**HOLIDAY Ⅳ**







8.五日目
目が覚めたらそこには眩い光が微笑んでいた。

室井は薄掛けのタオルケットを巻き付けながら寝返り、太陽の光で七色に揺れる青島をじっと見上げる。
腰骨のラインに纏わりつくケットが室井のボディラインをベッドの上に晒し、朝霧に染まる雲が窓の外に浮かぶ。
シーツには夏の朝光が散華していた。


《雨。止みましたよ》

ベッド脇で顎を乗せ、花が咲くように薄っすらと青島が目を細める。
青島が傍にいる多幸感に安堵に似た落ち着きに満ち室井は嘆息した。

どれだけこの男を浅ましく、淫乱にも欲しかったかを改めて意識した。
ただ一重に焦がれていたのだと振り返り、漆黒の眼に焼き付ける。
が、嬉しいのに照れが先立ち素直になれない室井は顰め面をし腕で目元を隠し
起き抜けの掠れ声で低く不満の溜息を漏らす。

「寝顔、見てんな」
《今更ですって》


朝にならないと寝室へは遠慮していた青島は、昨夜はずっと室井の寝室にいた。
室井の傍から離れようとはせず、室井がうたた寝してしまっても、隣にいた。
ふんわりと丸みを帯びた綿菓子みたいな身体をベッドに摺り寄せるようにして、青島は朝まで室井の眠るベッドに寄り添っていた。


昨夜の乱暴な告白が二人をどう変えたのかは分からなかったが、何かを根本的に変えていた。
それは気張っていた毒気をすっかり抜かれた青島の態度に現れている。
馴染むように室井に任せ、成り行きを共にする姿に
きっと、一人気を張っていたのだと思った。

それらの変化は望むところだから苦情はないのだが、こんなにも純粋に慕われ、室井にしてみればそれはそれで問題だった。
別な意味で触れなくて正解かもしれなかった。
昨日告白したばかりだというのに、その返事さえまともに聞いていない内に
朝っぱらから喰ってしまいそうだ。

自分はこんなに性に弱かっただろうか。
猥らな欲望に溺れる昂奮に内心大きく呆れながら、それを隠すために室井は低い声で話を反らした。


「今日はどうする」
《ん~・・・・》
「何か提案があるなら聞くぞ」
《何か。・・・するべきかな》

言い方が妙で室井は腕を上げ、青島を見る。
下から青島もきょとんと視線を寄越した。
じっと瞳を覗き込み、そうか、と勘付く。

「ずっと、ここにいるか?」
《・・・・・うん》


雨跡の残る窓ガラスが眩しい。

その日、二人は一歩も外出することはなかった。
部屋で、怠情な降って湧いた夏休みを二人きりで過ごした。
いろんな話をして、寄り添って、惜しむような時に傅き濃密な時間を重ねた一日だった。
それは御伽噺のように二人を温かく寄り添わせる。

そうしてまた月が昇る。



****


「一緒に月、見ていいか」

青島の背後から室井が低く問いかけると、青島は夜空に映える幽妙な黄緑色のオーラの中から密かな瞳を甘やかに灯らせた。
背中には都心部の明かりが星屑のように瞬いていて見慣れた筈の都会の夜が澄んで見える。
夜風が白いカーテンを柔らかく揺らす窓を閉め
室井は小さく苦笑する青島の横に立つ。


「だいぶ、月も丸いな」
《・・ですねぇ》


紺碧の夕暮れ空の下は未だ苛酷な夏日の熱を残留させ、気怠い重さを肌に滑らせ漂わせていた。
蒸すような暑さは変わらなくとも昼間よりは幾分過ごしやすい。
エアコンで冷えた黒シャツを室井は夜風に晒す。

天にぽっかりと浮かぶ月が白く抜けている。
昨夜の豪雨など都会では一日で跡形さえない。


《今日さ、いっぱい話せて楽しかったぁ。室井さんの人と成りも知れたし》
「何も斬新なことしてない」
《そういうことは期待してませんよ》

器用にベランダの柵に組んだ腕に顎を乗せ、青島が前髪の奥から茶目っ気を覗かせる。

《このひと、俺の話聞くの嫌なのかなとか?俺煩いかなとか。勿論社会人だしイイ大人だから最低限の対応さえあればフツーなんだけど》
「・・・」
《ずっと、そう思ってたところがあって》
「ちゃんと全部聞いている」
《うん・・そうなんだなって。だってさ、あんた全然反応無いし、カゲキな挑発しても言い返してこないし。キョーミないのかと思っちゃいますよ》
「そんなことはない」
《表に出し難い人なのかって。今日分かってさ・・・、なーんか嬉しかったなぁ・・・》


こそばゆく、室井は瞼を落とした。
惚れた相手に必要以上に理解してもらえるというのはこんなにも擽ったいものだっただろうか。

かつて付き合った女の前でも饒舌になれた試しがなかった。
勿論それでも傍にいたいと思ってくれる人間は男女問わず少なからずいて、朴訥なだけで自分が人格を拒否させるような問題がある男ではないとは自負してい る。
誤解もされ易いが、口下手ながらも付き合いを深めていけるだけの協調性は持ち得ていて、一倉のような古い友人もいる。
そうでなければ政治の世界で戦ってはいけない。

だが利権や出世の絡まない青島のようなポジションは最近では珍しく、どこまで浸潤してしまうか良く分からかなった。
だからこそ際限なく欲望を滾らせ、節操なく凌駕してしまいたくなるのかもしれない。


《俺ね、あんたは俺と距離を置こうとしていると思ったんだよ》


やはり敏い青島には気付かれていたのかと室井は思う。
どうして良いか分からないまま爛れていく思考を悟られたくなくて、曖昧な距離感に甘んじながらそれをまるで呪符のように縋っていた時期。
強張る表顔の裏で染み付いた懶惰で放蕩な甘美な鎖は忌むべきものだった。
この瞳を正面から見つめる自信がなかった。


気まぐれで、マイペースかと思えば、些細な事に拘ってみたり、人のために命を投げ出してみたり、呆れるほど素直に泣いたり笑ったりする。
優しくて愚直な男だから、言葉がぐさりと突き刺さる。
その分、残酷だとも思う。

囚われ、乱され、取り返しのつかないところまで惹き込まれ、恨みにも似た灼熱が室井の芯を爛れるままに焦げ付かせた。
青島と出会って室井は人生が豊かになるということを知った。
死ぬのなら、一緒がいい。
いつか滅び、蝕んでいく宿命ならば、その理由は青島がいい。
愛という名の幼児性は実に気紛れで、虚けだ。


《失敗した!もっと、生きてるときにそういうこと話せておけばよかったよ》

くしゃっと顔を引き上げ、青島が苦笑いのような嬉しそうな顔でにぃっと笑う。

「君といると目まぐるしくて俺は人生変わった」
《・・そ?》
「今が一番、楽しいのだと、思う」
《何が一番思い出?》
「――君は」
《そりゃモチロン、あんたが応えてくれた時かな。くわぁ~ってなったよ。あんたは違うの?》
「・・・今夜の晩飯かな」
《ぇ、ナニソレ。ここで自画自賛する?確かに今夜のメシもうまそーでしたけど!》


君と一緒に過ごせて食事ができたという時間のことを言ったつもりだったが気付いて貰えず
室井は眉間の皺に託し、半眼を向ける。
青島はイシシと笑ってはにかんだ。

鈴虫が鳴いている声が二人の周りを取り囲み、安らかに音色を奏でていた。

平和で平凡で、何物でもない夜だった。
どこにでもある筈のありふれた夜だった。
なのに二人にとっては無類で貴く、奇妙で曖昧な、極めて不完全な夜だなんて。
彼とする話の中に、思い出話なんか、要らないのだ。

名残を嘲笑うかのように穏やかな夜風は室井のシャツだけを揺らした。


《あ。あそこの家、風鈴がある・・もうすぐ夏も終わりか~早いな~》
「東京のお盆は大体一斉にこの時期だな」
《迎え火に送り火。こうやって今みーんな来てんのかな》
「・・霊魂を信じていたか?」
《ん~・・・、自分が今こうなっちゃったからねぇ・・・》
「死は存在の消滅だ。あの世だの天国だのは生者の都合の良い屁理屈だ」
《・・・室井さんらしいや》

でも、と室井は堅い口唇を引き結び、禁欲的な面差しを青島に向ける。

「おまえはこのままここに残ったらいい」
《憑りつくの俺》
「俺なんか最初っから取り込まれている」


う・・と詰まったような顔して、青島が顔を固まらせ、反らせて向こう側を向いた。
狡いなぁと小さく呟く声が聞こえ、戸惑いと面映ゆさを室井に伝える。
陽気な男のシャイな一面に、室井は自分に許した抗いきれなかった衝動やそこに従わされた己の脆弱さと酩酊感を改めて想った。


昨日の今日で、このリアクションは受け入れられたと思って良いのだろうか。・・・きっと、思い上がりではなく、良いのだろう。
今日一日、室井は雑談をしながらずっと考えていた。
聞くタイミングを計っていた。
ただ、真昼間から思春期の青少年のように焦って問い詰める気にならず、二人の初々しい距離感を壊したくもなかったこともあり、何も言わなかった。
青島もまたそのことは一度も口にしてこなかった。

宙に浮いたままの曖昧な間柄が穏やかな夜の中で、手が触れ合うほど傍にいるのに触れられないもどかしさのまま
後ろめたいような熱を持って、切羽詰まって収縮する。
室井は薄い唇を軽く咬み、闇色に深めた目を向けた。


「青島」
《・・・なに》
「昨日の。・・・俺が言ったこと、覚えているな?」
《・・・ええ》
「そういうお前は・・・どう思ってんだ?」
《・・ゃ、それは――》
「君の応えを聞かせてほしい」
《だって・・・おれ、もう・・・》
「関係ない。知りたいのは過去の懺悔でも未来の話でもなくて、今現在のおまえの気持ちだ」


青島が困ったように細髪を掻き毟り、顔を伏せてしまった。

同棲しているかのように連日青島が傍にいるこの環境は、嫌でも室井の中に巣食う爛れた欲望を加速させていたが
室井はそれをそのまま押し付けたいわけではなかった。
男同士である以上、デリケートな側面を持つ注文であり、また青島にとっては苛酷な要求でもあるのだろう。
どう転がっても二人の恋が奏でる旋律は美しくも純潔のままで、そして哀しいままだ。
それだとしても、室井は煽られ告白してしまった言葉はもう取り消せないし、取り消すつもりもない。

下らない矜持と引き換えに得られるものがこの存在であるのなら、大したことではないようにさえ思えた。


他人には青島の方が男らしく野放図に勝負強さを持ち、室井は往生際悪く聖職者のように見受けられがちだが
いざ臨戦態勢に入れば官僚然とした室井の方が肝も太く、強かだ。
昨日までもやもやしていた胸の奥の痞えが取れ、望む以上の名が付き、室井はむしろさっぱりとした気分だった。


「もう一度。・・・言おうか」
《ぃぃぃ、いいです・・・》

伏せた頭上で青島が片手だけをひらひらとさせる。
室井は情念に支配されながらも幽邃な眼差しを向け、物腰柔らかい気配に変えた。

「迷惑だったとは思わなくて、いいな?」
《・・・・まぁね》


蚊の鳴くような声が小さく返ってくる。
ベランダにしがみつくように伏せる頭。投げ出された長い脚。背の高いスタイルの良さはコートに隠されていても良く分かる。
青島なんだなぁと室井はしみじみと呑気に思う。


「顔をあげてくれないか」
《・・・・むり》
「どうして」
《・・・は、恥ずかしくなってきた・・・》
「今更か?」
《だって、室井さんと・・・あんたとこんな話してるなんて》


可愛いリアクションに室井の眼尻が細まる。
肩の力を抜き月を見上げた。

何から伝えればよいのか。
言いたいことは山ほどあって、だが今日一日かけたって分かりあえたことは極僅かな欠片な気がした。


「俺はきっと、この先もおまえを傷つける」
《・・・・》
「組織の中では拙劣だと分かっていながら狡知な選択を強いられることが多々ある。罪責感を感じる間も与えられず決断を迫られる」
《・・・それが政治なんでしょ》
「それだけじゃない。刑事には一定の威厳もまた秩序のために必要なんだ。・・・習ったろ」
《・・・知ってるよ》
「そこに君を巻き込むことは俺の願いだった。俺は君が思うほど強くはないから。俺の、ただの我儘だ」
《そこは構わなかった》

顔を上げずにもごもごと答えてくる青島のマシュマロみたいな髪を闇と同じ色の瞳に焼き付ける。

「君は――そうだな、とても優しいから。なんでも独り背負ってしまうんだろう。でも俺は護られたいんではなく隣に立ちたい。そこにいてほしいんだ」
《・・・まいったな》
「青島。俺は、今一瞬のこの時に、おまえの恋人でありたいんだ」


鈴虫の鳴く声が止んで、静寂は淑やかに許しを得た。
月明かりだけの寂光に包まれる。


《・・・いえないよ》

か細く患う青島の声に室井の滑らかなバリトンが被る。

「言ってくれ。・・・言って、ほしい」
《遺してくあんたに俺が言えることなんて》
「違うな。きっとおまえは、生きていたら余計俺のキャリアだとか立場だとかを気にして、もっと言ってくれなかったのだと思う》

そんな青島だから室井は彼に恋をした。

「ここでおまえに言わせなかったら俺は生涯後悔するだろう。自分だけ傷つくことを選んで閉ざしたおまえを悔やむ。自分のことよりも俺を選んでくれなかった おまえが悔しい」
《・・・・》
「俺に、後悔はさせないでくれ」


狡い言い方だとは分かっていた。
でもそうまでして追い詰めなければこの優しい男は口を割らない。
室井のためだけに押し殺すことのできる男だ。
決して、室井がしてみせるように追い縋ったりもしないんだろう。

それを少し寂しく思いながらも、室井は成熟した男の眼差しで青島を見守る。

記憶の中にまで深く刻み付けられて、生涯消えぬほどに痕を残されて。
強制されるわけでもなく、自分を騙し安寧に満足するくらいならいっそ狂気の快楽に堕ちていい。
結局この乱暴で耽美的な狂気に満ちた甘い感情に溺れ付き合うしかないのだ。


「さっき、霊界はないと言ったが――もし覚えていてくれるなら、頑固で居丈高だった俺ではなく、おまえと少しでも心を重ねられた男として、持って行ってほ しい」


空気を切り裂くような嗚咽が微かに漏れ、青島は顔を上げなかったが身体を硬直させた。

曖昧に揺らぐ時の中で浮き沈みする数多の記憶と情念が室井を謙虚に強かに潤していた。
拙い言葉以上のものを語り、伝わっているのだと思えた。
圧倒的な愛情も弱さも切なさも、迷いも躊躇いも、みんな青島にある。
だから、何も見えず、何も分からないままでも、何もかも突き抜けて苦しいほど痛くて、嬉しくて、愛おしくて、幸せだ。


自嘲のように瞼を落とした室井の口角が満足げに上向いた。
隙間からネオンの光が二人の間に僅かに射し込んでいた。
情欲とはまた違った別の何かを訴えかける激流が、その瞳には宿る。

ややしてゆっくりと青島も頭を上げ、官舎の下に視線を落とし、甘い吐息を夜に浮かばせる。
輪郭は都会夜景に漠然と溶け込んだ。


《あのさ、前さ、土地の引力がコワイって言ったじゃん?》
「ああ」
《あれね、本当はこの部屋が大丈夫なんじゃなくて、室井さんの傍がクリアなんだ》
「どういう意味だ?」
《うまく言えないですけど・・・室井さんの傍が安心する》
「・・・」
《俺が俺でいられるんだ》


気持ちで自己輪郭を保つと青島は言った。
もしかしたら室井を想ってくれる気持ちが青島を青島たる形にしている最後の綱なのかもしれない。
だったら。

「もうおまえ、ずっとそのまま俺の傍にいたらいい」


何も怖くはなかった。二人なら何でも受け止められると思った。
君が消えたその先の世界に、自分は何を残せるだろう。
消える男との約束に囚われる人生を、俺は選ぶ。

彼の本体が見つかって欲しくない気持ちと、思い出して欲しくない気持ちが傲慢で凶悪な室井の独占欲を知らしめた。
爛れた情熱が先走るように室井の身体の中で逸り、室井の頬を強張らせる。


《おれ、またあんたに厄介ごと押し付けるのかな》
「もう慣れたって言ったろ。大丈夫・・・俺は頑丈だからそんな事くらいで潰れない」
《てっぺんまで、行ってね》
「・・・ああ」


隣の青島を一度だけぎこちなく室井は覗き込んだ。
ちらっと視線を向けた青島の濡れたような瞳を一瞬だけ受け、また反らす。
それが促しとなって、青島が重たい口をゆるりと動かし、独り言のように呟いた。


《あんたと未来を夢見れたとき、いつか俺の役目も存在も要らなくなる日がくるんだろうって思った》


少し感情を抑えたような声で青島が語るものを、室井はただ聞き入った。
ゆったりと青島が身を起こし、室井の方へと向く。
困惑したような複雑で妖艶な瞳が室井を写し取った。


《でもそれは、こんな急じゃないし、こんな形でもなかったけど》
「その日を来させるつもりはなかったがな」
《無茶苦茶にしても、消えてしまっても、あんたの傍に遺しておきたいものがある。こうなる前の俺がそれを言えていたら・・・》
「今からでも遅くはない」
《・・・ほんとに、そう思う?》
「本気だ」

青島が室井をまっすぐに見つめた。
夏虫の声が止まる。

《・・じゃ、俺を連れていって。迷うなら、もう引き返せないところまで》

甘く、脳髄から滴るような甘美な声が耳奥から蕩けさせる。
飴玉みたいな視線に魅入られて。

「・・・いいんだな」
《その代わりあんたの半分、俺がもっていく、から》
「望むところだ」


奥歯を噛み締め、室井も毅然と青島に向き合い応えた。
意志を秘めた飴色の瞳だけが夜空に溶け込み、青島の顔がくしゃくしゃに崩れ、淡く儚げなムードで室井を禁断の地へと誘う。


「幾らでも、持っていけ」
《・・ぅ、うん・・》
「いっそ俺に憑りついていいから」
《・・うん・・もし、俺がいなくなったら、その時は》
「・・ああ」
《ぁ、あんたの傍にいられない俺なんて、消しちゃって、いいから・・・あんたの手で》

刹那、ぞわっと室井の地肌が逆立った。
夏なのに背筋から泡立ってくる。

どうせ死ぬのならその理由は青島がいい――先日室井が思ったことと同じことを青島が口にする。

「青島、俺を、貰ってくれるか・・?」
《ここにいる》
「・・ッ、」
《ずっと、ここにいる・・っ》

共鳴していたものが今、別な色合いの熱を持つ。
互いを不埒な鎖で繋ぎ、本当の意味で共犯者となった。
室井の身体が奥底からカッと熱く滾ってくる。


《俺、あんたが・・・好きだった。すごくすごく、好きだったんだよ》

知らなかったでしょと、青島がはにかんで笑って、残像のように室井の瞼の裏を焦がし
その溺れるような灼熱の渦に息さえ覚束なくなり、室井は瞼をきつくきつく閉じた。





****


電気を消した月明かりの部屋で室井がソファに座る。

「もっと、近くへ」
《ここがいい。あんたを近くで見上げられる、ここがすき》


いつしかそこが青島の定位置になった。
室井の足元に跪くように青島が沈み込み、室井を愛し気に見上げてくる。
室井はそのままソファからするりと腰を落とした。

「俺は同じ目線で見られたほうがいい」


ほぼ同じ高さとなった視線で室井が囁けば、ふんわりと丸みを帯びた綿菓子みたいな笑顔が室井だけを見つめてきた。
きょとんとしたくりくりの瞳が濡れて光る。
大人の二面性を兼ね備えた稀有な男はそれだけで室井を虜に出来る。


「ここ、来てみろ」
《ん?》

片膝を立てた室井の膝元を指差せば、青島がふるふると首を横に振った。
嫌がっているのではなく照れているのだとはその表情が物語る。
室井は強引に手を伸ばした。
霊体だから引き寄せられないため、じっと青島が動くのをその澄徹の視線で命じ、判断を待つ。


《・・・俺、おとこで・・・》
「・・・・」
《ちっちゃくないし・・・》
「・・・・」
《お、重いし・・》
「霊体に体重があるものか」


例え体重があったとしても同じことをしただろう自分を棚に上げ、室井は憮然とした顔で肩を竦めてみせた。

静かに突っ込んでやると、渋々青島が近寄る素振りを見せてくる。
合わせ、焦れた室井も近づきその霊体の下に足を滑らせた。
室井の懐に青島が入り込んだ形となり、室井は間近に迫った顔を成熟した雄の面差しで覗き込む。


《・・・ゃ、やっぱ、その・・なんか、こっぱずかしぃ・・》


笑いつつ、何か言いたげな青島に応えず、室井は抱き締めるように腕で囲ったまま顔を近づけた。
焦点がぼやけるほどの至近距離で視線が絡み合い、どちらからともなく微笑みあう。
くすぐったい様な甘い熱に冒される。

青島の瞳に映る男が自分だけであることが、自分でも信じられないほど簡単に室井を満たし溺れさせた。
言葉になく幸せだった。
その感情のままに室井が顔を傾ける。


《・・む、むろいさん・・・?》
「黙ってろ・・・」
《・・ん・・っ、ででもッ》


口唇の位置で口唇を止める。
当然接触はないが、目の前に迫る甘い瞳と脳から痺れさせてくる声と、至近距離で青島を見れる昂揚感に
想像以上に火照りたち、室井を雄の劣情のままに逆上せさせた。


《ちょ・・っ、あの、待ってよ》
「まかせろ」
《んっ、も、なんかずるい・・・》


当然青島からも触れられないが、抵抗するかのように室井の胸元を両手で押そうとする仕草が
より室井を猥雑に煽った。
二つのシルエットが紺碧の大気に溶け込んで、淡く月明かりを受ける。
何度も何度も重ねるように目を開いたまま室井は薄い口唇を滑らせる。

目の前で羞恥と動揺に淫靡に歪み染まる頬。
無垢に映す夜空と同じ瞳と、伝わりそうな息遣い。

ただ漠然と、言葉に出来ない夢幻の頂をもって、室井は彼を好きだと思った。

人を好きになるのは久しぶりだからかもしれない。
恋とはこんなにも心を芳醇に潤すものだっただろうか。

どうせ何も変わらないと思っていた。
断ち切れぬ未練を欲深にも引き摺りながら、絡め取るように健全な距離に素知らぬ顔で佇み続けていた。
この罪状が一体何という罪として断罪されるのかも知らず
誰もがすぐに忘れていく時代の狭間で、彼だけは留まってくれるのだと淡い希望を秘めていたことすらも、気付かないままに。
でも今、彼は確かに室井の腕の中にいる。

際限のない欲望と愛おしさは器用に同居し、室井の頭の中が真っ白に浄化されていく。
他人同士のままでいる身体が焦れったく疼き、少なくない戸惑いを抱え、室井の心の片隅が密かに竦んだ。


《・・・き、緊張してきた・・・》
「俺だってしてる」
《ぇ》

青島が頬を染めたまま眉尻を下げ、なんとも言えない顔になる。
こんな表情は初めてで、それもまた、ぎゅっと室井の鳩尾辺りを絞りあげた。

《室井さんは慣れてるんだとばかり・・・》
「尻の軽いおまえと一緒にするな」
《手が早いっていわれません?》
「そんなことを俺に言うのも君くらいだ」


言いながら、室井は絶えず黄緑色の靄の境目の至るところに口唇を這わせていく。
肩、二の腕、首筋。
顔、頭、額。
手を取って手首に、甲に、指先に。

室井の囲う腕から延びる長い四肢。
それから背中、腰、ふくらはぎ、太もも。
目に映るすべてが官能的で内なる色気を引き出してくる。

重量があるわけではないが青島は室井の成すが儘に息苦しそうに目を閉じ、室井の膝の上で擽ったく身を震わせる。
室井は夢中になって穏やかなキスを雨のように降らせていった。


《ん・・っ、ぁ、は、・・ふふ・・っ》

何が可笑しいのか、青島が腕の中で仰け反るように顎を反らす。
長い舌を差し出し舐めるように滑らせ、きっと甘かっただろう玉肌を夢想する。

「動くな・・・」
《だって・・っ、》

何が楽しいのか、青島が腕の中で幸せそうに笑みを零す。
好きとも言えず、想いも実らず、ただ消えていくしかない男を、哀れだと思った。
直向きに情愛だけを抱き、伝えることもせず終わってしまった彼の人生を、ただ、馬鹿だと思う。

「幽霊でもなんでも、俺のとこへ来てくれて嬉しかった・・・」
《・・すき、すきだよ》
「もっと言え」

青島が届かない指先で室井の頬を両手で挟むような仕草をする。
青島が寄り添うことで、月光の仄暗い大気に二つの身体は黄緑色に縁どられた。

《絶対言えないと思ってた・・すごく、すき》
「君を手に入れられるとは俺だって思えなかった」

青島が頬を摺り寄せる。

「君が欲しかった。ただそれだけしか浮かばない」
《・・・ねぇ、言ってよ。あんたも。すきってもっと》
「孕ませたい」
《んだそれ》
「・・・好きだ。誰よりも何よりも」
《ふふっ、上出来っ》


わざと偉そうに言う青島に室井は苦笑し、その悪戯な口唇を塞ぐ位置で留める。
凛とした意志が感じられる美しい存在感が直向きに両手を回し、室井を求めてくれていた。
あれほど頑なだった心の障壁は今はなく、ただ素直に室井だけを感じているのが分かる。
こんなにも想われ、慈しまれ、愛おしいものを、どうしてさっさと自分のものにしなかったのだろう。
時惜しむ時間も愛おしく。


「一度でいいからこうして腕に抱き締めて、君を触れてみたかったな・・・」
《うん・・・おれも》

顔を斜めに傾け、薄く開いた口唇で撫ぜるだけで、青島は熟れた果実のように誘う表情でうっとりと瞳を濡らす。
ひそやかな濡れ瞼が官能的なヌーディフェイスに囚われ溺れさせられ、室井もまた朱に色付く息を吐いた。
引きずり込まれる。

「暴走しそうだ・・」
《室井さんて意外とカゲキだ》
「なんでおまえなんだろうな・・・」
《じゃ、もっと確かめていいよ》
「ああ。君を、知りたい。もっと、もっと。全部」


室井が首筋から頬へと口唇を滑らせ耳元に囁くように低い声に淫蕩な色を乗せ吹き込んだ。
ふるりと震えた青島が憂愁帯びた眉を切なげに寄せ、顔を室井の肩に埋めようとする。
その染まる眦に飴玉みたいな滴が光っていた。


「何故泣く」
《・・・なんでも》

ころんと音が聞こえそうな水玉が青島の頬から落下し、宙に消える。

《あれ、涙腺狂っちゃったかな》


拭えないと分かりながらも室井は細長い指先を使って、その涙を掬い取るようにそっと青島の眼尻に宛がった。
その仕草に、青島が頑是なく首を振る。
今となっては何となく青島の憂鬱も痛みも理解でき、室井は祈りにも似た気持ちで慈悲も寛容も呑み込み、眉根を寄せた。

君が望むならこの身を差し出したって構わなかった。
そうすることで青島の心の片隅くらいに遺れるのであれば。

だがそれを兇悪的に抱きながら、同じ強さで相手の幸せを密かに願っている。
傍にいると言いつつ、青島が願うものはそれだけではないのだ。
それを叶えてやれなくて、何が恋人だ。


厳かにも見える動作で室井が身を正し、青島を見据えた。

「生き抜いてやる。おまえが望む以上の未来を俺は精いっぱい生きてやる」

柔らかな言葉で囁くものは紛れもなく弾劾で、それはどちらにとってのものなのかは分からなかったが
心の飢えを満たすものが今は二律背反を抱え生き惑う室井を選ばせた。
室井のアキレスである青島の涙が理由も原因もなく室井をいつだって漢に変える。

「だからちょっと逝くのは遅くなる。でも待ってろ」
《う、うん》
「そのかわり、俺の愛情は全部、持っていけ。おまえにやる。全部やる」
《ぅ、うん・・っ》
「おまえの全部、俺が受け止めてやる」
《・・っ、ぅ、ろぃさ・・っ》
「大丈夫だ。俺の中におまえは生きていて、俺の存在が生き方がおまえが生きた証だ」

無邪気に室井を恋しがる青島に柔らかく輪郭を撫でながら、静かに語る室井の声が夜に溶け込んだ。

「俺はおまえみたいに思い出だけで生きていけるほど無欲じゃないし強くもない」
《・・・》
「この先、恋もするし誰かを愛しもする。男を好きになるかもしれないし、誰かに抱かれるかもしれない」
《そ、そこは俺だけって言っておけよ》
「まあ、たぶん男はおまえだけだ。でも女は抱くだろう」
《・・・妬いていい・・?》
「だけど待っていろ、俺は必ずおまえを迎えにいく」
《・・!》
「俺の半分はおまえのものだ」


凛とした気配を発し、静かな気迫で言い放った男の言葉に青島が気圧され言葉を失って室井を見入った。
揺れる瞳を室井もまた反らさせず、雄の支配欲で制圧する。
室井の瞳はまるで深淵のようだった。


《・・・何、言ってんの。迎えに行くのは俺、でしょ》

小刻みに震えながら首元に寄り添われ、耳元で囁かれる声に室井の背筋がざわりと栗だつ。

「馬鹿、そこは迎えに行かせろ」
《室井さん、意外とロマンチストだ》
「幽霊なんて最初からロマンチストの作り出した妄言だ」
《めちゃくちゃだなぁ、あんた》
「夢見がちだと笑うか」
《いんじゃない?お盆だから》


言葉遊びのような慰みにようやく表情を和らげた青島に、室井の心も解れた。
こうして、気持ちを言葉にし、伝え合い知り合うことで、人は健やかに過ごせて行けるのかもしれない。

見つめ合う二人に邪魔するものは何もなく、どちらからともなく額を寄せ合った。
そのまま口唇が重なる位置で二つの影が重なる。


「生涯を賭ける約束を君に誓う」
《・・ははっ、すっげ》


言葉にしてみて室井は初めて思い知る。
逢いたい。どうしようもなくこいつだけを。
溢れんばかりの困惑するほどの激情が激しく狂おしく室井の中で自分でも知らなかった熱を生み出していた。
余裕がまるでなくて、自分の願いごとだけに手一杯となり、何か別なものに急かされるように青島だけが欲しいと喚いている。

ただもう一度だけ、逢いたかった。

夜に溶けていくようにいつまで経っても他人行儀で控えめな青島に、翻弄されている自分が情けなくも理不尽に恨みすら抱きたくもなり
室井は眉間に皺を寄せ、紅い舌をのぞかせながら咎めるように軽く歯を立てる仕草を見せた。

「いいから、はいと言え」
《強気だ》
「本気で言った。本気に取られないのなら、泣くぞ」
《あんたに愛されるひとは幸せだね》

まるでその相手は自分じゃないとでもいう口ぶりに室井の漆黒の瞳が哀愁に揺れる。
醜いエゴも独占欲も羨望という言い訳の裏で確かに根付いているのだ。
情動が何かを壊してしまわないうちに、室井は祈りにも似た想いで彼を腕の中に小さな世界に囲う。

「おまえの――」

全てが欲しいだなんて。
例えそれが誰にも赦されないことであったとしても。
祈るのは、ただもう一度君に逢いたかったことだけに昇華していく。


室井の言動全てが冗談や揶揄ではなく、どこまでも生真面目で誠意ある男だということは
青島もちゃんと知っている。
澄んだ瞳で子供のような茶目っ気を取り戻した青島が不意にふっと室井の額の真ん中に口唇を尖らせる。


《はいっ、皺が消えるおまじない》
「おっまえ、そんな可愛いことして俺をどうしようってんだ」

くすくすと笑い合う声が月明かりに交じり合った。


窓の外には月がオレンジ色に浮かんでいた。
触れ合うわけじゃないまま二つの身体が寄り添うように重なり、月を見上げる。

それはあまりに頼りなくか細い燈火だった。
きらきらと零れる星の光にここは交じり切れない。
俺たちはまるで偽物の光のようだった。


もうすぐ満月だ。
月が、満ちる。













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