prologue
いつものように疲れ切った身体を叱咤し自宅官舎まで深夜に辿り着いた室井はその扉の前で思わ ず声を上げそうになった。
上がる奇声を何とか堪えきれたのは癖で噛み殺す奥歯とほんの僅かに残っていた世間体という意識だ。
こんな夜更けに騒ぎを起こすほど愚鈍じゃない。

室井は重量のある黒鞄を固く握り締め、数メートルの距離を保つ視線を固守し大地を踏みしめるように仁王立ちする。

それは更けた大気に同調するように見慣れた輪郭を保って存在していた。
薄緑色の毬藻のような柔らかな肌合いと、原形に発光するような神秘の龕灯。
伏し目がちにこちらを見つける栗色の瞳は蜂蜜のようにまろやかな眼光を湛え、記憶に残る均整の取れた不定形をそのまま
音もなく宙に漂わせた。
この時間の訪問の異様さよりも、その躰の向こう側が透けて見える奇異さが、尋常じゃない事態を表している。
・・・いるのに、その物体は呑気な笑顔を咲かせてこう言った。


《おっそいんですねぇ。お疲れさまでした?》
「・・・・・・・・・なんで疑問形なんだ」

そう答えられた自分を、室井はちょっと褒めたい。







**HOLIDAY**






1.一日目
立っているのか浮いているのかも分からないまま、ふわふわと人間の輪郭を持つものが室井の方へと近づいてきた。
怪訝な顔を隠すことも放棄し、室井はその状況を把握しようと必死に目を凝らす。
疲れすぎて目がおかしくなっているのかもしれない。
老眼で焦点が合い難くなったのかもしれない。
逢いたいと強く願ったつもりはないが逢えば安らぐ心が無意識に幻惑を見せているのかもしれない。

だがその全ての仮定を打ち消し室井の目の高さまでそれはふわふわと舞って着地した。


「・・・・どういうことだ・・・・」
《ぇ、こんな時間になったのは申し訳なかったですけど、アポ取れなかったし・・》
「ちがう」
《ん?このかっこ?》
「なんで、おまえ・・、」
《ああ、混乱するのは分かります》
「おまえが混乱させてるんだ・・ッ」


思わず応えてしまってから、やはり認識通りこの物体は青島で、その青島の姿が透けて溶け込んでいるのだと、現実が突き付けられた。
最早何処から質問したら良いのかも分からない。
起きながら夢を見ているかのような脈略のなさも妙に現実との乖離を消失させるだけのリアリティを持ち
それが慕う人物である事情が、消えてほしいのか消してならぬものなのかも室井に判然とさせず
何か言いたげな青島の口唇の動きも追わず聞き流させる。
室井の高性能な頭脳が疲労と熱帯夜の熱を許容量以上に蓄積させ、ここ数日の激務からの解放も合わせ、人生初ショートした。

《室井さん?あれ?むろいさーん》

言葉を失ってしまった室井が呆けて天井を向いていると、その天井から青島が逆さまに心配そうに覗き込んでくる。
目を瞑り息を吸ってみた。
こういう時は精神統一だ。散々習ったじゃないか。
1.2.3。
カッと目を見開いてみたが現実映像は何も変わらない。

「・・まだいる・・」
《はぁ、すいません》
「待て・・・私は疲れているんだ・・・だから憑かれるのか・・・いや、これは懐かれているのか・・・」
《大丈夫ですか?室井さん?》
「大丈夫なわけあるか・・・」
《またイジメられちゃった?あんたの愚痴くらいなら俺、聞いてあげてもいいですけどねー。言ってみます?》
「・・・」


その話じゃない。
相変わらず話の方向性が脱線する青島の口調と現実の過激さに眩暈がしてくる。
じわりとした夏特有の夜気が蒸せるようにスーツの上から纏わりついた。
息を苦しくさせるのは首元まできっちりと締め上げたネクタイのせいではないが、室井は徐に襟元に人差し指を差し込み
自分を落ち着かせるための深呼吸をする。
・・・のに、青島の童顔なハニーフェイスが室井の頭上高く天井から見下ろすように、真上から逆さ吊りとなり、思わず一歩ずり下がった。


《起きてる?》
「頼むからじっとしててくれないか」
《・・・それはすいません》
「本当に・・・青島なのか・・・」
《こんなイイオトコ、他にいます?》
「顔の問題じゃない」
《ちぇー、室井さんマジメ~》

コートの裾を掴み、拗ねる様子もいつかもどこかで見た青島であり、室井の顔が強張り、黒目がちの瞳が驚愕に見開かれた。
事態の異常さと深刻さがようやく脳裏を突き抜け、今更ながらに身の毛がよだった。


――室井は昔から現実主義だった。
オカルトや占いといった類の非科学的理論には一切の関心を示さない。
幅広い視野と憧憬が推理を柔軟にさせると一倉に揶揄されていたって御免だ。
読書は趣味だがあれはフィクションと割り切った楽しみ方だ。
刑事として蓄積してきたものはみな根拠ある現実的なものばかりで、心身二元論を保持するつもりもなかった。

だが今、見知った男が目の前で透けている。

しかも、室井にとって生涯重要人物と成り得た存在であり、また、誰より信頼のおける男だった。
理解する・しないの問題ではない。
テレビなどから得た胡散臭い知識から見分すれば、恐らく青島本体に何かがあって、幽体離脱してしまったと考えるのが筋だろう。

何か。魂が肉体から離れるほどの何か。

そんなもの、数多くはなかった。
どう考えても、青島は身に余る事情に巻き込まれ、本体は瀕死、或いはそれ以上の危機に直面したのだ。
その観点をようやく導き出した室井は事態の火急さと深刻さに背筋を凍らせた。

「・・・・・なにか、あったのか。いや、あったんだな?」

声は低く深夜の闇に溶けた。
空恐ろしい現実を知りたくない思いが空回る身体に、生温く酸素の薄い夜風がじっとりと足元を撫でる。
闇は生気を奪うように辺りを覆う。
ショートした脳みそが動いてきた室井の変化を目敏く感じ取った青島が、いつものように親指を立て、扉を指した。

《とりあえず、立ち話もなんですし、部屋、入りません?》

誘われているのは黄泉の国なのか。
立ち話ともいえるのかも分からない状況と、何故おまえが俺の部屋を勧めるという不満に、室井の眉間は深く深く刻まれた。




***


「いいか、順を追って話せ。だが理解してやれるかは保証しない」
《室井さんちってなんもないぃ~。殺風景ですねぇぇ~》
「人の話を聞け」
《ビールとか飲まないの》
「そのまえに。・・うあぁッ、私の中に入るなッ」
《こんなこともできるよ》
「おっ、おまえ、まず」
《あっ、こっち!何!部屋があるっ》

止める間もなく青島の形をした浮遊体は扉を擦り抜け消えてしまった。
扉の向こうから声がする。

《うひょ~ベッドがあるぅ~室井さんって畳に布団敷いてる人かと思ってたー》
「・・・・」


置いて行かれた室井はただその場に立ち尽くした。

――ビール?そうだな、酒だ。まず酒だ。アルコールでも流し込まないとやっていられない。
相談に来たのはおまえの方だろうが・・ッ。


室井は大きく肩を落とし盛大な溜息を落とした。
青島のペースに嵌っていたらこちらが先に消耗する。
崩れていたネクタイを指先で完全に解き、乱れ始めていた前髪を片手で握り潰した。

青島にかかるといつもこれだ。
厄介ごとを持ち込みやがって、面倒に巻き込まれて、気付けば知らない自分を引き出されている。
迂闊に近寄っては火傷するのはこちらなのに、囚われた心は麻薬のように彼の刺激を求め始めるのだ。
まったく性質が悪い。


室井は堅めの短髪を無造作に掻き上げると冷蔵庫に向かった。
グラスを用意し、そこに氷を山ほど詰め込む。勢いよくプルトップを引き上げビールを注げば黄金の液体が魅惑的に揺らめいた。
カラカラと氷が鳴って、室井は酷く喉が渇いている自分にも気が付いた。


リビングに移動し、寝室で何やら独りで喋っている青島を意識する。

霊魂に関する知識などほとんどなかったが、目の前で浮遊物体を見せられ会話してしまっては、事実を受け入れるしかなかった。
思えば青島にはいつもそういう無理難題で試されてきたような気がする。
だからというわけではないだろうが、室井はこの状況に次第に冷静になりつつあった。
第一相手はあの青島らしき物体だ。

そこまで考えて室井は少し可笑しくなる。

霊体と酷似した物体と遭遇したにも関わらず、適応しようとする自分は余程疲れ切っているのか。
そうではないだろう。
その未確認飛行物体が青島の形をしているからだ。だから身の危険や恐怖などよりも信頼の方が先に来ている。
災いや忌まわしさなど然程感じていないのだ。
室井に憑りつき何をされるのかとか、命を取られる危険だとか。そんなことよりも。
むしろ、あの青島が室井の傍にいて、この部屋にいるという事実の方が室井を浮足立たせている。


《割といい暮らししてんですね~キャリアって》
「探検は済んだか」


ソファにワイシャツだけとなった姿態を沈み込ませビールを煽る室井の周りに青島が近寄ってきた。
不思議なもので、実体はないのに気配みたいなものは室井にも感じ取れた。
本当にこれがあの青島であるという保証は実のところまだない。
そもそも長く隔てていてこんな風に親密に関われる、関わらせてくれる仲ではなかった筈だ。
だが、室井には直感のようなもので脳がこれは青島だと確信していた。


ふわふわと回り込み、黄緑色の粒子をまとう青島が室井の顔を覗き込んできた。
ちらりと見る。
こんな至近距離で彼を見たのはいつ以来だったか。だがその向こうに自分の部屋が透けていた。


「便利そうだな」
《まーね》
「他の人間にはするなよ」
《室井さん、わりと適応能力早い?》
「もう慣れたと言ったろう」
《はは、ちょっとイミ違いますけど》
「・・・、刑事なんだ、如何なる状況にも狼狽えることなく指示を出せなくては二次災害を高める」
《・・・さっすがキャリア。反論の余地なし》


青島が小さく笑う。
目が合えばお互いの波長を同化させることは自分たちにとっては容易いことで、そこは変わっていなかった。


「――久しぶりだな」
《・・・うん。お元気そうですね?・・ぁ、まあ、今更ですけど》
「随分と派手な登場だった」
《大サービス》

少しだけ室井をまとう気配が緩む。口端が滲み、笑ったのだとわかるのは恐らく青島くらいだ。

《室井さんのそういうかっこ、初めて見た》
「家までスーツは着ない」
《そりゃそうだ》


肩を竦め、青島が両手を掲げる。
リラックスしたリブのカットソーにスウェットという無造作な姿態は、整髪料の効果が落ちた黒髪と合わせ、少し容姿を若く見せていた。
むしろ普段の身拵えは室井にとって戦闘服であり、舐められないようにするための鎧装束だ。
シャツの間からボディラインを拾う仕立てが、室井の引き締まり鍛えられた肉体を艶美に象る。


《ちょっと安心。ほらいつもキチンとしてるから。たまにはそういう隙もないとね》
「必要ないだろう」
《ぅ、ん・・・でも》

何やら口籠る青島はコートの裾を指先で弄びながら、その先の言葉を濁す。
聞いてやっても良かったが今夜は疲れすぎていて、室井はその先を探索する気にはなれなかった。
いつものように能面を装い、気怠く薄い口唇をまた濡らした。

《その、なんか、男臭いっていうか、室井さんも男だったんだなぁっていうか》
「・・・なんだ」
《ぃ、色っぽいかんじ・・・?》
「・・・・・・・・馬鹿か」


柔らかく室井の吐息染みた声が落ちた。
高潔で冷徹なイメージの強い室井だが、その時々に漏れる優しい物言いにこそ、不愛想な室井の本音がある。
セクシャルな吐息に浮かされ、勢いを削がれ、ふと我に返ったような不自然さで青島が言葉を途切れさせた。
何となく目を落とした青島が照れているように見えるのは気のせいかもしれないが
そのまま青島は言葉を継げずにいる。

自分にそのような感想を述べるのも、青島くらいなものなのだろう。
思えば青島は、最初から室井の取り繕ったその場凌ぎの鎧を、簡単に突破してみせていた。

奇妙な沈黙が、深夜独特の寂とした空気の無響の中、二人には仰々しく流れた。
重ならない視線を合わせようともせず、青島も立ち尽くしたままちぐはぐな様子を持て余しているようだった。


丁度グラスに注いだビールが空になる頃合いを利用し、室井は矛先を向けてやった。

「聞かれたくないか」

くしゃりと笑って、青島が首を横に振った。
室井が漆黒の眼差しを送る。
促され、室井が沈むソファの下に近寄ってきて、青島はその足元に沈み込んだ。
見上げる形で遠慮がちな口が開く。

《今、話してもい?》
「・・ああ」

低く相槌を入れれば青島は溜息の儚さで笑った。
――ああ、きっと、彼は今まで室井のタイミングを待っていたのだ。
ここにきてそれに気が付いた。
この奇妙な非常事態を飲み込むタイミング、事情を聞いても構わないタイミング。

《疲れているように見えます》
「憑りつかれたんだろ?」
《はは・・》
「話くらいは聞ける」
《・・ぁ、あんたに迷惑はかけたくなかったんだけどさ》

ポリポリと頭を掻きながら青島が視線を斜めに降下させる。
この鮮烈な視線から逃れられた瞬間、寂寥と安堵という奇妙な相反する感覚が室井に押し寄せた。
視線が来ないことをいいことに、無遠慮に室井の瞳が青島の輪郭を観察する。

《俺、気付いたらもうこんな状況で》

なんともアバウトな説明だ。

《意識だけがここにあった。その前のことは、よく、覚えてないです。それが、今朝の話》
「最後に記憶があるのはいつ、どこだ」
《ん~・・・、今日、月曜日みたいですね?ということは、俺たち多分週末に達磨で宴会やったから》


青島の声は鈴なりのようで、口は動いているが発生しているのは靄全体からのようだった。
脳に直接響いてくる。
少し高めの透明感ある音は聴き心地は悪くなかった。


《その翌日のことなのかは分からないけど、・・・記憶にあるのは崖に向かって走っているところまで》
「どこの崖だ」
《多摩の方》
「何しに行った」
《・・それも・・・よく、覚えてない・・・》
「何故そこが多摩だと分かる」
《・・・・・なんとなく・・・・です》

そうだ。こいつは勘で動くんだ。

「親戚でも?」
《いないです》
「一人でか」
《多分・・・》

確かに手掛かりになりそうな記憶は出てきそうになかった。

「で、気が付いたら浮遊霊か」
《初体験です》

早々何度もあってたまるか。

「君は本当に想像以上のことをやらかしてくれるな・・」
《へっへー》
「笑うところじゃない」
《すいません》


室井の足元で青島がしゅんとなる。
ちろりと見ただけで室井はグラスを口に運んだ。

まったく、一体全体これはどういう状況なのだろう。
青島の説明は想像を遥かに超えていた。
そして何より、青島の身に起きた悲劇よりも今は青島と二人きりという空間の方が室井の意識を占める。

あの青島が傍にいる。自分を頼ってくれる日をどれだけ夢見てきたことか、自分を認めてくれる日を期待したことか
分からないほど焦がれた青島がここにいる。
だが望んだのはこんなトリッキーな舞台じゃない。
この状況で一体室井が何をしてやれるというのか。


規定の輪郭を持たない物体は重力の影響も当然ないらしく、青島の感情に合わせて消沈するように心持ち小さくなったようだった。
儚さに思わず手が出てしまいそうな自分に内心舌打ちをし、室井はビールを流し込む。
面倒臭い事案を持ち込んでくれたものだ。


「他に、何か思い出せることは」

ひと先ず、解決策としては青島本体を探すことが先決だろう。
足取りが不透明な現状では確かに闇雲に走り回ったって無駄足になる気がする。
となると一番確実なのは最終足跡が残る場所の特定と聞き込みか。

時間が取れるだろうかと室井は自己スケジュールを頭の中で反芻した。

勿論そんな悠長なことを言っている時間などなく、時間切れとなる前に何か手を打たなければならないことは重々承知だ。
だが何も証拠がない。根拠もなければ有効な手立てすら浮かばない。
本体が危機に陥っていると決めつけるのさえ、青島の一方的な主張のみであり、早計だと長年刑事で慣らした思考回路が告げる。
恐らく客観的に見れば今の時点ではただの家出、良くて失踪だ。
警察は動かない。


《俺んち行っても誰もいなくて。何も荒らされたものとかもなかったし。こういう時ってどっから捜査始めればいいんですかね?》
「・・・刑事だろう」
《足使えとは和久さんに教わりましたけど》


他人事のように首を傾げる青島もその辺までは理解しているのだろう、声のトーンが落ち、いつもはしれっとしている顔を曇らせていた。
幽霊の癖にやたら長い足を見せ付け、摩っている。
だが、疲れを色付かせる目元、何となく空回りしている元気。
楽観主義な青島でもやはり自分の身が消失した喪失感は重いのか。当然か。
その状況で冷静に現場検証していく心構えは長年刑事を務めた人間にだって難しい。


少し空気が重くなり、ざらりとした不快な沈黙が肌に纏わりつく。
マットを敷いただけの無機質な室内は風も止んだ換気では生々しさを拭えなかった。

言葉を失った代わりに室井は目に映る青島を改めて観察する。

久しく会っていなかった間に変わったところはないか見回したが、特に何かを意識させられることはなかった。
そもそも室井が青島について知ることは、それほど多くないのだ。
プライベートで何をしているのかさえ知れる立場にないことを思い知る。
自分は青島にとってどれだけの存在だというのだろう。
長い間逢っていなかった。声も聞いてなかった。風の噂で消息を聞くくらいの、ごく平凡な、寸暇の間柄だった。

それ以上のことを望む室井に、手酷い仕打ちを与えるかのように、目の前の現実が冷たく幽寂に圧し掛かる。

何か確定的な特別感をこじつけようとしたところで
ハンサムで甘いハニーフェイスの青島の顔も、熱の失せた褪せた色彩の中に溶け
吐息さえ覚束ない空気の中に頼りなく拡散していくだけだった。
そんな中でも青島の淡い髪だけは風もないのにエアリーだった。きっと、触ったらすごく柔らかいのだろうと思う。


霊体なのにある足を力ない手でぽんぽんと撫でるように摩る仕草に衣擦れの音は混じらない。
心細さの隙間に付け込み、たった二人きりの夜が精神を締め上げていく。
すこしだけ同情のようなものが湧き、室井は話題を変えた。


「空も飛べるのか」
《当然》

嬉しそうに青島が得意げな顔を上げた。
パッと花が咲くようなその瞳の輝きに思わず室井がサッと視線を反らす。

《そうなの!もぉどこでも入り放題でさ。覗き放題。ちょっとエロい気分》
「・・・・」
《子供の頃、夢見たこと、全部出来んだもんな~》
「そんなもの、大した意味はない」
《そりゃそーですけどさ、でも雲にも突っ込んでみたりとか、今日いちんち遊んだ遊んだ》
「気楽だな」
《楽しまなくっちゃと思って》


聞くんじゃなかった。
絆されるんじゃなかったと、室井は視線を反らしたままやりきれない思いを噛み殺す。

こっちがこんなに心配してみたのに、平和に返され室井は損をした気になった。
少し尖った物言いになったことにも気づかないように青島が遠い目をして窓の外を見る。
やっぱり青島は青島か。
これなら放っておいても自分でなんとかするかもしれない。

昔からこういう破天荒でアドリブな事件に強いのは、青島の方だった。そして室井の、キャリアの思いもしない方法で答えを導いてくる。
それは強い嫉妬に違いなかった。

今青島の見る夜を映す瞳には誰を想っているんだろう。そもそも身を犠牲にしてまで彼は何をしようとしていたのだろう。
それは誰のための情熱だったのか。
彼が命をも捧げる相手。それは室井ではないことだけは確かだ。


連日の猛暑と連日の残業の疲れが一気にぶり返した気がした。
室井はビールの残りを飲み干すと時計を見る。
もう丑三つ時を回っていた。


「だったら何故私の部屋に先に入っていない。何故あんなとこで浮いていた?」
《あ~・・・》
「そもそも君は私のところに何をしに来た」
《・・・ですよね》
「・・・してやれることはそうないだろう。過分な期待はしないでくれ」


会話の糸口を失った青島が少しだけ視線を彷徨わせる。
何度か口を開こうとするが、結局は閉じられた。
何も言うことはないのだろうと室井は結論付けた。

確かに専門家ではないのだから、これ以上甘えられても困る。
正直に言えば、甘えられるのは嬉しいし、慰めてやりたいとも助けてやりたいとも思ったが、そこに事態解決を期待されても身に余った。
身に余ることで、青島の前で劣る姿を晒したくないという本音は醜悪に淀む。

室井の脳が理論武装をして閉じた。
でも、明日登庁したら情報くらいは仕入れてやろうと思った。

雑談を終いにしようとする室井の意志を敏感に感じ取った青島が一瞬だけ室井を見上げる。
縋るような絶望を射す色を湛えたのは気のせいだろう、すぐに小さな笑顔が作られた。
ふわんと音もなくその身体が宙に浮き、立ち上がる。


《分かってますよ。それに明日は戻ってるかもしんないしね》
「・・・・」
《・・・さてと。・・・ごめん、じゃ、そろそろ俺帰るよ》
「――」

瞬間、少しだけ室井の中に違和感が残った。
疲労している身体も頭脳も限界だったが、ここで間違えるなという警報が内なる場所から発している。・・・気がする。

《話、聞いてくれてありがとうございました》

・・・・。
そうだ、入ろうと思えば入れた部屋に青島は入らずに待っていた。
そういう男なのだ。
どこか遠慮深くて底なしに優しい。

だったら何で室井の前に姿を現した?

青島にとって室井はただの上司であって、同じ職場ですらなかった。
事件が重ならなければ波が引いたように遠慮する。何かがなければプライベートにまで首を突っ込んできてくれたりなんか、しないのだ。
本来の青島ならこんな風に不用意に室井を心配させるようなことはしない。

自分の官舎への来訪が、こんな状況になってようやく叶う、そのお互いの関係性に、室井は言葉を飲み込んだ。


《お邪魔しましたっ》
「待て」
《あんた寝なよ。顔色悪い。時間も考えずに付き合わせて・・・悪かったです》
「言い方が悪かった。違うんだ。その・・・何故私の所へ来た?私に何かしてほしかったんじゃないのか」
《ん~、最期に顔、みたかったのかな。元気そうで安心しました》
「青島」

そんな取り繕った言葉ではもう誤魔化されてなんかやらない。

「私に何をしてほしい」
《だって久しぶりじゃん。あんたどうしてるのかなとか思えるだけの仲だとは思ってましたけど》
「だったら何故私に姿を見せた」


びくっと青島の身体に緊張が走ったのが分かった。
何かの核心を突いたのだ。やはりそこが肝なのだ。
逃がさない。


「青島」
《これ以上話してても意味がないよ》

それでもまだ頑ななほど視線は反らされたままで、堅く強張った声で拒む違和感に室井の中で焦燥が加速した。

《・・。幽霊なんてあんたどうすることも出来ないでしょ。あんたにお祓いされたらたまんないし》
「本当の用件を聞きたい」
《ないよ》
「こっち向け」
《・・・・》
「私の目を見て言ってくれ」

哀願というよりは強制的な声は自分でも気づかない室井の中の内なる凶暴な獣を呼び覚ましていく。
室井を傲慢で高貴な支配者へと変える。

「青島」
《・・・むろいさん》


官僚然とした口調に変え名を呼ぶことで低く命令を下し、反応を待つ。
ゆっくりと振り返った青島は少し涙目に見えた。
悲しそうというよりは途方に暮れた顔を、不意にくしゃくしゃにする。


《・・あんた、その優しさがいつか身を亡ぼすよ・・・》
「君にだけだ」
《・・っ、・・、》
「君こそ、そんな顔で不用意に姿を見せれば私が引き留めるかもしれない。いいのか」
《・・っ》
「言ってくれ」
《じゃ、助けてよ・・・室井さん・・俺、どうしたらいいか、わかんない・・っ、・・ッ》
「具体的に言え」
《俺、たぶん、死んじゃったッ》
「・・・馬鹿言うな」
《やだよぅ、あんたと別れるのも。独りで消えていくのも。・・・こわいぃ・・・》
「ッ、・・あお、」
《俺、あんたにしか見えないみたい・・・・》
「何だって?」
《姿も・・・声も・・・・誰にも届かない・・・あんた、に、だけ・・・・ようやく、見つけてもらって、俺ッ》


ふえっと本気で泣き出した青島に室井もまた絶句していた。
どれだけ彼は彷徨ったのだろうか。
どれだけ心細かっただろうか。

抱き締められないのは、何かの戒めのような気がした。













2.二日目
《本日もご出勤》
「・・・・」
《朝食は和食で味噌汁って、ちょっと意外性もなくてがっかりです》
「大きなお世話だ」
《ごめんなさい》


勢いよく頭を下げ、青島がぴょこんと天井に飛ぶ。
両手を広げて舞う姿はご機嫌だ。
一晩ですっかりと慣れてしまった室井は寝癖の残る寝不足の頭にタオルをかけ、洗った食器を片付けた。

室井が朝の身支度をするのを青島は楽しそうに窓の外から眺めてくる。
くりくりとした栗色の瞳が探るように窺い室井を映し込み、目が合って満面でへらっと笑われれば、怒る気も毒気も抜かれていく。
室井の眉間が深く深く刻まれた。


結局昨夜は深夜遅くまで青島に付き合わされ、ろくに寝ていない。
昨夜こそ久しぶりに眠れると思ったのに、その睡眠妨害をした悪魔は素知らぬ顔で太陽の向こうから笑顔を透けさせる。
室井が引き留めたからなのか、それとも元々居座るつもりだったのか、青島は朝になってもこの部屋にいた。
窓の外は紺碧の空が覗き、今日も熱い陽差しが降り注ぎそうだ。


「・・まぶしいな・・・」
《お疲れ?》
「・・・誰のせいだ」

スウェットだけを履いた姿で、それでも朝のエクササイズを始める室井の横に寝そべるように青島が懐いてくる。
腹筋運動を繰り返す室井の横で逆さまにになって胡坐を掻き、覗き込んでくる青島を無視し、今度は背筋運動を行う。

《なーんか地味~なトレーニングしてんですね~》

昨日はあんなに泣きべそかいていたくせに。
室井の周りでちょっかいを出してくる青島を半眼でいなし、今度はダンベルを持って室井は規定セットを続けた。


――昨夜。
子供みたいに破裂した鳴声で、ぽろぽろと飴玉みたいな大粒の滴を零す青島は普段の彼とはかけ離れていて
泣き出した青島は本当にか細く、危うかった。
室井に暴かれたことで、張り詰めていた糸が千切れてしまったようだった。
泣きじゃくる彼を抱き締めることも撫でることも敵わず、室井もただ狼狽えて見入っていた。

どうすることもできない。どうしてやることもできない。
無力感は室井をも苛み、憐憫を呼ぶ。
独りでずっと我慢していたんだなと胸が痛んだ。
でも今は抱き締められなくて良かったとも思う。
そして、なんとなく、本当は普段の青島もこんな風に色々堪えてその上でこの男は笑って見せていたのかもしれない。そう思った。


軽く息が熱を持ち、汗ばんでもくれば少し頭も冴えてくる。
素っ気ない室井にもめげず、青島が合わせて手を叩き掛け声を付け始めた。
室井の胸板に輪郭を辿るように汗が光る。
この程度では息も上がらない室井を、青島は胡坐を掻いて目を眇めて見上げた。

出会った頃からそうだ。
何だって青島はこんな冴えない男にそんな眼差しを投げ、そんな風に見つめてくれるのだろう。
勘違いすらしたくなる。

まったく、この状況を誰か冗談だと言ってくれ。


居たたまれなくて室井はそそくさとエクササイズを終え、風呂場へと向かった。
まだ付いてこようとする青島に振り返りもせず宣言する。

「浴室まで付いてくるなよ」
《えぇぇ~》

なにがえぇぇ~だ。
無駄にいいバリトンボイスで囁きやがって。

背を向けた耳に、早くしてねと言われ、やめだ、やめ、と頭を振って困惑する間に
室井は半裸のまま浴室へと消えていった。


そんな彼から昨夜、途切れ途切れの言葉を繋ぎ合わせてどうにか事情を白状させたところを統合すると
どうやら気が付いたら最初に室井の官舎前に居たという。
勿論青島は此処へ訪れたことなどなかったから、誰の部屋かさえ漠然としていた。

気配や物が発する霊力みたいなもので、室井の質量を何となく感じ取った。
しかし当の室井は不在だとも認識できたのでまず湾岸署に出向く。
当然のことながら誰にも気づいてもらえなかったらしい。

その時点で起因となる記憶はほぼなく、ただ多摩の方に電車で向かっていた辺りまでが何となく印象深いという話だった。
途方に暮れ、仕方なしに自宅や実家など手がかりを求めて彷徨ったが、土地の念とやらに(この辺の説明は室井には良く分からなかった)支配されそうになり
強烈な引力を持つ場所を避けるように逃げて逃げて、結局行く当てもなくなり
初めに意識の戻った此処(室井宅)へと戻ってきた。



熱めのシャワーが肌をさっぱりとさせ、頭をすっきりとクリアにすると、室井の脳味噌が仕事モードへと作り変えられる。
手早く浴び終え、洗いたての紺地タオルで肌を拭い、そのまま洗面所へと向かう。
歯磨きをしていると、なんとなくだが室井にも青島が近づいてくる気配が分かった。
青島の言っていた「物が発する力」とはこのことかもしれないと、ぼんやり思う。

ふらっと後ろから現れて室井の姿を認めると、顔だけ斜めに傾けて遠慮がちに後ろから様子を伺ってくる。
背後なので見えないが室井には手に取るように分かった。
それは何だか人見知りをする子供のようで室井はなんだかおかしくなった。

確認するように横目で振り向いてやれば、青島はぼんやりとした目で鏡に写らない自分の姿を見てペタペタと顔を触っている。
鏡の中は、室井一人だった。


《ねぇ、付いて行っちゃだめ・・?》
「・・・・どこへだ」
《そんなコワイ顔しないでくださいよ、ただでさえ難しい顔なんだから》
「・・・元からだ」
《だって独りでここにいても暇なんだもん。色々考えちゃうし・・・どうせ誰にも見えないんだしさ》
「本庁にまで忍び込みたいのか」
《うん》
「・・・・勝手にしろ」
《やりっ》


ガッツポーズをしながらくるりと舞って、廊下へとジャンプする。

確かに一人彼を放り出していたって生産的なことは何もないだろう。室井だって気になる。
今日は少し情報収集するつもりでもあったから、本人がいた方が話も早いだろうと室井は踏んだ。

仕度を終えると室井は最後にネクタイの位置をしっかりと結び上げた。
これで気合が入る。
ぴったりと撫で上げられた頭髪。皺ひとつないスーツ。磨かれた黒鞄。

「行くぞ」
《よっしゃ!》

何がそんなに嬉しいのかテンション高い青島は、早く早くと急かしてくる。

笑っているのなら結構なことだ。
昨夜みたいな、痛みだけを溶けさせる泣き顔なんか、見たくない。

青島が持ち込んでくるもの。青島が見せてくれる世界。それらにいつもどこかワクワクした瑞々しい感覚を抱いていた。
また何かが始まろうとしている。
室井の名を呼びながら笑う青島は青空に映える向日葵のように眩しい。
青島からは夏の熱い太陽の匂いがしていたといつかの記憶を想った。
色彩感あふれる瞳は青空のようで、室井にとってはいつだってそれは道標だった。

身の危険を代償とした現状に対し、不謹慎にも室井は少しだけ躍動感を感じたことを静かに飲み込んだ。
申し訳ない以前に、悔しくて絶対言ってはやらないことだ。


満更でもない顔を引き締め、室井は靴ベラを取りながら眉間に皺を寄せた。

「嬉しそうだな」
《冗談でも行けない場所だと思ってましたよ》


冗談にしたいのはこちらの方だ。
昨夜聞いた大方の事情では青島の本体がどこにあるのかは到底分かりそうになく、難航しそうだった。
どんなに青島が朗らかに見せたって、彼の身体が透けている以上、本体が何らかの危機に直面している事態は容赦なく
刻一刻とタイムリミットが迫っていることを実感させられる。

何か、できるだろうか。どうにか、できるだろうか。無責任な期待で傷つけたくはない。
泣きながら室井だけを頼る青島に、多少絆されたと言っても過言ではない。
室井の拳が意志を持って強く握られる。


《室井さん、じゅんびおっそーい。意外とのろまなんですね。刑事はダッシュですよダッシュ》

前言撤回。

「時間に余裕を持つのがマナーだ」
《その時間が消えていくのがオトナなんですよ》
「そういえば、そんな状況になってもそのコートなんだな」
《へっへー。だって俺の愛用品。ほら、時計も。へへへ》
「夏なのに暑苦しい」
《ひどっ》
「それが失踪時の恰好ってことなのか?」
《何言ってんの、夏ですよ》
「・・・・」
《んん~、だから、なんか霊体って、服、ないっぽい》
「?」
《よーするに裸?俺は俺・・・、青島俊作です~って意識を強く持つと、その形になるみたい。そしたらこのコート出た》
「・・・・・・君らしいというか」

呆れた室井の溜息に、夏空は遠い。


***


《うひょ~壮観。みんなコワイ顔してる》
「一課で事件が起きたらしいな」
《なんだろ?》
「君の話だったりしてな」
《室井さん、いじわる》

不貞腐れたように頬を膨らませる青島に、室井は静かに目を反らした。


本庁へ来れば嫌でも神経が研ぎ澄まされる。
室井は手短に今日のスケジュールを調整すると、まず新城の元へと向かった。
こういう時に頼るのは癪だが、こういう時に事情を理解してくれる人材もいない。

室井が早足で廊下を鳴らす横を青島がふわふわと浮いて付いてくる。
まるでペットでも連れて歩いている気分だ。


《しんじょーさんとこ行くんですか?》
「ああ、援助を頼みに行く」
《協力してくれるかなぁ・・・?》
「させるさ」
《頼もしいっすね》


他に聞こえる人間もいないのにお互い何となく寄り添って内緒話を装うから、自然と二人の距離は近かった。
チラリと視線を投げればまた青島が飴玉のような瞳を艶めかせ、室井を映し込む。
無自覚のまま煽るような言葉と表情を投げてくるから、この狂気のような執着にまた付き合うしかない。

思わず触れそうになる指先を堅く閉じ、室井は憮然と前を向く。
馴染みの焦燥を胸に押し込め、姿勢を正してノックした。


「失礼する」
「っと、珍しいですね。何か御用ですか」
「ああ、今少し時間を取れないか」
「大丈夫ですよ。何かあったんですか?」
「混み入った話になりそうなんだ」


室井の神妙な発言と表情に何かしらの異変を感じ取った新城が背後にいる部下に人払いを頼んだ。
淡々と指示を送り、片手を上げ簡単な電話連絡を済ませていく。

その新城の上を青島がふわふわと舞った。
手を目の前で振ってみたり、覗き込んでみたりしている。
勿論新城は何も気づかず黙々と事務作業をこなす。


――やはり新城にも見えないのだ。
微かに期待していた訳ではないが事実をまた突き付けられ室井の気持ちも陰った。

つまり意味するところは、本当に今青島の存在があるという保証は室井の認識だけなのだ。
だとしたら、もし室井が見えなくなってしまったり、或いは室井の意識がなかったら、青島の存在は誰の意識にも触れない。
形ないものが意識されないということは存在していないのと同義だ。
この世にいないということになる。

その細い糸で繋ぐような危うさに、室井の背筋が凍り、身が強張った。
薄氷のような命綱は、室井の肩にかかっている。


そんなことを考えていると、今度は青島が新城の肩に乗っかるような態勢を取った。
まるで真剣な新城とふざける青島の対比に、室井の眉間が深くなり、目線でよせと伝えるが、青島は一向に気にしない。

青島が新城の上で指を二本立てた。
角が生えたような絵。
お次は頭上で顔芸を始める青島。
首にマフラーのように巻き付いてみたり、顔を引っ張る仕草をしてみたり。
馴れ馴れしく肩を抱いて頭を撫でてみたりする。

必死でよせと訴える室井の前で、今度は新城の腹から顔だけを出してきた。
思わずクッと室井の喉が鳴る。
不思議そうに新城が通話を終え、室井に視線を寄越した。

何でもないという平静を装い、室井は咳払いで誤魔化し、ジャケットの襟を正す。


「それで御用件は」
「消息を辿ってもらいたい人物がいる。日時は先週末の二日間だ」
「どなたの」
「青島だ。恐らく今日は無断欠勤になっている」
「・・?なんでまた」
「頼まれてはもらえないか」

馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの新城の視線が、途端興味を失せたように半眼となる。

「他に頼める人がいないんだ」
「一日だけなら放っておけばいいことでは?」
「詳しくは言えないが事故か事件に巻き込まれた可能性がある」
「何故貴方がそれを知っておられるので?」

まるで過保護だと睥睨する視線から一度目を反らす。
さて、何と言って説明するべきか。
室井は朝から考えていた文句をとりあえず並べてみた。

「ニュースソースの黙秘はマナーだろう。だが事は一刻を争う」
「そんな怪しい情報に警察が動くとでも仰いますか」
「だから個人的に頼みたいんだ」

新城の視線が怪訝な色を帯びて勿体ぶるように眉が顰められた。

「何をそんなに焦っているんです?」

腕を組み気位の高い態度で顎を上げる新城の頭上に乗り、青島が同じポーズをとって真似る。
その様子を目に映しながら室井は泰然として会話を続けた。

「そういう事態なんだ」
「青島のことになると尋常じゃなくなる自覚はおありですか?」
「今しているのはそういう話ではない」
「同じことでは?」
「生死に関わることだと言ってもか」


新城の顔があからさまに不信を乗せたものになった。
まあ当然だろうと室井は淡如を装う。
探り合うように二人は視線を交わらせた。

その間に舞う黄緑色の浮遊体。

「青島に付き合っていたら貴方、いつか足元掬われますよ」
「その時は君が助けてくれると踏んでいるが?」
「買い被りですね。そんな暇人に見えますか」

強面で向き合うその間にも青島が新城にむくれた顔を突き付けたり、耳を引っ張るパフォーマンスをしたりして
忙しない様子が室井の視界には映る。

《むろいさーん、やっぱ突然すぎですよ~ぅ、今この人に人情説いても無駄と見ましたね俺》
「・・・・」

新城がテーブルに縁に腰掛け、皮肉な笑みを浮かべる。

「まったく。朝っぱらから仰々しく乗り込んできて何事かと思えばまた青島ですか」
《ぱんちぱんち!》

青島が新城の腹に拳を突き立てる真似をする。

「変わらないというか、成長がないというか」
《きっくきっく!》

青島の長い足が新城の足元に絡まり、秘密めいた瞳が勝ち気な様相を呈する。

「青島が事件体質なのは私も知るところですが、もう少し放っておかれるのも親心ではないですか」
「失踪している可能性がある」
「まさか。仕事放棄ですか、辞めて貰えたら上のご機嫌取りも楽になる」
「青島はそんな男ではない」
「しかしですねぇ」

本当に?というように新城が不敵な笑みで嘲笑の色を浮かべる。

その時室井と新城が向き合うその中間で青島が新城にキスをするような揶揄いをした。
思わずカッとなる。

「やめろって!」
「は?」
「・・・あ、いや・・、」


遊びにしたってそんな素振りは見たくない。
青島にしてみれば睨みっこの延長だったのかもしれないが、室井にはキスに見えた。
思わず本音が出てしまって室井はしどろもどろに言い訳に走る。
青島も不思議そうに振り返ってくる。


「・・、君の指摘は尤もだ。突然頼まれて戸惑いも大きいだろう。だが今は折れてくれないか」

早口で言いながら、こっちへ来い、と指先を下の方で動かし合図する。

「本当に危険な状態なんだ」
「・・・・」
「頼む」

ピッチリ45度の角度で室井が頭を下げた。
青島の目も驚きに見開かれる。

「・・・珍しいですね、貴方がそんな風に仰るとは」
「すまない、いつか事情は説明できるかもしれない」
「・・・・」


ふぅ、と新城も大きく息を吐いた。
実のところ、新城にも本気らしいことは伝わっていた。お互い狸の化かし合いが日常のキャリアだ。
皮肉にもお盆を控えた詰め込み業務も一段落を付き、ここ数日は時間的余裕もあったため、底意地の悪いことをするだけの理由もない。
室井の青島に対する情熱も、陰ながら理解しているつもりだった。


「具体的に何をご所望ですか」
「この週末、多摩付近で未処理に終わった事故や事件などはないか聞いてみてくれないか」
「多摩地方?」

青島がふわふわと室井の方へと戻ってくる。
舞い降りるように背後に回って背中合わせに室井に耳打ちした。

《山の方、中心で》
「特に地方交番などの噂や世間話程度の民間情報が良い、青島らしい人物と誰か遭遇していないか」
「随分と具体的なんですね」
「・・・・山間部を重点的に頼む」
「そこまで分かってらっしゃるのなら、ご自分で調べられそうですが」
「知りたいのは報告書として挙げられていない情報だ。失踪して恐らく数日。話題にもなっていないのが奇妙なんだ」
「・・・・」


突飛な依頼ではあったが、室井の話が具体的であったため、新城の表情も自然と真剣みを帯びた。
顎に手を充て手帳を捲る。
勿体ぶった音で紙が鳴いた。


「多摩というのは確かなので?」
「実はそこも確証はないんだ」

なら何故、という疑問を乗せる新城の眼差しに、翻意を許さない漆黒の瞳が頑固さを持った。

「いいでしょう、他には」
「すまないな、あまり情報がない。命の危険があるということだけは確かだ」
「何に首を突っ込んだんだか・・・青島個人の目的は」
「そこも曖昧なんだが、事件絡みの可能性は否定できないな。それと、当日連絡を取っていた履歴も知りたい」
「当日の服装などは」
「それもすまない、分からない。ただ、足は車ではなく電車を使っている」

パタンと手帳を閉じ、新城が顔を上げた。

「分かりましたよ。会合などで接触する機会もありそうです。その時背格好など特徴の一致する男がいないか聞いておきます」
「助かる」
「これは貸しにしても宜しいので?」
「いいだろう」

室井は大きく頷いてみせる。


「ところで本当に青島が失踪していたとして、その情報、どうやって仕入れたんです?その人物が何か知っているのでは?」

尤もな指摘に室井は意地の悪い笑みを清冽と浮かべ、口端を持ち上げた。

「もし、本人から聞いたと言ったらどうする?」
「はい?」
「本人が幽霊となって私の前に現れたと言ったら」
「・・・・誤魔化したいのならもう少しマシな嘘をお願いします」
「だろうな」


優遊とした笑みを湛え、室井がやりきれない色に変えた瞳を隠すように瞼を落とした。

発言の趣旨を理解してもらえないことは何も今に始まったことではない。
声を大にして改革を訴えた所で、室井のピント外れの世迷言など、ここでは誰も見向きもしない。
なんだかそれはこの幽霊騒ぎと同じことの様で、室井は最早期待することもなくなった本音を重い溜息に変えた。
だがそれはそんな室井を唯一救い出してくれた青島を失うという飢餓感と共に、身の裡がふと喚きだしたい熱く疼く感覚をより自覚させる。

言葉少なに室井の端正な双瞼が伏せられたことで、返って色濃く妖異な空気だけが褪めて残り、虚妄の気配が部屋を支配する。
何となく途切れた会話が不自然な空気をより強調した。


「到底貴方の口から出た言葉とは思えない」
「虚構と限界を超える脅威は紙一重だからな。言葉にすれば形が生まれ取り返しが付かなくなる筈なのに、嘘だという証明もまた・・・不可能のままだ」

少し窓の外の陽が陰った。

「そうではなく」

新城が思慮深い姿勢を崩さず頬を片方持ち上げた。
二人の陰影も色濃い。

「刑事なのに反論にそんな都合の良い非科学的なことを貴方が選択するということですよ」
「・・・意外だったか?」
「その手段に青島を使う辺りは貴方らしいと言える」

《使いたくて使ったわけじゃないよ》

部屋がくすんだ黄色に淀んでいた。
青島が茶々を入れる様子を室井は大人びた目で受け流しながら遠い目をした。

「・・・人の関係とは難しいものだ。所詮言葉しかない。どこで人は真実を見抜くんだろうな」


室井の口調と表情に何かを感じ取った新城がその冷静な表情を少し陰らせた。
青島は待ちくたびれたのか、何も言わずに部屋を柔らかく浮遊する。


「・・・ぇ、本当に・・・・マジ、なんですか」
「口調が崩れたぞ」


室井は闇と同じ色をした瞳を深めるだけに留めた。

新城の手がデスクの上で止まり、戸惑いを乗せた指先が行き場を失う。
目の間にいるのは確かに室井であるのに、まるで別人であるかのような、見知らぬ人間に出会ったような目を寄越してくるような錯覚を帯びた。
森閑の泉を湛えたような深い瞳に、何もかもが曖昧に司る。
何処か今日の室井は少しいつもとは違う気がすることを本能が忠告してくる。
それは普段潔白な態度を貫く室井だからこそ余計だった。


「――・・・」

いつもより落ち着いた様子で薄い口唇を艶冶に引く室井に
観念論を優先しているわけではないが、新城の中にも僅か名状しがたい違和感が残された。
確かに最終的に何を信じるかは身の裡が咆哮する感覚的なものなのかもしれない。

少しだけ湿度の高い空気が何処からか入り込み、肌をじめっと撫でる。

抗いがたい悪寒のようなものが新城の背筋を抜け、不覚にもそれは、室井の怪異な重量感に押し負けたということでもあった。
その横から青島が興味深そうに新城の持つ書類を覗き込む。

《新城さん、今何やってんだろ?報告書かと思ったらこれ、雑誌だ。・・・ん、ゴシップ誌?》


奇禍ながら爛熟した沈黙が流れ、どう解釈されたのか、新城がその切れ長の目を伏せて穏やかに笑った。
室井はそれを終いの合図とする。


「朝っぱらから騒ぎ立てた。邪魔をした」
「――ああ、お茶もお出しませんでしたね」
《そーですよ、気が利かないんだから。うちの課長なんてね、まずお茶、話よりお茶。営業してた時だってね》
「気遣いはいい」
《そこはもらっとこーよ室井さん》

恨めし気に青島に半眼を投げる室井の横に舞い戻ってきた青島が、肩を寄せて立ち、飄々とした視線を明後日の方角に投げる。

去ろうと背を向ける室井に新城が逸る声をかけた。


「少々、見直しました」
「?」
「貴方は真面目過ぎる。だから余計揶揄いの対象になる。・・・たまにはそういう冗談も隙も・・・出した方が良い」

何だか昨夜青島にも似たようなこと言われた気がしたが
とりあえず、真実を告げただけなのにどうやら室井の発言は新城のお気に召したらしい。

「貴方がそういうユーモアのある人だということはとても意外でしたよ」


本当に今日はどうしたんですかと、やや心配げな、しかしどこか安穏とした視線を向けられ、室井は妖冶に流し目を送った。
新城がにべもなく突き放すだけの男でないことは何となく分かっていて、それは特に室井を驚かすことなく響く。


「夏だからかもしれないな」

新城が初めて小さく視線を揺らせた。
動揺させたらしい。

「失礼する」

室井が軽く目礼をし歯切れ良く踵を返すと、青島も慌てて付いてきた。
扉が閉まる寸前、扉の奥に切り取られる固まったままの新城に青島はにこやかに手を振っていた。

《じゃあね~あとよろしくぅ~》



****


《お次は何するんですか?》
「仕事だ」

不満げな顔でぷぅっと頬を膨らませる青島を半眼でいなし、室井は宛がわれたデスクへと戻った。

「私に仕事してほしいんじゃなかったのか」
《今何やってんですか》
「会議に次ぎ会議だ。午後からのミーティングに間に合わせたいレポートもある」
《ふぅん。室井さんがリーダー?》
「・・・進行役ではある」
《そりゃタイヘン》

手早く書類を取り出すと椅子を引きながらパソコンを立ち上げる。

「君の件は新城の報告待ちだ。その間もう少し詰められるところはこっちでも詰めておこう」
《なんかある》
「君が現在取り扱っていた事件絡みの可能性は」
《覚えてないけど、どうかなぁ・・・》
「君はすぐ被疑者にも感情移入してしまうから」
《褒めてます?》

顔を覗き込ませる青島を無視して、室井は椅子の背もたれに整った背を凭れさせる。
細長い神経質な指先が手元のファイルを優雅に捲っていく。

「或いは君のことだ、何処か旅行にでも行こうとしていたのならその目的など、誰かに話しているんじゃないか?」
《あ~・・そうかも》
「他にも時期的に休暇届なども出していたかもしれない」
《なるほどね》


「室井君?誰と喋っているんだね?」


突然背後から降ってきた第三者の声に室井はハッとした。

しまった。青島のことに手一杯で背後の気配にまで気を配っていなかった。
言われて辺りを見渡せば、部屋の視線も哀れみを乗せて室井の方へと集中している。

やはり少し疲れているのかもしれない。
滅多に喋らない男の口が開かれ、独り言を続ける不気味なレア映像に、誰もが唖然と言葉を失っている。
秀麗で毅然とした普段の室井からは考えられないミスだった。
室井の顔が分かりやすく引き締められた。


「・・いえ。何か御用でしょうか」
「少し残業も続いているから疲れているんじゃないのかね?」
「問題ありません。お気遣いありがとうございます」


椅子から腰を上げた室井が姿勢を正し軽く頭を下げる。
それでもまだ不審をありありと浮かべた疑惑の目を感じるが、室井は寡黙を貫き、己への次の指示を待った。
近くのソファを勧める狙いで視線で誘導してやれば、ようやくその居心地の悪い注目からは解放された。


《誰、この人》
「ここの室長をしている。私の直属の上司に当たる」
《ふーん》

小声で応えてやれば、青島は隣で同じようにお辞儀をして笑った。

――おまえがお辞儀してどうする。


「それでだね室井君。今日の研究会のことなんだが」
「はい」

室長は通りすがりの若者に茶を要求すると、段取りとテーマについて確認を行いだした。


「――で、――だ。前回詰められなかったここまでを。それと担当者の割り振り、あれも纏めてしまっていいだろう」
「そうですね」

ソファで向かい合い室井と室長が話し合う横で、興味深げに青島が室井の隣に寄ってきては顎肘を付き資料を覗き込んでくる。
したり顔で頷く様子からは自分も参加しているつもりなのが見て取れる。
黄緑色の靄が視界を遮り、室井は虫を退かすように手を払った。

「ああそれから、昨日の。あっちの件、上から早くしろとせっつかれている」
「その件に関しましてはもう資料を揃えてあります」

《あっちの件って?》

「とすると・・本日のスケジュールはまず――」
《うひょーこんなにあるっっ、すっげ》
「ああ、室井君待ってくれ。昨日変更点がメールで来ていたんだ」
「どこでしょう」

《数多すぎ。うちらの会議とは雲泥の差だねこりゃ》

座れるのかどうかは分からないが、室井の隣に座り込み、青島が呆れたように呟きを入れるのが耳に入る。
見えてないのを良いことに、何故かソファにふんぞり返り長い脚を優雅に組んだ傲然とした格好だ。

「ここと・・・ここだ。みんなにも伝達をしておいてくれ」
「わかりました」
「それとだね・・・」

《まだあんのっ》


室長が持ってきたファイルを取り出すためソファに背から鞄を探る。
合いの手を入れるように青島が振り仰ぐのを流しながら
室井が指示のあった部分を訂正しておこうとボールペンを取りマークを付けていると、それもまた黄緑色の靄に遮られた。


――距離が近い。

室井の堅く強張った頬が更に石のようになる。

普段の青島だったら距離感を掴めたのだろう。
体温が感じる距離や角度に配慮もあっただろうが、外世界と閉じていると思われる現状に於いては意識させられる障害は何もないらしく
青島はその浮遊物体で室井に纏わりつく様に接近してくる。

青島の顔が室井の頬を掠めるように寄せられ、小さく囁いてくる声は鼓膜を爛れさせるように耳を犯す。
勘弁してくれ。


実態があったら肉体香や息遣いさえ香しく包みそうな体温を思わせる距離に、室井は何とか心の葛藤を伝えようと試みるが、手段がない。
青島は素知らぬ顔で資料に興味津々だ。

――くっそ、俺にもテレバスがあったらいいのに・・・!

理論崩壊したことが室井の脳裏に木魂する。


「ああ、これだ。・・・先日の提案には上の了承を得た。あれはそのまま進めていいとの話だ」
「ではそちらも同時に行います」
「出来るかね?」
「はい」

《なになに?》

こんな近づいたことなんて本体とだってなかった気がするのに。いや合ったかもしれない。どうだろう。それにしたって。

青島が落ち着きなく懐く姿に、さっきまでは微笑ましさや優越感を多少なりとも抱いていたとはいえ
実体がないからといってこれでは仕事にならない。
普段淡清で理性的な室井だって、こんなに懐かれて目の前をちょろちょろされたら、意識だって飛ぶ。
新城の前ではその独占的な立場に責務すら感じていたが、無責任にも今はちょっと凡人でありたかった。

勿論、職場であることはある程度青島も弁えているから明確な邪魔はしてこないが、室井の心境の問題だった。


「話はそれだけだ。・・・そうそう、この間大きな事故があっただろう、マスコミも煩い。あっちも頼んだよ」
「夏祭りの件ですか」
《へぇ、こんどお祭りがあんだ。面白そうですね~》
「あああもううっとおしい!!」

室長の目が丸くなり、丁度お茶をテーブルに向けようとしていた部下は縮みあがり、肩を竦めて頭を下げた。

「すすすいませんっっ」
「・・・ぁ」

歪んだ顔で引き下がっていく部下に、掛ける言葉も虚しく。

「・・ぁ・・・、いや、ちがうんだ・・・。その、ありがとう」


しどろもどろに言い訳する室井の頬が痙攣したように強張り羞恥に染まる。
心底残念そうな同情の視線をこってりと乗せ、室長もまた表情を失くした。


「・・・・これ、ここに置いておくよ。目を通しておいてくれたまえ」
「・・・・・はい」
「それと、これも」

一枚の小さな用紙をテーブルに滑らせる。

「室井君、キミ、やっぱり今日の会議が終わったら夏休み、取っていいから」
「・・・は、いえ、私は」
「丁度お盆だし、一週間くらい。のんびりしてきたら」
「しかし」
「ね」


室井に反論を言わさず、室長は立ち上がり様、憐みをふんだんに乗せた手で室井肩を労いの力で叩いた。
去り際、ちゃっかり部下の持ってきたお茶を一気飲みしてから、届け出は机の上に置いておけばいいからと言い残し、立ち去っていく。

置き去りにされた休暇申請書が、はらりと風もないのにテーブルを滑る。
乾いた空気がその場を気まずく漂った。

「・・・・」
《・・・・》

後に残された室井は恨めし気な横目で青島を睨んだ。


「おまえのせいで俺まで休暇だ」














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