**HOLIDAY Ⅴ**







9.六日目
《ねぇ・・、ねぇってば・・・!今日は捜査に出ないんですか?》
「・・・こっちの仕事を治めておきたくてな」
《そんなこと、後じゃだめなの?》
「・・・後って?」
《だから・・・・そのぉ~・・・俺がいなくなった、あと》

ジロリと室井が眼鏡の奥から青島を見上げた。
さっきまでモニタに向かっていた視線はようやく青島を映すが、そこに笑みはない。

「・・・冗談でもそんなこと言うな」
《けどさぁ・・・》

まだ不服そうな青島が隣に舞い降り、羽毛の上にバウンドした。
言いたいことは分かっている。
捜査もまだ途中だったのに、室井は今朝からベッドからも出ず、一日休日モードだった。
焦れて、同時に暇を持て余した青島が、何か言いたげであることをずっと気付かぬふりをしてきた室井は、ようやく重く溜息を落とす。

「別に、急がなくてもいいだろう」
《だって・・・!この暑さじゃ俺のカラダ、腐っちゃわない・・?》

また室井がジロリと睨み、怯んだ青島が首を竦める。

《だって、だってだよ?自分が腐るってやっぱ、その、ヤじゃん?室井さんは分かんないかもしんないけどさ、でも、その、》

眼鏡をはずし、室井はベッドヘッドに背を預けた。
ここに来い、と隣を叩く。
青島がふわふわと寄ってきた。

《室井さん、もう捜査に飽きちゃった?そっちの方が大事?》
「いや?」
《捜査してくださいよ、おれのこと、どうでもい・・?》
「青島」

遮るように室井が名を呼べば、条件反射のように青島の口が止まる。

「君が。少しでも君がここにいるようにと願ったらだめか」
《ぇ?》

遺体が見つからなければ、この甘い時間がいつまでも続くような、そんな幻覚を信じているわけではないが
少しでも先送りに出来る気がした。
ようやく想いを繋げられ、恋人になれたのだ。一番大切なひとになれたのだ。
その時間を室井はもっと引き延ばしたかった。

《そ、そ、その顔でそんなこと言うの、反則デス》

照れた青島が上目遣いに睨み上げ、そっちの顔の方が反則だなと室井は思う。
可愛い幽霊は、初めてこの部屋へ訪れた時から、随分と距離を縮めた。
最初は窓の向こう、次は扉の外、そしてベッドの近く、今はベッドの上だ。
これは、憑りつかれているということになるのだろうか。
傍に居る室井に今のところ変化はないが、徐々に二人の距離は引き寄せ合い、そして今、こんなにも近くなっている。
生身の肉体と霊体が交流することへの不可逆的副作用は全く未知数だが、精気を吸われるなどがあったら
青島は迷わず室井のために遠ざかることを選ぶのだろう。

室井はそっと青島の淡い靄に手を伸ばした。
気付いた青島が顔を上げると同時に、その口唇の位置に口を重ねる。
触れ合える実感は多分青島だってないのだろうが、青島は甘い笑みを浮かべ、目を細めた。

《俺のこと、いちんちで飽きちゃったのかなって思った》
「悪いな、こっちは百年の恋のつもりだ。誰が手放すか」

今度は青島が手を伸ばし、室井を抱き締めるように腕を回してくる。
目の前を緑色に覆う靄を囲うように室井もそっと腕の中へと収めた。

「こわいんだ。君が朝になって、そのまま消えてしまったらと思うと」

何も言わず、青島が室井に懐くように首元に頭部を埋めた。
甘える仕草に、怖いのは青島も一緒なのだと伝わった。
このまま二人して犯罪者のように逃げていても仕方がない。現実から逃げても意味がない。
でも恋は、その罪を盲目的に理屈付ける。

心なしか身体も重く感じ、室井は腕の中の靄をただ虚ろに目に映しこんだ。

《なんとかしろよ》
「なんとかってなんだ」
《何とかは何とかですよ。男の甲斐性?》
「・・・違うだろ」



*:*:*:*:*:*

新城から連絡があったのはその午後だった。

室井はアクセルを加速させながら昼下がりの県道を制限速度ギリギリで駆け抜ける。
音もなく滑るように走行するボディカラーがブルーグレイの車はさっき借りたばかりのレンタカーだ。
青島がこれがいいと言った。

助手席に西日を受けふわふわと滲む青島を乗せ、車はやがて山道へと入る。


「何か感じたりするか?」
《ん~・・・今は特に。しんじょーさんの情報、確かなのかな》
「早々確実性の薄いことは言ってこないだろう。それに君に有り得そうな話だった」


母親に連れられた五歳の女の子が、先日落としたぬいぐるみを拾ってもらったおじちゃんがそのまま崖下に落ちていったと証言しに来た。
まだ幼い子供の証言ということもあり、交番で軽く処理されてしまった案件とのことだ。
少女の話では、そのおじちゃんは大丈夫といってぬいぐるみを彼女に投げ、ピースサインをしながら木々の中に落ちていったから少女も大丈夫だと思ったという ことと
やっぱり少し怖かったということで今まで言い出せなかったことを告げていたという。
母親もまた幼子の言うことだから話半分に聞いていたらしい。

新城が伝手を使い、内密にと探らせたため、浮き上がってきた話だった。


「場所は奥多摩。ほぼおまえの記憶通りだ」
《やっぱオンナ絡みか・・・俺も罪作りなオトコだな》
「・・・・」

五歳の幼女に何を期待していたというのか。

「人の世話を焼いて自分が落ちてれば世話ない」
《覚えときまぁす》
「・・・・」
《・・・あ、バスだ。ね、このバスってこの山超えていくのかな》
「そうだろう。君が乗った可能性が高いな。後を付けてみるか」
《ですね》


そのままゴトゴト田舎道を走る路線バスの運行に合わせ、知らない街を回遊していく。
長閑な日差しが傾けば長く車内までタンポポ色に染め上げ、ボンネットが反射する。


《やっぱ室井さんの運転ってキレイ》
「そうか?」
《運転って性格出るじゃない。ブレーキのかけ方とか》
「君の斬新な運転が懐かしいな」
《ぇ、俺、丁寧だったでしょ》
「ちょっと乱暴だけどな」
《それは言わない》


室井の屈強で長い形の良い足が淑やかにフットペダルに収まり、肩の力を抜いた真っすぐな姿勢で神経質そうな指先がハンドブレーキに置かれる。
凛然とした佇まいは美麗にシートに収まっていて、それを青島が眩しそうに見つめた。
官僚という立場上、いつも後部座席に収まるだけで、ましてや青島には大概運転を任せていたから何か尻のあたりがむず痒い。


「そんなに見るな。運転は久しぶりなんだ」
《だってカッコイイよ》
「・・・恋人を隣に乗せたい男の願望はあるがな」
《こここここいびと》


そこで照れるのか。
男の笑みで室井が微かに口を持ち上げる。
べた褒めされる方が擽ったいのに、変なとこで青島は純情だ。



****

一時間ほど走った頃だった。
バスは山間部深くを波打つように器用に進んでいた。
覆うように木漏れ日を受ける木々が頭上を覆い、民家も既に疎らとなっている。


《あれ・・・、なんか、ここ・・・》
「どうした?」 
《俺、ここ、通ったかも》

フロントガラスにべったりと貼り付き、青島が身を乗り出し表情を変える。

《あ、やっぱそう、そこ曲がるとたぶん四つ角》

言った通り、信号機のないアスファルトの禿げた十字路が現れた。

「来たんだな?ここに」
《そのままバスの後を行ってくれます?・・そしたら・・・そうだ、女の子と男がいたんだ》


現地の原風景を目の当たりにすると記憶が呼び出されるというのは良く聞く話だ。
思い出し始めたのか、青島もぼんやりとした口調で室井に聞かせるというよりは独り言のように言葉を漏らしていた。


《うさぎのぬいぐるみ抱いてた。その男、見たことあった・・・調書取って帰したやつだ》
「・・・・」
《女の子、泣いてて・・・なんか変だった・・・あ!止めて!!》

今度はべったりリアガラスに貼り付き青島が突如声を荒げる。
室井はウィンカーを出し、車を端に寄せた。


「此処、か・・・?」

室井が黙ったままの青島の背中に静かに声をかけた。
青島は僅かに頷いた。

陽光を浴び、キラキラと光を瞬かせながら黄緑色に縁どられていた青島の輪郭が火の粉が上がるように生気を得て盛んに躍動していた。
本人は無意識なのだろうが、青白いヴェールに満ち何かを訴えているかのようだ。


「いるのか・・・?」
《・・うん、この崖の下、何かある・・・俺が、いる》


ぞくりと室井の背筋が強張った。
今まで現実的ではなかったが、もし本体を見つけたとして、その後のことなどまるで意識していなかった。
発見出来たら、そうしたらこの青島はどうなるのだろう。
ここで終わってしまうのだろうか。
室井の前から消えてしまう?今ここで?

目の前の青島はリアガラスに貼り付いたまま振り返らない。


「・・・行って、みるか・・・?」

自然と堅くなった低い声で室井が問いかけると、青島が我に返ったように揺らめいた。
ゆっくりと肩越しに振り返り、室井を認め、くしゃっと笑ってみせる。

《そんな顔、しないで》
「だが」
《・・俺、ここから落ちたんだ。男がぬいぐるみを投げちゃってさ、女の子が泣くから俺が取ってあげるよって》
「・・・君らしいな」
《でも意外とあの木、枝ががさがさで掴みにくいんですよ》
「・・・ああ」
《中途半端なバランス取ってたら折れちゃって。やべって思って、咄嗟に他の枝掴んだんだけど無理で》
「・・・ああ」
《とりあえずぬいぐるみだけは渡さないとって思ったら受け身取る余裕なくなっちゃって》
「・・・馬鹿だな」

柔らかく脳に響き渡る鈴なりの声が語る物語を、室井が静かに相槌を打ちながら聞く。

《こう、ね、振り返りざまにぬいぐるみ投げてさ、心配そうな顔してるから笑ってやったの。ちゃんとぬいぐるみ受け取れて、ぱあって笑った顔でもう大満足》
「・・・そうだな」
《宙を落ちながらさ、その顔見て、あとは空だったよ》
「それが、君が見た最後の風景か」
《うん・・・いい天気だった》
「良くやったな」
《うん・・・だから、泣かないで室井さん》


室井の目は真っ赤に充血し、睫毛が濡れていた。
あまりに優しい記憶に室井の胸は息苦しいほど締め付けられる。
真っすぐに端正な顔を上げ、室井は滲む視界の向こうで微笑む青島を見た。


《真っ青な空はね、雲もなくって透き通ってて、すごくきれいだったんだ》
「・・・そうか」
《あんたにも見せたかったくらい》


ふわりと青島が近づき、瞼を閉じて室井の口唇を掠めとる。
柔らかそうなぷっくりとした口唇が目の前で何度か揺れ、室井も瞼を伏せ同じように応えた。


《出ましょうか》



車の外は土の匂いがした。
二人で崖の際に立ち、階下を見下ろした。
鳥の鳴き声が盛んに聞こえる長閑な山間は、人影もなく二人きりの間に風が抜ける。
人の手も入らない無造作に枝が混み合う寂れた場所だった。
乾いた砂利を踏む音がやけに耳に残る。


《人は空を飛べないんですねぇ・・・》

良く分からない感想を漏らす青島の横で室井は辺りに視線を走らせた。

人が落ちたような痕跡は特に見当たらないが、崖下は深く、かなりの勾配であることが見て取れた。
奥まった谷底は深すぎて鬱蒼とした濃い葉に覆われ良く見えない。
傾き始めた西日に、葉はオレンジに染まりさわさわと啼いている。

仮にここに本体が落下したとして、この夏の数日放置された肉体の状態は、容易に想像できた。

ひと気のなさが大自然に於ける人間の無力さを苛み、矮小さを嘲笑う。
ぶるっと震えた身体を隠し、室井が青島の方を向いた。


「分かるか?本体が」
《うん・・・、ここで合ってる》
「行くのか?」
《・・・うん、行かないと》


会話が言葉少なに途切れ、無常な風が行く当てもなく吹き抜けた。
足元を乾いた土埃が舞う。

室井の拳が堅く握られた。
濃紺とえんじ色のストライプシャツにチノパンというラフなスタイルが、室井のいつもの高潔さから奪い薄弱に佇立させる。

急に別れの予感を仄めかされ、室井の気持ちが付いていけない。
心を重ね合い、同じ痛みと同じ罪を記憶の中に深く刻み付けられたのは僅か昨日のことだというのに。
一人の男として、絶望的に無力だった。
足は一歩も動かせなかった。


「行ったら・・・おまえは――」

その続きの言葉が出ない。
隣に立つ青島も一度だけ室井に視線を戻し、吐息で苦笑した。

分かっていたことだ。身体を見つけたらこの時間が終わるということは。
霊体だけ分離しているのが不自然なのであり、真の存在はこの下で朽ちているだろう本体であり、これは当然の帰結である。
覚悟もきっと心のどこかでは出来ていた。
だが気の利いた言葉も、心置きなく青島を送れる言葉も、傲慢なままに爛れさせる言葉も、今は室井の中に何も浮かばない。

行くなと言って引き留めたかった。
彼をこの腕に抱いて、このまま浅薄で猥らで排他的な享楽に染まり、憐憫に堕ちた情痴に隠してしまいたかった。
青島に見初められるほど格好の良い男になりたいわけじゃなかった。
粋がって強がるよりも、愚劣でも、傍で、隣で、叱られ喧嘩しながら歩いていけたら、ただそれだけで室井は良かった。

あまりに無残で苛酷な運命に、再び失う愛しい欠片の刃先が室井を執拗に切り刻む。

嫌だ嫌だと言っても大人は誰しも先へと進まなければならない。
室井の人生は正にそういうことばかりだった。そしてそれは恐らくこれからも。
そのひと欠片の傷を、君もまた俺に付けるのか。

歯を食いしばって耐えていくその先にあるものが、望む形でないことを承知で進む未来が冷酷に室井を押し流す。
もう誰も失いたくはなかったのに。


「なにか・・・俺に出来ることは」
《・・・・ムズカシー注文がひとつ》
「言ってみろ」
《・・・笑ってよ。こんな湿っぽいの、俺たちらしくないから。だから思いっきり笑って、派手に行きましょ!》

青島らしい台詞に室井は息だけで笑う。だがそれも失敗した。

《恋をしよう?室井さんっ。精一杯、いっぱいいっぱい恋をしたいよ、あんたと!》
「ッ」
《恋は長さじゃないもん!だったらこの一瞬に俺は賭けたい!》
「・・・おまえ、」
《そんなに簡単に諦める?俺はヤですよ。本気だったら何度だって、何回だって、好きに戻る!》
「・・当然だ」
《俺以外の子に愛してるなんて言っちゃ駄目ですよ!ここに最大級の恋を作ろう?》
「・・・ああ、そうだな」

突如、本気ではないだろうに無責任に勝手なことを言い出す青島に、室井も付き合う。

《この恋で良かったよ俺!》
「俺はどうかしてると思う」
《ほ、他に言いようがあるだろ》
「そうだろう?君以外見えなくなって、君にしか感じなくて、君だけを求めるんだ・・こんなとこまで付き合って。馬鹿げている。正気の沙汰じゃない」


酷い言われようにも瞳を軽く眇め、青島が微かな笑みを湛えた。
迷いも弱さもそのまま丸ごと引き受けようとする室井を毅然と穏やかに見護ってくれる。
これほど真摯で誠実な瞳を向けられたことはかつてない。
室井の胸が痛みと哀しみと切なさと愛おしさが綯交ぜとなる。


「君が、いいんだ・・・」
《そんなのお互いさまですよ。でもね、沢山人を好きになって、沢山関わってね。あんたは理解されがたい人だから》
「言ってくれる」
《で、沢山子供作って幸せになってください。できれば三人以上》
「確かに難しい注文だ」

両手を広げ風を巻き込むように青島が室井の前で跳ねれば、そこから新しい風が生まれる。

《だいすきだよ、室井さんっ》
「俺の方が好きだ」
《あんたに逢えて――》

その先の言葉を室井が引き取る。

「君に出逢えた。それだけで良かった」
《また俺を見つけてくれる?》
「当たり前だ・・!」


青島は脆いけど強いなと室井の眼尻が幽冥に細まった。
出来ることならどうか、この強さと美しさをどうか俺にも。
せめてこの気高く可憐な息吹を護れるだけの強さをどうか俺に。

畜生と身勝手な青島の詰りながら、室井は潰れそうな喉を必死で動かした。


「その代わり覚悟しておけよ。君の相手は他の誰にも譲れない・・!」


他の人なら普通にできる交際も行為も何も出来なかった。
彼氏らしいことも、何も。
そういう世界に生き、そこで戦うことを選んだのだから、仮に幽霊でなくとも結果はそれほど変わらなかっただろう。それは仕方のないことだ。
でもそれでも恋は実り、いっぱい愛し、いっぱい大切に思えた。いっぱい恋をした。
この瞳に映らせてくれることを赦されたことは、まるで奇跡のようだ。
俺たちはこの瞬間に一生分の恋をしたんだ。
今確かに胸の奥に疼く痛みが、愛を証明する。


ぴょこんと青島が室井の目の前に着地した。
流れるような優雅さでキスを絡めとる仕草をする。
好きなようにさせながら室井は目を見開いてその姿を焼き付けた。

「忘れられない自分が憎いくらいだ。でも俺はきっと一生忘れない」

恋をありがとう。
俺を愛してくれてありがとう。

《べたな殺し文句だね》
「どうせ誰も聞いていない」


確かに、と肩を竦め、青島が抱き着く様に腕を室井の首に回した。
黄緑色の靄が室井の視界を覆う。
その向こうに謳歌する山林のダイナミックな視界が広がり、それは夕陽に紅く輝いていた。
強い夏の陽射しの向こうに木々が黄金に映え、見たこともないくらい、慶福な光の粒が揺蕩う。
落ち葉が風に舞い、光を受けてキラキラと真夏のダイアモンドダストのように空を彩った。
なんて美しい風景なのか。
この世界の美しさが青島の向こうで凝縮しているようだった。

今ここが世界の中心だった。
二人の間に混ざりものなど何もない。
それを見せてくれた青島に、室井の胸が感謝と怨嗟に行き詰まった。
観たくなかった。こんな原風景をたった一人で。

青島の靄を腕の中に収めるように室井も腕を回し、どうしようもなく震え、微かな鋭痛を覚える胸を飲み下し
室井は下腹に力を入れる。


《お願いが・・・》
「ああ」
《もし、俺が見つかったら・・・連絡・・・》
「分かっている。後のことは心配するな」

室井の首元に顔を埋め青島が囁き、室井はまっすぐと立ったままそれを援護した。

《ビビってる?》
「舐めるなよ」
《これから忙しくなるよ。泣いてる暇なんかないんだからね・・っ》
「中途半端に消えるおまえに心配されるほど軟弱にするな馬鹿」
《あんたの・・・馬鹿って、なんか優しい・・・》
「・・・・」
《ずっと、それ・・・聞いてたか・・っ》
「青島」
《・・・ほんとは・・ッ、行きたく、ないよ・・っ》
「それも、分かってる」


小刻みに震える青島の後頭部を撫ぜるように片手を回し、自分自身にしっかりしろと室井は心の中で何度も叱咤した。
青島は自分の我儘を言うことは滅多になかった。
だったら最初で最後の希望くらい、叶えてやらないで何が恋人だ。
青島の恋人でありたい一心が室井を頑なに奮起させる。


「怖くなんか、ないだろ。俺が一緒なんだから」
《・・・ん》
「行くぞ、一緒に」

室井の低く侍る勇猛なリードに青島がようやく顔を上げた。
想像通りに飴玉みたいな大粒の滴を瞳にいっぱい浮かべて室井への愛を乗せている。
男には行かねばならぬ時があり、その哀しい性の無常に今、二人で身を託す。
強い意志を乗せた室井の大好きな煌めきに変わり、青島は大きく頷いた。

《・・・・はいっ》
「――行け・・!」


室井の合図で、さあっと風のように青島の身体が透き通りセピア色の天に浮かび上がる。
ここ数日ですっかり舞うのが巧くなっていた身体は身軽に風に溶け込み、七色のヴェールが輝いた。
まるで昼間の花火のようだ。
青い夏が目に眩しい。
派手好きな彼らしい。
もしかしたら室井への餞であったのかもしれない。

小さくなる青島の背中にいたたまれず、室井は半ばやけくそで叫ぶ。


「青島ッ!愛していた!愛している!おまえだけを誰よりも愛している・・!!」


夏の向日葵が空に咲いたように青島が笑った。
夏の匂い、夏の名残。ひと夏の季節が彼と共に、今消える。
胸が痛いほど切ない。

天空から付近を伺うようにして数回山間部を確認すると、青島はそのままある一点を目指して進んでいく。

崖の上から室井はその様子を瞬きもせずに見守った。
一寸たりとも彼の雄姿を見逃したくはなかった。


見届ける室井の脳裏に、生きている姿の最期に見たいつかの青島の姿が蘇っていた。
最期の彼は優しげな瞳だった。瑞々しい感性で怖じ気なくぶつかってきた素直さ。見えない答えを導いてしまう稀有な天性。室井だけを慕う挑戦的な笑顔。
簡単には手懐かず、共振するほど近いのに、どこまで共鳴しても遠く、物足りない。
身体の裡から搔き乱してくる男だった。
あの夢も、あの夜も、そして今、目の前で飛ぶ男も。
俺に真っすぐ愛を向けてくれた唯一の男。


かがり火のように太陽の粒子が青島の身体をヴェールに包む。

《室井さぁん・・ッ、俺のカラダあったぁ!》

ゆっくりと、青島の身体が光に溶けた。

これで本当に終わりなのだ。
その姿を見ることも、言葉をかわすことも、もうない。
独りでこの先の大量の時間を生きていく。
俺は、生きる。



胸ポケットに長い指を差し込み、室井は慣れた仕草でケータイを取り出した。
番号すら見ずにコールボタンを押す。

「――消防と警察に連絡を。場所は奥多摩。バス通りから少し入ったところだ。人が崖から転落している」


霞む視界に、それでも最期の姿を閉じ込めようと、室井の目は力を入れて見開かれ、夏の強い西日の中に溶けていく青島の背中を見つめ続けた。
遠くまで連なる稜線に室井は秋田の山を想う。

ふたりで駆け抜けた季節はどれも眩しかった。
何もかもが全部初めてで。
何もかもが全部最高だった。
――君と過ごした季節は。


ケータイを仕舞い、室井は少しだけ名残を惜しむように立ち尽くすと、静かに踵を返した。
ラフに着たシャツの裾が未練のように後から風を包む。
鳥の鳴き声が夕陽に木魂していた。
やがて閑寂なここも紅葉に色付いていくのだろう。

肩越しに一度だけ室井を振り返った青島の残像は、陽の光の中で確かに笑っていた。



***


涙で滲むフロントガラスを必死に見ながらアクセルを加速させた。
少しだけ視界の良くなった左側の景色を寂しく思いながら、室井は独り車を走らせる。

本当は遺体収集まで見届けてやりたかったが現着だけを確認すると後は任せて室井は退散した。

君の亡骸など、見たくない。
君の最後はあの夕陽の色でいい。
車内には、あったはずもない君の残り香がそこにある気がした。
もうあの日の君も、この一週間の君も、この世のどこにもいない。
もう、どこにもいない。
もう、会えない。


ロマンスグレーに染まる東の空には満月が昇り始めていた。
ハンドルを握る瀟洒な室井の指が強く白ばむ。
心と反比例に、少し軽く感じる躰が片割れの乖離を伝えていた。

たどたどしい恋だった。後悔ばかりの恋だった。全てを捧げた恋だった。
俺は一生分の、恋をした。
精一杯の愛を知った。
そういう恋が、出来たのだ。
これを酷い悲劇と人は呼ぶのだろうか。

惜しみない愛を探して心が破裂しそうに喚いている。
心が恋人の名を呼んで、泣いている。
抱きあえなかった恋人の名を恋しがって呼んでいる。
もういない男の名前を呼んで、泣いている。


これで事故ったら青島に笑われるんだろうなと思いながら、ただ一人、室井は明日が来る筈の空を見上げて帰路を走った。
窓から入る風はもう涼しくて、秋はそこまで来ていた。










fin

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お読みくださりありがとうございました。
本当に蛇足ですが、その後の室井さんと青島くんを少しだけ描いてみました。