箱庭4







9.招宴会
退屈だなと室井は思った。

煌びやかな装飾に絢爛豪華な顔ぶれ。一流の食事と芳醇なワイン。
厳しいドレスコードが引かれた、眩しくも華美なホールは、百合や薔薇・胡蝶蘭などの大ぶりで多種の生花で精彩良く飾られ
19世紀ロマン派以降のクラシックが厳選されて静かに奏でられていた。
着飾った未来のトップクラスを担う若手たちが、和気藹々と楽しげな会話を繰り広げている。
室井にとっては、ある意味場違いなこの場所に入り込めたのは、殆ど安住副総監の力添えに他ならない。

肌露中の多いローズのナイトドレスに身を包んだ亜麻色の髪の女性がまた一人、こちらに愛想笑いを仕掛ける。


「あれは県議会員んとこの一人娘だそうだ。オヤジに似てなくて美人だな」
「・・・・」
「あっちは、元財閥で武岡コーポレーション現社長の下の娘。妻の血統は伯爵出って聞いたが本当かね」
「・・・勘弁してくれ・・・」
「おい、ちょっとは愛想を振り撒け」
「出来るか」


洗練された血筋や各界の大物などの実力者のみの子息や若手議員などだけを選りすぐったパーティは
伝統と格式を重んじる都内有数のトップホテルの上層階を貸し切りにして開催され
華やかな宴が一夜限りの夢舞台を繰り広げていた。

窓の外には、東京湾が星を散りばめたように広がっている。



警察庁長官とも所縁の深い衆議院議員主催のこの招待制遊宴会に、先日、安住副総監経由で参加を強請された。

直々に呼び出され、今回の旨を打診されたのだ。
予定していた部下の参加が見送りとなり、室井に白羽の矢が立ったとのことだった。
安住副総監とは、次長時代からそれほど親しくしていた覚えは、あまりない。
何事も勉強だからと押し切られれば、室井に選択権はなかった。
政界・財界とのパイプは、出世派閥のない室井にとって、いざという時、後付けできる最たる後ろ盾だ。


だが、室井に言わせれば、こんなのは大学生の合コンと一緒だ。或いは会員制の婚活パーティか。
クリスマスという時期もあってか、まるで男女の発情の間である。
何でこんなことになったんだか。


有識者同士の交流という名目のこの立食パーティは、通常、組合、派閥の強固、運営方針を秘めやかに合意するための定期的な懇親会が表向きである。
が、いわゆる政治資金パーティだ。
今宵は更に少しだけ趣向を凝らし、若手の顔合わせを主目的としているとのことらしい。
そういうと聞こえは良いが、実質的には未来の後援を確保する生々しい利権争いの最たる場であり
謂わば、室井の懸念通り、お見合い同然だった。



「こんな大金が動くパーティが、不景気の世の中で存在してるっつーのが、浮世だね」
「ここから、いずれ日本経済を背負っていくトップリーダーが生まれると思えば、社会の源泉を見ているのかもしれないぞ」
「約束された金の卵ってか。人類の不平等を見るのはこんな時だ」
「別に何の努力もしていない訳では・・・・・ないだろう」
「お前もいつまでも過去を引き摺ってないで、ここでコネでも繋いでおけよ」
「・・・・っていうか、何でお前までここに居るんだ?」

既婚者だろ、と指摘すると、一倉は、はん、と鼻白んだ。


堅苦しいやと言いつつ、ネクタイの結び目を頻りに擦っている。
着なれない服に窮屈さを感じているのは室井も同じだった。

ドレスコードを指定された会合は、これまでにも何度か経験があり、スーツも誂えていたが
袖を通すのは久しぶりだ。
クリスマスパーティという形式を取っているためか、会場はかなり上流階級のフォーマルさが好まれ
モーニングや燕尾服の若者もいた。


そこまでの意欲は出せない室井は、無難なフォーマルウェアを選んだ。

濃いダーク・グレイの薄いピンストライプのスリーピース。ベストはアッシュグレイで、小さな4ボタン・ベスト。
靴は曇り一つないブラックの、トゥにラインが入ったフォーマルタイプ。
今回は年齢層が若いと聞き、ワイシャツは少しローズがかった小さなフリルのあるものを。
タイはシルクで、シルバー。
仄かなローズのアクセントとなり、同系色で明度を下げたタイピンが胸を光らせる。

ボディラインを引き立てるようなシャープなラインのオーダーメイドのフォーマルウェアは、クラシックスタイルながら、室井の中の格調高さを引き立て
品位を醸し出していた。

一流階級に属しても何ら不思議はない――むしろ相応のポテンシャルを持ち得ているのだが
室井本人があまりその辺を重要視していない。
スリットが、しなやかな筋肉の美しさを想像させ、スリムな下半身を野性的に象らせる。

チーフの横に刺した赤い小ぶりの可憐な花が室井の控え目さを象徴しているようだった。



室井の出で立ちに、ザッと視線を舐めるように走らせた一倉が、持っていたワイングラスを優雅に掲げて見せた。
ベリーの芳香が芳しく広がる。


「俺もお前と同じ出向組だ。せいぜい点数は稼がせてもらう。・・・さっき、あっちで、新城と会ったぞ」
「彼も副総監の?」
「・・・いや、アイツは警察庁の人間だ。ここへはアイツの親父の・・・法曹界の伝手で、顔だけ出すように言われたらしい」
「・・・・」


貪るような権力讃歌に、室井は然程熱心にはなれない。
元々が血の気の多い争い事は好まぬ性質だ。
だが、自分がこの先好敵手として相手をするのは、このような緻密で隙のない戦略に糸目を点けない、そこに忠誠を置く連中なのだ。
このような策謀に勝っていかなければ、頂点には登り詰められない。

改めてそのことを真の当たりにし、室井の身が引き締まる。


「おーおーそ~んなに蛙が潰れた顔しちゃって。その後、連絡してないんか?」
「――、どうせいつかは仕事で会う」


主語を抜いての発言に、眉間の皺を深めつつ、室井は淡々と答えた。
グラスを掲げる手元に、色石付きのダブルカフスが、金色に映える。


「電話ぐらいしたらいいじゃねぇか」
「・・・・もう、迷惑になるだろう」
「・・・その顔。まるで失恋のようだぜ。一体お前らが裏でどんな付き合いだったんだか、勘繰りたくもなる」
「知ってて揄っていたんじゃないのか」
「下世話なトム・ソーヤーは趣味じゃないんでね・・・マジで付き合っていたのか?」
「――」
「嘘だろ・・・・」
「・・・・ああ、〝嘘〟だ。すっかり騙されたな」
そう、全ては嘘と同じだ。もう、手の平から零れて、何もなくなってしまった。


「・・・・・ふーん・・・・・」

幾分納得していない顔で、一倉が室井を見下ろすじっとりとした視線は、小童のようでありながら狐疑だ。
その視線に気付いていながら、室井は素知らぬ態度を貫いた。


一倉には、もう青島とは個人的に会わないことだけは告げた。
その理由については何も補足しなかったから、単に室井が飽きただけとも取れたし、青島に見切られたとも取れただろう。
どちらにしても、言い訳をするつもりはなかった。

出世レースに本腰を入れると解釈しても良いんだな?と、問われ
好きにすればいいと応えた。
その挙句の、このパーティへの参加だったから、その点については一倉もすんなりと納得したようだった。



「お前が青島離れ出来る日が来るとはね」
「戦う覚悟を決めただけだ。別に青島との距離が変わった訳ではない」
「シツコイ男は嫌われるぞ」
「・・・・」
「まあ、お前から青島を取ったら何が残るんだって話でもあるが」
「どういう意味だ」
「まんまだろ。一人じゃ戦えねぇ腰抜けだ」
「俺に何を言わせたい」


少し剣呑な色を帯びた漆黒の瞳を頬辺りに感じながらも、一倉は哄笑する招待客の群れを、顎に指を当ておどけた様子で肩を竦めて眺める。
胸に飾った大ぶりの白い一輪の造花とのギャップが甚だしい。
喰えない男だ。

既婚者という立場もあり、一倉の様相はフォーマルながらも、無難なスーツだった。
遊びの見えないミッドナイトブルーのセットアップに、アクアグレイのシャツ。
濃紺の水玉のタイが、一倉らしい中年男の遊び心なのだろう。


「お前らの身勝手のせいで、警察正義が面目丸潰れなんだよ」
「こんな箱庭の正義なんか、この会場にさえ通用するか」
「建前ってのが大事なんだろうが」
「建前で正義が護れると思うのか」
「そんな偏狭思想こそ、この会場に通用しないぜ。今どきの若者は皆、強かだ」
「悪習を捨てさせなければ、何も変わらない」
「捨てるのは、お前の理想だ。お前らのお伽噺は警察にとって爆薬と同じなんだよッ、警察組織ごと壊滅させる気か・・・ッ」


囁くような声で陰険会話を応酬する二人に、また女性が一人会釈する。

公人としてある以上、公人として身状する義務がある。官僚は常に査定されるのだ。
張り付いたような笑顔を返す。

迂闊なことは出来ないのは、常識だ。
一倉の言う建前が、社会平和と理想に見せ掛けているものだとして
その建前が日本経済を動かしているのもまた、事実だった。


「上を見て、下を見れなくなったら、ヒエラルキーは崩壊する。俯瞰する視点こそ俺たちが持つべきものだろう」
「おーおー、相変わらず理想論だな。新城が苦みを潰すのも分かるわ」
「行き過ぎた正義は狂気となる。いつの時代もだ。・・・多少の荒良治は良薬になる」
「それがお前のイデオロギーか」

室井がクッと視線だけを一倉へ向け対抗する。

「いずれ、日本経済は階級社会に潰されるかもしれないぞ」
「だから奴らも現役とのパイプがある警察OBを求めるんだろ」
「その急場凌ぎの外付けパイプが、芋づる式の破滅を呼ぶんじゃないか」


この小柄なキャリアは、一種の畏怖すべき対象であると思うのはこんな時だが
だが、天上の楽園に治まり、ひたすら大人しく寵愛と敬愛を受けてくれれば良いのに
信仰を嘉納させてはくれない。
何の衒いもなく、大の大人となれば自然と口を閉ざす理想郷を、畏れなく、そして恥ずかしげもなく、口にする。

それは、青島という存在を得てからが、益々顕著だ。
強かに、割り切った顔をしながら、決して澱まない聖水を胸に湛える。
だが、その傾向と盟約は、多分、何食わぬ能面みたいな顔をした奥底に、ずっと仕舞われていただけだったのだろう。


室井の開花は、同時に、組織社会で無視できぬ逸材――危険因子へと変貌を遂げた。
戒められていた何かを、解き放てたような成長を見せた室井は
危険視するべきターゲットとして、今、警察内部で頭角を見せ始めている。

これを、上はどう評価するか。

人ごとで済むのだったら、面白いギャンブルなんだが。
一倉は腹案ではそう、ほくそ笑む。



少し気詰りになった空気を払拭するように、一倉が口の端を冷笑的に持ち上げた。

「潰されて困る相手なら、大事に懐にしまっておくべきだったんだよ」
「分かっている・・・」
「分かってないね。そういうのを、身の程知らずって言うんだぜ。護れもしないくせに手を出すからだ」
「足りない物を他者で補完しようとするのは、愚か・・・か」
「その通りだ。俺たちキャリアは所詮、放浪者よ」

「そんなことを言って、部下の不祥事に大見栄切ってやったのは誰だ」
「あー・・・その説はお見苦しい物をお見せシマシタ」
「いや・・・」


茶化して自虐する一倉を苦笑し、室井が視線を伏せる。
その眼差しは、柔らかい。
束の間の享楽世界に逃げるには、この空間はお誂え向きだった。


「そういう顔してろ。・・・辛気臭い顔をするな。寄りつくもんもねぇぞ」
「・・・・・・・だな。ここまで露骨だと、どうも・・・その、先を思いやられる・・・」
「初々しいな」


揶揄する一倉の視線を室井は死んだような目で恨めしげに見上げた。
尤も、その主観は一倉視点であって、他者には、室井の乏しい表情からは何も内面は読み取れない。
長い付き合いがあればこそだった。


「お前は昔っから、そういう下心ってのが、苦手だったよなぁ。魚心あれば水心だぞ。大学時代はどうしてたんだ。男女交際の真盛だろ」
「本を読んでた」
「ああ、例のカノジョと」


この辺の擦れない感じが、出会った頃から変わらず、一倉の室井を慕う一因だ。
気高く神秘的な魂は、崇高なだけじゃ見る者を跪かせない。


「ご婦人がたを褒めるやり方は覚えているな?」
「・・・・ああ、だが」
「まさか童貞で一生終えるつもりじゃあるまい」
「言ってろ」
「先に進む、願っても無いチャンスじゃねぇか」
「そんな気になれなくてな・・・」
「やだねぇ。未練たらしい男ってのは。そんなに青島は具合が良かったのか?」
「・・・・・」


室井は半眼で一倉に軽蔑に視線を送りながら、ついに視線を逸らした。

片手で持っていた赤ワインで口唇を潤す。
ビロードのような舌触りと共に、酸味のある冷たい液体が爆ぜるように舌の上を流れ、葡萄の芳醇な香りとまろやかな渋みが熟成の深さを味わわせる。
ボジョレーヌーヴォーでは味わえない豊かな銘柄だ。


〝え?こんなんどれも同じでしょ、酒なんてファッションじゃない〟
〝個体に因って深みや苦みが違うから楽しいんだ。同時に飲み比べてみればおまえも分かる〟
〝へぇ~、レストランとかではいつも産地しか考えなかった。チリが安くて美味かったな〟
〝今度、色々な品種別の楽しみ方を教えてやる。覚えておいた方がいい〟
〝品種?銘柄じゃなくて?〟
〝ワインは品種の違いを楽しんだ方が面白いぞ〟
〝ぼじょれーぬーぼ~とか?〟
〝ばか。あれは若いだけの葡萄だ。流行に乗るな〟
〝時代に乗りたいんですよぉ〟


ワインの味が、不意に苦みを増した気がした。
青島と過ごした日々は、どれもワインのようにほんのりと酔わせながら日常の何処にでも潜んでいる。


「だーれが、そんなアグレッシブな飲み方しろっつったよ」


グイッと、消し去ってしまいたい蟠りごと喉の奥へと流し込めば、一倉の手が、やんわりと室井の二の腕を抑えた。
空になったグラスを取り上げ、ボーイに返杯を頼む。


「この機会にすっぱり手を切ることを、俺はお薦めするがね」
「・・・・」
「アイツはお前にとって、毒薬だ」


ごきげんよう、と、品の良い笑顔を残しながら、また一人、目の前を女性が会釈をして通り過ぎていく。

微かに漂うパルファムの残り香が、女の性を意識させた。
此処に居る女性たちはみな、夫となる男に見染めてもらうための意識がある者ばかりだ。
どの男の下で脚を開くかで、その後の自分の価値が決まっていく。
室井からしたら女性蔑視としかとれないその決断もまた、一つの選択である。

ここは、その笑顔の裏に、沢山の人間の柵と欲望と利権が渦巻いている。


「純愛に生きるのは、十代までにしとけよ」
「純愛で結婚したお前に言われたくはない」
「なんだ、羨ましかったのか」
「・・・・・流石にこの場にいると、不毛にもそんな気にさせられる」
「・・・・・はは,弱ってんな。そんなに青島が大事か」
「別に、私はッ」

益体もない戯言にもそろそろ辟易し、少し頬を紅潮させる室井に、一倉は肩に手を乗せ、そっと耳元に口を寄せてワザと囁いた。

「男なら普通にあるだろう、本能が。どの女を抱きたいか。どの女なら抱けるか。周りを見て想像してみろよ」
「女性をそういう目線で見るのは・・・・」
「どの女を自分の勃ち上がらせたモノで善がらせたらキモチイイか・・・。どの女の歪んだ顔を見てみたいか・・・」
「やめろ」
「ここはそういう場だぜ」

会社の精力争いに気を使って、この先は女の扱いに気を使う。


「煙草、行ってくる・・・」
「煙草はとうに止めていただろ」


室井はグラスを片手に、そのままふらりとバルコニーへと足を向けた。
後ろから一倉の盛大な溜息が掛かった。




*:*:*:*:


何でこんな羽目になったんだか。

これも経験ならと自身を自ら言いくるめ、嫁探しのこのパーティへ参加した。
何故突然、懇意にもしていなかった安住がそういうのか分からなかったが、後ろ盾ならば、と、了承した。
そんなものは必要ないと強がれるほど、室井はもう夢想家ではない。

警察関係者も他に何人か参加しているようではあったが、室井にとっては苦痛な空間でしかない。


自分の頭の中にぽっかりと出来た空白の時間。

青島の涙が頭から離れない。
でも、もうどうしようもない。
あの真っ直ぐな親愛の目が、もう一度唾棄に歪むのを見てしまったら、自分は立ち直れない気がする。



ヒュォォと空気の吹き抜ける音が、まるで啜りなく赤子のように聞こえ、バルコニーの鉄柵が揺れる。

さすが上層階だけあって、風が強い。
続く屋上庭園は、コートなしでは風が肌を突き刺すようだった。
それでも、秋田の空の比べれば、まだまだ比ではない。
あの山岳の地は、冬来ともなれば、世界を凍りつかせてくる。
突き刺す様な風音は、むしろ望郷を呼び、馴染み深ささえあった。


庭園の奥には人影も幾つか揺れている。

季節は足早に秋を越え、木枯らしが冬の到来を告げていた。

肘を付いて暮れない空をまんじりと見上げる。
東京タワーが赤く浮かび上がる。




あいつはどうしているかなと、紫煙を空に向けて吹かしながらに思う。
あの哀しい別れから一ヶ月が経った。

目をつむれば、息遣いさえ聞こえるかのように、温もりさえ伴って幻影を思い起こせる。
そこで笑う青島は、どこか儚げだ。
・・・・そうだ、あいつはいつも朗らかに笑う一方で、どこか寂しそうな眼で室井を見上げ、真っ直ぐにその透明な瞳で見つめていた。
揺るぎない美しい宝石を見つめながらふわりと口付ければ、いつも、、室井の腕の中で照れ臭そうに微笑む。
いつまで経っても初々しい反応は、室井を常に新鮮な気持ちで恋を確認させた。

強気な光の裏にある、その陰りが美しく、いつまでも飽きることなく見つめていた。
くったりと身体を預ける、少し高めの体温との同調に、無限を見た。


次の瞬間、記憶の中の青島の姿は陽炎のように消え失せ、代わりに顔が爛れ、黒い闇に豹変する。
優しかった笑顔が、崩れおちる。
そこにあるのは、ただただ黒い空虚になり変わる。


ハッと、室井は閉じていた眼を開けた。

耳鳴のようなキンと空気を伝う世界に、雑音が戻ってくる。


「――・・」

ふるふると首を緩く振った。


興味が持てない。
心が枯れてしまったように、水で潤おしても芽吹く息吹がない。
煌びやかな空間が、酷く無機質なモノクロに見えた。
誰も何も、青島と向き合う時のような閃光走る躍動を、抱かせない。
若さゆえに走った、二人の時代が遠い。

まだ過去にしがみ付く俺に、時の流れは冷たくて。
立ち止まったまま動けないでいる。

どうすればよかったのだろう。どこに行けば良かったのだろう。


何もかも茜色に染まる海辺の街。橙色の長い影。
寂しげで、でも確かな温もりを感じる時間。
今も胸に蘇る。鮮やかに。
自分で失くした自分の恋。


仕事、友情、愛情ですらも、6年半掛けて手にしたと思ったものは、何一つも残りはしなかった。
失くした友情、そして彼から受けた愛情。
錆び付いた約束。

こんなにも脆く、軽微なものなのだ。人の世は。


支えられてきた日々を思えば、ここで去る事は礼に反し、また、仁義にも反する。
最後に青島が遺してくれた欠片は、必ず開花させてやる。

そうしたら、また、穏やかな心で向き合うことが出来るだろうか。
向き合って、くれるだろうか。
何十年か果てた先に。


あの時、冷たい風が吹く海の街を一人で去っていく時、このまま消えていきたかった。
諦めずに生きていたって、行き着く先がこれじゃ、この先を生きて居たくも無い。そこに一体何の価値があるというのか。
何のために私は生きていくのだろう。

逢いたくて逢いたくて、心の奥が歪んで空洞になっていく。
もう一度抱きしめたい指先が、冬の風に晒された。
悴んでいくのは、指先だけじゃない。

想う程に面影が遠くなって、だけど、こびり付いて消えない。
どうすれば良かったんだ。欲しいものを欲しいと願って、喚いていれば良かったのか。
何度も何度も思考はループする。


あの男の信念に憧れ、浄化され、導かれた。嫉妬がやがて羨望に変わり、身震いする程の共振を起こした。
決して手に入らないものだと、最初から分かっていたことは、いつしか傲慢な欲望に変わる。
だが、その一方で、青島の奥底にある、酷く脆く、繊細な部分を、どこかで知っていて
それを感じ取った時、湧き上がった、衝動のような嘆息は、生々しく室井の芯を迸らせた。

欲しいか?
・・・・抱いていた熱情は、そんな生易しいものじゃない。


ただ、哀しく、虚しい。
取り残されて、縋る物が、栄華を越えた荒廃だけだなんて。

だが、それだけが、あの日の・・・今の室井を、辛うじて支えていた。


「まったく・・・とことん俺はあいつじゃなきゃ駄目だったんだな・・・」


東京の空は、夜なのに薄明るく、どんよりとした雲が立ち込めた。
都会の闇に押し潰されていく。
胸元を圧迫する息苦しさを、ワインのアルコールで呑み下した。


宝石を散りばめるこの夜景を心から美しいと思える日も、またいつか来るのだろうか。
ささやかな過去をありがとうと、いつか届くだろうか。
胸に呟く言葉は、もう愛しむ相手を持たず。

本当につまらない。





「つまらないって顔をされていますね」



人の気配が背後に近付き、テラスの手摺にコトリとグラスが当たる音がして、室井は顔を上げた。
気怠く振り仰げば、ワインレッドのナイトドレスに身を包み、ダークブラウンの髪をアップさせて白いブーケを髪に差している女性が、静かに微笑んでいる。


暫し無言で視線を絡ませた後、室井はゆっくりと口を開いた。

「そういう風に見えたのなら・・・失礼をした」
「いいえ・・・。隣、宜しいかしら」


話をする気分ではない。
でも、迷った末に室井は少し身体を起こし、姿勢を正してスペースを譲る。


東大・慶応辺りが大半を占めるパーティでは、自分になど物好きか暇人しか声を掛けて来ないと思っていた。
勿論、自分からなど論外だ。

目の前のナイトドレスが華艶に蕩揺って、女は宝石が輝く細い指先でグラスを持ち上げ、会釈をする。

カクテルグラスの色と合わさって、彼女から薔薇のような香りが醸し出された。
くるくるとカールした亜麻色の髪が揺れる。


背も高く、すらりとした美人で、あえかな金色を帯びた深赤色の液体まで、彼女の一部ように見事にマッチしていた。
マットで控え目な気品あるアンティークゴールドのスパンコールを配したトップが、夜空に良く映える。
スカートには異なる二色のチュールを重ね合わせているのが見えた。

ふわりとアップされたダークブラウンの髪、微かに笑みをたたえる、ふくよかな形の良い唇。
誰だろう。
露骨でない肉感的な魅力の高さは、品位と血統の高さを窺わせる。



「こういう集まりは、お嫌い?」
「・・・・、お恥ずかしながら。あまり得意ではありません」
「いいえ、実は私もなんです」


女がくすりと花が零れるように笑う。
無造作に束ねた遅れ毛が、光を散りばめて夜風に揺れた。
妖精みたいだと室井は思った。


「インドア派なのですか?休日は何をなさっているの?」
「仕事の鬼です。他に取り柄もない。つまらない男です」
「素敵ですよ。これからの――、いえ、今の日本社会を支えている逸材を蔑ろにしては罰が当たると」
「プレッシャーだ」
「あら。・・・なんて、・・・父の受け売りなんです」

虹彩がライトで光り踊り跳ねる。
打ち解けたように、二人の間にあった空気が少し和み、室井はようやく柳眉を下げた。





*:*:*:*:


にこやかな笑顔を残し、女性が去っていく後姿を目で追っていくと、窓辺に真下が寄りかかってこちらを見ていることに気が付いた。
室内の逆光に顔が影となり、背後の梔子色の空気がやけに眩しい。
暗がりの造影を、室井は目を細めて見つめた。
表情は良く見えないが、揄っているようだ。


「室井さんもやりますね」
「君も来ていたのか」
「僕は父の推薦で。これも勉強だからって。だから別にお見合いに来た訳じゃありません」


物怖じしない真下は、この交流会をあっさりとお見合いと言い捨てた。
そのざっくばらんとした言い方に、室井も少し苦笑する。


「実も蓋もないな・・・、その後どうだ。変わりはないのか」
「ええ、おかげ様で。交渉課のみんなとも上手くやれてます」
「そうか」
「室井さんには感謝してるんですから」
「いや・・・、室長だからな。期待している」
「ありがとうございます。なんか照れるな。責任も重大だ」
「身を固めることも考える時期か」
「僕は雪乃さん一筋ですから。・・・・・あ!そうそう、ビッグニュースが!」

なんだ?と、視線だけを投げた仕草が、話したくて仕方がない真下の促しになる。


「実は!小耳に挟んだだけなんですけど!すっごい話聞いちゃいました!」
「・・・・・なんだ」
「実はですねぇ、青島先輩とすみれさん、付き合い始めたって!」
「・・・!」


室井の反応に気を良くした真下が、更に人差し指を立てて、固まっている室井を余所に、ぺらぺらと口火を切り出す。
驚愕の室井が眉を顰める意味にも気付かない。


「どうも、すみれさんからのアプローチだったみたいなんですけどね、ついにかーって感じですよ。いつそうなってもおかしくないのに、中々焦れったくて」
「・・・・」
「で、先輩に電話で確認したら、だったら何だよって言い返されちゃって。これ、ホンボシっぽくありません?」
「・・・・」
「告白は青島先輩からだったみたいで・・・って、室井さん?」


リアクションのない室井の顔にようやく気付き、覗き込んだ真下が、聞いてます?と、訝しげな顔を造る。


「どうか、しました?」
「いや・・・、そうか。おめでとうと」


尤もらしく大きく頷くと、真下は、まさかね~、と、まだ顔をニヤニヤさせながら遠くに視線を投げかける。
呆然自失とした室井の漆黒の眼には、何も映らない。


「そもそもあの二人、気は合うくせに、肝心なところで押しが弱いでしょ。特に先輩はすみれさんの古傷、色々気にしてましたからね~」

何かを言っている。
しかし、その音も、室井の耳には音声として入ってはこなかった。

「この勢いで結婚まで行っちゃいますかねぇ。ダブル結婚式!うおぅ。・・・なんなら室井さんも、なんちゃって。流石に無理か」


一頻り一人で悦に入った後
真下がくるりと振り返り、ようやく話題と口調を変え、室井に再び視線を合わせてきた。


「ところでさっきのお嬢さん、蔵元夕子さんじゃないですか。室井さんもやりますね」
「あ、あぁ、そうなのか・・・」
「名前も聞いてないんですか・・・」

がっくりと分かり易く脱力した真下に、室井は困ったように肩を竦めた。


「少し、世間話を重ねただけだ」
「連絡先とか聞かれちゃったりして」
「連絡先は・・・・聞かれたが、しかし、そういうつもりでは・・・」
「据え膳ですよそれ。まさか今日この後抜け出すつもりじゃないでしょーねぇ」
「帰りのエスコートを頼まれただけだ」

ぱぁっと真下の顔が綻び、にじり寄る。

「そのままホテルで一発!決めちゃいましょうよ~」
「馬鹿を言うな」
「ホント、室井さんと先輩、こんなとこまで息ぴったりなんですね。二人して春!」
「・・・そんなつもりはない」
「またまたぁ。あの娘の父親は現大蔵大臣ですよ。ラブラブはともかく、一気に出世街道に乗っちゃいますよ」
「そうはいってもな・・・、そんなに急に事を運べるか」

「だって、室井さん、本腰上げて安住側に付くつもりなんでしょ?」
ここにいるぐらいなんだから、と言う真下は、瞠目した室井に、軽く肩を竦めた。
生々しい話になりますけどと前置きした上で、そのまま飄々と言葉を続ける。


「室井さんが寝返ったことで、長官選の均衡が崩れたって、重役級クラス連中の中で専らの噂みたいですよ」
「・・・!」
「安住側に票を入れたい上役も密かに増えているって話です」
「そこまで大袈裟にされているのか」
「勿論、僕も、確信はなかったんですけど。でも、室井さんがここにいることは、多分、他の人にはそう見えちゃうんじゃないかと」
「そう、か・・・・」


暫し、考え込む様に表情を固めた室井を、窺うように真下が視線をチラチラと促す。
室井が片眉だけ上げると、真下が意を決したように、更に言葉を繋げた。


「ここだけの話、青島先輩にも安住副総監が接触してますよ」

室井は今度こそ目を剥いて真下を直視した。








10 前進
「真下、今の話は本当か?」

低い声に振り向けば、そこにワイングラスを片手にサンデッキに手を掛けている一倉の姿があった。


「一倉さんも来ていたんですね」
「室井に泣きつかれてな」

室井がジト目で一倉に釘をさす。

「ところで真下、今の話だが」
「ああ、蔵元さん?」
「そっちじゃなくて。安住の魂胆さ」
「あ~・・・・・、僕は噂を聞いただけですから」
「噂なのに何故確信を持った?」
「んん~・・・、実は先日、先輩に安住の周辺を探ってくれって頼まれたことがありまして」


ちょっとすいませーんと手を上げ、真下がデッキ入り口を通りかかったボーイからワイングラスを拝借する。
笑顔で戻ってきた真下は、僕も呑みたくなっちゃったんですよ、と、悪びれもなく形ばかりの弁明を口に乗せ、グラスに舌鼓を打った。


「探るって何をだ?青島がわざわざ安住派を探ってるのか?」
「逆です。接触してきたらしいんですよ。その時室井さんの名前も出されたらしくて」
「どういうことだ?」

一倉は室井に視線を流すが、室井もまた、訝しげな視線で応える。

「だから僕、てっきり最初は、青島先輩が気を利かせて室井さんのために僕に調べさせたのかと」
「そんなことはさせない・・・」
「なんか二人が撒き込まれてんのかなとか」
「知らない・・・」



一倉が険しい視線で真下を問い詰めるような口調に変える。

「それ、いつ頃の話なんだ?」
「雪乃さんの話では、先々月の初めくらいに接触があったって話みたいでしたけどね」
「先々月・・・」


口の中で小さく呟くと共に、今度は室井の眉間がスッと締まる。
青島が初めに別れを切り出したのも、確かその頃だ。


一倉が室井の変化を目敏く察知する。

「心当たりがあるのか?」
「・・・・・」
「まさか、青島に避けられ始めたのも、その頃からなのか?」
「避けられた?先輩に?」
「振られたんだとよ」
「一倉ッ」
「あはは、振られたなんて、まるで付き合ってたみたいですね」

邪気なく真下がカラカラと笑う。


「実の所、先輩と室井さんって、どういう仲なんですか?」
「お前、ぶっちゃけるな」
「だって気になるじゃないですか。仲良しこよしなのは知ってますけど、他人の出世のお手伝いまで男がするかなって」
「確かにな」
「ほら、出世ともなると、普通は男にもプライドがあるでしょ」
「それを越える献身はもう愛だな」


一倉と真下が、勝手な憶測で息を合わせていく。
真下の言葉に頷きながら、一倉はニヤリと室井に視線を流した。
二人の放埓な戯言に口を挟むことが出来ず、黙々としていた室井が、戸惑うように眉間を寄せる。


「そういや、青島はその辺の欲は薄いみたいだな。どうなんだ室井?」
「あいつは・・・、まぁ、自分が出世することには淡泊だが、だが――」

室井の戸惑う返答に、今度は真下がニヤニヤと口添えする。

「室井さんのバックアップに徹しているって感じですもんね。室井さんの影武者になれそう」
「だからそれは誤解だ。私は青島にそんなことは頼まない」
「でも、安住の側近が先輩を訪ねてきたのは事実みたいですよ」
「だからそれも初耳だ」
「先輩、黙ってたってことかぁ・・・」
「・・・・・」
「愛だったら良いんですけどね・・・」
「なんでそれが愛になる」

深く溜息のようなものを吐いた室井の横で、真下が人指し指を顎に当て、何かを思い描くかのように、空を見た。

「んー、だってほら、先輩、室井さんのこと、ホントに大事にしてるって感じですから。色々抱えちゃうんじゃないかな・・・」
「――」

黙ってしまった室井に、更に言葉を掛けるようなことはせず、真下はグラスに口を付けた。




「でもじゃあ、最近先輩の様子がおかしいのも、それが原因じゃないってことでいいのかな・・・」

自問自答するように呟いた真下の言葉に、一倉が反応する。

「どういうことだ?」
「室井さん絡みかなと思ってたんですけど。違うみたいなんで」
「?」
「先輩、ずっと元気なくって。表向きは普通にしてるんで男連中は気付いてないですけど、ほら、女の子ってそういうとこ敏感だから」
「・・・・・」
「署の女の子たちがみんな心配してるんです」
「女受け良さそうなタイプだもんな・・・」

一倉が室井の反応を愉しむ様に合いの手を挟む。
真下も、軽く苦笑して、視線を流す。

「室井さんに逢えなくなって落ち込んでいるのかと思ったんですけど・・・・室井さんの方もノータッチとなると・・・・これは・・・。ちょっと、話が変わっ てくるんですよね」
「どういう風に」
「事態はもっと深刻なのかも」
「元気がないことと、さっきの安住の件がリンクするって言いたいのか。理由は何だ。別件の可能性は?」
「青島先輩があそこまで露骨に異変を人に見せるのは、室井さん絡みだけだろうってことと、あと、やっぱり時期が重なりすぎで」
「安住に何か言われたのは確かということか」
「ええ」

真下と交わした会話を途切らせ、ちょっと考え込むように、一倉が片腕を組んだ。

「でも、何を言われたら青島が室井を避けるんだ?今更所轄との癒着を咎められたくらいでアイツが大人しくするか?」
「そこなんですよね」
「青島が室井に黙っていたっていうのも腑に落ちないな」
「割と先輩、抱えちゃうんですよ」


風が木々を揺らし、少し、空気の色が変わった。


「だとしても、それを青島が素直に聞いたってのも少し可笑しな話だな。メリットは何だ」
「先輩の行動にメリットも何もないですよ」
「室井のためだけか・・・。だが、なら何故室井に話さない」
「やっぱり、脅された・・・のかな?」
「脅された?」
「その可能性もあるって話です。どうもやり方が拉致同然だったみたいなんで」
「それは穏やかじゃないな」
「ええ、だからちょっと――・・・」


真下の言葉を片耳に、一倉の表情が少し険しくなる。

「まさか、圧力が掛けられたとでも・・・?」

小さくぼやく声には、誰も反応を返せない。
一倉がようやく表情を引き締めて、ここまで一言も発さなくなっていた室井へと顔を合わせた。


「室井、青島はその時、何て言ってきたんだ」
「――確か・・・、」


あの日の言葉を反芻していく。
最初に室井に別れ話を告げた夜。青島の瞳が、闇より深く、熱が消えていた――

今の情報と合わせればとんでもない可能性が浮き出てきて、室井の頬が次第に強張っていく。


「室井?」
「・・・・結婚したら、と」
「!」
「それって・・・」

それから僅か三ヶ月、このタイミングで急遽白羽の矢が立ったというこのパーティ。
この符合はなんだ?


「まさか、最初からこのパーティで結婚相手を選ばせるために・・・」
「いや、そう単純なものじゃない。気付いているか?さっきの彼女の母方の伯父は、安住の親戚だ」


背後に蠢く空恐ろしい計画に、全員の背中に身震いが走る。
冬の夜風に晒され続けた指先が、白く凍えた。



「まさか、じゃ、彼女の接触も図られたものだった・・・?」

真下が唸るように低く呟くと、それに一倉は大きく頷く。

「恐らく。父親に何か謂われ、室井と分かって近付いた可能性が高いな。・・・・室井、何を聞かれた」
「特に不味いことは何も・・・」

口籠る室井が、当惑の視線を一倉へと向ける。

「良く思い出せ。精まで絞り取られて干からびても良いのか、お前」
「まだ彼女がそうと決まった訳じゃ・・・」
「安住のパーティにたまたま席が空き、そのパーティでたまたま安住の親戚と知り合えた?こんなに大勢がごった返している中で?」
どんな偶発性だよ、と一倉が吐き捨てる。


「青島は他に何か言ってなかったのか」
「え・・・いや・・・」
「どうしてその時もっと追究しておかなかったんですかっ」
「・・・・無理だ」
「どうしてっ。先輩を問いただすのは、室井さんくらいしか出来ないんですよっ」
「私でも、無理だ」
「なんでですかッ」
「・・・・・、青島は、すごく優しい人間だから。・・・無理に問い詰めてしまったら、私を庇う最良の嘘を弾き出す。あいつの本音が霞んでしまう気がし ・・・て」


抑揚もなく、厳かに告げられたそれは、まるで究極の告白のようで、辺りは一斉に声を閉ざされた。
一倉も真下も、口を挟めなくなる。
しん・・・と鎮まり返った輪の後ろで、会場内の賑やかな雑談が、遠い世界のように空気を割った。


乾いた風はそよそよと庭園の木々を優しく撫でて音を立てていた。
すっかり冷え切ってしまった身体には、グラスを持つ指さえ悴む。


知らない所で、何が起きていたのか。今、何が起きているのか。
室井は呆然とした思いの方がまだ強く、事態を把握出来ないでいた。

脳味噌を必死にフル回転していく。

仕組まれた計画。暗躍する大きな野望。青島の発言。
だが、そんなことより室井にとって大事だったのは、青島が室井のために選んだであろう道筋だった。
どんな想いで彼はそれを決断したのか。





「まあ、所轄の人間にどうこう出来る範疇は、越えていますよね」


突如掛けられた第三者の声に、全員がハッと揃って振り向くと
そこには、ミントグリーンのカクテル・グラスを掲げた新城が、こちらを見てシニカルな笑みを浮かべていた。


「ご挨拶をと思ったのですが、つい憚られましてね。・・・お邪魔でしたか?」

コツコツと革靴を鳴らしデッキを降りてくる。
フリルを大胆にあしらったワイシャツを着用しているせいか、まるで、主賓のような風格だ。


「このクリスマスの絢爛に、随分と生々しい会話を成されていますね」

コツ・・・、と、室井の前で音が止まった。

「また青島ですか」
「――・・・、」


怯まない視線を室井が新城に向けると、何も面白くもないだろうに、新城は口の端を歪ませ持ち上げた。


「何か不穏な動きは聞いていないか、新城」
「私は別に何も」

一倉の質問に答えつつも、新城の視線は室井から外れない。


「このようなパーティに来てまでするような話は、何も、ね。場を弁えない腹の探り合いなど、品がない」
「だったらあっちで官僚ごっこをしていればいいだろう」
「貴方はただ、自分の弱点を青島で慰みにしただけでしょう?」
「・・・・・」
「分かっているんですか?青島を利用しているのは、安住も貴方も同罪だ」
「・・・新城」
「貴方は青島の何を見ていたんでしょうね。それとも、見て見ぬふりをしていたと?」
「・・・新城、今は――」
「だから付き合う人間は選ぶべきなんですよ、室井さん。こんな所で足を引っ張られて、理想が笑わせる」
「新城。すまないが今はお前と議論する気はない」


仕方ない駄々子を叱るかのような表情で、新城は呆れた大きな吐息を漏らす。
口調は乱暴だが、その仕草から、新城もまた、青島の使役に同情を感じていることが読み取れた。


一通り窘めて、気が済んだのか
ふん、と鼻から息を吐き、気勢を削がれたように、新城が視線を一倉へと向ける。

「ただ――私から申し上げられるのは・・・・先日、室井さんがこのパーティに出席することを知った池神が非常に乱心していたということくら いですか」
「悔しがった?・・・・そうか、狙いはそこか・・・」

一倉が得心したように口端を歪ませ、眼光を強める。


「大体読めたぜ」
「そういうことか・・・」

話の途中から入ってきた新城にも繋がったのか、訝しげに戸惑う眼差しが消え、顎に手を掛けた。


「だからつまりだ。安住の目的は室井じゃない、池神だ」
「長官選・・・・」
「ああ。安住は池神に先手を打ちたかった。そこで贔屓にしていた室井を自分側に引き込んだように見せ掛けることで、池神の鼻を明かしたんだ」
「しかし、何で室井さんを?」
「条件が揃ったんだろう」
「条件?」
「池神側から引き抜くのに、一番手っ取り早く、用済みとなれば手切り易く、そしてある程度のダメージと周囲へのインパクトを与えられる者」
「!!」

「それを、先輩を使ってやった・・・」

続きを真下が引き取る。
新城が眉を潜めて瞠目した。

その新城に、険しい目線で大きく頷いて見せ、また一倉が続きを繋げる。


「室井を取り込めば、潜在的な無支持票が安住に流れる。ほぼ均衡だと言われていた票格差は一票が勝敗を分ける。これで次の長官は決まりだ」
「それを確実に遂行するために、室井さん本人ではなく先輩を利用したってことですね」

真下の言葉に、新城がようやく得心を浮かべた瞳を眇める。

「キャリアには簡単に手が出せなかったということか・・・!その分、所轄は狙われ易かった。格好の餌食だった訳だ」
「そういうことだ。そして、青島はそれをものの見事に遂行しやがった・・・!」
「どうして――!」

首を絞められたような声で息を呑む新城に、一倉は両手を広げてみせる。


「言いなりになったか、ってか?そんなん、どう見ても、室井のためだろ」
青島らしい選択だよ。完璧にやりやがって、と苦みを潰した顔で一倉が室井を一瞥し、吐き捨てた。


面白くなかった。
安住の手の平で踊らされるのは承知の上だが、それがこんな騙し打ちみたいなやり方をされたら、目覚めも悪い。
ましてや、所轄の者に委ねなければならない権力なんて。

ただ、、この結末が全て青島に因って齎されたものだとするならば
室井への信愛と敬愛、その覚悟の上の孤独な選択は、全ての者の想像を越えた。
たった一人で全てを決断し、室井を護って見せたのか。
恐らく安住も、ここまで完璧に成し遂げてくるとは、思ってもいなかっただろうと推測された。

何を以って安住が青島をその気にさせたのかは知れないが、これで、恐らく安住も、青島の影響力を軽視できなくなる。
リスクを利用するつもりで、リスクに取り込まれたか。



「でも、変ですよ・・・。幾ら脅されたからって、何で先輩、室井さんにも相談しなかったんですかね・・・」
「そんなの決まっている。俺たちキャリアのメンツを護ったんだ。・・・いや」

真下の質問に、一倉はチラリと視線を室井へと送る。

「室井を、護ったんだ」

たった一人で抱え込み、鮮やかに幕を降ろし、室井を解放させてみせた。




「バカの考えることは、分からないな・・・・」
ややして、新城がぼんやりと呟く。


皆が押し黙るバルコニーを木枯らしが吹き付け、砂塵を巻き上げた。
星屑のように、夜空へと吸い込まれていく。
いつの間にか天上に上がっていた満月が、月白に辺りを冷たく照らしていた。






「良いんですか、室井さん。青島は室井さんのために身を捧げたってことになりますよ」
そして多分、一生会えない、と、粛然と告げる。

新城の杞憂に、一倉も肯く。

「そりゃそうだろう。この二人の接触は禁じる必要がある」
「え、でも、長官選が終われば――」

戸惑う真下に、一倉が険しい視線で諫める。


「どうかな。青島という好カードに気付いた連中が、そう簡単に開放するとは思えんがな」
「ですね。所轄というファクターが実に使い勝手の良いボロ雑巾になる。この先、第二、第三の安住が表れないとも限らない」
「そういうことだ」
「そんな――!室井さん、先輩に確認した方が良いんじゃないですか?こんな絶交、望んでいないんでしょう?今なら――」

真下が蒼白になって振り返った。



「・・・・もう、遅い」

口々に指摘された言葉にゆるく首を振り、室井は気怠げに呻いた。


――そうだ、今のが真実だとして、それでもあの日、青島が室井を拒んだのは事実なのだ。あの瞳が終焉を告げていた。
青島に恋人が出来たことも、事実だ。
もう取り戻せるものは何もない。
もっと、早くにこのことを知っていたら、対処のしようもあったのだろうけれど。


「でも!先輩だってこんなこと――!」

真下が必死に食い下がる。


真下にとって、今の自分を親の七光りでなく成長させてくれた重要人物は、警察でもキャリアでもなく
室井と青島だった。
親の庇護という色眼鏡でしか見られず、その色つきの世界だけで生きていく筈だった自分が、今精一杯の一人のキャリアとして経験を積み始め
向けられる視線の色を徐々に変え始めている。

――それはやはり室井が真下に、真下だけの自信をつけさせてくれたからであり、青島が傍で素を受け容れていたからだ

こんなことで、二人の絆を分かちたくはなかった。
こんなのは、何か違う気がした。
こんな時に、何も出来ない自分が、不甲斐なかった。



「先輩が相談してくれなかったことを、怒っているんですか?!でもそれは室井さんの立場を思って・・・」
「そこは重要ではない。そんなことぐらいで、私の忠誠は揺らがない」
「だったら、」
「人は誰しも人には言えない過去の一つや二つ抱えているものだ」


室井はゆっくりと首を振り、そこに答えがあるかのように、手元の赤い液体を漫然と見つめた。


「青島のしてくれたことが、全部無駄になる」
「・・・ッ」


室井が呟いた言葉に、誰もが息を呑んだ。


青島の全力の餞を、室井も全力で受け取る。
この二人がお互いに向かわせる熱情には、躊躇いがない。
何ていう深い信愛なのだろうか。


自己保身など微塵も考えず、ただ、相手のことだけを想い合う決断は、正に自己犠牲を伴う愛の軌跡だった。
交わす言葉もなく、瞳だけで悟る情愛は、誰にも踏み込ませない神聖な究極さを以って、二人の間で完成されている。
強い想いの結晶が周囲の気迫を呑み込む潜在引力に、畏怖に慄かされる。
そしてそれは、トップダウンを元ともしない実益を伴っているのだ。

もし、この爆弾を効率的に使うことが出来たら。


臆せずに、全力で呼応する二人の直向きさを目の当たりにさせられ、誰もが言葉を失った。



ゆらゆらと月を映す赤い液体が、漆黒の瞳に焔の代わりとでもいうように、浮かび上がる。

「青島だって男だ。決断に伴う責任も理解していただろう。その覚悟を、私こそが無にする訳にはいかない」


―恐らく、それが彼の本心だから―
『あんたは上にいろ・・・!』
かつて、鮮やかに言ってのけた青島の笑顔が、脳裏に浮かぶ。

どんな想いでおまえはこれを決めた?
安住に嗾けられようとも、青島がこれを決めたのは、全部、全部、室井のためだ。
だったら、青島のために、最後に俺が出来ることは、彼の最後の餞を、しっかりと受け取ることだ。

悔しかった。
腸が熱く煮えたぎっていた。

乾いた口腔で室井は奥歯を噛み締める。堅く、拳を血の滲む強さで握り締める。

愛されていた。
それだけではどうにもならないこともある。


「いいんだ・・・・もう」


コツ、と、みんなの黙する視線から逃れるように、視界から消えるように、室井は背を向けた。

誰も声がかけられない。
どんなに付き合いが長くとも、室井が弱音めいたことを口にするのは聞いたことがなかった。
同時に、そんな室井を癒せるのは唯一人、ここにはいないことも、瞬時に分かった。
室井を引きとめられるのも、また、青島だけなのだ。


ゆっくりと、室井がバルコニーを後にしていく。


視線を上げれば、都庁本庁舎が時計塔のように目の前に浮かび上がっていた。
錆び付いた時間。
虚脱感に支配された気怠げな日々は、砕け散った硝子細工のようだ。

突き刺す北風に、室井は瞳を閉じた。


二人で過ごしたあの時間は一生分の夢を室井へ与えてくれた。
眩しく、優しく、今も胸の裡で輝いている。
過ぎ去ったものほど輝くとは良く言ったものだ。

もう二度とあんな日々は来ないと確信をもって言える。
たくさんの夢を見て、たくさんの愉しみをくれた。最後に、こんな花火のような餞を遺して。
この輝石まで、失う訳にはいかない。

だからもういい。もう充分だ。
青島以外の者となど、共に歩む意識もない。


最後に青島は儚く笑っていた。
その笑顔の意味も、もうどうでも良い。

無知でいた代償は、あまりに大きすぎた。
幸せすぎたあの時間を代償に、叶えたいと思った私の時間へ送り出してくれた儚い想いを手繰り寄せる。
この柵を断ち切る為に
あの日――彼の瞳に宿っていた憂愁も。

歩き出そう。私は現実を生きる。
もう、夢は、見ない。






*:*:*:*:*;


ロビーを出て、外の空気を吸う。

エレベーターホールに出ると、さっきの彼女が、柱の傍に一人で立っているのが見えた。
室井に気が付くと、軽く会釈をする。
帰りのエスコートを約束したことを思い出し、室井は目礼した。


そのまま二人でロビーに降り、フロントでコートを受け取る。

正直、今一人になるのは嫌だった。
これが仕組まれた接触でも、今はそのまま流されてもまた、構わない気がした。
青島が遺してくれた発芽だ。


ホテルを出ようと、顔を向けると、華やかな生け花の向こう側に、ふとガーデンテラスが広がっているグリーンの空間が目に入る。
そのイルミネーションの華やかさが目に浸みる。
クリスマス用にライトアップされた中庭は、眩しいくらいに星屑が瞬いていた。


「綺麗なお庭だわ」
「お時間が許すのであれば、折角ですから少し、覗いてみますか」
「嬉しいわ」


近くまで行くと、かなり奥行きもある庭園となっていて、草木の青臭い匂いに潤いを感じる。
中央に噴水もあり、水の匂いが清涼感を感じさせた。
本物のモミの木を使ったツリーまで森然に奉られてあり
多くのカップルが、その美しい幻想の風景を愉しんでいる。

ライトアップされた噴水が生き物のように様々な弧を描き、七色に揺れる。
テラスを囲うように何組かのベンチも設置されていて、利用客の憩いの場となっているようだった。


二人並び、少し速度を落とした歩幅で迂回するように歩いていく。
彼女のヒールを考慮して気遣う素振りを見せれば、柔らかく微笑んだ笑みが返され、細長い指先が室井の腕へと回った。


ゆっくりと視線を動かしていく。
ホテル内とは思えない秘密の花園のような演出は、暫し、外の喧騒を忘れさせた。
徒然に話す、彼女の鈴生りの声が、気持ちを穏やかにする。
心が伴わないから、何も動じず凪いだままでいられるのだと分かっていて、今はこの安穏に委ねたかった。


「お名前をお伺いしても?」
「それは失礼をした。私は室井と申します」
「宜しければ・・・・下のお名前も・・・」
「室井慎次です。公務員をしております」
「慎次、さん。私は蔵元夕子と申します。仕事は自動車メーカーの――」


今更ながらの自己紹介に、室井は足を止めて向き合う。
彼女も、掴んだ指先は強かにも外さないまま、嬉しそうな笑みを湛えて、室井のリードに従った。

真っ直ぐに見上げてくる薄い茶色の瞳に照れくささもあり、少し視線を伏せる。
ふくよかな白い胸の谷間が視界に入り、室井は視線の置きどころを求めてさり気なく視線を彷徨わせた。
女性を、異性として向き合うのは、酷く久しぶりだったことを、改めて実感する。

苦肉の果てに、そっと顔を横に背ける。


不意に、信じられないものが目に入った。
室井の眼が大きく見開かれる。


「――ッッ」


向こうはまだ室井に気付いていない。
思わず足を止めてしまった足を、そちらに向けた。
訝しげに室井の変化を見つめる彼女の疑惑の視線も、今は視界に入らない。


変わらぬ横顔。
変わらぬ眼差し。飴色の瞳。
揺れる柔らかそうな桑茶色の髪。

同じくらいの年代の男女と、楽しそうに談笑しながら、輪になっている。
食事でもした帰りなのだろうか。ほろ酔い気分の少し高めの声が重なる、一際目立つ一団となっていた。


余りに幻想すぎて、室井は夢でも見ているかのように、その光景を追った。

いつものスーツではない。あのコートでもない。
ホテルという場所柄なのか、少しハイクラスのスーツに身を包む姿は、記憶よりも美しく目を惹く美形だった。


ブルー系で統一された総身の、スタイルの良さはいっそノーブルな気品さえあり、青鈍色のワイシャツが彼の愛らしさを魅せ
誰もが振り返るような細身で整った体型と童顔の少年のような端正な顔は
そこに立つだけで空気の色を輝かせているように見える。


室井の胸の奥が抉るように掻き毟られる。
息が、止まる。



そのまま、一団は解散となったのか、別れの言葉をフロアに響かせつつ、数名と共にロビーへと向かって歩き始める。
室井の方へ徐々に近付いてくる。

足が竦んだように、動かない。

ややして、余りに凝視していた室井の視線の強さに気付いたのか、甘い視線がふとこちらを見た。
室井に気付き、まあるい瞳が見開かれ、視線が交差する。



キラキラと、細かい水飛沫が天上から射し込むライトに反射して、散りばめられた白い視界が宝石のように煌めく。
眼を見開いたまま、耳を澄ませば、聞こえるのは水の爆ぜる音。穏やかな音楽。重ねられた視線から伝わる、空間を越えた温もりと鼓動。

お互いの残像が噴水を介し、まるでここが幻惑の彼方であるかのように交わらぬ筈の時空を越えて、瞼にしかと焼き付いた。












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