び出しの電話。
その真意がまるで読めなかったが、青島は快諾した。
己に巣食う誘惑には勝てなかったからだ。

その挙句の顛末が――――この有り様である。




「・・・・俺はね。割と飲み会の多い月だったんですよ」

そっと話題を変える。

「そこはいつものことだろ」
「言ってくれますね。・・・あーとーは~、現場の野次馬の中に前の会社の同僚が居て・・・・ちょっと盛り上がりました」
「それは凄い偶然だな」

室井が真っ直ぐに、青島の声に耳を傾けているのが分かる。
そのことだけで、青島の息は詰まる。


「俺のことはすっかり蚊帳の外か」
「メールはいっぱい送ったでしょ」
「俺のことは書いてなかった」
「仕事でいっぱいいっぱいなんです」
「仕事なら文句は言えないな・・・だがつまらん」
「やだな、そんなの室井さんだって同じでしょ」

優しい目が自分をじっと見ていることに気付き、慌てて視線を逸らす。

「そう思うか?」
「え、な、何・・・」
「仕事なぁ・・・・。色々重なってしまって自宅にも帰れなかったりしたんだが、仮眠をとる時間はあったんだ」
「まさかその時間使ってアホなことしたとか、ぬかすつもりじゃないでしょうね」
「アホなことって・・・・。いいだろ別に。怒ったのか?」
「怒ってはいませんけど!でもそういう時はちゃんと寝てくださいよ」
「眠る時は・・・・いつも君のことを想った。もうこれは癖だな・・・
「・・・・っ」
「仕方ない。どうしようもなく、俺の真ん中がお前だ」
「・・・ま・・・たまたぁ~・・・・上手いな~室井さん。そうやって女の子落としてきたんですか?」
「さぁ・・・・・どうだろうな」

そう言って室井が青島を横目で見る。

――何言ってんだ俺。

いつもの軽口が、全然上手く回らない。軽くかわされる。
自分が恨めしくなる。
ヤバイ、俺、今、絶対顔赤い。

室井が声もなく顔を緩ませ、それから、スッと表情を引き締めた。
じっと青島を見つめてくる。
思わず息を呑んだ。

室井がおもむろに手を伸ばし、青島の手を取った。

「そういう意味じゃない」
「あ・・・・・。――そうだ、この間・・・・」
「青島」

言葉を遮るように少し強めに呼ばれて、思わず室井の目を見る。
しまったと思った。

急に室温が上がった気がした。


室井が指を絡めたままにじり寄り、青島のすぐ傍まで膝立ちて近づく。

「ああ、青島だな・・・」
青島の髪をそっと梳きながら、触れたかったんだと、室井が独り言のように呟く。
青島は下を向いて視線を逸らした。

「嘘ばっかり・・・・」
「嘘じゃない」

失敗した、と青島は思った。
会話をはぐらかすのを、忘れてしまった。
指を絡ませられた手をそのまま、今度はしっかりと握られる。
その強さに、茶化そうとした言葉さえ封じられ、ゆるりと空気の流れが変わってしまうのを肌で感じた。

この瞳は、雄の目だ。
急に、怖くなる。そして、室井にそんな眼をさせてしまう関係になったことに、今更ながらに怖気づいた。


思わず視線を逸らす。

「あ、の・・・」
「青島」

言葉をかぶせるように優しい声が落ち、視線だけ上目使いで室井へと戻すと
そのタイミングで意外な程強く、掴んだ手を引き寄せられた。

「ッ!」

不意を突かれ、そのまま室井の胸へと倒れ込んでしまう。
軽く腕を回され、すっぽり包まれた。
きゅっと想いの籠もった力強い手付きで、抱き締められると
甘い、室井の匂いが、強烈に青島を取り巻く。

「・・・ッ」

血液が沸騰する。

「ちょ・・・っ」
「青島・・・・」

耳に小さく囁く声にゾクリとした。



室井がその両腕で、しっかりと青島を腕の中へと抱きこむ。
想像以上に筋肉質な力強さを感じだ。

「何で嘘だと思う?」

耳元で唇が触れるほどに、柔らかく囁かれ、思わず身体を硬直させる。
室井の熱を直接感じ、ようやく我に返り慌てて身じろぐが、無防備なまま抱き込まれた身体は、思いの他しっかりと拘束されている。

「おまえが足りなくて会いに来た」

耳元で囁く声に、期せずビクリとしてしまい、その反動で強く室井の胸を強く押し退けた。

だが、腕の拘束は解けない。
室井が至近距離から、驚いて青島を見返した。


室井の腕の中で、片手は未だ繋がったまま、硬直している状態の青島を見て、その室井の顔が少しだけ緩む。
青島の顔は真っ赤に火照り、戸惑った色を浮かべている。
あまりの初心な反応に、室井はそっと額をくっつけた。


「おまえが言ったんだぞ」
「・・・・・・・・なにを」
「耳元で言ってくれって」
「・・・・っ」

しばらくそのまま二人して見つめ合う。
口の端に室井が少しだけ笑いを滲ませた。

「もしかして・・・・・俺で遊んでます?」
「心外だ」


この流れは本当に不味い。
青島は口を一文字に結び、心の中で舌打ちした。


社交術なら長けているつもりだったし、人を誤魔化すのも誘導するのも得意だった筈だ。
会話のペースを握るのも、いつだって自分だった。
なのに、何だこの有り様は。

室井相手だと、どうも調子が狂う。
というか、今日の室井は誤魔化されてはくれない。
こんなに簡単に、室井の作りだす空気に取り込まれ、自分を持っていかれている。

室井のために、自分を殺さなければならないことが、青島のペースを酷く乱していた。
先程までの噛み合わない空気が和んだのは有り難いが
こんな風に触れられるのは、酷く困惑した。
脆弱な決壊が、いとも容易く崩壊していく。
ましてや、まだ離してくれない右手がヤケに熱いのも予定外だ。

折角の決心なんて、室井の前では、霞のようなものだ。
それは、自己を保ち続けることさえ侵す、膨大な不安感を伴って、青島を浸食した。



賢明な言葉が何も見つからず、青島が黙ったままでいると、室井も黙ったまま、手首を掴み直し、先程よりも力強く青島を引き寄せた。

「・・・!」

頭を抱え込まれ、ぎゅっと力を込めて胸に抱き込まれても、青島は抱き返せない。
その強さに胸が軋む。
抗いもできず、尻もちをついたまま、腕の中で硬直した。

室井の勢いに、ただ、呑まれていく。
男の胸板、室井の匂い、体温。全てが青島を抗い切れない酩酊感へと落としていく。



室井も、柔らかい茶褐色の髪を、片手で思うままに梳きながら
ただ、黙って青島を抱き締めた。

ゆっくりと顔をズラし、室井が至近距離で瞳を覗き込んでくる。
すると、つい今しがたの揄うような表情はすっかりと影を潜めた、思いの他、真剣な瞳と出会い
その視線の強さにも押されて、今度は視線が外せなくなる。


室井が躊躇いがちに口を開いた。

「その・・・・・おまえは・・・・・」

青島が、視線だけそっと揺らす。

「君は・・・・少しは、俺に会えなくて寂しがったりしてくれているのか・・・・?」

黒目がちの瞳が、深みを漂わせて青島を見つめていた。




その質問は反則だと思った。
答えられる訳がない。

このまま、この魅惑的な誘惑に、堕ちていきたくなる。
でも、このひとが、大切だから。
穢せない。
突き放すのが、優しさだって時もある。

俺たちは、最初から近付いてはいけない運命だったんだ。




沈黙したまま応えない青島に、室井も何も言えないまま、時計の秒針だけが部屋に響いていく。

青島の瞳に、一瞬、痛みと切なさが滲んだ。
ハッとして、見つめ直すが、一瞬にして消えていく。

――なんかその顔は、さっきも見た気がする・・・




「――です俺は。このままで」
「え?」
「あ~・・・えっと・・・やっぱテレビでも点けますか!」

手だけは絡ませたまま、青島は顔を逸らし、聞き取れないような声で言う。
思わず聞き返したのだが、青島は突然口調を変えて、その感情を隠してしまった。

「丁度深夜のニュースの時間ですよ。観るでしょ?」
「青島?」
「あと、室井さん・・・・寒くはない?ビールももう一本持ってきますね」

そう言って、青島が強引に手を振りほどき、膝を立てる。
腕の中に冷気が入り込み、温もりが消えた。


「おい・・・」
「つまみないけど・・・・・イケるっしょ?」
「青島って!」

室井は青島の二の腕を掴み、立ちあがろうとしたのを強く引き止める。

――何か、やっぱり変だ。

その態度に、その貌に、その瞳に。
ようやく意を決することが出来て、室井は、ここ数日気になっていた結論を口に乗せた。

「どうして俺を避けるんだ?」







青島が舌打ちして顔を逸らす。
誤魔化されてくれない室井にもイラついた。

「避けてなんかないですよ。もう何言ってるんですか」
そう言って掴まれていた手をやんわりと振りほどく。


「俺はおまえと話がしたい」

膝立ちで二人、見つめ合う。
青島は、一旦、口を噤み、それから意思の籠った瞳で問い返してきた。


「室井さんは、話、してくれないんですか?」
「え?」
「俺だって、室井さんのこと、もっと知りたいのに。なのにあんた、メールもろくに返してくれないし。漢字一行だし」
「・・・すまない」

上目遣いで、申し訳なさそうに、青島は問い掛ける。

「もしかして、メールは苦手?俺、迷惑掛けてました?」
「そんなことはない。おまえからのメールはいつも楽しかった」
「嘘じゃない?」
「ああ。普段のおまえが知れて、嬉しい。それにちょっとした息抜きにもなる。もっと欲しいくらいだ」


正直に言うと、青島は悪戯っぽく笑った。
片手で青島の前髪をそっと梳き、瞳を覗きこむ。

「これからは都合を付けて返すようにする」
「随分暇な職場なんですね」

青島が無邪気に軽口を返す。
額に口付けたい衝動を、必死に堪えた。


「絵文字とか使ってくれる訳ですか」
「勘弁してくれ」
「ははっ・・・・でも、個人情報検索されるより嬉しいですよ俺」
「・・・・・・・怒ってるんだな」
「じょ~だんですっ。怒ってはないですっ。でも俺のことで無茶はして欲しくないですよ」
「――分かった。今度からは電話にしよう」
「それは無理とみました」
「努力する。夜中でも構わないか?」
「・・・・・はいっ。楽しみにしてます」

そう言って微笑み合う。

絡められた指先をきゅっと、分かるか分からないかの、微かな力加減で握り返した青島が、伏せ目がちに甘く呟く。

「ねぇ・・・。室井さんの話もしてくださいよ・・・。普段何してるのとか、何考えるのかとか・・・俺も知りたいです・・・・」
「・・・そっか」
「俺が知りたいっていうのは・・・駄目?」
「・・・いや・・・・嬉しい」

青島が勝ち気な瞳を煌めかせる。
「ビール、もう一本いりますよね」

今度は素直に頷いた。


台所に消える、嬉しそうな青島の後ろ姿を満足気に見送りながら、室井は自分のメールを楽しみに待つと言ってくれた青島の姿を想像して、一人、心の中でほく そ笑む。
胸ポケットに入れたままのケータイが、会えない二人を繋ぐツールだと思うと、まるで思春期の初恋のようで、むず痒い。
それでも幸せだと思えた。
青島の気持ちが嬉しくて、そっと胸ポケットを撫ぜる。

――このケータイを、ずっと撫ぜては甘くも憂鬱な気分で過ごしたこの数週間が嘘のようだ・・・・

ハッとした。


結局、青島は最初の質問に答えていない。
“何故俺を避けるんだ”
違う。巧みに、甘えたふりをして、はぐらかされたのだ。





~~~~~~~


「むろいさーん。いつのか分かんないけど、何か色々あったー」

青島がビールを右手に、左手には缶詰をわし掴み、ツマミらしき袋を咥えて戻ってきた。

「・・・・消費期限は」
「分かりまひぇん」
「袋を齧ったまま喋るな」
「ふぅわ~い」

ビールを受け取り、袋を下から引き抜く。
青島も腰を下ろした。
その場所が、さっきより遥かに遠くなっていることに、室井は眉を顰めた。

「あっれー?リモコン何処行ったかな」

テレビも点けるつもりなのだろう。
完全にさっきまでの会話は終わりだという、青島の無言のアピールだと分かった。


青島を詰りたい訳ではない。でも、ズルイ、と思った。
いつもは何でも室井のことは真摯に向き合い、話もちゃんと聞いてくれるのに、肝心な今、向き合うことすらしてくれない。
嫌なら嫌だと言ってくれれば、まだ手の打ちようもあるのに、それもさせてくれない。

逃げる気か・・・。



室井は眉間の皺を深め、単刀直入に口を開く。
元より、まどろっこしいやり取りや、小器用なトークスキルは持ち合わせていない。

「青島」
「はい~?」
「俺の質問に答えてくれないか」
「質問ってー?」
「俺を避けてないか?」
「まさか」

青島は間髪入れずに、リモコンを探しながら返事をする。

「青島、こっちを向いてくれ」
「なんですか?」
「話がしたい」
「何の?・・・あ。室井さんの話を聞くんでした。ちょっと待って・・・」
「いや。まず君の話からだ」
「俺の話?普段の馬鹿話ならそりゃ幾らでも出てきますけどね?」

まだ、こちらを向かない。
室井はそんな青島を後ろからじっと見た。

――これでは埒が明かないか・・・。



視線を外し、伏せ目がちに呟く。

「君が――俺などよりも、もっと気の許せる友人が多くいるだろうことは察しがつくし、多分沢山の女性もきっと俺より近くにいるのだろう」

青島の、リモコンを探す動作が止まる。

「彼らに今更嫉妬出来る男じゃない。女性たちと張り合える口説き文句もない。だけどな、それでも俺たちの間にあるものは、それ程、遜色ないものだと思って いたのは俺の勘違いだったか」
「何・・・・・何言って・・・・そんな訳ないでしょ」
「俺はお前の傍にちっともいられない甲斐性無しだし、愛情なんかも口先だけだし、信用なくされても仕方ないんだが――」
「・・・・・・・」
「俺が不甲斐なく頼りないのは重々承知だが・・・・でも君を――」
「違うって!室井さんは悪くないですよ・・・・!俺が・・・っ」

そう言って青島は振り返った。
微かに室井の片眉が持ち上がる。
その室井の目を見て、青島は、はめられたことに気が付いた。

「・・・・っ!」

これでは隠し事がありますと宣言したようなものだ。


「・・・・・・」
「・・・・・・」
「ズルイよ・・・」
「おまえが隠すからだろ」
「何も隠してなんかないっての!こんなやり方、卑怯ですよ!」
「この程度の誘導尋問に引っ掛かるおまえが甘いんだ。というか・・・・引っ掛かってくれるとは・・・思わなかった・・・」
「・・・・・・」



少しだけ頬を赤らめ、再び向こうを向いてしまった青島に、室井は膝立ちで近づいた。
逃げた青島の方が、驚き、傷ついた顔をしている。

――やっぱり避けられているのは、気のせいじゃない。

そう確信する。
漠然とした恐れが胸に色を帯び始める。


近づいて、利きわけの悪い子供をあやすように、青島の頭上に手を置く。
俯く顔を覗きこんで、でも、その瞳に、悲哀や困窮は見えても、室井が問い詰めることへの反感や軽蔑は見えなかった。
そんな気がした。
だとするなら、消去法で、さっきからのこの青島の針鼠のような態度の原因は、容易に想像がつけられる。


「青島?おまえ・・・何を怯えている?」
「室井さんこそ・・・・なに?さっきから変ですよ」

青島は一瞬戸惑ったような瞳を伏せ、しかし次に瞳を合わせた時には、やはりその感情は綺麗に仕舞われていた。
ぽん・・・っと、額を人差し指で小突かれる。
明るく問い掛ける口調は、もう何の感情も映していない。
透明な瞳がきらりと光る。



単刀直入に率直な口を聞く室井に、何でもない口調で返す青島には、よく造られた台本があるかのような高度な社 交性が見えた。
まったく器用なことだと半ば感心する一方で
室井には逆に、胸の奥に芽生え始めた恐怖を、確かに実感出来る。
ほぼ、直感と言って差支えないものだが、しかし妙に会話にも、いつものような、精彩差や、密接感、同調もない。
本来生粋の青島を知っているからこそ、判別できる類のものだった。

いつの間にか、自分たちはこんなにも近い。
それを、受け容れられず、逃げようとするなんて・・・・。

手にした筈なのに、硝子の壁で仕切られているような、この手応えのなさ。
掴みどころがなく、一瞬にして消えてしまいそうな不確かさに、室井の不安は増幅する。

――手放したくない。離れたくない。失いたくない。


破裂しそうな緊迫感と切実な渇望が、完全に室井の身体を支配し、僅かに身体を震わせた。
制御が効かなくなりつつあるギリギリの叫喚。
青島だけには、いつだってこんな風に余裕がない。

室井にしてみれば、青島が自分を拒む事実の方が、とにかく哀しい。
青島に関われたと思ったのに、自分が思う程、室井を受け容れてくれていない証の様な気がする。
ここまで頑なに隠されるのは、想定外であり、それは室井にとって拒絶と同義である。


「・・・・・・」

造り笑顔の青島を、室井はじっと観察するように見つめる。


時間を掛けてゆっくり暴いていくべきか・・・・・いや、多分、今日を逃すともっと完全に隠される。
本気で青島に隠されたら、幾ら室井でも暴くのは困難だ。
ここで捕まえなければ青島はきっと俺の手からすり抜けて消えてしまう。
ここで間違えたら、青島はもう手に入らない。

仮初めでも一度は手に入れた存在が、その手から零れていきそうな切迫感に、身も心も灼き付けられていく。
室井の中の緊張が高まっていく。

“青島を失う”
それは室井の唯一つの恐怖だ。



ついに室井は腹を括り、青島へと真っ直ぐな視線を強く向けた。
もう、こんなまだるっこいやり方なんか、してられない。・・・・待っていられない。
こんなところで、手放してたまるか。


「変、とは?」
「だから・・・こんな風に・・・・距離、近いし・・・」
「おまえに近づきたいんだ。それも言ったろ」
「それは・・・・」

たったひとつの僅かな違和感だけを道標に ――――― 迷いながら、探るように縋る。

「俺は、おまえの本音に触れたいんだ。今のおまえは俺から遠ざかろうとしているように見える」
「そんなこと、するわけないでしょ」
「おまえにそんな顔をさせているのは、俺なのか・・・?」
「違いますよ。俺にだって色々あるんです。室井さんには関係ない」


そうとは思えなかった。

何故ここまで自分を嫌がるのか。
青島はやっぱり自分が嫌いなのだろうか?
――いや、それはない。
室井には根拠のない、しかしそれだけは絶対の確信が合った。
日頃から自分へ向けられる眼差し。笑顔。温かな想い。直向きな姿勢。・・・・・青島にだって、確かな好意はある筈なのだ。
それが恋愛感情でなくても、確実な好意は持っている筈なのだ。

なのに何故ここまで頑なに拒絶する?
告白する前だって、こんな風にあからさまに拒絶を態度に表わすようなことはなかった。

それはある意味、やっぱり不自然だった。
だったらやはり何か別な理由があると見て良いだろう。
何か・・・・・・あったのか?


「それは俺にも話せないことなのか」
「大したことじゃないんで。大丈夫ですよ」
「俺も関係あるだろう」
「俺の問題ですって」
「二人の問題にしてくれないか」

渦巻く気持ちを押さえ込みながら、それでも室井は青島に悟られないよう、静かに腕を取る。
青島の隣に片膝をついて、覗きこんだ。


「頼む。青島。理由を教えてくれ」

青島は身が竦むような脅えを覚えて、室井を頼りなく見上げた。









「お、俺、やっぱり何か買ってきますよ」

そういうと青島はコートを手に立ちあがり、あからさまに逃げるようにドアへ向かった。

――こんな風に触れられるのも、近づかれるのも、みんな反則だ。

言える訳がない・・・。
室井のためだと言いつつ、簡単に意思は決壊していきそうになっている。
自分がこんなに身勝手だったなんて。
結局俺はこんなにも脆く弱く、ずるいのだ。
最低だ・・・!

本当は、惨めになりたくなくて、自分を護ってるだけの、自己中心的に振る舞っているだけなんじゃないのか。

淡い気持ちは、その柔らかさで以って、身体の奥深くまで浸食する。
利他的な想いを隠れ蓑に、利己的な自我に支配されていく。
それさえも罪の一部だと言うのならば、恋から逃れるしか方法はないのだろうか。

魔力とも思える、穏やかな色をしながら抗い難い快楽や快感で以って意思を制し、容赦なく巻き込んでくる甘い呪縛に、息が詰まった。
こんなの、酒に酔うより性質が悪い。
もし、出口があるのなら教えて欲しかった。

青島は、口に甲を当てがい、泣きそうな気分で、玄関へと走った。



「ちょっと待て!」

逃げられる・・・!
こんな状態で別れたくない。

またはぐらかされた、と室井は思った。
慌ただしく、避ける様に視線すら合わさない青島の態度に、室井は心が千々に乱れるような惨痛を感じる。
今だけじゃない。告白した冬のあの日だって、そうだ。
いつだって霞みのように消えてしまいそうで――


立ちあがり、必死に追いかけ、青島の腕を引く。
一瞬ビクっとした後、青島は、それを振りほどこうと、手を払う。

――なんでそこまで頑なに俺を拒むんだ・・・!

嫌いなら嫌いと、イヤならイヤと、はっきり言えないのは、無理をしているのか。
埒の開かない態度に、いい加減苛立ちを隠せなくなってきた室井は、青島の両腕をしっかり掴み込み、乱暴にこちらへ向かせた。
覗きこむように青島の顔を見ながら、子供に諭すような声で言う。

「だったら俺の話を聞いてくれ・・・!」
「話なんて、もうないですよ」
「俺にはあるって言ったろ」
「・・・・・じゃあ帰ってきたら聞きます」
「青島」
「離してください」
「・・・・・離したくない」
「・・・っ!・・・・何言ってるんですか・・・離してくださいって・・・っ」

身を捩って室井の手から逃れようと暴れる。

おぼろげな不安が膨張し、室井から冷静さを失わせていく。
室井はそれでもまだ意識的に務めて自分を抑えつけながら、静かに口を開いた。
喉もカラカラに乾いている。


片腕を強く掴んで、覗きこむ。

「何で、俺の目を見ない?」
「・・・・・」
「青島」

少し強く言うと、青島が横を向いて、一瞬目をキツく閉じた後、もう一度室井を見て、口の端でぎこちない笑みを見せた。

「室井さんこそ、どうしたんですか?付き合った相手は束縛するタイプ?俺、何か気に喰わないこと、しました?」
「そんなことはない」
「そんなことばかりやってると、鬱陶しいって嫌われちゃいますよ。俺も逃げちゃうかも」
「本気で言っているのか」
「本気も何も、最初から半分冗談なんでしょ」

口の端で笑って、青島が僅かに視線を逸らした。

「・・・・どういう意味だ?」
「室井さんだって・・・・・半分は本気じゃないでしょ。同罪じゃない」
「・・・・・・・・」
「今まで通り、適度で適当でいいでしょ」
「・・・・・だったら逃げることないだろ。素直に俺の話を聞けばいい」
「・・・・・っ」

また青島が微かに顔を歪めた。

一向に素直にならない青島に、だんだん室井も焦れてくる。
恋ではないと告げられるなら、それでもいい。
室井にとって最悪な結末は、最初から、“決別”である。
今の状況は、好きではないと告げられるより、それに近い気がした。


漠然とした恐怖と畏れが室井を支配する。

思わず掴んでいた手に力が籠もった。

どうすれば彼の本音が聞けるのだろう。
警官として取り調べみたいなやり方をするしかないのだろうか。
ああ、もう、何で俺はこんなにも口下手なんだ!


「今更何を話すんですか?もっ、何もないですよ・・・っ」
「俺にはあるって言ってるだろ」
「聞きたくありません」
「そういうことも、ちゃんと俺の目を見て言ってくれ」
「・・・・・っ」
「青島っ」

「話がなんだってんだ!女の子じゃあるまいし、ガールズトークして何がしたいの、あんたはっ」
「おしゃべりがしたいんじゃなくて、おまえが俺を避けるから、その理由を答えてほしいんだ」
「だから別に避けてないって言ってるでしょーがっ」
「俺はおまえを助けたいんだ」
「な・・・にからだよっ!別にしてもらうことなんかないっての!」

だんだん口調も怒気を孕み、荒くなってくる。


どうしたらいいんだ。
何故分かってくれないんだ。
どうしたら掴めるんだ。

切実だった想いが危うい部分を侵し、自己制御を失わせる。
苛立ちが身体を支配する。
心臓が烈しい鼓動をしているのが分かった。


「青島っ。・・・頼むからこっちを向いてくれ・・・っ」
「嫌ですっ」
「そんな顔して言っても無駄だ」
「そんな顔ってどんな顔ですかっ。昔からこんな顔ですよっ」
「すごく辛そうな顔してるから言ってるんだ」
「・・・・室井さんの気のせいですっ。大体、言う程知らないでしょーがっ!」
「だったらもっと教えてくれ」
「な・・・・・っ」
「青島って!」
「・・・・しつこいよ!」
「俺を見てほしいんだ」
「・・・・・・っ」
「こっちを向け!」

「も、離せよ・・・っ」
「・・・・っ!」

その瞬間、室井の中で何かが切れた。


片手で腕を強く引き込むと、青島の顎を掴み寄せ、強引に唇を重ねる。
目を見開き、青島が一瞬固まったその隙を見て、腕を引き、反動で青島の身体を勢いよく後ろの壁に叩きつけた。
ガタンという大きな音が、部屋の静寂を破る。
同じく大きな音を立てて、両拳で青島の顔の横の壁を叩きつけ、そのまま角度を変えて更に強く唇を押しあてた。

衝撃からか目を見開いたまま、唇を解こうと青島が首を振る。
嫌がる青島の姿が悲しくて、膝で脚を割り、身体で青島を抑え込んで、そのまま殊更身勝手に唇を押し付けた。


「・・・っ!・・・・!・・・・んぅ・・・・・ぅ・・・っ」

ギュッと目を瞑り、室井の唇を嫌がりながら、青島は乱暴に室井のシャツを引っ張り、室井の胸を押し、身を捩って逃れようとする。
しかし室井は熱く唇を押し当て、逃がさない。
徐々に息が上がっていく。
何度も何度も食すように唇に強く吸い付いては、乱暴に唇を奪う。
微かに漏れる吐息が熱を孕んできて、青島が微かに震えているのが伝わった。






青島がすっかり抵抗を忘れた頃、室井は少しだけ唇を離した。
両肘で青島を囲んだまま、至近距離で見つめる。熱い吐息が唇に掛かり、身体の芯から灼熱した何かが走り抜けた。

やがて、荒い息遣いのまま、青島も薄らと目を開ける。
その瞳は僅かに潤んでいた。


青島が、唇を震わせながら、小さく呟く。

「なん・・・・・何す・・・何で・・・・こんな・・・・」
「おまえが話を聞かないからだ」

小さく答える。
青島は泣きそうな顔をして室井を見返した。


「話を、聞くな?」
「・・・・・・・」

なるべく優しく問うたのだが、青島は一瞬視線を揺らした後、きゅっと唇を噛んで、横を向いた。

「話・・・・・ないです俺は」


まだ素直じゃない青島に、室井は一つ息を吐いた。
片手で頭を包み込むように抱き、身体を密着させる。
青島の顔を覗きこんだ。

「・・・・・好きだって言ったろ」
「・・・・・だから俺もそうだって返したでしょ」

至近距離で問えば、それで充分だろ、と言わんばかりの口調で言い返してくる。

「だったら何でこっちを見ない?」
「室井さんが怒ってるから」
「怒ってるんじゃない。分かってるんだろ」

そう言って室井はまた唇を寄せる。

「・・っ、・・・・やっ・・やめろって・・・っ!」

ハッとしたように、大人しくなっていた青島が顔を大きく逸らして室井の肩を押す。
それでも構わず唇を寄せると、更に身を捩る。
肩から抑え込む。


「ヤです、よ・・・っ・・・何すんですかっ」
「俺が・・・・嫌か」
「そ・・・そうじゃないけど・・・ヤですっ」
「俺はそういう意味で君が好きだと言った」
「オトコですよ・・っ、こんなことまで――」

顎を掴み、先程の様に強引に唇を重ねようとした。

「っ・・・・や・・・やだって言ってるだろ・・・っ!離しっ・・・離せよ・・・っ」
「青島」
「やめろ・・・っ、てば!も・・・っ、何でこんなことするんだよ。何で好きだなんて言うんだよ。何で・・・・っ」
「・・・・・」
「あんたにそんなこと言われて・・・っ、俺、どうすりゃいいんだよ・・・っ」


青島の声はだんだん感情を高ぶらせたものへと変化していく。
見ていられなくなり、嫌がるのを分かっていて、無理矢理唇を寄せると、ついに慌てたように青島が叫んだ。

「だ・・・駄目だって・・・っ!俺たちは触れ合っちゃ駄目だ・・・っ。俺はアンタを穢したくない・・・っ」
「・・・え?」

思わず動作を止める。
青島は顎を持ち上げられたまま、辛そうに顔を歪め、必死に吐き出した。


「近づかなきゃ何も変わらずいられますからっ。誰にも文句も言わせないっ。まだ・・・っ一緒に居られるから・・・っ。まだ傍に・・・っ!だからっ! 離・・・し・・・!」



その瞬間、室井は血が逆流したような灼熱を自分の中に感じた。

力任せに引き寄せ、思い切り掻き抱く。そのまま熱く唇を奪った。
すぐに青島が腕の中で暴れ始める。
室井は唇を重ねたまま、何とか抱き止めようと、腕に力を込めるが、一向に大人しくならない。
口付けを嫌がり、抜け出そうともがく。

荒い二つの息遣いだけが、空気を澱ませる。

室井は、青島の袖を取り、引き寄せ、尚も暴れる青島の奥襟を取ったかと思うと、すばやく両足に払いを掛けるように絡ませ、床に投げ倒した。
そのまま上から強引に唇を重ねる。
逃れようと抵抗する両手首を絡め取って、覆い被せる様に床へと抑え込んだ。
身体全体を使って一切の抵抗を封じ、少しの逃げも許さない。
無理矢理、口を開かせ、今度は躊躇わずに舌を差し込んだ。



もう我慢なんて出来なかった。
我慢なんてする必要もないと思った。
青島が自分を避けるのは室井のことが大事だからだ。好きだから守ろうとしてくれていたのか。俺を好きだから・・・・。
気持ちに、歯止めはもう効かない。
愛しいと思うと同時に、この分からず屋とも思う。
そんな子供染みた言い訳が、いつまで持つと思っていたのか。

そんな生易しい気持ちで青島を想ってきたんじゃない。
もっと飢える様に、もっとヒリつく様に、コイツが欲しくて欲しくてたまらない夜を幾つも幾つも越えてきたんだ。

戸惑いも不安も凌駕して、一切の際限ない欲が膨れ上がる。
その誘惑に抗うことなく身を任せ、室井は青島へと情熱をぶつけた。




青島が口内を犯されながらも、唯一自由になる足で必死に暴れる。
組み敷かれたまま、下から渾身の力で腕を振り払おうと、肘を立てる。
それを室井がまた力づくで、乱暴に押さえつけた。
足をバタつかせ、なんとか拘束から逃れようともがく。

荒い二つの息が、部屋に交差した。

「や・・だ・・・っ!や・・ろって・・・・・も・・・っ」

足元の、家具やごみ箱などが、蹴飛ばされ転がっていく。
室井はますます口付けを深め、何とか掴んだ手首を頭上で力を込めて押さえ付けると、熱い舌を最奥まで差し込んだ。

「・・・・・っ、・・・!!、っ・・・っ」

激しく飢えた野生のように、喰い尽くすつもりで荒々しく唇を押し付ける。


今更――――今更、俺から逃げようだなんて、赦さない。
もうどうなっていもいい。どこまで堕ちてもいい・・・・。身体だけでも心だけでもなく、この男の何もかもを奪い尽くしてやる。
絶対離さない。
絶対逃がさない。
手放してなんか、やらない。


青島の、震えるような吐息と、戦慄きながらも逃れようとする熱い身体が、室井の焦燥感をより加速させていく。
体中を沸騰する青島へと向かっていく激流が、もう止められなかった。






キスと共に、室井の青島を想う膨大な激情が、青島の身体中に襲いかかってくる。

「んんっ・・・・・っ・・・・ぅ・・・・ふ・・・っ」

青島は両足をバタつかせて必死に身を捩った。
しかし上手く拘束が解けない。
広げて押さえ付けられている両手も、身動き一つ取れない。
息継ぎもさせてもらえないまま口内を蹂躙されていく。

――なんで・・・こんな・・・


無遠慮に轟く舌に、身勝手に絡め取られては、その一方的な勢いに巻き込まれていく。

息が持たなくなり、キスを解こうと上を向いて口をズラすと、直ぐに強引に引き戻され塞がれる。
そのまま再び舌で口を解かれ、熱く分厚い舌を、更に奥深くまで口いっぱいに押し込められた。

「・・・ぅ・・・・っ!・・・ッ!!っ・・・・・・・」

顔を左右に振って、なんとか振りほどこうと、もがく。
少し汗ばみ始めた青島の髪が、さらさらと揺れた。

「・・・は、・・・せよ・・・・っ」


何処までも勢いを殺さず追い込まれていくその感覚に、喰われるような錯覚を覚えて、思わす身体を竦ませると
それを感じ取ったのか、少し強めに舌を噛まれる。

「・・・ッ!・・・・ッ!・・ぅ・・・っ」

身体に電気が走ったような気がする。
でもそれを突き詰める訳にはいかない。青島は必死に足をバタつかせた。

このまま室井の勢いに呑まれる訳にはいかなかった。





~~~~~~


既に、時間の感覚もあやふやとなっていた。
なんとかキスを解きたいのに、口内で暴れている分厚い男の舌が圧迫する。
大の大人が真上に乗り上げているのだ。力の差は同じでも勝負は歴然としていた。
目をギュッと閉じたまま、無理矢理、熱く追い詰める唇を受け止めされられる。
両手も相変わらず解放してくれない。

必死に足で床を蹴り、抵抗の意思を示してみる。


口を強引に割って押し込められた熱を帯びた舌は、一時も離れず、息も塞ぎ、口いっぱいに広がっていく。
自分がどんどん室井を穢しているようで、青島は哀しくなってくる。
抗議の声は、口を完全に塞がれているため音にもならない。
息苦しさが、増していく。

「・・・・ぅ・・・・・っ!・・・ッ・・・んんっ!!・・・や、・・・めっ」

暴れている青島の足音と、不覚にも潤んだ吐息だけが、音のない室内に振動する。


押しつけられる唇から時折漏れる、熱を孕んだ吐息。濡れた舌が口内を蹂躙する息苦しさ。絡め取られ引き込まれ る力強さ。
圧し掛かられた身体から伝わる、燃えたぎる熱が、弱さも戸惑いも焼き尽くす。
愛撫というよりは押しつけるような力強い激情に、我を忘れたような激しさに、別人のような錯覚を覚えた。

――こんな激しいキスは知らない。こんな情熱的な室井さんは知らない。こんな大人の男の室井さんを俺は知らない。
室井さんはいつだって静かで優しくて大きくて――・・・・

応えることなんて、思い付きもしなかった。



一番大切なひと。
自分が守りたかった。
同じように俺が好きだと言ってくれるから、俺が守りたかった。
彼の負目にもならず、堂々と守れる力があったなら。
――でも、俺は、近づきすぎると、この人の弊害にしかなれない

少しでも室井のウィークポイントとなるものを作りたくはない。
ましてやそれが自分自身だなんて――。


――もしかして、室井さん、俺のために告白した?
近くで、俺を守るために・・・・残されるものは、こんなのじゃないのが良かった――


俺たちの関係は元々永遠じゃない。この恋は永遠じゃない。
つまり室井はいつか確実に自分の元から去っていく人なのだ。
いつか終わりが来る。

いつか、その気持ちを独りで上手に処理して、在る日突然、消えちゃうくせに。
俺の前から、消えちゃうくせに。
俺のために鮮やかに燃えて、追憶だけ印して・・・
俺のこと置き去りにして――


「や・・・・・・・、・・も・・・っ」

意思すら考慮されず、ただ染められていく。
こんなキスは初めてだ。
塞がれている唇だけが異様に熱い。
目じりに涙の粒が滲んだ。


室井の気持ちを知ってしまって、自分の本音も暴かれて、
それでもそれが赦されるのは、ひとときだけの夢なのか。
俺のために割いてくれた時の狭間で――
俺に、こんなに熱い記憶を遺して。

「・・な、・・・・せ・・・・・っ!」

芽吹いたばかりの恋が、眩しく光る程、この手からすり抜けていく。
こんな哀しい恋なら、したくなかった――



鮮やかに記憶だけ残して消えるのは、俺の方でいい。
それは、彼を失うことからの代償としては、実に甘美で現実味を失わせる程の魔力があった。
だから今は、それだけが俺の愛情の証だったのに――

崩れていく。
守りたいものが崩壊していく。


青島の目じりから、一筋の涙が一度だけ瞬き、光って零れ落ちる。
足だけをバタつかせても、最早何の抗議にもならなかった。





やがて、体力の消耗し始めた青島の抵抗が少し弱くなる。
それでも室井は唇を離さない。
離れようとはしなかった。
青島に覆いかぶさったまま力強く口内をまさぐっていく。
少しでも青島が、この呪縛に囚われてしまう様に。
押さえ付けていた手を離し、両手で抱え込むように青島の頭を押さえ込み、幾度も強く唇を押しつける。頬を両手で掴む。そうして何度も何度も口付ける。


すべてが、熱に浮かされていた。

意識がだんだん朦朧としてくる。
現実感を失い始め、青島は縋るように両手で室井の腕にしがみついた。



バタつかせていた足が動きを止めていく。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく部屋に響く。
それでも室井は唇を離さず、ふたつの影はいつまでも重なり合っていた。






~~~~~~~


荒い息のまま頬へ耳へとキスを降らしていく。

「おまえが好きだ・・・」

柔らかい髪に唇を埋める様にして、耳に囁くと、涙を零れんばかりに溜めた硝子細工のような瞳が、無垢に室井を映す。

「おまえが、どうしようもなく・・・・好きだ」
「・・・・・」
「一人で堕ちていくつもりだったのか」
「室井さん・・・の、ためになれる人になりたい・・・・」


ようやく零れた言葉と共に、ビーズのような雫もパラパラと零れ落ちていく。
優しく微笑んで、室井は額に瞼に涙にキスを落とす。

「でも俺は穢すことしかできない・・・・」


両手で頭を優しく包まれて、頬に耳に唇に、優しいキスの雨が降り注ぐ。
泣きじゃくった後の子供が母親に甘えるように、静かに本音が解かれる。

「室井さん・・・・は、とっても綺麗で強くて・・・・・眩しくて・・・・雲の上の人だから・・・・俺は・・・・」
「俺はちっとも綺麗なんかじゃない・・・・。そんな遠くの人にするな・・・」
「真っ直ぐに前を向いている・・・・あんたを、止めたくない・・・・なのに、邪魔にしかならなくて・・・」
「おまえが支えてくれているんだ。おまえが戻してくれるんだ。おまえがいなくちゃ・・・・俺は・・・」

置き去りにされた子供のような声だった。

「一緒に来てくれ。ずっと俺の傍で。俺と共に人生を生きていってほしいんだ。もう手放したくない。おまえが必要なんだ俺には」
「・・・・・人生って・・・・なんかそれ・・・」

少しだけ青島が頬を紅く色づかせ、口を濁す。
その言葉の先の意味を察し、室井は優しく唇を辿り、そっと奪う。

「似たようなもんだ。おまえのいない一生なんて考えていない」
「俺、室井さんの人生、めちゃめちゃに・・・・・しちゃう・・・かも」
「そうしてくれ・・・・・・。おまえになら、全部、壊されたい」
「恨まれんのは・・・ごめんです・・・」
「恨みでも妬みでも、俺の中に全部残せ・・・」
「後悔しますよ、そんなこと言うと・・・・・」
「なら、後悔もさせてみろ・・・・・」
「あんた、ほんとにめちゃくちゃだ」

優しいキスの雨は降り止まない。
優しく髪を撫ぜる手に促され、いっそ全てを晒しているようなあどけない表情で青島が室井を見上げる。

「既に手遅れだ。おまえが厭がっても俺が厭でも、堕ちるなら、もう一緒に堕ちるぞ俺たちは」
「運命、共にしてるんですもんね・・・」
「約束したろ、あの階段で」

こくりと青島が頷く。

「俺の世界に色を付けたのはおまえだ。責任は取ってもらう」
「そっか・・・・」


生きるのも共に。
堕ちるのも共に。

機械的に処理していく日常に、何の疑問も抱かず、それが普通であることの異常性も気付かず、繰り返していく毎日に何も残らないことにも違和感を感じない日 々に
そこにも意味があることを気付かせたのは、青島だ。
澱んでいた時間が、動き出す。
それに伴う摩擦や軋轢を甘んじて享受する変わりに、全てを貰う。



室井は優しく唇を重ねた。

「もう一人で苦しまないでくれ。俺はおまえの人生も歩きたいんだ」
「・・・・・・うん」




一緒に生きていくってそういうことだ。









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※大好きな漫画の台詞を一つ使わせて頂いております。気付いた方は心の中で笑ってスルー。