**HOLIDAY Ⅱ**






3.三日目―①
朝陽がディープブルーの羽毛布団を海のように散りばめる。
いつもより心持ち遅めに目覚め、何気なく窓の外に目を向けて室井はぎょっとした。

《へへ。はよーございます》

窓に青島がべったり貼り付いている。

「・・・何してる」
《早く起きないかなって。休日だからって怠けてちゃ休み明けが大変なんですよ》
「・・・・君は夏休みに入ると早起きするタイプだったろう」


窓の外では青島がしてやったりという顔をする。
入ろうと思えば入れる部屋の外から待つ辺り、インスタントな遠慮が見えるが覗きとは随分中途半端な気遣いだ。
まあ、そこが青島なのだろうと室井は妙な納得をした。

気怠く落ちた前髪を掻き上げ視線を流せば、無造作に開いたパジャマの胸元から秘肌が遠慮がちに覗く。
採寸ぴったりの紺地チェックのパジャマは室井のお気に入りだ。
直ぐには布団から出る気にならない室井を青島が詰まったような顔で愛想笑いに逃げる。


《・・ぇ、えへへへ》

男の寝起きに何を狼狽えることがあるのか、青島が照れ隠しをしたように天へと舞っていった。
その姿を室井は気怠く見送った。


身軽なのは肉体があったときからだが、華麗に宙を操る青島は手足の優美さもあって妖精みたいだ。
日増しに動きに精細さが溢れてきている気がする。
太陽光に反射したかのように黄色味を帯びて大気に溶け込む姿は本当にそのまま透けて消えてなくなりそうに幽玄だ。
光の加減で時折視界から失せる無邪気な姿を、室井は得られぬものを欲しがる傲慢な瞳で見つめた。


青島が此処にいる。
すぐ目の前に来て、止まった。
手を伸ばせば届くその距離。だが彼が自分に手を伸ばしてくることはないのだろう。そして、触れることも。
金輪際、絶対にない。

窓ガラス越しの関係のように、それは霊体だからという言い訳を無下にして、決して埋められぬ壁を室井に唱導する。


じっと窓の中から深い瞳で見つめるだけの室井に、どこかまごつく顔をして、青島が背を向ける。
室井がベッドから足を下ろしサイドに腰掛けると、薄い背を窓に付けていた頭がゆっくりと振り返った。
物柔らかい笑みを湛えた眼尻が影さえ透過させ七色に光る。


・・・・何を男の一人暮らしに気を使っているのだろう。
青島にはどこかそういう最後のラインみたいなものがあって、期待させておいて最後に掌を返させた。
多少の他人行儀なところはあれど、室井は青島みたいな徹底した気の使い方は出来そうにない。

――いや、そうでもないか。逆だったら室井は目のやりどころに困るかもしれない。

背が高く、手足の長い青島には見る者を虜にする変な色気があって、ましてやスーツ姿しか見たことはないが、社会性が強い男だけに
部屋でリラックスした淫靡で隙だらけの無防備な格好で出迎えられたら。

そんな風に青島が自分に対して思ってくれることはないのだろうが。
溺れ込んで、激しい記憶を刻み込まれた一方的な愛咬を印した片割れに、室井は奇妙な安堵感と苛立ちという相反する感覚を同時に覚える。

裏切って、傷つけて、尚、情を乞い、贖罪も叶わぬ漢に、一体何が言えるというのか。
こうして、彼の特別な役目を与えられたからといって、それは室井に何の意味も持たせなかった。
未だ名の付かぬ留めきれない欲望が身の裡にある。

通常は抱かないだろう感覚が確かに身の裡に存在することを、そしてそれに気付かないふりをしていた自分を
運命が時の歯車を以って残酷に責め立てている気がした。


《はやく、ね》

マシュマロのような甘ったるい声で哀願し、青島がまた大空へと飛んでいく。
何にしろご機嫌ならば結構なことだ。
最初の夜、初めて見た泣き顔が室井の胸を今も鋭利に抉る。

自分といることで、ほんの少しでも安心を得たり、彼の時を充実に満たせるのなら
それはほんの少しの罪滅ぼしにならないだろうか。

その青島は、もしかしたらあと数日で消えてしまうかもしれない。


「・・・そんなの、たまるか」

冗談じゃないと苦く吐き捨てた室井の声は捕らえる者もなく、力なく寝室に溶けた。




****

気を取り直し、リビングの扉を開ければ今度はソファに青島が長く美しい足を組みふんぞり返っていて、首だけで振り返る。

《さっさと仕度して出かけましょう。お散歩日和です》
「どこへ行く」
《・・・・ええぇ~どこにも行かないの?》


つっけんどんに言い捨て、朝食の支度を始める室井の背中に、青島が今度はソファに膝立ちになって振り返る。
現存物体などに影響は受けないだろうに、ソファの淵に両手をかけて室井を視線で追う姿は、まるで遊園地にでも連れて行ってもらえる子供宛らだ。
期待に満ちた目で室井の返事を待っている様子に、こちらの方が申し訳なくなってくる。

どうせ降って湧いた休日だ。
とことん気の済むまで青島に付き合ってやるつもりだった。彼の、生涯最期の現実世界かもしれないこの日常を。
ただそれを正直に言うのが悔しいだけである。


冷蔵庫に手を掛けながら、卵を取り出す。

「今日の行き先は君の好きな湾岸署だ」
《そうこなくっちゃ》
「ところでケータイも持って行ってるだろう?GPS使ってみるか?」
《・・・それ職権乱用って言いません?》
「非常事態ってことにする。・・・どうした」
《・・・・ケータイ、充電切れて家に置いて来ちゃったっ》

盛大に室井が天井を仰ぐ。

「君の自宅ももう一度寄ってみるか」
《でも鍵ないですよ。俺と一緒に紛失中~》
「スペアは」
《あ。署のロッカーにあったかも》
「じゃ、やっぱり先にお台場だ」









4.三日目―②
湾岸署の受付で室井が手続きを待っていると、徐に背後からスーツの腕を引かれ、室井は直立不動のまま振り返った。
形相を変えた恩田すみれが立っていた。

《あれ、すみれさんじゃん。どうしたの》
「こんなところで何してるの」
「何、とは」
「ちょっと来て」

少し人垣を避けた職員通路に室井を連れ込み、すみれは颯爽と振り返った。
小柄な体格が意気軒高に脅迫してくる。

「知ってるの、知らないの、どっち?」
「話が見えない」
「誤魔化さないで。青島くんのことよ!」
「彼が何か?」

彼女が新たな事情を知っているかもしれないと、室井も噛み締めた奥歯に堅く力を入れた。


先程まで、刑事課や廊下でさりげなく近況や青島の請け負っていた事件などを聞いてきたが、特に失踪と関係ありそうなものは出てこなかった。
休暇などの予定もなかったという。
埒が明かないため、青島の備品ロッカーのスペアを今、事務員に頼んでいたところだった。


すみれが赤い口唇を噛み締め、視線を横に投げる。
言い捨てるように、嘆息を吐いた。


「呑気な顔。そうよね、あたしたちが知らないのに本店の人間が知ってるわけないか。あたしも馬鹿だわ」
「・・・・」
「青島くん、連絡が取れないのよ。何か聞いてない?」
「――いや、知らないな」
「・・・そう。困ってんなら室井さんとこ行くかなと、思ったんだけど。・・・大した仲じゃなかったようね」
「君は――・・・」
「電話にも出ないのよ。アパートまで行ったんだけど留守のようで・・・」

《ごめんね、すみれさん。そこまでさせちゃった?》


タイミング良くすみれが青島の浮遊する方へと顔を向けるから、もしかしたら見えているのかもしれないと期待したが
窓の外へと素通りしただけだった。
やはり彼女も例に漏れず、瞳には絵具を塗したように青空を映すばかりだ。
空に混じるその瞳を青島が心配げに覗き込む。


「金曜に達磨で呑んだと聞いた。その時の様子は」
「変なこと知ってるのね。・・・・ええ、そうよ。残ってた人間で飲みに行こうって話になって。総勢十名くらいだったかな。青島くんもビールと焼酎とチュー ハイで」
「なんだその節操のない飲み方は」

《あはは~、そうだったそうだった!楽しかったねぇ》

「え、割といつものことだけど」
「・・・・それで」
「九時にはお開きになって、そのまま駅まで二人で。送って貰って、そこで別れたの。特に不審なこと、なかったと思う」
「週末にどこか出掛けるというようなことは言っていなかったか」
「んん、聞いてない・・・、青島くん、あんまり自分のこと話さないしね・・・」


割と親しくしていたように見えていたので、室井の不備のない黒曜石は冷たい疑惑を乗せる。
それを見て取り、すみれは控えめに笑って見せた。


「事件のこととか、こんな刑事に憧れたとか。課長のお使いの文句とか、そんな話ばっかり」
「青島らしいな」
「室井さんの話もしてたわよ。妬けるくらいには」

在りし日の青島の色めき立つ姿を回想したすみれの眼尻が少し熱を乗せ、夏の強烈な日差しに滲んだ。
かかるストレートの黒髪が恥ずかしがるようにそこを隠す。
それをすみれは指でそっと耳にかけ直した。
グロスを塗った赤い口唇を小さく歯で咬む仕草は、どこか痛々しさを感じさせる。

“やーっぱオトコは黙って耐えないと!なーんかかぁっこいいんだよねぇ”
“なによ、本人の前じゃ不貞腐れた顔しかしないくせに”
“ばっか、本人になんか言えるかっての”
“男の友情って分からないわ”
“伝わるんだよ、こう、熱いハートっていうものがっ”
“便利なテレバシーね。それで刺されてちゃ割りに合わないけど”
“う˝う˝”

“ね、それって室井さんにその機能ちゃんと付いてないんじゃない?相手にも届きましたってどこで判断するの。便利な触角でも付いてんの”
“男は不言実行ですよ”
“ああ、美幌にも黙って行かれちゃったね”
“すーみーれーさぁん”

その顔をさせるのが青島なのだと思うと、悔しさのような感情が室井の中に沸き起こった。
それを遮りたかったわけではないだろうが、すみれが口を開く。

「どこ、行っちゃったのかなぁ・・・偶然かしら?」
「・・・・」

淋しそうなその声に、室井は同じ色の虹彩を向けた。

「多摩方面に何か心当たりはないか」
「え?多摩?・・・青島くん、多摩の方の人だっけ?・・・あれ、でも、どこかで聞いた気がするわ」
「本当か」
「んん~、ちょっと思い出せない、なんかの話のついでに最近出た気がする。被疑者の話だったかしら」


細い顎に手を充てて眉間に皺を寄せるすみれの視線を盗み、室井は青島へとアイコンタクトを送る。
青島も難しい顔をして考えていた様子だったが、両手を広げた。


《なんとも。な~んか俺その辺の記憶が随分アヤフヤになってんだよなぁ・・・》
「調書はどこだ?」
「青島くんの金曜の分?まだ出ていないわよ」

室井がジト目を送れば、青島の視線は分かやすく天井を向いた。

《あれ?》
「デスクに清書してない書類なら山積みよ。青島くんのあの汚い字で解読できるなら探してみたら」
《キタナイとは何さ》


幸い刑事課は人が出払っている。
室井は青島の誘導でごった返している机から探し始めた。


《あ、そこ触ると崩れるんで。きおつけて》
「・・・・」
《ちがう、こっちの端を押さえながらそこ上げてクダサイ》
「ちゃんと片付けないと、どこに何があるか分からないだろうに」
《わかるんですよ、俺にはっ。・・・こう、隅から隅までね、ちゃんとね、》
「領収書も放り出してある」
《やっべ、忘れてた》
「・・・ないな・・・」
《・・あ、そこの二段目の引き出し開けてみてください、よく大事なもの入れちゃう》
「これか?」
《あ、そうそうそれそれ》
「確かに酷い字だ」
《ちょっ・・》

「でしょぉ?」

すみれも横から覗き込む。
さっと目を通すが、多摩という文字はどこにもなさそうだった。
走り書きされたその調書のメモ書きは都内で暴行未遂で捕まった男のものだ。

ちらっと青島に視線を投げれば、急になにやら考え込んだような顔をしていて、黙していた。
何か思い出したのか。
それを聞こうにも今は問いかけられず、室井は口を閉ざした。


息苦しささえ持つ重苦しい沈黙と、遅々として進まない事態に焦れたすみれが再び顔を上げ懊悩する。

「ねぇ、変よ?今までこんなこと一度もなかったわ」

心配する恩田すみれの杞憂に応えてやれないもどかしさを抱きながら、安心させてやる言葉も見つけられず、室井はただ項垂れた。
現に隣で浮遊する物体が指し示すものは最悪の事態しかない。
それを眼で捕らえられている室井はまだ救いがあるのかもしれないが、見えないすみれには唐突すぎる悲劇なんだろう。


「確かにルーズなところあるけど、青島くん、人に無闇に心配させるような人じゃないの。何かあったのよ絶対」
「・・・」
「ねぇ、嘘じゃないわ。調べられない?」


すみれが切羽詰まったようににじり寄り、その華奢な指先で室井の腕を掴んで揺さぶった。

嘘だなんて、室井が一番思っていない。
だが気休めを言ったところで、その効果は限定的なのだ。
本人の身体はもしかしたらもう絶命しているかもしれない。身柄だけでも帰ってくる保証すらない。
何も言えない。言えることは何もない。


隣で青島が苦し気にすみれを見て、頭を撫でる仕草をする。

《俺いつも心配ばかりかけてんね。ごめんね》

「事件性が証明できなければ警察は動かない。君も重々承知していることだ」
「そんな上っ面のルールの話なんかしてないの!青島くんが心配じゃないの!?」
「安否を気遣うこととルールを犯すことは同一視してはならない」
「この冷血漢ッ」


昂奮したすみれが顔を赤らめ掠れたように叫んだ。
目が少し充血し、泣いているようにも見えるが、もしかしたら寝不足もあるのかもしれない。
その目が、顔が、身体全体が、青島が心配だと慟哭していた。

「このまま放っておくつもり」
「現状ではそうなる」

徐々にすみれの感情が高まり、二人の間に極度の緊張が芽生えていた。


《室井さん》

青島にだけ分かるように室井は小さく頭を振る。

「最悪の事態は覚悟しておいたほうがいい」
「そんな!」
《室井さんっ、それ今言うことじゃないでしょ!》


仲を取り持つように間に青島が入り、右往左往する。
青島の制止に顔色一つ変えず、室井は眉一つ動かさず低い声で宣告を続けた。


「刑事であるなら、連絡を入れようと尽力する筈だ。事件性を伴うならば尚更だ。それがないということはもう出来ない状態だと判断する」
「勝手な憶測で物を言わないで!」
《ちょっと待ってって、室井さん!》

ジジジと古びた電球が焼け付く音が退廃的な雰囲気の背後に聞こえる。

「君も。刑事なら乗り越えてきた馴染みの試練だろう。気を引き締めておけ」
「慣れるわけないでしょう!同僚なのよ!」
「身分は関係ない。刑事なら最悪の事態も想定して然るべきだと言っている」
《やめろって!!》


必死に庇い、心配げに揺らぐ瞳と視線が合う。
すみれにも青島にもどちらとも言えない空を見据え、室井は手加減をせずに冷徹に宣言した。


「手遅れになることが他人事だけだとでも思っているのか」
「やめてよ、急すぎるわよ!まだいなくなってたったの二日よ!」
「だったらそこで指を咥えて待てばいい」
《ひどいよ!すみれさんは心配してくれてるだけなのに!》

目の片隅で、青島の顔が窮乏に歪む。

「もう四日行方不明だ。事は失踪では済まされない」


もしかしたらそれは、自分自身への忠告だったのかもしれない。
心配であればこそ、大事なものであればこそ。
身勝手な慰みや気休めは真実を目の当たりにしたとき傷をより深く抉る。

室井には、すみれの憂慮がまるで自分のことのように映った。
残酷な言葉であっても、目の前で浮遊している物体を見ている以上、室井には安易な言葉は口に出来なかった。


「捜そうとしない怠慢をルールのせいにしないで」

近くの両端が茶色味を帯びた電灯が虫を張り付かせて点灯を繰り返した。

「だが警察は動かない。それが今の現況だ」
《だからって・・!あんたがすみれさんを傷つける権利あんのかよ、どうしていっつもそういう言い方しかできないんだよ・・っ》
「感情論など、捜査に何の意味も成さない。ましてや結果にもだ」
《やめろってば・・!》

聞きたくないというように、青島が両手で耳を塞ぐ。

「だからあの時もあたしたちを捜査優先って名目でハメたって言うわけ。随分なご身分ね」
「・・・あの時?」
「ああそう、もうそちらにとっては過去の出来事ってわけね!」
「悪いがこちらは一つの事件に拘っている時間はない」
「その一つの事件に一つの命が存在するの!・・・あの秋もそうやってなかったことになってる・・していくのね。最低だわ」
「目的のために手段を問わないことで、君たちに何か言われる筋合いはない筈だ」
「ッ、馬鹿にしないで・・!」

《あんたの口からそんなこと聞きたくないよ・・っ》

すみれと青島の発声は同時だった。

青島が啼哭の声色で頭を振った。

前触れもなく電球がまた接続不良を起こす。
生暖かい風が足元を抜けたその時、手前からパシパシッッと電球がドミノ倒しのように割れていき、一瞬にして辺りは仄暗さに暗転した。
咄嗟に室井はすみれの小さな肩を抱き、庇うように引き寄せる。

何が起きたか分からない。
ざっと鋭く辺りに意識を向ければ、暗澹とした大気の中、青島の躰が薄き緑色に発光していた。
室井の目が見開かれる。


「な、何?何が起きたの?地震?」

室井の腕に囲まれ、すみれが状況を把握しきれない不安げな声を上げる。
光の欠片のように舞い落ちてくる硝子の破片からすみれを護るように、室井は腕で覆って身を壁際へと寄せた。

宙に浮いた黄緑色の浮遊体は狂乱状態を維持し、徐々に輪郭を失っていく。
原形を辛うじて留めつつある激しい発光体が、熱量を含蓄する。


《・・ぁ、あんたには心配してくれる気持ちも分からないのかよ!》
「ッ」
《どうにもならないことくらい、俺だってすみれさんだって分かってるんだよ・・!でも、そういうことじゃないじゃん・・っ》

ジジジという接続不良の音と共に、パンパンと連続して弾ける裸電球。
近くの窓に走る亀裂。

《これ以上すみれさんを追い詰めること言うなよ・・!》

背後の廊下の電球も手前から順序立ち、弾け飛んだ。

やっぱり青島か!
落ち着け、と言いたいところだが、言えるはずもない。
遠くできゃあという悲鳴が上がる。


《分かってくれているなんて思っちゃいないけど!・・そんなんでトップになれんの・・っ、そこはそんな場所かよ・・!》


声は脳髄の中に直接響いてきて、思わず室井は顔を顰めた。
凄まじい磁力だ。
痛み、哀しみ、憎しみ、苛立ち。すべての感情がごちゃ混ぜとなって音となって室井を貫いていく。
青島自身、混乱している様子がダイレクトに伝わってきた。
有り余るほどの大いなる力は時に持ち主の限界を超える。

じっとりとした湿度の高い夏の大気が蒸す様に辺りを囲い、スーツの中からじわりと汗で湿らせた。
こんなになっていてもすみれの瞳には何も映らないらしく、見当違いの所を凝視している室井を不思議そうに見つめ上げてくる。


《そんな場所にすんなよ・・!あんたがっ》

――霊体とはどこから涙を出すのだろう。
また飴玉みたいな大粒の涙をぽろぽろと宙に落とし、青島が悔しそうに頬を拭う。

ビリビリとした静電気みたいなものが室井のスーツの生地を逆立てる。


《ちが・・っ、ほんとは・・・こん、なこと、言いたいわけじゃ、ないですけど、でも》


気丈なふりをしていたって、現実を一番受け入れられないのは青島なのだ。
当たり前のことだったが、それを室井の口から言われて感情が制御できなくなった青島は、暴走する力に融合され
その輪郭を曖昧にさせていた。
必死に建前を取り繕おうとして失敗している青島の向こうで、混乱と叫喚に騒然となった署内が火災報知器の騒音に震撼する。


《も・・っ、室井さんのばかっっ》



シュッと煙が消えるように光が白色に昇華し、消失した。
途端、辺りに静寂が戻る。

心持ち、視界も明るくなった気がした。
まだ長閑な日差しと、蝉の鳴き声が届く。
思い出したように一斉に鳴きだす忙しなさに、平和が戻ったことを悟った。

禍々しい霊気や凶禍染みた震恐を発する物体はもうどこにもない。
青島が消え失せてしまったことが室井には分かった。
――違う、恐らく被害の大きさを自分で恐れ、我々を護るために消えたのだ。

すぐにでも追いかけたかったが、室井の腕の中ですみれが身を捩る。


「・・・あの、大丈夫、だから」
「あ、ああ」
「ありがと」

照れくさそうに腕の中で上目遣いで睨むすみれは眦を赤く染め上げていて、それを室井は拘束を解放しながら見下ろした。

「で、でも、あたし、まだあの秋のこと、許したわけじゃないんだからね」
「・・・ああ」
「青島くんが許せても、あたしは無理」
「青島だって認めたわけじゃないだろう」
「・・・ふぅ、本当に何も分かってないのね。あの時から、青島くん、それでも貴方を護ろうとしていたわ。それでも信じてるって。信じたがってた・・・」
「・・・」
「室井さんにとって和解は青島くんが怪我した時なのかもしれないけど、青島くんにとってはもっとずっと前よ」
「え?」
「あの日に、それでも信じたいって言うんだもんな・・・」
「しかし」
「そんな彼に何かあったかもしれないのに貴方は知らんふりするの?」


ただ稚拙に、ただ原理原則に固執してすれ違った去年の秋の終わりを、室井が振り返ることは少なかった。
物言わぬ棘は胸の奥深くの場所で深々と刺さっているだけで、取り繕った日常がそれを無常に流す。
あの日の青島は何も言わなかったから、そんな風に思っていたとは想定外だった。

疑心暗鬼と焦慮に落ち、頭では理解していても室井が落ち着いて波風を収めたのは、青島と話してからだというのに。

傷ついて、その傷にさえ気付かないで、周りだけ見て走り続ける相棒に
室井は柳眉を堪え歪める。


「どうにもならないことなど・・・幾らでもある」
「あっきれた・・、青島くんもこんな男に引っかかってばっかみたいね。今頃後悔してるわよ」
「・・・そうかもしれないな」

素直に室井が肯いたことで、威勢を削がれたすみれも尖った気配を治めた。
正視できなくなった瞳を不安定に彷徨わせ、小さな赤い口唇を震わせる。

「なに、それ」
「・・・・」
「今更なによ。・・ばかよ・・・青島くんは、ばか・・・」

ついに脆く崩れたすみれの眉が切なげに寄せられる。

「・・ぃ、言えばよかった・・・っ、あたしっ、好きじゃなくてもいいから、ちゃんと、言えばよかった・・!」


すみれが眼尻を隠すように俯き、そのストレートの黒髪をさらさらと流した。
華奢な肩が小刻みに震動し、泣いているのだと分かった。
気付かないふりをしてやりたかったが、肩を抱くことも出来ずに室井はその場にただ身を固くする。


「こんな突然っ、いなくなるなら、あたし・・・っ、ちゃんと言いたかった・・・っ」
「君は、青島が好きなのか?」
「・・・っ、うん、貴方に言ったって仕方ないけど・・。あたし、大好き、だった・・っ」

喪失の予感に脅え、恐怖した精神が、意地っ張りなすみれの口を開かせる。

「好かれてなくても良かった・・っ、ただ好きだって、聞いてくれればあたし・・っ、それで良かったのにどうして・・・ッ」
「――」
「どうしよう・・っ、青島くんが本当に消えちゃったら・・・っ」


ついに細い啼声で感情を乱したすみれが、室井の胸に顔を埋めるだけの弱さを見せることも出来ず、ただ崩れ落ちそうに肩で啼く。
言えないくせに気持ちは知っていてほしいという身勝手な恋情が室井のシンパシーをも呼んだ。

それでも室井は、好きだと言えるだけのすみれを羨ましいと思えた。
心のままに生きられなくなって、それが平気なふりをして、それが大人になることだ。
時がいくらそれを試したところで、精神まで強靭になれたと勘違いをするだけの幻覚に盲従する。

幾つ歳を重ねたって、死に直面した人間は大人も子供も同じだった。
一番伝えたかったことも告げられず、打つ手もなくなり、子供みたいに嗚咽するしか出来ない。
声を殺してすすり泣くすみれに、どうしてやれることもなく、それは青島にもまた同じだ。

室井は無力感を募らせ、かけてやる言葉は何もないまま、それでもすみれの涙が止まるまで付き合った。








****

そのままエントランスで待っているかと思ったのに、青島の気配は本当にもうどこにもなかった。
どういうことか分からずその場に立ち尽くす室井のスーツを潮風が頼りなく靡かせる。

そう言えばあの瞬間からずっと青島の気配がない。
あの時はその場から逃げただけと思っていたが、まさか。

慌てて室井は駆け出した。
もしかしたら悠長に手放しておく時間など本当はなかったのかもしれない。


「青島!・・・どこだ!」

都市化が進み始めている台場の街を当てもなく走り回る。
青島の行く先など、想像がつかない。
ましてや霊体となった身では行けるところも限られている筈なのに。
土地の念に引きずられるとも言っていた。

心配と不安が入り混じる煮詰まった思考が身体を逸らせ心拍数を上げる。


どうしたらいい。聞く人間もいない。誰に頼ったら良いのかも分からない。
室井の丁寧にセットされた前髪が潮風と汗に崩れ、べた付いた。


本当にあれで消えてしまったのだろうか。
無念と未練だけを抱き、たった一人で。
あんな風に見る者の心までを突き刺すような大粒の涙を零して。
こんな時に頼りにもなれないなんて。

荒い息を吐き、室井は膝に両手を当てて息を整える。

そんな末路にさせたいわけじゃなかった。させたのは、自分なのだろうか。
人生の終わりが綺麗に仕舞えるなどとは刑事を目指してからは思ったこともなかった。
だが青島には幸せだけを送りたいと身勝手にも心が騒ぐ。
幸せであって欲しかった。


空は抜けるような濃い青空で、眩しいほど光る白い入道雲がモクモクと聳えていた。
蝉の声、海の匂い、緑陰映える大樹の並木。
生きている者だけが許される命の息吹が狂おしく室井の胸に吹き荒れる。
どれもが瑞々しい鼓動の中にあった。

「青島・・ッ、おまえは本当にそれでいいのか・・ッ!」

言い知れぬ喪失感と置き去りにされた失意は室井の胸を思う以上に暗鬱とさせてくる。
どう形作れば良いのか分からない胸奥の淀んだ狂熱も、狂瀾に震える多淫な焦熱も、伝えることすら、出来なかった。
空漠たる空虚に成す術もない室井は、それを直視する術もまた持たなかったことを悔やんだ。
力尽きた身体で天を仰ぐ室井の拳がスーツの下で握られる。

「答えろ!青島・・ッ!!」

だが応えるものは、風音だけだ。

あの哀感の秋に、燃えるような目を向け乍ら、それを信頼だと室井が知ったのは青島が刺された時だった。
自分はいつも、一歩遅い。
人が死ぬということは、こういうことなのだ。

「くそ・・ッ」

こんな形で終わりになるんなら、何故彼は自分の元になんか現れたんだろう。
室井の所にさえ来なければ彼はもっと安らかな最期を迎えられた。
室井に出会わなかったら、室井は絶望を抱くが、青島は幸せだったんじゃないだろうか。

――馬鹿野郎・・・どうして俺なんかの前に現れたんだ。


そこまで考えたその時、ふと室井の脳裏で鋭く閃く。
そういえば――もしかして。



室井は顎を引くと大通りへと駆け出した。
タクシーを捕まえ、足から滑り込ませると、毅然と運転手に告げた。

「六本木の官舎まで頼む」


















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