箱庭4.5
11.
接触
――どうして、青島がここに。
室井の視線は釘付けになったまま、その場に棒立ちになっていた。
あまりの急転直下に脳味噌が付いていかない。
これは現実なのだろうか。
ホテルの、俗世間を忘れさせるような異国情緒溢れるエクステリアが、余計に現実感を希薄にさせる。
また、室井自身もそうであるが、青島もまた、いつもとは違うフォーマルでノーブルに着飾った格好をしているため
青島に良く似た別人であるような浮遊感さえ抱かせた。
だが、室井の視線に絡みつかれたように、青島もそこに立ち尽くしていることが、彼を本人だと確信させる。
何故今になって出会うのか。
どうして彼がここに表れたのか。
・・・・そう言えば、別れる前、クリスマスには大学サークルの同窓会があると言っていた。
笑いながら、招待葉書を翳して、懐かしそうに目を細めていた。
今日だったのか。
同じホテルだったのか?
何故同じ日に?これは偶然か?
それを青島は知っていて?
いや、青島が、じゃない、これを安住は知っていたのか?
にわかに室井の思考がざわめきだす。
・・・・知る訳がない。
先程の情報からすれば、室井と青島の接触は、この企みの失敗を意味する。
新城も言っていた。多分、今後一切の接触を禁じられた生活を送ることになるだろうと。
あくまで、室井の進退は室井自身が決断したものであるかのように見せ掛ける必要があるのだ。
その自主性が、潜在票を動かす。
所轄を使ってまで策謀したなどとは、知られたくない筈だ。
また、室井が最早従順な小兵隊であることを裏付けるために、一番青島との接触は控えさせるべき懸念材料であることも
重要なファクターである筈だった。
そこにきて、室井は、不意にもう一つの恐ろしい仮説にも気が付いた。
―二人の接触を危険視するなら、もしかして青島や自分は見張られていた可能性が高い―
ゾクリとした悪寒が走る。
室井は、青島に視線を向けたまま、潜めていた精神を覚醒させ、ザッと四方に鋭い気配を走らせた。
室井が青島に迫った日、もし、あの日も監視が付いていたとしたら?それを青島は知っていたとしたら?
・・・迂闊だった。
〝公人は常に公人たらしめる行動を求められる〟
己が日々査定されている待遇は承知していた。
そのために自分にも一丁前の公安が張りついている警衛も、想定の内だった。
だが、まさか、所轄側に・・・・青島側の精察にまでは気が回らなかった。
そこまでするか・・!
微動だにしないままに、意識を周囲へ張り巡らせる。
自分たちに注目する不審な気配は感じない。が、それは同時に、全ての周囲が怪しい人物に見えるということだ。
相手だってプロだ。
胡乱な気配は押し隠すくらいはするだろう。
悟られたことを、気付かれてはならない。
室井は意識して、表情を固めたまま、無闇な動きを封じた。
噴水と水飛沫の向こう側の青島をじっと見る。
かなり青島もまた驚愕しているようだった。
平静を取り戻せていないのか、取り繕うことを忘れ、唖然としている様子がこんなに遥か離れていても手に取るように伝わる。
あの日以来の青島は、少し、痩せたように見えた。
「――慎次さん?」
袖を軽く引かれ、青島でいっぱいになっていた思考がパンッと弾けた。
隣の女性の存在を思い出す。
同時に、今、自分が置かれている立場が改めて去来した。
安住が張り巡らせた毒心渦巻く罠の意味。
「――・・・・」
これは、どういうことだ・・・?
脳味噌が冷静に計算を始めた室井は、この奇妙な一致の不自然さにも強烈な違和感を抱く。
何故同じホテルなんだ?
何故同じ日に会が催され、ここで俺たちは会えているんだ?これも策略の一部か?
いや、そんな筈はない。
ここまで来たら、後は長官選を待つだけだ。会わせるリスクの方がデカイ。
なら何故。
そもそも今日ここで会うことを青島は知っていたのか?
青島だけじゃない、安住もだ。
・・・・知る筈がない。
だとしたら。
だとしたら。
何故今ここで二人は出会っているんだ?
「・・・ッ!!」
偶然か・・・!!
その瞬間、室井の全身にぶわっと鳥肌が立つ。
それは正に、純粋な奇運ともいうべき、万に一つの偶発性が齎した巡り合わせだった。
だとするならば。
この状況の意味するところは、もう一つしかなかった。
安住が企て、恐らくは何重にも張り巡らされた罠を、何ヶ月も掛けて用意し、仕込んだ。
手の込んだ、その緻密な頭脳戦は確かに室井の進退を大きく変え、思うように周辺を清算させるまでに至った。
だが、その遥か上を、俺たちの奇縁が凌駕するなんていう天文学的確率までは、安住も想定外だっただろう。
安住の企てよりも、俺たちの運の方が勝ったのだ。
俺たちの偶然とも言う必然の繋がりの方が、彼らの企みよりも強く、彼らを偶発的に欺いて、今ここで邂逅させた。
安住では俺たちには勝てなかった。
俺たちが、安住に勝ったんだ・・・!
ざまあみろという気分だった。
直接言うどんな苦情よりも、気分が晴れていく。
俺たちの仲に手を出した報いが今、彼らに跳ね返っていく。こちらが手を下さずとも。
室井はただ、歓喜の滾りを視線に込め、青島を真っ直ぐに見つめた。
胸の梳く想いで、思いの丈をその視線に乗せた。
・・・・・・俺が何も分かってなかったから、あんな別れにしかさせてやれなくて。
青島は別れを分かっていたんだ。
もう、俺たちの袂が分かれていたことも。
とっくに世界は色を変えていた。
中枢は目覚め、小さな戦場は俺たちを主動に指示を求める。眠りについていた幼き庇護の日々じゃない。
なのに俺の我儘で、俺の浅はかな情念のせいで、最後まで傷つけ、最悪な別れにしてしまった。
もしかしたら、青島はこんな企みに巻き込まれる前から、別れの時を感じ取っていたのかもしれない。
青島の気持ちを疑うわけではないが、あいつは優しいから
優しさに埋もれて、室井のために言いだせなかった部分もあるだろう。
まだ、好きなまま。
この気持ちは多分、一生変わらない。
彼の気持ちが嬉しかったことを、その想いだけは最後にきちんと受け取ったことを、伝えたかった。
これから別々の道になど別れたくはないが、例えそうなっても、もう自分は一人で歩いていける。
クリスマスの一夜に起きた、この奇跡に、最大級の感謝を贈る。
きっと、これは神様がちゃんとお別れをさせてくれるために捧げてくれた、最後の奇跡だ。
見遣る青島は、室井の願望がその肖像を縁取らせているのだろうか、かなり遠めの位置でありながら、何も取り繕っていない熱い瞳で
静かに背中を押し出してくれているかのような甘ささえ感じ、こちらを見つめ続けていた。
二人、寄り添って生きた過ぎ去りし時代の幻影が重なる。
全ての時が戻ったような錯覚さえ抱かせる、淡く柔らかい色をしていた。
それさえも気のせいだろうか。
それでもいい。この光景を最後に瞼に焼き付けておきたい。
透明な飴色の瞳は、室井の良く知る、穢れない輝きを乗せていた。
こうやって向き合うのは、これが最後か。
そう思った室井が、少し強張った頬を動かした時、青島が向こう側で不意に顔を歪める。
くしゃりと潰れた顔に、それを疑問に思う間もなく、青島が二三歩、後退りし、突如背を向け、室井の視界から走りだした。
「!」
室井は呆然とその小さくなっていく背中を見つめた。
何故逃げる?
今日この日を迎えてしまえば、青島にとって、目的は果たしたことになる。
安住への忠誠も必要もなくなる。
監視の目を気にするのであれば、旧友たちと何気ない装いを演じておくべきだ。
今、前へ進み出した二人には、隔てるものなど何もない筈だった。
少なくとも、逃げる理由など、青島にはない筈だ。
――なのに、逃げるのはどうしてだ?
全てが計画通りに行って、それが苦しい理由など、浮かばない。
二人で会って、苦しい理由が生じる状況が、浮かばない。
在るとしたら。
まさか。
まさか・・・!
「失礼――、急用が出来てしまったようだ。申し訳ないが、今夜は下がらせてくれ」
そう言い残すと、室井は返事も待たずに、踵を返す。
二三歩ステップを踏んだのち、青島の後を追って、勢いよく走り出す。
「くそ・・・っ、やられた・・ッ、あの瞳まで演技か・・・・ッ」
その時になって初めて、室井はあの日の青島の言葉を鵜呑みにしたことを後悔した。
青島が去っていった方へ走りながら、青島の吐いた透明の嘘を繰り返し思い出す。
強気な光で告げた言葉。
もう熱を持たない透明の瞳。
そして、今見せていた、室井をただ慕う澱みのない色。
気のせいなんかじゃない。
「くそ・・っ」
室井の持て余した理由と、青島の突き放した理由が、今一つに重なる。
自分に都合の良い解釈をしている懸念など、もう微塵も感じなかった。
涙声が耳に付き、言い表わす言葉も足りなくて、ただもどかしさだけが燻る。
気付かずに、沢山傷つけたのは、俺の方だ。
「あ・・・おしま・・・ッ」
あれを最後になんてさせない。
室井のために身を犠牲に捧げて、その愛に一人で心中していこうなんて、赦さない。
そんな奴をみすみす手放すなんて、俺には出来ない。
妙に大人で変に子供なあいつを、乱して狂わせてやりたいと思っていた筈なのに、気付けば俺があいつにいつも乱されている。
室井が真実を知っても青島を追いかけられなかったのは、それが青島の願いだと受け取ったからだ。
何より、それを告げた時の青島の瞳から、室井に対する熱が失せているのを見たからだ。
なのに、それさえも演技だったなんて――!
冗談じゃない。
絶対捕まえてやる。
12.追跡
裏口へ回る連絡通路で、壁に手を付き、息を整えている青島の姿を見つけた。
「青島・・・っ」
名を呼ぶと、黒曜石を埋め込まれた大理石のフロアに声が反響する。
びくんと肩を揺らせた青島が、再び走り出した。
「待ってくれ・・・!」
光る非常口誘導灯。
コートを靡かせる後姿がそのまま裏手から裏通りに出る。
重たい非常口が音を立てて閉じる前に、室井がとっさに肘で押し止め、身体を擦り込ませると
師走の乾いた冷気が頬を突き刺した。
乾燥した冬独特の匂いを乗せたビル風が下から巻い上がる。
穏やかな空調の効いたホテル内との違いは、明度の差だけではない。
室井は痛みにも似た冷たさに、顔を顰めた。
強烈な巻き上げに目を細めながら、風圧で鳴く扉を閉める。
裏口なので人影は少なく、辺りはぼんやりと等間隔に並ぶ、円形のガーデンライトが、裏寂しげに光っている。
その奥手に目をやると、青島が表通りに抜ける姿が樹木の間に見えた。
この辺のホテルやオフィスビル界隈に沿って格子状に引かれる歩道を一目散に走り抜けていく。
その後を、室井も追った。
通りに出ると、人垣も増え、開けた視界も一気に華やかになった。
ホテル周辺の格子状に巡らされた細道にはクリスマス仕様の装飾が道なりに施され
まるで闇に浮かぶ連絡路のようにシャンパンゴールドの煌めくライトが誘う。
街頭一つ一つに付けられたサンタや雪結晶のオブジェ、ホテルガーデンの樹木を動物や人形の形にカットし、その形にライトアップしたトピアリー。
街中がサンタを迎える夜を夢見て、街路樹が幹まで黄金色に瞬く。
ホテルによっては正面玄関がガラス張りで、スノーフォールライトや、天上からぶら下がる滝のような電光オブジェも透けて見え
ブルーライトとイエローライトのコントラストが、華やかさの中に厳粛さを紡ぎ出す。
辺り一面が華やかに、ひと時の夜を照らす。
その中で、幸せそうに寄り添うカップルや親子連れが、楽しそうに談笑している。
高層ホテルが居並ぶこの辺は、そのエクステリアの高級感も合わさって、まるで隔離された夢の国のようだった。
既にシーズン中盤を迎え満室なのだろう、ホテル窓が星屑のように都会の空高く連なる。
時折擦れ違うカップルを避けながら、青島が駆け抜け、10m程のタイムラグで次に室井が疾走していく。
通行人が皆、大仰な顔をして何事かと振り返るのが、眼の隅に残る。
舛花色のピンストライプのスーツに、上質な鳩羽鼠色のトレンチコート。
襟を立てた、あの細身の仕立て。トップブランドに見える。青島ならアクアスキュータムか?
そこにレザーのハイカットの黒ブーツを合わせている青島は、確かに雑誌から抜け出てきたような独特の目を引く魅力が合った。
男同士だし、顔に惹かれた訳ではなかったが、童顔で甘いマスクのその輪郭は一晩中見ていたく
同性の室井から見ても、青島は良い男だと思っていた。
こんな風に、ちゃんとした格好をすれば、やはりそれなりの見栄えが頭一つ抜きん出る。
一方、室井もまた、本人の自覚はないが、凛とした佇まいと背筋の良さはハイクラスの気品と高潔さを纏い
少し険しい表情は、より格上の人種であることを無言で知らしめた。
今日の目的が夜会であったために、外を往来するような服装ではなく
映画の撮影か何かから抜け出してきたような仕立てがまた、災いした。
プロデュースされたセンス、シルエットの完璧さは、熟成された大人の男の色気を持ち
コートを羽織っただけの形貌では、その品格を押し隠せるものではなかった。
煌びやかなホールでナイトドレスの女性をエスコートするのが相応しい身形で路上を滑走する二人は、明らかに注目の的となっていく。
それらを片手を上げてやり過ごしながら、室井はただ必死に青島を追った。
目立つことは控えたかったが、今はそんなことを考える余裕などない。
無数の煌めきの中で、時々振り返る青島のコートが羽根のように舞った。
角を曲がると同時に、青島が足の速度を上げる。
「全力だな・・・・」
確かに走るだけなら二人の実力は拮抗していた。
但し、地の利を活かした追跡と、我武者羅に走る逃亡者では、勝敗は見えている。
刑事なら、その位、知っているだろうに。
「くそ・・・っ」
この道の行く末を脳内で計算し、室井は脇道に折れた。
青島がこの辺の地理に明るいとは思えなかった。
デートなどで利用したくらいだろう。
なら、どう出るか。
多分、裏をかくために、真っ直ぐには走らない。
そのまま手前のビル伝いに回り込み、反対側へと回る。
横手に広がる広場を横切ると、さっきとは対角線上の位置となる。
ビルの裏手側だからだろうか、人は少ない。
少し開けたその広場には、数組のカップルが座りこんだり抱き合ったりしている。
小走りでカツカツと革靴を鳴らし、ビルの逆側へ回った。
室井がビル片隅の密集した植木群に差しかかる。
周辺樹木を迂回しようと、足を踏み込んだ時
ガサッと低木を踏み分ける音と共に、植木の隙間から青島が勢い良く飛び出て来た。
「「!!」」
お互いに目を見開く。
「嘘・・・ッ、どうして――!」
こんなに当たるとは思わなかった。
片足で着地した青島が、目の前で踵を返し、元来た小道へ戻ろうとする。
背中を向ける青島の二の腕を掴み寄せようと手を伸ばすが
寸でで擦り抜けられた。
更に勢いをつけた片足で踏み切ると、青島は室外機を足場に踏み込み、ふわりと夜空に飛び上がる。
カカッと、ハイカットのブーツ音が響き、天に月光を浴びたスラリとした長身が、月白色に縁取られた。
「――ッ!」
息を飲んで室井は天を見上げる。
なんて美しく、自由で――。
ふわりと舞う栗色の髪が、彼の重力さえ操らせた。
翻る硬質なトレンチコートをマントのように羽ためかせ、青島は音もなく、優雅にフェンスの向こう側に片手を着いて着地した。
もう振り返ることもせず、そのまま道なりに走り出していく。
なんて素早っこい身軽さなんだ。
唖然と見とれていた室井は、ハッと我に返り、舌打ちをしながらフェンスを回り込み、その後を再び追い始める。
嫌な予感がする。
このまま彼を闇夜に紛れこませたら、もうそれが最後な気がした。
このまま、きっと青島は帰って来ない。
何だか、俺の側からも永遠に居なくなる様な気がして。
交差点まで出ると、大通りとなり、通行人が一気に増える。
信号が点滅している。
視界が一旦開けたことで、二人の追いかけっこは、一層、不思議そうな好奇の視線が集中した。
荒い息を吐き、額の汗を甲で拭いながら、視界に入った群衆をぐるりと回視する。
「・・・・・・」
色とりどりの光。
響く音。
今年のラストを盛り上げるクリスマスムードは、どこか寂寞の色をして、華やかなムードの裏に、何かを終わりを予感させてくる。
また一つ、今年が終わっていく。
無邪気に楽しむカップルの笑声も、泡沫の祭りだ。
木枯らしが、少し火照った頬と、乱れ始めた前髪を逆立て、コートの裾を巻き上げる。
通りの向こう側を走っていく青島の姿が見えた。
再び走り出す。
ギリギリで、横断歩道に飛び込んだ。
交差点を越えると、また高層ホテルやビル群が連なる一帯が続く。
メインストリートから一本入ったそこは、人影が少し途絶え、照明の間隔も遠いのか、少し薄暗い。
ブロック一つ越えた所で、青島が近接するホテルへと入り込んだのが見えた。
そのままエントランスを突っ切り、また、裏手から外へ出る。
信号を確認するような素振りが見えたが、青島は横断歩道の手前で、大通りを跨いだ。
派手なクラクションが悲鳴を上げる。
「・・ッ、あっの、馬鹿・・・ッ」
ヒラリと車を交わし、羽のように中央分離帯を乗り越える。
ヘッドライトに照らされ、藍の空気に浮かび上がるその姿は、キラキラと輝いて、本当に華麗で鳥のようだ。
稀有な美しさは、室井の中の捕えたい願望を更に煽情する。
捕え所のない野性的な美しさは、反面、しっかりと捕まえていないと儚く消えてしまう危うさを見せ付ける。
道路を横切ると、青島は更に隣のビルへと飛び込んだ。
信号も丸投げである。
室井も後に続く。
レストラン街を勢い良く走り抜け、またそのまま外へ出る。
撒こうとしているというよりは、無我夢中といった感じだった。
端向かいのホテルに飛び込む残像に続けば、エレベーターホールに掛け込むコートの裾が名残りを伝える。
コーナーを回ると、姿はないが、非常階段の扉がゆっくりと閉まっていくのが目に入った。
その扉を力任せに押し開ける。
階段をガンガン登っている靴音が反響していた。
多分、一段飛ばしで登っている。
「ここか・・・ッ」
ったく、なんてやんちゃ坊主なんだ。
四つの、階段を鳴らす靴音が、閉鎖空間に反響した。
「青島ッ、止まってくれ!話があるんだ!」
返事はない。
室井の張り上げた声と靴音が、鼓膜にワンワンと反響した。
隙間から手摺に手を付いて上を見上げれば、青島の鳩羽鼠色のコートの裾が見え隠れする。
「・・・くそッ」
革靴が床にぶつかる硬質な音ばかりが響く。
不安だけが胸の奥で渦巻いていく。
どこまでが嘘で、どこからが真実なのか。
もし、青島が心変わりをしていなかったのなら、あの決断もあの提案も、全ての意味合いが変わってくる。
確かめてどうなるのか。
事態はもう進み始めている。
今更かもしれない。
逃げる青島を見て、追わない方が良いのかもしれないと、少し思う。
だが、話さなければ。
一度は会って確かめなければ、先へ進めない。
終わりにするにも、始めるにも、室井にとってのスターターは、青島だ。
どんな想いでおまえはこの提案を受けたのか。
室井の胸は、息切れだけではない痛みを持って締め付けられた。
数階登り、クルクル回ることでそろそろ階数が分からなくなってきた頃
追い付かれると思ったのか、足に限界が来たのか、青島が扉から客室フロアへと抜け出した。
その扉が閉まる前に、室井も一段抜かしで駆け登り、身体を滑り込ませた。
「――・・・・」
優雅なクラシックが微かに流れる。
かなりの階を登り、客室フロアとなったそこは、それまでの武骨な様相を一変させ
贅沢な広さを取った長い廊下が弓なりに続いていた。
シックでモダンな落ち着いた空間が、格式の高さを思わせる。
赤褐色の地色にベージュや黒の幾何学模様が施されたカーペットや、フロアライトのアールデコ
が高級感を演出し、モダンな構成の中に重厚感を漂わせた。
自力で上がって来れたのだから、恐らくはここはまだスタンダードフロアだ。
下階でこのクラスなら、エグゼグティブクラスは想像に難くない。
知らずに飛び込んだが、かなりの高級ホテルのようだ。
コントラストのある少し抑えられた照明が等間隔で陰影を与え
品の良い静かな音楽が微かに耳を愉しませる廊下は、左右に延び、外の喧騒を遮断している。
人影はなく、室内に客がいるのかいないのかも分からない。
そこをゆっくりと進んでいく。
走る靴音も、ふかふかのマットに吸収され、今は響かない。
ポーンというエレベーターの到着音がする。
室井は足を早めた。
緩やかなカーブを描いた廊下の中央辺りで、一旦客室が途切れ、そこがエレベーターフロアとなっていた。
左右4つの扉が並んでいる。
丁度、そのうちの一つの扉が閉まる所だった。
扉が閉まりきるギリギリ直前、室井がその隙間に指を差し込む。
セーフティシューを押さえ付けた。
強引に安全装置を働かされた扉が、もう一度開き出す。
中にいる影が一つ、逃げ場を失って、一歩下がった。
走り寄った勢いのままに、室井は大股で、青島の元へ近付く。
狭い箱の中では逃げ場などなく、荒い息が交差する。
室井は、逃げようとする青島を片手で堰き止め、その身体をエレベーターに押し付けた。
ようやくその腕を掴むことに成功した。
「はな・・・・せ・・・っ」
青島が振り払おうと、強く腕を捩る。
小さく呟き、荒い息を吐きながら、青島の汗で少し束になった前髪が、ふぁさと靡く。
その表情を隠し、いつもと違う正装をした青島が、いつも以上に高貴で妖うく見える。
珊瑚色のネクタイに梅紫のタイピンがキラリと光った。
腕の中で暴れ、抜け出そうとする身体を引きずり込み、強く背後のコーナーに押さえ付ける。
そのまま、壁と腕で逃げ場を閉ざした時、再び後ろで扉が閉まった。
「・・ぁ・・は・・っ、はぁ・・・、」
荒い呼吸を整える息遣いだけが響く。
「どけ、よ・・・ッ」
「青島ッ、俺は・・・ッ」
このまま二度と触れられない筈だった。
このまま消えてしまう気がして、室井はただ強く掴んだ青島の腕を離せない。
破裂しそうな鼓動を感じながら、その指先から伝わる温もりにさえ、心が躍動する。
久方ぶりの青島の体温。
「こんなとこまで、何考えてんだよ・・・っ」
「青島・・・ッ、まず話を」
「・・・ッ」
嗚咽のようなものが聞こえて、腕の中の青島を覗きこめば、くしゃくしゃの顔をして、今にも泣きそうに顔が歪んだ。
・・・・・もっと普段から物分かりの良い返事をしていた筈だった。
社交的で朗らかなタイプの青島は、恋愛に於いても開放的で、醜い感情を見せられたこともなかった。
初めて告白した時も、初めて抱いた時も、照れ臭そうに頬を染めながら、それでも一生懸命室井へと委ねてくれた。
室井にこの計画を仕掛けた時だって、不敵なまでに冷静なプレイメーカーを演じていた。
のに。
だけど、こんな割り切れない嫉妬のような寂寞のような、熱く揺らめく感情をその飴色の瞳に閉じ込めた顔なんか、見たことない。
今にも崩れて消えてしまいそうな脆い瞳を見せられて、一気に室井の躯が熱くなる。
「こんな顔・・・っ、見られたくなかったのに・・・っ」
「・・・ッ」
息が、詰まる。胸が、詰まる。
頬に触れようとすると、嫌がって、肘を立てて横を向く。
行き場を失った室井の手が、空を彷徨った。
腫れものに触るように、室井はたじろぐ。
閉ざされたコーナーで、青島は更に下がって身体を竦めている。
腕で顔を覆い、身体ごと離そうと身動ぐ青島に、もうただただ愛しさが溢れていく。
愛しさ、とはちょっと違う。しっくりと心に馴染む違和感の喪失だ。
触れても良いのだろうか。
抱きしめても良いのだろうか。
未だ自分に、その権利があるのか。
いざ青島本人を目の前にしたら、自信など脆くも崩壊した。
声も掛けられず、息を整えるだけしかできない。
惑う室井に、青島が辛そうな瞳を横に避け
空いている手で室井を押し退け、コーナーから抜け出そうとする。
前髪の奥で、瞳に滲む涙に頭上のライトが反射した途端、室井の理性が途切れた。
徐に身を寄せ、挟み込むようにして、そのまま紅いふっくらとした口唇に強引に口付ける。
抵抗する手を取り、握り締めた。
「・・・んぅ・・・ッ」
エレベーターの昇降音が静かに響き、上層階へと気圧が変わっていく。
骨の髄まで震えた。
柔らかい感触。
何度も何度も確かめた筈のその弾力は、それでも初めて触れたもののようで、止まらない。
「むろ・・さ・・・・ッ、ここ・・・ッ」
苦情で離れた口唇を追って、何度も塞ぎ直す。
青島が慌てたように室井を引き剥がそうと、背中のコートや後ろ髪を引っ張り上げた。
それさえ愛しく思え、室井は顎を強くホールドする。
身動ぎ、首を頑是なく振る青島を、身体ごと押さえ付ける。
「・・んん・・・・っ、・・・だ、め・・・ッ」
きつく掴み上げた手首に力が込められるのを、力で制し、足癖悪く室井を蹴り上げる青島の両脚の間に膝を滑り込ませた。
少し態勢を崩した青島の真上から口唇を覆い被せるように塞ぎ、両手を壁に押さえ付ける。
崩れていた室井の短い前髪がパラパラと崩れ、額に逆光となり、青島に影となって覆いかかる。
顔を傾け、ぬるりと滑り込ませた舌で、口腔を圧迫し、その熱い粘膜を乱暴に掻き回した。
怯えるように逃げ込む柔肉を引き摺り出す。
「・・・ッ、く・・・・ぅ・・・・ッ」
目前で濡れる青島の瞼が震え、目尻に浮かぶ一粒の雫が、長い睫毛を光らせ、長い影が揺れた。
切なげに眉を寄せ、逃れることの出来ない口接に、荒い息が室井の口唇にかかり、歪む。
室井の口唇を受けるしかない青島は、往生際悪く顔を弱弱しく振り、酸素不足に喉奥で咽いだ。
その度に、細い髪がさらさらと後ろに流れ、青島の懐かしい匂いが仄かに芳る。
久方ぶりに触れた青島の匂いと体温。
呻く吃音や汗ばんだ肌艶、トレンチの襟から、緩めに結ばれたネクタイの奥に覗き見える鎖骨と柔肌。
許されざる禁じられた肉感に、想像以上に惑わし溺れ、捕り込まれていく。
「ふ・・・・っ・・ぅ・・・・・ぅんッ」
上下する喉仏まで、何度も間近で見てきた、室井だけが知る妖艶さに、馴染みの、封印するつもりだった筈の愛おしさが込み上げる。
どれほどただ純粋に欲し、枯渇していたことを改めて実感する。
どれほど大切で愛おしく焦がれていたかを思い知る。
両手を押さえ付け、身体で圧迫し、飢えた心を満たすように、室井は我武者羅に口唇を奪った。
ずっと欲しかった。
離れたくなんかなかった。
誰にも渡したくなんかなかった・・・!
止まれない――
「・・・ァ、・・・・・ぅん・・・・、・・・っ」
卑猥な水音だけが聞こえていた。
上昇していく物理的な浮遊感が、奇妙な夢幻を齎し重力を錯覚させ、時間が止まった。
ポーンと到着音が静かに告げる。
空気が流れ、横で滑るように扉が開いたのが分かった。
それを合図に、隙間なく密着させていた口唇を、ゆっくりと解放する。
着いたのは最上階。
薄暗く蒼いフロアの向こう側に、満天の東京湾と都心部が紺碧に広がっているのが横目に入った。
真っ赤な顔をした青島の瞳が、至近距離で夜空に潤む。
青島が今も好きなのは、自分だ。
「ゲームセット、だな」
13.再会
カードキーでロックを解除し、先に青島を部屋へと押し込める。
周囲を見渡し、誰も廊下にいないことを確認してから、室井も部屋へと入った。
背後で、カチャリとロックが下される音がする。
あのまま、このホテルでチェックインし、ボーイの案内を断り、客室に上がった。
チェックインは普通タワーのレセプションだが、フロントレセプションは客室層メインにもあり、どちらでもチェックインできた。
30階以上はスイートフロアだったので、その下、エグゼグティブルームのツインのうち、最上階のフロアを選んだ。
シーズンでほとんど空室がなかったことも要因だが
今はこの、奇跡の一夜に、地上に降りたくはなかった。
もう青島も大きな抵抗は見せず、室井に手首を掴まれながらも大人しく後ろから従ってくる。
扉が閉まると、無音の世界が広がる。
ダウンライト一つだけを頭上から浴びた暗がりで、青島の腕を引き寄せた。
肩から掛けたままのバッグを降ろさせると、青島の背広の胸ポケットに手を偲ばせ、ケータイを取り出す。
その電源を切り、直ぐ傍にあったトイレの便器へ投げ入れる。
ぽちゃんという音が静寂を破った。
室井の行動に目を丸くしている青島の両腕を、押えるように掴み、その不安げに強張った顔を覗き込む。
「いいか。ここはホテルだ。盗聴も盗撮も、ない」
青島の眼を見て、それだけをしっかりと告げた。
途端、その言葉の意味を正確に理解した青島が、丸い瞳を見開いて室井を見つめ
やがて、くしゃりとその顔を歪ませ、口唇を震わせる。
堪え切れないように、口唇を強く噛み、瞼を伏せた。
そのままゆっくりと室井に身体を傾け、室井の肩口に顔を埋める。
ただ額だけを押し付け、何かを堪えるかのように身体を小さく震わせる。
室井もまた、敢えて抱き締めることはせず、キッと強めた漆黒の瞳で前を見据え、その後頭部に差し込んだ五指で、力強く自分の肩口にその頭を押さえ込んだ。
*:*:*:*:*:
音の無い空間が、時間の感覚を麻痺させる。
背を向けている青島とは違い、室井の眼前には濃紺の室内の中で、フルハイトウィンドウからの大都市の夜景が瑠璃色に広がっていた。
赤い動脈のように走る高速道路・都会のビル群の煌めきと、空と街が一色に融合した紫紺の地平線。
満月の光がホテル窓を銀縁に光らせ、ベッドサイドの二つのスタンドライトだけで灯りを取った客室を、ほんのりと黄色に浮かび上がらせる。
リッチで落ち着いた室内は、夜空から隔離したように朧に映った。
室井は、それらを漫然と瞳に映していた。
静かな室内。
穏やかな温もり。
青島の柔らかい細髪が、室井の指先に絡まり、微かな空調に靡いて室井の顎を擽る。
確かに触れていることを認識させる。
大分落ち着きを取り戻したのか、青島の身体からはゆるやかな呼吸音が流れ、先程まで感じていた緊張感や警戒心はすっかり消失していた。
ただ肩に顔を埋めたままじっとしている。
室井の肩口にだけ触れた、ただ一点の接触が、まるで離れまいとする自分たちの、頼りない繋がりに残された最後の砦のようでもあった。
漆黒の瞳に夜景パノラマを宿しながら、室井は後頭部に指し込んでいた手はそのままに、もう片方の手をゆっくりと持ち上げた。
ぎこちなく、青島の背中から腰へと滑らせる。
ブランドのトレンチコートの手触りは、やはり質が違い、滑らかだ。
そのまま腕を辿れば、だらんと垂れ下がったままの青島の指に指先が届く。
ぴくんと反射した冷たい指先は、やがておずおずと小さく室井の指に絡まってきた。
それを確認してから、応えるように室井は手の平を合わせ、指先をしっかりと握り合わせる。
「もう、離すな」
掠れた声で告げた言葉は、まるで自分に言い聞かせているようでもあった。
今再び、こうして握り合える奇跡は、もう悠久ではなく楽園でもない。
二人の未来に何も確かなものなどなく、変わらぬ気持ちは繋ぎ止める効用を持たぬことを知った。
この一件は、室井が直接手を下した訳ではないし、望んだ訳でもない。
しかし、気勢を削がれようが、食傷気味になろうが、もう、季節は待ってくれない。
時代は答えを求め、身分は覚悟を求める。
室井が官僚であり続ける限り、出世レースは続き、ゲームの代償は瑕疵を突くのだ。
俺たちが出会ったこの大都会の舞台で踊り続ける限り、この必需の宝物は好色に狙われる。
嗚呼、結局。この無機質な箱庭で生きていくと決めた時から、自分自身から逃れることなど、出来はしなかった――
室井はきつく目を閉じ、奥歯を噛み締めてから、もう一度眼を開ける。
握った手に再びぎゅっと力を込めると、その手を一旦振り解き、青島の二の腕を引き寄せた。
凭れさせるように胸板を合わせると、そのまま腰からグイッと持ち上げる。
息を呑む青島を、荷物を担ぎ上げるかのように肩に担ぎ、部屋の奥へと入っていく。
「ふわ・・・っ、ちょ、・・・ッ、待っっ」
逆さまになった態勢で、足をばたつかせて青島が文句を零す。
苦情はまるっと無視して、部屋を軽く一望すると、手前のソファを避け、まっすぐに目的のベッドへと向かった。
ツインのベッドはそれでもダブルサイズのように広く、二つの灯り取りを枕元に浮かべて、窓際に据えられている。
格子状の模様の装飾品が枕元の壁に飾られ、黒木をベースに造られたベッドと統一化が図られていた。
真っ白な綿を被せられた枕が二つ、黒布のクッションも添えられている。
暗めのベージュにブラックの幾何学模様が施された羽毛布団が、上流階級のランクを演出した。
ベッドの上に、二人の身体が縺れたまま、薙ぎ倒される。
スプリングの効いた上質なマットと羽毛に、二人の身体が弾んで沈んだ。
両手を青島の顔の横に着き、膝を曲げ、身動ぎして抜け出そうとする身体を身体の下に入れ、足で食い止める。
挟み込むようにして青島を見下ろした。
怯えた顔で、室井の出方を下から伺っている、ようやくまともに顔を見れた青島は、やはり少し痩せていて
今日のために切り揃えたらしき、短めの朽葉色の髪が、ますます少年のような風貌を完成させている。
ベッドスタンドの朧気な梔子色に照らされて、辛子色に毛先がベッドに舞った。
じっと闇に蒼く染まる瞳を見下ろす。
二人は言葉もなく、暫く朧夜の中に視線を交差させた。
見つめ合う瞳は透明で、この夜空のようだと室井は思った。
今度は全てを見逃さないつもりで、ただ見据える。
二人、今だけに酔って寄り添っていた甘く逃避した時間。
二ヶ月前、室井に戸惑いながら別れを切り出した、伏せた花瞼。
一ヶ月前、寄りを戻してくれと頼んだ時の、挑戦的な光。
掴み所のない七変化は、まるで深淵のようだ。
深みに嵌ったら真実が隠される。
どれもが青島で、どれか一つでも欠けることは、もう許さない。
掴み損ねた在り所に、今、辿り着く。
余りに強張った顔をする青島に、室井の口からはまず、思わず大きな溜息が洩れた。
「――ったく。・・・・お・・っまえはなぁ・・・ッ。そんなに俺は信用出来なかったか。おまえにとって俺は用無しか・・・!」
「そ・・・、そんなつもり・・・、は・・・」
「おまえと俺は共犯者だと思っていたのは俺だけか」
「・・・・、ぇ・・・えと、あの・・・・、どこまで・・・・バレてんの・・・・」
だんだん声が小さくなる質問には答えず、室井は黙って、自分を退かそうと肩を押している青島の手を握る。
着崩れて鳩羽鼠色のコートの袖口から丸っこい指がちょこんと覗いているその手を絡め、ベッドに広げて縫い付けた。
「どうして俺を呼ばなかった」
「・・・・っ」
冗談も油断もない室井の漆黒の瞳に、青島が息を止める。
真っ直ぐに射抜かれ、視線だけで凍えるように身動きを封じられた青島は、ただ室井を見上げてきた。
押し倒したことで服が撚れ、喉とその下の華奢な鎖骨が襟口から影になって覗く。
露わになった喉仏の、緊張で生唾を飲み込む動きまで見て取れた。
目の縁に入れながら暫く視線を絡ませ合っていると、青島の表情が僅かに曇る。それは見逃しそうな程、微かな変化だった。
しかしもう、そこに含まれた真実を見逃してやる気はない。
その痛みも想いも、室井にはもう手に取るように分かる。
――堕ちていくのが例え地獄でも修羅でも、この男と共にならば、本望だ。
言葉を探しあぐね、多分今も必死で言い訳を整えているのであろう青島の覚悟に
室井はそう確信する。
俺たちの奇縁がこの奇跡を起こしたように、潰れる覚悟を決めた先で、きっとまた、想像もしない結末を呼び寄せられる。
それは、無謀な投げやりなどではなく、計算の上で、もう信じられる。
道理も理屈も法律も摂理も、何もかも越えた所にある、確かな予感。・・・・他の人間には分からないだろうが。
捨て身で愛を遂げてくれた青島の想いに応える一番の方法は
このパラドックスを受け入れられるかどうかだ。
それが出来るのは・・・・それが発動させられるのは、この世で自分だけだと室井は思う。
所詮、俺たちが幾ら足掻いた所で、それはこの小さな箱庭の世界で起きる祭りごとでしかない。
傷つくことに臆病になっている内に、奇跡を逃してしまうのなら
もう、室井の覚悟は決まっている。
顔の横に縫い付けていた両手を頭上に滑らせ、室井は体重を掛けた。
身体が密着し、足が絡まる。
青島が身体を緊張させる。
「もし、今、もう一度引き留めたら、今度は違う返事を貰えるだろうか」
飴色の瞳が、キラキラと潤み、丸く見開かれる。
両手を捕られ、ただ室井を見上げるだけしか出来ないまま、青島は崖っぷちに追い込まれたような驚愕の顔をした。
室井が静かに口端を滲ませれば、青島の瞳が情に濡れ、ベッドサイドの灯に陽炎のように揺れる。
「・・・なんでさらっと言うかな」
視線を外し、何やら消化出来ない物を噛み締めるように青島が吐息を乱す。
当惑し、堰も無くした青島は、淡く闇に消えてしまいそうな程、危うい。
少し以前より痩せた顔から首筋にかけての輪郭が、シャープな影を作り、瞼を伏せればまるで別人のような雰囲気を醸し出す。
ゆっくりと青島が横を向き、ベッドサイドの都会の煌めきを瞳に映した。
「俺たち・・・なんか、この都会で逸れちゃった鳥みたいだ」
「・・・・でも、二人だ」
「・・・・うん」
たくさんの想いと傷が乗せられた青島の涙は、この夜景の星屑よりも、今まで見たどの涙よりも綺麗で、深く、美しい。
「一生、黙っているつもりだったのか」
「・・・・・」
「馬鹿野郎・・・ッ」
掠れた声が怒気を含んで口端から漏れ、室井は奥歯を喰い締める。
俯き、押し殺した息を漏らせば、さっき走ったせいで崩れた前髪が、パラパラと落ちてくる。
「・・・自惚れ。あんた・・・・いなくたって・・・・俺、ちゃんとやれるよ・・・・遠くで見てますよ」
ポツリと視線を伏せて呟く言葉が、闇に溶ける。
「負け惜しみだ」
「・・・・・」
室井はゆっくりと顔を近付けた。
顔を傾け、口唇が触れそうな距離で止める。
絡め取るような視線に促されるように、青島の伏せていた花瞼が震え、ただ黙ったまま自分に圧し掛かる男を見上げてきた。
その瞳に室井が映る。
他には何も映していないその視線を、室井は真っ直ぐに絡め取る。
「俺はもう 遠くじゃ我慢できない」
「・・・・でも、俺・・・は」
「俺が、欲しいんだろ」
「キャリアってほんと、勝手」
答えを催促するように、頭上で纏め上げた手に指を絡ませ、強く握り締める。
青島の眉が、苦しげに寄せられた。
熱い湿った吐息が口唇を撫ぜる。
ああ、本当に儚く消えそうで、溢れる情愛に満ちていて、その熱に溺れそうになる。
愛しさに、狂いそうだ。
〝あ・お・し・ま〟
室井が声を出さずに口唇を動かした。
湿った吐息だけが青島へと届く。
やがて、青島が一旦瞼を閉じ、震えるように口唇を戦慄かせる。
再び瞼が開かれた時、空気が掠れたような音がする。
「もう・・・逢えないかと思っ・・・」
パンと空気が弾けたような気がした。
喰らい付く様に奪い、口内を侵す。
離れていた魂を補い合うように、抱き締め合う。
この言葉こそ、室井が待ち望んだものだ。
もう、止まれない。止まる気はない。
「室・・・さ・・・・っ」
「大丈夫だ、大丈夫だから・・・・っ」
何度も何度も口唇を重ね、確かめる。
濡れた音が、絶え間なく響いた。
変わっていく季節の中で、それでもこの手を放したくはない。
「もう離れんな・・・ッ」
青島の両手が引き寄せるように室井の後頭部に回る。
室井の短髪に指先が絡み、後髪を握り締めた。
足が絡み合い、縺れ合って、体温までが混ざり合う。
確かめるように両手で身体のラインを幾度も辿り、思いの丈を込めて胸に掻き抱いた。
「っかやろ・・・・」
「逢いたかった・・・っ、ホントは、傷つけるつもりなんて・・・俺ッ」
「いいから。一人になんて、させやしない・・・・ッ」
口唇を強くすり合わせ、唾液でぬめるままに密着させれば、蕩けるような感覚が室井の身体に走る。
青島が緩く顔を振る。
その頭を片手で押さえ付け、髪にもキスを降らせた。
「室井さ・・・ッ」
縋るように青島が室井のシャツを掴んだまま、溢れそうな感情を乗せた指先と吐息で、何かを堪える。
噛み殺した嗚咽が聞こえ、ゆっくりと身体を離そうとした。
だが、逃がすつもりはない。
忙しなく水柿色のネクタイの結び目に人差し指を立てる。
するりと解けば、シルク素材のネクタイは滑りが良く、そのまま擦り抜け、タイピンに引っ掛かる。
それを手探りで外すと、シャツのボタンに手を掛けた。
「室・・さ・・・ッ、駄目・・・、これ以上は俺・・・、・・・っ」
「今は何も言うな・・・・言わなくていい・・・ッ」
「む、ろいさ・・・っ」
呼び声にはもう、深い口付けで返す。
抗議を発するタイミングで手際よく口腔に侵入し、熱い内部を制圧した。
邪念が二人を引き剥がすのなら、もう何も考えられないところまで一気に連れていく。
髪を梳き上げ、指を差し込むと、両手で頬を包み、顎を反らさせ、痺れる程に舌を吸い上げる。
角度を変え、繰り返し追い掛け、粗雑に粘膜を執拗に責めあげた。
覚束ない喉声ごと呑み込めば、濡れた粘性の音が響き、憶えた筈の弾力を繰り返し確かめれば、口の端から唾液が滴る。
どこまでも侵食していく。侵食されていく。
荒い息だけが、暗がりに広がり、部屋に湿り気を帯びさせる。
「ふぅ・・・っ、く・・・っ」
苦しいのだろう、だが、離してやらない。
ひたすら貪っていく。
一つ、また一つとワイシャツのボタンが外れ、スタンドライトで褐色に光る艶肌が触れる指先に会わせ、室井の下で痙攣するように反応した。
コートさえ脱いでいなかったことに今更ながらに気付き、もうジャケットごと、一気に肩から滑らせた。
やけに手触りの良いスーツから玉肌が艶めく。
スーツは遠目にも、値の張る生地だと分かっていたが、生地の感触がブランドものだ。まさかこれは高級ブランドかもしれない・・・イタリア老舗だ。
青島が持つには少し違和感がある気がして、少し疑問を感じるが、今はそれさえも思考の奥に流れていく。
あらわになった首筋に今度は耳からキスを降らせていく。
「・・・ッ・・・」
噛み付くと、痛みに青島が身体が軽く跳ねた。
最初から濃密に吸い付けば、暗がりでも分かる紅い華が幾つも散る。
甘い青島の体臭と、汗の匂いが、狂暴なまでに夢中にさせてくる。
「・・は・・っ、スーツ、皺に・・・・、んぅ・・っ」
何か言い掛けた青島の口唇も、紅くぬめる舌に誘われ、再び奪うように上から塞ぐ。
少し仰け反り返った首筋から指先を辿らせ、鎖骨の窪みを辿り、何度も行き来する。
筋が綺麗なラインを描いて陰影を作っていて、少し光沢のある肌をより艶めかせた。
青鈍色のシャツの間に潜らせた室井の細長い指先が刺激する、その度に、身悶えるように微かに青島の筋肉がが室井の下で身動いだ。
若く瑞々しい肌理の吸い付くような肌は、室井の手に馴染む様にフィットする。
堪らない触感。
もっと、もっとと貪欲な欲望がどす黒く渦巻く。
たった一人を、心から欲しいと、願ってしまった。
その強烈な支配にも似た渇望は、青島が見せる利他的な想いなんかよりもずっと、愛しさを越えた傲慢だ。
自分の中に渦巻き、欠けた何かを満たすそれを、ただそれだけのために、全てを手に入れてしまいたい。
室井にはない博愛的な青島の見せる情熱は、神秘的で普遍的で、気高いとさえ思え、跪きたくなる。
傷つくことを畏れぬ身を賭す情愛が、何より一番、この男に惹かれた原因かもしれない。
だからこそ、欲しいのだ。
自分だけを認識してくれる一度知った享楽は、飢えに敏感で、甘美で魅惑に捕り込んでくる。
青島がその手を取ることを赦してくれた時、もう、室井にはその手を払うことなど、出来なかった。
自分に惚れてくれるなんて、そんな万一の奇跡が起きた。
戻ることも、無くすことも、もう出来ない。
なのに、奪われ、煙のように消えてしまった。
歪んだ感情が、決壊し、濁り、青島だけに向かう。
理性に敬慕し、均整に生きていた筈の人生全てをひっくり返される。
自己抑制がここまで困難なものだとは、思わなかった。
自分だけのものとして、出来ることなら永遠に閉じ込めて、その飴色の瞳に映る物さえ、堕情に染め上げてしまいたい。
――気を抜けば、こうやってこの手から擦り抜けてしまうものならば。
まさぐっていた手を止め、自分のネクタイの結び目にもどかしげに指を差し込んだ。
左右に揺らして緩ませると、一気に引き抜く。
それもまた、ベッドサイドに落ちていく。
開かれた首筋から鎖骨へ、口唇を滑らせていけば、数ヶ月ぶりに味わう瑞々しい青島の肌に、何もかもが流された。
綺麗な形の鎖骨、羽のような肩甲骨。
スーツ越しからでも分かる、しっかりを窪んだ腰のラインと、まあるい形をした桃尻。
元々敏感な青島の肌は、室井が指先で辿るだけで、仄かに色付いていく。
室井が吸い付く度、顎が反り、濡れて紅付く口唇で息を乱し、綺麗で細長い首筋が室井に晒される。
焼け付くような焦燥と、崩れ落ちるような恐怖は、感情の振れ幅を混濁させ、明確な思考さえ決壊させた。
こんなにも囚われ流され、溺れていくのは、やはり青島だけだ。
「・・・は・・・ッ・・・ぁ・・・」
青島の手が躊躇うように室井の両腕を掴み、微かな吃音を漏らした。
膝を立て、室井の肩を退けてくる。
「行くな・・・・」
「ごめん・・・、俺・・・、もぅ、駄目、なんだ・・・・・」
苦情を乗せる吐息を重ね、抗う指先も絡めて動きを封じる。
潤む目尻。ぬめる玉肌。
見上げる睫毛に光る雫。
肌の熱さが熱を呼び、汗の匂いを芳せる。
月明りに浮かび、跳ねる身体に圧し掛かり、ベッドへ繋ぎ止めると、室井は止まらぬ衝動を堪えながら、素肌のそこかしこにむしゃぶりついた。
何か躊躇いを口にする青島の言葉も、今は耳に入らない。
・・・本当は分かっているが、今は知らない狡い男になりたい。
愛撫するように口唇で耳元を辿り、肩から胸へ、そのまま下肢へと手を下ろしていく。
青島が室井の下で身を捩る。
そのまま耳朶を舐め回し、熱い吐息を吹き込んだ。
「・・・ん・・・・ッ、室井、さ・・・・ッ」
「・・・すまん。歯止めが利かない・・・」

続きはぬるいえろがあるので苦手な人は事後へ→