※本編の余韻をぶち壊す蛇足です。あのラストを大事にしたい人は読まない方がいいです。
epilogue
気怠い重さを残す午後の陽射しが事務室の奥まで届いていた。
資料チェックの手を休め、埃の舞う光線の中、室井は顔を上げる。
仕事に戻れば日常が戻った。
仕事に戻らねばならなかった。
元々本庁に存在しなかった者のことだ。誰も意識してない無関心の空間だった。
多少、突然の長期休暇や、休暇前の室井の言動に懐疑や目くじらを立てる輩がいたとしても、それらを室井は険しく美麗な顔で冷淡に聞き流し
何もかもが一過性に終わっていく。
青島の通夜にも葬儀にも出席するつもりはなかった。その意図を汲んだのか、誰も室井に予定を教えようとはしてこなかった。
亡骸に別れを告げたところで、室井に意味はない。
室井にとっては、あの夕陽に染まった鮮やかなグラデーションだけが時の終幕だ。
本庁の平凡で無機質な堅牢の中で、虚無感は孤独と虚脱を募らせ、強い西日に孤影が描かれた。
すっかりと冷めてしまった珈琲の置かれるデスクに戻り、室井は椅子に沈み込むように腰掛けた。
ギィと錆び付いた音が耳障りに残る。
日中は射すような陽射しとはいえ、太陽は随分と奥の床まで浸潤し
夏とは違うじりじりとした照り返しと忙しないツクツクボウシが秋を呼んでいた。
やるべきことをやるだけだ。
それだけのことなのに、それはとても難しい。
忘れ方くらい覚えている筈なのに、青島を想う気持ちを薄れさせてしまうことが辛くて堪らなくなる。
強いて理由を上げるなら、自分の未熟だった恋がこれで本当に終わるのだと、ようやく実感したのかもしれない。
ぽっかりと埋められぬ穴が胸の奥に存在していて、酷く膿んで灼けるような残夏の陽のような射光が室井を苛み、退屈にも似たやるせなさを訴える。
知的恫喝もないアンニュイな日常。
思い出を語る相手もいない。未来を重ねる者もいない。
懊悩も煩悶も、辟易するほど手古摺る相手も、胸を掻き毟る厄災も、起こらない。
その埋め方は、例え役目を進呈されていたからといって容易に補完してくれるものではなく
今、季節だけが過ぎ去ろうとしていた。
窓の外に気乗りのしない目を侍らせながら室井は冷めた珈琲を口に含んだ。
苦みが強く不味い。味もそんなに感じない黒い液体が喉奥に流れ落ちていく。
手付かずのレポート用紙が黄ばんで見えた。
持ち出した資料にランダムに走る光が室井の集中力を削ぐ。
何も、分からない。
室井の瀟洒な指先が機械的な動作で胸元を這う。
ケータイが震動している。
「・・・室井です」
耳元に聞き慣れた男の声が届き、室井はそれをらしくない腑抜けた思考で漫然と聞く。――が、次の瞬間。
「――何だって?」
魂の抜けたような室井の身体は鋼のように跳ね上がった。
**AFTER
HOLIDAY**
1.七日目
こんなことってあるんだろうか。
室井は険しい表情でノックするのも忘れ、いささか乱暴に病室の扉をこじ開けた。
勇んで入ってきた男の姿に、夕暮れに染まる二つの目が丸く集中する。
「あ、室井さんだぁ・・」
「げっ、なんで室井さんっ!?すみれさんチクったの!」
「あたしじゃないわよぅ」
脇から恩田すみれが身を柔く屈め、青島の耳に嘲るように茶々を入れる。
ベッドではあちこちテーピングしてあるほっそりとした身体に院内着をだらしなく着ている青島が枕に背を預けて起き上がり
室井を認めるなり煩わしそうな顔をした。
清冽で線の細い身体は青白く擦り傷だらけだが、すみれと騒ぐ――室井の目にはいちゃついているようにしか見えない――姿や声は
白昼夢でも幻覚でもなく現実だった。
信じられない光景に扉すら閉めるのを忘れ立ち尽くした室井の後ろで、スライドのドアがスルスルと閉じていく。
「あら。固まっちゃったわよこの朴念仁」
「ちょっと刺激が強すぎたかな」
「しかも手ぶらだわ」
「そこかよ・・・そこはいいじゃん」
「だめよ、こういうことはちゃんとしないと」
「ちゃんと・・?キャリアからも毟り取るのかよ」
「だってもらう権利があると思うわけよ」
「すみれさんに?」
すみれが猫のような目をくりくりとさせ、室井を映す。
「ねぇ、次はメロンね」
「一緒に食べる気」
「心配させた罰としては対等な報酬だわ」
「うきゃっ、ごめんなさいっ」
「きっと高級メロンよぅ。キャリアって見栄っ張りだから」
放っておくと室井のことなどそっちのけでどんどん二人きりの世界を作り上げる青島とすみれに、室井は憮然と眉間を寄せた。
だがそれすら気付いて貰えない。
愕然としたままの室井の意識は未だ立ち直っていなかった。
幾分やつれた見慣れた筈の顔色も悪く、目の前の精悍な顔立ちは困憊している。
それでも生々しい精気は紛れもなく生身の肉体から発せられるのもで、息吹を煌めかせていた。
何もかもが突然すぎて、これもまた都合の良い幻想なのか。現実と虚構の境目がまた分からなくなる。
未だ甘い夢の続きを見ているような、醒めてくれない悪夢を引き摺っているような、得体の知れぬ渦巻く感覚に
室井は難渋を強いられた。
あの悔恨の念も喪失感も焦燥も、みな生硬な記憶のままだというのに。
「そう言えば忘れてたけど、魚住さんが後で休暇届出しといてって。取りに来るからって言ってた」
「げ。もしかして有給削られるの」
「そうなんじゃない?」
「サイアク。無駄使いしちゃった」
「自業自得」
やがて、扉の前から一向に動かず表情筋すら動かせない室井に、ようやく青島が気を回し、案ずる視線を送った。
探るような濃い飴色の瞳が室井を認め、二人の視線がまじまじと合わさる。
それで室井はようやく呪縛を解かれその場から動くことができた。
吸い寄せられるようにベッド際まで近寄り、本人を確かめるままに身を屈める。
沢山の点滴に繋がれた身体は消毒液の匂いがした。
透けない瞳が室井を虚ろに見上げ、室井の心臓が早鐘のように脈打った。
「・・ぁ、その、すいません、忙しいのにこんなところまで足運ばせて」
「大・・丈夫なのか」
「重病に見えます?みんな大袈裟なんだから」
「・・・・」
会話が出来た。
もう二度と聞けないと思っていた声で、もう二度と見れないと思っていた瞳で、反則だろというくらいの愛らしい顔が、室井の前で旺盛に動く。
くるくる変わる豊かな表情はたわわに実った果実のようで、絢爛な生命力に満ちる芳香や息遣いが瑞々しい。
冴え渡るあの日の青空に溶けた同じ向日葵の面影で
それは本当に確かな実態を持っていた。
「どういう・・ことだ?」
「んん、一週間も眠れて、俺らっきーってとこみたいで」
「何呑気なこと言ってんのよ。あと半日遅かったらアウトってお医者さまに言われたでしょ?」
反対側からすみれに会話尻を引き取られ、室井は法悦のような視線から離脱する。
青島のつむじが見え、髪の毛がくしゃくしゃになっているのに何故か感動した。
「だけどさ、俺らの殺人スケジュールでも十分ヤバイと思うわけよ」
「森下くん、過労で倒れたらしいわよ」
「あぁ~ついに犠牲者が出たか。てか、何で門番で残業するんだよ」
「そこはイロイロあるんじゃない?」
「色々って」
「アピ~~ル」
声色を陰に落とし、青島とすみれが額を突き合わす様に囁き合った。
室井の視界を色彩豊かに彩り、脳髄に響く声は滑らかな雑音のない音に戻り、室井の鼓膜を甘く冒す。
目の前で動く本体という衝撃はあらゆる意味で超越していた。
感極まる胸奥の熱情は表には出ず、室井の拳が潰れるほどに黒鞄を握りしめた。
あの日、発見された青島の身体はすぐに消防によって回収された。筈だ。
後に新城からも聞いたことだ。
夏の陽差しを避けた黄緑色の木漏れ日の中にうつ伏せで眠るように横たわっていた。
一週間も放置されていたにも関わらずだ。
「あれ、んじゃまさか青島くんは奥多摩に逃げたってわけ」
「違いますぅー!そこはほら、イロイロあるんですよ」
「色々って?」
「ナイショ」
「あっやしいわねぇ。どうしたらいいのかしらこの態度。室井さんも呆れて固まっちゃってるじゃない」
「ん!室井さんも。仕事好きはいいですけど気を付けてくださいね。人生ほんっとどこで何が起きるか分からないですよねぇ」
風韻を漂わせた声色で他人事のように言う青島に、ようやく室井の理性が追い付き落ち着いてくる。
すみれの誘導に、室井は状況説明を求める指示を乗せた瞳を向けた。
新城から受けた先程の電話では要領を得なかった。
もう意識が戻ったらしいですよという衝撃発言だけで、他にろくなことを伝えてこなかった。
そもそも生きていたとは思っていない室井にとって、その報告自体天変地異である。
今の状況は何が何やらさっぱりだった。
室井の疑問を敏く感じ取ったすみれがストレートの黒髪を指先で耳にかけ、青島を見つめながらベッド脇の椅子に座った。
賑やかだった室内が途端鎮まり、空気の色が変わる。
青島もまた気配の変化を感じ取り、すみれを黙って見つめ返し、二人の間で意思疎通が行われたようだった。
青島の同意を視線で受け取ると、すみれはもう一度室井を見上げた。
視線で座るよう促されているのは分かったが、室井は固辞した焔を強める。
あっさりと引き下がり浅く気怠い息を吐いたすみれが、視線をシーツの撚れに落とし重く口を開いた。
「なんかね。詳しく聞きたかったら主治医に直接聞いて。今日はまだいるって言ってたし。きっと関係者だって言えば教えてくれるわ」
「君が聞いたことを」
「青島くん、仮死状態だったみたいで。干からびもせずに意識を失っていたことが逆に幸いしたみたいなの」
「言い方・・!干物じゃないんだからさ」
すみれに説明させる青島が小さく合いの手のように突っ込みを入れる。
「極度の栄養失調と脱水症状。あと何だったかしらね。体力や免疫力も落ちてるって話だけど・・・」
「・・まあ熱中症かな」
「崖から落ちたわりには骨も無事で、どこにも穴は開いてなく
て」
「穴って」
「山林に落ちたくせに頭も打たなかったんで
すって」
「どうやって落ちたんだろうね~?」
「知りたくもないわね」
「その代わり全身打撲で擦り傷だらけだけどねー」
「すぐ消えちゃうわよ」
また他人事のように笑う青島の背後で、太陽が最後の残光を射し、部屋は千草色に沈んだ。
すみれがゆっくりと腰を上げ、電気を点けにヒールを鳴らす。
多くの枝を圧し折ったにも関わらず、尖った木々に引っかかりもせず宙を舞った青島の肉体は
木をクッションにし岩に叩きつけられながらも串刺しになることはなく、衝撃を和らげ滑り落ち
肌や服を擦り剥きながら、そのまま崖下の空洞に衝突した。
(その一部始終を、青島が調書を取った男も見ていたことは、後の調査で判明する)
石が作る自然空洞は連日猛暑の中、一定の温度と湿度を保ち、野生動物などの侵入を妨げた。
朝晩氷点下まで冷え込む季節でなかったことも幸いする。
「そんなこと・・・あるのか・・・?一週間だぞ?」
「僅か半日で目を覚まして、第一声が腹減った、ですってよ。心配しがいのない人よね。元気だな君は~ってお医者さまにも笑われたトコロ」
「腹減った気がしたんだよ」
「今日はまだ食べちゃダメって言われてたでしょ」
「明日も赤ちゃんメシじゃモノスゴク不満」
むぅ、と眉間に皺をよせた青島が甘やかな声を落とす。
電気が点けられスッと明るくなった視界に僅か目を眇めた室井は清冽な姿勢を崩さぬまま、すみれに刑事の目を向けた。
「水分も取れなくて無事で済むなんて聞いたことがない」
「一週間も意識不明でいきなり目を覚ましたこともね」
「精密検査の結果はまだだろう?」
「それは青島くんの顔見てから言ってよ」
「・・・・」
「見つかった崖の空洞がね・・・本当にたまたま生命維持をギリギリ保てる環境だったんだろうって」
すみれはそのまままたベッド脇の小さな椅子にもう一度腰を下ろした。
ガッツポーズをする青島の前髪を引っ張りながら、子供をあやすかのように愛おし気な目を向ける。
「ま、蓄えがあったんじゃない?」
「そんな肥えてませんっっ」
「そうよねぇ、ラーメンじゃ筋肉にもならないわよねぇ」
「すみれさん、機嫌悪い?」
「振り回されたんだもん、文句くらい言ってもいいんだもん」
「素直に心配してたっていいなよ」
額が付くほどすみれに、いーだをする青島に、すみれもまた悪戯な目で応酬した。
イシシと共通の笑みを浮かべて微笑み合う二人を、室井は立ち尽くしたまま静かに男らしい薄い口唇を引き結ぶ。
何かが釈然としなかった。
刑事だからかもしれないが、こんな理路整然としない説明に納得しろという方が無理があり、そのせいかもしれない。
数多の情報が一度に流れ込み、奇抜な結果に心が縮こまっているようだった。
拭い去れない違和感みたいなものが未だ室井の胸に蔓延り、室井は黙したまま二人の夫婦漫才を聞き流す。
正直、見せつけられているような青島とすみれの仲睦まじさは苦みを齎し、早く二人きりにさせてほしかったが
今はそれよりも気になった。
「俺、ツイてた!」
「ついている人間は優雅に着地もするのよ」
「どこの戦隊ヒーローだよ」
――いつもの青島に見えた。
かつて、火花散らせぶつかり合い、共鳴しあった相棒である片割れの男と、違いない筈だった。
そして昨日まで腕の中にいた将来を誓い合った恋人だ。
男として室井が選んだ唯一の相手だった。
でも小さな棘のような違和感が室井の胸に去就する。
確かに青島なのだけれど、拭い去れない警告が室井の気持ちを逸らせる。
本当にもう大丈夫なのか。
本当にもう消えたりしないのか。
本当に青島なのか。
迂闊に喜んで、また絶望に突き落とされたりしないか、恐怖が先行し室井の足を竦ませた。
手放しで喜べない。
何だろう。
何処から突っ込んだら良いのかも分からないまま、答えを望んだわけでもない室井の口がたどたどしく動いた。
「その他に異常は」
「ないみたいよ?一週間くらいで退院できますって」
「あと煙草!!煙草吸いたい!!」
「それも当分オアズケ~」
一本だけと、おねだりする青島にコケティッシュな顔ですみれが条件を突き付ける。
今度食事を奢れだの、どこかへ行きたいだの、女の子らしい要求を並べ甘えている素振りからは、すみれにようやく安心が得られたことを伝えた。
すっかり座り込み、恐らくまだしばらくはこの病室に居続ける気であることをその様子が物語っていた。
室井にどこかこちらの方が邪魔者であるかのようなむず痒さすら感じさせる。
あれだけ寂がり恋しがって泣いていた女だ。
離れがたい気持ちは理解できた。
早く二人きりにさせてほしい――それを願うのはすみれの方なのかもしれない。
分が悪いと感じた室井は一旦出直そうと考え、黙ったまま背を向ける。
今は譲ろうと思った。
室井だって青島を確かめたかったが、心配し、同じ相手に恋した同士でもあった。
自分の大切な人間を大切に想う人間は、室井もまた重宝にしたい。
それに、と、室井は眉を引き締める。
今、肌を突き刺すようにビリビリとした、何処か残る非論理的な危機感とこの違和感について、もう少し独りで突き詰めたくもあった。
青島なのだけど、青島じゃない気がする。
あまりに霊妙な体験をしてしまったために、忌まわしい奇観に室井の精神が追い詰められてしまっているのか。
若しくは幽霊の方に慣れてしまったからなのか。
或いは半分抜け殻だった余韻が戻っていないのかもしれない。
帰る素振りを見せた室井に、青島ではなくすみれが背中から声をかけた。
「・・あ。ねぇ室井さん」
「?」
足を止め振り向き、玲瓏な面差しを向ける室井に、すみれの虹彩も負けじと射貫いた。
「あの、さ。あたしが言ったこと・・・覚えている?」
「・・・ああ」
「あれ、忘れてくれると助かるんだけど」
「・・・・」
「もう、いいの。だってあたし、もうこのままにしておくつもり、ないから」
意思のある凛とした瞳が、その言葉を本気であると室井に伝える。
室井はグッと喉を殺した。
つまり告白をする決意があるという宣戦布告なのだろう。
青島を本気で自分のものにしたいと彼女は室井に牽制しているのだ。
こんなことが起きて、それは彼女のせなかを押すには充分だった。
瞬間、室井は悟った。
このシチュエーションからして、すみれの計画だったことに舌打ちする。
無意識ではなく、わざと室井に早く帰れと促していた。
室井にだって渡す気はないと妨碍するからには、室井の猥褻な情熱にまで気付いている可能性だって示唆
する。
随分と積極的だ。
だが何かの不安感や苛立ちに煽られ、それが原動力となるのは珍しいことではない。今の室井のように。
室井はすみれの好戦的な女の眼差しをしっかりと見返した。
女の直感力に舌を巻きながらも出遅れたことを慚愧し、室井は肩越しに向けていた視線を扉に戻した。
もう、青島は室井のものだ。
だから彼女の決意は徒労に終わる。
それを分かっていて伝えられない罪深さは、すみれの真っすぐで誠実な視線を受け止めるには瀆神だった。
「そうか」
「協力してくれたら嬉しいけど・・・失敗しても何度も頑張るから、笑わないでね」
「笑いはしない」
穏やかながら格の違う室井の低い声に安堵感を得たのか、すみれが背後で甘やかな吐息を落としたのが分かった。
そんな室井とすみれのやりとりに、青島が不思議そうに首を傾げる。
「あれ?いつのまに二人そんな仲良くなったの」
「内緒~」
すみれの顔が女のものに変わり、青島に舌を出して淫蕩に揺らぐ。
刹那、雷に打たれたように、室井は肌を粟立てた。
嫉妬にも似たじりじりとした灼熱が室井の胸底を焦がし、警告している。
――そうだ、これは青島だ。
でも、彼の瞳が何も知らぬ無垢な彩りを放ち、室井を正しい距離感で捕らえている。
正しい距離――階級差をバネに、健全で頼もしい、ライバルだ。
社会性を含有する相棒であり同志としてしのぎを削ってきたかつての青島であって、幽霊となって室井と今生の別れをしたあの青島じゃない。
室井と想いを通わせた青島じゃないから室井の記憶とのずれがあるのだ。
すみれの前だから仕方がない部分もあるとは言え、突如そのことに気付いた室井は背筋を震わせた。
演技派で外面の良い青島のことだからと言い訳を付けてみるが、それにしたってまるでこの一週間を匂わせないのは
不自然ですらある。
不安定な想いを堪え切れず何かを確かめたくて室井は口をおずおずと開いた。
千切れそうだった心は今、救済を必要としていた。
「・・・青島」
「はい?」
目を見つめ、向き合えば焦燥感が逆に加速した。
やっぱり何かが違う。
「眠っていた間の記憶は?」
「眠っていた間に記憶ってあるんですか?」
「え、何?夢を見てなかったかって話?」
すみれも面白そうに身を乗り出してくる。
何と言って説明すればよいのか分からず、室井は困惑した。
というか、これで通じないほど青島が察し悪いとも思えない。
つまりその意味するところは。
室井の心臓がこれ以上ないくらい早鐘を打っていた。
「失踪していた間の行動を聞いている」
「・・ぁ、それはホント勝手に動いちゃって俺」
「そんなことはいい。奥多摩に行った後の記憶だ」
「ぁ・・後・・?俺、バスに乗ってたとこまでしかあんま覚えてなくって・・・すいません、事件性の聴取ってことですよね?」
「バス・・?」
「そう・・山奥まで入ってって、そこで知り合い見つけて・・・、そこまでかなぁ?」
なんだって?
じゃあ、あんなに情熱的に恋を伝え合ったのも、泣きながら口付けたことも、全部振り出しか!
必死で口説き落としたことも、命賭けて生涯を誓ったことも!
扇情さに煽られて赤裸々な告白までさせられて!
世界の中心で大声で愛を叫ばされて!!
「何も・・・覚えていないのか・・・」
「は、はい?ぇ、えっと・・、車のナンバーとか?」
「――」
「ごめんなさい、俺ほんとうに奥多摩に行ったのは――」
聞いていることが現地の情報でないことくらい、同一人物であったら察せる話だった。
仮にすみれがいるから誤魔化しているとしても、こんな無関心な目で突き放したような言い方は青島なら選択しないだろうと室井には思えた。
もっと巧みに色の付いた言葉を選んでくると思えた。
刑事を長く続けている習性で、人間の嘘というものは多少見抜けるという自負もある。
愛想笑いを浮かべながら青島が無造作に散らばる柔らかそうな髪をくしゃくしゃに掴んで首を捻る。
室井の強張っていた頬が、プルプルと痙攣したように堅くなった。
どおりで青島がケロッとしているわけである。
あんなことをして、あんな別れをして、今再会できた恋人に、照れもなければ恥じらいも見せないなんて。
おかしいと思ったんだ。
腕の中に包み込んだときの青島の細身の身体を思い出し、室井は眼光を強めた。
つまりは、今ここに居るのはあの秋の夜に物別れし、被疑者に刺されて絆を再確認したところまでの、青島なのだ。
叱られていると思ったのか、青島がたじろいで平たい笑みを貼り付かせる。
「・・ぁ、あれ?なんか・・・怒られてます俺・・?」
あの時も思い出も感触も、些細な会話も、同じ月を見た夜も、あの飴玉みたいな涙も。
もう室井の記憶の中にしかない。
それはまるで幽霊として現れ消えた青島そのものだと思った。
実態がない。確証がない。不確かなものは、みんな嘘と同じことだ。
一瞬だけ室井の漆黒の瞳が哀愁に陰る。
その変化を目敏く見つけた青島が小さく傷ついたような顔をした。
でも。
「上等じゃないか」
「ふぇ?」
唸るような声で室井がぼそりと呟いた。
二つの瞳が驚愕のままに室井を見上げる。
「出直して来る」
厳粛に宣言をし、颯爽と踵を返した室井は優雅な動作で扉をスライドさせた。
コツコツと規則正しい靴音を遠ざけながら、廊下を抜けていく。
あの時。
時間を戻してくれと切に願った。
やり直せるなら彼の時間を取り戻して欲しかった。
せめてこの時間が長く続けと月に祈った。
あれだけ彼の過去を独り占めしたく、彼の時間を手に入れたく、どうにもならない現実に打ちひしがれながら
世界の中心で愛を叫んだ。
恋しい相手にそれしかしてやれなかった無念をどれだけ悔やんだか。
でも今は、時間なんか戻してくれなくていい。
青島の過去も記憶も全部いらない。
忘れたのなら失くしてくれて結構だ。
そんなものは今の室井にはもう何の意味もなかった。
その代わり、青島のこの先の未来を全部頂く。
2.一週間後
まったく。同じ相手に二度も告白しなきゃならないなんて。
あれから一週間。
室井はとあるアパートへと向かっていた。
暗に調べさせたところ、青島は復帰早々張り込みの手伝いに引っ張り出されたらしい。
ちなみに、無事体力も回復した青島は再検査の結果もすこぶる優良値で、昨日追い出されるように退院したとのことだ。
時期が来た、と思った。
個人的に話すには湾岸署では職場ということで気が引けていた。
呼び出す口実に行き詰まっていた室井は、丁度良い機会だと本庁の仕事も早々に現場へ向かう。
何しろ記憶の飛んだ青島と室井はあの大事件以来、時間が止まっているのだ。
黙って美幌に経ったままほぼ音信不通の相手に上手い誘い文句など有りようもなかった。
都営団地が並ぶ緑道を越え、築年数の高い民家が密集する昭和の風情が残る路地裏を進んでいくと、目的のアパートが闇に幽静に浮かびあがる。
ひと気はない。
コツコツとした靴音が昏暗に響く中、室井は正面へと回った。
古びたその木造アパートを囲むブロック塀に差し掛かった時、向こうから黒い人影が現れた。
恩田すみれだった。
靴音が止まる。
虫も鳴き止む夏夜の帳の中、1mほどの距離を残し二人は立ち止まった。
室井が淡如に礼儀正しく軽く頭を下げる。
目を見れば、お互いが同じ目的であることは察しあった。
「何か御用?」
それでも敢えてその言葉を口にするすみれに、室井は眉間を深めた。
嫌悪感ではなく、本当に真意が読めなかったのだ。
疎ましいと思われているのかもしれないし、或いは今日も譲れと訴えたいのかもしれない。
すみれの奥手ながら強気な瞳が闇を盗み、室井を探るように見つめ上げてくる。
「お願いがあるんだけど」
「なんだ」
「しばらく青島くんの前に顔出さないでくれないかな」
「・・・何故」
手に持っていた、すみれの華奢な指先がコンビニのビニール袋をかしゃりと鳴らし、後ろ手に腕を組み治して横を向く。
「本当に勝手なの。悪いと思ってる。失礼な注文だということも十分分かってる。でもお願い」
「会わないでくれとは随分と極論を言う」
「こんなとこまで貴方が来ることも意外よ?・・・仕事中なのは分かるでしょ。もちろん、それだけじゃないんだけど」
「つまり、私がいると何か不都合が?」
大凡の予想は付いたが敢えてとぼけた問を返し、室井は静謐な姿勢を崩さない。
「貴方たちの友情に目くじら立ててるわけじゃないのよ。ちょっとだけでいいの」
「手間は取らせない」
それでも一週間ぶりだ。
入院中のことは彼女に譲った。
室井だって青島の顔が見たかった。
確かめたいこと、始めたいことが山ほどあった。
失った温もりを確かめ、心を重ね直したいと切望しているのにも関わらず折れたのは、あの日の彼女の涙ゆえだった。
青島みたいなフェミニストではなくとも、女のああいう涙を邪険にするほど室井も若輩者ではない。
子供みたいな取り合いをしているなと内心思いながら、室井はすみれの返事を待つ。
すると、すみれはまるで少女のように顔を膨らませて、黒髪を靡かせた。
薄手のブラウスが白く膨らむ。
「あの時、怪我した青島くん放って行っちゃったくせに、今更何なの?勝手だわ。この間から室井さん、何をしたがってるの?」
「・・・・」
「怪我させて悪かったとか言って許してもらいらいわけ?」
「そんなことが理由か」
室井が短く切り返すとすみれは少し詰まった顔をした。
「だって・・。青島くん、室井さんが来るとあたしのことなんかそっちのけなんだもん」
「・・・・」
「この間貴方が帰った後もそう。室井さんの話ばっかりで」
「・・・・」
「まるで取り付く島なくって。目なんかきらきらさせちゃってさ。室井さんも青島くんしか見てないし。悔しいっていうより、話すものも話せないの!」
恐らくその当人である室井には言いたくも認めたくもないことなのだろう、爪先で舗装されていない土を悪戯に蹴飛ばしながら
すみれは拗ねたような口ぶりでぼそぼそと続けていく。
「そういうモードじゃないっていうか、なんていうの・・・、青島くんの仕事モードのスイッチ入っちゃうのよ」
彼女の目にはそう見えているのか。
室井は少し興味深く彼女の言葉を反芻した。
青島が室井に対して一定のリスペクトや情熱を手向けてくれることは、室井としても気付いていたし、特別視されている優越感は当初から抱いていた。
だからずっとその期待と希望を裏切り彼を傷つけないよう、室井の中に巣食う猥らで淫靡な熱は無意識に封じ込め
自分ですら気付かないようにしてきたのだ。
そして、青島もまた抱く情熱が室井と同じ性愛を含ませるものだとは、室井にも気付かせなかった。
やはり第三者の目にも特異的に映っていたのかと初めて知った気分だった。
その平凡でない形に色が付き、恋に変わった、或いは恋だったと知ったこの夏の一週間が改めて貴重なものに思えた。
きっと、こんな不確かな霊体という形でなければ、青島も室井も素直になれなかった。
それらすべてが青島の記憶になくても、もうこの世のまやかしや夢幻だと罵られても、室井の胸を今も熱くする。
そんな青島が室井を選んでくれた。
それが、どれだけ嬉しかったか。
きっとその熱は青島と出会ったときから芽吹いていた。
気付いてしまった今、封じ込めておくことは最早出来そうになかった。
「二人の約束とか散々聞かされてきたし、理解も出来るけど、ごめん、今はちょっと・・・・困る」
「私を遠ざけることで解決する問題でもないだろう」
「室井さんしか見えなくなっちゃって。いっぱいで。そんな人にじゃあ何て言えばいいのよ・・・」
室井には気を許しているのか、頬を染めながら髪を耳に掛けるすみれは、今まで見た中で一番女だった。
高校生の純愛のように恋に憂えつつも、飢えた欲望を強かに育て、隠し切れずに抱えている。
初めて見せるすみれの愛らしい素振りに、同じく恋に脅えて戸惑う大人の脆さを室井は思う。
打算的なことを口にしながらも、はしたなく滾らせているものは、室井も同じだ。
少し前までの自分を見ているようで、室井は理知な瞼を伏せた。
積極的になるには建前が必要だった。
でももうそんな無駄なものは必要なくなった。
青島に良く似た強気の瞳を震わせ、似たような細髪を夜間電灯に煌めかせる彼女に
室井は限界を知る。
すみれを騙しておくのは男としてフェアじゃない。
「今夜も引き下がれと」
「出来ればそうしてくれる」
「・・・無理だと言ったら」
「そこまでの急用があるとは思えないけど」
「プライベートだ」
「・・・、じゃ、もうひとつ」
そういうと、不意にすみれは深い瞳を強く光らせた。
「青島くんはあんなだから心配してない。むしろ気掛かりなのは貴方の方よ」
呼応し、少し雄の支配色を仄めかせた室井に触発され、すみれが揃えて気配を変えた。
じっと、闇の中から室井の見つめ返してくる。
「青島くんは貴方といると貴方しか見えていない。そこに未来があって貴方になら全身を賭けて飛び込めちゃう無防備さも持っていて」
「ああ」
「きっと貴方が呼んだら青島くんは何処へでも行けるのよ」
「そうかもな」
「でも室井さんは違うわよね。もっと露骨に青島くんを欲しがってない?」
「――言っている意味が」
「分からないなんて言わせないわ。まさかそこまで無自覚じゃないでしょ、貴方ほどの人間が。もっと短絡的な理由で青島くんが欲しいのよね。違う?」
言葉尻を奪い、すみれが高慢に言い放った。
恋心のことを言い当てられたと思った室井は、警察官としての不備を指摘されているのだと分かり、少しだけ安堵する。
恋を知られることは腹のうちだったが、その奥に秘める猥らで淫猥な欲望までは流石に知られたくなかった。
だが、それは大差ないのかもしれない。
少なくとも目の前のすみれは室井の感情について、欲望を交えた独り善がりなものであることを勘付いている。
薄い理知的な口唇を引き結び、室井は目の前の小さな女の言い分を促した。
「上手く言えないけど・・もっと傲慢に、こう、焦っているように見えてる。だからヤなの。勝手だけど」
「・・・・」
「もしかしたらあたしが考えるよりもっと深くて、もっと重たい感情?なのかな・・・あたしと近い感じの・・・愛情・・・」
なんてね、などと笑って最後に冗談にするすみれは儚げで脅えが見えた。
その顔には、彼女自身笑うほど冗談には出来ず、不安と焦燥が入り混じり、むしろ女の本能的な危機意識を抱いていることを感じさせる。
「私に青島から手を引けと言いたいのか」
「そう取られても構わない今は。青島くんには内緒にしてほしいけど」
思えば室井と青島の傍に最初からいて変化を見てきたのもこの女だった。
「そういうの、今は邪魔なの」
お互い、もう二人でする会話が既に少し違うことは気付いてはいたが口にすることはなかった。
身勝手なのはお互い様だな。
室井はなんとなく哀歓を患い、少しだけ口端を持ち上げた。
隠しておくことと、なかったことにするのは、全く別物だ。
室井はしっかりとすみれを射貫き、闇色の虹彩を不意に雄の色に変える。
「君の言い分は理解した」
「そう」
「聞けない注文だ」
「どうして?青島くんがいなきゃキャリアでいられない人間にトップになんかなる資格ないんだからね」
「青島が必要なことは認めるが、私は必ず頂点に立つ。自分の力でだ」
「言うじゃない。だったら――」
「だが、そうだな・・・今夜も譲ってやる。ただし、仏心を出すのはこれが最後だ。次はない」
「!」
「悪いが、青島は渡せないと宣言しておこう」
「ッ、ちょ・・!」
「こちらにも事情がある。・・・時間がないんだ」
黙ったまま誰も通らない夜道で二人は波立つ視線を交錯させた。
これで全てが伝わるのならそれでいい、伝わらないのなら先に仕掛ける。それだけだった。
夏の終わりを匂わせながらもこの時期らしい蒸せた大気がじめりと重力を持つ。
「ぃ、・・いい気なものね・・!連絡ももらえなかったくせに!貴方のせいで青島くんは死にかけたのに!」
「償わせてくれるのなら惜しむものはない」
「そ、そう言ってどうせまたすぐ手放すんでしょ!キャリアなんてみんな嘘つきよ!」
「その分、欲しいものに容赦はしないと決めた」
「そんな中途半端な気持ちじゃ無理よ!絶対に青島くんから目を離したら駄目なんだからね!また消えるわよ・・!」
「今度は消えさせない」
「な、なによ・・・、それじゃ、まるで――」
「好きなように解釈していい」
「じ、自分の方が有利だとでも言いたいの・・っ」
「案ずるな。今の時点ではイーブンなんだろう?」
「ッ」
それだけ言い放つと、室井はサッと身体を翻して背を向けた。
去っていく室井の高貴な背中に、すみれが二の句を告げず息を呑む。
本気にさせた男の背中には気安く声を掛けられるだけの隙は無かった。
***
一旦帰る振りをした室井はそのまま建物を回り反対側の裏口からもう一度アパートに入る。
青島らが借用している部屋まで行き、木製の古びた扉に背中をそっと預けた。
中から二つの声が途切れがちに聞こえる。
「おー!アイスだっ」
「熱中症対策ね」
「気が利くねー」
「青島くん、今日何時までかかりそう?」
「もう上がり。今和久さんが来るってさ。そしたら引き継いで交代」
「ぇ、和久さんまで駆り出されてんの?」
「みたいよ」
「タイヘンだ・・・じゃあちょっと時間とれる?」
「いいけど、どした?」
「・・・ちょっとね」
「何、神妙な顔しちゃって」
「・・・後で話す。聞いてほしいことがあるの」
静かに瞼を伏せ、室井はその場を後にした。
3.
ようやく待ち合わせが取れたのは、それから数日後だった。
惚れた相手にちょっかいを出されて冷静でいられるわけがない。
ここら辺りが潮時だろうと室井は踏んだ。
良い顔するのも、同志に情けをかけるのも。青島を泳がせておくこともだ。
これまですみれに一歩譲っていたのは、あくまで二人の友情としての恩情だった。
別に青島とくっついてくれればいいだなんて思いやしない。その方が男として幸せだったとしてもだ。
もう遠慮することはないだろう。
理性で理屈をつけてどうにもならない兇悪な感情もまたあることを、室井自身何より身に染みていた。
踏切が上がり、往来していく黒い人混みを漫然と眺めた。
藍紺の夜空に上がる遮断機が、カンカンという警報機の止まった静かな街に武骨に上がっている。
線路から少し離れたブロックに身を寄せ、室井はまた一台、通り過ぎていく車を見送った。
こんなにもたくさんの人がいるのに、どうして自分は年下で同性の、あいつしか駄目なんだろう。
青島の心の中に自分がいない時、傍から見る彼がこんなにも手が届かないほど遠くて、凛とした透き通る美しさがあって
だからこそこれほどまでに狂わせ惑わせることを知る。
腕時計を見れば八時五十分を越えたところだった。
新橋の駅から一つ外れた酒場が並ぶこの細道に、彼はきっと来てくれる。
でもそれは上司への道義心なんだろうか。
午後九時。
指定した時刻に青島が線路の向こう側からやってきた。
心持ち急いで駆け寄ってくる瞳に胸が痛いほど締め付けられる。
「時間どおりだな」
「待たせちゃいました?」
「急に呼び出して悪かった」
「いえいえ」
スラっとした長身に端正な面立ちが零れるように咲く。
四つ歳下と聞いているがとてもそうは思えないほど若い。
室井はようやく巡り合えた本人に、目を細めゆっくりと向き合った。
何も変わらないが、確かに変わってしまった男を矯めつ眇めつ目に焼き付ける。
一見華奢だが、ノーネクタイで薄手のこの季節、時折チラリと覗く胸板はワイシャツ越しにも艶肌を思わせ、芳醇な色香を発し
そこから細腰へと向かう曲線は艶めかしく長い四肢が雅に目を引く。
女性でなくてもうっとりとする肉付きを持っていた。
彫深く高い鼻に形の良いふっくらとした口唇。
飴色の丸い瞳。長い睫毛の奥にある大きな瞳は色素が薄く、夜の帳の中でもキラキラと飴色の光彩を放っているのだから
始末に悪い。
これが、生きている青島との一年弱ぶりの再会なのだ。なんとも不思議な感じだ。
つい見惚れてしまっている自分を叱咤し、室井は眉を潜める。
「身体の調子は」
「え、どっち・・?」
「あ、そうか、すまない。先日の方だ」
「全然っ、本当に心配ないんですよ~。すいませんでした、その節はまた迷惑かけちゃったみたいで」
「炎天下だった。嵐の日もあった」
「みたいですね~。でもほんと、俺眠ってただけで。みんなにも本人が一番気楽ねって嫌味言われちゃいました」
へーきへーきと空元気に拳を作る青島の顔は桃色に血色も戻り、少し痩せたかもしれないが、元気そうだった。
室井の記憶の中に最初からある青島そのものだ。
心の中でほっとする。
既に一度、再会を果たしてしまっているからこその、ぎこちない会話はこそばゆい。
その僅かな室井の緩みを察したのか、青島が目を眇めて室井を見た。
霊体の時とは違う強烈に艶めく飴色の瞳と、愛らしい顔が闇に眩く、美しい。
腰の方は?ともう一度謝罪すれば、青島は優しく笑ってくれた。
こんな男に魅入られて惚れない人間はいない。
情に厚く、綺麗な女とかグイグイ来るタイプに弱いから絆されてなし崩しに押し切られて、あっという間に掻っ攫われそうだ。
その上、あんなことやこんなことまで強請られるままに許してしまいそうな危うさすらある。
どうしたの?と無防備に促してくる甘い瞳に、惚けていた室井は突如夢から覚める。
心配そうに顔を覗き込む青島と目が直にかち合った。
溢れ出す激情に息を殺され、室井がそのまま深く強い眼差しで青島を見つめ返すと
今度ははっとしたように青島が目を伏せた。少し頬が赤く見えるのは気のせいだろうか。
「・・ぁ、あの、話って」
どうやって口説いたらいいのだろう。
考えていなかったわけではないのに本人を目の当たりにしたらどれも嘘くさく思えた。決めていた手始めの文句さえ吹き飛んだ。
言葉を次げない室井のせいで、二人の間に変な沈黙が漂う。
前回は勢いがあった。失いたくない想いが拍車をかけ、消えゆく命の灯が背中を押した。
青島もまた不安定で心細い時期だったからこそつけ込めたともいえる。
踏切の横で堅い雰囲気の男が二人、向き合ったまま立ち竦む。
室井が喋らないから青島も喋らない。
また遮断器が降りてきて、赤いランプが煌々と点滅を始めた。
でも、約束したから。
“また俺を見つけてくれる?”
“当たり前だ・・!”
あの夕暮れの紅い空で、俺たちは一生分の恋をしたんだ。
腕の中に閉じ込め見つめ合った時と同じ瞳色をしている青島を、室井の夜の瞳が誘い込む。
室井は薄くゆっくりと息を吐いた。
「ぁ、あ、えと、まずどこか入りましょか。室井さん、夕飯は済ませて――」
何となく気を回そうとする青島に、室井がもう迷いのない玲瓏な面差しをまっすぐに向けた。
何かを察したのか、否、何かに脅えたか。
少し強張った様子で青島が長い足を覚束なく一歩下げ、距離を取って室井のタイミングをずらそうとする。
「いい。――青島」
無理もない。
青島にとって室井はただの上司で、しかも美幌に勝手に逃げたままの、冷酷キャリアのままなのだ。
それでも社交辞令で嫌な顔を見せない青島からは、確かに恋心などという甘いものは一切匂わせなかった。
“ずっと好きだったんだよ、知らなかったでしょ”
不思議な気持ちで室井は青島を見つめ、その瞳に青島がまたたじろぐ。
「ぁ、でも、こんな立ち話じゃ」
「いいから。逃げないでくれ」
「っ」
見透かした室井の台詞に青島が顔を強張らせて息を詰めた。
まさか、という疑惑と、なんで、という苦悶が青島の顔を面映ゆく歪ませていく。
それが腫れぼったいこの沈黙に色情の色を付ける。
彼は、狂おしい恋をしていたと言っていた。
ということは、この素っ気ない青島も密かに室井に片思いしてくれているという計算になる。
「な、なに?・・・なんかいつもの室井さんじゃないみたいで・・・その、」
「・・・・」
「はは、・・・そういえばこうやって外で仕事帰りに会うのもハジメテなのか。なんか変な感じですね・・・困ったな」
室井にとっては初めてでないプライベートも、青島にとってはこれが最初なのだ。
時のズレに室井の目が優しく哀しく眇められる。
それをまた敏く気付く青島の瞳も、合わせて憐憫に染まった。
「今夜は仕事の話ではない」
「っ、・・と、ぇと、じゃ、どうか・・・したんですか?ね?」
「そうかもしれない」
「っ」
はっきりと肯定したら、上目遣いで社交辞令に熱中していた青島が今度こそ言葉を失った。
饒舌で陽気な青島にしては珍しい雰囲気に、確実に何かを感じ取っている。
ぎこちない緊張を作り出しているのは明らかに青島だったが、室井もまた恋した相手を前に気が張っていた。
こそばゆい空気は室井を芯から爛れさせる。
成程、人の心は本当に分からないものだ。霊体の青島が現れなかったら今も青島の本心に室井が気付くことはなかっただろう。
恋い慕う青島の純潔な面差しは、それだけで告げようとしている室井の醜態さを、逸る鼓動と合わせて知らしめる。
ただ見つめ合うまま、どちらも言葉を挟めない。
雰囲気を作り出しているのは室井なのか、青島なのか。
だが前回、青島はこういう雰囲気になったとき、先に気を回し、全てなかったことにしようとした。
きっと今回だって室井がノロノロしていたら、先手を打たれる。
「「あの」」
発した言葉は同時だった。
お互い虚を突かれ、見つめ合う。
山手線が通り過ぎ、また遮断器が上がる。
周りに沢山滞っていた人混みも動き出し、警報器の忙しない音も止まる。
「潔くないな。はっきり言おう。俺と――」
車のテールランプが赤々と室井の虹彩を灯らせ通り過ぎ、闇が戻る。
「俺と――付き合ってくれ」
厳かな室井の低い声は紅い灯の朧の中、溶けるように零れ出た。
青島の透明な瞳は感情を乗せずに闇に透き通る。
綺麗だ――。
「今夜はそれを告げたかった。君を誰にも渡したくない。正式な恋人にしたい。俺だけの」
真ん丸な瞳が見開かれ、青島が気怠い風の中に狼狽した。
一歩遅れて真っ赤に染まる。
「なななななに言ってんすか・・・っっ」
「駄目か」
「だだだだだめに決まってんでしょ・・っっ、てか、何の話・・ッ」
ショルダーバッグを手間に抱き込んで青島が視線を泳がせる。
明らかに動揺が見て取れた。
いつも驚かせてばかりだったから、これもまた新鮮だと室井は思う。
黙してしまった青島を室井は審判を待つ罪人の気持ちで見つめる。
癖のある髪がさわさわと揺れるのを、触れてみたいと思った。
思い出してくれなくていい。
ただどうか、この恋を失くさないでくれないだろうか。
その胸に秘めた熱を一人でなんて抱えさせない。
ラッシュ時ではあるが踏切は上がったままで、会社帰りのサラリーマンらが立ち尽くした二人を追い越していく。
不思議そうに、向き合ったままの二人を振り返る者もいた。
チラリと青島の視線が奪われ、そのことが青島の乱れた理性を取り戻させたのか
一瞬の間を置き、青島は見事に冷静さを取り戻し、口惜しそうに食いしばった。
くしゃくしゃと髪を掻き回し、俯く。
そして表情を変える。
尤も内心ではまだかなり混乱しているのだろう、顔は紅いままだ。
「なに、言ってんの・・・、悪い冗談・・、」
「冗談でこんなことを言うと思うか」
「思えないからサイアクだ」
はぁっと青島の甘い溜息が夜空に上がった。
「本気?」
「ああ」
「うそにして」
「軽い気持ちで言ったわけじゃない」
「俺の、せい・・・?ですか?あんたが、そんなこと言い出したの」
「白状したのは俺の意思だ」
「でも」
「ずっと言おうと思っていた。言いたかった・・・君に怪我をさせてしまって、負い目もあって、機会と勇気がなかっただけだ」
「俺が、なんか思わせぶりな態度とったとか。あんたをそそのかすようなこと言ったとか」
「そういう経験が?」
「・・・」
やるせなく眼尻を下げた青島の哀愁に、室井はピンと察する。
「恩田くんに告白でもされたか」
「っっ」
「図星か」
そうか。昨夜、恩田すみれは乗せられるままに告白したのか。
思いのほか闘魂があるなと室井は舌を巻いた。
昨日挑発的なことを言ったのは彼女が諦めてくれればいいなと思ったからだった。
社交性を信条とする彼女が青島の前で女を出し告白することは出来ないだろうとも思った。
室井がまさか青島を手にしたいなどと言い出せるとも思っていない様子だったから、見くびられている気がし
こっちだって、そんな生半可な気持ちで想ってなんかいないと告げたつもりだった。
すみれの本気を見たから本気で応えるべきだと思っただけであり、お膳立てしたつもりは毛頭なかった。
それが逆に彼女を焚き付けたか。
「あんたに関係ない」
見つめ合えば動けなくなる。
「ああ、そうだな、関係ない。俺の気持ちは俺のもので、君が誰に好かれようと問題ない」
青島が下から探るような瞳を向けてきた。
夏の終わりの蒸し暑い風はまるで燻る自分の気持ちのようだ。
鬱屈して行き場がなく、滞る。
きっと、青島はまだ室井の真意を測りかねている。
スーツの下は嫌な汗ぐみ、夜気の湿度を濃く感じ取っていた。
気まずい沈黙を破り、室井が嫉むように口唇を動かす。
「彼女に何て返事するつもりだ?」
「言う必要ないでしょ」
「少しは、その気になった顔だ」
目の前で青島が困ったように肩を竦め、悪戯な子供を見守るような慈愛の瞳に変えた。
困ったな、意外だったな、でも、悪い気分じゃない――そんな表情だ。
今その脳内は告白してきた女の顔でいっぱいなのだろう。
それは室井の目には嬉しそうに見えた。
室井が告げたときは尻込みしてしまっているだけだったのに。
それすら、嫉妬に変わる。
嫉妬と、激しい憎悪のような灼ける熱を抱いている自分を自覚し、室井は自分で苦笑した。
それでも涼しい顔で、室井はそぞろに空世辞を乗せた。
「君は告白されたら簡単に揺れるんだな」
「んなの大きなお世話ですよ。あんたこそ政略結婚で恋愛ごっこしていくんじゃないの」
「俺の気持ちが信じられないか」
「恋もまともに出来ないキャリアのあんたがそれを言う?・・・俺は、そんな安くないですよ」
苦しそうに青島は眉を寄せた。
例えすみれの行為を室井が挑発したものだとしても、一人の男を二人の人間が競い合うのに、後先も理由も不毛だった。
どちらが青島を手に入れるか。
青島もまた、冗談に出来ないと返事したからには室井の恋情が本物であると通じている証拠だった。
「俺に君の一生を寄越す気はないか?」
「どうして、それを俺に?」
この夏の記憶はなくても、そこは知っているだろうとばかりに高圧な視線を外さない室井に
正視に耐えきれなくなった青島の視線がまた地面へと落とされた。
目元は前髪に隠れて見えない。
いつもより危うい彼に、逆に室井の方が冷静になる。
本当は強引にでも連れ去ってしまいたかった。
ただ、今の青島の本気を量りかねていた。
上司と部下の枠を越えさせ、心も身体も繋いでしまえば、室井の人生やキャリア、社会的な偏見・圧力を彼にも負わせるということになる。
生きている青島を手に入れるということは、そういうことである。
室井はキャリアであり、上司であり、言葉にしたからには背負う男であらねばならなかった。
懸念はそれだけではない。
この先、青島を手に入れられたら、室井は青島を手放せる自信が全くなくなる。
これほど強烈な感情を誰かに向けたことなどない。
抱き潰して、俺のものだと印をつけ、閉じ込めてぐちゃぐちゃにしてしまいそうだ。
それでも室井は青島が欲しいのだ。
あの日の青島が望んでくれたから。
「時間はやる。俺とのことを真剣に考えてみてくれ」
「男同士で真剣もなにもないでしょうに」
「本当に?」
「・・ッ、ど、どういう意味・・・」
しまったという顔をして、青島が頬を膨らませる。
「満更でも、ないんだろ?」
「んな・・っ、そっ、そんっ、そんなわけ・・ッ」
「ないか?」
室井が余裕を乗せた理知な顔で悠然と微笑む。
気持ちを知っている分、室井は強気に出れる。その動じない高貴な態度に、青島の方が狼狽え、視線を左右に彷徨わせた。
「――だから勘のいい男は嫌なんだ・・!」
室井に聞こえぬよう、乱暴に舌打ちをした青島が吐き捨てる。
室井が真摯な目を向ければ、見透かされていることを敏い青島は感じ取ったようだった。
「なんでバレてんだよ・・!」
「青島、俺たちは一緒に居たって潰れやしない」
「・・応えませんよ・・っ」
「そんな顔をしても無駄だ」
婀娜っぽく、蠱惑的で狂気的で、雄を悪戯に扇情するだけだ。
仄かに赤面し、汗で前髪が光るその顔は普段の強気を奪い、社交的な皮を剥ぎ一人の年下の男の隙だらけの脆さを乗せていた。
なんて可愛い反応をするんだ。
告白されることなど慣れているだろうに、過剰に狼狽え恋を知る初心な反応に、室井は二度の告白も悪くないもんだと思った。
「俺は思い出を大事にしたいです」
「思い出は重たすぎるときもある」
室井の言葉は重く地面に落ちる。
少し苛立ったような口調でいた青島も、その言葉に言葉以上のものを感じ、ようやく顔を上げる。
値踏みするような、何かを見つけたいような神秘の光彩を纏い、飴色の瞳が室井を虜にした。
どんなにたくさんの思い出も、深い絆も、本人がいなければ何の意味もなさない。
愛した分だけ、重ねた分だけ、抱えきれない後悔と喪失感に苛まれて、その重圧に耐えられない人間もいる。
終っていくものを切り捨てる残酷さも、自分だけ幸せになる薄情さも。
思い出は、時に刃物より鋭い凶器だ。
譫言染みた傍白で、青島が心騒めかせたように濡れた口唇に音を乗せる。
「あんた・・・初めに病院で、俺に過去、聞きましたね・・・。あれ、何だったの・・?」
「・・・」
「なんか変だと思ったんだ・・・あんたにしては雑談で」
「その話は、いずれしてやる。まず今は俺を見ろ」
「相手、間違えてませんか」
高圧的な物言いに反発した青島を沈黙で室井が制する。
掌で遊ばれているようなやり取りに、青島がついに焦れ、会話を終わらせようと身体ごと背けた。
「考えるまでもないことだ。あんただってホントは分かってるくせに」
「そうやって騙し続けるのか」
「知らないね。俺は何も言ってない」
少女みたいな高飛車な青島の身振りと口ぶりに、室井の胸が高鳴る。
「あんたからそんな台詞、聞きたくなかったですよ・・っ」
「・・完璧な上司でいてやれなかったことは、すまないと思う」
「謝ってほしくもない・・っ」
「でも、撤回は、出来ない」
謹厳に言った室井の言葉に、青島は半分振り返り、顔を向けた。
行き交う遠くの電車を見つめる青島の瞳は夜を吸う。
睨みつける閃光の眼差しは極上の光を放っていて、室井の背筋を悪寒に近い冷たい戦慄でゾクリとさせた。
でもどこか泣きそうに見えるのは室井の気のせいじゃないんだろう。
駅のホームから黒だかりの塊がまた一つ動いていく。
「・・んで、突然・・っ、・・・こんなこと・・・」
「だろうな」
室井は一歩近づいた。
ここまで地に足が縫い付けられたように突っ立っていた室井が初めて動いたことで、びくっとして青島が一歩下がる。
怯えさせているらしい。
それもそうかと、どこか他人事のように室井は納得する。
でもそれは、青島が室井を恋の対象として意識しているということだ。
「な、なんすか・・・」
たじろぐそれは、室井にというよりは青島自身の自己防衛のように見えた。
室井の高潔で冷淡な風貌は、それだけで威厳と権威を纏う。
「・・俺、逃げれるよ」
不意に室井の口端が持ち上がった。
あの夜と同じ言葉を吐かれ、泣きたいような熱い、湧き上がるような情動に見舞われる。
やっぱりあの日の青島だ。
青島は青島なのだ。霊体の青島も確かにここにいる。
思わず室井は腕を伸ばしていた。
青島の袖を手繰り、触れ合うほどに身体を寄せた。
あれだけ触れたくて触れられなかった生身の青島の躰を感じ、室井の指先から電気が走る。
火花が散るほどの鋭い痛みに、刺激に思わず身を固くした。
じっと強い視線が交じり合う。
青島が視線を外さないまま、室井全てを拒絶した瞳でゆっくりと腕を動かし、青島の体温の高い指先がそっと室井の手をなぞる。
そのまま包み込むように重ねられ、指先を力なく解かれた。
力任せに抵抗されているより拒絶を感じさせる。
室井の指先を握ったまま、青島が顔を近づけ、覗き込むようにして、室井を射貫いた。
「・・・放して」
刹那、室井は手を返し、逆に振り解こうとする青島の手首を捻り上げ、挑む様に顔を寄せた。
瑞々しい息遣いが目の前に迫り、室井は息を殺して囁く。
「逃げるのか」
「俺は、・・・間違えない」
「俺から逃げ切れると思うか?」
「あんたが力技に?」
「キャリアが皆机に向かっているだけの木偶の坊だとでも思ったら大間違いだ」
ギリと室井の指先が青島の手首を捻り上げる。
少し眉を寄せた青島が挑発的に睨みを利かせた。
「・・っ、そういう手段に出んの?」
「場合によっては」
「へぇ、やってみろよ。それで俺が言うこと聞くとでも?」
「ならば俺を嫌いって言ってみろ」
「ッ」
「俺を愚弄し、この手を振り解き、ここに俺を置き去りにしてみればいい・・ッ」
憎しみにも痛憤にも似た灼けるような瞳で青島が怒りを浮かべ艶めかせる。
あれだけ焦がれた宝石のような紅い口唇が濡れて艶めき、宝石と共に目の前で芳香を放つ。
指先で触れただけでこんなにも取り込まれる。
もし魂ごと、身も心も重ねたら――
まるで警告を促す様に、幾度目かの遮断機が叫び出す。
「あんた卑怯だ・・っ。それに俺を頷かせんの・・っ」
振り払おうと、肩をゆすり室井の指を解こうとするが、鍛錬された室井の制圧はそう簡単には振りほどけない。
青島は力で敵わないことを悟ると、小さく息を千切らせ、一歩下がった。
室井が一つ歩を進める。
「・・っ、恋ってこんな一方的なものでしたっけ?」
「君がもう一度手に入るなら」
「は?意味わかん――」
誘惑されるまま、室井は指先に力を込め、佇む青島を強引に引き寄せた。
小さく叫んでバランスを崩した身体を、がむしゃらに腕の中に抱き留める。
柔らかい髪に首筋を擽られ肌が栗だち、甘い体臭は蕩けるように室井を包み、混ざる体温と共に
殴られるより強靭で凶悪な刺激が室井の全身を震えあがらせ走り抜けた。
息が、止まる。
「ぁ、ぅ・・っ、ゃめッ、て、くださいよ・・っ」
「青島・・ッ」
低く掠れた狂おしい室井の声が青島の鼓膜を響かせ、その背筋がびくっと震えたのが分かる。
息を止めたのはお互い様のようで、青島の荒く千切れた息が室井の耳元を掠めた。
その躰を室井は男の力任せに抱き締めた。
甘い体温。柔らかい肌感。触れたらくしゃりと擽る細髪。
無防備なくせに艶冶な雰囲気を薫らせ室井を底から煽る。
長い手足が夏の薄着で映え、抱く者の手触りと猛り立つ劣情を昂奮させた。
すっごい・・・――!なんて質感なんだ。
泣きたくて、狂おしいくらいの情動が室井を犯していく。
括れた腰に腕を回してシャツ越しの体温を凌駕する。
肉付きのない躰は折れんばかりに室井の腕の中で軋み、青島が苦し気に呻いた。
思い出してくれ、という計算があったわけではなかった。
これで思い出してくれるならそれに越したことはないが、そんなに簡単なものではないだろう。
思い出してくれることよりも、今のこの青島に室井を刻み付けたかったという意識の方が大きい。
なによりずっとずっと触れたかった。
ずっと抱き締めたかった。
その熱い躰を知ってみたかった。
夢にまで見た、儚く消えた願いが今ここに叶い、室井は感極まって夢幻の悦楽に甘受した。
青島の瞳に映れて触れられる無限大の幸福に、生きている彼を今初めて確かめた気分だった。
今はまだ、触れて良い相手ではないのかもしれない。それでも止まれない。
「君が、好きなんだ・・!」
するりと、あれだけ戸惑った情愛が、懺悔の如く室井の口から零れ出た。
一瞬嗚咽のような吃音が聞こえ、青島が室井の首筋に顔を埋めたかのように感じた。
身を固く強張らせたまま、室井の喉元で一度だけ息を吸う。
くしゃりと掠める細髪。甘く精気に満ちた息遣い。匂いたつような色香を放ち、青島の躰が震える。
が、次の瞬間、どんと強く胸を押された。
「・・ッ」
そこには室井の胸に両手を付いて激情を湛えた瞳があった。
呼吸すら感じる距離に、室井の理性が激しく揺さぶられる。
怒りも、憎しみも、恨みも、絶望も、怨念の籠もった嫌悪感さえ、青島に室井が付けられる傷も、青島が室井だけに向けてくれる感情も
どれもが鋭利で現実感があって、鮮烈だ。
「・・恋愛ごっこがやりたいなら他あたれ!これ以上あんたに捕り込まれんのは御免だ」
熟れたような口唇と、赤らめた目元に目を奪われているうちに、今にも泣きだしそうに青島の顔が歪む。
畜生と呟く声が風に途切れ、青島は走り出した。
逃げ去っていく。
室井はそれを追いかけられなかった。
青島の傷ついた目が胸をえぐる。痛ましい傷跡がまた一つ遺される。それさえ室井には悦びだった。
後悔しないための生き方は、とても難しい。
陰気にまとわりつくような暑さが身体を茹だらせていた。
あまりの肉感の衝撃に室井の足が竦んでいた。
下半身が燃えるように熱く、疼くような甘い痺れが全身を支配する。
ただ抱き締めた。それだけで。
「くそ・・っ」
こっちの腰が抜けそうだ。
4.
「おい、また来てるよ」
隣で和久が顎をしゃくり、道路の向こう側を指し示す。
一度だけ冷めた視線を送った青島が溜息を落とすと、和久は急かす様に肩で肩を小突いた。
「だってさっ、あのひとしつっこいんですもん」
「お偉いさんを待たすのは感心しねぇなぁ」
「分かってますよっ」
「だったら早く行ってやれ」
「なんなの、あのひと?もう勘弁してほしいですよ。これ、ストーカーですよっ」
「用があるんだろうがよ」
それはそうなんだけどと青島が口を濁す。
退院してすぐ、室井は見計らったように現れた。
話があるというから、のこのこ出向いて行ったら、あの男の口からとんでもない言葉が飛び出てきた。
「俺に用はないですもん」
ぼそりと不貞腐れた憎まれ口を落とし、青島が頬杖をつく。
実際目が覚めてから分からないことばかりだ。
あれだけ音信不通だった男が入院してからやけに影をチラつかせる。
というか、あんっなに必死に隠していたのに、なんでバレてんだよ・・・。
失敗したぁと青島が両手で頭を抱えてその場に蹲った。
室井は青島が抱いている感情について、何処か確信したような物言いだった。
そうでなければあの慎重な男があんな腹もない行動に出てはこない。
和久が座るなよと言う代わりに足で小突いた。
「ッテ、なにすんですか和久さんっ」
「ばぁか、お前さんな、座り込んでどうする。不審な行動とるなよ、張り込みの基本だ」
二人で見張り役を頼まれている。和久とこうして外回りに出るのは楽しい。
年配を敬う気持ちだけでなく、達観した視野や知らない捜査の裏マニュアルなどをこっそり教えられ、それは青島の満足を促し平静を取り戻させる。
日々は充実していた。
耳元で囁かれた愛の言葉が青島のそんな些細な日常を雁字搦めにする。
室井のようでいて室井ではないようだった。
言っていることも良く分からなかったし、室井が一人の男に見え、怖かった。
でも、青島が病院で応えた時に見せた顔、告白を断った時の顔。強張った頬を萎縮させながら眼尻を哀しみに歪ませる――
あんな顔をさせたいわけじゃなかった。そして、そんな顔を前にどこかで見たことがある気がする。
黒い雨に濡れた、強い風。蒸せるような大気。
それは、何処だっただろう。
少し記憶が曖昧だ。胸に燻るのは、強烈な違和感。
あのひとは何で現れた?
あのひとはいつから一人称に“俺”を使うようになった?
“君が好きなんだ”
甘い誘惑の声が、青島を息苦しくさせる。キャリアに本気で恋なんか出来るか。
身分違いの恋に勘違いしそうになる。
5.
「・・・何してるんですか」
くるりと青島が回転し、反対方向に引き返し始める。
「君を待っていた」
「待たれる理由がありませんよ」
「俺の用事は済んでない」
「断りましたけど」
連日続く猛暑の熱帯夜は今夜も変わらず、蒸した夜に白い月が欠けていた。
今度は待ち伏せと来たか。
邪険に扱う青島にも厭わず、室井の堂々たる足取りにも淀みはない。
「青島」
「今日は疲れてるんで。お帰りくださいっ」
「待つんだ」
「待ちませんっ」
「もう一度チャンスが欲しい」
「ないですっ」
「君はこのままでいいのか」
「ついてくんなよ・・っ」
「おまえ、ちょっと俺に対する扱いが酷くなってないか?」
「俺だって大事にしたいですよっ、ライバルで相棒で上司ならっ」
またそういうことを言う。
浮き立つ心をひた隠し、室井が足早に青島を追いかけてくる。
まさか帰宅時刻まで把握されているとは思わなかった青島が小走りに駅への路地を擦り抜けた。
人通りの途切れた路地を二つの靴音が協奏する。
「ちょっと止まれ」
「止まりません」
「意地を張ってても仕方ないって分かっているんだろう?」
「大体何でこの駅にいんですかっ」
「ここなら捕まるだろうと思ったからだ」
無慈悲な背中に向かって憮然と答える室井に、合いの手のように青島のやきもきした声が被さる。
「何であんたが俺んちの帰り道知ってんのかって聞いてるんですよっ」
「とりあえず一旦止まってくれ」
後から強引に二の腕を引き、室井が足を止めさせた。でも振り返らない。
夜風を包む白いシャツが藍色に透け、頼りなげに肌を透けさせる様子に
この気温でも涼し気に見せる、きっちりとスーツを着込んだ室井の目が彷徨う。
強引で傲慢な指先が強く青島の二の腕に食い込んでいた。
せめて振り解かれない指先を確かめながら、振り返らない背中に、室井がそのまま淡如を装い話しかける。
「避けないでくれないか」
「疲れてんでしょあんたも。顔色悪いよ」
「君は色艶いいな」
「嫌味ですかっっ」
茶番の押し問答に室井が小首を傾げ、思わず青島が振り返った。
空かさず、渋る青島に食い下がる。
「諦めたくない」
「・・馬鹿じゃないの」
「君を頷かせるまで通い詰めてもいいだろうか」
「そんな泣き落としに折れると思う?」
「絆されてくれればとは思っている。・・・が。一度でいい。俺を試してみないか」
「じゃなくて!このまま付いていくほど俺は若くないんですよっ」
室井が脅すような文句を吐いてみれば、やってらんないというような大袈裟な溜息を吐いて、青島が応戦する。
だらしなく開かれた襟元から除く小麦色の肌が夜に際立ち、室井の目を奪う。
「あんた、俺にそんなこと言っていいの?」
「――、覚悟はできているから」
「その覚悟に俺が喜ぶとでも思った?」
「・・・」
「そんで?いい歳して二人で盛るわけ」
少し背の高い位置から青島が挑むように覗き込めば、そこには男を狂わせる魔力がある。
室井は至近距離に迫った甘い体臭にカッと熱くなる身体を漲らせ、顔を強張らせた。
不意に近づかれる距離に、心が騒ぐ。
強く灯る焔を隠しもせず、闇色の瞳が揺らめいた。
夏の霞夜に酔わされているのか、狂わされていくのか。
「キャリアって、どんなテクニック披露してくれんのかね?」
卑猥な誘い文句も様になる男は、そのまま夜に溶け込むように妖艶な微笑に変わった。
「それ目的ではない」
「ですよねー、オトコ相手じゃ勃つもんも勃ちませんよね~」
「証明してほしいのか?その躰で」
室井が恫喝的に切り返したら、青島もまた睨み返した。
室井に掴まれたままの腕を預け、息を呑んで口唇を引き結ぶ貌はなまめいた雰囲気を醸し出す。
蠱惑的な熱を乗せ、思わせぶりな甘ったるい声。
強気で勝ち気な折れない純潔の眼差し。
どれもこれも、真夏の太陽みたいに火傷しそうなほど、室井は挑発される。
これで誘っていないだなんて、男は誰も思わない。
慣れた匂いが鼻腔を擽り、室井は甘い疼きに見舞われた。
これを全て自分のものにしたい。
息が止まるほど抱きしめたい。
この腕に抱き留めるだけじゃきっと止まらない。
もっと猥らな部分まで踏み込んで、穢して、陥落させて、欲しいままにぐちゃぐちゃにしてしまいたい。
苛烈な破壊衝動が、止まらない。
「――おまえ、もう少し警戒しろ。そんなに男を誘うな」
室井の傍で挑発的に留まる幼い顔に、呆れたように、同じく額を近づけ室井が囁く。
青島の前髪が室井の額をくすりと擽った。
「へぇ?・・あんた誘われんだ・・?俺に?」
至近距離で挑む視線が忌々しいほど真剣な光を宿していて、室井の柳眉が顰められる。
ふっと青島が不敵に冷笑した。
「ばぁかっ、勝手に自慰してろッ」
魔性の男ははねっかえり娘になった。
べぇっと舌を出し、室井の不意を突いて乱暴に脛に蹴りを入れ、取られた腕を捻り。
そしてウっと呻いた室井の腕からするりと抜け出して、弁えもなく得意げな顔をして、逃げていく。
幽霊の時はあんっっなに可愛かったのに。
「良い逃げ足だ。さすがだな」
――いや、今も充分可愛いか。
室井は蹴られた脛の辺りのスーツの汚れを叩き、身を起こした。
そのまま青島が奥手の柵をがしがしとよじ登っていくのを確認する。
・・ああ、確かあの向こう側は今道路工事中で通行止めにはなっているけど人は通れて、見開かれた風景が好きだとあの日の青島が案内してくれた。
アパートへの近道にもなるのだと。
“ここ!俺の秘密基地!アパートへのショートカットにもなる!お得なの!”
“・・・立ち入り禁止って書いてあるぞ”
“堅い堅い!どーせ誰も気づいてないって!”
“おいこら、青島っ、待て・・!”
“室井さんこっちこっち!”
つまり反対側から彼はアパートに戻る気だ。
そのまま青島はてっぺんに片手を付き、足音を夜空に響かせ、柵を足場にして優雅に柵の向こうに舞い降りた。
白いシャツが印のようにはためき、幽霊でなくても身軽な躰を物語る。
工事関係者の小屋の向こうへと小さな背中が闇に紛れる。
全く。生意気で世話の焼ける。
室井は元来た道を引き返し、表通りから青島のアパートへと向かった。
これじゃまるで本当にこっちが未練がましい怨念のようだ。
生身の青島は一筋縄ではいかない。
改めて室井は忌々しく天を仰いだ。
今夜の月は三日月だ。鉤爪に曲がって藍色の夜空を裂いている。
****
「うぎゃあああっ!なんっでここが分かんのっっ!??」
青島がアパートの二階へと続く鉄骨階段を鳴らして半分ほど上がった時、室井が反対側から到着した。
下を覗き込むように腰を曲げ、上から青島の悪態が室井の頭部に降り注ぐ。
最早返答もなく、室井も階段を回る。
「やっべ・・!」
「青島ッ、おい、ちょっと待て・・ッ!」
有無を言わさない青島がカンカンと甲高い音を上げ、そこに室井の足音も加わった。
一番奥の自室に辿り着くと、青島は見事な早業で鍵を開け、中へと滑り込んだ。
間一髪、届かず室井の手が宙を掠める。
無残に閉ざされた木製扉の向こうでガチャリとロックを回す音が遮断した。
「!」
生身の青島は一筋縄ではいかない。
意地になっているのはお互い様だ。
室井が扉を開けた途端、再び叫び声が木霊した。
「ぎゃあああ・・ッッ!!なんっっであんたがこの部屋に入ってこられんだよ・・っっ」
「鍵を持っているからだ」
「だから何でっ!」
「君がくれた」
「いつだよ!!」
「そこの棚の裏に俺も写った集合写真が隠してあるのも知っている」
「ぎゃあああぁぁッッ」
夜更けに煩いやつだ。
まだ靴を脱いでもおらず、玄関先に蹲っていた青島が、耳を塞いで絶叫する。
立ち上がり、部屋へと逃げ込もうとした腕を、室井はもう想いのままに後ろから引き寄せた。
腹から腕を回し、そのまま室井はもう有無を言わさずその紅い口唇を強く塞ぐ。
「――ッッ」
ピシッと大気が裂けた気がした。
いきなりの暴挙に出られて口を塞がれた青島は、事態を飲み込めず、まあるい目を見開いて凍り付く。
騒がしかった騒音が途端に止み、色付く二つの衣擦れに変わった。
ずっと触れたくて触れられなかった。
ふくよかな口唇は信じられないほど濃密で弾力があり、室井の細胞にまで満ちて染み込み
どれほど飢えていたかを赤裸々に伝える。
胸が、痛いほど切ない。
これが、どれだけ欲しかったか。
これを、どれだけ願ったか。
「ん・・っ、ばか・・っ、なにす――」
荒げる息遣いの中のか細い音が卑猥に室井の耳を犯してくる。
そのまま扉に背中を押し付けられ、狭い場所で圧し掛かるように挑む男に成す術を失い
青島は室井の肩を押したり身を捩ったりと、必死に暴れた。
ゴトゴトと、物音が阻害する。
だが鍛えられ整った身体の室井はビクともしない。
室井が片手でしっかりと施錠し、青島の顎を持ち上げ、更に深く口唇が重なった。
たどたどしく室井のスーツを掴もうと悪さをする手首を捕らえ自由を塞ぎ、室井はその脚を膝で割る。
「・・っく、ふざけ・・っ」
圧し掛かるように胸板を合わせ、室井がぴたりと完全に口唇を密着させた。
吐息ごと奪われ、癖の悪い脚が室井を蹴ろうとする。
計算していたつもりはないが、このまま押し問答を続けても二人に生産性は薄かった。
結局消えた記憶に何の確証も証拠もなく、言葉にしない恋心もまた同じで、幽霊そのものだった。
平行線のまま、説き伏せるほどに、きっと青島は頑なになる。
だったらこっちの方が早い。
室井は片手で青島をすっぽりと抱き込むと、逃すまいと顎を掴んだ手に力を込めて固定した。
苦情を言うために無防備に開いた口腔に、迷わず舌を突き入れる。
「・・っ、・・んぅ・・ッ」
呻いた青島に構わず、熱く柔らかい内壁を隅から奥まで味わっていく。
蕩けるような感触のふくよかな口唇が極上に甘く離れがたい。
蜜のように蕩ける液体がぴちゃりと猥らな音を立て、ねっとりと室井の舌に纏わりつくてくる媚肉は熱く波打ち
歯が微かにかち合った。
目を瞑り、青島が眉を切なく寄せる貌が室井を慢心な獣欲に覚醒させる。
触れられる奇跡に、青島がここにいる実感に、室井はこれ以上ない愉悦と感謝に満たされていく。
夏の夜に俺たちは小さな温もりを確かめた。
心を重ねたいと願い、共に生きたいと誓った。
重ならない身体で、重ならない時に、想いを馳せた。
それは、そんなにいけないことだったんだろうか。
「・・は・・っ、ぁ、う、・・ゃめ・・っ、」
応えてはこないが、なすがままの青島の口端から透明の液体が滴り落ち、闇に艶めいた。
覚束ない指先で室井の髪を乱し、スーツを崩してくる。
それが一層室井を煽り、濃密なキスへと変化した。
一向に大人しくならない青島にも血気盛んな様子にも、愛おしさしか感じない。
奥に逃げ込んでいた舌を強引に吸い上げた。
「んん・・っ、ぅ・・ん・・っ」
青島が鳴らす咽音が震動となって伝わり心地好い。
触れられる幸せとは、なんて尊いのだろう。
室井は高貴な支配欲のままに彼の自由も矜持も、記憶さえ塗り替える。
少し乱暴に暴き、強く吸い上げる度、青島は頑是なく身を震わせた。
青島の力ない指先が、微かな抵抗を乗せて室井のシャツをもどかしそうに握る。
室井を挟んだ格好で藻掻くほど、猥らに悶えるだけだった。
「んくぅ・・っ、ゃだ・・・、ろぃさん・・っ」
「青島・・・」
口唇を重ね合わせたまま室井が低く名を囁く。
髪に指を這わせ、後頭部の形を確かめ、何度も柔らかそうだと思った細髪を、室井は指に絡ませ
その度に、室井の指先が雄弁に愛を語る。
想像通りに、そして想像以上に手触りの良い質感。
意識も揺蕩うままに青島を舌で戯弄し、室井は傲慢な雄の欲望のままに刻み付けていく。
「・・は・・っ、ぁ、こん・・・なのっ、ちが・・っ、」
青島が顎を反らし、酸素を欲するままに罵声が漏れる。
それを聞きたくなくて、室井は弱弱しく振る頬に手を添え、仰け反る躰を引き寄せた。
そのまま室井は顔を斜めに傾け深く貪った。
深く重ね合わせたために酸素不足となった青島が眉間を苦し気に寄せ、身悶える。
眉根を寄せ、喉を唸らせ、解放を要求する。
汗で熱る肌の艶やかさに室井は溺れるように捕り込まれた。
物足りない飢餓感だけが室井に去来する。
「・・ふ・・ぅ、・・ぅん・・っ・、・・・くぅ・・っ」
かくんっと力を失い、青島がズルズルと扉に背を預け、その場に崩れ落ちた。
ふるりと震える甘い躰は確かにあの夏の夜に抱き締めたかったもので、生身の肉感を伴って室井の腕に落ちてきた。
溜まらずそれを力任せに引き寄せる。
「青島・・・」
「・・ろぃ、さ・・・ッ」
「好きって言ってくれ」
「あんた・・っ、こんな、こと・・っ」
「・・・いいから」
「・・本っ気、で、言ってます・・っ?」
青島の首筋に顔を埋め、香り立つその匂いに噎せ返る室井に、青島の鳴声となった苦情が飛ぶ。
「・・独りでオナってればいいだろ・・ッ」
憎まれ口ばかりしか言えない青島の首筋に室井が柔らかく歯を立てる。
動脈に噛みつくような仕草に青島が少し背を仰け反らせた。
紅く濡れそぼり艶感のある口唇が、夜光に照らされ、雅に戦慄いた。
抗うようなそのゼリーみたいな口唇に目を奪われ、室井は口を首筋から侍らせ、荒げる吐息ごと塞ぐ。
今度はさして抵抗も薄く、上向いたままの青島が室井の口唇を受け止め、口唇を明け渡した。
「・・ん・・、・・・っ」
耐え難い青島の喘ぎに唆され、室井の中で記憶の中の青島と現実の青島が重なっていく。
「好きだから・・・。ちゃんと、本気で、好きだから」
淡い髪がふわふわと後ろに流れ、汗ばむままに僅かな光を纏い、しっとりと濡れるシャツまで、熱る体温が愛おしい。
「しつ、こいよ・・っ、」
暗闇に溶け込む影は一つに合わさる。
抱き締めたまま闇に蹲る部屋の外をトラックが唸りを上げて通り過ぎていく。
外界の出来事が今、とても空言に思えた。
「俺っ、のことっ、なんか・・っ、ほっとけば、いいのに・・っ、」
ふと泣き出したい衝動に駆られた室井の双瞼が切なさを滲ませ、色濃い深味が宙に溶けた。
「好きで、ごめんな。君の気持ちも、知っていて・・すまない」
「・・っ」
「寂しいんだ・・・」
「なんで・・・」
「おまえがいないからだろ・・・」
「いる、じゃん・・」
「君のいない人生なんか二度とごめんだ」
思わず毒ずく室井の言葉に、青島が瞼を持ち上げる。
涙目となって潤むそこに室井は赤い舌を這わせた。
視線を合わせ、室井は愛撫のように手の甲を青島の頬に充てがい摩った。
んだよと、照れなのか不満なのか、抗いきれない感情を隠し青島が顔を反らして口許を拳で乱暴に拭う。
乱暴に吸いすぎて少し腫れた口許から、まだ整わない荒い息が上がり、強すぎたキスのせいで生理的に溢れた滴が目元から落ちていく。
今度は受け止められる、飴玉とは少し違う真珠のような涙粒も、零さず掬い取る。
「生涯を賭けると、言ったんだ」
「・・・そんなこと、あんたに言わせて俺、さいてーだ・・・」
「俺を壊すのも、救うのも、・・・俺を切り裂くのも、おまえだけだ」
「狡い・・・言い方」
「かもな」
「そゆの、飛んで火に入るナントカって言うんじゃないの・・・」
「・・・馬鹿」
「はは・・、あんたの“ばか”って、・・・なんか優しいんだよな・・・」
思わず室井は青島の後頭部を掻き抱き、自分の胸板に押し付ける。
「ごめん、な・・・君が、欲しい」
「言うな・・」
「好きなんだ、どうしようもないくらい、欲しい」
「やめろよ・・」
「好きだ・・」
「ヤだってば・・・、も、聞きたくない・・・」
謝罪と告白がごっちゃになり、論理的な室井にしては珍しい怜悧さを欠く独白に、青島がくぐもった呻き声を漏らす。
室井を非難する罵声が漏れ、はっきりとはしないまま肩に震動が伝わった。
「思い出してくれなくていい。ここから始めさせてくれ・・」
青島を失ったら、もう誰もこの世で室井を知っている人はいなくなる気がした。
それは想像を超える絶望だ。
どれだけ室井が食いしばって生きてきただとか。どれだけ苦悩してきただとか。
結果だけが求められる堅牢では、そんな連帯感も愚痴も、誰も見向きもしないことだと思っていた。
相棒である青島にもそんな弱腰の背中を見せたくもないと思っていたし
密かに知ってもらえるということも、決してないと思っていた。
それで納得していた筈の、訳知り顔で合理主義を貫くことが、触れたら重く室井に圧し掛かる。
共に生きていく上で分かち合い知り合い補い合うことは、なんて魅惑的なのだろう。
ほんの一瞬邂逅した閃光のような日々と、口約束の曖昧な絆。
二人が共有しているものはあまりにも少なく、形のないものばかりで、それを簡単に手放そうとする青島に恨みすら湧く。
もう、君がいなければ。
室井の惰弱も脆薄も、みな青島に潜んだままだ。
あの日の青島が半分持って行ったまま。
あの日、一度は止まったはずの感情が、堰を切ったように溢れ出した。自分でも良く分からなかった。
「傍に。頼む。俺の傍にいてくれ」
肩を引き寄せ、頭を抱き込み、室井が頬を沈ませる。
あまりの遠さが、より一層の切羽詰まった力を室井の腕に伝えた。
力任せに抱き潰すほど、青島は消えてなくなりそうだった。
しんと静まり返った部屋の中に、まだ整えきれない青島の呼吸が溶け込んでいく。
抱き締めた腕の中で青島が苦しそうに身動ぎし、室井は少しだけ腕を緩めた。
切迫した厳しい顔で室井が青島の両頬を掴み、顔を上げさせ視線を奪う。
無垢な瞳が揺れ、さっきまでとは違う不完全な色を乗せていた。
赤らんだ目元に光る滴に残光が反射する。
なんでと意味を問う意図を室井に伝え、室井は初めて小さな笑みを滲ませた。
「今の君に答えを出してもらわないと、意味がない」
「・・俺・・・、なんか忘れてんの・・・?」
「・・・・」
「ちゃんと・・・話して?ちゃんと、聞きたい・・です」
「・・いいんだ・・」
「ヤです、よ。あんただけ・・・。また俺、あんただけに背負わせんのヤだ。ねぇ、お願い。俺、・・・室井さんを、裏切ってんの・・・?」
拗ねたような甘えたような、蕩ける飴色の煌めきが、こんな時まで室井を案じ、愛を募らせる。
「・・・記憶に頼るようなセコイ真似はしたくなかったんだがな・・」
青島に額を押し付け、室井が理知な瞼を伏せた。
「言ってくださいよ」
「・・・」
「知りたい。返事はそのあとだ。俺、裏切った・・?」
「おまえのなんか、可愛いもんだった。問題を上げるとすれば、可愛すぎたことくらいだ」
困ったように青島が口を膨らませた。
むくれた顔は幼く子供みたいで、邪念がない。
じっと瞳を探り合う。
静かに室井が顔を傾ければ、何をされようとしているのか察した青島が狼狽して視線を泳がせた。
「・・っ、待っ、まず、話・・っ」
「・・・嫌か?」
「っっ、ぃ、いやとかじゃなくて・・っっ」
「・・・青島」
「~っっ、狡い・・っ」
触れ合う直前まで近づき、そこで室井は待つ。
「知っているおまえも、知らないおまえも。――全部が、いい」
青島が言葉を詰まらせ固まった。
真っ赤に染め上がり、口許を噛み締め戦慄くその表情は、少し乱れた前髪の奥で魔性の色気を放つ。
室井の目が僅かに眇められ、雄の焔を宿した。
「そう、言ったろ」
「あんた・・それでいいの・・・」
記憶がなくても、青島が恋をしていなくても。二人に倖は来なくても。
それには答えず、哀願する声で室井が、青島、と低く促す。
しばらく躊躇った顎がおずおずと上がった。
「あんた、その優しさがいつか身を滅ぼすんだな」
聞いたことのある台詞に室井の胸が切なく高鳴る。
それでも室井が動かずにいると、黒目がちの瞳に魅入られた青島が泣きそうな顔をした。
ゆっくりと影が一つ近づく。
青島から綿菓子みたいにそっと口唇を合わされた。
溶けてしまうかのようなキスを室井は伏目がちに味わった。
今流されているのは室井なのか青島なのか。
目の前で黒光りしている睫毛を震わせ、青島がうっとりと瞼を伏せる。
愛らしく美麗な顔立ちに、室井の目は釘付けとなり、動けなかった。
あの青島から、触れてくれている。
その事実が、こんなにも切なく、愛おしい。
喉を唸らせ、室井は口唇から合わさる体温に身を震わせた。
やがて、焦れた青島が触れたまま、小さく室井さんと囁く言葉に煽られ、室井は深く口付け治す。
獣染みた勢いで噛り付き、がむしゃらに口唇を奪った。
「んぁ・・っ、は、・・ふ・・っ」
猛攻されるままに青島が口唇に喘ぎを乗せ、上擦った声でキスに甘んじる。
室井の卓越した舌戯に、今度は青島もそれでも男の意地で健気に応えようと付いてくるのが、微笑ましく、いじらしく
室井は淫乱な動きで焦らした。
誘うように逃げて見せれば、青島が自ら動いて求めてくる。
乞われるままに誘いに乗ってきた青島を、そのまま強引に絡め取った。
「ん・・っ、む・・・ろぃ、さ・・・ッ」
合わせたままの口唇に名を甘く乗せられ、ざわりとなまめいた空気に室井の背筋が栗だつ。
そこで室井の理性が少し弾けた。
舌が室井の口唇にまで滲み、歯列を抉じ開け、上顎まで貪る。
怖くなったのか、少し反らそうとした抵抗を塞ぎ、顔横に両肘を突き、身体で気圧して囲うように彼の自由を閉ざす。
頭ごと背後に押し付けんばかりに口付けた。
「んんっ、待っ、・・んぅ・・っ」
もう止められなかった。
どれだけ飢えていたか。耽るままに室井は惑溺して縋ってくる青島に情欲を隠そうともしなかった。
こんなにも溢れそうに好きだという気持ちは知らない。
一度は離れ、こんな思いをしてまで身と心を渡してくれる青島を、離すことなど出来る訳がないのだ。
ぐいと強く顎を上向かせ固定する。
真上から押し込むように舌を喉奥まで埋め込んだ。
「くふ・・ぅ、ぅ、ふ・・ぅ・・っ」
そこから先は本能の支配する領域だ。
膝が崩れたまま青島の脚を割り裂き、その間に身を潜めると、その躰を背後の壁に押し付け
貪るように舌を求める。
されたことのない種類のキスに、青島の肩が震えたのに気付いていたが室井は止めるつもりはなかった。
これは俺のものだ。
もう誰にも渡さない、誰の影も残さない。二度と消えないように刻み付ける。
「・・ん・・ぁ・・」
やがて絡めとられた舌に呻くように喉を鳴らした青島が、観念したかのように主導権を室井に委ねた。
自ら差し出す甘い舌の輪郭をなぞってやり、肉厚の太い舌で深く、強く、掻き回してやる。
キスだけでこんなに弱みを覗かせる青島が可愛くてたまらない。
汗で貼り付いた前髪を梳いてやり、その額にも頬にも室井の静謐な指先が這い回る。
全身で室井を感じてしまい、震えままならない敏感な青島の感度に若干の危機を覚えながらも
室井を憶えさせるためにしつこく舌を合わせた。
痛みすら、刻み付けたい。
両脚を投げ出し、既に力の入らなくなって上擦る青島の肌が夜に艶めいていた。
仄かに色付く大気が吐息に染め上げられ、夏の夜を彩っていく。
「んぁ・・、ふ・・ぅ・・っ」
室井の肉厚の舌が青島の口腔を圧迫する。
微かな呻き声すら、劣情する。
薄く開いた口唇を必死に押し付け、まだ恐々と震わせた指先で青島が室井のシャツの裾を握り締めてくる。
切なげに寄せた堪える眉が官能を帯び滴る甘い唾液に、濃密で多淫な、理性の利かない痺れがある。
その衝動に抗えず、青島の襟元に室井の指先が意図を持ってなぞられた。
キスに夢中になっていた青島がびくりと身体を奮わせ、薄っすら重い瞼を持ち上げる。
暗闇で至近距離に合わさる視線。
薄っすらと目を開けた青島の虚ろで淫蕩した瞳に室井の背筋がぞくりと栗立ち、室井は我知らず息を詰めた。
少し弱音を覗かせ怯えたような眼差しはただ綺麗で濃艶なくせに純潔で、それだけで室井の眠っていた雄の劣情を呼び覚ます。
口付けたまま、室井の長い指先が青島のこめかみから首筋を辿り、寛げたシャツの隙間から秘めた肌をもどかし気に這い回り
そして。
ボタンを一つ、一つと外し、現れた艶肌に室井は首筋から口付け始めた。
「・・あっ、・・ま・・っ、・・」
甘ったるい声に誘われながら、仄かに色付く耳朶に舌を侍らせ、甘噛みするとぴちゃりと唾液の音が鳴った。
汗と石鹸の匂いがして、室井は夢中になってしゃぶっていく。
「んぅ・・っ、・・っ、は、・・・ゃ、待って・・・、ィッ」
強く吸い上げると、紅く華が咲く。
紅く腫れあがった舌が夜光に銀白に浮かび上がる。
月夜に映えるそれは極上に艶めかしく、乱した青島の媚態は凶暴なまでに蠱惑的だった。
触れられるということは証が残せる奇跡である。
「・・ぁ、だめ・・っ、・・ちょ・・っ、なにす・・・っ」
鎖骨まで吸い付きながら、室井がシャツの裾から手を潜り込ませる。
きちんと血の通っている温かい肌を、掌に感じた。
胸の尖りに直に触れると、びくんと青島が身を捩った。
「・・っ・・・ん・・」
「もっと感じさせてやる。生きてるってのはどういうことか、思い出させてやる」
それを、本当に願うのは、室井の方だったかもしれない。
言葉を塞ぐ代わりにキスをする。口内の侵入を許している間に、室井はそのシャツを下からたくし上げた。
扉の隙間から僅かに零れる月光に照らされ浮き上がる、閉ざされた目元にも煌めきと立体感が生まれ
恍惚とした淫蕩と見紛う優艶さが、倒錯的な色情に室井を溺れさせる。
「んんっ、んぅ、ぅ・・・っ」
身の危険を感じた青島が、その手から逃れようと身体を揺する。
だが古い木造アパートの玄関は狭く、室井を挟んで猥らに開かされている脚は虚しく床を鳴らすだけだ。
塞がれた口唇も外れず、虚しい抵抗に青島は酸素も薄く衰弱する。
それでも勝ち気に抵抗を続ける意思は、中々に負けず嫌いなことを示している。
「静かにしていないと、外にバレるぞ」
「・・っっざけんなよ・・っ、ここまでしていいなんてっ、言って、ない・・・っ」
潜めた低い声で吐き捨てるように青島が反発を返す。
そんな野生の美しさを手懐ける雄の支配欲を青島は無防備に煽ってくる。
スラックスを寛がせるまま、室井はそこかしこを口唇と指で触れた。
生きの良い生命に美しさに、逸る指先が思うより先にその玉肌に触れ、滑らかな感触に恍惚となるまま
吸い付く素肌の肌理の細かさに心奪われ、隙だらけの青島を暴いていく。
室井の下でシャツを半分ほど引っかけただけで肌を晒し、スラックスを寛げている姿は、このまま先へ進んでよいと室井が勘繰るほど
扇情的だ。
「しょうがないだろ、君に惚れちゃったんだから」
「しらね・・」
悠然とした笑みを浮かべ、青島の股間に室井の淫乱な手が這わされる。
そのまま室井は青島の首筋にも舌を侍らせ歯を立てた。
びくりと震える甘い躰に感度の良さ、劣情され、迷うことなくスラックスの中に手を埋め、室井は青島の恥部を摩り上げる。
「ゃ、・・く・っ」
半勃ちにすらなかったそれは、室井の掌に包まれてあっけなく熱を持った。
堪えるような、掠れたような嬌声とも取れない青島の声に、室井の理性も矜持も背徳感さえ混濁し
ここにある確かな命と躰に、静かな、貧婪な欲望が命じるままに、ふたりで堕ちていく。
彼に身を突き刺し擦り上げたら、どんなに気持ちが良いだろう。どれほどの快感が得られるのだろう。
「ゃめ・・っ、それ、まずい・・・っっ」
生意気な言葉とは裏腹に躰は室井の手に染まっていく。
室井の下で汗に塗れた前髪を貼り付け、青島が開かれた内股を小刻みに震わせて歯を食いしばった。
力の抜けた手で室井の手を退けようとするのを往なし、室井はそのまま青島を床に押し倒す。
「くそ・・・ぉ、ふ、く・・っ」
「男の手で快楽を得ているのはどっちだろうな?」
「・・ば、っか・・っ」
「感想を言え」
「め、ちゃめちゃ・・悔しいよ・・・っ」
嫌だと言ったらやめてくれるのかという言葉をどうにか呑み込んだ青島が恨めし気に睨み返してくる。
室井の手で身を顫わせる青島は、室井の背をゾッと官能に灼き付ける妖冶な娼婦性が滲んでいる。
室井が戯弄するたび青島の汗が光り、流れ、美しくその輪郭を縁どっていく。
幽霊の時には見いだせなかったものだ。
濡れた声を上げさせられながらも、必死で噛み殺す姿が室井の生温い快感を強烈に煽る。
蒸せた大気に茹り、溺れ、捕り込まれていく。
押さえ付けられた躰に止めどなく愉悦を与えられ、青島は苦し気に息を戦慄かせながら、室井の執拗な手戯に焦点が合わない瞳を持ち上げる。
「ぁ・・、ゃ・・っ」
「意地張った罰だ」
「あ、んたこそ・・っ、俺を、どうしたい、んだよ・・っ」
黒々とした闇にぎらつく欲望を隠し、室井が掌を肩甲骨から胸板へと這わせた。
胸の尖りを掠め、ほっそりとした括れを持つ曲線を辿って、男にしては丸い桃尻の弾力を確かめ、震える素肌の吸い付く感触を味わう。
「俺がおまえにしたいこと・・・分からないか・・?」
「・・ゃ、め・・っ」
「此処に」
つつ、と室井の指先が更にトランクスの奥に入り込み、青島の蕾を殊更ゆるりと猥らに遊玩する。
「・・ァ・・ッ、どこ、さわ・・っ」
「此処に、俺を溢れるほど注ぎ込んで・・・。俺のものにして・・孕ませてやろうか・・・」
「ば・・ッッ、・・・・っかじゃねぇのッッ」
「強情なのも逆効果だ。男を煽るって分かってないのか」
「誘った、覚え、ない・・っ」
「それがいつまで持つか・・・」
室井によって開かれたままの青島の下肢が、戦慄く様に震えた。
中心の形をなぞるように指で辿ると、それは先端からそとどに蜜を零し、現状の悦楽をありありと晒す。
透明な液体に、若いなと思いながら、室井は本格的に扱き始めた。
驚いた青島が刺激から逃れようとするままに内股を広げれば、それはより一層猥らな、男を誘う格好となる。
「俺は、ほんとの君が欲しかった。ずっと」
嫌になるほど青島だけを映す眼差しと、傲慢で残酷な愛の言葉が青島を戦慄かせ、切羽詰まったままに僅かに刺激に跳ね上がる。
片手を縫い付けられ、玩弄するままに青島は、眼尻を染めあげ、婀娜っぽく、ぐちゃぐちゃにしてしまいたかった。
うっすらと火照り色付いた肌が熟した果実のように薫り、室井は乱れた肌をむしゃぶるように吸った。
羞恥からなのか快楽からなのか、青島の睫毛が黒々と濡れそぼり、影を落とす。
「・・ぁ、はっ・・・だめっ、室井さん・・っ」
「そうやって、俺の名を呼んでいればいい・・・」
「・・っ、・・ァッ・・赦して・・・っ、も、はずかし・・・ッ」
「いい貌だ」
「・・くっそぉ・・っ、ずっと・・ッ、す、すきだと思ってたひとに触れられてッ、感じないほど、おれ不感症じゃないんだよばかぁッッ」
思っていた以上の言葉が引き出せて、室井の眼尻が柔らかく細まる。
不意にそれが大人びた色に変わった。
「・・ぁあ・・・っ」
鈴口を親指で押しつぶす様に揉んで遊玩すると、青島が背を少し仰け反らせ、顔を横に倒した。
初めて出る、色付く掠れた男の喘ぎが蒸せた夜に溶ける。
想定していたよりもクるその嬌声に、室井は左手で青島の口を塞ぐようにして抑えた。
頭を大きく横に振って室井の掌から逃れようと青島は踠き、押さえ付ける室井の手首に青島の指が絡みつく。
目をきつく閉じて眉を寄せ、その額には汗ばむ髪が房となり、快楽に耐える眼尻はまだ残る光を纏う。
弾けんばかりの艶肌は甘そうに炙りあがる。
薄っすらと青島が瞼を持ち上げれば、夜を吸い込む深い瞳が豊麗に濡れた。
まるで絶頂の余韻に堪えているかのように室井に錯覚させた。
――これは、極上だ。
青島には男を誘う天賦の色がある。
「まいったな・・・」
「・・?」
ゆっくりと両手を解放し、室井は青島に柔らかく口付けた。
労うような動作に、青島の躰からも緊張が解ける。
「手荒にした。・・・悪かった」
「・・っ、・・・ひどい、ですよ・・・」
「ああ、ここまでするつもりはなかったんだがな。あまりにも、その、欲情させられる」
「こっ、こんなことまでされて・・っ」
「ああ・・・」
啄むように甘い口唇を吸い上げると、青島は両手を室井の背中に回してきた。
室井も抱き寄せるようにして肩に手を回す。
「今夜はもう、何もしないから・・・」
深く口付けると、青島も目を閉じ受け止めてくれる。
柔らかく何度か重ね、唾液で滑るままにすり合わせながら、室井が囁いた。
「・・・しないの・・?」
「おまえな・・」
ようやく軽口を乗せた青島に、ほっとしたのは室井の方だ。
「君にはいつも調子を狂わされてばかりだ」
「これ・・っ、も、おれのせい、なの」
「俺以外にそんな貌見せるなよ」
不貞腐れたような顔は子供みたいで、室井は目を眇める。
「・・ありがとう、よくもう一度決断してくれた・・・先にそれを言うべきだった」
「ワルイコトした気分・・・」
夏の夜の幻覚に化ける霊魂の、本音が透ける境目は暁に消えていく。
「今まで・・・一人にさせて悪かった。これからは君の抱えている分も、俺にも背負わせてくれ」
「何を・・・知ってんの」
「知りたいか?」
「・・・なんかそれ・・・逆じゃない?」
「いいんだ。君と生きたい」
「・・・」
青島は視線を落とし、まだ答えを探しあぐねているようだった。
今となっては、室井の生きたいという言葉は重鎮だった。
室井が真に救われるのは、理解者ではなく協力者なのだ。
深く、強く、太く、繋がり重なり、身も心も人生も。
「・・・これがその行きつく先だったって言うんなら・・・このまま忘れさせてくれれば良かったのに・・・」
きっと、そうなのだろう。
しかしその努力と我慢を台無しにするように、室井が青島の手を取る。癒えぬ飢えと渇きを孕んだ傲慢な指先に
最早何の躊躇も寄せ付けない。
そんな室井の決意まで感じ取ったわけではないだろうが、青島が何かを含んだ瞳をして、ようやく悪戯な瞳を煌めかせた。
でも、と言って、指先ときゅっと握り返し、ぱくりと青島が室井の下唇を口唇で挟み込む。
「代償、高くね?あんたに払えんの」
「君より堅実だ」
「あんた、こんなことしてたら、いつかしっぺ返しが来るかもよ」
「その時は、君も道連れだ」
「・・ぁ、そう」
くるくる変わる瞳が可愛く、飽きさせない。
「・・んじゃ、あんたの気が済むまで付き合ってやるよ・・」
はむはむと食み、にかっと笑みを見せてくれた青島に、室井は重たい嘆息を落とした。
「室井さんが俺に欲情するなんて思ってもみなかったよ」
「君は少し自分を顧みた方が良い。無駄に他の男を誘うなよ」
「だから・・っ、誘わねーよっ、オンナノコならともかく何で男限定なんですかっ」
青島がぐりぐりと額を押し付けじゃれてくるから、室井も好きなようにさせる。
ぐりぐりと愛撫のように背中や手を摩っていると青島が逃げようとするから、室井が柔らかい躰を慈愛に満ちた腕で引き寄せ
ゆらゆらと影が揺れた。
「ヤだ。もぉ暑い」
「色気も何もないな」
「そんなオトコにさっき何した?」
ぐいっと室井が腕を引き込めば、バランスを崩して二つの影が廊下に転がった。
「ってぇ・・!もぉ!」
「おまえが暴れるからだ」
二人して床に座り込む。
「むろいさん、らんぼーなんだ」
「結構だ」
「まったく、想定外なことばっかり。こんな恋するとは思ってもみなかった」
「そんなの俺もだ」
「俺けっこう隠すの上手い方だと思ってたのにな、なんで気付かれたの」
「・・・・」
「・・俺が・・・言った・・?」
失敗したぁと、両手で青島のぐしゃぐしゃと髪を搔き乱す。
「だから、満更でもないんだろ?」
「ちぇっ・・言えるなんて、思ってもみてなかったよ」
「観念しておいた方が利口だ。俺は何度でもおまえを見つけ出すから」
「・・・?ん?」
「・・・なんだ?」
ふと、青島が固まる。
「どうした?」
「あれ?あんた・・・もいちど俺見つけるって・・・約束・・・」
「・・!」
「夕暮れの・・・真っ赤な空の下・・?」
「しっかり覚えてんじゃないか・・ッ」
「・・・わっ!室・・っ」
鬼のごとく眉を引き上げた室井が、乱暴に青島を胸に抱き潰す。
室井が二の腕を引き寄せれば、青島の身体は何の抵抗もなく室井の方に引き寄せられた。
驚いて声を上げた青島の口唇を、室井は自分のそれで塞いだ。
こっちの息が止まるかと思った。
「ちが・・っ、ちがうっ!ぃぃいまッ、今そこだけ!なんか湧いた・・っ」
やっぱり青島は青島で、霊体の青島もこの青島も、俺の青島だ。
「ってかっ、何この記憶・・っ、アングルがオカシイよ!?・・うそ、マジ・・???」
思い出し始めた当人の方が驚いている様子を、室井が力任せに抱き留めたまま噛み締めた。
室井が思い切り抱き締めているせいで、青島の背が仰け反るほどに反り返る。
「く、くるし・・っ」
少しだけ解放してやり室井がその顔を覗き込む。
青島がぎこちなく笑えば、室井もまた少し困った顔をして握っていた手を強く引き寄せた。
記憶がなくてもあっても、現在この瞬間から始めていけるものもある。
遅すぎることは何もないのだ。
青島の背に手を這わせ、室井はゆっくりと床に青島の横たえた。
丸く見開かれた目を見つめ下ろしながら、その両脇に両手を付く。
「青島。俺のこと、知りたいんだろう・・?」
「・・っ・・ぇ、ぁ・・」
「君さえ良ければ、今から俺んち行かないか」
「・・ぇ?」
***
深夜も回った丑三つ時。官舎の扉の前に影が立つ。
「あれぇ・・・?俺、ここ・・・、」
「・・・・」
辺りはひっそりと寝静まり、古びた電灯だけが煌々と点いていた。
あの夜と、おんなじ空気で大気は緑色に染まる。
幽遠とした生温い夏の香りに、あの時の彼の声が聞こえたと室井は思った。
《おっそいですよ~ぅ。お疲れさまでした?》
《やだよぅ、あんたと別れるのも。独りで消えていくのも》
《くっそ、こんなときまで、俺、あんたをきらいになれない・・・》
《その代わりあんたの半分、俺がもっていく、から》
《恋をしよう?室井さんっ。精一杯、いっぱいいっぱい恋をしたいよ、あんたと!》
ようやく廻り還ってきた恋人を迎え入れるために、室井はドアノブに鍵を差し込む。
「もしかして・・・黒いサイドボードあったりする・・?そこになまはげ置いてたりして・・・」
「それは、自分の目で確かめてみればいい」
この夏、二人で過ごした部屋の扉を今、室井は大きく開け放った。
happy end

青島くん、生きてました。あれは生霊というか幽体離脱なだけだったというオチです。
二人の視点で絶命したと思い込んでいただけの勘違いで、だ
から最後も遺体を見せませんでした。青島くんはあの時本体に吸い込まれただけという解釈でお願いします。
このあと青島くんは次の満月をベランダで二人で見て全部を思い出すんだと思います。
禁忌的なテーマとなってしまい、これは反則だろうと反省しています。切な系が好きではあるけれど命を取ることで涙を誘うのはルール違反だと思っている。
途中で気付いたんだけどもう修正が効かなかった・・・。幽霊扱う時点で気付けよ自分。でも安易に死にネタ扱ってるサイトさんもいたし、このオチを最初から
決
めていたというのもある。
本当はやっぱりあそこで青島くんの人生は終わっていて、室井さんは青島くんを胸に寿命まで生きて、常に青島くんが傍にいるような感覚があって
そして天寿を全うするとき、青島くんと再会できる・・・というネタも考えたんですけど、あまりにつらいので止めました。
大切な人を亡くしたご経験がある方にはちょっと古傷に塩を塗るようなお話になっちゃったと思うのでごめんなさい(青島くんの声で)
そんな貴方へこのエピローグが少しの夢と安寧を齎すことを祈って。
ここへ来てくださったすべての皆さまの明日が素晴らしいものでありますように。