**HOLIDAY
Ⅲ**
6.四日目―①
朝起きたら入り口のドアに青島が貼り付いていて室井は飛び起きた。
《おはよーございまぁす》
「・・・・」
《あ~・・・、室井さん、こういうサプライズ系、おきらいで?》
寝起きドッキリ的なつもりであったらしい。
だがそれを幽霊にやられたら唯の怪談だ。
反応のない室井に要らぬ勘違いをした青島がふわふわと漂ってきて布団の上で行儀良く正座し、頭を掻く。
そういう問題じゃない。
寝込みを襲われてびっくりしただけで、気に入っている男の顔を朝から拝める平和と高揚に、脳みそが付いていかないだけだ。
室井はくしゃくしゃに乱れた髪に五指を差し込み、溜息に近い深呼吸をした。
それを返す言葉ないと、また斜め上に解釈した青島が、尻を上げ布団に額が付かんばかりの態勢で俯く室井を覗き込んでくる。
じろりと目だけ向けた。
《昨日は随分遅くまで飲んじゃいましたね~》
そこも室井にとって大したことはない。
現に二日酔いにすらなっていない。
それでも黙したままの室井に困ったように青島が上目遣いで様子を伺ってきた。
やめてくれ、その可愛い顔は。
どうしろってんだ。
《そんな顰め面してると取れなくなっちゃうよ、ここ》
「・・・・」
《そんなに怒っちゃった・・・?》
「別に怒ってはいない。驚いただけだ」
《そぉ・・?》
「今日はアパート、行くんだろ」
《・・はいっ》
青島が嬉しそうに笑う。
室井は静かに視線を落とした。
昨夜は二人、遅くまで話し込んでしまった。
青島もまた気前良く最後まで付き合ってくれた。
きっと、青島にとってこんな風に人付き合いのハードルが低い相手は多数いるのだろうが
こんな風に彼が異常事態に置かれたとき傍にいるのは自分だけなのだという優越感が室井を浮足立たせていた。
彼の特別であることが、こんなにも嬉しいだなんて。
《・・っと、じゃ、あっちで待ってますね》
「・・・青島」
《ん?》
呼び止められ、不思議そうな瞳でリビングへと行きかけた青島が振り返る。
引き留めて、どうするつもりだったのか、良く分からない脳みそがフリーズする。
自分はいったい何を彼に言いたいんだろう。
過ぎ去った過去に囚われたままの男に何が言えるというのか。
――何を求めてたっていうんだ。
戸惑っていた痛みと傷が、またひとつ増えた気がした。
どうしてこの愛おしい者が自分のものじゃないのか。
どうしてこのいじらしい者が自分と同じ熱情をもってはいないのか。
どうして、この大切な者がこんなにも早くこの世から消える運命だったのか。
自分のようなつまらぬ中年男に何の価値もないような気がしてくる。
釈然としない感情を抱いたまま、室井は次の言葉が出てこず、するりと腕を自分の首の裏に回すと間を潰した。
「あ~・・」
頭を掻いてみたり髪を掴んでみたりするが、誤魔化す言葉も上手い文句も何も出てこなかった。
寝起きの回転の悪さと、そもそも青島とこんなに密に居られる不自然な距離に、彼をどうしたいのかすら、曖昧だ。
不自然に言葉に詰まる室井に、曇り一つない青島の眼差しが突き刺さり、居心地すら悪い。
救いの神が下りたかのような絶妙のタイミングで
その時、二人の間を遮る長閑なチャイムが鳴る。
《誰ですかね?こんな朝っぱらから》
「・・・出てみるか」
官舎の奥まで勧誘などの業者は入ってこない。
新聞は階下の集合ポストだし、宅急便にしても配達時刻が随分と早朝だ。
ほっとしたような残念なような複雑な感情のままに、もの言いたげな視線から室井は逃げる。
ばさっと片足で布団を跳ね上げ、室井は素足の長い足でベッドから降り立つ。
パジャマの上にもう一枚シャツを羽織ると、そのまま玄関へと向かった。
訝し気に鍵穴から外を覗き、室井は大袈裟に溜息を吐いた。
チェーンを外し解錠した。
朝っぱらから何の用だと室井が罵るその前に。
「おい、新城に聞いたぞ。幽霊見たんだってな」
扉を押し退けるように一倉が身体を割り込ませ侵入してくる。
「朝からなんだ」
「お前、青島の幻覚見るほど焦がれてんのか」
「・・おい」
「そこまで末期症状だったとは恐れ入ったよ」
「馬鹿言うな」
「お前は知らないだろうがな、一昨日の室井管理官はなんか変だ。そんな噂が夕刻までには本庁全体に広まっていたぞ」
「・・・・」
何たることだ。
室井は痛む頭を抱えるように手を充て、壁に肘を付き一倉を目で追う。
その一倉は勝手知ったる我が家のように上がり込み、そのままリビングへと向かった。
同期の一倉とは時折酒を飲む仲であり、何度か部屋を訪れたこともある。
一倉には少しこういう強引に物事を進めるところがあって、そこが室井にはない自由と羨望を抱かせ
一倉は逆に、室井の慎重で冷徹な理想思念に尊敬を抱いていた。
数少ない気の置けない友人ではある。
あるが、今ははっきり言って迷惑だ。
呆気に取られ、そこで棒立ちする青島と目が合った。
何とも言えない微妙な視線を交わし、やがて室井は肩を竦めて一倉を追った。
「そんなことを言いにわざわざ来たのか一倉」
「心配してきてやったんじゃないかよ。ほら、果物の差し入れだ」
「・・・こんな気遣いで誤魔化されない」
「一昨日変な言動で噂の的になった室井管理官がその後一週間の長期休暇だ。こりゃ何かあったと思うだろ」
「おい、余計なこと言ってないだろうな」
「俺は聞かされた方だよ。入庁以来の惨事に皆が興味津々だ。しかも新城に聞きゃあ、幽霊見たとほざいていたらしいとか面白いネタぶっこんできやがる」
「それは」
「だから入院でもしてんじゃないかと調べたら自宅療養って話だからさ」
「別に療養しているわけじゃない・・・」
受け取った果物を眺め下ろし、室井は一週間後の対応の面倒臭さに気が滅入った。
ずうずうしくソファに座り込み、大きく足を組んだ一倉が横柄な態度で室井を振り仰ぐ。
「んで?実のところどうなんだよ?休みの理由を言えよ」
「野暮用だ」
「どんな」
鋭い一倉の目に室井はたじろぎ戸惑う。
その横を薄い黄緑色の浮遊体が横切り、一倉の傍に近づいた。
《なんでこの部屋にこの人が来んの?》
「知ってるんだろ、青島も休みらしいじゃねぇか。揃って有給休暇とは、お前らいつの間に進展したんだ」
一倉を誤魔化すのは相当骨が折れるし、早々に退散してもらいたい下心もあって、室井は嘘を吐くのが面倒に思う。
更に一倉の色のついた物言いに気が気じゃなかった。
青島の前で余計なことは吹き込まないでほしい。
「その青島を探すための一週間だ」
「探すってどこを」
「彼は今、失踪している」
「何、あの暴れん坊、無断欠勤なの?」
げらげらと一倉が笑う。
《暴れん坊とはなんだよっ》
「だからって失踪とはちょっと飛びすぎじゃねぇか?里帰りかもしれないし、女遊びかもしれない。昔の女巡りとかな」
《人を遊び人みたいに言うなっ》
一倉の前で不満げな顔をした青島が一倉の身体で遊び始めた。
《ん!俺よりやっぱ背高い。ずっるいな~・・・、あ、無精髭》
「ま、青島に理想を見ているお前には男の解放感ってのは分からねぇか》
げらげらと愉快そうに笑う一倉の腹の上に青島が跨った。
《ぱんちぱんち!》
「そんな理由で新城は誤魔化せても俺は誤魔化されないぜ」
《きっくきっく!》
「仮に本当に失踪していたとして、何故お前に事情が分かる。詰めが甘いぞ」
《はいふらいふろーぉ!》
「ましてやそんな言い訳に青島を使う辺り、お前、相っ変わらず青島が好きだな」
「一倉・・ッ」
《こぶらついすとぉ!》
室井が咎めるような目を向けるが、一倉は鼻で笑って流した。
一倉は室井がどれだけ青島に心を割いているかを知っている。
室井の本音に室井より先に気が付いていたとしても不思議はなく、そう言えば以前からよくこんな色めいた揶揄をしてきていた。
だが今は本人が目の前にいる。
「一倉・・俺を揶揄いたいならまたにしてくれ」
「んで、デート?青島さえいれば生きていけるなお前」
「そうじゃなくて・・」
焦る室井の顔が強張った。どうしたもんか。
《室井さんは捜査に私情を挟むひとじゃないよ!》
「幽霊でもいいから青島と一緒にいたいってか?健気なことだ」
これ以上一倉に余計な発言をさせないために室井はにやりと口端を上げた。
「本当に。・・・冗談ではなく青島が現れたんだ。霊体となって。私だって見るまでは信じやしない」
「夢枕に立ったとでも言うのか」
「真昼間から堂々とだ。今もここにいる」
「・・は・・?」
「見えるのが私だけらしい」
「・・ぇ・・・?」
室井らしからぬ突飛で整合性のない発言に、一倉の口がぽかんと開いた。
ざまあみろと思いつつ、室井は理知的な顔を崩さない。
「お前な、冗談にもほどがあるぜ?大人が幽霊を信じるか?」
「私だってそうしたい」
「・・・、よせよ、朝っぱらから。・・・嫌味にしては趣味が悪ぃ」
一歩も引く気のない室井が、幽遊とした笑みを浮かべ、ゆっくりと腕を上げ指をさす。
普段、冗談など一切口にすることのない室井だからこそ、その言葉は殺伐とした臨場感を一倉に伝える。
「ここにいる。我々の話も筒抜けだ」
「・・・・」
「今も君の中を出たり入ったりしている。――ほら、そこだ」
「ヤラしい言い方すんなよ」
「・・・、やらしい言い方にしたのはそっちだろう・・・」
ソファに座っているのも気持ち悪くなったのか、一倉が座り心地悪そうに立ち上がった。
空気が少し淀んだ。
あくまで平静と冷静を装った一倉がザッと辺りを一瞥し、両手を広げる。
浅い息遣いで緩く首を左右に振った。
「――霊体だって?馬鹿げている。怖がらせるにしても積極性に乏しい。お粗末だ」
「青島だからな。怖くもないだろう」
《室井さん、一倉さんは頭でっかちなんだから、言ったって無駄ですよぅ》
「良いからこっち戻れ青島」
もう遠慮なく室井は青島に声をかけた。
《キャリアっていっつも綺麗にしてるのかと思ったら、無精髭だ》
「一倉は休みの日はさぼる」
《そうなんだ~、シャツもよれよれ》
「だらしがないとは言っているんだがな。そのシャツがお気に入りだそうだ」
「・・・ほ、ほんとにいるのか・・・?」
「ああ」
ふわふわっと青島が浮き、あかんべーをして舌を出し、宙を踊る。
そのまま室井の背後へと舞い降りた。
それを室井が視線で確認する。
《どうすんの、この人》
「放っておけ、自分で帰れるさ」
「い、今なんて言っている?」
「君は頭でっかちだから理解されないだろうと」
「大概の人間はそうだろ・・」
「それに、腹が出てると」
「大きなお世話だ青島ッ」
「でもよろしくと言っている」
「ずうずうしいッッ」
7.四日目―②
《今日、面白かったねぇ・・・》
「・・・」
窓辺で青島が余韻に浸ったようなトーンで呟き、ベランダから夕焼けを見ていた。
暮れていく異常なほど紅い雲が急速に流れ、群青色に変わっていく。
今日は午後から青島のアパートに二人で向かい、そこを調査した。
結果は何も出てこなかったのだが、有意義な一日だったと室井も思っている。
キッチンで皿を洗いながら室井も小さく肯き、今日を思い起こした。
****
アパートの鍵を開けるとそこは木漏れ日が射し込みまるで森のようだった。
黒い革靴を丁寧に脱ぎ、室井は部屋へと失礼する。
ワンルームのそこには青島の住処が広がっていた。
《一応目に付くところは俺も確認入れたんですけどね。特に変わったところもないし》
「信憑性は薄いな」
何故ならそこは住人によって予め散らかされていたからだ。
脱ぎ捨てられたままの服が椅子にかかり、布団は中身が抜けた状態で敷かれたまま冷めきっている。クローゼットや引き出しは開けられたままだ。
洗濯し終った衣類はハンガーにぶら下がったまま、放置されていた。
テーブルの上には煙草の吸い殻。飲みかけらしいビール缶。
半分閉じられたカーテンが住人の生活環境を物語る。
散乱している物が多いだけで、汚くはないが男の一人暮らしという印象だ。
《へへへ》
何が照れるのか、はにかんだ顔で誤魔化すような緩い顔をする青島を呆れたように室井が半眼を投げる。
《俺ね、いつもゴミは必ずこそに纏めて忘れないようにしてるんですよ》
そういって青島が玄関脇の戸棚の横を指差した。
東京都指定のロゴが見えるゴミ袋が一つ置かれている。
《これがあるってことは次の燃えるゴミの日に必ず出そうって思っていたってことで》
「つまりはここに帰ってくる意志があったということか」
《そういうことになります》
青島の説明尻を室井が引き取れば、青島は室井の隣で瞳を光らせた。
なるほどと思い、部屋をなんとなく見渡す。
気になる男の部屋に偶然にも上がることが出来、室井は目を走らせることすら悪い気分になった。
シーツや下着などには直視に絶えず、視線を向けないようにし、なんとなく目を反らしてしまう。
反らした先には時計が並んでいて、窓から入る日光に文字盤が反射した。
《なんか、一緒に捜査してるみたいですね》
「してるんだろ」
《そうなんだけど!そうじゃなくて、こうやって一緒に事件追えるってのがワクワクするっていうか!》
「・・・・」
青島が本当にきらきらした目で笑う。
これは仕事だと言い聞かせ、室井は邪念を振り払うと、冷蔵庫を開けた。
ほとんど何も入っていなかったが、確かに失踪を決意した男の名残には見えない。
クローゼットの中やスーツのポケット。
チェストに並んだ写真や雑誌。
青島の好みのスーツが分かり、少しだけ興味深い。
最後に見慣れたあのショルダーバッグの中も拝見させてもらったが、多摩に繋がる証拠すら出てこなかった。
《このバッグは持って行かなかったんだなぁ・・》
「ちょっとした散歩のつもりだったか」
《散歩で多摩はないでしょ》
「まぁな・・・」
鞄の中を開ければ充電の切れたケータイが底に転がっていた。
充電器に差し込み、電源を入れ、メールや受信履歴などを二人で覗き込む。
ここにも目立った異変は見受けられなかった。
「大量のメールで分かりにくい」
《すみれさんからの脅迫メールだな》
室井が指先を立て白手袋を外し、懐に仕舞う。
《やーっぱ無理かぁ》
「これだけ探して出てこないならここにはないだろう」
《そろそろ出ましょーか》
「・・・そうだな」
《ごめんなさい、こんなとこまで足を運ばせて》
「――いや、一緒に捜査、したんだろ?」
《・・はいっ》
しょぼんとしていた青島の顔が向日葵が咲く様に変わる。
室井が青島の顔を眩しそうに見上げ目を細めた。
「捜査の基本は可能性を抹消していくことだ」
《そうだけど》
「俺だって、こうやって捜査の細かい部分を詰めていく作業は楽しい。それを君と出来ることもだ」
《ほんと?》
「ああ」
《そかっ》
それは、ほんの一時間だった。
でも二人で意見を言いながら探索できたことは、素直に充実していた。
****
「俺だって楽しめた」
トワイライトに染まるベランダを背負い、開け放たれた窓の向こう側で青島が振り返る。
風は受けないが髪が柔らかく靡いているように見えた。
《室井さん、やさしすぎるよ。こんな俺の都合にも付き合ってくれてさ》
「乗りかかった船だからだ」
《それでも。いいひと。すごく・・・いいひと》
蛇口を捻り、手を拭ってから、室井もひっそりと寝室を抜けベランダへと向かう。
風が強くなっている。
このまま天気は崩れるとの予報だ。
《俺、あんなふうにあんたの傍で生きていけたら幸せだったよ》
あまりに幸せそうに笑うから。
室井はぐっと拳を握り締めた。
そんな風に健やかに答えを出せてしまう青島を、狡いとさえ思った。
ふいに寂しくなる。胸苦しくなる。
独り悟ったような顔をして大人ぶる青島にもだ。
初めての夜は、あんな顔で泣いていたくせに。
サッシに肘を付いた格好で、どこか遠くを見つめる青島の横顔を室井は刻み付けるように漆黒の瞳に映した。
純朴で童顔で、少し癖の強い性格が愛らしく、甘さの中に媚びない色っぽさが見え隠れする。
息遣いすら聞こえそうな不自然な距離が自然と胸の渇望を訴える。
――そうだ、そうだった。
知り合って、よく話すようになって、青島はいつもこんな遠い目で今とは違う未来の話をしていた。
イキイキとした目で、活力に満ちて、眩しくて泣きそうになった。
室井がとうに捨てたものを彼はまだ抱いていて、そこに室井を意識してくれていて
忘れずに踏ん張ろうと踠く、その姿が挑発を呼び誘引するのだ。
気怠い熱のこもった大気がバサバサと畝る嵐風となり吹き付け、室井の前髪を散らし、噎せ返るように室井は浅く息をした。
近づいている嵐の前触れに湿度が高まり、風の匂いが生暖かいものに変わる。
ベランダでは直ぐに肌がべた付いた。
なのに隣の青島は爽やかに佇み、コートさえ着込み、その姿は湿度も風も支配しない。
決定的なその格差は、胸の奥から湧き上がる苦いもので室井を猛追した。
「もう諦めるのか?」
《そうねぇ・・・》
――このまま彼を行かせていいのか・・・?
室井がそう思ったとき、一陣の風が二人を巻き込んだ。
強い勢力に室井のセットしていない髪が巻き上がる。
腕で庇うように顔面を覆い、室井は目を見開いた。
夜気の蒼が溶け込み、青島の姿が大気に霞む。
夏の湿り気を晒す夜空にボディラインを引き立てる美シルエットだけを残像し、紛れ込んだ。
溶けてなくなってしまいそうで、室井は思わず乗り出し手を伸ばす。
夜に、そのまま消えるかと思った。
意識せず伸ばした室井の指先が虚しく宙を切る。
びっくりしたような青島の顔が目の前にあり、それは幻覚だったのだと悟った。
心臓が恐ろしいほどにバクバクと胸騒ぎを合わせて脈動している。
そもそも青島の存在自体、本当に一倉の言うように室井の見せる幻覚であり、この時間こそが幻なのかもしれない。
なんとも危うい存在であることが改めて室井を糾弾した。
今度こそ言い逃れの出来ないあからさまだった室井の行動に、青島もまた自分を引き留めようとした男の顔をまじまじと見返していた。
《ぁ・・・えっと》
瞬間、室井にはこの人当たりの良い男がこの確かな違和感さえ誤魔化そうとしていることを悟った。
冗談で流そうとしてくれる男の気遣いを、今は哀しく思う。
何で別れなきゃならないんだ。
ぶつかって、傷つけあって、感情を搔き乱され、矜持を拉かれ、悔しくて、苛立ち、焦燥に喘いだ。
それでもようやくここまで来た。
何もかもこれからじゃないか。これからだったのに。
全てから見放され、また置いていかれる。
俺の聖域が崩壊していく。
「・・・だ」
嫌だ。失いたくない。
強くなってきた低気圧が唸りを上げる。
《・・?》
「――行くな」
《ぇ・・?》
「行かないでくれ」
出会い、惹かれ、手を取り合った、あの大階段。
「俺の前から消えるな。ずっと俺の傍にいて、俺を見ていてくれ」
《そんなこと・・・・言われたって・・・》
葛藤し、軋轢の中で違えていった秋の夜。ノイズに途切れる嘆傷の声と、煙たい部屋の血の香り。
「俺には君が、必要だ」
《・・・どぉも。・・・んでも、どこも役に立ってませんけど。今日だって》
初めての室井の霊体に対する独善的な要求に青島の顔は困惑に歪む。
駄々を捏ねていることは重々承知の上だ。
だが一度動き出した言葉は止まらない。
ワンナイトに似た心境で引き受けた一件だったが、彼の傍にいればいるほど深みに嵌っていく。
関わるほどに心は浮き立ち、浅ましく染められ、青島という影が抗っても室井の中に色濃く刻まれ埋め込まれていく。
もう、なかったことになんか、出来るわけないじゃないか。
「離れたくない」
《無茶言うなよ》
「俺に憑りつけばいい。連れていけるなら連れていけ」
《はぁ・・っ?キャリアはどうすんだよ。約束は?》
「そんなの、もう、いい・・・・意味がないんだ。君がいなければ」
《何言ってんだよ?あんたの居場所はこっちだろ・・?》
辺りは急速に明度を下げ、低気圧の強い風圧が木々を激しく揺らし、街が啼くように音を上げていた。
ビルや樹木を叩く風の音が切なげに煽り、心拍数を上げてくる。
不意に決壊した激情は堰を切って溢れ出し渦を巻き濁流のように決壊した。
《変だよ・・・室井さんはそんなこと言うひとじゃない》
「俺の何が分かる。おまえがいなきゃ、俺は凡俗だ。ただのキャリアで終わる」
《そんなこと・・!》
「君の無鉄砲な慰みは沢山だ」
《・・ッ》
「おまえのその全幅の信頼が俺を孤立させ責任を負わせ孤高に追い込んだとは考えたこともないか」
《・・ヤな言い方・・・》
こんなにも自分は弱い。
欲しいと言わせたくて、言われたらきっと、溺れていく。
渦巻く不安と絶望が、嵐に乗って室井を焦慮に詰まった切迫感に落とし、狂わせ、後押しする。
「組織の中で個の力は紙屑同然だ。だが集合体になることで力を生む。俺たちの約束はそういう意味だと捉えていたが?」
《俺、直前の記憶、ないんですよ?なにしたかも分かんないんですよ?!》
「だからなんだ?犯罪でも犯してきたとでも脅す気か」
《そこまであんたに背負わせるつもり、ないですよ》
「背負ってこその相棒だろう?」
《また仲間なんて出来る!》
「俺は君を相棒に選んだんだ・・!」
きっと自分たちは紙一重の危うい均衡を保っている。
もしそれが些細な偶然で崩れた時、自分がどれほど残酷な獣になれるのか分からない。
室井がゆったりと一歩踏み出した。
風は益々強くなり、その息さえ苦しくさせた。
青島の背後に広がる藍色の低い雲が毒々しく増え、視界からも強い不安を煽り、嘲笑うように覆ってくる。
耳鳴りがするほどの風の音。
やがて、ポツポツと大粒の雨粒が階下の屋根を盛大に叩き出した。
《何が言いたいんですか?俺にどうしろっての?》
室井らしからぬ人間味溢れた生臭い本音に、響き合って動揺し、青島も押し殺していた裡を浸潤させてくる。
「そんな生温い覚悟で俺に近づいたのか」
《そう、ですよね・・・。室井さんだって狙われてもおかしくない要職だってこと、忘れてました。連れ出したことも、不用心だった》
「そういうことを言っているんじゃない」
《じゃ、なに?もうどうしようもないこと、今更ぐだぐだ言ったって仕方ないでしょ・・!》
「大体霊体だけ残るなんて変じゃないか?本体はまだ生きているに決まっている!」
《どうやったら本体とコレが分離できんだよ!?》
強い風のせいで室井の短い前髪が激しく額を打ち付け、辺りは水蒸気が湧いたように煙った。
シャツが煽られ、バサバサと裾を散らす。
その風の影響を受けない青島を追い込むように室井が歩を詰めれば、その高潔な威圧感に青島がたじろぎ、一歩下がった。
大気を掻き混ぜながら空が荒れていく。
千切れそうに舞う木の葉が視界を過った。
息吹きあるものすべてが青島を通り過ぎていく。
「なんで君はそうなんだ・・・いつも、いつだって。俺をめちゃくちゃに乱し、勝手に消えようとする」
《いつもって・・》
「自分が幸せになることはおざなりにして・・・。君を見ていると惨めになる。耐え忍ぶ自分が情けなくなる」
直向きで健気で俺だけを慕い、俺だけを願う。心地好く心をしなやかにした。
嘘みたいに眩しくて、可愛くて、敬虔だった。
それは、まるで別の人間の人生を歩いているかのような時間だった。室井にとっては。
大切だから、何かしたい。
させてくれるだけの慈悲もないのが哀しくて悔しい。
「俺に捧げたいのは口先だけか」
ベランダの隅まで追い込み、室井はその両手を背後の壁に押し付け、青島を囲った。
霊体の青島に物理的な拘束は効果がない筈なのに、青島はそこから動けず小さく室井を睨み上げる。
「そんな顔をしても逆効果だ」
《・・俺、逃げれるよ》
「・・・知っている」
青島は室井の玲瓏に迸る威厳に気圧され、竦んだようにそこから動けない。
大粒となった雨はあっというまに街を煙に包み、世界の音を閉ざし、地面を隙間なく濡らしている。
樹木を大きく左右に揺らす自然の唸り。
夏の嵐だ。
湿気の多い風が下から巻き上げる。
唸りは何もかも壊してしまえと囁いているようだった。
生命活動をしていれば感じたかもしれない熱も呼吸も、感じないからこそ室井は大胆に至近距離まで身を寄せ
夜に溶け込む青島の瞳に高圧的に挑む。
「何故笑う。何故落ち着く。何故悟ったような顔で待てるんだ」
《・・・落ち着いて、なんか・・・ないです》
掠れたような青島の声が室井の脳髄に滴り、室井の乾いた喉が蠢く。
「そんなに俺は頼りないか」
《・・・だったらここにはいないよ》
「ならば責任取って傍に居ろ。俺が自滅する前に」
結局は身体と心に深く刻まれた傷跡にお互いがんじがらめに縛られているのだ。
それしかない。
それしか繋がりがないから、こんな非常時に於いてさえも取り繕った行儀の良い言葉しか、お互い言えない。
あの秋の悲劇が俺たちをあの時代に肖像のように焼き付けている。
《んだよ、それ・・・》
斜めに打ち付ける大粒の雨は室井のシャツだけを濡らし、肌を透けさせた。
前髪から滴る滴が室井の輪郭を幾筋も辿り落ち、その屈強な筋肉を晒していく。
暴風雨に晒される中、二人は睨み合ったまま動けずに挑み合う。
「遠くで心配するくらいなら傍にいろ」
《ぃ、いまさら・・っ、そんなこと・・・っ、なんで・・・ッ、言う・・・》
夜の大気に溶け込む青島の瞳は壮絶なまでに透明で、吸い込まれそうだった。
「おまえこそ俺の傍にいられなくなってもいいのか」
《俺だっていたいですけど、だけどどうしようもないじゃん・・・なんともならないじゃん》
「随分と悟り切ったことを言う。未練だらけでこっちに舞い戻ってきた、それも認めることもできないか」
《・・っ》
「そんな覚悟じゃこっちのエネルギーに吸い込まれて終わりだ」
《やだよ》
「じゃ・・・俺を掴め。俺を巻き込んでみろ・・!」
《それもやだっての・・・くっそ・・・》
恋しがって泣いて泣いて、心が嵐のごとく狂乱に呼んでいた。
俺の人生で一番深く関わった男だった。
自分で掴んで手繰り寄せた手を今度は離さないと言い切れるのか。
だが、人生は一度切りだ。
いつまでも君の横で笑っていたくて。
独り消えていこうとする君に、君の存在が無意味でないこと、少なくとも室井は幸せであることを伝えたかった。
どう伝えれば良いのか。
その方法が何も分からない。
何を言葉にすれば青島が満たされ、笑い、委ね、そしてもっと室井に心を開いてくれるのか。
そもそも青島は何故室井の前に現れたのか。
《・・んで、あんたが泣くんだよ》
「泣いてない」
実際涙は出ていなかったが、酷い顔をしているのだろうと思った。
まるで雨が涙のように室井の顔の輪郭を辿っていく。
幾筋も幾筋も。それは隠しきれない想いを暴くかのように流れ、青島の瞳を歪ませた。
泣いて傷つき、失ってばかりの人生だった。
あれもこれも、何も届かなかった人生だった。
挫折を失望を、喪失を、俺はまた味わうのか。
《くっそ、こんなときまで、俺、あんたをきらいになれない・・・あんた、が、いいひとだから・・・》
「・・・」
《俺が、あんたがいいひとだって、知ってるから・・・。あんたには逞しく生きていってほしいんだよ》
俯き、青島が悔しそうに口唇を噛む。
うねった前髪に隠された瞼が震え、むしろ青島の方が泣きそうだった。
飴玉みたいな涙が溢れんばかりにその夜を映す瞳に浮かんでいた。
室井の狂気に誘発され、本音を暴かれた悔しさに、堪え切れぬものを青島が必死に飲み下す。
嵐が室井の背後から吹き荒んでいた。
何もかもを壊せと耳鳴りし、何もかもを押し流して地面に叩きつける。
いじらしいその姿と、愛おしさが溢れ、室井は肘を折って身を近づける。
ここが、タイムオーバーなのだと思った。
「俺は、おまえのいいひとになんか、なりたくない」
《・・ぇ・・?》
思わず口が動いていた。
室井の薄い口唇が痙攣したように震え、囁くような低音に響く細い声を出す。
「自覚もない。でも心に染み付いたみたいにいつも考えていた」
脅え、戦慄しながら背を押される強迫めいた情熱が啼きたい衝動を呼ぶ。
「君が現れてから、俺はボロボロだ」
少し、陰りを帯び傷ついた目をする青島に室井は禁忌的な満足感を得る。
そのことに、室井は口角を多淫に持ち上げた。
こうして極限の状態に追い込まれても失わない青島の純朴な直向きさに、室井は青島の本質を手にした気にすらなれない。
堪え入るようなその声は嵐の中にあって艶を帯び、紡がれる声は青島を貫き、雨に混じる。
「なんなんだおまえは・・・俺はおまえが分からない。おまえといると俺は自分が狂わされる・・・」
《・・・》
「色んな事が巻き起こって、変わっていった。もう、誤魔化せない」
《なに、を・・・》
室井の清潔で高貴な姿態が幽艶に染まる。
「たくさん、泣かせてすまない・・・・おまえを失いたくない。おまえのことが・・・好きだった・・」
《ぅ・・》
「ずっと、ずっと、最初から、・・好きだった」
このまっすぐな魂を持つ男にいっそ弔われたい。
とうに始まっていた恋にようやく気付いた。
やっと認めることのできた醜い妄執は、彼の強い視線の呪縛に溺れ、自分で制御できないくらいに執着し
毅然とした態度さえ吸い取られてしまいそうに鮮烈だった。
それを認めてしまったら、室井は自分の中に酷く危うい部分を囲んでしまうようだから、怖かったのだとようやく思い知る。
それでも、真っ白な画用紙にふたりで思いを馳せた。煙たい紫煙もアルコールの熱も思い出にはしたくなかった。
室井の言葉に青島が縋るような目で真意を探り戸惑いを伝えてくる。
その顔に、室井は幽遊とした大人の薄い笑みを返した。
諦めたように少しだけ眸を伏せた雨に打たれる室井の姿は
肝心なことを隠すことも出来たのに誤魔化すことはもうせずに潔く観念した大人の男の姿であった。
凛としたその澄徹の眼差しに、青島が狼狽する。
《・・っと、ぇと、あの》
「・・・・」
《お、おとこ、オトコだし・・》
「・・・・」
《あんた、上司じゃん・・》
「・・・・」
青島は乾いた笑いすら失敗した後、上を向いて、下を向いて。それから横を向いて。もう一度下を向く。
《言うの、・・遅っそいんだよ・・・ッ》
拳を口元に充て、哀しそうに、でも照れくさそうに呟いたその言葉に室井は瞠目する。
雨垂れが室井の身体だけに怒涛に打ち付けた。
めちゃくちゃになったとしても、壊してしまいたいものがある。
それを留めようとする微かな理性も、狂騒に走る熱情まで、愛おしくなる。
「ああ・・、そうだな・・」
《ばかだ・・・》
「ああ」
小さく空気が揺らいで。
《じゃ、朝までここにいていいですか・・・》
室井は天を拝むように細い顎を軽く上げ目を閉じた。
どうしてこんなになって今。
大切なものはいつだって後から気付く。そして簡単に掌から零れていく。
何故俺たちはこんな形でここに居るのだろう。こんな宿命を宛がわれたのだろう。
理性では納得していても心根の奥が叫んでいた。
どうして。何故。
答えのない問いが、沸き起こる。
めちゃくちゃに砕いた結末をこの先どう受け止めるのか、今の自分たちには分からない。
終わってしまったものも、今終わらせてしまったものも。
だがそれより室井を満たすものは、背徳的な色香を持つ狂気に堕ちた多幸感だった。
もう逃げる術すら失い、室井は直面させられた混沌と渦を巻く己の脆弱さを受け入れ、強制されたように視線が離せなくなる。
初めてだ。こんなにも自分から誰かを大切に思うのも、自分より誰かを大切になるのも。
どうしていいか分からないくらい、それは室井の真髄から本能を揺さぶった。
青島をぎゅっと強く抱きしめようとして――室井の腕は再び虚しく空を切る。
抱き締められない室井の手に、青島の瞳も絶望に潤む。
ただお互いを瞳に映し合った。
ただその眼差しの狂おしさがせめぎ合う。
下着まで流れる水滴も何かが洗われていくようで、壊してしまったこれまでの時間に、それでも後悔はなかった。
励ましも同情もない、ただそこにいる逞しさと愛おしさに、胸が満ち溢れるものに身を委ねる。
頬を寄せた。
涙なのか雨なのか、濡れた室井の頬がそっと不安そうな色を浮かべる青島の頬で止まる。
勿論感触はない。それがものすごく悲しかった。
その熱も膨らみも、知りたかった。
知ってみたかった。
《むろぃさん・・・っ》
「泣くな。おまえは俺のものだ。これまでも、これからも。触れられなくても」
《う、ぅん・・・っ》
分かり合える、分かち合える。そんな幸せが哀しいだなんて思ったこともなかった。
どうしてよいか分からないという顔で頑是なく首を横に振る青島を、安心させるように両手で囲う。
「最期まで、一緒だ」
《・・ん・・っ》
室井は頬を摺り寄せるような位置で顔を止め、目を閉じる。
曖昧で烈しい感情がそこにあった。
全てが青島に向かっている。
その青島は、もしかしたらあと数日で消えてしまうかもしれない。
「・・・そんなの、冗談じゃない」
青島の人生をここで終わらせたくない。
恋の約束に捕らわれて。
消えた男との約束に囚われる。
何度も吐き出した同じ言葉は、それでもやはり唸る涙雨の中に頼りなく掻き消されていった。
