「時間を取ってくれないか。酒が呑みたい」


はじまりは突然である。
青島が受話器を耳に当てた時、愛想もない声が
開口一番に、そう言った。














゚,。゚+。。*゚ほろ酔いの恋物語゚,。゚+。。*゚+。。.。*゚,。,゚+。 。゚+




prologue
年も明けたばかりの、冷たい空気が清涼に凍える、冬の夜だった。
その日、室井が初めて青島を私用で呼び出したことで、二人は再会した。

もう何ヶ月ぶりだったか数え切れないほど、音沙汰もなく話すらしなかった二人だったが
会ってしまえば、魔法にかかったみたいに、その波長は同化する。
二人きりでプライベートに呑むのもこれが初めてだったが、そんな空気はあっと言う間に霧散した。
いざこうして向かい合うと、瞬く間にその空気は馴染みのものへと変わっていく。
むしろ、そうある方が自然であるかのように、世界は急速に組み換えられた。

待ち合わせ場所でこそ、ご無沙汰しております、なんて殊勝なことを口にしていた青島も
あらかた食事が進み、酒のグレードが乾杯のビールから焼酎へ、そして日本酒へと移ろい、完全な呑みタイムに入った頃には
そのぎこちない空気は既にどこにもなく
腰を据え、楽しげに色とりどりの話を飛び出させては、室井を楽しませてくれた。
青島のトークスキルは棘がなく、テンポも緩やかで、とても聞き心地が良い。

往来からの錆びた友人のような、古臭く昔懐かしい空気が漂う、淡い時間が二人を包む。
それは、とてもノスタルジックで、神秘的な空間だった。




「ちょっと・・・・歩かないか」

だから、一件目の店を出て、呑みなおすぞと意気込む二件目も過ぎ、適度に酔った思考が柄にもなく、室井にそんな誘い文句を口にさせたのも、不思議ではな かった。

とは言っても、この時点では、特に明確な意図があった訳ではなかった。
ずっと会ってなく、暫く縁もなく、どうしようもなく何故か脳裏に面影が蘇って
思えば流石に、このまま関係が劣化してまうのも惜しくて―――尤もそんな程度で途絶える筈もないという漠然とした確信はあるのだが―
近況報告だ、とか、良い機会だ、とか、数多の言い訳めいた理由を付けて
やっとの思いで呼び出した、開戦日だった。

出来ればこの先「是非また今度」と言える間柄を作れれば良いと思っていた位で
その目的は既に果たせている気もした。
・・・のだが、先程の何処か郷愁を感じる空気のせいだろうか、もう少しこの時間を長引かせたくなった。


普段の室井なら、まず口にせず、飲みこんでいた台詞を、音に乗せた。
それは、ほんの少しの綻びであり
久しぶりに逢って、何だか非常に弾む時間を過ごした気がして、ちょっとこのまま別れるのが名残惜しく なったと言う位の、小さな小さな無意識下の衝動で
それがすべての幕開けとなった。









―冬―

「・・・室井さーん。自販機見つけたら何かあったかいもの飲みましょうね~」

室井の2,3歩後を、青島が、結構風冷たいから~などと軽口を叩き、それでもコートを掻き込みながら、ひょこひょこ付いてくる。
細く柔らかそうな唐茶色の髪が、風が弾むたびに舞った。
室井が、柔らかい視線で返事をする。

この時期のこの時間だから人影はまるでない。
誰にも見つからないなら、時間さえ止まっているかのような錯覚を起こさせた。
突き刺す海風が、常緑樹を大きく揺らし、音を立てて吹き抜ける。


「室井さんは~、この公園来たことあるんですかー?」

後ろから呑気な声が響く。
海辺に面した遊歩道は、この時期、流石に潮風が身に堪える。
時折吹き抜ける風が、身体の芯まで凍えさせるように突き刺さった。


「・・・いや?」
「ふーん。だったら探検しないとね!」
「こんな時間にか?」

突っ込むべき所はそこじゃなかったが、室井も敢えて気付かない振りをする。

「二件目で食べたアレ、美味しかったですねぇ」

酒で気が緩んでいるのか、青島の話は取り留めがない。

「どれだ」
「ええぇ?ほら、舌鮃の・・・赤い植物の乗った・・・」
植物・・・・と、室井は眉間に皺を寄せるが、思い当たる節はあった。

「ああ・・・・あれか」
「あれです」
「気に入ったか」
「はい。塩加減が俺好みでした」
「そうか」

室井は、心の中で、にんまり笑う。
ふと、自分の醸しだした、この何とも言えない空気に、こそばゆくなり、前を向いた。
少し顔が紅らんでいる。
そうだ、これではまるで子どもを連れて散歩に出た父親のようだ。


「やーっぱ、グレードの高い店は違いますね~」
「あの店のアクアパッツァは、鮮魚をまるまる一匹使うから豪華だ。私も気に入っている」
「スープが絶妙・・・・って、室井さん、よくそんなマメ知識知ってますね。ちょっと意外~」
「・・・・そんなもん、渡り歩かされている内に覚える」
「お。キャリア発言」
「・・・・君だって知っているじゃないか」
「俺は女の子を渡り歩いている内にね。あんな旨いのは初めてだけど」

同じ知識でも、そこに至るまでの、あまりにも違う経緯に、二人、顔を見合わせる。



思えば、こんな過ごし方は久しぶりだった。
青島といると、無邪気に転げ回った故郷の、まだ何の柵もない素の自分にリセットされていることを、強く感じる。
彼は、室井を警察の中枢へと縛り付けるのに、心には自由を与えてくれる。
何故だろう?

そこを厳密に突き詰めて考えた事はない。
わざわざ改めて吟味しなくても、室井はそれで幸せだったし
その暈けた感情を、不透明のまま保つことに、なんの不都合もなかったからだ。
また、そこを深く追求していくと、何だか非常に不具合な結論に辿りついてしまいそうな気もしたので、早々に放棄した。

事、青島に関しては、この、自らの意思とは無関係に放っておいても引き合う二人の、外的起因の強烈さが、非常に気に入っていた。
逢っていなくとも、何処かに必ず、濃艶な青島の影がある。
そのまま、二人で流されてみたいような、委ねてしまいたいような、少し危険な香りのするこの立ち位置は
そういえば子供の頃の冒険心に近いものがある。

何の意味も形もない、しかし価値だけはある、その感覚のまま、二人の間隔を保ち続けていたかった。
それこそ、子供が宝箱に、客観的美質も分からぬお気に入りの物を、大切に仕舞うかのように。



「また食いたいか」
「え?いいんですか!・・・是非!」

振り返らなくても、青島が満面の笑顔で応えているのが、感じ取れた。


この距離感を敢えて言葉にするならば、漠然と、自分に必要な人間なのだということは分かっていた。
だから気に入ったというのが正しいが、それがもう、いつだったかは思い出せない。

警察に粉骨砕身する自身に何の疑問も抱かず染まってきて、そこに憤りもなかったが
更に本望が加わったことも、青島と共にならば、今は感謝すら抱いている。
そして、自分一人なら崩れていっても場合によってはやむを得ないと思っていた脆弱さも
青島がいるなら、簡単に潰される訳にはいかなくなった。
青島まで傷つける訳にはいかないからだ。
そしてそれは室井の中で燻ったままでいた生の覚醒と、威厳と素質を開花させた。
青島の存在が自身の起爆となっていることを、誰より室井が一番意識している。


――――だが、こういう諸々の事情は、一生秘めておくつもりだった。
自分のためではなく、青島のために。
ほんの少し、神様の悪戯で咬み合った二人の人生の一点も、それを宝物のように一人胸に抱いていられるならそれでいい。
自分の人生に意図的に青島を関わらせるつもりは、なかった。
あの真っ直ぐな魂を止めたくない。

人は室井こそ、信念の強靭さや純朴さを実直だと評価する。
だが、室井に言わせれば、青島の持つ廉潔な魂こそ、真っ直ぐだと思う。
そんな彼を巻き込みたくない。
何より――――青島を守るのは自分でありたいのだ。手を煩わされるのも、後始末をするのさえも。
その、特別な位置が、室井を何とも誇らしい気分にさえさせる。

その感覚を、何と呼ぶのか、よくは分からない。




ふと、矛盾する自分の行動に、室井は自分で苦笑した。

室井を覆っている鉄壁の感情は、その情の深さで以って、青島への執着を同時に忌み嫌っていた。
だからこれまで敢えて連絡を取ろうとはしなかったのだが。

――だったらどうして今日呼び出したんだ・・・

昨日、ほぼ発作的に、室井は職場から湾岸署に電話をかけた。
こんなことは初めてだった。
ケータイではなく、湾岸署の共用電話に、公私の枠などまるで無視した大胆さを持って、前触れなく掛けたその場で
久しくも会ってもいなかった、その時間さえ物ともせず
仕事の調子だとか健康伺いだとか、そう言った段階も全て省いたその口で、ただ一心に青島を呼び出した。




トトトっと革靴の足音が、背後に追い付いてくる。

何処かで道草を食っていたのに飽きたらしい。
青島は、分かるか分からないかという位の僅かな半歩後ろの距離を設けて、共に歩き出す。
青島なりの、礼儀のつもりなのだろうか。

スッと分からない程度に気を緩め、室井は少しだけ歩くスピードを遅くした。


――――全てが良く分からない、というのが本当のところだ。

本当にずっと避けていくつもりだった。正確には一定の距離を保って。
なるべく関わらないように過ごし、いつか会わなくても平気になれるような、そんな己の成長と強さを祈った。
自ら会ってしまえば、波打つ感情をコントロールする自信もなかったからだ。

それは酷く蠱惑的で、魔性の様な力で以って、いつも室井を惑わせる。

しかし同じ強さで、やはり会いたいのだ。
何か得体のしれない熱いものが、腹の底からいつも室井を急き立てる。
会ってしまっても、青島の強靭な魂が自分を律してくれるだろうという、甘やかな期待もある。
会って、その鮮烈な光に触れ、少しだけ自分を治めたかった。名もなきまま、確かな毒を持って身の内に入り込んでくる、全てのものから。

そして、ほんの少しだけ自由が許されるのなら――一目見るだけでいい。甘えだと罵られてもいい。
逢って、二人の温度を感じて、確かにそこにいることを確認して、二人の距離を味わって、それから・・・・

これは、この先の自分を鼓舞するための、ささやかな褒美のつもりだった。





~~~~~~~


室井が己の思考の奥底に埋没している間に、ふと、微かな気配の揺らぎを感じて振り返ると
付いてきていた筈の青島がまた、一度こちらに視線を送った後、道を外れるのが見えた。
室井も足を戻し、青島が消えた植木の間を覗きこむ。

確かに人が一人通れそうだ。

遊歩道ではない、その獣道を抜けると、海に面した広場を見下ろせた。
やはり誰もいない。
デザインセンスの良いライトが、うら淋し気に灯っている。ここら近辺も大分整備が進んだことを窺わせた。
少し目線をズラせば、工場地帯の夜間照明が赤い灯火を視界180度に浮かび上がらせていた。
手前には、鉄骨やコンテナなどの工場や倉庫の資材が整然と積み上げられている。
その辺のアンバランスさが、この街なのだろう。


青島の影を探すと、海岸線を隔てる欄干から身を乗り出して、海を見下ろしているのが見えた。
視界に入らなくても、青島の気配を敏感に察知する自分に苦笑しながら、室井もそこへ足を向ける。

すぐ隣へ立つ。
同じように海を覗く。
冬の東京湾は極限まで彩度を落とし、うねるような、どす黒い深い闇の色をしていた。


「何も見えないな・・・・」
「東京湾は夜は真っ黒だ」
「昔よりも浄化されて透明度も上がったと聞いているが」
「夜だとなんっも分かんないですね」
「・・・・腐臭もなくなって久しいから綺麗にはなっているんだろうな・・・」

瞬間、何の不自然さもなく自然な動作で青島がスッと身を寄せ、室井の耳元で囁く。
「ちょっと飲み込まれそうで怖いですね」

ハッと振り向くと目の前に、屈託ない青島の瞳が合った。

「なんちゃって」
そう言って悪戯っぽく笑う。

一瞬近づいた青島の匂い、息遣い。
息が詰まった。
久方ぶりの青島の香りが、その存在を室井に刻みつけてくる。
そのどれもを身体中で強く意識した。



青島が見せる、人への距離感の取り方は、少しだけ近いと思う。
自分だけが特別なのではないと分かっているが、また、別に、数多の女たちと彼を取り合おうとも思っていないが
言葉ではなく、ただ黙って隣に居てくれて、こうして付き合ってくれて、それを青島自身も苦とは思っていなさそうな、その態度。
人付き合いが苦手な室井には、こういう空間距離で接してくれる人間はほとんどいない。
ましてやこの仕事に就いてからは尚更だった。

ライバルたちや上層部の役員たちとの邂逅は、一部の隙も油断も許されない。
むしろ最適な距離感を見抜き、臨機応変に対応していくことが、生き残る術である。
それはもう、“人”としての関係ではなかった。
機械的な、ある意味では獣染みた、無機質の空間だ。

・・・・青島は――――その逆だ。
無防備に、無邪気に、赦される。


室井は泣きそうになった。
こういう“普通”が嬉しいのだ。
自分も対等に扱われているのだという自負は、そのまま勇気になる。
対等な扱いをしてくれる青島が、自分を芯から震わせるほど、幸福な気分にさせてくれる。
それは潜在的敵意の渦巻く孤独の中で戦う室井にとって、束の間の休息を与えてくれる、貴重な安らぎだった。
一番欲しかったものを、こんなにも容易く彼は与えてくれる。・・・・彼だけが。

――ああ、やっぱり

室井は、新緑の季節に深呼吸をするように、目を瞑って深く息を吸う。
満ちていく・・・。

今日、青島を呼び出した自分の気持ちに間違いはなかった。
やっぱり心地良い。
この声で、この眼で、この存在で、俺は俺に戻れるんだ。
ずっと欲しかったものを、また、ほんの少しだけ、彼がくれた。

何故彼だけが自分を満たすのか。今はそんなことはどうでも良かった。
――これだけで俺は明日を歩いていける




「青島。ケータイを出せ」
「へ?なんですか?」
「私の私用携帯の番号を送る。ついでに官舎の方も教えておくから」
「は・・・・?」

唐突の思わぬ申し出に、どう反応して良いのか分からず、青島が面食らった顔をしている。
そのまま凝視していると、室井が眼で促す。
更に困って、室井のプライベートに立ち入る様なことをしても良いのか?という躊躇いの視線を送るが、室井の表情は飄々と変わらない。
どうして良いか分からなくなり、青島はそのまま、もう降参と言うように眉を下げた。

「あのぅ、えっと・・・・」
「どうした。ほら早くしろ」
「ん~・・・・・でも室井さん。いい・・・・んですか?俺なんかに教えちゃって」
「何か問題でもあるのか」

こうと決めたら室井は多少のことでは、たじろがない。
こうなるとむしろ押されるのは青島の方で。
青島がグズグズしている内に、室井は胸ポケットから手帳を取り出し、さらさらと自宅番号もメモすると
それをビリリと破って、ケータイと一緒に無言で青島に差し出した。



「・・・・・・まいったな」

暫くその手をじっと見ていた青島は、ふにゃっと笑った。
照れくさそうに横を向き、それでも迷惑ではない顔をして、それからようやく、青島も尻ポケットからケータイを取り出す。

「んじゃ、俺のも」

お互いの連絡先を通信する。
しばらくまだそのままケータイをじっと見つめ、青島は、おずおずと室井を覗きこみ、口を開いた。

「これってその~・・・スクランブル?」
「・・・・・・・・なんだそれは」
「だからそのー。緊急避難用ってことですか?俺が迷惑かけちゃった時とかの・・・・・」
「なんだそれは・・・」

外ではいつも留まる事を知らない、大胆で強情にもなれる男が、どうしてだか室井のことに対しては、その横暴ぶりが発揮されない。
室井のこと、というより、自分自身のことになると、途端に自我が弱くなる。
優しさとも甘さとも取れるその態度は、青島の他者への愛情の広さだ。

「・・・あ、もしかして今日はその説教で呼び出されたの俺?・・・うわぁ、すみません」


どんどん思考が深みに嵌っていくらしい青島に、室井は思わす柔らかく頬を緩めた。

本当に、子供みたいな顔をする。
心当たりはあるんだな、と思うと、可笑しかった。
遠慮がちに躊躇っている青島に、なんだか勝ち誇ったような気分にもなり
室井は、はしゃぎ出したいような、笑い出したいような、何とも言えない高揚した気分に包まれた。


「・・・・青島」
「はい」

背筋を伸ばして青島がかしこまった。
叱られる前の子供のような緊張をしているのが分かる。
そのミスマッチが可笑しくて、込み上げる愛しさを堪えながらも、室井もまた素直な本音を零す。

「それは――また会えたらいいなという、私なりの意思表示だ」
「・・・・・・はい?」
「もし、君さえ、良ければ、また、酒でも・・・呑みたいと思っている」


式典の祝辞の様な堅苦しい言い方だったが、青島には室井の気持ちはちゃんと伝わったらしい。
ほっと肩の荷が下りたような、柔らかな吐息が漏れ
ようやく緩んだ笑顔が出る。
釣られる様に、室井の口の端にも、ほんの少し笑みが滲んだ。


「迷惑メール出しちゃうかもよ?」
「君からなら別に構わない」
「室井さん、俺に甘過ぎですよ。アンタ絶対、俺のこと舐めてる」
「もう慣れたって言ったろ。でも君は絶対そこまでしない。それに・・・・・・いいんだ。今更だ」
「ははっ」
ようやく声を上げて青島が笑った。

「そっか・・・・そっかそっか!」
青島が、じっと両手で掴んだ紙切れとケータイを眺める。
自分の存在を、青島がちゃんと受け止めてくれた気がして、室井は凄く満たされた気分になった。


「ありがとうございますっ」

明るく弾けた青島の声までが、室井を満たしてくれた。





~~~~~~~~


遠くのコンビナートの機械音が夜空に響いているのが、時折風に乗って聞こえた。
水面に映る夜間ライトが金色の波を作り出す。

時折、思い出したように会話をする。
そして断続的に訪れる沈黙は、優しかった。

冬の海風が、青島の細い髪をさわさわと揺らしていく。
それを何とはなしに見つめていた。



「潮で手とかベタベタしてる・・・」
「身体、冷えてないか?」
「んー。平気ですよ~。室井さんは?寒くなってきちゃいました?」
「いや・・・・・大丈夫だ」
「北国の人はこのくらい、へっちゃら?」
「秋田にいたのは随分昔のことだぞ」
「秋田か・・・・。俺行ったことない気がする・・・・スキー場とかでニアミスしてますかね・・・?ん?どうだろう?」

そう言って自問自答を始めてしまう。
また、子供みたいだな、と思いながら室井は苦笑した。
今度はそれを目ざとく見つけた青島が、目元を細めてふっと柔らかい視線を向ける。
欄干に掴まったまま身体をぐっと後ろに逸らし、伸びをするような格好をして笑った。

「?」
「だって・・・・!室井さん・・・・・ごくたまーにそうやって凄く優しく笑いますよね。あんまり見ないから実はちょっと新鮮。得しちゃった気分」
「・・・・・・俺だって人間だぞ。笑うくらい普通にする」
「眉間に皺寄ってる方が多いですよ」
「うるさい」
「ははっ・・・・室井さん、照れてる?」
「やかましい」

「いっつもそうやって笑ってれば、いいのに」

青島の指先がチョンっと、室井の眉間に触れる。
その指先からカッと熱くなった気がして、誤魔化すように、室井は名前を呼んで窘めた。
「笑えるか」

「室井さんてさ~、実は本店では、虐められているんじゃなくて、ホントは揄われているだけなんじゃないですか~?」
「どんな思考回路してるんだ」

クスクスと笑いながら青島が、ひょいっと身軽に身体を起こし、欄干に頬杖を突く。



この凍えた暗闇に二人並んで欄干に寄りかかっていると、二人きりのような、独占しているような、隔離された幻想を意識させた。
それは遠く過ぎ去った幸せに近く、少し、何故か、胸が痛む。
ここに永遠を望んでしまいそうだが、それが叶わないのは分かっていた。だからせめて大事にしたくて、口を開くのも勿体なくなる。
黙ってしまった室井を気にも留めない風情の青島は、海を覗いたり遠くの灯りを眺めたり欄干から乗り出したり、飽きずに楽しげだった。
そういう態度もまた、口下手で気の効いた演出の苦手な室井には有り難く、居心地が良い。

手を掛けている自分の肘と青島の肘がヤケに近い気がして
それだけが妙に気になった。


「無自覚ですか。多分ね~室井さんは基本余計な苦労まで真面目に背負っちゃう人~」
「そんな暇あるか・・・・みんな毎日仕事で目一杯だ」

それは約束のために手は抜かないという無言の宣誓をも含ませる。
青島もそれは巧みに汲み取っているのだろう、多くを語らない。
チラリと室井を見て微笑んだ。

多分、室井の努力を誰よりも知っててくれているからだ。
結果が全ての社会の中で、その裏を知っていてくれる――それは何よりの活力だ。
眼だけで笑って、優しく沈黙する。
そんな想いが堪らなく嬉しい。
その瞳が慈愛に満ちているような錯覚さえ覚えた。


「本店の誰かと呑みに行ったりもしないんですか?」
「流石にそんなことはないが・・・・・たまに呑む。みんな・・・酒癖悪いんだ」
「ぷっ・・・そうなんですか」
「君だって署のみんなと呑むだろう?」
「そりゃあもう。でもウチの場合はお祭り騒ぎですねぇ。いっつも」
「・・・・・・目に浮かんでしまうのが不本意だ」


他愛のない会話がまったりと続く。
思えば、こんな気の置けない会話をするのも久しぶりだ。
ずっと現実感を失ったような、足元が覚束ないような感覚が身体を支配していて
それはまるで酔っている気分に似ていて、最早酒に酔っているのか、この空間に酔っているのか、分からなかった。


「さすがに誰もいませんね」
「そうだな・・・・」

光を閉ざし黒く蠢く東京湾に、彼は何を思っているのだろう。
何となく、そんなことさえ知りたくなった。





「戻りましょか」
幾度目かのボイラーの音を合図に、青島がそう言って、ぴょんと欄干から飛び降りる。
ふわりとモスグリーンのコートが舞い、合わせて空気が揺らぎ・・・・。
ふ・・・っと、室井の横から青島の気配が消えた。

「・・っ、青島!」

その瞬間――――室井は自分から遠ざかる何かに、何とも言えない、しかしはっきりとした明瞭な恐怖と喪失感を感じる。

青島が、そのまま音も立てずに着地する。

それは室井にとって、夢の時間の終焉を示していた。
突然決壊したかのように、意識とは別の何かが、内部から勢いよく溢れ出す。
よく分からない感情に、室井は息が詰まった。

青島が物理的に隣に居ただけなのに無意識に感じていたこの安堵感。
青島の体温を意識出来ていた充足感。
何より青島の意識が自分を向いているだけで感じていた陶酔感と、気配が離れただけで感じるこの、奪われたような離脱感。




「?」
思わず呼び止めてしまった声に、だいぶ向こうへ行きかけていた青島が、首だけ振り返ってこちらを見た。
足元がグラつくような、追い立てられるような、切羽詰まった焦燥に駆られ、酷く惑乱したまま、その顔を黙って見つめる。

急に冷たさを増した気がする冬の空気が、やけに身に凍みた。

「・・・・はい?」


意識もせずに呼びとめてしまった。
何も用意した言葉がなく、室井が詰まっていると
呼び止めたくせに何も言わない室井を不思議に思い、青島が行きかけていた足を戻し、身体ごと向かい合わせた。

「室井さん?」

再び自分を呼ぶ声。
首を傾げ、優しい瞳で真っ直ぐ自分を見つめてくる。
何て心地の良い甘美なのだろう。

さっき願った、この一瞬の永遠を終わらせたくない気持ちが急速に蘇り、身体中を支配する。

「どうしたん・・・」
「・・・・きだ」
「え?」
「おまえが・・・・欲しいんだ」


冬の強い海風がザっと二人の間を掛け抜けていった。









黙ったままお互いを見つめ合う。
見つめ返す室井の顔からは何も読みとれない。
青島もまた、ただ室井を見つめていた。




――しまった・・・・・思わず口に出してしまった

これではまるで、恋の告白だと思い、室井の全身から汗が吹き出した。


思わず出た恋情のような告白は、室井にとっても予定外だ。
カッと頬が熱くなる。
まるで少女の様な淡い告白になってしまったその醜態に、体の芯から羞恥心が湧きあがった。
聞き様によっては、それは、酷く淫らな、誘い文句のようにも捉えられる。
手汗で鞄の取っ手が湿っているのを、意識した。


一生秘めておくつもりだったのに。

どうして自分はこう、青島に対しては自制心が簡単に素っ飛ぶのか。
頭を抱えたい気分だ。
忍耐力のなさに思わず舌打ちをする。もう少し、言い様だってあった筈だ。


だが、口にしてみて改めて分かった。自分がどれほど・・・・もう限界になるほど青島を焦がれていて、心が耐えられなくなっていたのかを。
要は結局、それほどまでに青島という存在に餓えていたのだと、嗅覚や視覚などの五感が先に反応して思い知らされたのだ。
余りに欲し過ぎて、リアルの青島が“演じて”みせるまで無自覚だった自分が、滑稽に思えた。

それが恋だとは思いもしていなかったが、思うより先に口から飛び出た言葉が真実を告げていた。
最も、分からぬ感情に苛立ちを覚えていた訳でもなかったのだが。
傍に居たいとか、心が安らぐとか、この胸の動悸を含めて、それらは皆、恋愛のそれと同じじゃないか。
ああ、そうだ。事実は全くその通りで、
『惚れている』・・・・・確かにそう捕えることに何の違和感もないくらいの感情を、抱いている。

何とも単純で、シンプルな答えに、室井の張り詰めていた気が一瞬だけ緩み、思わず口元に自嘲の笑みが浮かぶ。



室井の中の青島への想いは最初から鮮烈だ。その凝り固まった表情の下で、燃えたぎるように燻っている。
何もかもを独占したかった。
それこそ、子供みたいに。
そうして繋ぎ止めて、彼に溺れて、染めあげられて行く自分の姿は、酷く淫らに蠱惑的だ。

ようやく自分の中に渦巻いていた不透明な感情がクリアになり、思わず、室井の肩から力が抜ける。


――いや待て、そうじゃない。認めちゃ駄目なのだ。
空に飛び出た言葉は、急速に意味と責任を生じさせ、はっきりとした輪郭を描き出してしまう。
室井がそれを認めてしまうことには、何の不都合もない気がした。
でも。



青島を巻き込むつもりはない。
室井はただ、青島の傍にいたいのだ。
物理的に、ではなく、精神的に。そしてお伽話のようなほんの少しの夢物語を。

だが、告白してしまった以上、結末がやってくる。恋の結末など太古の昔から受諾か決別かの二択だ。
恐らく青島は、室井の下手な言い訳などで、最早、誤魔化されてはくれないだろう。
もう後には引けない。
あの一言で、青島を室井のルートへ巻き込んでしまった。
つまりは、これは自分で終幕への最終通告を突きつけられたのと、同義だ。
これが恋であろうとなかろうと、室井にはもう、青島との決別だけは耐えられなかった。


室井はここにきて、初めて自分の失言に舌打ちをした。


むしろ、この先の決定的な決別を完全に消滅させるために、今日というこの日の邂逅に挑んだ。
時折足りないものを補給させてもらえるような、そんな自己完結した関係を望んでいた。
今日はそのための第一歩だったのに――・・・。


青島のためにこの気持ちをここで殺すか――
俺にそんな決断が出来るのか。
こんなに青島を切望している自分が。

そうだ。
俺は青島が欲しいんだ。ずっと――たぶん・・・・最初から。文字通り。
誰からも奪うつもりはないなんて、そんなの、ただの臆病な口実だった。


突如、こんな場面で気付かされた自分の想いは、思う以上に野性的で、室井を更に動揺させた。
当たり前の現実は、突如室井を巻き込んで、引き返せぬ闇へと引き摺りこむ。
カードを切ったのは、他ならぬ自分だ――――

どうする・・・どうする・・・・考えろ・・・っ。


「・・・・ッ」

急速に息苦しくなり、耐える様に瞳を堅く閉じた。
微動だに出来ず、ただそこに立ち尽くした。










~~~~~~


長い沈黙が続いた。

ややして、室井はそっと瞼を持ちあげる。
世界は止まったままで、景色は何ひとつ、変わってはいない。

そっと青島の様子を窺う。

青島も、あれから一言も発っさないまま、じっと固まっている。
断続的に吹いてくる海風に青島の細く長い髪が揺れ、それは時折表情さえ隠して、より青島をおぼろげに感じさせた。
まるで、室井の告白で突き付けられた現実を、象徴している偶像のようだった。

静かに時間だけが流れていく。

青島が珍しくも大人しいせいで、室井の頭が少し冷静になってきた。


――明確な拒絶は返ってこなかった。
揄うような発言もない。
ということは一応、告白した想いは届いたのだろう。
しかし何のリアクションもないということは・・・・・どういうことだ?

青島のことだ。また俺に遠慮して何も言えなくなっている可能性だってある。だが・・・・。

だけどこの反応・・・・。


断絶を避けるための答えなど、最初から一つしかないだろう。
そして、肝心なことは、程度こそ違えど、青島だって似たような気持ちの筈なのだ。
こんなことで気まずくなることなんか望んでいない。絶対に。
でも、ここで読み誤れば、青島は二度と、室井に笑いかけることも、近付くことも、ないだろう。


室井の頭は猛烈に回転を始める。

ただ、直ぐに反応を返さなかった青島の態度が、室井の頭に、一つの疑問を浮かばせた。
そしてそれはそのまま、それまでは遠い夢物語であった筈の、予想外の期待さえ仄めかす。
――だが、本当にそんな都合の良い答えなんかあるのか・・・・?


心臓が喉元に感じるほど激しく鼓動しはじめる。
身体中が緊張で熱い。背中も既に少し汗ばんでいる。

――まさか、可能なのか?

室井は握りしめていた鞄の取っ手を、再び意識して、強く握り治した。








意を決して一歩近づく。
青島がビクっと反応して、こちらを真っ直ぐ見た。風に煽られ、乱れた前髪の影から心細そうな瞳が覗き、視線がようやく絡まる。
少し怯えているようにも見える。
だが逃げようとはしなかった。

もう一歩近づいた。

もう一歩。

流石に一歩だけ青島が後退さる。
二人の距離は約3m。そこで室井は一旦止まった。



再びの沈黙のあと、腹に力を入れて、室井は口火を切る。

「青島」
「・・・・・・・はい」
「君にとって、私は、今も取るに足らない人間か?」
「・・・・・・」
脅えさせないよう、室井は何の感情も乗せずに静かに問う。声が緊張で少し震えているのが自分でも分かった。

「俺を――・・・嫌いだったりするか」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・いえ、まさか」
真意を計りかねているのか、長い逡巡の末、ようやく青島が答える。風に掻き消されそうな小さな声だ。

「ならば、俺が・・・・・・苦手だったりしないか」
「当たり前でしょ」
「少しは認めてくれていると、自惚れても良いんだよな?」
「じゃなきゃ、約束なんか託しません」
「それは・・・・好きな方だと解釈してよいのか」
小首を傾げる。
そのまま急かすこともせず、黙って見つめていると、下を向き、か細い声で青島が答えてきた。

「・・・・そりゃあ、まぁ」


その答えに満足し、室井はもう一歩足を進める。

――だったら、逃がさない。

コイツを失うくらいなら、全部手に入れてやる。
手に入れられる隙があるなら、奪わせてもらう。
もう遠慮はしない。


この時の室井の頭からは、青島への労わりだとか優しさだとか、それまで悶々と胸の奥で燻っていたことだとか
そういった邪念が全て吹き飛んでいた。
今、頭にあるのは、目の前の青島の存在だけだ。





~~~~~~~

近づいてくる室井の鮮烈な気配に、青島はハッと顔を上げ、室井を凝視した。
覚悟を決め、割り切ってしまった室井の姿は、いっそ堂々とした苛烈さを保ち、気高く清浄な空気を纏っている。
その迫力に押され、足がすくんだように強張って動かない。
そんな青島を一分の隙もなく絡め取るように、一度も視線を外さず、室井は一歩、一歩、ゆっくりと近づいてきた。
「・・・っ」
得体の知れない恐怖が、青島の身体を走り抜ける。




目の前まで辿り着く。

そこまできて、室井は、青島も震えているのが分かった。
確実に室井の好意の意味が分かっているのだろう。

黙ったまま見つめ、一旦視線を外し、室井はコートの袖からちょこんと覗いている青島の指先をそっと取った。

「冷えたな・・・・・」

軽く甲を撫でる。
そうしてから、もう一度青島の瞳をまっすぐ見つめる。

青島が息を呑んだのが分かった。


「俺の、傍にいてくれないか」
「・・・・・・・」
「俺には君が必要なんだ」

バタバタと耳元ではためくコートの音がやけに大きく耳障りに感じた。

「・・・・それは・・・分かってますよ・・・・。だって・・・俺たちは・・・」

小さく震える声で、青島が歯切れ悪く言葉を紡ぐ。
その震えは寒さからくるものなのか、はたまた怯えなのだろうか。
揺れる瞳に、夜光ライトが梔子色に反射する。
室井はその瞳を、ただじっと見つめた。


その瞳に、都合の良い答えを見出そうとするが、今は何の答えも映し出してはいなかった。
ただ、少なくとも、負の感情も映していない。
相手を圧倒する象徴的な意思の強い光も、今は消えている。逆に、その強さが、今は反転していて――
――――例えるなら、一つでも油断したら相手を惑わしてしまうような、狂乱に引き込んでしまうような、負の引力で漂っていた。

吸い込まれそうだと思った。




――上等じゃないか。

これだ。
室井にとって青島は、本来、寄りかかったり慣れ合ったり、ましてや舐め合うような存在ではなかった。
室井の、青島の清廉な魂に対する感情は複雑で、今でこそ、その存在に助けられている部分があるが
まず室井が青島を意識した一番の理由は――――青島に惹かれた一番の切欠は
こうやって同じ強さで勝つか負けるかの切磋琢磨するような引き合う関係性だ。
良くも悪くも強烈に作用する。
この眩い生命に、憧れよりも嫉妬に近い感情で執着し、獰猛に煌めく挑発のような強さに、心が掻き砕かれる。

これが堪らなく室井を惹き付けるのだ。

“落ちるのでもなく、落とされるのでもなく、むしろ落ちるならば共に”
そう言えてしまう程の、気を抜けばバランスが崩れるような、全身を掛けて挑める相手。一瞬の隙をみせれば、きっと呑み込まれる。
これが、室井が心奪われた青島だ。
こんな奴、もう二度と表れない。

この利かん気の強いじゃじゃ馬を手懐けられるのは、恐らく自分だけだろう。そういう自負もある。
全てにおいて、全身全霊を掛けられる。全部で挑める。
それは、もしかしたら、この恋においても――



身体の芯から震えが走る様な昂奮を感じて、室井はそのままゆっくりと、青島へ手を伸ばした。
青島の瞳が脅え、揺れる。
だけど、逃げない。
逃げれないのかも、しれない。
慎重に、ゆっくりとした動作で、青島の眼を見ながら、腕の中にそっと取り囲む。
慣れない仕草ながらも、そっと抱きとめると、抵抗もなく、青島はすっぽりと室井の腕の中に治まった。
じっとしたまま、小さく震えている。


「だったら、君の本音を聞かせてくれ」
「本音・・・・」
「俺は、君の気持ちが知りたい」


肩口で青島の吐息が震える。

「何・・・・・・何、言ってるんですか・・・・・?」

その問いには分かっていて答えず、ただ少しだけ青島を囲う腕の力を強めた。
ややして青島も、ほんの少し、甘えるように室井の肩に額を乗せ、少しだけ室井に身を寄せる。

「青島・・・」

促すと、聞き取れないくらいの小さな声で、青島が囁いた。

「室井さん・・・・・・好きって・・・・・・ほんとう、ですか・・・?」
「本当みたいだ」
「みたいって・・・なにそれ・・・・」
「本当だ」
「何の冗談・・・」
「君には俺がその手の冗談を言う人間に見えていたのか」
「じゃあ、嘘・・・」
「嘘吐いてどうする」
「でも・・・・・単なる好きとか気の迷いとか錯覚とか・・・ほら・・・俺ら元々ちょっと特殊だし・・・それから・・・・えっと・・・・」


取りとめない言葉の羅列が、冬の冷たい空気に浮かんでは、溶けて消えていく。



青島の言わんとしていることは、室井にも何となく分かった。
室井は鞄を地面に放り投げ、青島の腰の辺りで両手を組み治し、今度は抱える様に青島を引き寄せ、青島の髪に顔を埋めた。
柔らかい青島の髪が、冬の風に揺れて室井の頬をさらさらと撫でる。
微かにいつもの煙草の匂いがした。
なんだかもうそれだけで堪らなくなって、室井は零れそうな気持ちを一つも逃がさないように、空を仰ぐ。
見上げる空は冬の星座が瞬き、果てしなく紫黒の世界が広がっていた。


「何度も・・・・・何度も、そうなんじゃないかと戒めて――――考え直そうとはしたんだ・・・・俺も。でも・・・・・駄目だった。・・・みたいだ」
「・・・・・・・」
「正確には、紛れもなく惚れていると確信したのは、さっきだ」
「・・・・・・・」
「ただ・・・・・俺にとって君が特別なのは、確かだ」
「それは・・・・・」
「本当は、言うつもりはなかったんだが――――」

ほ・・・っと溜め息を解き放つように、白い息と共に空に零す。

「抑えきれなかった」
「・・・・・・・」

「おまえを誰にも取られたくない。おまえの一番傍に居たい。おまえの一番が俺でありたい・・・」

そう言って、室井も青島の肩に額を擦り寄せた。
ぎゅっと抱きしめる。

「どうすればいい・・・」
「・・・っ」

「もう止められないんだ・・・っ」

絞り出した声は悲壮感に満ちていた。


冬の強い海風が二人を巻き上げて通り過ぎていく。


室井は腕の拘束を解き、青島を少しだけ引き剥がした。
至近距離で艶めいた青島の瞳が、恐る恐る室井を見上げてくる。
吹き抜ける風が二人の髪をバサバサと揺らした。
その隙間から、縋るような、崩れそうな青島の瞳をまっすぐ見つめながら
青島の両頬を、髪ごと鷲掴みにして、室井は喉から絞り出すような声を、鋭く発する。

「答えろ青島・・・・っ」

熱さとは裏腹に、室井の手も青島の頬もどちらも冷え切っている。
その冷たさに身が竦んだように、ふるふると青島が子供みたいに首を振った。
まるで答えが何かを知っているかのように。
その答えが示す先を予感しているかのように。

このまま、消えてしまいそうな気がした。
室井は青島を熱から奪い取るように、強く頬を掴む手に力を入れる。


「全部俺が聞くから・・・受け止めるから・・・!答えてくれ・・・っ」
「・・・・・っ」
「頼むっ」

焦れた室井の掠れた声の強情さに、青島は泣きそうな顔をした。

「分かんない・・・・・・・分かんない、です・・・。分からなきゃ・・・・駄目ですか・・・」
「ならば覚悟を決めてくれ・・・・っ」
「な・・・、でも俺は・・・・・」
「でも、なんだ」
「ただ、室井さんが・・・・・・・大切です、たぶん――――すごく・・・。それじゃ駄目・・・?」

「だったら、俺が傍に居ても――いいか・・・?」
「傍・・・・・・・・・なら、いますよ・・・?俺・・・」
「そうじゃない。それもそうなんだけど、それだけじゃない。分かっているんだろう?」
「・・・・・・・」
「おまえが足りないんだ・・・」
「・・・っ」
「もっと、近づいて――――いいか?」
「・・・・・・っ!」

青島の瞳が躊躇う。

視線を逸らし、俯いた。

「あ・・・やっぱり・・・・・駄目、ですよ・・・・」
「どうして」
「どうしてって・・・・・こんなの・・・・」

本来なら、ここで引き下がるべきなのだろう。
室井の最終目的は、恋云々以前に、青島との決別の回避である。
勝手に恋情を押しつけて、嫌がられたり、避けられたりしたら、元も子もないし
そもそも、青島にそんな警戒をされたら、室井は耐えられそうにない。

だが――。




「・・・・っ!」
室井が一瞬怯んだその瞬間、青島が腕の中から逃げ出した。

「青島!」

緑のコートが、冬の風に揺れる。
一瞬の虚を突かれ、呆然と見送った。
視界から、徐々に小さくなるモスグリーンのコート。青島の後ろ姿・・・。

――逃げられた・・・・・

視界に映る遠ざかる姿は、正に室井の悪夢の象徴だった。


「・・・・っ!」

室井は慌てて、青島の後ろを追う。

――こんな別れ方なんて、冗談じゃない・・・っ。



閑散とした広場に、二つの革靴の音が反響する。


――何故逃げるんだ。
そんなに嫌だったのか。そりゃそうか。
俺に触れられることも?俺に気持ちを押し付けられたことも?俺が、二人の関係を変えようとしたことも・・・。
・・・・・・いや違う!

それはもう、勘と言って差し支えのないものであったが、室井はおぼろげながら何かを確信していた。

青島は自分の気持ちから逃げただけだ。
青島が室井を好きだなんて、そんな酒の上の戯言の様な話があるだろうか。
だが、今、目の前で走り去ろうとしている姿だけが、ただひとつの真実だ。
この場から、逃げなきゃならない理由。無下に出来ない理由。その先が示すものは――・・・



「青島!」

足の速さも、恐らく二人は僅差であっただろう。
しかし、地形が室井に味方をした。
妙に入り組んだ遊歩道に、青島の足が速度を落とした所を、後ろから二の腕を掴み、引き寄せる。
室井の手を振り払おうと、少しだけ揉み合いになるが、組み手なら、室井の方が上だった。
両腕を掴んで、こちらを向かせる。
そのまま、無造作に積み上げられている建築材に、肩を押し付けた。

「青島、待ってくれ」

軽く息を整えながら、室井は青島をじっと観察した。
鉄骨材の錆びた匂いと、その上から差し込む土木照明の青白い光が、二人を冷たく照らす。


「話を聞いてくれ」
「俺、用事思い出して・・・・その話はまた今度・・・・」

少し乱れた息の下で、青島が言う。

「出来ない。今、聞いてほしいんだ」
「・・・・・」

下手な言い訳こそ、格好悪いと思ったのか、両腕を押さえ付けられても無理に振り解こうともせず、青島は口を噤み、俯いた。


期を改めたら、きっと青島はそれこそ百万通りの言い訳を考えて、室井を遠ざけようとするだろう。
チャンスは、今しかない。


「何故、逃げた」
「逃げたわけじゃ・・・・」
「俺はまだ、おまえの返事を貰ってない」
「返事も何も・・・・・なんか、変だよ。そういう話じゃないでしょこれ」


躊躇い、俯く青島の頬を親指で撫で、もう一度、そっと、でも強引な強さで、上を向かせる。

「それはおいといて、俺はおまえの傍にいたいと言った」
「・・・・・はい」
「今一番傍に居たいと思っているんだ。そうしたいんだ。それは、迷惑か?」
「そんなことは・・・・」
「だったら傍にいさせてくれないか」

室井に両頬を掴まれたまま、青島は不安そうな顔で、室井を見つめ続けた。
瞳にはまだいつもの意思の強さはなく、反射する灯りが瞳を飴色に歪ませ、より不安定に儚げに見せている。
室井は祈りにも近い気持ちで、その青島の瞳を見つめ続けた。

絶対捕まえる。絶対逃がさない。今なら――捕まえられる。




一瞬、何かを堪えるような色を見せた瞳を隠すように、青島は再び、視線を横にズラした。

「な・・・・・何言ってんだか。大丈夫ですよ、俺はちゃんと遠くで見ていますよ。いつだって室井さんのこと忘れたこと、ないのに――」
「それは、俺はおまえに踏みこんでは、駄目だということか」
「踏み込むも何も、もう同志でしょ。ホラ、俺たち腐れ縁・・・」

青島は自分と室井を交互に指差しながら、余所行きの笑顔を見せた。
どう足掻いても逃げようとしている青島に対し、どう抗ってもこの気持ちからは逃れられないことを、室井はもう自覚している。
その、造られた笑顔が胸に突き刺さった。
そんな顔が見たいんじゃない。
欲しいのは、怒りでも軽蔑でも、もっと感情の乗せられた本物の表情だ。

「なら、その腐れ縁にもうひとつ、色を足すぞ」
「色・・・?」
「そうだ。例えば――・・・・」


室井は、脅えさせないように、ゆっくりと視線を伏せながら青島を引き寄せ、耳元に口を寄せる。
故意的に熱い吐息を乗せて、囁いた。
「――・・・・」

手の平で包んだままの青島の頬が一瞬強張ったのが伝わる。

ゆっくりと顔を離して、青島の瞳を覗きこんだ。


「どうだ」

「ど・・・・っ!どうもも何も・・・!急に何言って・・・!」
「嫌か」
「嫌とかそういうことじゃなくってですね、あの・・・っ、そんなこと出来る訳・・・」
「堂々巡りだな。おまえが厭だと明確に言わない限り、俺はそういうことにするぞ」
「ちょ・・・と、待って下さいよ!おおおお俺だってね、そういうのいいなっと思いますけどね、だからと言ってそれが――・・・・・・・・・・・」

室井が眼を見開いて青島を見る。

「・・・・・!」

失言したことに気が付いた青島も、取り繕うことも忘れて室井を見つめ返した。
じっとお互いの視線を交差させる。


「それは本当か」
「――・・・・・っ」
「・・・・本当なんだな」
「ちが・・・っ」

視線を逸らした青島が、しまったという顔をして唇を噛んだ。
宥めるように、もう一度そっと名を呼ぶと、青島は更に俯き、前髪がさらりと表情を隠していく。

「例え・・・・・そうだとしても、それが室井さんと同じ気持ちだとは限らないよ」
「それでも構わないと言ったら?」
「――!」



暫くの沈黙の後、前髪の隙間から、青島がチラリと室井に少しだけ視線を寄越した。
それまで気張っていた何かが削げ落ち、憑きものが取れた、拗ねたような子供みたいな顔をしている。

「なんだか室井さん・・・・結構、予想以上に、強引なんですね」
「そうか?」
「躊躇いとか、ないんですか?」
「言ったろ。おまえが、足りない」

真っ直ぐ青島の眼を見て、はっきりと答えた。


「失いたくないんだ」


青島が泣きそうな顔をして、じっと室井を見つめ返す。
室井も、その無垢な瞳をただ、見ていた。
言葉はなくとも、もう拒絶されている気はしなかった。
だったら、今は、青島が答えを出すのを、ただ待つ。

触れているだけの、自分とは異なる頬の温もりが、心地良いと、呑気に思っていた。




青島が微かに頷く。

「それは、承諾と取って、いいんだな?」
「・・・・・・」
「青島っ」
「俺も、室井さんとは一緒にいたい、です」
「・・・・・誰よりも?」
「・・・・・誰よりも」
「・・・・・一番近くに?」
「・・・・・一番、近くに」
「俺を――――好きか・・・・・?」

さっきと同じ質問をする。
だけど、もう、意味が違うことは青島も分かる筈だ。
まだ躊躇っているのか、室井を見つめる瞳が揺れている。
室井はもう更々引く気はなく、その縋る様な視線を絡め取ったまま一切の逃げ道を絶った。
髪ごと頭を掴んだその両手に力を入れ、言い聞かせるように、最後の幉を引き寄せるように、掠れた声で最終通告を突きつける。

「逃げるな・・・・・。もう、逃げるな」
「・・・・っ」
「俺も逃げないから、もう逃げるなっ」
「・・・・!」

微かに嗚咽のようなものが聞こえた気がした。

「・・・・はい・・・たぶん・・・・俺も。だって嬉しかった・・・・・」


長い長い時間を掛けてじっと見つめ返していた青島の口から、宝石が零れ落ちる様に言葉と気持ちが表れた。






覚悟していた言葉だったのに、室井の思考が停止する。
ふっと青島が視線を下げ、その口元だけが僅かに緩んだのを見て、室井の時が色彩を持って動き出し、歓喜の力でもって思い切り青島を抱き締めた。
いやむしろ、飛びついたと言った方が正しかったかもしれない。

「ば、か・・・っ!そういうことは早く言え・・・っ」
「すみません・・・・」

ぎゅうぎゅうと抱き締めると、青島の匂いが更に強くなった。
それが嬉しくて切なくて、ますます室井は青島にしがみ付く。
そんな室井を苦笑しながら、青島がぽんぽんと室井の背中をあやす様に擦る。

「アンタこそ・・・・あんたこそ。言うつもりなかったって、なんだよそれ・・・」
「?」
「ヤなんだよそういうの・・・。何で一人で諦めちゃうの・・・・?言えよ、そういうことは」
「よく言う・・・・」
今の今まで逃げようとしたクセに。

「ずっと隠して傍で見守るつもりだった・・・君に――。立ち入るのが、怖かった」
「アンタはいつだってそうだね・・・・肝心なことは何も言わない・・・。俺のこと――見えてる・・・?」
「言ったら君は・・・・・いや」

「俺のせい・・?」
「違う・・・!」

室井は青島の髪に顔を埋めたまま、青島の後頭部を優しく擦った。

「おまえのこと大切だけど、それよりもおまえが必要な気持ちの方が俺には大事なんだ。俺の我儘だ」
「でも・・・・」
「いいんだ・・・・・今は一緒に居たい」
「そっか・・・・」
「ありがとう」
「ほんとに、いいのかな・・・?」
「分からない・・・・でも俺は、おまえが好きだ」
「・・・うん」

そう言って二人は、おでこを擦り合わせて眼を瞑る。
まるで今だけを祈るように、この瞬間を噛み締めた。



「はは・・・っ。なんか、気が抜けちゃいました・・・。手、震えてるよ俺・・・・。――ねぇ、笑う?」

手の平を見せて、はにかむ青島の頭をガシガシと撫でまわす。
青島の顔は未だ強張った様子だったが、しかし瞳だけは悪戯っぽく、室井を真っ直ぐに見つめ返す。
もう、さっきまでの不安そうな色は消えていた。
何も言えなくなって、室井は再び青島の首元に顔を埋めた。


「良かった・・・・」
「なにが・・・・?」
「おまえに・・・今惚れた相手とかいなくて・・・・。付き合っているヤツがいるなんて言われたら打つ手がなかった・・・」
「・・・・・そしたら諦めるつもりだった?」
「まさか・・・。諦めきれるか。誘拐っていくだけだ」


抱き締める室井の手の力が、強くなる。

「泣いてるの・・・?」
「泣くかばか」
「そっか・・・・」


青島の吐息が少しだけ震えた気がして、ゆっくりと顔を上げる。
そう言う青島の瞳が、夜間ライトを反射して、一度キラリと瞬いた。

それはまるで、完成された芸術のようだと何処か遠くで室井は思った。









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